プライベートライアンと捕虜の問題

スピルバーグの『プライベートライアン』という映画では、主要な話題の一つとして捕虜をいかに処遇するかという問題が描かれている。

何度か観れば気づく(一回観ただけで気づく人もいるかもしれない)のだが、降伏の意思を示したドイツ兵、または戦闘意欲を失ったと見られるドイツ兵に対し、躊躇なく銃弾が浴びせられ、殺される場面が複数回映画の中で登場する。それは画面の端の方で起きていたり、短い時間しか割かれていないため、見落としがちなことだと思うのだが、作り手は当然、意識して気づく人には気づくようにそれを入れ込んでいると私は思っている。

単にそのようにさりげなく入れこまれているだけではなく、ライアン二等兵を探しに行く小部隊が敵と遭遇し、銃撃戦の末に一人のドイツ兵を捕虜にする場面がある。部隊員たちは戦闘直後で戦友を失ったこともあり気が立っていて、ドイツ兵に対する強い殺意を持っており、自分の墓穴を掘らせるということまでしている。自分のための墓穴を掘らせるのは、捕虜に対する侮辱行為とも言えるので、この段階で既に国際法違反の疑いは濃厚なのだが、墓穴を掘らせるということは、その後の処刑を暗示するのに充分であり、それもまた国際法違反になるはずだが、もし本当に命を奪えば疑いなく国際法違反である。しかし、小部隊と捕虜一人なのだから、密かに始末したとしてもバレる可能性は低い。先に述べたように感情的には激しい憎悪を抱いているのだから、展開としてはこのまま殺すのだろうか?という疑問を持ちつつ観客はことの推移を見守ることになるのだが、通訳として参加していた兵士が隊長のトムハンクスに国際法の順守を強く主張し、トムハンクスもそれも確かに言えているという感じで処遇に悩む姿が描かれる。現実的な問題としても数名の小部隊なのだから捕虜を管理する能力を備えているわけではなく、前進しなければならない任務も負っているため、捕虜の後送も現実的ではないし、捕虜が自分で歩いて連合軍の後方の基地へ向かい投降することは考えにくい。戦友が殺されたことへの憎悪がある一方で、捕虜は命乞いをしており、命乞いをする捕虜の命を奪うことは、人間的感情の面からも受け入れがたい。という悩ましい状況に陥るのである。

結果、トムハンクスは捕虜の解放を決心し、目隠しをしてこのまま1000歩まっすぐ歩いてここから立ち去れという指示を出し、命からがら助かった捕虜は言われた通りにして姿を消す。だが、当該のドイツ兵は改めてドイツ軍に復帰し、トムハンクスの部隊と交戦する。このドイツ兵は頑強な兵士として描かれており、なかなかに強く、トムハンクスの部下も倒すし、銃撃でトムハンクスをも倒す。国際法の順守を訴えた通訳兵とも遭遇するのだが、ドイツ兵にとっては命の恩人でもあるので、通訳兵のことは見逃し、彼は戦闘を続行する。戦況的にはドイツ軍優位で進むように見えるのだが、終盤になって連合軍の航空戦力が応援に駆け付け、ドイツ兵は抗戦不可能を悟り、降伏する。通訳兵はそもそも戦闘に参加するだけの勇気がなく、隠れていたのだが、この時になってドイツ兵の前に銃を向けて登場する。ドイツ兵は命を助けてもらった恩義があるので、親愛の情を見せようとするのだが、彼がトムハンクスを倒すところを物陰から見ていた通訳兵は、そのドイツ兵を撃ち殺す。既に投降の意思を見せている以上、明白な国際法違反であり、戦争犯罪だ。

だが、映画の全体の構成から言えば、命を助けたドイツ兵が隊長のトムハンクスを倒したのだから、「弱虫」の通訳兵が勇気を振り絞ってついに自分の意思で立ち上がり、隊長の仇をとったことがある種のクライマックスとして描かれている。

このような映画の構成から我々は何を読み取ることができるだろうか。複数回登場する、無抵抗のドイツ兵の殺害場面には一切の情けは感じられない。そしてそれを批判する論調も映画からは感じ取れない。また、命乞いをするドイツ兵が結果としてトムハンクスを倒したという事実は、情けをかけた相手に仇で返されたとも言え、通訳兵が飛び出して来てそのドイツ兵を倒すことが英雄的な場面として描かれているということを考えれば、私には結論は一つしかないもののように思える。即ち、ドイツ兵と言えば国際法的にも認められた正規の兵士とも言えるが、ナチスまたはその協力者である。そして、ナチスに情けは一切無用という問答無用の信念をスピルバーグが持っているということではないかということだ。ドイツ兵に国際法は無用ということだ。

スピルバーグはユダヤ人で、幼少年期には収容所から生還した人から腕に刻まれた囚人番号の入れ墨を見せられるなどの経験をして育ったと読んだことがある。そのため、ナチスを批判的に描くことには積極的であり、決して情けをかけようとはしない。たとえばインディジョーンズでドイツ兵はわりとよく登場するが、彼らが人間的な要素を持っているという描写は絶対にないし、インディジョーンズ本人も彼らは殺してもいいという確信を持っていると言ってもいいように思える。『シンドラーのリスト』では、ナチス党員でありながらユダヤ人の命を救ったシンドラーを顕彰している面はあると言えるが、道楽で人助けをしたことへの後悔を号泣するという形で表現しており、たとえシンドラーであっても完全に免罪されるとは言い難いという思いがスピルバーグの内面にはあるのではないだろうかと私には思える。

もちろん、私もナチスドイツには賛成しないし、ホロコーストは当然に批判されなくてはならないし、それは徹底批判されて当然であるとも思う。なので、スピルバーグの作品作りに異論はない。先日『ターミナル』を観て、私は爆笑し、感動した。スピルバーグは天才だと思った。『ターミナル』もまた、主人公は亡国の民である。スピルバーグの作品を掘り下げて考えれば、常にそこに辿り着いていくのかも知れない。日本はナチスと同盟していたことがあったが、『太陽の帝国』では日本人を人間的に描いてくれているので、そういったことには感謝したい。

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