帝政ドイツ‐短命の帝国

ナポレオン戦争が終わった後、タレーランとメッテルニヒによってウイーン体制が確立しますが、その新体制ではナポレオンによって消滅に追い込まれた神聖ローマ帝国が復活することはありませんでした。ドイツは30以上の小さな君主国と幾つかの自由都市に分かれた状態(神聖ローマ帝国がそもそも諸王国を従える連邦国家でした)になり、バラバラな状態になっていたと同時に、その統一も模索されるようになります。

オーストリアも同じドイツ語圏なのですが、オーストリア皇帝のハプスブルク家は神聖ローマ皇帝も握っていたため、神聖ローマ皇帝の存在しないドイツ人の統一にはそもそも不同意であり、しかもオーストリア帝国にはハンガリーも含まれるため、「民族的統一」という点で難が残りってしまう問題もありました。オーストリア帝国を除くドイツ諸邦で最も協力だったのがプロイセン王国で、ドイツ諸邦はプロイセン王国に吸収される形で統一が進み、その帰結として、ハプスブルク家とホーエンツォレルン家のプロイセン王国が睨み合うという状況が生まれます。プロイセンではオーストリア帝国を除いた小ドイツ主義で帝国を作るべしとする意見と、オーストリア帝国も飲み込む大ドイツ主義で帝国を作るべしとの意見の対立が起きます。アドルフヒトラーがオーストリアを併合したのは、この時の議論を根拠としているとも言えますし、当時破竹の勢いのアドルフヒトラーをオーストリア市民が歓喜して迎えたのも、20世紀前半のナショナリズムの高揚によりオーストリアの人々が大ドイツ主義へと傾いていたことも要因と言っていいのではないかと思います。

1866年にプロイセンとオーストリア帝国の間で行われた普墺戦争でプロイセンが勝利し、ビスマルクが北ドイツ連邦を成立させ、ここでオーストリア抜きのドイツ統一を目指すという方針がはっきりと示されることになります。その後、1870年の普仏戦争ではフランス皇帝ナポレオン3世が捕虜になるという事態に至り、プロイセンがフランスを圧倒します。プロイセン軍はパリ入場を果たし、プロイセン国王がなんとベルサイユ宮殿でドイツ皇帝宇ウイルヘルム1世に即位し、ドイツ帝国の成立が宣言されるに至ります。

ウイルヘルム1世のビスマルクに対する信任は厚かったようなのですが、ビスマルクの外交政策の大方針はフランスの無力化であり、そのため、オーストリア皇帝とロシア皇帝に対しては領土的野心がないことを明確にする三帝同盟を結び、東の不安を取り除きます。この段階ではフランスが敗戦国ですから、西の脅威も当面はないということになり、ビスマルク外交の大きな勝利と呼ぶことができるのではないかと思います。しかしながら、この三帝同盟はさほど長くは続きません。三者それぞれに利害の対立があり、民族的な問題も微妙な絡みを見せ、この穏健な同盟関係はほどなく終了します。正確には何度も復活しては終わるというのを繰り返しますが、事実上機能しなくなっていきます。

ビスマルクの最大の方針はフランスの封じ込めであったため、フランス包囲網を築くべく、イタリア、イギリス、スペイン、更には孤立を恐れるオーストリア帝国も取り込んで、言わば非フランス同盟のようなものができあがります。これを一般にビスマルク体制とも呼びます。ドイツ人の側からすれば、神聖ローマ帝国を滅亡させたフランス憎しであり、フランス人の側からすれば普仏戦争でこてんぱんにやられた上にアルザスロレーヌ地方も奪われて『最後の授業』みたいなことになってしまった上に、その後も包囲網が築かれていくわけですから、フランス人としてもドイツ憎しという感情になるというのは、第三者の目から見れば、確かにお互いそうなるだろうという気はします。双方の怨念が半端ないのが当然だということはヨーロッパの歴史をつらつらと追っていくだけでもよく分かりますし、今日、独仏が強調しているのは歴史的に見れば奇跡的、あるいは感動的とも思えますから、フランスからEUから出る出ないみたいな話は単に経済政策がどうとか、移民問題がどうとかという直近の問題だけではなく、EUから出るということはドイツと再びことを構える覚悟があるのかくらいの大事だということも見えてくるように思います。

ビスマルクの主導により帝政ドイツは瞬く間にヨーロッパ政治の主役へと躍り出て来たと言うことができますし、伊藤博文にビスマルクが眩しく見えたというのもなんとなく分かる気がしなくもありません。伊藤はドイツ憲法を参考にして明治憲法を作ったと言われていますが、ドイツが新興国の帝政国家でであったということも、明治日本がやはり新興の帝政国家であったという点で似通っており、確かにドイツをお手本にしようと思うというのもまたよく理解できるのではないかと思えます。

このように輝かしい時代を迎えた帝政ドイツですが、ウイルヘルム1世が崩御した後、ウイルヘルム2世が皇帝に即位すると、新皇帝が親政を欲したためにビスマルクは首相の辞表を提出させられることになります。その後、第一次世界大戦の末期にドイツ革命が起きてドイツの帝政は終了するのですが、この教訓から学べることは近代という複雑なシステムと高度な知識、迅速かつ的確な判断が必要とされる時代に皇帝や王様の親政は不向きであるということではないかと思います。権威による支配より有能な人物による効率的な支配、機能的な支配ということが求められるようになりますので、ウイルヘルム2世に関して言えば、ちょっと生まれる時代が違ったのではないかなあという気がしてしまいます。

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