グロティウス‐法の支配、人の支配、神なき世界

ヨーロッパの中世の思想は神の存在証明にその力が入れられ、また近代の入り口においては人とは何かに関して考えることに力が入れられたものの、神の存在が絶対的な前提でなければ語ることができず、例えばデカルトのように人と神と対比して人のことを考察しつつも神の存在も同時に証明するという議論の手法がとられました。

その点、神の存在を前提としない議論を展開したオランダ人のグロティウスはメルクマールとして記憶されるべき人物ではないかと思えます。グロティウスは『戦争と平和の法』という著書の中で、神が存在するかは問題ではなく、たとえ神が存在しなかったとしても、人は相互に信義を重視し、人道を重視し、関係性を構築していかなければならないと考えました。神が存在するかどうかはともかく、或いはいかなる神を信じるかどうかもともかく、または神に対する信仰のあり方が宗派によって違ったりすることはともかくとして、人はまず第一に自然法の問題として人を殺してはいけないなどの議論の余地のないほどに明確な人道は、たとえ法律に書かれていないとしても、重視されなくてはいけないと考えたわけです。

これこそまさしく、いわゆる法の支配の基本的な考え方と言うことができ、法の支配とは即ち神ではなく人による支配であり、その後の近代ヨーロッパにおける思想哲学の基礎へと発展していく第一歩になります。神を信仰したい人は信仰すればいいし、信仰したくない人は信仰しなければいいけれど、信仰に対する考え方が違うということで相争う必要はなく、それとは別に人間的なルールを確立しましょうということですから、現代の我々の価値観とも矛盾しないものであると思えます。ヨーロッパにおける長い宗教戦争に於ける殺し合いの歴史に飽き飽きしてしまった、いい加減そいうことは止めにしたいという、当時の社会的な雰囲気もあったのかも知れません。

グロティウスは近代自然法の父とも呼ばれます。信仰に対する考え方を超えた国際法の枠組み作りを提唱しており、国際法の始まりと言われる後のウエストファリア条約に通じるもの言えると思います。

パスカル‐人間とは何か

パスカルと言えば、『パンセ』という著作で「人間は考える葦である」と述べた人物としてよく知られています。しかし、「考える葦」とはそもそもどういう意味なのでしょうか?

パスカルによると、人間は大変に弱い生物であるということになります。ひ弱で繊細です。すぐに病気になるし、大抵の人は数十年で亡くなってしまいます。当時であれば天然痘などによる幼少期の死亡率もそれなりに高かったのではないかと思いますので「人間ってあっけないなあ」とパスカルが思っていたかも知れません。そのような弱い存在だとする意味で、人間は「葦」という植物と同じぐらいに弱いのだとして、「人間は葦である」としたわけですが、では、なぜ「考える葦」なのでしょうか。人と葦との決定的な違いは人間はいろいろなことが考えることができるし、神の実在を論証しようとしたり、宇宙の広がりについて議論しようとしたりできるという知性や理性を持っているという点です。葦にはそれはできません。もちろん、スピリチュアルな視点から、葦にも心があって叡智が備わっていると考える人もいるかも知れないのですが、とりあえず見た感じでは葦が何かを考えていると理解することは難しいことのように思えます。

またパスカルは人間を中間者だと表現したこともあります。無限の宇宙に比べれば人は小さい存在ですが、ミクロの世界から見れば巨大な存在であるため、中間的な存在だから中間者なのだそうです。

以上のようにパスカルは人間は偉大な内面を持っているけれども不完全な存在であるため、イエスキリストを信仰することによって魂の救済を得るほかはないと考えました。人間は不安や恐怖、臆病さや惰弱さ、罪悪感や膨らんだ欲求で頭の中がパニックになってしまうかも知れないような悲惨な存在で、もし信仰がなければ、その心の中の苦しさから逃げ出すために気晴らしをするしかないのですが、気晴らしに逃避してしまうこと自体が悲惨であるため、イエスキリストに頼るのだということのようです。「神」への信仰ではなく、「イエスキリスト」と表現しているところにいろいろな含みがあるように思えて、それは興味深いことのように思えるのですが、「自分は悲惨だという自覚がない状態で神を知れば、高慢であり、神を知らなければ悲惨な存在である人間は絶望するしかない」だから「イエスキリストへの信仰」によって救いを求めるしかないのだと言ったらしいのですが、はやり微妙な使い分けがあるように思え、それがどのような使い分けなのかということについてはラテン語の知識がなければ多分解明できないかも知れないのですが、信仰を人を救うという考え方は仏教でもどこでも広く存在する考え方ですし、実際に信仰によって救われている人も多いと思いますから、あまり細かいことは気にせずにそれでいいのではないかと思います。

パスカルはデカルトを批判したことでもよく知られています。パスカルは人間は不完全な存在であると理解していたため、デカルトが理性によって宇宙の真理に辿り着けると考えていたことが許せなかったということらしいのですが、私の理解が正しければ、デカルトも人間は不完全な存在だと考えていたはずですので、おそらくパスカルは重箱の隅をつつくようにデカルトを批判していたのではないかという気がしなくもありません。

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ライプニッツとデカルトとヒューム

ライプニッツは生きとし生けるものの知覚と精神は多元的なものであると考え、個々の知覚と精神をモナドと呼びました。モナドは個体の数だけ存在するため、事実上無限に存在すると言ってもよく、当然に多元的なものであると考えることができます。また、「モナドには窓がない」として、個体の知覚と精神、即ち主観はそれだけで完結したものであり、外部とのリンクはなく、我々は他人の内面を自分の経験から推察することはできても、それを実態として確認することは不可能であるともしましたが、それは現代人の感覚から言っても、まあ、確かにそうだと同意できることのように思えます。

デカルトは人間には主観のみが確実に存在すると言えるとしましたが、これはライプニッツのモナドと共通する点があるように思え、デカルトの考えを引き継いだもののように思えます。一方で、ヒュームは主観すらも存在しない、主観が存在するかのように人間は勘違いしているだけだという立場を採りましたので、その点に於いてはヒュームとの差異を見つけ出すことができるようにも思います。

さて、ライプニッツは17世紀のドイツ人ですが、当時のヨーロッパ人はとにかく神について論証しなくては有無をいわさずえらいめに遭わされてしまいます。従って、ライプニッツも当然に、モナド的多元論から神は実在すると論証する必要がありました。ライプニッツは個々のモナドは多元的個別に存在するにも関わらず、人間が考えることにそんなに違いはないことから、そのような共通性を持たせることができたのは神の為せる業であるとして、それをして神の実在は論証できると結論しました。ライプニッツはよくがんばったと思います。また、そのように結論すること自体には論理的整合性という点で問題がないようにも思えますので、実にライプニッツはよくがんばったと言えるのではないかとも思えます。

ライプニッツの確率論は現代の量子論にも通じる考え方ではないかとも思えますし、ゲーム理論とも関係があるように思います。そのようなことを考えると、ヨーロッパにはいろんな哲学者がいましたが、彼の場合は特に高く評価されるべしというか、偉大な人物であったと思って差し支えないのではないかと思います。

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スピノザと遠藤周作

スピノザはデカルトの思想には強い影響を受けたと言われていますが、デカルトが唱えた物心二元論に対しては批判的であり、この世の全てのもの、人の心から花や草などの自然現象、その他ありとあらゆるものに神が宿るとする神一元論という結論に至るようになりました。これを汎神論と呼びますが、全てに神が宿る、或いは全てが神の現れである、または全てが神の一部であるとする考え方は、「無神論」であるとして強い批判を浴び、社会的に干されてしまい、孤独な最期を迎えることになります。あくまでも神に対する考え方の問題でしかないにもかかわらず、社会的に干されてしまうのですから、お気の毒としか思えません。

この「汎神論」という言葉を聴けば、ちょっといろいろ読んでいる人であれば、遠藤周作さんのことがぱっと思い浮かぶのではないかと思えます。遠藤周作さんはかすてメタフィジック批評、形而論的な観点からの批評を行おうとした人ですが、日本人的な形而上の観念とヨーロッパのそれとは違うという立場から、日本の著述の世界をある種の脱ヨーロッパへ向かわせようと努力します。そこには江藤淳先生の『喪失と成熟』的な立場に立てば、西洋に対する強い反感、ある種の憎悪があるように思えなくもありません。遠藤周作さんは上に述べた汎神論と20世紀に入って話題になった宗教多元論という観点から、最後の長編である『深い河』を書き、その信じるところを小説作品にしています。

この遠藤周作さんの汎神論と、スピノザの汎神論は神は遍く宿っていると考える点で大変によく似ています。スピノザはオランダの人ですが、慶応大学の仏文科を卒業し、フランスに留学してヨーロッパの思想哲学の体系を熱心に研究した遠藤周作さんがスピノザを理解していなかったなどということはあり得ず、スピノザの汎神論のこともよく理解し、スピノザが無神論者だと批判されたことも当然に知っており、彼は自身をある程度スピノザに重ね合わせたのではないかとすら思えてきます。

『深い河』の大津はイエスキリストの如く、人の罪を背負って孤独な死を迎えます。これはスピノザがそうであり、またソクラテスがそうであったように、「自分が正義だ」と信じて疑わない人の罪を代わって受け入れるという広い意味での愛の行為であったと言えるのかも知れません。私にそうする勇気はないですが、そのように思うと、ソクラテス、イエス、スピノザ、大津に繋がる自己犠牲の愛の系譜が出来上がるようにも思え、大変に興味深いことのように思えます。


デカルト‐神と私、精神と肉体、感情と理性の二元論

デカルトは「方法的懐疑」という手法を通じて真理に迫ろうと考えました。即ち、いかなるものに対して疑いの目を向けてみる、例えば「東京湾は東京都に隣接している」という命題があった際、本当に東京湾と東京都は隣接しているのか、地図を見れば隣接しているように見えるが、地図が間違っているかも知れないし、自分の目が間違っているかも知れない、経験的に正しいと思っていることも、五感の経験が錯覚や夢のようなものではないという保証はないと考えたわけです。そして、それを突き詰めた結果、それについて考えている自分の主観が存在するということだけは疑いようのない事実であるとの結論に達し、有名な「我思う、故に我あり」に辿り着きます。

認識していることがどれだけ正しいのかわからない不完全な私が存在することを前提に、不完全が存在する以上、論理的に考えて完全が存在する余地は残されており、その思索の結果として完全な神は存在すると結論します。パスカルは人間が理性で考えて神が存在すると結論すること事態が傲慢不遜であると批判したと言いますが、神の存在証明を論理的帰結に求めるか、神秘的経験に求めるか、聖書的奇跡に求めるかは当時のヨーロッパ人にとっては重要な問題だったのかも知れません。現代人であれば、神は主観の問題であるということで結論に代えることも可能ではないかとも思えます。私は個人的に、それを神と呼ぶかどうかは別として、いわゆるサムシングレートみたいな存在はあるのではないかなあと思ってはいますが、これも主観に過ぎません。

さて、デカルトの立場であれば、神を経験的に感知することはできませんから、理性を用いて演繹的にその存在を証明しかないということになり、いわゆる大陸的合理主義としてイギリス経験論との対比関係と位置付けられています。

この演繹的思考法を用いれば、神であろうと宇宙人であろうと地底人であろうと演繹的のその存在、不存在を論証することが可能になります。詭弁に陥りやすいため、注意は必要ですが、詭弁はいつの時代にも存在すると考えれば、デカルトに限らず、いかなる学問にも共通して注意しなければならないとも言えそうにも思います。

デカルトはこの演繹的思考により、精神は肉体とは別個の存在であるとの立場に立ち(主観を持ち考えている私は肉体の存在不存在とは直接関係しない)、精神と肉体の二元論に至ります。考えに考え抜いたわりには普通の結論のように思えなくもありません。真理は常識の中に存在しているのかも知れません。

心の動きに於いても理性と感情の二元論で説明することが可能であり、デカルトは理性によって感情を抑制することをその道徳律としました。フロイトが人間の心を意識と無意識に分けたのは、デカルトの理性と感情の二元論に対するカウンターパートであると考えていたのかも知れません。理性と感情がはっきりしていれば、理性によって感情を支配することは論理的に可能ですが、人は必ずへんな癖があったり、わかっちゃいるけどやめられないことがあったり、うまく説明できないけどどうしてもやりたいことがあったりする、非論理的な側面を持っており、しばしば理性によってコントロールすることに限界が生じます。そのため、デカルトの思考法だけでは日常生活に応用することに限界があるため、フロイトとしては意識と無意識という分け方を用いることによって、人間の心をより実際に近い形で説明できると考えたのではないかとも私には思えます。

よくポストモダンで脱二項対立という言い方がされましたが、まずはデカルトの二元論を知らないと、ポストモダンの意味するところもはっきりせず、理解に苦しむことになると思います。尤も、二元論だの二項対立だの脱二項対立だのというのはヨーロッパ人の教養から生まれて来た発想法であるため、日本人がそのことで悩む必要はないかも知れません。日本の場合、例えば能の世界観であったり、或いは盂蘭盆の習慣であったりというように、そもそも死者と生者の境界が曖昧で、その曖昧さを楽しむという独特のスタイルがありますので、それはそれで大切にすればいいのではないかとも思えます。