ドイツ語を修得すると、ドイツ人と会話できることを除いて、具体的にどのようなメリットがありますか?

ゲーテのようなドイツ文藝を直読みでき、ヘーゲルのようなドイツ哲学を直読みできるため、ナチスのプロパガンダを直読みすることにより彼らがいにしてドイツ人民をペテンにかけたのかを分析できるようになります。ナチスは頭の悪い大衆を騙したのではなく、優れたインテリを騙したのであり、博士号を持つゲッペルスか巧みにドイツの人文知識の伝統を利用したナチス宣伝を推し進めたのだということにも気付くことができるはずです。それはたとえば、ドイツはマルチンルターの宗教改革が始まった土地であり、皇帝や教皇、貴族の支配を受けない自由都市の気風を重んじる土地であり、要するに伝統を打破することを良しとする伝統があると言えるようなことろがあって、だからこそ、リーフェンシュタールの意志の勝利というタームがウケたりしたというようなことです。



シンデレラはパーティーでどんな踊りを踊ったのですか?やっぱりワルツですか?

「シンデレラはパーティーでどんな踊りを踊ったのですか?やっぱりワルツですか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

思考実験的に述べます。シンデレラという物語の起源ははっきりしないため、分からないとしか言いようがありません。しかし、我々が知るシンデレラはグリム兄弟が整理してまとめたものあり、グリム兄弟がドイツの人だということを手掛かりに考えてみたのですが、ドイツ語圏で男女がともに躍る音楽にはレントラーとヴィエンナワルツがあるものの、グリム童話が成立した時期にはまだヴィエンナワルツは成立していません。とすれば、レントラー一択になります。レントラーは4分の3拍子の素朴な音調のダンス音楽ですが、これをワルツの前身と見るか、ワルツの一種と見るかで結論は変わることでしょう。



映画の中のヒトラー

戦後映画で最もたくさん登場した人物の一人としてアドルフ・ヒトラーの名を挙げて異論のある人は少ないだろう。戦後、世界中の映画だけでなくドラマや漫画も含めれば、彼は無数に登場し、下記の直され、再生産あれ、時に印象の上塗りがなされ、時に犯罪性の再告発があり、時にイメージの修正が行われた。

彼を最もイメージ通りに再現し、かつそのイメージを強化する役割を果たしたのは、ソ連映画の『ヨーロッパの解放』(全三部)ではなかろうか。動き方、髪型、髭、声の感じ、狂気、死に方。全て我々にとってのヒトラーのイメージそのものである。特に死に方だが、振り返りたくなるほどとびきりの美しさを誇るエヴァ・ブラウンが嫌がっているにもかかわらず強引に口をこじ開けて青酸カリを押し込み、その後、なかなか勇気が振り絞れずに過去に愛した従妹の名を叫びつつこめかみの引き金を引くという流れは、エヴァ・ブラウンがヒトラーのことを命をかけてまで愛したいと実は思っていなかったにちがいなく、ヒトラーも彼女のことを愛してはおらず、ただ一人でも多く道連れにしてやろうと思ったに過ぎないというギスギスした相互不信によって塗り固められた愛情関係の存在が描かれている。見た人はいないわけで、本当にそうだったかどうかは分からないが、我々のイメージには合う。手塚治虫先生の『アドルフに告ぐ』の場合、実は第三者が忍び込んできて、せっかく名誉ある自決を選ぼうとしているのにそれだけはさせまいとヒトラーを殺害する。実際を見たわけではないので、そういう可能性がゼロではないということくらいしかできない。
ソ連映画の方が、最期の最後でヒトラーが英雄的自決という物語に浸り切れていたとは言えないのとは逆に、『アドルフに告ぐ』では英雄的自決という浪漫に浸ろうとしても浸らせてもらえなかったというあたりは面白い相違ではないだろうか。

だが以上の議論では実は重要な点を見落としてしまっている。ヒトラーが元気すぎるのだ。東部戦線がおもわしくなくなったころから、ヒトラーはパーキンソン病が進み、常に右手が震えており、老け込みが激しかったと言われている。ヒトラー最後の映像と言われている、彼が陥落直前のベルリンでヒトラーユーゲントを励ます場面では、それ以前の中年でまだまだ油がのっているヒトラーとは違い、老年期に入った表情になっている。絶対に勝てないということが分かり、一機に衰弱したものと察することもできるだろう。

で、それを作品に反映させているのが有名な『ヒトラー最期の12日間』である。手の震えを隠しきることすらできない老いたヒトラーは、ちょっとでもなんとかできないかと苦悩し、どうにもならないと分かると、無力感にひしがれつつ叫ぶ。憐れなヒットラー像である。この映画があまりにクオリティが高いため、その後のヒトラー物を作る際にはこの作品の影響が見られるのが常識になるのではないだろうか。以前のヒットラーは若々しすぎ、エネルギッシュ過ぎた。確かに政権を獲ったすぐのころなど、まだまだ元気で颯爽としていたに違いないが、晩年の彼には明らかな衰えが見られるのであるから、映画でベルリン陥落をやる際は、そこは留意されるべき点かも知れない。まあ、ベルリン陥落を映像化しようとするとやたらめったらと金がかかるはずなので、そんなにしょっちゅう映画化されるとも思えないが。

そのようにヒトラー象がいろいろある中、興味深かったのが『帰ってきたヒトラー』だ。激しい戦闘の結果、21世紀へとタイムスリップしてきたヒトラーは、人々の声をよく聞き、演説し、ドイツ人のプライドを大いにくすぐり熱狂的なファンが登場する。一方で、戦後ドイツではナチスの肯定はしてはならないことなので、激しい嫌悪を示す人もいる。だがこの映画で分かることは、ドイツ人は今でも本音ではいろいろ思っているということだ。敗戦国民なので言ってはいけないことがたくさんあるのだが、本心ではいろいろいいたい。ヒトラーのそっくりさん(という設定)が出てきて、「さあ、現代ドイツの不満を何でも述べなさい。私はドイツを愛している」みたいなことを言って歩くと、カメラの前でいろいろな人が政治に対する本音を話すのにわりと驚いてしまった。そして、ドイツ人の中には外国人には来てほしくないと思っている場合も多いということもよく分かった。編集次第なのかも知れないが、そういうことをカメラの前でヒトラーのそっくりさんと並んで話す人がいるというのも否定しがたい事実なのである。問題はヒトラー役の人物がやや体格が良すぎるし、若すぎるということかも知れない。しかも、なかなかいいやつっぽく見えてしまう。あれ?もしかして私も洗脳されてる?




『純粋芸術としての映画』の近代

いろいろな巡り合わせが重なり、珍しい本を手にすることになった。正確にはある人からある人へと私が本を届けに行く役目を負うことになり、役得としてその本を読むことができたのだ。本のタイトルは『純粋芸術としての映画』で、著者はフィヨドル・スチェパン。翻訳者は佐々木能理男となっている。この佐々木さんという人についてぐぐってみたところ、敗戦の前まではナチスに関連する文章を数多く翻訳した人ということらしいので、ドイツ語に堪能な人だったのだろう。また、戦後は不遇をかこつ日々を送ったようなのだが、それもやはりナチスに肩入れしてしまったのが仇になったのだろう。で、本の奥付を見ると昭和10年発行とあり、ナンバリングもされていた。私にこの本を渡した人によると、三百冊限定で印刷されたものだということだったので、ナンバーは三百のうち何番目に印刷したのかを示すのだろうと思う。シルクスクリーンにナンバリングしてあるのと同じような感じと言っていいかも知れない。

で、この本の内容なのだが、忘れないうちにここに書いてしまっておきたい。要点としては映画と演劇は似て非なるものであり、映画と現実も似て非なるものだ(要するに写実的とかそんなものはない)ということらしい。特に映画と演劇の違いについては念入りに議論されていて、演劇の場合は生きている人間が舞台で演じるため、そこには観客と演者が共有する空間が生まれる。そして観客は演者の動きや台詞によって喜怒哀楽を疑似体験するのだが、映画はそういうものではない。映画を演劇の延長線上のように考え、演劇が物語を見せるように、映画で演劇のような物語を見せると思って映画を理解することはできない。と主張されていた。なぜなら、映画の本質はモンタージュだからだ。

一応、モンタージュとは何かを簡単に定義しておきたいが、分かりやすく簡潔に言うとすれば切ったり貼ったりする編集のことだ。編集と言えば話しは早いがカタカナにしなくては気が済まない人はいるものだ。

で、本に戻るが映画はモンタージュするのが醍醐味なので何かを物語るということとは本質的に合致しないということらしい。これは映画と演劇の闘争であるとすら述べられていて、そこまで違った性質を持つ芸術行為なのなら闘争する必要はないとも思えるが、とにかく闘争らしい。トーキー映画が生まれる前、映画は動く写真で全てを表現していた。いい作品はモンタージュの勝利なのであり、代表的な勝利者がチャップリンということにされている。一応、私は反論したくなってしまったので、ここでちょっと反論するが、チャップリンも『独裁者』からトーキーを始めていて、その後の作品もトーキーだ。トーキーじゃない有名な作品としてふと頭に思い浮かぶのはドイツ表現主義の『カリガリ博士』だが、ところどころに台詞を書いたカットが入っているのでやっぱりトーキーの方が便利なのではないかと思えてしまった。ついでに言うともう少し後のドイツ表現主義映画で『M』という有名な作品があるが、これはトーキーのはしりみたいな作品なので、やっぱりみんな動く写真というより喋る映画の方が好きなのではないかともふと思えてしまったのである。とはいえ、この本では動く写真なので、リズムだけが問題なのであり、なぜここまでリズムを問題にするのかと言うと、近代人の生活は仕事も余暇も機会とともにリズミカルにこなせるように仕組みができあがっているので、映画という新しい芸術が物語という文脈を無視してリズムのみに注力するのも言うなれば必然、くらいの勢いで書かれてあった。

で、人間の現実とも映画は全く関係ないのだと同書は主張する。人間が人間らしく動くのを写すのはちっとも映画という芸術の主旨にあっておらず、その先を行く何かをモンタージュするのが映画だということになるらしい。

私は映画理論については単位はとったが専門ではないし、そういうことに関する論文も書いたことはない。ただ、この本の内容を以前にどこかで触れたことがあるような気がして、よくよく考えてみると、その単位をとった授業でドゥルーズの映画論を読まされて似たようなことが書かれてあったのを思い出した。めちゃめちゃ省略すると、彼もまた映画の本質をモンタージュとリズムに見出していたからこそ、映画について運動と時間の観点から延々と議論していたのだ。ついでに言うと最近見た上演芸術でも物語・文脈を無視し、脱人文主義みたいなものを目指していた内容だったので、こういう流れは100年前からあったのだとこの本を読んで改めて納得したところがあった。私はまだまだ浅学で分かっていないところも多いが、この本がドゥルーズのネタ本なのだなくらいに思えば、勉強になるわけです。



ナチズムと民主主義と女性

改めて述べる必要もないほどよく知られているように、ナチスは第一次世界大戦後に作られた世界的にも最先端の民主国家のドイツで大統領と議会と有権者の支持を得て誕生した独裁政権だ。当時の世界最先端とは、女性が参政権を得ていたという意味だ。そのため、一方に於いて平然と人命を奪う一方で、女性に対して務めて紳士的な姿勢を貫くという、どう解釈していいのか分からない、しかしそれだけに業の深い集団であったと言ってもいいだろう。

たとえがゲッベルスの妻マクダは理想的なドイツ人妻を最期まで演じきった。ゲッベルス夫妻の子だくさんは偶然ではない。ドイツ民族を産めよ増やせよのメッセージを国民に与えるために意図されたものだった。ゲッベルス夫妻の子どもたちはフォトジェニックであるがゆえに宣伝に利用され、映画館で上映された。夫妻の子どもたちはベルリン攻防戦が終わる直前に親によって毒殺されたことを知っている我々現代人がみれば、子どもたちのフォトジェニックさがかえって重苦しく見えてしまう。

ゲッベルスは浮気性だったことで知られており、マクダは離婚を真剣に考えたと言われているが、ヒトラーが仲裁して離婚は避けられた。ヒトラーが女性たちからの支持を得るために自身が独身を貫いた一方で腹心のゲッベルスには温かい家庭イメージを守り抜かせる必要があったからだ。ワイマール憲法下で女性の支持を得ることは確かに必須だったに違いないが、同時に女性の人気を得たいという幼稚な男性性をナチズムに感じるのは、このような小細工やこざかしい演出を様々な場面で見出すことができるからだ。

ゲッベルスのオフィスには多くの女性た働いていたが、その中の一人が晩年にインタビューに答えた内容から、ヒトラーとゲッベルスが女性からの支持を得るためにどれほど苦心していたかを見出すことができるだろう。
ナチスは民族主義と労働者の味方という分かりやすいメッセージを発信して支持を獲得した。本来ならドイツの資本家や旧貴族階級はナチスの敵でなければならなかったが、両者は共産主義を共通の敵とみなして結びついた。首相指名権を持っていた大統領のヒンデンブルクはヒトラーという若造が危ないやつだと気づいてはいたが、バカだとも思っていたので上手に手のひらで転がせると思ったし、共産党が政権を獲るよりはましだと思ったらしかった。結果としては何もかもめちゃくちゃになったのだが将来のことを知ることは不可能だ。ヒトラー本人も自分の最期は予見できなかったに違いない。

ドイツ民族を増やすという危ない民族主義は、金髪で碧眼という「理想的アーリア人」を増やすという方向性で動き出し、ヨーロッパの占領地ではSSの将兵と各地の金髪碧眼の女性が子どもを作るというプロジェクトが進行した。興味深いのは女性に意に沿わない性交渉がもたれたのではなく、将兵たちと選ばれた現地の女性たちとの間で合コンパーティが開かれ、女性も納得づくで子どもづくりが行われたことだ。もちろん、当時のナチス占領下でナチス将兵に交際を求められた際、断ることは困難だった可能性はあるため、どこまでが女性の本意だったのかを判断することは簡単ではない。だが、少なくとも体裁としてはパーティで知り合い同意の上で一対の男女になり、理想的なアーリア人の子どもの大量生産が図られたのである。そのようにして実際に生まれた子どもたちは、戦後になって自分の出自を知らされないまま成長するケースが多く、実際のところが完全に解明されているわけでもないようだが、父親がSSであるということを理由に酷い目に遭わされたケースもある。

19世紀の後半から20世紀の前半にかけて、世界は産業革命と市民革命という二つの近代化の両輪によって大きく変化し、人々は伝統的な生き方から近代的な生き方へと変貌するために戸惑い、努力し、失敗したり成功したりした。ナチズムはそのような近代化の過程で迷う人々の心の隙間に入り込み、残念ながらとことん成長してしまい、人類に大きな傷を残して破滅していった。民族の理想的な特徴を持つ人間を増やすために合コンパーティを開くということはばかげているし、それによって生まれた子どもが酷い目に遭わされるというのも人間の尊厳に対する重大な挑戦であるため、許容されてはならない。それらのことは21世紀の現代人には許容できない。2018年最後の日の今日、私はナチズムのようなことはある程度の条件が整えば今でも起こり得るということを考えつつ、私は現実世界に大した影響力を持っているわけでもなんでもないが、たまたまそういったものをいろいろ見て年末を過ごしてしまったので、私なりに慎ましくストイックな年越しをしようと思う。



映画『ゲッベルスと私』を観て愕然とした件

岩波ホールで『ゲッベルスと私』というドキュメンタリーを観た私は愕然とした。ゲッベルスの「元秘書」とされる女性は、敢えて言えば平凡な人だという印象を受けたので、そのことでは愕然とすることはなかった。ただ、映画の作り手は証言と交互して様々な史料映像を挿入しており、それらの映像の凄惨さに私は愕然としてしまったのだ。

特に私が恐怖を感じたのは、アメリカ軍によるナチスが作った収容所内のガス室の検証映像だった。ガス室の壁には人の手の跡やひっかいたような跡が無数に残されていた。それらはそこで殺された人たちが最後の瞬間にもがき苦しんだか、なんとか脱出生き延びようとしたか、或いはその両方が起きたことを、しかも繰り返し繰り返し起きたことを示していた。

私は以前、アウシュビッツの所長だったルドルフ・ヘス(ヒトラーの副総統でイギリスにパラシュート降下した人物とは別人)が書き残した手記を読んだことがある。ルドルフ・ヘスはもちろん戦後に処刑されたが、人の歴史で最もたくさん人を殺した男であり、今後も、少なくとも私が生きている間に同じことをする人は現れないだろうと思う、というか思いたいのだが、私がガス室について具体的に知っていることは限られていて、ルドルフ・ヘスの手記に拠れば、シャワーを浴びるという理由で閉じ込めた人々を彼は見下ろすことができる位置に立っており、人々は彼を見た瞬間、やはり騙されて殺されるのだと知り、憎悪と怨みの叫びを上げたということらしかった。彼は何度となくそこに立ち、怨みながら死んでいく人たちを見たことになる。私のガス室に関する知識はこの程度のものでしかなかった。

今回、この映画を観て、壁に残された無数の手の跡は、当時の状況をより具体的に私に教えてくれるものになった。恐ろし過ぎて愕然としてしまったのである。

一方で、ゲッベルスの元秘書とされる女性は、ナチス政権誕生から敗戦の少し前の時期に至るまで、それなりに生活をエンジョイしていたことを話している。恋人がいて、ゲッベルスの演説にしびれ、宣伝省の給料の良さに満足していた。そしてホロコーストが行われていたことを「知らなかった」と彼女は言い切り、「私に罪はない。ドイツ全国民に罪があると言うのなら別だけれど、自分たちが選んだ政権なのだから」と述べる。民主主義の手続きを踏んでナチス政権は誕生したため、有権者全員にそれなりの責任はあると言えるが、選んだ政権が悪いことをした場合の有権者の責任は限定的で観念的なものだ。日本の首相が失政をやらかした場合に、有権者の責任を問うのは限界があるのと同じだ。

だが、この映画では、彼女のそのような証言と交互に凄惨な映像が挿入されるため、「知らなかったで済むのか?」という疑問を抱くように構成されている。知らなかったから悪くないと言うには、事態はあまりに重大すぎるからだ。アメリカ軍がドイツ市民向けに作ったフィルムも挿入されており、そこでは「知っていたのに止めなかった責任」を問うていた。私個人の想像になるが、あれほど大規模に熱心に継続的に行われていたのだから、多かれ少なかれ、憚れるようなことが行われていたことには気づくのではないだろうかと思う。現代でも自分の属する組織がどういう状況なのかということは私のような下っ端でも何となくわかることもあるし、噂も流れてくる。そのため、彼女が「知らなかった」と言い切ったとしても簡単に信じることができない。尤も、彼女の証言を嘘だと言い切るだけの証拠を私が知っているわけでもなんでもないのだが。

以下は全て私の想像になるが、彼女は何十年もの間、何度となく記憶を整理し、反芻し、自分の受け入れやすい物語を作り上げたに違いないという気がする。人は誰でもそうするので、彼女もそうせざるを得なかったに違いない。彼女は戦争が終わってから5年間抑留されていたと述べていた。その5年間は屈辱的な経験、人に話せないような酷い目に遭わされたであろうことも想像はつく。そのため、戦争が終わる前の記憶がより美化され、それなりにエンジョイできたという物語が形成されたのではないだろうか。彼女の本音は、ホロコーストに直接かかわったわけでもないし、戦争の意思決定に加わったわけでもないのに、5年も抑留されて酷い目に遭わされた。充分に責任は取った。というところにあるのではないだろうか。これはとても難しい問題で、責任がどこまで及ぶのか線引きができる人はいないだろう。そのことについては、今後、私も反芻して考えることになると思う。この映画を観てしまったら、考えないわけにはいかない。



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エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』とナチズム

エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』はあまりに有名すぎて私がここでどうこう言うまでもないことかも知れません。「社会心理学」という分野にカテゴライズされてはいますが、基本的にはフロイトやアドラーの近代心理学の基礎を踏まえ、それを基にドイツでナチズムが勃興した理由を考察している超有名な著作です。

内容の大半はサディズムとマゾヒズムに対する一般的な説明に終始しており、まさしく心理学の解説書みたいな感じですが、サディズムとマゾヒズムが対立項として存在するのではなく、同時に同一人物の内面に存在するとする彼の指摘は我々が普段生きる中で意識しておいた方がいいことかも知れません。

曰く、サディズムを愛好する人物は相手から奪い取ることに満足を得ようとすると同時に、権威主義的であるが故により高位の権威に対しては進んで服従的になり、自らの自由を明け渡すというわけです。ですので、ある人物は自分より権威のある人物に対しては服従的なマゾヒストであり、自分より権威の低い(と彼が見做した)人物に対してはサディストであるということになります。人はその人が社会的にどの辺りの地位に居ようと、権威主義的である限り、より高次なものに対して服従し、より低次と見做せるものに対しては支配的になるということが、連鎖的、連続的に連綿と続いていることになります。

この論理は私にはよく理解できます。誰でも多かれ少なかれ、そのような面はあるのではないでしょうか。権威は確かに時として信用につながりますが、権威主義に自分が飲み込まれてしまうと、たとえサディズム的立場に立とうと、マゾヒスト的立場に立とうと、個人の尊厳と自由を明け渡してしまいかねない危険な心理構造と言えるかも知れません。

フロムはアドルフ・ヒトラーを分析し、彼自身が大衆の先導をよく心得ていたことと同時に権威に対して服従的であったことを明らかにしています。イギリスという世界帝国に対するヒトラーの憧憬は、チェンバレンがズデーデン地方問題で譲歩した際に、軽蔑へと変化します。なぜなら如何に抗おうととても勝てないと思っていた相手に対して持っていてマゾヒスト的心理が、相手の譲歩によって崩れ去り、なんだ大したことないじゃないかと意識が変化してサディズム的態度で臨むようになっていくというわけです。

自由都市はドイツ発祥です。ですから、本来ドイツ人は自由と個人の尊厳を愛する人々であるはずですが、第一次世界大戦での敗戦とその後の超絶なインフレーションと失業により、絶望し、他人に無関心になりヒトラーというサディストが現れた時、喜んでマゾヒスト的に服従したともフロムは指摘しています。ドイツ人のような自由と哲理の伝統を持つ人々が、自ら率先してナチズムを支持し、自由を明け渡し、文字通り自由から逃走したことは、単なる過去の奇妙かつ異例なできごととして片づけることはできず、如何なる人も状況次第では自由を明け渡し、そこから逃走する危うさを持っていることがこの著作を読むことによってだんだん理解できるようになってきます。

私はもちろん、自由と民主主義を支持する立場ですから、フロムの警告にはよく耳を傾けたいと思っています。簡単に言えば追い詰められすぎると自由から逃走してしまいたくなるということになりますから、自分を追い詰めすぎない、自由から逃走する前に、自分の自由を奪おうとする者から逃走する方がより賢明であるということになるのかも知れません。





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昭和史76‐太平洋戦争は何故起きたのか(結論!)

資料を読み続けてきましたが、一応、手元に集めたもの全てに目を通しましたので、ここで一旦、昭和史については終えることにしますが、そこから私が得た知見を述べたいと思います。太平洋戦争は何故起きたのか、私なりに結論を得ることができました。

1、蒋介石との戦争に固執し過ぎた

日本軍、特に陸軍は蒋介石との戦争は絶対に完遂するとして、一歩も引く構えがありませんでした。しかし、情報・宣伝・調略戦の面では蒋介石が圧倒的に有利に展開していたということに
気づきつつもそこは無視してとにかく重慶を陥落させるということに固執し、空爆を続け、蒋介石のカウンターパートとして汪兆銘を引っ張り出し、新しい国民政府を建設し、蒋介石とは
対話すらできない状況まで持ち込んでいきます。情報・宣伝・調略の面では、蒋介石はソビエト連邦を含む欧米諸国を味方につけており、しかも欧米諸国はかなり熱心に蒋介石を援助していましたから、長期戦になればなるほど日本は疲弊し、国力を消耗させていくことになってしまいました。フランス領インドネシアへの進駐も援蒋ルートの一つを遮断することが目的の一つでしたが、それがきっかけでアメリカからの本格的な経済封鎖が始まってしまいます。アメリカから日本に突き付けた要求を簡単にまとめると、「蒋介石から手を引け」に尽きるわけで、蒋介石から手を引いたところで、日本に不利益はぶっちゃけ何もありませんから、蒋介石から手を引けばよかったのです。それで全て収まったのです。更に言えば、日本帝国は満州国と汪兆銘政権という衛星国を作りますが、味方を変えれば中国の国内の分裂に日本が乗っかったとも言え、蒋介石・張学良・汪兆銘・毛沢東の合従連衡に振り回されていた感がないわけでもな
く、汪兆銘と満州国に突っ込んだ国富は莫大なものにのぼった筈ですから、アメリカと戦争する前に疲弊していたにも関わらず、それでもただひたすら陸軍が「打倒蒋介石」に固執し続けた
ことが、アメリカに譲歩を示すことすらできずに、蒋介石との戦争を止めるくらいなら、そんな邪魔をするアメリカとも戦争するという合理性の欠いた決心をすることになってしまったと言っていいのではないかと思います。

2、ドイツを過度に信頼してしまった

日本が蒋介石との戦争で既に相当に疲弊していたことは述べましたが、それでもアメリカ・イギリスと戦争したのはなぜかと言えば、アドルフヒトラーのドイツと同盟を結んだことで、「自分たちは絶対に勝てる」と自己暗示をかけてしまったことにも原因があるように思います。日本だけでは勝てない、とてもアメリカやイギリスのような巨大な国と戦争することなんてできないということは分かっている。だが、自分たちにはドイツがついている。ドイツが勝つ可能性は100%なので、ドイツにさえついていけば大丈夫という他力本願になっていたことが資料を読み込むうちに分かってきました。確かにドイツは技術に優れ、装備に優れ、アドルフヒトラーという狂気故の常識破りの先方で緒戦に勝利し、圧倒的には見えたことでしょう。しかし、第一次世界大戦の敗戦国であり、植民地もほとんど持たなかったドイツには長期戦に耐えるだけの資本力がありませんでした。更にヨーロッパで二正面戦争に突入し、アメリカがソビエト連邦に大がかりな援助を約束してもいますから、英米はドイツはそろそろ敗けて来るということを予想していたとも言われます。日本帝国だけが、ドイツの脆弱性に気づかなかったというわけです。ドイツは絶対に勝つ神話を広めたのは松岡洋右と大島駐ベルリン大使の責任は重いのではないかと思えます。

3、国策を変更する勇気がなかった

昭和16年7月2日の御前会議で、南進しつつ北進するという玉虫色的な国策が正式に決定されます。フランス領インドシナへの進駐もその国策に則ったものですし、構想としてはアジア太平洋エリア丸ごと日本の経済圏に組み込むつもりでしたから、その後も南進を止めることはできなかったわけで、南進を続ければそのエリアに植民地を持つイギリス・アメリカとは必ず衝突します。アメリカとの戦争を近衛文麿が避けたかったのは多分、事実ですし、東条英機も昭和天皇からアメリカとは戦争するなという内意を受けていたのにも関わらず、国策に引っ張られ、国策を決めたじゃないかとの軍の内部からも突き上げられて戦争を続けてしまったわけです。

以上の3つが主たる原因と思いますが、どれもみな、日本人が日本人の意思としての選択であったと私には思えます。蒋介石との戦争に必然性はありませんから、いつでも辞めてよかったのです。ドイツを信用するのも当時の政治の中央にいた人物たちの目が誤っていたからです。国策だって自分たちで決めることですから、自分たちで変更すれば良かったのです。そう思うと、ほんとうにダメダメな選択をし続けた日本帝国にはため息をつくしかありません。私は日本人ですから、日本が戦争に敗けたことは残念なことだと思います。しかし、こりゃ、敗けるわなあとしみじみと思うのです。

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昭和史74‐ABCD「S」包囲網

太平洋戦争が始まる直前のころ、日本に対して行われた経済封鎖を一般にABCD包囲網と言います。Aがアメリカ、Bがイギリス(ブリテン)、Cが蒋介石(チャイナ)、Dがオランダ(ダッチ)というわけですが、私の手元にある昭和16年10月15日付の資料では、「ABCDS包囲網」と表現されています。新たにSが加わっているわけですが、このSはスターリンのことを意味しています。

当該記事では、

ABCDS同盟とは、英国、米国、蒋介石政権、蘭印(オランダ領インドネシア)、ソビエトなどが互に政治、軍事、経済あらゆる面に於て深いつながりを保ち、日本の南方発展をおさへつけて、戦争を長びかせることによって、ABCDS同盟の勝利に導かうとする策動

と説明されており、状況認識としては完全に正しいと言えます。戦争が長引けば物量に於いて劣る枢軸国に不利になることは明らかで、この段階では既に枢軸国側の限界が様々な点で露呈されて始めていた時期であったとも言えますから、「戦争を長びかせる」ことによって勝利を得ようとする策動という見方は的確であるとすら言えます。昭和16年10月の段階であれば、アドルフヒトラーの予定では既にモスクワは陥落していたはずであり、そろそろ冬将軍の不安が湧き始めていたはずです。日本についてはこれまでも辿ってきましたが既に物資不足に喘いでおり、生活用品の鉄の供出までさせなければならない状態で、限界が見え始めていたと言えます。

当該記事ではABCDSなる包囲網への警戒せよと呼びかけているわけですが、このようにインテリジェンスの現場が的確な現状把握をしているにもかかわらず、中央の意思決定機関ではごねごねごちゃごちゃと優柔不断を続けており、ドイツがソビエト連邦に侵攻した段階で、国際信義を裏切ったドイツを切るか、利益優先でソ連と戦争するかの二択になってしかるべきで、譲歩してでも蒋介石と手打ちに持ち込むのが理想なわけですが、そういったことは一切できずに、あろうことかアメリカと戦争しようかという話になっていくわけですから、どうしてこのように大局を見誤ってしまったのかといつもながらがっくししてしまいます。日本は蒋介石打倒、大東亜共栄圏建設、更に南進という複数の国家目標によって自縄自縛に陥って矛盾が生じたらどうしていいかわからない、見通しと違うことが起きても変化に対応できないという意思決定機関は思考停止に陥っており、ドイツがなんとかしてくれるだろうという幻想にしがみつき、軍がとことんやり抜くと言い張るのでそこに対しては身内意識で譲歩して、惨めな滅亡へと向かっていきます。

私の読んでいる資料も残り少なくなってきましたから、昭和史シリーズも近く一旦終了する予定ですが、読めば読むほど暗澹たる心境になっていきます。早く読み終えたい…

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昭和史73‐南部フランス領インドシナ進駐とアメリカの経済制裁

昭和16年7月下旬、日本軍は既に北部フランス領インドシナに進駐していましたが、更に南部フランス領インドシナへの進駐も開始します。当時、フランス本国はヴィシー政府という親ドイツ政権が一応、正統政府ということになっていて驚くなかれイギリスと戦闘状態に入っていました(そのカウンターパートとしてドゴールの亡命政府である自由フランス政府があり、戦後、ドゴールの政権が「戦勝国」としての立場を得ることになります)から、日本とヴィシー政権は友好国の関係になっており、進駐そのものは平和的に行われました。もちろん、フランス領インドシナのフランス人社会にとっては、日本軍の進駐はおもしろくなかったはずですが、力関係的にしぶしぶ受け入れざるを得なかったという感じだったのではないかと思います。この進駐エリア拡大は、同年7月2日の御前会議で決められた国策に素直に従って行われたものであり、官僚的に粛々と既定路線を歩んだようにも見え、無限の拡大は必ず滅亡をきたすと思えば官僚に指示する立場の政治家の資質に疑問をもたざるを得ないとも思えます。

当時の日本帝国としては援蒋ルートを全て遮断することに情熱を注いでおり、それを実際に実行するには重慶政府を完全包囲するという遠大な構想を持っていたようです。単に陸路を塞いでも空路で援助が届きますから、この包囲網を完成させるには、インドも含む飛行機でも届かない程度の広大なエリアを手中に収める他なく、これは太平洋戦争が終わるまで実現することはありませんでしたし、戦争の末期になって無理に無理を重ねて強行したインパール作戦が如何に無残な結果になったかは後世を生きる私たちのよく知るところです。

さて、アメリカは日本の南部フランス領インドシナ進駐に対して敏感に反応し、日本に対する経済制裁、在米日本資産の凍結、石油の禁輸を打ち出します。私の手元の資料にある9月1日付の号では、「米国恐る々に足らず、我に不動の覚悟あり」という勇ましい記事が掲載されており、「わが国では数年前からかうなることを予想して、あらゆる対策を講じて」いるから驚く必要はないし、アメリカには強力な日本軍と戦う覚悟はないから不安はないというような主旨のことが述べられています。当時、既にオランダ領インドネシアとの協商が模索され、交渉に失敗した後なのですが、当該記事の著者が誰かは不明なものの、その念頭には武力によるオランダ領インドネシアへの侵攻によりパレンバン油田の石油を手に入れるという構想があったのではないかと思います。

アメリカが日本と戦争する覚悟がなかったという一点に於いて、情勢分析は正しかったかも知れません。真珠湾で鮮やかに勝ちすぎてアメリカ人は日本に対する復讐を誓い、覚悟を決めることになったわけですから、真珠湾攻撃さえなければアメリカも大戦争みたいな面倒なことは避けて、どこかで適当な折り合いをつけようとしたかも知れません。当該の資料では「ドイツを見よ」というような言葉も書かれており、日本帝国が如何にドイツ信仰を強くしていたかも見て取れるのですが、アドルフヒトラーがいるから大丈夫という実は薄弱な根拠が、日本帝国を強気にさせたのだと思うと、やりきれなくなってきます。松岡洋右がドイツ、イタリアの了解を得て日ソ中立条約を結び、ドイツもソビエト連邦と不可侵条約を先に結んでいたにもかかわらず、ドイツはバルバロッサ作戦でソビエト連邦への侵攻を始めたわけですから、遅くともこの段階で、アドルフヒトラーはおかしい、信用できない、ヒトラー頼みで国策決定をすることは危ないと気づいていなければいけません。

真珠湾攻撃まであと少し、ため息をつきつつ、引き続き資料を読み進めるつもりです。

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