「長い18世紀」とはどのような時代だったのでしょうか?

17世紀の終わりごろ、イギリスで革命的王朝交代があり、これが名誉革命と呼ばれます。あの国は何百年もかけて革命していたようなところがあるわけですが、国王の権利を議会へと移譲していくという流れの中で、大きな節目になったのが名誉革命なわけですね。

で、19世紀のはじめごろ、ナポレオンの失脚があり、長いフランスの革命と大動乱が一旦落ち着きます。

このように、18世紀のちょっと前の時期からちょっと後の時期までの100数十年を長い18世紀と呼び、その期間の特徴としては、

①イギリスが立憲主義国家になった。(名誉革命の後、権利章典が採用され、イギリスは不文憲法の国王は君臨すれども統治せずの国へと変貌していった)

②そのイギリスが国力をつけ、フランスに対抗するようになっていった。

③今度はフランスで大革命が起きた。

④最終的にナポレオンが失脚し、先に革命に成功していたイギリスが勝利した。

という流れになりますから、西欧でのパラダイムシフトが起きた時代であると言えると思います。19世紀は近代の始まりという非常に特殊な時代でしたが、近代の重要な要素の一つである民主主義を育んだ長い18世紀はその準備期間であったと言えるのではないかと思います。



あなたの思う、世界史で一番面白い時代はいつですか?

18世紀の終わりごろから19世紀の初期あたりは近代の始まりであり、現代に生きる我々の生活や価値観と直接つながってきますので、大変に興味深いと思います。1776年、アメリカ合衆国が独立しますが、この時、フランスのブルボン王朝はイギリスに対する嫌がらせのためにアメリカに肩入れしていたわけですね。で、そのブルボン王朝は無謀な戦争をやり続けたおかげで財政破綻し、1789年にフランス革命が起き、ルイ16世とマリーアントワネットが断頭台に消えるというショッキングな事件も起きましたが、これが立憲主義・三権分立・共和制などの近代国家誕生の礎にもなったわけです。フランスはその後、独裁政権が生まれたり王政復古したり紆余曲折しますが、その紆余曲折そのものが近代的政体を模索する正解なき旅路みたいなところもあったわけです。で、その後、ナポレオンの時代が来ますけれども、ナポレオンが最も大きな影響を世界史に与えたできごとは神聖ローマ帝国の解体であったのではないかと私は思います。当時既に形骸化の感の強い神聖ローマ帝国ではありましたが、中世的なローマ教皇と神聖ローマ皇帝の二重権力によるヨーロッパ秩序の維持・支配というものが、完全に終わったことをナポレオンは分かりやすく世の中に示したわけですね。そのインパクトは強く、ベートーベンは『英雄』をコンポーズするくらいに新時代にかぶれることになりましたし、フィヒテは危機感を抱いて演説して歩くことにもなったわけです。ヘーゲルのような哲学者は、なぜナポレオンという、これまでとは全く違ったタイプの政治家・支配者がこの世に登場したのかという疑問を説明する必要を感じて歴史哲学を発展させていくことになります。つまりナポレオンはフランス人で、フランスを変えたはずですが、実はドイツ語圏に多大な影響を与えたわけですね。ナポレオンは同じことをロシアでやろうとして自滅していくことにもなっていきました。私はアドルフヒトラーが同時代のドイツ人に強く支持された理由の一つとして、彼らの記憶の奥深くにナポレオンが生き続け、語り継がれたからではないかという気がしてなりません。歴史には時々英雄が生まれ、歴史そのものを次の段階へ強引に移行させることがある。前回はナポレオンだった。そして今回はアドルフヒトラーなのだと彼らは錯覚してしまったのではないかという気がするのです(アドルフヒトラーの登場は、「面白い」ことでは全くありませんが、考察し続けなければならないという考えから言及しました)。吉田松陰も影響を受け、日本からナポレオンが生まれることを求めました。清朝でも梁啓超が中国人のナポレオンが生まれなくてはならないと主張する文章を書いています。

というような感じで、大変に興味が尽きません。



世界の標準語として使われる英語は、イギリス(英国)由来であると思いますが、フランス語やドイツ語、ポルトガル語ではなく、英語が覇権を握った理由はなんでしょうか?

「世界の標準語として使われる英語は、イギリス(英国)由来であると思いますが、フランス語やドイツ語、ポルトガル語ではなく、英語が覇権を握った理由はなんでしょうか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

19世紀に覇権を握ったのはイギリスで、20世紀に覇権を握ったのはアメリカでした。2世紀にわたり英語圏の国が覇権を握ったのですから、英語が世界の標準言語として認識されるようになったとしても、不思議に思うようなことではありません。

以下、余談です。

フランスは確かに19世紀にイギリスと世界の覇権を争いましたが、アフリカでの戦いに敗れ、インドでの戦いにも敗れています。日本では薩長の背後にイギリスがつき、幕府の背後にフランスがついたため、幕末の動乱は英仏代理戦争みたいになっていたのですが、これも薩長勝利で要するにイギリス勝利ということですから、フランスはイギリスと対立すると基本負けています。フランスは結構弱くて、清仏戦争でも負けかけていて、包囲され全滅しそうになったこともあったようです。

ドイツ語についてですが、ハプスブルク家が神聖ローマ帝国とか、オーストリア帝国みたいな中央ヨーロッパの覇権を獲っていましたから、いろいろなことがうまく回っていれば、かなりのところまで行った可能性はありそうに思います。とはいえ大航海時代には乗り遅れ、産業革命でも乗り遅れてますから、どうしても2番手3番手のイメージが拭えませんし、フランス革命以降の歴史を見ると、神聖ローマ帝国はナポレオンによって解体されましたし、オーストリア帝国も第一次世界大戦の結果消滅。ドイツ帝国も同様に消滅しましたから、やはり国際政治で敗れたからドイツ語はそこまでパワーを持っていないという理解でいいのではないかなと思います。神聖ローマ帝国がローマ教皇とタッグを組んでヨーロッパを支配するという構造が続いたのですが、それがかえってあだとなってしまい、ナポレオンみたいな急進的な人物に狙い撃ちにされたという感がなくもありません。第一次世界大戦のときはウイリヘルム二世のようなボンクラが皇帝だったというのも運が悪いです。

ポルトガルですけれど、やっぱりナポレオンに引っ掻き回されて、王国としての実体が失われ、イギリスの好きなようにできる土地になったみたいなところがあるみたいです。今でも密かにポルトガルはイギリスの傀儡国家みたいな言い方がされる時があるみたいですが、現状もそうなのかどうかは分かりませんけれど。



ナポレオンとフリーメイソンと江戸幕府

19世紀に入り、ヨーロッパ勢力が様々な形で東洋に影響力をおよぼすようになったころ、東洋人に特別なインパクトを与えたのが、やはり近代史で最も有名なヨーロッパ人と言えるナポレオンでした。ここでは1つの具体的な実利に関係した例を取り上げ、更に思想面での影響まで見ていきたいと思います。

実利に関係した例というのは1808年に起きたフェートン号事件のことです。イギリスの軍艦であるフェートン号が日本の長崎港に現れてオランダ人商館員を誘拐し、水と食料をせしめて帰っていったというのがフェートン号事件なのですが、なぜそんなことになったのか、ナポレオン戦争と関連して非常に複雑な動きがあったからで、それは風が吹けば桶屋が儲かる式に起きたできごとでした。

ナポレオンはヨーロッパ全域へとその影響力をおよぼす地域を広げていきましたが、そのようにしてナポレオンに飲み込まれた地域にオランダがありました。ナポレオンがやってくる前、オランダにはハプスブルク家より任命された総督が支配者として世襲しており、ウイレム5世がその最後の総督なのですが、彼はナポレオンに追われてイギリスに亡命し、ナポレオンの弟がオランダ国王になります。これはナポレオンが単にオランダというヨーロッパの一地域を手に入れたということだけを示すものではありませんでした。オランダの植民地もナポレオンの支配下に入ったことを意味したわけです。

ウイレム5世は亡命先のイギリスに、植民地がナポレオンにとられてしまわないよう、なんとかしてほしいと依頼します。イギリスからすれば棚からたなぼたです。ナポレオンが奪ったオランダの植民地を横取りするチャンスですから、大いに張り切り、で、日本の長崎の出島もオランダの植民地であると見なしてフェートン号を派遣してきたというわけです。

そういうわけで、フェートン号は国際社会の正義とか大義とかはあんまり関係なく、ウイレム5世の依頼を大義名分に好き放題やろうというわけですから、入港するときはオランダ国旗を掲げており、出迎えのために船に乗り込んだオランダ商館員を人質にして、水と食料を要求し、ある程度要求を満たしたら帰っていきました。

このとき、仮にも長崎は日本の主権の及ぶ範囲であり、徳川幕府の直轄地でもあるわけですから、長崎奉行と近隣諸藩はフェートン号焼き討ちの検討にも入ったのですが、実行する前に帰って行ったので、そういう事態には至りませんでした。焼き討ちしたらこんどはもっと大きなイギリス艦隊が報復という名目でさらなる海賊行為をしたに違いありませんから、難しいところではあったと思います。とはいえ、まだそこまでイギリスは強くなってなかった時代のことですから、返り討ちにできた可能性は充分にあったとも思いますけれど。

要するにフェートン号事件とはナポレオン戦争の余波を受けて、もともと海賊行為大好きなイギリス海軍が日本で乱暴狼藉を働いたという事件なわけですが、ナポレオンが世界に広げた波紋の大きさには刮目せざるを得ない面があるように思えます。

幕末、吉田松陰はナポレオンについて関心を持ち、日本でもナポレオンみたいな人間が登場して列強の干渉を排除しなければならないと考えていたようです。ナポレオンをヨーロッパからの干渉の象徴として見るのではなく、模範とすべき存在として見たところに吉田松陰の視野の広さを感じさせます。フランスもフランス革命後、ハプスブルク家とか、イギリスとかからさんざん干渉されたわけですが、それをナポレオン押し返しただけでなく、ハプスブルク家のヨーロッパ支配の象徴である神聖ローマ帝国を消滅させたわけで、ハプスブルク家は返り討ちに遭ったとも言えますから、そういうのがかっこいいと吉田松陰は思ったのかも知れませんね。

ちなみに、もう少し後の時代になると、中国の梁啓超という人が、やはり中国にもナポレオンが必要だというようなことを書き残しています。東洋の知識人はナポレオンがどれほど凄いかということに随分を影響を受けたようです。ナポレオンはコルシカ島出身の平民だったわけですが、フランスの皇帝になったというわけで、そういう出世の仕方にも吉田松陰や梁啓超は感銘を受けたのかもしれません。日本で言えば、佐渡島出身の身分の低い武士が将軍になるようなものですから、豊臣秀吉みたいな話になっちゃいますよね。

ナポレオンはフランス民法の整備もして、これをナポレオン法典とも呼びますが、フランスの三権分立とか、今述べたナポレオン法典とかを勉強して帰ってきた人物が西周です。彼は徳川慶喜のブレーンとして活躍しましたが、日本をフランスみたいな国にするということで慶喜と西周は一致していたようです。

西周は日本で最初のフリーメイソンのメンバーになったことでも知られていますが、ナポレオンもフリーメイソンのメンバーだったわけで、ナポレオンはフリーメイソンの理念の輸出も、その戦争目的の一つに据えていたはずです。そういったことを西周は知っていて、それを日本にも輸入しようとしたっぽいですね。徳川慶喜は戊辰戦争の時に西郷隆盛に殺されかけたのをイギリス公使パークスが間に入って命拾いしていますが、このあたりにはフリーメイソンらしい近代国際法順守の精神も見られるように思えますから、おそらく、完全に想像ですけど、徳川慶喜もフリーメイソンのメンバーだったのではないでしょうか。



近代を構成する諸要素と日本

ここでは、近代とは何かについて考え、日本の近代について話を進めたいと思います。近代という言葉の概念はあまりに漠然としており、その範囲も広いものですから、今回はその入り口の入り口、いわゆる序の口という感じになります。

近代はヨーロッパにその出発点を求めることができますが、人文科学の観点から言えばビザンツ帝国が滅亡した後に始まったルネッサンスにその起源を求めることができます。しかし、それによって社会が大きく変動したかと言えば、そのように簡単に論じることができませんので、もう少し絞り込んでみたいと思います。

ある人が私に近代とは何かというお話しをしてくれた際、近代はイギリスの産業革命とフランスの市民革命が車の両輪のようにして前進し発展したものだということをおっしゃっていました。これは大変わかりやすく、且つ本質を突いた見事な議論だと私は思いました。

以上述べましたことを日本に当てはめてみて、日本の近代はいつから出発したのかということについて考えてみたいと思います。一般に明治維新の1868年を日本の近代化の出発点のように語られることがありますが、私はそれはあまり正確ではないように思います。というのも、明治維新が始まる前から日本では近代化が始まっていたということができるからです。

例えば、イギリスの産業革命が起きる前提として資本の蓄積ということがありますが、日本の場合、江戸時代という二百年以上の平和な時代が続いたことで、経済発展が達成され資本主義的な発展が都市部で起きたということについて、異論のある人はいないのではないかと思います。東海道などのいわゆる五街道が整備され、現代風に言えば交通インフラが整備されていたということもできるのですが、北海道や沖縄まで海上交通が整い、物流・交易が盛んに行われていました。特に江戸時代後半は江戸の市民生活が発展し、浮世絵でもヨーロッパから輸入した材料を使って絵が描かれたということもあったようで、当時の日本の貿易収支は輸入超過の赤字だったようですが、輸入が多いということは内需が活発であったことを示しており、江戸時代の後半に於いては豊かな市民生活による経済発展があったと考えるのが妥当ではないかと思います。大坂も商売の都市、商都として発展しましたが、大坂の船場あたりの商人の子弟などは丁稚奉公という形で十代から外のお店で住み込みで働き、やがて商売を覚え、独立していくというライフスタイルが確立されていたと言います。住み込みで働くことにより、勤勉さを覚えて真面目な商人へと育っていくわけですが、私はこのライフスタイルと勤勉であることを重視する倫理観について、マックスウェーバーが書いた【プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神】と同じ心理構造または行動パターンが生まれていたと考えてよいのではないかと思います。
さて、先ほども述べましたように江戸時代後半は江戸の市民文化が花開いたわけですが、経済的には一般の武士よりも成功した市民の方がより豊かな生活をしていました。興味深いのは、これは小林秀雄先生がお話しになっている音声を聞いて学んだことなのですが、当時のお金持ちはいろいろな遊びを経験して最後に辿り着くのが論語の勉強なのだそうです。つまり究極の道楽が勉強だというわけです。料亭のようなところでおいしいお料理とおいしいお酒を楽しんだ後で、論語の先生からお話しを聴いていたそうですが、このような文化的行動というのも、やがて維新後に起きる近代化に順応できる市民階層が江戸時代に形成されていたと言うことができるのではないかと思います。

さて、ここまでは経済のことをお話し申し上げましたが、次に政治についてお話ししたいと思います。江戸時代の武士は月に数日出仕する程度で仕事がほとんどなく、内職をするか勉強するか武術の稽古をするかというような日々を送っていたわけですが、結果として武士は知識教養階級として発展していくことになります。言い方を変えれば何も生産せずに、勉強だけしてほとんど役に立たないような人々になっていったということもできるのですが、彼らのような知識階級がしっかり形成されていたことにより、ヨーロッパから入って来る新しい知識を吸収して自分たちに合うように作り直すということができるようになっていたのではないかと私は思っております。

幕末に入りますと、吉田松陰がナポレオンのような人物が日本から登場することを切望していたそうです。中国の知識人である梁啓超もナポレオンのような人物が中国から登場しなければならないと書いているのを読んだことがありますが、ナポレオンは東洋の知識人にとってある種のお手本のように見えたのではないかと思えます。ナポレオンは人生の前半に於いては豊臣秀吉のような目覚ましい出世を果たし、ヨーロッパ各地へと勢力を広げて結果としてフランス革命の精神をヨーロッパ全域に輸出していくことになりました。ベートーベンがナポレオンに深い感銘を受け、【英雄】と題する交響曲を制作しましたが、後にナポレオンが皇帝に即位するという形で市民革命の精神を覆してしまうということがあり、大変に残念がったという話が伝わっています。

日本に話を戻しますが、幕末では日本の知識階級はナポレオンという人物のことも知っていたし、フランス革命や民主主義の概念のようなものもその存在が知られていたわけです。横井小楠や西周のような人が日本にもデモクラシーや立憲主義、三権分立のような制度を採り入れればいいのではないか、ヨーロッパの近代文明が成功している理由は封建制度から抜け出した市民社会の形成にあるのではないかというようなことを考えるようになったわけです。ですので、横井小楠が江戸幕府の政治総裁職を務めた松平春嶽のブレインであり、西周が最後の将軍の徳川慶喜のブレインであったことを考えますと、明治維新を達成した側よりも、明治維新で敗れた側の江戸幕府の方に政治的な近代化を志向する萌芽のようなものが生まれていたのではないかという気がします。徳川慶喜という人物の性格がやや特殊であったために、徳川を中心とした近代化は頓挫してしまいますが、あまり急激な変化を好まない徳川幕府を中心とした近代化が行われた場合、或いは帝国主義を伴わない穏やかな近代化もあり得たのではないかと私は思います。もっとも仮定の話ですので、ここは想像や推測のようなものでしかありません。

いずれにせよ、幕末期に政治権力を持つ人たちの中で、徳川慶喜、松平春嶽のような人は近代的な陸海軍の形成にも力を入れていましたし、立憲主義の可能性も模索した形跡がありますので、日本の近代化は明治維新よりも前に始まっていたと見るのがより実態に近いのではないかと言えると思います。








これは何度も練習した後で録画したファイナルカットです

こっちは何度もかみまくったので、「ボツ」なのですが、
思い出のために残しておきたいと思います。

イタリア詩人、ジャコモ・レオパルディの近代

19世紀イタリアにジャコモ・レオパルディなる詩人が存在したことについて、東洋人の我々の中で知っている人はほとんど居ないだろう。私も最近になって知ったのである。イタリア語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語に通じていた彼はそれら古典の教養を存分に生かしながら、新しい時代のための詩を書いた人物であるらしい。その作風は悲観的だが、ある程度無視論的な響きを持ち、それだけある程度自由主義的な響きを持っていたそうだ。当然、ナポレオン戦争と関係があるし、長い目で見れば社会主義とも関係があると言えるだろう。

ナポレオン戦争に影響を受けた芸術家として個人的にぱっと思い当たるのはベートーベンだ。第九交響曲の『歓喜の歌』は王侯貴族のためではなく一般のドイツ人のために書かれたもので歌詞もイタリア語ではなくドイツ語で書かれている。ちょっと前の世代のモーツアルトがドイツ語で戯曲を書くことについては相当揉めたらしいのだが、ベートーベンがドイツ語の楽曲を作るということで揉めた話というのは聞いたことがない。もしかするとちょっとはあったのかも知れないが、ベートーベンのドイツ語歌曲はわりとすんなりと受け入れられた。

モーツアルトとベートーベンの違いは生まれた時代の違いに拠る。モーツアルトはフランス革命とナポレオン戦争の最中に活躍したが、ベートーベンの時代にはナポレオン戦争は一応だいたい終わっていて、タレーランが戦争に敗けても外交で勝つという巧みな政治活動を行った時期と大体重なる。

さて、ベートーベンはともかく、レオパルディである。レオパルディは神なき時代の救いなき悲観主義を描いたらしいのだが、もう一つ重要な点として国民を描こうとしたという点は見落とされるべきではない。ナポレオン戦争は各地で国民意識を覚醒させるという効果をもたらした。フランス軍はもちろん自由平等博愛の普遍的理念で押しまくったわけだが、たとえばドイツのフィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』という演説で民族主義を説いて歩いたように、ナポレオンに対する反作用としてヨーロッパ各地で民族と国家というものが強く認識された時代でもある。

ここで注意しなければいけないのは王侯による支配と国民国家は全く別のものであるということだ。たとえばドイツ語圏で乱立した王侯国家は国王の私有物であり、軍は国王の私有財産によって傭兵が雇われて機能した。それに対して国民国家では、国民はその国の人間だというだけで国家の戦争に対して責任を負う。21世紀の現代人の我々にとって、それは必ずしも正しいこととは言えなくなっているが、当時は王侯貴族の支配から脱却し、国民または市民による共和政治の理想がヨーロッパ社会に広がり、その旗頭がナポレオンだった。

レオパルディはそのような時代の空気を思いっきり感じて生きたイタリア人詩人であったため、国民という言葉にロマンを与えたと言われている。レオパルディ流の国民国家という近代との接点であると言えるだろう。私はイタリア語もラテン語もギリシャ語もできないので、一般的な解説に+して私の個人的な見解を述べることしかできないのだが、ナポレオン戦争を境にロマン主義的国家主義がヨーロッパに広がったことは事実であり、レオパルディはその新しい思潮を胸いっぱいに吸い込んだに違いないことは想像できる。彼は古典的なローマカトリックや王侯支配に対するアンチテーゼとして「国民」を重視し、国民を中心とした社会づくりを夢見た。残念なことに30代半ばで病死してしまったため、彼は国民という概念の行くつく先に普仏戦争が起きたことを見ることはできなかったし、それがエスカレートした結果としての第一次世界大戦を見ることもなかった。古典的な支配体制を崩すために国民という概念を創造することに彼は役立ったかも知れないが、その結果を見ることはなかったことが良かったのか悪かったのか。

ただ、彼個人は潔癖で真面目で勤勉で生き方ば不器用だったらしい。ちょっと私に似ている。どこが似ているのかというと、勤勉であるにもかかわらず、それがすぐにお金に直結しないところである。お金に関するセンスさえあれば、レオパルディも私も勤勉にお金を儲けていたのではないかと思わなくもない。フランスのロートレックみたいに…一応付け足すが、ゴーギャンは遊びたいだけなので、勤勉でもなければお金のセンスも持ち合わせていない。ただの付言になってしまいましたが….あ、ゴッホもか…



ナポレオン戦争‐旧秩序の破壊者

フランス革命が発生した後、国政の実権はロベスピエールたちジャコバン派が政権を握ります。彼らがルイ16世を処刑した後、ヨーロッパ諸国が対フランス大同盟を組み、フランス包囲網が作られます。周辺諸国は当時はまだ君主制が普通ですから、フランス型共和制の理念が自国に及ぶことに強い懸念を持っていたはずですし、国王処刑というショッキングなできごとに対する人間的な怒りというものも感じていたかも知れません。このような国難に対し、ロベスピエールは粛清に次ぐ粛清ということで国内を引き締めることで対応しようとしますが、嫌疑があればすぐ断頭台という恐怖政治の手口は結果的には多くの政敵を作ることになり、彼は議会から追放され、市役所に逃げ込むも議会が「ロベスピエールに味方する者は法の保護を受けることはできない」と宣言したことで周囲から人が離れてゆき、ロベスピエールは自殺しようとするものの失敗してしまい、翌日には断頭台へと送られます。テルミドールのクーデターと呼ばれる事件です。ロベスピエール派たちが最後の晩餐をした場所が残っていますが、そこはマリーアントワネットが最後の日々を過ごしたのと同じ場所で、盛者必衰、諸行無常を感じざるを得ません。この時、一軍人だったナポレオンはロベスピエールのオーギュスタンと親交があることが危険視され、予備役編入されてしまいます。

ロベスピエール派を粛清した国民公会は絶対に自分たちが選挙に負けない法律を成立させたが、当時は国民公会の人気がなく、王党派も多く残っていたために暴動が起きます。ヴァンデミエールの反乱と言います。国民公会がナポレオンを起用したところ、散弾の大砲で王党派を蹴散らしてしまい、このことでナポレオンは再び表舞台に登場することになります。市民に向けて殺傷力の強い散弾の大砲を使うわけですから、そんじょそこらの人物とは訳が違います。勝てる方法が分かっているのなら、それをやるという、彼の単純かつ明快な論理がそこにあったのではないかと思います。

ロベスピエールが死のうと生きようと、フランスに対する外国からの脅威は消えていません。得に、マリーアントワネットの実家のハプスブルク家のオーストリアはかなりの敵意を燃やしています。国民公会はドイツとイタリアの方面に軍を送ってオーストリアを包囲する戦略をとりますが、ドイツ方面では苦戦したのに対し、イタリア方面の指揮を任されたナポレオンは連戦連勝で単独で講和まで勝ち取り、ここに第一次フランス包囲網は崩壊することになります。外交までやってしまうところに「躊躇しない」という彼の性格が良く出ているように思えます。

しかし、当時、イギリスが強敵としてまだ立ちはだかっていたのですが、ナポレオンはイギリス優位の理由をインドの領有にあると見て、中継点になっていたエジプト征服戦争に出かけます。実は戦争でナポレオンは苦戦を強いられ、兵を見捨てて徳川慶喜ばりに側近だけを連れて脱出し、フランスへ帰還します。そしてブリュメールのクーデターを起こし、フランス政治の実権を握るわけです。帰還したナポレオンは国民から歓喜で迎えられたと言われていますが、残された兵たちが帰還してくればナポレオンの敵前逃亡がばれてしまうため、その前に手を打ったと思えなくもありません。

国際社会は再びフランス包囲の大同盟を組んでフランスを圧迫しようとしますが、ナポレオンがオーストリア軍に大勝利し、あっけなくこの大同盟は瓦解します。1804年、ナポレオンはなんと国民投票によって皇帝に選ばれ、しかもそれはナポレオンの子孫が皇帝の地位を世襲するという内容のもので、そんなことが投票によって可能になるとは目に見えない力がナポレオンを後押ししていたのではないか、神が彼に肩入れしていたのではないかとすら思えてきます。

当時、イギリスとオーストリアが気脈を通じ合っており、またしてもフランス包囲網が形成されます。ナポレオンはオーストリア及び
神聖ローマ帝国連合を東正面に、西正面には大英帝国という難しい局面に於かれた上、イギリス上陸を目指して行われたトラファルガーの戦いではイギリスのネルソンの艦隊にフランス艦隊が破られるという大きい失点をしてしまいます。反対に、東正面ではアウステルリッツの戦いで、神聖ローマ帝国及びロシア皇帝の同盟軍を破り、神聖ローマ帝国は解散・消滅の運命を辿ることになりました。フランスにとってはハプスブルクこそ主敵であり、ハプスブルクの権威の象徴である神聖ローマ皇帝を消滅させたことは、かなり大きな意味を持ったかも知れません。

ナポレオンはブルボン王朝の人間をスペイン王から外し、弟をオランダ王に即位させ(フェートン号事件の要因になった)、ベルリンまで兵を送りプロイセン王は更に東へ脱出し、ナポレオンはヨーロッパ内陸部の主要な地域をその支配下に置きます。スペインにはブルボン朝の王がいましたが、それも自分の兄に交代させています。ナポレオン大帝国の完成です。ナポレオンはイギリスを主敵とするようになり、トラファルガーの戦いの怨念もありますから、大陸封鎖令を出してイギリスに商品が入らないように工作し始めます。島国イギリスを兵糧攻めにするというわけですが、ロシア帝国はイギリスへの小麦の輸出は経済的に是非とも続けたいことであり、ナポレオンにばれないようにイギリスへの輸出を続けます。これを知ったナポレオンがロシア遠征を決意し、ここが運命の別れ道となってしまいます。

ナポレオン軍はモスクワ占領までは漕ぎつけますが、ロシア側は焦土作戦で対抗します。こういう場合は持ってる土地が広い方が有利です。ロシア政府政府からの講和の要請は待てど暮らせど届きません。トルストイの『戦争と平和』でも見せ場と言っていい場面です。広大なロシアを延々と東征することは現実問題として不可能であり、しかも冬が到来すればフランス兵がバタバタと死んでいくことは明白で、ナポレオンは冬の到来の直前に撤退を決意しますが、撤退戦は戦いの中でも特に危険なもので、コサック兵の追撃を受ける破目になり、出征時60万人いたナポレオン軍の兵士で帰還できたのは僅かに5000人だったと言います。ほぼ完全に全滅、太平洋戦争のレイテ戦以上に酷い有様となってしまったと言えます。

新たなフランス大同盟が迫り、遂にパリは陥落し、フォンテーヌブローでナポレオンは退位させられます。彼は地中海のエルバ島に追放され、国際社会はナポレオン後の秩序構築のためにウイーン会議を開き、タレーランが「ナポレオン以前の状態に戻ればいいじゃあありませんか、あっはっは」とルイ18世の王政復古を議題に上げ、フランスが敗戦国かどうかよく分からないようにしてしまい、「悪いのはナポレオンですよね」で乗り切ろうとします。

ところがナポレオンがエルバ島から脱出。パリに入って復位を宣言します。ヨーロッパ諸国はナポレオンの復位を認めず、フランスを袋のネズミにするように各地から進軍が始まり、有名なワーテルローの戦いでナポレオン軍はほぼ完全に破壊され、彼は海上からの脱出も図りますが、世界最強の英艦隊に封鎖され、遂に降伏。大西洋の絶海の孤島であるセント・ヘレナへ流されて、そこで側近たちとともに面白くもなんともない生活を送り最期を迎えます。晩年のナポレオンはあまりにもお腹がでっぱり過ぎていたことから肝硬変が腹水が溜まっていたのではないかとする病死説と、フランスに送り返されたナポレオンの遺体がまるで生きているかのような状態だったことから、ヒ素による毒殺説までいろいろあり、今となっては分かりません。ナポレオンの棺は今も保存されており、巨大な棺の中で彼は今も眠っているはずですが、敢えて蓋を開いて調べようとする人もいないようです。

そのような墓暴きみたいなことがされないのは、今も畏敬の念を持たれていることの証であるとも思えますし、ワーテルローで降伏した後、裁判にかけられて処刑されてもおかしくないのに、絶海の孤島に島流しで済んだというのはナポレオンの強運が普通ではないということの証明なのかも知れないとも思えます。

振り返ってみれば、ナポレオンは暴れるだけ暴れて、果たして何を残したのか…という疑問はありますが、神聖ローマ帝国の消滅は、ハプスブルク家の凋落を目に見える形で示したものであったとも言えますから、少し長い目で見れば、ヨーロッパ秩序を大きく変えたということは言えるように思います。秩序を破壊する人と新秩序を構築する人は別の人、というのが普通なのかも知れません。


トルストイ『戦争と平和』とナウシカ

トルストイの『戦争と平和』は、ナポレオン戦争を背景に、ロシアの貴族から農民に至るまでの幅広い人々の人生、愛、嫉妬、欲望、寛容、赦し、絶望と希望を描いた大作としてよく知られています。

ロシアがナポレオンとの講和要件を反故にしたことで、ナポレオンは大軍を擁してロシア域内に進軍しますが、補給が思うようにはかどらず、ナポレオン軍は次第に衰退していきます。ベルリン、ワルシャワ、モスクワあたりは何にもない大平原が延々と続くようなエリアで、馬で走れば結構早く移動できるらしいのですが、馬の速度に補給が追い付かず、モスクワを目指す征服者はどうしても補給で苦しむと言われています。ナポレオンしかり、アドルフヒトラーしかりといったところでしょうか。

ロシア軍が戦略的に撤退することで、ナポレオンはモスクワ入城を果たしますが、ロシア側の焦土作戦によりフランス軍は更に衰弱し、補給が届かないまま冬を迎えることを恐れたナポレオンは撤退します。これを境にナポレオンは転落への運命を辿っていくことになりますので、彼の人生を考えると、天才とは運であるとしみじみ思はざるを得ません。ナチスドイツの場合、モスクワ入城には届きませんでしたが、スターリングラード戦では、ドイツ軍はソ連軍の戦略的撤退に引き込まれるようにしてスターリングラード入城を果たし、包囲され、事実上の全滅へと追い込まれていきます。ロシアはその広大な領土が強みであり、ちょっとぐらい相手に譲っても、最終的にはへばらせて勝つという肉を切らせて骨を断つ戦略が可能な国であると言えます。

『戦争と平和』はこういう壮大なスケールの話に人間の心の機微を乗せるという神業をしているわけですが、この作品を読んで風の谷のナウシカを想起しないわけにはいきません。風の谷のナウシカの漫画版では、ナポレオン戦争よろしくトルメキア軍がドルク帝国域内に深く侵入し、聖都シュワを目指しますが、進軍する過程で激しく消耗し、兵隊の数はみるみる減っていきます。またドルク帝国側は蟲を用いた焦土作戦で国土を犠牲にしながら敵を消耗させるという、なかなかやぶれかぶれな戦略で対抗しますが、この構図はナポレオン戦争を想起しない方が無理と思えるほど酷似しているように思えます。もちろん宮崎駿さんのことですから、意図的に意識してそうしているに違いありません。

戦場で無償の愛の行為を実践し、悩み傷つくナウシカの姿に大きな感動を得る人は多いと思いますが、漫画版ナウシカもトルストイなみにスケールの大きな話と人の心の機微、生きる意味、死ぬ意味、幸せとは何かみたいなことをいろいろと考えさせてくれますので、21世紀に生きる我々は、幸いに両方読むことができますから、是非、現代人両方読むべきなどと思ってしまいます。

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クシャナの後ろ姿

ヘーゲル‐かくして自由と理想は達成される

ヘーゲルは弁証法によってより高次の理想が達成されると考えました。即ちテーゼとアンチテーゼがぶつかり合ったとき、それを克服するための第三の道が見つけ出され、より高次のものへとつながっていくというわけです。このようにより高次のものへと上昇していくことをアウフヘーベンと呼び、テーゼとアンチテーゼがぶつかり合ったときにアウフヘーベンが起きると考えたわけです。

アウフヘーベンが起きた後、新しいテーゼ、ジンテーゼが生まれますが、やがてそのジンテーゼに対するアンチテーゼが登場し、ぶつかり合ってアウフヘーベンが起きます。それは人類の不断の営みと呼べるものですが、いずれはジンテーゼが限界に達します。それはアンチテーゼの生まれようのない理想的な世界であり、理想が達成された極相に到達したと考えることができます。

このようなテーゼとアンチテーゼのせめぎ合いで分かりやすいのは技術革新で、それこそAI開発の研究者や技術者たちはこの繰り返しをしているに違いないのですが、ヘーゲルの場合は、同じことが人類の歴史に於いても起きると考えました。

ヘーゲルは自由と善が達成された社会を理想としており、市民社会では自由はある程度達成されたと言えますが、各人が自己の欲求の追求に邁進するために必ずしも善が達成されるとは限りません。ヘーゲルはそのような状態で国家が善を達成すると考え、またそのように善を達成し得るものが国家として相応しいと考えました。

時代背景的にフランス革命からナポレオン戦争へと続くヨーロッパが壮大な転換点を迎えていたことと、ヘーゲルが以上のようなことを考えたことは当然に大きな相関関係があるように思えます。ヘーゲルはフランス革命が起きた時、友人と記念の植樹をして祝ったと言いますが、その後のナポレオンの姿を見て「世界精神が行く」と言ったとも言われています。即ち、ヘーゲルにとってフランス革命はテーゼとアンチテーゼのせめぎ合いの結果発生したアウフヘーベンであり、その後に登場したナポレオンはジンテーゼそのものであり、自由平等博愛を旨とするフランス革命がナポレオンに輸出されることは是であり、フランス革命的自由に彼は夢や理想を感じたに違いありません。アウフヘーベンが繰り返されればいずれは人間の歴史もその極相に達すると考えた背景には、稀に見る歴史的転換点に彼が触れることができたからなのかも知れません。

ヘーゲルの弁証法によって東西冷戦の終結を説明しようとしたのがフランシスフクヤマの『歴史の終わり』であるわけですが、ヘーゲル的な考え方によって全てが説明できるかどうか、何とも言い難いところは残ります。奢れる平家は久しからず、盛者必衰の理を表すとする東洋的な輪廻の世界観では、ヘーゲル的弁証法によってアウフヘーベンが極限まで達した結果、理想の世界が達成されるとする一直線且つ不可逆な世界観を受け入れることは容易なことではありません。実際、今の世界のいろいろな出来事には、東西冷戦時代の方がまだ整然としていてましだったのではないかと思えることも多いため、フランシスフクヤマの著作は少々勇み足であったのではないかとも思えます。

世界が不可逆の方向へ進むという思想はヘーゲルしかり、マルクスしかりですが、マルクスの対極にあるはずのキリスト教でもそうであり、やはりヨーロッパに伝統的に続いている、いずれ世界は終わるという思想と無関係には理解できないのかも知れません。

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ナポレオン戦争とフェートン号事件

長崎の出島にイギリス船籍の軍艦が入港し、オランダ人商館員を一時拘束するという前代未聞の事件が、江戸時代後期の1808年に起き、江戸幕府の関係者が右往左往するという事態に陥ります。

この事件はナポレオン戦争と直接絡んでおり、また、長崎の出島がヨーロッパ人の目からどう見えていたかということが分かるという意味でも興味深い出来事ではなかったかと思います。

フランス革命の後の1794年、フランスはネーデルランド連邦(オランダ)に侵攻し、同地ではフランスの衛星国のバタヴィア共和国が樹立されます。1798年に、フランスではナポレオンによるクーデターが決行され、ナポレオンは統領政府を樹立し、第一統領(または第一コンスルとも)に就任します。コンスルとは古代の共和制ローマの執政官のことで、ナポレオンが古代ローマを強く意識していたことが分かります。

1804年にナポレオンは自身がフランス皇帝であると宣言し、続く1806年にはバタヴィア共和国を廃止して同地にホラント(オランダ)王国を樹立して弟のルイ・ボナパルトを国王に即位させます。

この時点でオランダ本国及び世界中のオランダの植民地がナポレオンの影響下に入ったことになります。ネーデルランド連邦共和国の統領を世襲していたオラニエ=ナッサウ家のウイレム5世はイギリスに亡命し、海外のオランダ領がフランスに接収される前にイギリスの方で押さえてほしいと要請します。イギリスから見れば千載一遇のチャンスですので、おおいに乗り気で、世界再征服戦争のようなことが始まります。

日本との貿易を独占していたオランダ東インド会社は1794年に解散しており、当時の長崎の出島はほぼ孤立した状態に陥っていましたが、一応はオランダ国旗を掲げ、ナポレオンに屈従したわけではないということを示していました(当時の日本人にとってはおよそ感知しないことではありました)。

そしていよいよ、フェートン号事件が発生します。イギリス海軍のフェートン号が、ウイレム5世の依頼というこれ以上ないくらいまっとうな大義名分で長崎へ入港します。長崎の出島は日本の江戸幕府の視点からすれば、オランダ人を隔離・管理する目的で設置された場所ですが、ヨーロッパ人の目から見れば、オランダの海外領土という風に理解されていたことが分かります。

しかしその手口は、入港時、オランダ国旗を掲げて偽装し、2人のオランダ商館員が小舟で近づいてきたのを拘束するという荒っぽい方法で、フランスからの解放を大義名分としているにも関わらず、これでは解放者なのか侵略者なのかさっぱり分からんという展開になってしまっています。更に、オランダ商館員の返還を求めた長崎奉行所に対しては水、食料、燃料の提供を要求し、さもなくば長崎港に停泊中の船を焼き払うという脅迫を行います。これでは海賊と同じです。

当時、長崎港の警備は鍋島藩が担当していましたが天下泰平の世の中で「どうせ大したことは起きない」と高をくくっており、イギリス軍艦に対抗するだけの戦力がありません。長崎奉行は周辺の各藩に軍の出動を命じますが、それらの軍が到着する前に長崎奉行所が要求された品物を提供することで解決し、フェートン号はオランダ商館員を解放して悠々と引き揚げたのでした。

実際に人を拘束して脅迫したという意味では、ペリーの黒船来航以上にショッキングな事件で、ペリーがいかに紳士的であったかを理解できるとすら言えそうです。

このことで、鍋島藩は大いに面目が潰れましたが、教訓となり、鍋島藩はその後、いち早く産業の促進と軍備の増強に着手するようになり、逼迫する藩の財政に関しても思い切った構造改革を実施して、幕末にはやたらめったら強い藩に生まれ変わっていくことになります。



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