昭和史18‐南方電波戦

とある情報機関の発行していた機関紙の昭和13年3月1日付の号で、南方電波戦という小見出しのついた記事がありますので、ちょっと紹介したいと思います。その記事によると台湾に強力な電波を発する放送局を建設し、宣伝放送をやろうというわけです。意外と東京ローズの声も当該放送局の電波に乗せて放送されることになったかも知れません。

当該記事によると「放送機は科学日本が世界に誇る国産機を備へ、206メートルの鉄塔を築き、来年五月頃迄に工事を完了し、十月には早くも我が日本帝国の声を強力電波に乗せて南洋各地に送ることになった」と書かれています。今もその鉄塔が残っているかどうかは分かりません。206メートルと言えば当時としてはかなりのものですから、探しに行ったら残っていないとも言い切れません。

その記事では続いて世界各国の放送局がどうなっているかを表にしており、日本では東京に二つ、各150キロワット、満州の新京に100キロワットのものがあるほか、アメリカやドイツ、イギリス、イタリア、ソビエト連邦など各地の放送局の場所とワット数が書かれてあります。驚きなのは、大抵の放送局が100キロワットか150キロワットであったのに対し、アメリカのシンシナチにある放送局とソビエト連邦のモスクワにある放送局がそれぞれ500キロワットの力量を持っていると書かれていることです。さすがはアメリカとソビエト連邦と妙に感心したくなります。

果たしてどのようなことが放送されたのかは現状では分かりません。資料を読み進めていくうちに明らかになるかも知れません。昭和13年の段階で南洋方面に向けてラジオ放送を計画していた、宣伝放送を南洋方面でやろうとしていたという事実はなかなか興味深いもので、日本帝国がアメリカの経済制裁が行われる前からじわじわと南進を計画していたことを示す資料として価値があるのではないかと思います。

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台湾近現代史33‐映画と女性‐三宅やす子・ソビエト

日本統治時代の台湾で台湾映画愛好家のために結成されたサークルである台湾シネリーグが発行していた『映画生活』の昭和7年5月20日付の号で、神谷千代子さんという人が「シネマ・女性」という題で原稿を寄せています。当時の時代の気分をよく知ることができるのではないかと思いますので、ちょっと紹介してみたいと思います。著者の神谷美千代さんについて検索してみましたが、どういう人なのかは分かりませんでした。

まず冒頭で、

 シネマは近代資本主義が生んだ新しい芸術形態の一つであります。近代女性と呼ばれる言葉もまた近代資本主義と関連したモメントに於いて意義を持っています。

と述べています。映画と近代女性(自由を謳歌する新しい女性)とは、ともに近代資本主義の産物であるという点で共通しているというわけです。大正デモクラシーを経た後の時代のことですから、そういう気分というものが少なくとも日本で盛り上がり、台湾にもその余波のようなものが漂っていたことを上の文から知ることができます。

続いて三宅やす子さんという当時活躍した女性作家のことが述べられています。1932年1月に亡くなった方ですので、当時としては、追悼文的な意味もあったのかも知れません。

故三宅やす子さんなんか、そういう点で作家として近代女性の先駆‐と云ふとおかしいが‐をなした人ではないでしょうか。

とされています。三宅さんが武蔵野館に映画を見に行った時に涙を拭くためのハンカチを持って行ったというエピソードが紹介されていますが、当時は女性が映画館に行くことすら憚られていた、社会的な圧力が強かったということが偲ばれます。他にも三宅さんの著作でボクシングやラグビーを観戦する女性について書かれていることに触れており、そういう女性は「不良少女」と呼ばれて肩身の狭い思いをさせられたけれど「婦人の社会的地位の高まりにつれて」そういうことはなくなった。しかし、まだまだ封建的な考えを持つ人が多くて困る、特に台湾ではまだまだそのあたりが進んでいないということが述べられます。私、いろいろ当時の資料を読んだことがありますが、平塚雷鳥ばりの女性論が書かれている当時の刊行物を初めて発見し、大いに驚ろきました。こういう感じのものを探していたんですが、ようやくたどり着いたという感じです。

著者はここで、映画を観たりスポーツを観たりするというだけでは単なる「退廃したモダニズム」になってしまうけれど、「文化的啓蒙」という観点から映画鑑賞の文化を推進するべきと主張します。そして、理想として掲げているとがソビエト連邦の様子です。

少なく共自らの文化を創造する任務を背負ふ近代女性といふことでありたひと思ひます。そのよき例をソヴェートの女性に見出すことによって一層はつきりするでしょう。そこではスポーツもシネマも文学も大衆の手によって自らの利益のためにその輝かしき前途が祝福されて居ります。×動的文化の単なる享楽とは大いに意義が違います。

気になるのは×の部分です。おそらくは反動の反が伏字になっていると思えますが、これが果たして検閲によるものなのか、それとも自主規制なのかははっきりしません。私が過去に見たことのある資料では、検閲された部分は白抜きになっており、×印を見たのは今回の記事が始めてです。

この×印は他にも「××党一味の中に多数の婦人が参加した事実」という記述もあり、まあ、たぶん、共産党だと思いますが、当時は満州事変後であり、日本の国際的な孤立が始まった時期であり、日本国内にはソヴィエト連邦と連携することで危機に対応するべきだというグループと、共産主義を敵視するグループの両方が存在しましたから、そういった微妙な波の動きをこの記事から感じとることができなくもないように思えます。

『映画生活』では、やたらと「リーグへの逆宣伝」に言及する記事が多いのですが、英米との関係の雲行きが怪しくなりつつある中で、「映画みたいな西洋かぶれなことをやりやがって」という逆宣伝だったのかも知れません。資料を読み進めるうちに、また新しい発見があれば、その謎も解けてくるのではないかと思えます。

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台湾近現代史23‐映画評論記事から読みとる仮想敵としてのアメリカ

台湾の映画愛好家のために発行されていた『映画生活』という雑誌に「フィルムトピックス」という欄があり、昭和7年12月29日号で木野荒男という人が映画事情についてあれこれと書いています。木野荒男というのは、おそらくは「私は気の荒い男ですよ」という意味のペンネームであり、自由にぶった切って評論させていただきますという意思表明のようなものと思いますが、さほど荒っぽいことは書いていないものの、なかなか興味深いことも書いています。

フランスの外人部隊に言及した上で「よく英国あたりの芝居でも外人部隊が出るのだがこの戦隊に日本人でジュウジュツの達人が入隊していると言う劇が二三年前にあった」と述べています。私、随分前に観た映画で日本人のスキー選手が「バンザーイ」と言ってジャンプする場面があったのですが、何の映画かもどういう映画かも全然覚えておらず、印象に残っているのは「バンザイ」が全然まともに言えていなかったことだけを覚えていて、最近はアメリカ映画に出てくる東洋人はすっかり中国人ばかりになってしまいましたが、ちょっと前までは『人類SOS』や『インディペンデンスデイ』みたいに日本人とはとても信じられない発音で東洋人が日本語を話すというのが、ほとんど伝統芸能というかある種のマンネリズムの美意識すら感じさせるくらいに「通常」だったのですが、この木野荒男さんが取り上げている柔術の達人とやらもその類であると思われ、些細なことではあるものの、戦前から日本人が調味料として欧米の演劇や娯楽に用いられていたことが分かります。

木野氏は続けて「シルビア・シドニーが『マダム・バターフライ』に出ると言ふニュースは耳よりの話だがその背景にナガサキの四十人とかゲイシャガールが現れるさうだから、さぞかしハリウッドで考える日本であらう」と述べており、なかなこの辺り、アメリカの日本に対するオリエンタリズム構造に木野氏が気づいていることが分かります。もっとも、日本人も『南進台湾』とか『サヨンの鐘』とかで植民地に対するオリエンタリズム構造は持っていたわけですので、この辺りはどっちもどっちみたいなところがなくもないかも知れません。

更に木野氏は「欧州戦争のおかげでハリウッドが世界に君臨してゐたが、近年欧州映画は断然ハリウッドに対して立上った。クレエルやバプストやエイジェンシュタインがハリウッドを震撼した。特に政府の絶大な援助を有するユーエスエスアールの飛躍は注目に値する」としています。

エイジェンシュタインは『戦艦ポチョムキン』や『イワン雷帝』のような新しいソ連映画の潮流を産んだ人であり、モンタージュ理論の実践者として知られる人です。クレエルが誰かはちょっと分からないのですが、バプストはオーストリアの人で、昭和7年と言えば1932年、ナチスがドイツで政権を獲る直前の時期であり、ヒトラーは世界的な注目を集め始めていました。バプストは後にゲッベルスから賞賛されるという人生を辿ります。ユーエスエスアールとはもちろんソビエト連邦のことです。

既に満州事変が起きた後のことであり、松岡洋右が日本の孤立を恐れ、特にアメリカに如何ににして対抗するかで頭を悩ませていた(結果としては失敗したわけですが…)時期になりますから、日本の外交は少しずつ四苦八苦していくわけで、木野荒男氏の原稿から当時の空気がじわっと伝わってきます。即ち、仮想敵であるアメリカのハリウッド映画は所詮、ゲイシャガール程度のものしか作れない。一方で、日本の味方になってくれるかも知れないソビエト連邦では新しい映画の潮流が産まれ、ドイツ語圏にもバプストがいるというわけです。木野氏は欧州の映画を持ち上げていますが、明らかに欧州大陸の方であり、イギリスは「敵」認定していることが分かります。

ソビエト連邦で政府が映画に注力しているというのも、日本もそうしなければならないというある種の督促、焦りが滲んでおり、じわっと危機を感じていることが察せられます。古い雑誌を調査・研究すると、当時の人が実際何を感じていたのかに触れることができるため、なかなか有効なものだと思います。

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大平正芳内閣‐40日抗争とハプニング解散

三木おろしの後、福田赴夫と大平正芳の間で結ばれた「大福密約」により、自民党総裁の任期を二年とした上で、二年後には再選を目指さず、福田が大平に禅譲するということで福田赴夫内閣が登場したものの、福田が約束を反故にし再選を目指しますが、福田が再選すれば角福戦争に決着がつき、田中角栄復権の目が摘まれてしまうということを田中派が懸念し、田中派の全面的なバックアップで大平正芳内閣が登場します。

大平正芳政権下ではソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻と、それに対する抗議としての西側諸国のモスクワオリンピックへのボイコットがあり、ある意味では冷戦がクライマックスを迎えようとしていた時期とも言えます。その後、ゴルバチョフが登場して冷戦終結とソビエト連邦の崩壊まで10年ちょっとですが、当時はまだそういうことは分かりません。米ソそれぞれに人類を何十回でも滅亡させることができる核ミサイルを保有していつでも撃てるように相手に照準を合わせている時期であり、相互確証破壊だから安全なのか危険なのか判断できかねるというか、核戦争への漠然とした不安もつきまとうような時代だったとも言えそうです。

大平政権下で行われた総選挙では定数511に対して自民党の獲得議席が248と振るわず、福田・中曽根が大平に辞任を迫るという、いわゆる40日抗争が起きます。角福戦争的にも特に見どころのある、これはこれでクライマックスと言えます。自民党が敗けた理由としては、田中角栄への批判が強い中、大平が田中の下僕であるかのように見えたことは大きいかも知れませんが、三木おろし、大福密約と、政治の世界が椅子取りゲームに熱中している様子に対して国民に嫌気がさしたということもあるかも知れず、そういう意味では大平正芳に責任があるというよりは福田にも責任があるとも言えそうですが、いずれにせよ、自民党が分裂状態に陥り、大平は少数内閣でのかじ取りを迫られます。より田中依存を強めざるを得ないという、矛盾と心労のかさむ状況になっていたと言ってもいいかも知れません。

衆議院選挙後の首班指名選挙では、大平と福田に票が割れるという政党政治が機能としているとはとても言えない状況に陥りますが、決選投票で僅差で大平が勝利します。

翌年、社会党が、ハマコーがラスベガスで大損したことまで持ち出して内閣不信任決議案を提出すると、福田派、中曾根派議員が退場。どこにでもとりあえず噛んでくる三木派の議員も退場します。結果、不信任決議案が可決されるという、社会党も予期していなかった事態に至り、大平は解散権を行使。衆議院選挙が行われます。

公示日になって大平正芳は体調を崩して虎の門病院に入院し、小康を得た後に回復の兆しもありましたが、投票日を前にして亡くなってしまいます。自民党に同情票が集まり、自民党は284議席の安定多数を獲得します。

このように見てみると、大平正芳首相は就任後の解散で自民党の議席を減らし、福田・中曽根・三木にさんざん突かれて心労で亡くなったようにしか思えず、大変に気の毒で、結果として自民党が選挙に勝ったということは、それらの人間的過ちのつけを社会党が支払いというなんだかよく分からない展開を見せていたということができるかも知れません。

自民党の新総裁は田中角栄の意向が反映され、鈴木善幸が選ばれます。


鈴木貫太郎内閣‐日本のバドリオ

太平洋戦争もいよいよ望み薄となってきた時期、小磯国昭内閣が中国との単独講和の可能性を模索し、窓口となる人物があまりに信用に足りなかったことから講和は失敗に終わり、その責任を負う形で小磯内閣が総辞職します。その後、後継首相として重臣会議は日露戦争にも参戦したある種の伝説的英雄と見られていた鈴木貫太郎を指名します。鈴木は固辞しますが、昭和天皇たっての希望ということがあり、昭和天皇本人が鈴木貫太郎に頼んだとも言われています。近衛文麿も鈴木貫太郎内閣の成立には積極的だったとも言われています。

もし本当に昭和天皇が頼んだとすれば、天皇の越権行為であり、立憲主義がだいぶ揺らいでいたことを示す事例だと受け取ることもできますが、非常時なので非情の手段をとったとして例外的なことであったという説明も可能かも知れません。

鈴木が昭和天皇から期待されていたことは終戦工作で、とにかく本土決戦に入ってしまう前に戦争を終わらせたいという相当悲壮な覚悟で職務に臨む必要があったに違いありません。

米内光政と木戸幸一がソビエト連邦を仲介にした和平工作に乗り気で、鈴貫太郎もそれに期待をよせていたフシがないわけでもないですが、スターリンは最初から適当に流すつもりであり、当時の状況的にわざわざ仲介して有条件降伏に持ち込むよりも、時期を逃さず日本に侵攻して戦国武将なみに切り取り次第だと考えていたようですから、確かに望み薄であり、徒に終戦を遅らせたという点は残念に思わざるを得ません。

鈴木貫太郎にとって幸だったのか不幸だったのか、7月下旬に連合国側からポツダム宣言が発表され、軍部の強硬論にも配慮して鈴木は「ポツダム宣言にはコメントしない」という態度でしたが、それが「黙殺(ignore)」という表現で世界に伝わり、要するに「拒否(refuse)」なのだなと解釈されてしまい、原子爆弾の投下とソビエト連邦の火事場泥棒的参戦を招いてしまいます。その件について、あくまでも政治家は結果責任だとすれば、鈴木貫太郎には責任があるとも言えますが、原子爆弾とソ連の参戦はそもそも非常識ですから、それを鈴木貫太郎に責任を負わせるのは酷と言えるかも知れません。

1945年8月9日に天皇の地位のを条件にポツダム宣言を受け入れるということを昭和天皇の「聖断」という形で結論を出しますが、連合国側に戦後の天皇の扱いについて「天皇は連合国の制限下におかれる」という返答の解釈で紛糾し、8月14日、改めて昭和天皇の聖断をもう一度仰ぐというやり方でポツダム宣言の受諾を正式に表明することに漕ぎつけます。ちなみに世界は8月9日の段階で日本がポツダム宣言の受け入れを申し入れてきたことが大ニュースになっており、何がどうなっているのか知らぬは日本人ばかりという風になっていたらしいです。

1945年8月14日の夜は、戦争継続派の軍人たちが鈴木貫太郎の自宅を焼き討ちするは、皇居にまで侵入して終戦の詔勅のラジオ放送を阻止しようとまで画策しますが、結局は成功せず、無事ラジオ放送が行われ、ようやく戦争が終わるという展開になります。

既には日本はボロボロでしたら、何故ここまで講和が遅れたのかという疑問がどうしても残る一方、とりあえず本土決戦は避けることができたという意味ではそれなりに評価されてしかるべき内閣と言っていいのではないかとも思えます。

鈴木貫太郎は昭和天皇からとにかく戦争を終わらせることを頼まれており、周囲には「俺はバドリオになるぞ」と話したと言います。バドリオはイタリア降伏を実現させたイタリアの首相であり、要するに戦争継続派を切り捨てて何が何でも戦争を終わらせる役割を自認していたと考えられています。阿南陸軍大臣の出方次第では内閣不一致で総辞職、終戦工作は一からやり直しという不安要素を常に抱えており、そういう意味では阿南が陸軍部内を何とか抑えて終戦に持ち込めるよう努力したという点も評価されるべきかも知れません。阿南は8月15日の朝、終戦のラジオを聴く前に自決しており、彼の美学を称える人もいるようです。

鈴木貫太郎は終戦工作が終わると早速辞表を出し8月17日には総辞職しています。鈴木貫太郎内閣の次は、超短命の東久邇宮内閣が終戦手続きを進めることになります。




平沼騏一郎内閣‐欧州は複雑怪奇

第一次近衛文麿内閣が総辞職した後、後継首相に指名されたのは枢密院議長の平沼騏一郎でした。平沼騏一郎は司法界の出身ですので、政党政治家でもなければ軍人でもなく、また名門貴族でもない一味違ったタイプの首相と言えるかも知れません。

しかし、閣内では親ドイツと新英米で対立があり、近衛文麿を無所任大臣として起用している辺りには、ある程度、傀儡色の強い部分があったという印象も残ります。全体主義色の濃い国民徴用令もこの時に出されています。近衛文麿の体制翼賛体制には否定的でありながら、国民徴用令を出すというあたり、なんとも理解に苦しむところが残ります。半年あまりで潰れてしまった内閣ですので、さほどの仕事ができたとも言えません。

ただし、記憶すべき出来事はいろいろと起きています。日本の運命がいよいよ暗転するという時に、指導力を発揮した形跡は見当たりません。この時期にノモンハン事件が起きており、最近の研究ではソ連側の被害の方が大きかったことが指摘されていますが、それでもやはり大陸に於ける動員力の違いがはっきりした事件と言え、その後の日本帝国にとって重要な研究材料になったはずですが、結局はその教訓が生かされたとも言い難しというところです。

米英強調・反共・親ドイツという3つの要素が三つ巴になっていましたが、そこに独ソ不可侵条約という不測の外交的な爆弾が投下されます。この独ソ不可侵条約そのものがアドルフヒトラーのトラップのようなものですが、ドイツと提携しつつソビエト連邦に対抗するという基本的な軸が崩れて「欧州の天地は複雑怪奇」という言葉を遺して総辞職に至ります。

英米協調でありながらアメリカからは日米通商航海条約の破棄を通告されてしまい、本音は親英米でドイツの勢いを利用して防共という点では松岡洋右と共通項を持ちながらも対立しているなど、当時の政治家は支離滅裂感が強く、私にはこの段階ですでに日本政府は当事者能力を失いつつあったのではないかと訝し気に感じてしまいます。

平沼騏一郎が退陣した後は、阿部信行内閣、米内光政内閣の二つの短命政権が続き、いよいよ運命の第二次・第三次近衛内閣の時代を迎えます。とはいえ、平沼騏一郎が首相に就任した時点では、日本は既に後戻りのできない峠を越えていたのではないかとも思えます。知れば知るほど、返す返すもがっくり来てしまう昭和史です。ろくに首相として仕事のできなかった平沼騏一郎氏がなぜA級戦犯で終身刑を言い渡されるのかも別の意味で残る謎です。


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加藤高明内閣

憲政会、政友会、革新倶楽部の護憲三派が衆議院で多数派を形成し、憲政会総裁の加藤高明が首相指名されます。

加藤内閣では普通選挙法と治安維持法を成立させ、日ソ基本条約を成立させて、日本とソビエト連邦の間の国交を樹立します。悪名高き治安維持法ですが、当時の空気としては普通選挙法で有権者の数が急増することと、ソビエト連邦との国交樹立で共産主義思想が日本に輸入されやすくなることとから、共産主義者が増えるのではないかということに、権力が危機感を持っていたということが伺えます。ただ、ソビエト連邦との国交樹立については、経済界からその要望が強く、普通選挙法も民主国家としてはいずれやらなくてはいけないことですので、治安維持法とセットにすることで反対者を納得させたという面もあったのではないかと思います。この時の陸軍大臣だった宇垣一成が二個師団の軍縮を行っていますので、いろいろ仕事をした内閣だったということは言えそうです。

ソビエト連邦との樹立では、日本軍が進駐していた北樺太から撤退することを条件に、北樺太資源を日本に提供するという交換話が成立しており、なんとなく今の北方領土問題と似ているように思えなくもありません。

加藤高明は護憲三派による連立内閣でしたが、憲政会と政友会のつなぎ役をしていた横田千之助が急死したことを受けて政友会が連立政権から離脱する動きを見せ、加藤高明下しを始めます。加藤高明は内閣総辞職の辞表を提出しますが、裕仁摂政宮はそれを受理せず、再び加藤高明に組閣が命じられます。首相の指名権を持つ元老の西園寺公望は元々は政友会の総裁までやった人ですが、横田千之助が亡くなった途端に加藤下しを始めたことが、美学に反すると感じ、加藤を続投させることに決めたと言われています。

加藤は憲政会だけの少数与党で続投しますが、4か月後に急死してしまいます。少数与党だと何もできませんので、やはり相当な心労が重なったのではないか推量できます。

加藤の後継者には憲政会の若槻礼次郎が首相に指名されており、西園寺公望の憲政の常道は維持するという意思を見ることもできるでしょう。その後しばらくの間、憲政の常道にのっとった形での首相指名が続きますが、やがてそれがダメになり、西園寺が育てた近衛文麿によるエスタブリッシュメント内閣で滅亡への道を全力で突っ走ることになります。

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