昭和史16‐仏領インドシナの華僑

このところ、とある情報機関の機関紙を追いかけているわけですが、同機関紙の昭和13年2月11日付発行の号では、仏領インドシナの華僑についての動向・情勢が報告されています。この機関紙では東南アジア各地の情勢を毎回報告しているわけですが、昭和14年に陸軍省に宛てて当該情報機関が東南アジア華僑の分布図を送っていたことから察するに、将来的には東南アジア各地の占領を想定していたことが分かりますから、そのための準備として各地の調査員を送り、報告書を上げさせていたと考えることができます。ただ、調査員が特別に諜報活動をしていたらしいフシは見当たりませんので、公開情報と現地に行った雑感でまとめた感じのものです。

で、今回の号では仏領インドシナについて書かれていますが、前半ではざっくりとした一般知識、たとえばナポレオン三世の時代にフランスの統治下に於かれたとか、高温多湿で雨が多いとか、そういったことが述べられ、次いで華僑の動向が述べられています。当初、インドシナでの排日運動は「微温的」だったものの、次第にエスカレートしていったであるとか、現地の新聞は外信をそのまま流しているから日本に不利だが、最近は少しましになったとか、居留する日本人は少ないので「隠忍自重」するしかないとか、そういったことが書かれてありました。

私はとある情報機関の公開情報を追いかけているわけですが、陸軍には陸軍の、海軍には海軍の情報機関もあったでしょうから、最終的には閣議まで上がってくるものもあったのではないかと思います。もっとも、最上部の閣議が情勢分析を誤ったから日本帝国は滅亡したと言ってもいいわけで、そのように考えると、これら調査員の報告がどのように役に立ったのだろうかとため息をつきたくなってしまいます。また、調査員もなるべく楽観的、楽天的に報告書をまとめる傾向が強いように感じられ、そのような全体的、大局に対する甘さがどうしても目立ちます。当該の報告では各国による日本非難が影響を与えているとも指摘していますから、世界的に厳しい目で見られていたことは事実なわけで、そこを力で押し返そうとしたところに問題があったと言わざるを得ないのではと思えます。
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ナポレオン3世‐何かが足りなかった人

ナポレオン戦争が終わった後、ナポレオンの甥であったルイ・ナポレオンは長い亡命生活を強いられます。1830年の7月王政の時は、もしかするとフランスに帰国できるかとの期待も持ったようなのですが、新国王ルイ・フィリップはブルボン家の外戚みたいなものですから、ブルボン王朝の脅威になるかも知れないナポレオンの血筋が帰ってくることを赦しませんでした。そういう意味では、人生の前半はあまり恵まれたものとは言えないかも知れません。

1836年にはストラスブールで武装蜂起することを計画しますが、失敗し、内乱罪なわけですから死刑になってもおかしくはないですがアメリカへ追放されるというわりと穏便な処置で終わっています。アメリカで放蕩生活を送りますが、フランスへ密入国して再度の武装決起を図り、今度は逮捕されて牢獄につながれます。死刑になってもやはりおかしくないのですが、そのあたり、やはり運が味方したのかも知れません。彼が獄につながれている間に、彼のサンシモン的な思想に基づいて書かれた著作が巷間に流布するようになり、彼の知名度も上がり、支持者も増えていきます。皇帝という重しがある上での自由主義という論理の内容だったようですが、これが当時のルイ・フィリップ王政に疑問を持っていた人たちに影響を与え、ナポレオン時代は確かにフランスは強かったという夢の再現みたいなところもあって、そういう幻影みたいなものも彼を後押しする力になったようです。その後、彼は脱走しイギリスで時機を待ちます。相当な浪費家だったようですが、それでもどこからか金が入る上に、金がなくなったら庇護者も現れるという点で不思議な運命の持ち主であり、一回手相を見てみたいくらいです。

1848年、諸国民の春の第一歩となった2月革命でルイ・フィリップが失脚したことで、ルイ・ナポレオンは遂に帰国を果たし議員選挙に当選して、次いで大統領に当選します。著作のおかげで知名度も高く、ナポレオンお血筋ということですから得票率も上々で、国民的人気は相当に高かったのでしょう、大統領任期中には反対派に対する血の粛清も行っていますが、それでも世襲制である皇帝に民主的な選挙で選ばれます。フランス第二帝政の始まりで、そりゃあもちろん、選挙を有利に運ぶために言論に圧力をかけたりするなど小細工はいろいろとなされたであろうことは想像に難くはありませんが、袁世凱のようなやらせ丸出しというわけでもなくて、それなりの国民的はある程度確かにあった上での皇帝即位だったは言えるのではないかと思います。

彼は内政面ではサンシモン的な傾向の強い政策を採用し、その肝となるのは自由放任、レッセフェールなのですが、これがなかなかに上手く循環に入り、レッセフェールうまくいくときとそうでないときがあると私は思うのですが、この時はうまくいったらしく経済政策面ではそれなりの成功を収めます。また、パリ市の改造に着手し、現在の花の都パリの景観はナポレオン3世の時代にデザインされたものです。そういう意味ではそこそこのレガシーを残したと言えるのかも知れません。

しかしながら、外交では必ずしも大きな成果を残したとも言い難し…という面があります。当時のヨーロッパの王侯貴族からはしょせんは成り上がりものという目で見られてあまり相手にされていなかったらしく、メキシコ遠征の際にはオーストリア皇帝の弟にメキシコ皇帝に即位するよう頼み込み、メキシコ皇帝マクミミリアン1世に即位させますが、アメリカは独立戦争以来ヨーロッパ政治が新大陸に介入することを極度に嫌っており、アメリカの圧力とメキシコ国内の反発にたじろいだフランス軍は撤退し、マクミリアンは取り残されて銃殺刑にされてしまいます。フランス国民にとってはどうということはないかも知れませんが、ヨーロッパ王侯社会でのナポレオン3世の信用はがた落ちであり、マクシミリアン1世を連れて帰ってきたならまだしも、放置して死なせたわけですから、もともとのいい加減な性格でボロが出たと言えなくもなさそうです。ハプスブルク家はフランスには何度も煮え湯を飲まされていますから、マリー・アントワネットの次はマクミリアンか…と更に恨みを深くしたのではないかとも思えます。

フランス植民地帝国の建設に意欲的であり、ルイ・フィリップの時代に植民地化されたアルジェリアのみならず後にフレンチアフリカを呼ばれる広大な地域を植民地にします。また、東アジアではベトナムの阮王朝を屈服させその植民地化に先鞭をつけます。フランス領インドシナが形成されていき、マルグリット・デュラスの『愛人‐ラ・マン』の舞台になっていくわけです。英仏は競い合うようにして海外領土を広げていきますが、イギリスと競り合うとだいたいフランスが負けており、幕末日本はイギリスが支持する薩長連合とフランスが支持する徳川慶喜との間で英仏代理戦争になっていきますが、そこでも敗退しており、清仏戦争でもフランス軍だけが全滅しかけていますから、やっぱりちょっと何かが足りない、何かに欠けている、やろうとしていることに対して器が足りないという感想を持たないわけにはいきません。

ナポレオン3世失脚の決定打となったのは普仏戦争で、プロイセンのビスマルクはやる気まんまん挑発的な態度にびしびしと出てきており、一方でフランスはメキシコやインドシナのことで疲れ切っており戦争をやったら絶対敗けると分かりつつ、挑発されても反撃しなければ国民世論が納得しないという板挟みになってしまい、彼はついにプロイセンとの戦争を始めます。数と装備の双方の点で有利なプロイセン軍がフランス軍を圧倒し、ナポレオン3世は包囲されて孤立し、とうとう捕虜になってしまいます。彼の妻は「もし夫が敗戦して帰ってくれば皇帝制度は廃止になるが、もし戦死したならば息子がナポレオン4世としてその治世を受け継ぐ」と考えいたらしく、ぱーっと散って来てくださいみたいな内容の手紙も送ったようですが、ナポレオン3世はプロイセンの捕虜となることを選び、パリ・コミューンも経てに第二帝政は崩壊します。

晩年の彼はイギリスで生活し、それなりに不自由なく暮らしたと言われています。息子のナポレオン4世はイギリス軍人とアフリカに行って戦死しており、それで系統は絶えたとも言われますが、傍系の子孫の人が今もナポレオン家を継承しておりフランスきって名門として現代に至っているそうです。

ナポレオン3世はフリーメイソンのメンバーだったそうですが、もしナポレオン3世の皇帝専制的民主主義もフリーメイソンの「陰謀」だったとすれば、ナポレオン3世の件については失敗したとも言えるわけでも、フリーメイソンの陰謀万能説への反論材料になる気がしなくもありません。