映画の中のヒトラー

戦後映画で最もたくさん登場した人物の一人としてアドルフ・ヒトラーの名を挙げて異論のある人は少ないだろう。戦後、世界中の映画だけでなくドラマや漫画も含めれば、彼は無数に登場し、下記の直され、再生産あれ、時に印象の上塗りがなされ、時に犯罪性の再告発があり、時にイメージの修正が行われた。

彼を最もイメージ通りに再現し、かつそのイメージを強化する役割を果たしたのは、ソ連映画の『ヨーロッパの解放』(全三部)ではなかろうか。動き方、髪型、髭、声の感じ、狂気、死に方。全て我々にとってのヒトラーのイメージそのものである。特に死に方だが、振り返りたくなるほどとびきりの美しさを誇るエヴァ・ブラウンが嫌がっているにもかかわらず強引に口をこじ開けて青酸カリを押し込み、その後、なかなか勇気が振り絞れずに過去に愛した従妹の名を叫びつつこめかみの引き金を引くという流れは、エヴァ・ブラウンがヒトラーのことを命をかけてまで愛したいと実は思っていなかったにちがいなく、ヒトラーも彼女のことを愛してはおらず、ただ一人でも多く道連れにしてやろうと思ったに過ぎないというギスギスした相互不信によって塗り固められた愛情関係の存在が描かれている。見た人はいないわけで、本当にそうだったかどうかは分からないが、我々のイメージには合う。手塚治虫先生の『アドルフに告ぐ』の場合、実は第三者が忍び込んできて、せっかく名誉ある自決を選ぼうとしているのにそれだけはさせまいとヒトラーを殺害する。実際を見たわけではないので、そういう可能性がゼロではないということくらいしかできない。
ソ連映画の方が、最期の最後でヒトラーが英雄的自決という物語に浸り切れていたとは言えないのとは逆に、『アドルフに告ぐ』では英雄的自決という浪漫に浸ろうとしても浸らせてもらえなかったというあたりは面白い相違ではないだろうか。

だが以上の議論では実は重要な点を見落としてしまっている。ヒトラーが元気すぎるのだ。東部戦線がおもわしくなくなったころから、ヒトラーはパーキンソン病が進み、常に右手が震えており、老け込みが激しかったと言われている。ヒトラー最後の映像と言われている、彼が陥落直前のベルリンでヒトラーユーゲントを励ます場面では、それ以前の中年でまだまだ油がのっているヒトラーとは違い、老年期に入った表情になっている。絶対に勝てないということが分かり、一機に衰弱したものと察することもできるだろう。

で、それを作品に反映させているのが有名な『ヒトラー最期の12日間』である。手の震えを隠しきることすらできない老いたヒトラーは、ちょっとでもなんとかできないかと苦悩し、どうにもならないと分かると、無力感にひしがれつつ叫ぶ。憐れなヒットラー像である。この映画があまりにクオリティが高いため、その後のヒトラー物を作る際にはこの作品の影響が見られるのが常識になるのではないだろうか。以前のヒットラーは若々しすぎ、エネルギッシュ過ぎた。確かに政権を獲ったすぐのころなど、まだまだ元気で颯爽としていたに違いないが、晩年の彼には明らかな衰えが見られるのであるから、映画でベルリン陥落をやる際は、そこは留意されるべき点かも知れない。まあ、ベルリン陥落を映像化しようとするとやたらめったらと金がかかるはずなので、そんなにしょっちゅう映画化されるとも思えないが。

そのようにヒトラー象がいろいろある中、興味深かったのが『帰ってきたヒトラー』だ。激しい戦闘の結果、21世紀へとタイムスリップしてきたヒトラーは、人々の声をよく聞き、演説し、ドイツ人のプライドを大いにくすぐり熱狂的なファンが登場する。一方で、戦後ドイツではナチスの肯定はしてはならないことなので、激しい嫌悪を示す人もいる。だがこの映画で分かることは、ドイツ人は今でも本音ではいろいろ思っているということだ。敗戦国民なので言ってはいけないことがたくさんあるのだが、本心ではいろいろいいたい。ヒトラーのそっくりさん(という設定)が出てきて、「さあ、現代ドイツの不満を何でも述べなさい。私はドイツを愛している」みたいなことを言って歩くと、カメラの前でいろいろな人が政治に対する本音を話すのにわりと驚いてしまった。そして、ドイツ人の中には外国人には来てほしくないと思っている場合も多いということもよく分かった。編集次第なのかも知れないが、そういうことをカメラの前でヒトラーのそっくりさんと並んで話す人がいるというのも否定しがたい事実なのである。問題はヒトラー役の人物がやや体格が良すぎるし、若すぎるということかも知れない。しかも、なかなかいいやつっぽく見えてしまう。あれ?もしかして私も洗脳されてる?




ドイツ表現主義映画『カリガリ博士』とカフカとティムバートン

第一次世界大戦後からヒトラー台頭までの短い期間、ドイツでは「ドイツ表現主義」と呼ばれる新しい映画の波が来ています。その中で特に『カリガリ博士』がよく知られていて、他に『M』という作品もあります。『M』はわりとリアリティを追及している感じで、幻想的な非現実的な世界を創造しようとした『カリガリ博士』とは随分と雰囲気が違います。また『M』の場合は当時のワイマール憲法の精神を呈していると考えられるのですが、ポリティカルコレクトネスを強く意識しています。『カリガリ博士』の場合は当初の脚本ではそのような要素があったらしいのですが、監督が制作する段階で、そういうものをなるべく排除し、サイコサスペンスのような作品づくりになっています。

登場する街や建物は不自然に曲がっていたり、窓が三角だったりすることによって不思議な世界観が作り出されていますが、私はこの映画をみてカフカの『城』を連想しました。この作品では主人公が招聘された「城」の中で右往左往したり意味不明の罪に問われたりして最後は殺されてしまいますが、この作品の広大で実態のよくつめない「城」は実は『カリガリ博士』に登場する不自然に曲がった建物をイメージして読むべきではないか、カフカの頭の中のはそのような城が浮かんでいたのではないかという気がしました。その方がカフカの『城』の捉えどころのなさ(それが面白いのですが)をよく表現できるような気がするのです。

同時に、私はティムバートンの映画を連想しました。『チャーリーとチョコレート工場』の「チョコレート工場」は上に述べたようなつかみどころのない不思議な建物です。他に『シザーハンズ』のジョニーデップの雰囲気はカリガリ博士に催眠術をかけられて殺人をする自我をほとんど失ってしまった男と雰囲気がとても似ています。カリガリ博士はマッドサイエンティストとして描かれますが、多少の飛躍はあるとはいえ、『羊たちの沈黙』の源流にもなっているかも知れず、更に最後はどんでん返しで、物語の語り手が精神疾患の患者で、カリガリ博士は真面目で優秀な精神病院の院長であったというどんでん返しになるのですが、最後の最後で、語り手が、または語り手が信頼する人物が「実は…」というのはサスペンスの常道とも言えますので、その後のいろいろな映画作品に影響を与えた、いろいろな意味での源流と言える映画ではないかと思えます。

この映画では催眠術で人が完全に支配されてロボットのように動くということが起きますが、これは近代臨床心理の発達と関係があるように思いますが、人ををマインドコントロールする際には事前の情報の共有、操縦者との人間関係など様々な要素を取り入れてあたかも自然な意思の発露であかのようにして動かすというのは相当に努力が必要なことで、隔離して脅して洗脳するというのも同様にかなりの努力を要するものですが、この映画のように博士が催眠技術を使用するだけで自由自在に人を文字通り人形のように操るということは現実にはあり得ないと私には思えます。

そのようなリアリティをこの映画に求めても仕方なく、ロシアアヴァンギャルドにも通じるものを感じますし、シュールレアリスムも影響を受けたということですので、映画を学ぶ人は一度は観ておいて損はないだろうと思います。




ドイツ表現主義映画『M』のワイマール精神

ドイツ表現主義という芸術活動が1920年代から30年代ごろにかけて起きましたが、その時代に作られた映画の一つ『M』というのがあります。ドイツ表現主義といえば『カリガリ博士』とかの方が有名で、『M』はいまいち知られていません。でも、いい映画です。

ドイツのとある街で少女が行方不明になる事件が連続して起きます。後日、少女の死体が発見されます。人々は犯人に対して強い怒りを感じます。当然です。どんな手法で少女を上手に誘惑して犯行に及ぶのか、犯人はどこの誰なのか、さっぱり手がかりはありません。

警察が動きますが、ちっとも前に進みません。警部役の俳優さんがいい味を出してます。いい意味で、ザ・刑事(デカ)です。捜査網を強化しますがどっちにしても捕まりません。

市民が自警団を作ります。貧しくて家のない人たちも協力します。路上で生活している人たちは毎日通りを観察しているので、普通に家の中で暮らしている人よりも街で何が起きているのかよく理解しています。そういう人たちの助けによって事件解決に向けて進展します。そのような協力者の中のあるおじいちゃんは目が見えません。その分、耳の感覚が鋭いです。ある時、口笛を耳にします。以前、一人の少女が行方不明になった時、その少女がある男性に風船を買い与えてもらっていて、その時に男性が吹いていた口笛と同じだということに気づきます。それをおじいちゃんから知らされた青年は、口笛を吹いている男の後を追い、何とか取り逃がさないために男のコートの背中に「M」の字を書きます。murdererのMです。

市内のいろいろな人にその情報が伝わります。男をどんどん追いかけます。男は工場みたいなところに逃げたりしますが、結局は捕まります。人民裁判が開かれます。人々は怒っています。とても怖いです。感情的な私刑が行われても全くおかしくありません。というか人々は感情的な私刑を望んでいるように見えます。犯人の男は「自分には精神疾患があって、犯行時のことは何も覚えていない。犯行は自分が計画したのではなく、ある時意識を失っていて気づくと犯行が終わっている。自分にはどうすることもできない」と訴えます。弁護人を担当する人は酒を飲みながら裁判に出ていますが、「精神疾患による犯行ならば、彼には刑罰を与えることはできない。警察に引き渡し、病院に入れるべきだ」と正論を述べます。人々は怒っていますが、弁護人の言うことが正論だと認めて警察に引き渡すことに決まります。法治に対する倫理観や正義感を称賛する内容になっています。法治と理性を信じたいという願いが込められています。

この映画では人々は感情よりも理性的な判断を優先しています。ワイマール憲法の実践を目指したような気もします。フロイトの精神分析が世の中にある程度広まったことも関係があるかも知れません。もちろん、子どもをなくしてしまった人にとっては犯人を生かしておくことはできません。辛いです。しかし、感情と法理法論を分けています。映画の中ではさりげなく、でもきちんと分かるように、第一大戦後のハイパーインフレのことも触れています。犯人が店に入って酒を飲んでいる間に酒の値段が上がっていきます。時代背景を考えながら見るともっと面白いです。

1931年の映画ですから、ドイツでナチス政権が誕生する直前のことです。アドルフヒトラーは当時既に有名人です。そう考えると複雑な心境で映画を観ざるを得ません。この映画の監督はユダヤ人で、ナチス政権が誕生した後に亡命しています。ナチスは感情に訴えて支持を集めて行きました。現代は少しずつ、どこの国でも感情が優先されるようになってきているみたいです。もちろん感情は大切です。人は感情の生き物ですから、感情を抑え込んだり無視したりしては生きる喜びが失われます。選挙とか国民投票とかが行われるのも、小理屈はともかくみんなはどう感じているのかを確認するための手続きと言えます。民主主義はみんなの感情を合法的な意思にするために手続きとも言えます。しかしそこからは独立しています。また小理屈です。すみません。そういったことをいろいろ考えるのにこの映画は手助けになるかも知れません。カメラワークとか演者さんの表情とかいろいろいい映画です。