15,6世紀にヨーロッパが東南アジアを植民地にできるほど東南アジアとヨーロッパとの間に格差が生まれてしまったのはなぜですか?

たとえば日本や中国のように、ある程度の規模の大きさがある東洋の国はそう簡単に植民地にはされないわけです。ベトナムも規模がある程度大きい国だと思いますが、ベトナムが植民地になったのは19世紀で、大航海時代の時は、まだヨーロッパはそこまで強くなっていませんでした。

一方で、インドネシアの場合、特に一つにまとまりのある国や社会だと、インドネシアの人々は認識しておらず、バラバラだったらしいのです。そうするとオランダ人はインドネシア全体を相手に戦う必用はなく、少しずつ拡大していけばいいし、現地の有力者と提携して他の有力者を潰すというようなこともできるわけですね。インドネシアのバリ島の王家が滅亡したのは19世紀初頭のことです。徳川家康の時代にはインドネシアに根を張り始めていたオランダですが、全部獲るのに何百年もかけたわけですね。バリ島の王家は最期、一族全員で突撃し滅亡する道を選んだそうなのですが、オランダ兵の側は、その鬼気迫る様子に恐怖を感じたらしいです。

おそらくフィリピンやマレーシアなども同じような事情だったのではないかなと思います。

ですので、東洋の国々が植民地になったかならなかったというようなことを考える際、国民国家としての意識が成立していたか、いなかったかのあたりが運命を分けたのではないかなと思います。

中国の場合は国民国家ができあがってくるのは20世紀に入ってからのことですが、それ以前から、皇帝の主権という考え方があったので、ロシアとも条約を結んだりして自分たちの利益を守ることができたと言えるかも知れません。産業革命に成功した後のヨーロッパには勝てませんでしたが、大航海時代くらいなら十分に対抗できたわけですね。フランシスコ・ザビエルは中国での布教を目指しましたが、結局、マカオどまりでした。奥地に行きたくても許可を得られませんでしたし、その程度の力しかなかったわけです。

日本の場合も天皇の主権・武士の実権の及ぶ範囲に関する認識があったために、豊臣秀吉九州で日本人が奴隷にされている様子を知って伴天連追放令とか出してそれが有効に機能したわけですね。博多の黒田氏がポルトガルと結んで京都を狙うみたいなことにはならなかったわけです。まあ、仙台の伊達氏は支倉常長をヨーロッパに送って、あわよくば連合して徳川と戦おうとしていたみたいですから、一歩間違えば日本もインドネシアみたいに各地の諸侯が各個撃破されていたかも知れません。



オランダ東インド会社とインドネシアの王たち

オランダが三百年にわたりインドネシアを「東インド領」として支配していたことは、わざわざ言うまでもない。インドネシアにはオランダ東インド会社、イギリス東インド会社がともに商館を所有していたが、1623年のアンボイナ事件でイギリス東インド会社の商館員たちはオランダ東インド会社の商館員たちによって皆殺しにされ、当該地域でのオランダの覇権が確立される。

徳川幕府はカトリックのスペインやポルトガルに対しては強い警戒感を持ち拒絶していたが、西欧の新教の国に対しては比較的寛大で、オランダは新教の国であったから交易も行っていた。イギリスはヘンリー8世が英国教会を創設した以降、新教の国の一つとして数えることができたが、徳川幕府がイギリスと交易しなかったのは一重にオランダによって駆逐されたからだと言える。ドイツ語圏の国やフランスはまだ東洋に進出するだけの実力はなく、結果として東アジアではオランダの一人勝ちの時代がしばらく続いた。台湾も一時植民地化されている。ついでに言うとなぜ徳川幕府が新教に対して寛大だったかと言うと、カトリックが東西両インドへの布教に熱心だったのに対し、新教は自分たちの信仰の自由さえ確保できればそれでよかったので、布教することに関心がなかったからだ。

さらについでになるが、東インドは本物のインドからインドシナインドネシアあたりまで。西インドはアメリカのこと。コロンブスがアメリカ大陸に辿り着いた時、喜望峰を通らない地球の裏側へ行くコースでインドに辿り着いたと信じたため、しばらくは東インドと西インドという名称が用いられるようになった。しばらくたって東インドから入って来る情報と西インドから入って来る情報があまりに違い過ぎて何かがおかしいということになり、アメリカがインドの西ではなく全く別の大陸だということに西洋人が気づくことになる。アメリゴ・ベスプッチという人物が西インドは新大陸だと指摘したためにアメリカと呼ばれるようになった。

今回、私が関心を持って述べたいと思っているのはオランダに支配されたインドネシアの王たちの物語である。インドネシアではオランダ支配が始まった後もオランダに忠誠を誓うスルタン王国が連立していた。インドネシアの普通の人々にとってはオランダとスルタンの両方の支配を受けていたということもできるし、オランダから見ればわりと支配しやすい間接支配というスタイルをとったということもできる。

これらの諸侯国はオランダ支配を受け入れ、子息をオランダに留学させるなどして積極的にオランダ化しようとした面もあるように見えるのだが、私の知る限り2人だけ例外がいる。探せばもっといるのだろうけれど、私が知っているのは2人だけである。

1人は1908年にオランダ軍によるジャワ侵攻の際に最後まで抵抗したクルンクン王国の王デワアグンジャンベ2世である。包囲された国王は最後の手勢とともに突撃し戦死したが、最期を見届けたで王族たちは集団自決をしたと言う。鎌倉の北条氏を連想させる壮絶な歴史の一幕とも言えるが、オランダのスルタンには敗れれば集団で自決するという考え方があったようだ。

もう1人はジョグジャカルタのスルタンであるハメンクブウォノ9世だ。第二次世界大戦が終わった後、日本軍は降伏していなくなり、再びオランダの支配が始まろうとしたが、一度オランダの敗退を見てしまったインドネシア人は以前と同じように従うということをよしとせず独立戦争を挑み、スカルノがその先頭に立った。各地の諸侯国のスルタンは依然としてオランダへの忠誠を誓い、独立戦争を妨害する立場をとったが、ハメンクブウォノ9世は独立に協力する立場をとった。おそらくはスルタンの多くがオランダの庇護の下で既得権を守ろうとしたのだと想像できるが、ハメンクブウォノ9世は世の中がどちらに動くかよく見極めができる人物だったのだろう。イギリスが当初オランダ支配の復活に協力していたが、途中であきらめて撤退しただけでなく、イギリスはマレーシアからもビルマからもインドからも引き上げて行くことになる。その姿を見て、ヨーロッパのアジア支配は終わるのだなと悟ったのではなかろうか。独立を果たしたインドネシアは共和国になったが、ジョグジャカルタのスルタンだけは現在に至るまで存続している。ハメンクブウォノ9世の戦略勝ちのような面があるように私には思え、やはり王とか君主とかという立場の人でもその立場に安穏とせず、時代の潮目を見る目を養う必要があるという際立った一例と言えるのかも知れない。今回の話題とは関係ないが、昭和天皇もマッカーサーを抱き込んだという点で潮目を見極めるのがうまい人だったとも私には思える。