「長い18世紀」とはどのような時代だったのでしょうか?

17世紀の終わりごろ、イギリスで革命的王朝交代があり、これが名誉革命と呼ばれます。あの国は何百年もかけて革命していたようなところがあるわけですが、国王の権利を議会へと移譲していくという流れの中で、大きな節目になったのが名誉革命なわけですね。

で、19世紀のはじめごろ、ナポレオンの失脚があり、長いフランスの革命と大動乱が一旦落ち着きます。

このように、18世紀のちょっと前の時期からちょっと後の時期までの100数十年を長い18世紀と呼び、その期間の特徴としては、

①イギリスが立憲主義国家になった。(名誉革命の後、権利章典が採用され、イギリスは不文憲法の国王は君臨すれども統治せずの国へと変貌していった)

②そのイギリスが国力をつけ、フランスに対抗するようになっていった。

③今度はフランスで大革命が起きた。

④最終的にナポレオンが失脚し、先に革命に成功していたイギリスが勝利した。

という流れになりますから、西欧でのパラダイムシフトが起きた時代であると言えると思います。19世紀は近代の始まりという非常に特殊な時代でしたが、近代の重要な要素の一つである民主主義を育んだ長い18世紀はその準備期間であったと言えるのではないかと思います。



あなたの思う、世界史で一番面白い時代はいつですか?

18世紀の終わりごろから19世紀の初期あたりは近代の始まりであり、現代に生きる我々の生活や価値観と直接つながってきますので、大変に興味深いと思います。1776年、アメリカ合衆国が独立しますが、この時、フランスのブルボン王朝はイギリスに対する嫌がらせのためにアメリカに肩入れしていたわけですね。で、そのブルボン王朝は無謀な戦争をやり続けたおかげで財政破綻し、1789年にフランス革命が起き、ルイ16世とマリーアントワネットが断頭台に消えるというショッキングな事件も起きましたが、これが立憲主義・三権分立・共和制などの近代国家誕生の礎にもなったわけです。フランスはその後、独裁政権が生まれたり王政復古したり紆余曲折しますが、その紆余曲折そのものが近代的政体を模索する正解なき旅路みたいなところもあったわけです。で、その後、ナポレオンの時代が来ますけれども、ナポレオンが最も大きな影響を世界史に与えたできごとは神聖ローマ帝国の解体であったのではないかと私は思います。当時既に形骸化の感の強い神聖ローマ帝国ではありましたが、中世的なローマ教皇と神聖ローマ皇帝の二重権力によるヨーロッパ秩序の維持・支配というものが、完全に終わったことをナポレオンは分かりやすく世の中に示したわけですね。そのインパクトは強く、ベートーベンは『英雄』をコンポーズするくらいに新時代にかぶれることになりましたし、フィヒテは危機感を抱いて演説して歩くことにもなったわけです。ヘーゲルのような哲学者は、なぜナポレオンという、これまでとは全く違ったタイプの政治家・支配者がこの世に登場したのかという疑問を説明する必要を感じて歴史哲学を発展させていくことになります。つまりナポレオンはフランス人で、フランスを変えたはずですが、実はドイツ語圏に多大な影響を与えたわけですね。ナポレオンは同じことをロシアでやろうとして自滅していくことにもなっていきました。私はアドルフヒトラーが同時代のドイツ人に強く支持された理由の一つとして、彼らの記憶の奥深くにナポレオンが生き続け、語り継がれたからではないかという気がしてなりません。歴史には時々英雄が生まれ、歴史そのものを次の段階へ強引に移行させることがある。前回はナポレオンだった。そして今回はアドルフヒトラーなのだと彼らは錯覚してしまったのではないかという気がするのです(アドルフヒトラーの登場は、「面白い」ことでは全くありませんが、考察し続けなければならないという考えから言及しました)。吉田松陰も影響を受け、日本からナポレオンが生まれることを求めました。清朝でも梁啓超が中国人のナポレオンが生まれなくてはならないと主張する文章を書いています。

というような感じで、大変に興味が尽きません。



「悲運の人」と言えば誰を思い浮かべますか?

ルイ17世ですかね。父親のルイ16世と母親のマリーアントワネットの場合、人生で華やかだった時期もあり、それなりに充実していたんじゃないかなとも思うんです。ルイ17世の姉のマリー・テレーズは一かの中でただ一人、ちゃんと長く生きることができたと。

ですが、本来なら次の王様になる予定だったルイ17世は物心ついたときにはフランス革命が起きて幽閉される身分であり、質の悪い監視人たちから両親を罵るように教え込まれ、まだ幼いのに売春婦との性行為を強要されて性病に感染し、夜毎拷問されて苦痛で叫び声をあげ、衰弱死しました。

マリーテレーズは王政が復活した後、家族をなぶり殺しにした者たちを決して許さず、復讐のことばかり考えているとの批判を受けたこともあるそうですが、家族が上に述べたような経緯で殺されたら、それはもちろん一生ゆるさなくて当然だと思います。



フリーメイソンとは何か

最近、リアルな友人からフリーメイソンについてやってほしいとのリクエストがありましたので、今回はそれでやってみたいと思います。

10年ほど前、私はパリのフリーメイソン博物館を訪問したことがあります。パリの地下鉄のカデ駅の近くにあるんですが、パリの地下鉄ってわかりにくくて、慣れるまでちょっと苦労するんですが、そのときは、たまたま私が宿泊しているホテルが近くて、徒歩数分の距離のところにあったわけです。

で、カデ駅周辺ってどんなところかって言うと、ややさびれてます。パリの北の方でちょっと古めかしい、19世紀の雰囲気を残した感じの場所なんですね。パリは都市設計の方針としてナポレオン三世の時代の雰囲気を残すようにしているらしいんですけど、まあ、多分、当時の雰囲気を色濃く残すエリアだと言っていいんじゃないかなと思うような場所なんです。ラストタンゴインパリという映画がありましたが、あの映画でマーロンブランドが若い女性に銃で撃たれて死ぬとき、彼が最後に見る風景が昔ながらのパリの街並み、パリに並ぶアパートの屋根なんですが、観客はマーロンブランドに対して、最後に見る風景がパリのアパルトメントの屋根で良かったじゃないかって祝福してやりたくなるんですが、あんな雰囲気のところなんですね。

で、ところがですね、フリーメイソン博物館は、その周辺の雰囲気と全く合わない感じの建物なんです。21世紀風というか、宇宙船みたいな、2001年の宇宙の旅とか連想しそうな不思議な建物なんですね。で、金さえ払えば誰でも展示品が見れるようになっていて、そうだなあ、多分、1500円くらい払ったと思いますけど、中で写真撮っても何も言われないんですね。で、六分儀とか、そういうフリーメイソンのための道具とかが展示されているという、ただそれだけの場所なんです。フリーメイソンっていうと秘密結社ということで、凡人が足を踏み入れてはいけないんじゃないかなって雰囲気ありますけど、この博物館に限ってはそんなことはなかったんですね。

展示品の説明はフランス語で書かれていて、私も一応、入門程度にフランス語はやったんですけれど、やっぱりそれだけだと限界があって、詳しいことは分からなかったんですが、まあ、それでも、珍しいものを見れたということで私は満足したわけです。で、博物館の隣にあった本屋さんがもうちょっとおもしろかったんです。というのも、フリーメイソン関連の本しか売ってない本屋さんで、本当にうず高く書物が積まれているわけですけど、じっと見ていると、とにかくフランス革命とフリーメイソンの関係を論じた本が多いんです。英語で革命はレボルーションですけど、フランス語で革命はレボルシオンなので、じっと見ていると、ごく基本的なことは分かってくることもあるわけです。で、どうやら、フリーメイソンがフランス革命の成功のためにいろいろがんばったんだよ。というようなことが書かれているみたいなんですよ。

で、考えてみるとですね、確か、ミスター都市伝説の関暁夫さんが、フリーメイソンの理念は自由平等博愛って言ってたんですよね。自由平等博愛ってまんまフランス革命の理念なわけですよ。ですから、フランス革命の陰にフリーメイソンがいたとしても、別にそんなにびっくりすることじゃないというか、ふーん、さもありなんという感じに思っていいんじゃないかなと言う気がするんですね。

アメリカの独立戦争もフリーメイソンが絡んでいたとよく言われます。場合によっては、フリーメイソンがアメリカ独立を達成したみたいな表現も私は読んだことがあります。

で、よくよく考えてみると、アメリカ独立戦争も、フランス革命も、中世から続く王様とか皇帝とか、或いは貴族などの持っている権威や利権というものを否定して、一般市民、商売をする人、技術で仕事をする人、ブルジョワ階級、こういった人たちが努力や能力に応じて出世できる社会にしようと、そういう目的を持って実現されたものだと言う面があると思うんです。アメリカ独立戦争の理念に人民主権というものがありますけど、フランス人のトクビルが書いたアメリカの民主政治は、アメリカでは全ての人がこの人民主権社会を実現するために参加・協力を求められた、つまりそういう理念の国なんだと説明してますけど、仮にフリーメイソンが本当にアメリカの独立戦争やフランス革命に関わっていたとしたら、或いは本当に陰の演出をしていたのだとすれば、まあ、辻褄は合うんじゃないかなと思います。

ローマカトリックはフリーメイソンを非常に強く敵視していて、稀に枢機卿がフリーメイソンのメンバーだということがばれると大問題になるらしいんですけど、上のような流れを考えると、これも確かに頷けるものがあると思います。というのも、中世ヨーロッパがどういう世の中だったのかと言えば、ローマカトリックの権威に公認された王様とか皇帝とかが領地領民を支配することができる社会だったわけです。有名なものですと、中世ヨーロッパに燦然と君臨した神聖ローマ皇帝が人事のことでローマ教皇と対立した事件があったんですが、ローマ教皇が当時の神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世を破門するという段階まで揉めてですね、ハインリッヒ4世が謝罪するという展開になりました。この謝罪のときにですね、ローマ教皇の滞在先のお城の門の前で雪の中3日間立ち続けたというんですね。で、だったらしょうがないということで、教皇が赦しを与えたというのがありました。カノッサの屈辱事件と言いますけど、神聖ローマ皇帝はヨーロッパの世俗社会では最高の権威者でしたけど、それでもローマ教皇にはひれ伏さなくてはならなかったんですね。なぜかというと、皇帝と言う立場、位はですね、ローマ教皇に公認してもらえなければ、他の人も認めてくれないからなんですね。この権威がローマ教皇の力の源泉でもあったし、また、神聖ローマ皇帝とか、その他各地の王様や諸侯・貴族にとっても、「私はローマ教皇に認めてもらったからこの土地を支配する権利がある」と言い張ることができるので、王様や貴族にとってもこの仕組みは便利だったわけです。ウインウインな関係が確立されていたわけですよね。

ですから、エリザベスというケイト・ブランシェットが主演している映画で、ローマカトリックと英国教会の対立の深刻さが描かれますけど、イギリスのエリザベス女王の父親のヘンリー八世が、ローマカトリックめんどくせえ、うちは宗教的に独立しますんで、そういうことでよろしくと言い出してですね、英国教会、アングリカンチャーチをを作ったというのは、大事件だったわけです。ローマ教皇に正統性を与えてもらわなくても、イギリス国王は自分で自分に権威づけしますからというわけですね。もう、ローマ教皇はうちでは不要ですからという宣言みたいなものになるわけですね。

で、フリーメイソンに戻りますけれど、フランス国王にしても事情は同じなわけですね。ローマカトリックにフランス統治の権利を認めてもらうことで、自分のフランス統治の権利を主張することができるというわけです。ルイ14世のころの絶対王政というのも、絶対王政をやってもいい根拠というのは、王権神授説というもので、王様の権力は神様に与えてもらった絶対的なものだから、民衆は言うことを聴けよ、ということになるわけですが、神様にそのような権利を与えてもらうというのは、そのプロセスがどうなっているかというと、ローマカトリックがちゃんと世俗と神様の間をとりもってくれていますから、要するにローマカトリック教会から、「お前、フランス王な」と言ってもらえたから、王権神授説が成り立つというようなイメージで捉えればいいでしょうと思います。

フリーメイソンがフランス革命を主導して、フランスの王権を否定するということは、究極的にはローマカトリックの権威を否定することになるので、フリーメイソンとローマカトリックは犬猿の仲、不倶戴天の敵になるという風に私は理解しています。

という風に考えるとですよ、たとえばフランス革命を思想面で支えたルソーもですね、やっぱフリーメイソンの仲間だったんじゃないかとかですね、或いはナポレオンもそうだったんじゃないかとかですね、いろいろ想像が広がるわけです。

ナポレオンがやったことというのは、周辺諸地域にフランス革命を輸出したことになるんですね。まあ、最終的に彼は皇帝になって、元の木阿弥みたいな話になっちゃうから、やや微妙ですけど、皇帝への即位も、ローマカトリックの使者に冠を被せてもらうのではなく、自分で冠を被ることで儀式を完成させていますから、その行動が権威を持つのかどうかは議論が分かれるかも知れませんが、源義経も自分で帽子を被って元服したと言い張りましたから、ありかなしかと言えば、ありなのかも知れませんけど、ナポレオンのこような行動もカトリックの権威を受け入れてはいないという暗黙の自己表現だったとも言えるのではないでしょうか。

そのように考えると、その後のヨーロッパで吹き荒れた革命の嵐はやはり、もしかすると、フリーメイソンが絡んでいるんじゃないかとも思えます。市民革命が起き、長くその土地を支配した王様や貴族が追放され、憲法が制定されて、支配者は王様ではなく、憲法だ、要するに法の支配だと、で、憲法が人民主権を定めているから、主権者は人民だというロジックが形成され、広がっていく、立憲主義的な社会の確立がフリーメイソンの目的であったとした場合、王の否定がカトリックの否定であるとすれば、そりゃ、フリーメイソンとカトリックが不倶戴天の敵になるのも、理解はできますね。

私はどちらの側を応援するということもないですけど、カトリックの側からすれば、フリーメイソンは、新しい理念で世界を覆い尽くそうとしていると、陰謀論を言いたくなるでしょうし、フリーメイソンの側からすれば、カトリックこそ権威を使って世界を支配をしているという批判をしたくなるというようなことかも知れません。

私は、アメリカに留学した時に、ローマ法王を激しく批判するテレビ番組を見たり、雑誌記事を読んだりしたことがあって、当時はローマ法王と言えば、とてもありがたい心のきれいな、マザーテレサみたいな人だと思ってましたから、アメリカでのローマ教皇批判にはびっくりしたんですけど、アメリカがプロテスタントの国だということを考えてみれば、そして、カトリックと王や皇帝の相性が良く、逆に言うとフリーメイソンが立憲主義や反カトリックのプロテスタントとの相性が良いのだという風にとらえると、アメリカでのローマ教皇批判の風土も、よりすんなりと理解できるのだと思います。

で、仮に私が上に述べたような仮説が正しいとした場合ですけれども、間違っていたら謝罪しますが、仮に正しい場合、日本に与えた影響というものもですね、どういうものであったか、というのをより具体的に把握できるんじゃないかなと思うんです。

日本人で一番最初にフリーメイソンのメンバーになったのは西周と津田真道であったことは知られています。幕府に費用を出してもらってオランダに留学していた時期にフリーメイソンに入ったらしいんですね。で、西周は帰国後、徳川慶喜のところで仕事をするんですけど、憲法草案を書かされています。立憲主義を広めることがフリーメイソンの目的ではないかということを私は先に述べましたけれど、西が帰国後に憲法草案を書いたというのも、彼がフリーメイソンのメンバーだったことを考えると、すんなりと矛盾なく辻褄が合うんですよね。徳川慶喜は戊辰戦争の最中、西郷隆盛に追い詰められて殺される寸前でしたけれど、イギリス公使パークスが西郷に慶喜を殺すなと言ってきてですね、それで慶喜は助かっています。勝海舟の回想によると、もし西郷が受け入れない場合は、慶喜をイギリスに亡命させることでパークスと話しがついていたということらしいんですね。たとえばですよ、西周が慶喜をフリーメイソンに誘っていてですね、パークスもフリーメイソンのメンバーだったとしたら、人間関係的に、フリーメイソンのメンバー同士の助け合いだと思うと説明がつくんじゃないかなと言う気がします。そもそも、慶喜は大政奉還をしてますけど、そういうのをやろうかなと思うというのも、フリーメイソンの古い権威を打ち壊すという考え方に賛同する部分が慶喜にはあって、だからそうしたと言うこともできるんじゃないですかね。このあたりは完全に想像で、私もちょっと飛ばしてると言うか、ここまで言っちゃっていいんだろうかと思いながら続けてますけど、坂本龍馬がフリーメイソンだったという説もあるらしいですが、もし本当だったとしたら、坂本龍馬が大政奉還を言い出して、それを慶喜も同意したという流れは非常に分かりやすいという気もするし、坂本龍馬が新政府に慶喜を重要人物として迎え入れようと考えたと言われるのも、納得できるとも思います。ただ、慶喜は坂本龍馬という人物の存在を知らなかったんですね。維新後にいろいろ関連本を読んで坂本龍馬のことを知ったそうなんです。だから、陰でフリーメイソンつながりで竜馬と慶喜が連携していたとかまで想像するのは、かなりフライングということになってしまうとは思います。

明治時代、日本はイギリスとアメリカに随分とかわいがってもらって発展しましたが、イギリスとアメリカがローマカトリックの権威から離脱を目指した国であるということを考えると、当時の日本人が徳川将軍という、日本の古い権威を否定して、新しい立憲主義の国を作ったということでかわいがってもらえていたのが、気づくと天皇が徳川将軍以上に神格化された存在になっていって、イギリス人やアメリカ人が当初想定していたものと違ってきたから、第二次世界大戦でフルボッコされたと捉えるのは、考えすぎでしょうか。

随分と長くなってしまいましたが、仮にフリーメイソンの目的がここまで述べたような立憲主義国家を増やすことだとしたらですね、世界中の大抵の国は憲法を持っていますから、フリーメイソンの目的は達せられたのではないかなという気もします。じゃ、これから、どうするのかってことですけど、それはまた世界の流れをじっくり見つめていれば、分かってくるのかも知れませんね。



近代を構成する諸要素と日本

ここでは、近代とは何かについて考え、日本の近代について話を進めたいと思います。近代という言葉の概念はあまりに漠然としており、その範囲も広いものですから、今回はその入り口の入り口、いわゆる序の口という感じになります。

近代はヨーロッパにその出発点を求めることができますが、人文科学の観点から言えばビザンツ帝国が滅亡した後に始まったルネッサンスにその起源を求めることができます。しかし、それによって社会が大きく変動したかと言えば、そのように簡単に論じることができませんので、もう少し絞り込んでみたいと思います。

ある人が私に近代とは何かというお話しをしてくれた際、近代はイギリスの産業革命とフランスの市民革命が車の両輪のようにして前進し発展したものだということをおっしゃっていました。これは大変わかりやすく、且つ本質を突いた見事な議論だと私は思いました。

以上述べましたことを日本に当てはめてみて、日本の近代はいつから出発したのかということについて考えてみたいと思います。一般に明治維新の1868年を日本の近代化の出発点のように語られることがありますが、私はそれはあまり正確ではないように思います。というのも、明治維新が始まる前から日本では近代化が始まっていたということができるからです。

例えば、イギリスの産業革命が起きる前提として資本の蓄積ということがありますが、日本の場合、江戸時代という二百年以上の平和な時代が続いたことで、経済発展が達成され資本主義的な発展が都市部で起きたということについて、異論のある人はいないのではないかと思います。東海道などのいわゆる五街道が整備され、現代風に言えば交通インフラが整備されていたということもできるのですが、北海道や沖縄まで海上交通が整い、物流・交易が盛んに行われていました。特に江戸時代後半は江戸の市民生活が発展し、浮世絵でもヨーロッパから輸入した材料を使って絵が描かれたということもあったようで、当時の日本の貿易収支は輸入超過の赤字だったようですが、輸入が多いということは内需が活発であったことを示しており、江戸時代の後半に於いては豊かな市民生活による経済発展があったと考えるのが妥当ではないかと思います。大坂も商売の都市、商都として発展しましたが、大坂の船場あたりの商人の子弟などは丁稚奉公という形で十代から外のお店で住み込みで働き、やがて商売を覚え、独立していくというライフスタイルが確立されていたと言います。住み込みで働くことにより、勤勉さを覚えて真面目な商人へと育っていくわけですが、私はこのライフスタイルと勤勉であることを重視する倫理観について、マックスウェーバーが書いた【プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神】と同じ心理構造または行動パターンが生まれていたと考えてよいのではないかと思います。
さて、先ほども述べましたように江戸時代後半は江戸の市民文化が花開いたわけですが、経済的には一般の武士よりも成功した市民の方がより豊かな生活をしていました。興味深いのは、これは小林秀雄先生がお話しになっている音声を聞いて学んだことなのですが、当時のお金持ちはいろいろな遊びを経験して最後に辿り着くのが論語の勉強なのだそうです。つまり究極の道楽が勉強だというわけです。料亭のようなところでおいしいお料理とおいしいお酒を楽しんだ後で、論語の先生からお話しを聴いていたそうですが、このような文化的行動というのも、やがて維新後に起きる近代化に順応できる市民階層が江戸時代に形成されていたと言うことができるのではないかと思います。

さて、ここまでは経済のことをお話し申し上げましたが、次に政治についてお話ししたいと思います。江戸時代の武士は月に数日出仕する程度で仕事がほとんどなく、内職をするか勉強するか武術の稽古をするかというような日々を送っていたわけですが、結果として武士は知識教養階級として発展していくことになります。言い方を変えれば何も生産せずに、勉強だけしてほとんど役に立たないような人々になっていったということもできるのですが、彼らのような知識階級がしっかり形成されていたことにより、ヨーロッパから入って来る新しい知識を吸収して自分たちに合うように作り直すということができるようになっていたのではないかと私は思っております。

幕末に入りますと、吉田松陰がナポレオンのような人物が日本から登場することを切望していたそうです。中国の知識人である梁啓超もナポレオンのような人物が中国から登場しなければならないと書いているのを読んだことがありますが、ナポレオンは東洋の知識人にとってある種のお手本のように見えたのではないかと思えます。ナポレオンは人生の前半に於いては豊臣秀吉のような目覚ましい出世を果たし、ヨーロッパ各地へと勢力を広げて結果としてフランス革命の精神をヨーロッパ全域に輸出していくことになりました。ベートーベンがナポレオンに深い感銘を受け、【英雄】と題する交響曲を制作しましたが、後にナポレオンが皇帝に即位するという形で市民革命の精神を覆してしまうということがあり、大変に残念がったという話が伝わっています。

日本に話を戻しますが、幕末では日本の知識階級はナポレオンという人物のことも知っていたし、フランス革命や民主主義の概念のようなものもその存在が知られていたわけです。横井小楠や西周のような人が日本にもデモクラシーや立憲主義、三権分立のような制度を採り入れればいいのではないか、ヨーロッパの近代文明が成功している理由は封建制度から抜け出した市民社会の形成にあるのではないかというようなことを考えるようになったわけです。ですので、横井小楠が江戸幕府の政治総裁職を務めた松平春嶽のブレインであり、西周が最後の将軍の徳川慶喜のブレインであったことを考えますと、明治維新を達成した側よりも、明治維新で敗れた側の江戸幕府の方に政治的な近代化を志向する萌芽のようなものが生まれていたのではないかという気がします。徳川慶喜という人物の性格がやや特殊であったために、徳川を中心とした近代化は頓挫してしまいますが、あまり急激な変化を好まない徳川幕府を中心とした近代化が行われた場合、或いは帝国主義を伴わない穏やかな近代化もあり得たのではないかと私は思います。もっとも仮定の話ですので、ここは想像や推測のようなものでしかありません。

いずれにせよ、幕末期に政治権力を持つ人たちの中で、徳川慶喜、松平春嶽のような人は近代的な陸海軍の形成にも力を入れていましたし、立憲主義の可能性も模索した形跡がありますので、日本の近代化は明治維新よりも前に始まっていたと見るのがより実態に近いのではないかと言えると思います。








これは何度も練習した後で録画したファイナルカットです

こっちは何度もかみまくったので、「ボツ」なのですが、
思い出のために残しておきたいと思います。

イタリア詩人、ジャコモ・レオパルディの近代

19世紀イタリアにジャコモ・レオパルディなる詩人が存在したことについて、東洋人の我々の中で知っている人はほとんど居ないだろう。私も最近になって知ったのである。イタリア語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語に通じていた彼はそれら古典の教養を存分に生かしながら、新しい時代のための詩を書いた人物であるらしい。その作風は悲観的だが、ある程度無視論的な響きを持ち、それだけある程度自由主義的な響きを持っていたそうだ。当然、ナポレオン戦争と関係があるし、長い目で見れば社会主義とも関係があると言えるだろう。

ナポレオン戦争に影響を受けた芸術家として個人的にぱっと思い当たるのはベートーベンだ。第九交響曲の『歓喜の歌』は王侯貴族のためではなく一般のドイツ人のために書かれたもので歌詞もイタリア語ではなくドイツ語で書かれている。ちょっと前の世代のモーツアルトがドイツ語で戯曲を書くことについては相当揉めたらしいのだが、ベートーベンがドイツ語の楽曲を作るということで揉めた話というのは聞いたことがない。もしかするとちょっとはあったのかも知れないが、ベートーベンのドイツ語歌曲はわりとすんなりと受け入れられた。

モーツアルトとベートーベンの違いは生まれた時代の違いに拠る。モーツアルトはフランス革命とナポレオン戦争の最中に活躍したが、ベートーベンの時代にはナポレオン戦争は一応だいたい終わっていて、タレーランが戦争に敗けても外交で勝つという巧みな政治活動を行った時期と大体重なる。

さて、ベートーベンはともかく、レオパルディである。レオパルディは神なき時代の救いなき悲観主義を描いたらしいのだが、もう一つ重要な点として国民を描こうとしたという点は見落とされるべきではない。ナポレオン戦争は各地で国民意識を覚醒させるという効果をもたらした。フランス軍はもちろん自由平等博愛の普遍的理念で押しまくったわけだが、たとえばドイツのフィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』という演説で民族主義を説いて歩いたように、ナポレオンに対する反作用としてヨーロッパ各地で民族と国家というものが強く認識された時代でもある。

ここで注意しなければいけないのは王侯による支配と国民国家は全く別のものであるということだ。たとえばドイツ語圏で乱立した王侯国家は国王の私有物であり、軍は国王の私有財産によって傭兵が雇われて機能した。それに対して国民国家では、国民はその国の人間だというだけで国家の戦争に対して責任を負う。21世紀の現代人の我々にとって、それは必ずしも正しいこととは言えなくなっているが、当時は王侯貴族の支配から脱却し、国民または市民による共和政治の理想がヨーロッパ社会に広がり、その旗頭がナポレオンだった。

レオパルディはそのような時代の空気を思いっきり感じて生きたイタリア人詩人であったため、国民という言葉にロマンを与えたと言われている。レオパルディ流の国民国家という近代との接点であると言えるだろう。私はイタリア語もラテン語もギリシャ語もできないので、一般的な解説に+して私の個人的な見解を述べることしかできないのだが、ナポレオン戦争を境にロマン主義的国家主義がヨーロッパに広がったことは事実であり、レオパルディはその新しい思潮を胸いっぱいに吸い込んだに違いないことは想像できる。彼は古典的なローマカトリックや王侯支配に対するアンチテーゼとして「国民」を重視し、国民を中心とした社会づくりを夢見た。残念なことに30代半ばで病死してしまったため、彼は国民という概念の行くつく先に普仏戦争が起きたことを見ることはできなかったし、それがエスカレートした結果としての第一次世界大戦を見ることもなかった。古典的な支配体制を崩すために国民という概念を創造することに彼は役立ったかも知れないが、その結果を見ることはなかったことが良かったのか悪かったのか。

ただ、彼個人は潔癖で真面目で勤勉で生き方ば不器用だったらしい。ちょっと私に似ている。どこが似ているのかというと、勤勉であるにもかかわらず、それがすぐにお金に直結しないところである。お金に関するセンスさえあれば、レオパルディも私も勤勉にお金を儲けていたのではないかと思わなくもない。フランスのロートレックみたいに…一応付け足すが、ゴーギャンは遊びたいだけなので、勤勉でもなければお金のセンスも持ち合わせていない。ただの付言になってしまいましたが….あ、ゴッホもか…



ヘーゲル‐かくして自由と理想は達成される

ヘーゲルは弁証法によってより高次の理想が達成されると考えました。即ちテーゼとアンチテーゼがぶつかり合ったとき、それを克服するための第三の道が見つけ出され、より高次のものへとつながっていくというわけです。このようにより高次のものへと上昇していくことをアウフヘーベンと呼び、テーゼとアンチテーゼがぶつかり合ったときにアウフヘーベンが起きると考えたわけです。

アウフヘーベンが起きた後、新しいテーゼ、ジンテーゼが生まれますが、やがてそのジンテーゼに対するアンチテーゼが登場し、ぶつかり合ってアウフヘーベンが起きます。それは人類の不断の営みと呼べるものですが、いずれはジンテーゼが限界に達します。それはアンチテーゼの生まれようのない理想的な世界であり、理想が達成された極相に到達したと考えることができます。

このようなテーゼとアンチテーゼのせめぎ合いで分かりやすいのは技術革新で、それこそAI開発の研究者や技術者たちはこの繰り返しをしているに違いないのですが、ヘーゲルの場合は、同じことが人類の歴史に於いても起きると考えました。

ヘーゲルは自由と善が達成された社会を理想としており、市民社会では自由はある程度達成されたと言えますが、各人が自己の欲求の追求に邁進するために必ずしも善が達成されるとは限りません。ヘーゲルはそのような状態で国家が善を達成すると考え、またそのように善を達成し得るものが国家として相応しいと考えました。

時代背景的にフランス革命からナポレオン戦争へと続くヨーロッパが壮大な転換点を迎えていたことと、ヘーゲルが以上のようなことを考えたことは当然に大きな相関関係があるように思えます。ヘーゲルはフランス革命が起きた時、友人と記念の植樹をして祝ったと言いますが、その後のナポレオンの姿を見て「世界精神が行く」と言ったとも言われています。即ち、ヘーゲルにとってフランス革命はテーゼとアンチテーゼのせめぎ合いの結果発生したアウフヘーベンであり、その後に登場したナポレオンはジンテーゼそのものであり、自由平等博愛を旨とするフランス革命がナポレオンに輸出されることは是であり、フランス革命的自由に彼は夢や理想を感じたに違いありません。アウフヘーベンが繰り返されればいずれは人間の歴史もその極相に達すると考えた背景には、稀に見る歴史的転換点に彼が触れることができたからなのかも知れません。

ヘーゲルの弁証法によって東西冷戦の終結を説明しようとしたのがフランシスフクヤマの『歴史の終わり』であるわけですが、ヘーゲル的な考え方によって全てが説明できるかどうか、何とも言い難いところは残ります。奢れる平家は久しからず、盛者必衰の理を表すとする東洋的な輪廻の世界観では、ヘーゲル的弁証法によってアウフヘーベンが極限まで達した結果、理想の世界が達成されるとする一直線且つ不可逆な世界観を受け入れることは容易なことではありません。実際、今の世界のいろいろな出来事には、東西冷戦時代の方がまだ整然としていてましだったのではないかと思えることも多いため、フランシスフクヤマの著作は少々勇み足であったのではないかとも思えます。

世界が不可逆の方向へ進むという思想はヘーゲルしかり、マルクスしかりですが、マルクスの対極にあるはずのキリスト教でもそうであり、やはりヨーロッパに伝統的に続いている、いずれ世界は終わるという思想と無関係には理解できないのかも知れません。

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パリのタンプル塔跡をたまたま通りかかった話

フランス革命でルイ16世一家はベルサイユ宮殿からパリ市内のチュイルリー宮殿に移動させられます。ベルサイユ宮殿がヨーロッパ一の豪奢な建築だったのに対し、チュイルリー宮は久しく人が使っていなかったため、あちこちほこりを被っていて設備も故障が多く、手狭でマリーアントワネットはたいそう意気消沈したと言います。チュイルリー宮はルーブル宮の近くにあります。

当時、フランス国民と議会は絶対王政には否定的でしたが王制の維持には肯定的で、ルイ16世一家に命の危険が及ぶ考えていた人は少ないと言います。ただ、革命を経験して人々の心のうつろいやすさを見ているルイ16世とマリーアントワネットの目から見れば、とても安心できる状態ではなかったかも知れません。

一家は馬車で密かにパリを脱出し、ヴァレンヌで捕まえられるという有名なヴァレンヌ事件が起きます。これで世論が一機に硬直し、王の処刑を叫ぶ人々が登場したと言われています。そういう意味ではターニングポイントですが、王家の人々から見るとそれ以前から既に警戒しなければならない空気が感じられたのかも知れません。

いずれにせよ、それにはよって王家はタンプル塔に監禁され、犯罪者同様の扱いを受けるようになります。その場所はセーヌ川右岸、パリ3区になるので、パリ同時多発テロがちょうど発生した地域とある程度重なるのではないかと思います。

私がパリに行ったのはテロ事件の前の年だったので、そういう悲痛な場所だという感覚はありませんでした。滞在中はなんとなく気になって、フランス革命の関係した場所に行きたいなあという思いが湧いてきて、タンプル塔もできれば見に行きたいと思っていましたが、どこにあるのかもよく分からず、観光客が訪れるには若干マニアック過ぎるので地元の人に質問したら怪しまれはしないかと不安になり、諦めようかと思いつつたまたま歩いていて通りかかったのがタンプル公園で、詳しい本には今は公園になっていると書かれていて、もしかしてここかと。念ずれば通じる現象が起きた感じです(私の人生でそういうことはめったに起きないのですが…)。

ルイ16世はタンプル塔から革命広場へと引き出され、断頭台にかけられます。マリーアントワネットはタンプル塔からシテ島内にある裁判所兼留置場みたいな機能を持っていたコンシェルジュリーに移動させられ、二ヶ月ほどの裁判の期間を経て最期は革命広場で断頭台にかけられます。コンシェルジュリーから革命広場へと引き出される時の肖像画が残されていますが、大変につかれた様子で、ベルサイユ宮殿に残されている華やいだ感じの肖像画とは別人に見えます。描き手のくせの違いもあるはずですから、簡単に結論できませんが、あまりにも違うのでマリーアントワネットは直前に別人と入れ替わったとする生存説もります。でも、もし本当に脱出できていたらオーストリアに帰って子どもの救出のために全面戦争をしたでしょうから、多分、脱出した可能性はないと思います。

ベルサイユ宮殿の離れ、グラントリアノンだったかプチリアノンだったかに展示されていたマリーアントワネットの肖像画の写真です。華やかです。多分、プチトリアノンだったと思います。

マリーアントワネットの華やかなな感じるのする肖像画です
マリーアントワネットの華やかな感じるのする肖像画

息子さんのルイ17世はタンプル塔で激しい虐待を受けて亡くなってしまいます。娘さんのシャルロットは生き延び、王制が復活したら王族としての生活を送りますが、当時、両親と弟を死に追いやった人々を決して赦さなかったと読みました。ルイ17世が受けた虐待はここで書くことを憚られるほど酷かったようです。素直にかわいそうだと思います。

ナポレオンが政権を取った時に、おそらくは忌まわしいという理由でタンプル塔は取り壊され、今はその跡地が公園になっています。超絶合理主義者だったであろうナポレオンらしいように思えます。このナポレオンの判断には好意的な印象を持ちました。

子どものころにやっていたラセーヌの星というアニメでは息子さんと娘さんは救出されます。マリーアントワネットは子どもの安全に確信を持ち、安心した表情で革命広場へと連れて行かれます。王家一家があまりにも残酷な運命を迎えたのが辛いので、そういう明るい終わり方を作者が選んだのだと思います。

ベルサイユ宮殿に展示されているマリーアントワネットと二人の子どもの肖像画です。幸せそうです。その後の運命のことを考えると見るのがちょっと辛いです。

マリーアントワネットと二人の子どもの幸せそうな肖像画
マリーアントワネットと二人の子どもの幸せそうな肖像画





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