フリーメイソンとは何か

最近、リアルな友人からフリーメイソンについてやってほしいとのリクエストがありましたので、今回はそれでやってみたいと思います。

10年ほど前、私はパリのフリーメイソン博物館を訪問したことがあります。パリの地下鉄のカデ駅の近くにあるんですが、パリの地下鉄ってわかりにくくて、慣れるまでちょっと苦労するんですが、そのときは、たまたま私が宿泊しているホテルが近くて、徒歩数分の距離のところにあったわけです。

で、カデ駅周辺ってどんなところかって言うと、ややさびれてます。パリの北の方でちょっと古めかしい、19世紀の雰囲気を残した感じの場所なんですね。パリは都市設計の方針としてナポレオン三世の時代の雰囲気を残すようにしているらしいんですけど、まあ、多分、当時の雰囲気を色濃く残すエリアだと言っていいんじゃないかなと思うような場所なんです。ラストタンゴインパリという映画がありましたが、あの映画でマーロンブランドが若い女性に銃で撃たれて死ぬとき、彼が最後に見る風景が昔ながらのパリの街並み、パリに並ぶアパートの屋根なんですが、観客はマーロンブランドに対して、最後に見る風景がパリのアパルトメントの屋根で良かったじゃないかって祝福してやりたくなるんですが、あんな雰囲気のところなんですね。

で、ところがですね、フリーメイソン博物館は、その周辺の雰囲気と全く合わない感じの建物なんです。21世紀風というか、宇宙船みたいな、2001年の宇宙の旅とか連想しそうな不思議な建物なんですね。で、金さえ払えば誰でも展示品が見れるようになっていて、そうだなあ、多分、1500円くらい払ったと思いますけど、中で写真撮っても何も言われないんですね。で、六分儀とか、そういうフリーメイソンのための道具とかが展示されているという、ただそれだけの場所なんです。フリーメイソンっていうと秘密結社ということで、凡人が足を踏み入れてはいけないんじゃないかなって雰囲気ありますけど、この博物館に限ってはそんなことはなかったんですね。

展示品の説明はフランス語で書かれていて、私も一応、入門程度にフランス語はやったんですけれど、やっぱりそれだけだと限界があって、詳しいことは分からなかったんですが、まあ、それでも、珍しいものを見れたということで私は満足したわけです。で、博物館の隣にあった本屋さんがもうちょっとおもしろかったんです。というのも、フリーメイソン関連の本しか売ってない本屋さんで、本当にうず高く書物が積まれているわけですけど、じっと見ていると、とにかくフランス革命とフリーメイソンの関係を論じた本が多いんです。英語で革命はレボルーションですけど、フランス語で革命はレボルシオンなので、じっと見ていると、ごく基本的なことは分かってくることもあるわけです。で、どうやら、フリーメイソンがフランス革命の成功のためにいろいろがんばったんだよ。というようなことが書かれているみたいなんですよ。

で、考えてみるとですね、確か、ミスター都市伝説の関暁夫さんが、フリーメイソンの理念は自由平等博愛って言ってたんですよね。自由平等博愛ってまんまフランス革命の理念なわけですよ。ですから、フランス革命の陰にフリーメイソンがいたとしても、別にそんなにびっくりすることじゃないというか、ふーん、さもありなんという感じに思っていいんじゃないかなと言う気がするんですね。

アメリカの独立戦争もフリーメイソンが絡んでいたとよく言われます。場合によっては、フリーメイソンがアメリカ独立を達成したみたいな表現も私は読んだことがあります。

で、よくよく考えてみると、アメリカ独立戦争も、フランス革命も、中世から続く王様とか皇帝とか、或いは貴族などの持っている権威や利権というものを否定して、一般市民、商売をする人、技術で仕事をする人、ブルジョワ階級、こういった人たちが努力や能力に応じて出世できる社会にしようと、そういう目的を持って実現されたものだと言う面があると思うんです。アメリカ独立戦争の理念に人民主権というものがありますけど、フランス人のトクビルが書いたアメリカの民主政治は、アメリカでは全ての人がこの人民主権社会を実現するために参加・協力を求められた、つまりそういう理念の国なんだと説明してますけど、仮にフリーメイソンが本当にアメリカの独立戦争やフランス革命に関わっていたとしたら、或いは本当に陰の演出をしていたのだとすれば、まあ、辻褄は合うんじゃないかなと思います。

ローマカトリックはフリーメイソンを非常に強く敵視していて、稀に枢機卿がフリーメイソンのメンバーだということがばれると大問題になるらしいんですけど、上のような流れを考えると、これも確かに頷けるものがあると思います。というのも、中世ヨーロッパがどういう世の中だったのかと言えば、ローマカトリックの権威に公認された王様とか皇帝とかが領地領民を支配することができる社会だったわけです。有名なものですと、中世ヨーロッパに燦然と君臨した神聖ローマ皇帝が人事のことでローマ教皇と対立した事件があったんですが、ローマ教皇が当時の神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世を破門するという段階まで揉めてですね、ハインリッヒ4世が謝罪するという展開になりました。この謝罪のときにですね、ローマ教皇の滞在先のお城の門の前で雪の中3日間立ち続けたというんですね。で、だったらしょうがないということで、教皇が赦しを与えたというのがありました。カノッサの屈辱事件と言いますけど、神聖ローマ皇帝はヨーロッパの世俗社会では最高の権威者でしたけど、それでもローマ教皇にはひれ伏さなくてはならなかったんですね。なぜかというと、皇帝と言う立場、位はですね、ローマ教皇に公認してもらえなければ、他の人も認めてくれないからなんですね。この権威がローマ教皇の力の源泉でもあったし、また、神聖ローマ皇帝とか、その他各地の王様や諸侯・貴族にとっても、「私はローマ教皇に認めてもらったからこの土地を支配する権利がある」と言い張ることができるので、王様や貴族にとってもこの仕組みは便利だったわけです。ウインウインな関係が確立されていたわけですよね。

ですから、エリザベスというケイト・ブランシェットが主演している映画で、ローマカトリックと英国教会の対立の深刻さが描かれますけど、イギリスのエリザベス女王の父親のヘンリー八世が、ローマカトリックめんどくせえ、うちは宗教的に独立しますんで、そういうことでよろしくと言い出してですね、英国教会、アングリカンチャーチをを作ったというのは、大事件だったわけです。ローマ教皇に正統性を与えてもらわなくても、イギリス国王は自分で自分に権威づけしますからというわけですね。もう、ローマ教皇はうちでは不要ですからという宣言みたいなものになるわけですね。

で、フリーメイソンに戻りますけれど、フランス国王にしても事情は同じなわけですね。ローマカトリックにフランス統治の権利を認めてもらうことで、自分のフランス統治の権利を主張することができるというわけです。ルイ14世のころの絶対王政というのも、絶対王政をやってもいい根拠というのは、王権神授説というもので、王様の権力は神様に与えてもらった絶対的なものだから、民衆は言うことを聴けよ、ということになるわけですが、神様にそのような権利を与えてもらうというのは、そのプロセスがどうなっているかというと、ローマカトリックがちゃんと世俗と神様の間をとりもってくれていますから、要するにローマカトリック教会から、「お前、フランス王な」と言ってもらえたから、王権神授説が成り立つというようなイメージで捉えればいいでしょうと思います。

フリーメイソンがフランス革命を主導して、フランスの王権を否定するということは、究極的にはローマカトリックの権威を否定することになるので、フリーメイソンとローマカトリックは犬猿の仲、不倶戴天の敵になるという風に私は理解しています。

という風に考えるとですよ、たとえばフランス革命を思想面で支えたルソーもですね、やっぱフリーメイソンの仲間だったんじゃないかとかですね、或いはナポレオンもそうだったんじゃないかとかですね、いろいろ想像が広がるわけです。

ナポレオンがやったことというのは、周辺諸地域にフランス革命を輸出したことになるんですね。まあ、最終的に彼は皇帝になって、元の木阿弥みたいな話になっちゃうから、やや微妙ですけど、皇帝への即位も、ローマカトリックの使者に冠を被せてもらうのではなく、自分で冠を被ることで儀式を完成させていますから、その行動が権威を持つのかどうかは議論が分かれるかも知れませんが、源義経も自分で帽子を被って元服したと言い張りましたから、ありかなしかと言えば、ありなのかも知れませんけど、ナポレオンのこような行動もカトリックの権威を受け入れてはいないという暗黙の自己表現だったとも言えるのではないでしょうか。

そのように考えると、その後のヨーロッパで吹き荒れた革命の嵐はやはり、もしかすると、フリーメイソンが絡んでいるんじゃないかとも思えます。市民革命が起き、長くその土地を支配した王様や貴族が追放され、憲法が制定されて、支配者は王様ではなく、憲法だ、要するに法の支配だと、で、憲法が人民主権を定めているから、主権者は人民だというロジックが形成され、広がっていく、立憲主義的な社会の確立がフリーメイソンの目的であったとした場合、王の否定がカトリックの否定であるとすれば、そりゃ、フリーメイソンとカトリックが不倶戴天の敵になるのも、理解はできますね。

私はどちらの側を応援するということもないですけど、カトリックの側からすれば、フリーメイソンは、新しい理念で世界を覆い尽くそうとしていると、陰謀論を言いたくなるでしょうし、フリーメイソンの側からすれば、カトリックこそ権威を使って世界を支配をしているという批判をしたくなるというようなことかも知れません。

私は、アメリカに留学した時に、ローマ法王を激しく批判するテレビ番組を見たり、雑誌記事を読んだりしたことがあって、当時はローマ法王と言えば、とてもありがたい心のきれいな、マザーテレサみたいな人だと思ってましたから、アメリカでのローマ教皇批判にはびっくりしたんですけど、アメリカがプロテスタントの国だということを考えてみれば、そして、カトリックと王や皇帝の相性が良く、逆に言うとフリーメイソンが立憲主義や反カトリックのプロテスタントとの相性が良いのだという風にとらえると、アメリカでのローマ教皇批判の風土も、よりすんなりと理解できるのだと思います。

で、仮に私が上に述べたような仮説が正しいとした場合ですけれども、間違っていたら謝罪しますが、仮に正しい場合、日本に与えた影響というものもですね、どういうものであったか、というのをより具体的に把握できるんじゃないかなと思うんです。

日本人で一番最初にフリーメイソンのメンバーになったのは西周と津田真道であったことは知られています。幕府に費用を出してもらってオランダに留学していた時期にフリーメイソンに入ったらしいんですね。で、西周は帰国後、徳川慶喜のところで仕事をするんですけど、憲法草案を書かされています。立憲主義を広めることがフリーメイソンの目的ではないかということを私は先に述べましたけれど、西が帰国後に憲法草案を書いたというのも、彼がフリーメイソンのメンバーだったことを考えると、すんなりと矛盾なく辻褄が合うんですよね。徳川慶喜は戊辰戦争の最中、西郷隆盛に追い詰められて殺される寸前でしたけれど、イギリス公使パークスが西郷に慶喜を殺すなと言ってきてですね、それで慶喜は助かっています。勝海舟の回想によると、もし西郷が受け入れない場合は、慶喜をイギリスに亡命させることでパークスと話しがついていたということらしいんですね。たとえばですよ、西周が慶喜をフリーメイソンに誘っていてですね、パークスもフリーメイソンのメンバーだったとしたら、人間関係的に、フリーメイソンのメンバー同士の助け合いだと思うと説明がつくんじゃないかなと言う気がします。そもそも、慶喜は大政奉還をしてますけど、そういうのをやろうかなと思うというのも、フリーメイソンの古い権威を打ち壊すという考え方に賛同する部分が慶喜にはあって、だからそうしたと言うこともできるんじゃないですかね。このあたりは完全に想像で、私もちょっと飛ばしてると言うか、ここまで言っちゃっていいんだろうかと思いながら続けてますけど、坂本龍馬がフリーメイソンだったという説もあるらしいですが、もし本当だったとしたら、坂本龍馬が大政奉還を言い出して、それを慶喜も同意したという流れは非常に分かりやすいという気もするし、坂本龍馬が新政府に慶喜を重要人物として迎え入れようと考えたと言われるのも、納得できるとも思います。ただ、慶喜は坂本龍馬という人物の存在を知らなかったんですね。維新後にいろいろ関連本を読んで坂本龍馬のことを知ったそうなんです。だから、陰でフリーメイソンつながりで竜馬と慶喜が連携していたとかまで想像するのは、かなりフライングということになってしまうとは思います。

明治時代、日本はイギリスとアメリカに随分とかわいがってもらって発展しましたが、イギリスとアメリカがローマカトリックの権威から離脱を目指した国であるということを考えると、当時の日本人が徳川将軍という、日本の古い権威を否定して、新しい立憲主義の国を作ったということでかわいがってもらえていたのが、気づくと天皇が徳川将軍以上に神格化された存在になっていって、イギリス人やアメリカ人が当初想定していたものと違ってきたから、第二次世界大戦でフルボッコされたと捉えるのは、考えすぎでしょうか。

随分と長くなってしまいましたが、仮にフリーメイソンの目的がここまで述べたような立憲主義国家を増やすことだとしたらですね、世界中の大抵の国は憲法を持っていますから、フリーメイソンの目的は達せられたのではないかなという気もします。じゃ、これから、どうするのかってことですけど、それはまた世界の流れをじっくり見つめていれば、分かってくるのかも知れませんね。



徳川慶喜の頭脳戦

14代将軍徳川家茂が大坂城で病に倒れた際、その死の床において次の将軍に田安亀之助を指名したそうです。田安亀之助はまだ幼少で、当時は長州征伐戦争がまだ終わっていない非常時でしたから、ぶっちゃけ誰もが次の将軍は徳川慶喜がふさわしいと思ったらしいのですが、家茂は慶喜と将軍の座を争ったライバル関係でもあったので、自分が死んで慶喜が次の将軍になるというのは受け入れがたいと思ったのかも知れません。本来、将軍の遺言は非常に重視されてしかるべきですが、まあ、繰り返しますけど、非常時なものですから、慶喜の場合、年齢的30歳くらいで充分に大人であり、将軍後見職として家茂と一緒に上洛し、孝明天皇とも様々な意見交換をすることができる関係性を持っていて、禁裏御守衛総督として禁門の変では幕府軍を現場で指揮した慶喜の豊富な政治経験は、誰もが認めているところであったわけです。

というわけで、慶喜以外に人はいないという中、慶喜はなかなかの策士なものですから、将軍就任要請を断ります。それでも頼まれるので、慶喜は徳川宗家は相続するが、将軍職は就任しないと突っぱねます。これは実に巧妙です。というのも、過去260年間、徳川宗家は将軍と決まっているわけです。現代風に言えば自民党の総裁が総理大臣になるのが通常で、時々総裁と総理を別人がやるとする総総分離論というのが出ますが、ああいうのはただのブラフで誰も本気にしないというのと同じような感じだと考えればいいと思うのですが、いずれにせよ慶喜は、徳川宗家は引き受けますと答えた段階で、もう、他に将軍に相応しい人はいないということが明白なのに、更にそこで将軍にはならないと言うわけです。幕府首脳たちはひたすら慶喜に頭を下げて頼み込んで将軍を引き受けてもらうしかない状態になったわけです。

このようにして慶喜は、決して誰かと将軍の地位を争って勝ち取ったのではなく、頼み込まれて将軍になったという体裁を手に入れたわけです。そりゃ確かに権力の亡者みたいになってやっと将軍になった人という印象よりも、頼み込まれてやむを得ず将軍になったという印象の方がはるかにいいですし、仕事はしやすくなったに違いありません。

ちなみに勝海舟は慶喜と性格が合わなかったことがよく知られているのですが、勝海舟曰く、長州藩との停戦協議のために広島に行って帰ってきたら慶喜が将軍になっていた、以前は飽くまでも政局に立ち向かう同僚みたいな感覚があったのに、これで君臣の関係になってしまったと不満を述べています。で、勝海舟は慶喜に対して「私は徳川家の家臣ですが、あなたの家臣になったわけではないですからね」と言ったそうです。慶喜からすると、勝海舟ってほんとに気分の悪い奴ですよね。明治維新後は慶喜と勝海舟の立場は逆転してしまって、慶喜は何かと勝海舟を頼りにせざるを得ず、明治天皇との会見が実現した時、慶喜は勝海舟に涙を流して頭を下げたそうです。もっとも、こういったことは勝海舟の回想だけがソースで、慶喜が何かを語っているわけではありません。そして勝海舟は明治維新関係者で一番のほら吹きで有名ですから、もしかすると真相はちょっと違ったかも知れませんが、まあ、そういうこともあったという感じで流してもらえればと思います。

将軍になった慶喜は幕府の近代化に力を注ぎました。大きなものとしては、幕府陸軍のバージョンアップ、同海軍の強化、そして三権分立の立憲主義の導入です。幕府陸軍は、三万人の兵力を誇る近代化された軍隊で長州征伐戦争にも参加していましたが、碌な仕事をしていません。独活の大木、無用の長物というわけで、これではいかぬとフランス人将校を軍事顧問に徹底的に旗本の子弟をしごいたそうです。フランスの軍隊は一般市民を徴兵するスタイルのものですから、誇りある旗本子弟たちも上官に怒鳴り散らされて泥まみれになって訓練されるわけですけど、この泥まみれがかなり不評だったらしいのですが、そんなこと言ってる場合かよという風にも思います。なにしろお家が潰れてしまえば、自分たちも失職してしまうわけですが、そのような危機感をあまり感じないんですよね。海軍の方ですけど、こちらはとにかくお金をかけて世界中から最新の軍艦を買いまくっていたわけですね、これももっとやろうということで、小栗上野介に横須賀で造船所を作る計画を進めさせています。で、とにかく海軍の整備はお金がかかりますから、資金はナポレオン三世から大金を借りて進めようということになり、実際には本当に借用書を書く前に徳川幕府がなくなって、借りないままになったはずだとは思いますけど、実現していたら、借金の方に北海道がフランス領になっていた可能性もあったわけですね。そのような売国的なことも厭わず慶喜はバンバン強い幕府軍を作ろうとしました。考え方としては正しいと思います。だって、長州との戦争で、幕府軍が張子の虎だとわかった以上、ハッパかけてかけていくしかないわけですよ。生き残るためには。

で、とても興味深いのは政治に関すること、慶喜の政権構想がとても興味深いんです。慶喜はオランダに幕府の費用で留学して帰ってきた西周を側近として迎え、新しい政治制度と憲法の草案を作るように命じています。西周の憲法草案では、天皇は京都周辺の土地を領地として生活を安定させる一方、日本国の統治には具体的に関与せず、官位を与えたりすることとカレンダーに関することを司ることに専念するとしています。天皇には君臨すれども統治せずというイギリス的な立憲君主になってもらうというわけですね。で、具体的な政治はどうするのかというと、基本的に三権分立で、それらの一番トップに立つのが大君なんですね。大君というのは、要するに大統領みたいな立場なわけで、この大統領(大君)に慶喜が就任し、ある程度いろいろ定まったらその後の大統領は選挙で選ぶというような感じだったらしいです。司法と立法もあって、立法府の方は武士や大名で構成されるとしていました。上下院まで想定していたそうです。一般市民の政治参加について言及されていなかったみたいなんですが、おそらくは段階的に一般市民の政治参加もできるようにしていくというイメージだったのではないでしょうか。このような政治制度はフランスを参考にしたんだと思います。イギリス的な要素とフランス的な要素の両方の学ぶべき点を大いに学んだと言える内容だとは思います。で、そういうことを憲法で明記するというわけです。西周はヨーロッパの政治制度を留学中につぶさに研究したんでしょうね。立憲主義の普及はフリーメイソンの目的の重要な部分だと私は理解しているんですけど、西周もフリーメイソンだったことを思うと、彼は日本をフリーメイソンの理念に合う国にしようとしたんだと言うことができると思いますし、彼と意見が一致していた慶喜もフリーメイソンのメンバーになっていたんじゃないかという気がしてなりません。

そのようにして、幕府の力を充実させることで、新しい近代的徳川幕府を再建しようとしていた慶喜ですけれど、ここまで述べてきた感じでわかると思うんですが、大統領制の国家を作るわけですから要するに徳川幕府はもう別に存在しなくても困らないよねと慶喜自身が考えていたと思うんですね。なので、簡単に大政奉還をオプションとして考えることができるということなんだと思うんですよ。大政奉還後の慶喜の政権構想というのは、徳川幕府は消滅した後も、慶喜本人は朝廷の中枢にとどまって、自分が中心となった新政府づくりを行うというもので、気持ちいいくらいに幕府官僚たちを見捨てるという選択肢を選んでいます。

そもそも、なぜ慶喜が大政奉還をしたのかというと、当時、徳川が政治をする正統性は何かという議論が盛んになっていて、それは朝廷から政治を委任されているからだというロジックが生まれてですね、これを大政委任論と言うんですけれど、この大政委任論を前提にしてですね、委任された政治を朝廷にお返ししますというのが大政奉還なわけです。一般に、大政奉還は坂本龍馬が思いついて、それを後藤象二郎に話し、後藤象二郎が山之内容堂に伝えて、山之内容堂がそのアイデアを難しい漢文を使った格調高い文章で建白書に書いて、それを読んだ徳川慶喜が在京諸藩の重役の意見を聞いた上で決断されたことになっています。しかし、大政奉還論そのものは、少なくとも横井小楠が慶喜がまだ将軍後見職だった時期にすでに述べているもので、そこまで目新しいものとも言えません。坂本龍馬が思いついたというのは、横井小楠が松平春嶽のところで政治顧問をやっていて、坂本龍馬も勝海舟の紹介状を持って会いに行ったことがあって、その時に大政奉還論を教えてもらっていて、薩長同盟が成立した後に、あ、そういえば横井さんが大政奉還って言ってたなあ、あれいいよね。じゃ、ぱくっちゃおう。というのが真相であったであろうと思います。それで坂本龍馬が悪いとかダメだとか言いたいんじゃなくて、そういう風にあんまり重苦しく考えずに、誰もが頭で分かっていながら、まさかと思っていることを、じゃ、そうすればいいじゃん、と言ってのけるのが龍馬も面白いところだと思いますし、大政奉還に至る流れも、龍馬のじゃ、そうすればいいじゃん精神の発露の結果ともいえるのが、まあ、やっぱり面白いと言えると思うんですね。

で、慶喜はもちろん大政奉還論を知っていて、それを信頼している山之内容堂から建白されたものですから、ある意味ではこのまま渡りに船で行っちゃおうと思ったんじゃないでしょうか。どのみちいずれ自分で徳川幕府を解散させるつもりだったわけですから、ちょうどよかったんですよ。

慶喜はこの大政奉還によって、岩倉具視と大久保一蔵が強引に引き出した倒幕の密勅を空振りにさせたと言われています。倒幕の密勅では、幕府が政治をわたくししているからけしからんので征伐するという論理展開になる予定だったのが、政治権力を返上されたわけですから、もはや政治を私物化しているとか言えなくなるというわけですね。これが本当だとすると、本当に慶喜にとってナイスタイミングで山之内容堂の建白があったということになり、それがこのような政局を切り抜ける切り札になったというのも興味深いですが、慶喜が自分の政治目的と政局遊泳という二つの違う性質のことを一挙にやってしまったというのも、彼の手腕みたいなものが尋常ではないということを示していると思います。カミソリ慶喜ですね。岩倉具視も大久保一蔵も西郷吉之助も慶喜の頭脳の回転には舌を巻いたと言われていますが、そりゃ、確かにそうですね。将軍が大政奉還やっちゃうんですから。ついでですけど、大政奉還のあの有名な絵は事実とは違ったそうです。将軍が諸藩の重役と対面するとか当時の常識では絶対にあり得なくて、慶喜は別室にいて、諸藩重役と直接話したのは老中の板倉さんだったそうですよ。

で、ですね、更におもしろいのは、慶喜はこの大政奉還によって、自分の政治権力を完璧なものにできるという見通しまで、まず確実に持っていたというところが凄いんですよ。大政奉還をしたところで、朝廷には政治を実際になんとかする能力はないわけですね。当面は幕府に引き続き具体的な行政とか外交とかは担当してほしいという話になって、朝廷内部では慶喜には関白になってもらおうかという話まで出たそうです。もし鳥羽伏見の戦いが起きずに、徳川軍がじっと我慢して状況が好転するのを待っていたら、朝廷から慶喜個人への政治の全権委任みたいなことになって、労せずして徳川慶喜大統領誕生みたいな話になっていた可能性もあるわけですよ。まあ、実際にはそうはならなかったわけですけれどね。

大政奉還後、慶喜中心の政府が樹立されそうな気配なので、焦った薩長が京都御所を武力で制圧するという、いわゆる薩長クーデターが起きます。岩倉、大久保、西郷の打倒慶喜の策略は全て成功しなかったので、結局最終手段として、武力に頼ったというわけです。禁門の変のときの長州藩がやったことと同じだったというわけです。

で、慶喜としてはここで戦争をやっては全ての布石が無駄になると考えました。仮に戦争になっても徳川軍が勝てば問題ないわけですが、長州征伐で、いかに幕府軍がダメダメかを知っている慶喜としては、徳川の軍隊は数だけは多いので、威嚇には使えても実戦では役に立たないと判断し、戦争を避けようとしたわけですね。慶喜と徳川将兵は二条城に籠っていたんですけど、二条城と京都御所はめちゃめちゃ近いので、当時の一触即発な状況下で何かが起きてはいけませんから、慶喜の命令で徳川軍は大坂城まで引いていきます。大坂と京都くらい離れていれば、うっかり戦端が開かれるということはないとの判断だったわけですね。そしておそらく、この時のこの判断が、痛恨だったのではないか、慶喜はそうとは述べていないはずですが、晩年の彼はそのように考えていたのだと思います。大坂にひいた徳川軍は、再び京都に入ろうとしたものの、二度と入ることはありませんでした。明治維新後も、慶喜は二度と京都を訪問することはありませんでした。維新後、慶喜は京都から大坂へと移動する時のことを何度も夢に見たそうです。あれが分水嶺だった、あの時の戦略的撤退が、永久追放になってしまったと慶喜は気づいていたんだと思います。ちなみに慶喜がまだ二条城にいたとき、京都御所内部の小御所というところで、有名な小御所会議が開かれ、そこで慶喜の辞官納地が決定されています。辞官納地とは、慶喜が権力を乱用したとかの罪があるから、官位を辞職して領地も朝廷に返上しなければならないと命令することを指すのですが、小御所会議に参加していた慶喜支持派の山之内容堂とか松平春嶽とかは熱心に慶喜を弁護しています。松平春嶽の方はわりと理知的に、論理的かつ現実的にみんなが納得しそうな解決策を提案していて、それも彼の性格の一面を表していると思えて興味深いのですが、辞官納地を主張する人たちはどのみち慶喜は受け入れないだろうから、その時は武力で征伐だ!という話に持っていこうとしていたようなんですね。薩長としては武力で徳川と勝負をつけて天下を獲るというのが基本戦略で、慶喜が武力衝突に乗ってこないのでジリジリしていたわけです。それに対し松平春嶽は、慶喜はちゃんと応じると思うから、みんな冷静にやろうよ、とうようなことを発言していたみたいです。山之内容堂は酒乱で有名な人で、酔っぱらって会議に出ていたんですが、彼も慶喜無罪論で気炎を吐きました。確かに慶喜には具体的な訴因になるような罪状とか別にないですから、犯罪者として追及することはそもそも無理筋なため、山之内容堂の言うことも説得力があったんですね。で、大久保一蔵が困ってしまって、外で待っていた西郷吉之助に相談したところ、山之内容堂を殺せばいいじゃないか(短刀一本あれば充分でごわす)と発言し、そんなことを西郷が言っていたというのを山之内容堂も小耳に挟んでしまって、彼は沈黙してしまい、そのようにして議論が決着したそうです。

慶喜は大坂城に入ると、各国の外交官を集め、今後も外交は自分が仕切るから心配するなと宣言しています。彼の戦略では、じっと待っていれば京都の新政府はいろいろ困って慶喜を頼ってくるので、慶喜的には以前とは何も変わらないとの自信があったんでしょうね。慶喜には時間を味方にする余裕がありましたが、大久保・西郷はそういうわけにはいきません短期決戦するしかなく、焦りがあったに違いありません。とにかく戦争に持ち込みたい大久保・西郷が最後の手段としてやったのが、江戸の薩摩藩邸がなんでもいいのでトラブルを起こすというもので、そもそも本当にそれで大坂城の慶喜たちが怒りまくって戦争に乗ってくるかどうか、分からなかったと思いますけど、あんまりにも江戸の薩摩藩邸に出入りする不良浪人たちの乱暴狼藉がひどいものですから、江戸では薩摩藩邸焼き討ち事件が起きちゃうんですね。で、それを知った大坂城の徳川将兵たちがいきりたち、薩長と戦争させてくよというエネルギーが大きくなりすぎて、暴発しちゃって、慶喜が最も嫌がっていたであろう戦略なき戦争になってしまい、鳥羽伏見の戦いへと発展していきます。

このように慶喜の政局運営を見ていくと、慶喜が極めて優れた策略家であることは分かるのですが、策略家でしかないというところに彼の限界があるということも分かってきます。なぜそんな風になってしまうのかというと、やはり彼には信頼できる部下がいなかったということが大きいのだろうと思います。幕末、一番活躍した幕臣は勝海舟だろうと思いますけれど、その勝海舟は慶喜と仲が悪くて互いに嫌いだったみたいですし、他にあんまりめぼしい優秀な幕臣とか名前が思い当たらないんですよね。山岡鉄舟もいいとは思うんですけど、幕臣として歴史残る活躍は西郷との交渉くらいしかないわけですし、それは確かに慶喜の命を救うという意味で大仕事であったことは確かですけど、強大な幕府陸軍は役に立たないし、官僚たちの多くは水戸出身の慶喜に対する警戒心の方が強かったみたいですし、大奥も慶喜を支持していたとも言い難い感じなので、慶喜は孤立無援の状態で自分の頭脳だけで大久保とか西郷みたいなしつこいのを相手に戦わなければならなかったわけですね。それには同情してしまいます。私個人の意見ですが、慶喜はほぼ全ての局面でその時その時に考え得る最高の対処法をしています。ただ、怒りまくる徳川将兵を抑えることに失敗したことで全てがダメになってしまいました。やっぱり身内の要因でダメになってしまったわけですから、やっぱ同情するしかないですかね。

鳥羽伏見の戦いについてとか、江戸無血開城のあたりは慶喜の助命運動と絡めてまたやりたいと思います。



パリのフリーメイソン博物館に行った時の話

パリのフリーメイソン博物館はわりと庶民的な場所に建っています。建物のある通りには中華料理屋さんとかクレープ屋さんとかがあって、観光客というよりは地元の人がよく利用している場所といった感じです。その通りに一つだけやたら近代的な、またはやたらポストモダン的な派手な建物があります。映画館かアトラクションかどちらかだろうと私は前を通るたびに思っていたのですが、ホテルの人に「フリーメイソン博物館に行きたい」と話したところ、道と住所を教えてもらって辿り着いたのが、そのやたらと派手な建物でした。

フリーメイソン博物館に入るのは緊張します。都市伝説とかでいろいろ聞いているので、どんなところか不安になります。入場料を払うところで「フリーメイソンの会員でなければ入れない」とか言われたらどうしようと思います。しかし普通にお金を払ったら入れます。多分、クレジットカードもOKです。チケット売り場には30代くらいの男性がいて、ちょっと強面です。私が近づいていくと普通に英語で値段を教えてくれて、手際よくチケットを渡してくれました。スタッフの人の前でカメラを取り出しましたが、何も言われません。スタッフの人の目の前でシャッターを切っても何も言われません。ご自由にどうぞという感じです。

お皿とかいろいろな日常的に使う道具が展示されていて、どの展示品にも有名な定規とコンパスのシンボルマークが描かれています。説明は全部フランス語なので、何が書いてるのかはよく分かりません。フランス語は基本の文法は勉強したことがあって、語彙は英語と似ているのもの多いので、説明の文とにらめっこしているとだんだん分かってくることもありますが、いっぱい説明文があるので疲れてしまうので読むのは諦めました。展示されている品物は定規とコンパスの絵が描かれている以外はたいてい、いたって普通のもので、都市伝説的に大騒ぎしなければいけないようなものは特にありません。客はほとんど入っていません。秘密結社なのにこんなに堂々と博物館をやっていいのかという疑問は解決しませんが、スタッフの人に質問しても多分、「文句あるのか」くらいのことしか言われない気がするので、その疑問については気にしないということにしました。でっかいパピルスみたいなのにいろいろ書いてあるのがありましたが、何が書いてあるのか分からないので、分かったふりをして2,3分眺めて通り過ぎました。

隣には年季の入った感じの本屋さんがあったので入ってみると、フリーメイソン関連の本ばっかりです。ほとんどフランス語の本で、ちょっとくらい英語の本もあったと思います。『フランス革命とフリーメイソン』みたいな本もあります。フリーメイソンって実は大っぴらな組織なのではないかという気がしてなりません。フリーメイソンの理念は「自由・平等・博愛」です。私も自由平等博愛には賛成です。いい理念です。ということはフリーメイソンは良い組織なのではないかという気がします。実態を知りませんので推測です。私の推測ではいい組織です。20年くらい前にフリーメイソン結成195周年記念の儀式みたいなのがマスコミに公開されて、セレモニーマスターみたいなことをしているのは英国王室のエジンバラ公でした。フリーメイソンの一番偉い人がエジンバラ公なら信用もばっちりです。偽有栖川宮みたいな人がトップに出てきたら怪しいですが、そういうわけではありません。

アメリカ独立戦争のバックにはフリーメイソンがいたという話があります。明治維新もフリーメイソンがやったという人もいます。フランス革命もフリーメイソンがやったとすれば、大体どんなことを目指しているのか方向性が見えてきます。都市伝説や推測を集めて私がさらに想像力をたくましくしているのだけなので、本当のことは分かりません。珍しい博物館に入れてよかったです。東京にも作ってほしいです。フリーメイソンの会員になってみたいです。誰かに誘ってほしいです。




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