昭和史74‐ABCD「S」包囲網

太平洋戦争が始まる直前のころ、日本に対して行われた経済封鎖を一般にABCD包囲網と言います。Aがアメリカ、Bがイギリス(ブリテン)、Cが蒋介石(チャイナ)、Dがオランダ(ダッチ)というわけですが、私の手元にある昭和16年10月15日付の資料では、「ABCDS包囲網」と表現されています。新たにSが加わっているわけですが、このSはスターリンのことを意味しています。

当該記事では、

ABCDS同盟とは、英国、米国、蒋介石政権、蘭印(オランダ領インドネシア)、ソビエトなどが互に政治、軍事、経済あらゆる面に於て深いつながりを保ち、日本の南方発展をおさへつけて、戦争を長びかせることによって、ABCDS同盟の勝利に導かうとする策動

と説明されており、状況認識としては完全に正しいと言えます。戦争が長引けば物量に於いて劣る枢軸国に不利になることは明らかで、この段階では既に枢軸国側の限界が様々な点で露呈されて始めていた時期であったとも言えますから、「戦争を長びかせる」ことによって勝利を得ようとする策動という見方は的確であるとすら言えます。昭和16年10月の段階であれば、アドルフヒトラーの予定では既にモスクワは陥落していたはずであり、そろそろ冬将軍の不安が湧き始めていたはずです。日本についてはこれまでも辿ってきましたが既に物資不足に喘いでおり、生活用品の鉄の供出までさせなければならない状態で、限界が見え始めていたと言えます。

当該記事ではABCDSなる包囲網への警戒せよと呼びかけているわけですが、このようにインテリジェンスの現場が的確な現状把握をしているにもかかわらず、中央の意思決定機関ではごねごねごちゃごちゃと優柔不断を続けており、ドイツがソビエト連邦に侵攻した段階で、国際信義を裏切ったドイツを切るか、利益優先でソ連と戦争するかの二択になってしかるべきで、譲歩してでも蒋介石と手打ちに持ち込むのが理想なわけですが、そういったことは一切できずに、あろうことかアメリカと戦争しようかという話になっていくわけですから、どうしてこのように大局を見誤ってしまったのかといつもながらがっくししてしまいます。日本は蒋介石打倒、大東亜共栄圏建設、更に南進という複数の国家目標によって自縄自縛に陥って矛盾が生じたらどうしていいかわからない、見通しと違うことが起きても変化に対応できないという意思決定機関は思考停止に陥っており、ドイツがなんとかしてくれるだろうという幻想にしがみつき、軍がとことんやり抜くと言い張るのでそこに対しては身内意識で譲歩して、惨めな滅亡へと向かっていきます。

私の読んでいる資料も残り少なくなってきましたから、昭和史シリーズも近く一旦終了する予定ですが、読めば読むほど暗澹たる心境になっていきます。早く読み終えたい…

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昭和史72‐昭和16年7月2日の御前会議‐日本帝国終了のお知らせorz

昭和16年7月2日、近衛内閣が御前会議で「情勢ノ推移二伴フ帝国国策要綱」を採決します。閣議決定ではなく、御前会議ですから当時の感覚としては変更不能な絶対神聖な決定だと考えられたに違いありません。

私の手元にある資料では「御前会議にて重要国策を決定 内容は公表せず不言実行」と書かれてあります。当時の一般の人はどんな国策が決められたのかはさっぱり分からなかったというわけです。もちろん、現代人の我々はその内容を知る事が出来ます。1、大東亜共栄圏の確立を目指す 2、南進するが状況次第で北進もする 3、そのためには万難を排して努力する、というのが当該の御前会議で決められた国策だったわけです。

「大東亜共栄圏」については、当時はブロック経済圏を持たなくては生き延びることができないと信じ込んでいる人が多かったですから、まあ、理解できないわけではありません。大東亜共栄圏という美名を使って日本円経済ブロックを作ると言うのは、当時、覇権国のプレイヤーを自認していた日本帝国としては悲願だったということは、分かります。しかし、2番目の南進と北進両方やるというのは、玉虫色、ご都合主義、政府内の南進論者と北進論者の両方を満足させるための無難に見えて実は滅亡必至の国策だったと言わざるを得ません。日本帝国はもともとは南進を志向し、広田弘毅内閣以降、それは国策として進められ、日本帝国が南へ拡大しようとしていることは周知の事実であったとも言えますが、一方でソビエト連邦と共産主義に対して警戒感を持つグループでは北に備えるべしとの声が根強く、松岡洋右がソビエト連邦と中立条約を結んだことは平和的且つ低コストで北の脅威を払拭できた「はず」だったにもかかわらず、ドイツが不可侵条約を破ってソビエト連邦に侵攻したことで、「あわよくば」的な発想が持ち上がり、ドイツ側からは日本のソ連侵攻について矢の催促が来ていたことで、まあ、迷いが生じてしまったと言えるのではないかとも思えます。そもそも西で蒋介石と戦争を継続中で既に軍費が嵩んで日本帝国は青色吐息になり始めていたわけですが、更に東のアメリカと睨み合う中、南にも攻めていく、北にも攻めていくというのは、無理難題というものです。日本帝国は誰にも強要されたわけではなく自分たちで無理難題に挑戦することを選択してしまったと結論せざるを得ません。

仮に、ドイツと一緒に戦争に勝って日独新世界秩序みたいなものを作り上げることを優先するとするならば、断然、北進が正しく、ソビエト連邦は二正面戦争になりますから、日独勝利でもしかたら英米も弱気になって妥協するということはあり得なくもなかったかも知れません。この国策を受けて関東軍は満州で関東軍特別演習を行い、北進の機会を伺いますが、世界に「私たちは野心があります」とわざわざ宣言するような行為をしておきながら、日ソ中立条約もありますし、ノモンハンのトラウマもあって一線を越えることはありませんでした。資本力でドイツが劣っていることは一般知識だったとすら言えますから、長期戦でソビエト連邦に絶対に勝てるかと問われれば、普通なら絶対に勝てるとは思えないはずですが、ヒトラー信仰の空気が支配的になっており、日本が加担しなくてもドイツが努力でソビエト連邦を滅ぼしてくれるだろうというあまりに甘い観測で、状況を見誤ってしまったとも思えます。

一方で、南進は以前から国策だったこともあり、南部フランス領インドシナへの進駐をアメリカからの警告を受けていたにもかかわらず遂行し、結果としては経済封鎖を受けて、やむを得ず真珠湾攻撃へと至ります。すなわち、北進優先だったら戦争には勝てたかも知れないのに、南進の方を積極的に進めて日本帝国は滅亡への道をまっしぐらに大急ぎで駆け抜けてしまったと言ってもいいのではないかと思います。しかも「3」で万難を排してそれを遂行すると昭和天皇の隣席で決めてしまったので、アメリカと戦争してでも南進を推し進めることになってしまったわけです。日本帝国終了のお知らせorzです。資料を読めば読むほどがっくしですが、まだしばらくは続けます。

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昭和16年4月、日本の松岡洋右外務大臣と、ソビエト連邦のモロトフ外務人民委員が署名し、日ソ中立条約が成立します。内容としては日ソ相互不可侵、満州国とモンゴルの領土保全、第三国と戦争になった場合は中立を守るというもので、当時は松岡洋右の外交の大勝利と言われたようです。松岡はベルリン、モスクワ、満州、汪兆銘南京政府、日本帝国にわたる広大な地域が協力関係を結ぶことによりアメリカに対抗するという構想を考えていたと言われており、それはたった一つの誤算を除いて概ね正しい考え方だったかも知れません。ヨーロッパ戦線ではドイツはイギリス上陸こそ阻まれたものの、優勢であることには変わりなく、日本はソビエト連邦と戦争する心配がなくなったので安心して南進に専念できるというわけです。

しかし、たった一つの誤算によってその構想は結果としては大破綻へと繋がって行ってしまいます。私の手元にある資料の昭和16年5月1日付の号では、松岡は先にヒトラーとムッソリーニの諒解を得たうえで日ソ中立条約を結んだとされていますし、実際、ドイツとソビエト連邦が不可侵条約を結んでいて、このことで防共を国策にしていた平沼騏一郎首相が欧州事情は複雑怪奇と首相を辞任するという状態でしたから、日ソ中立条約で松岡洋右がユーラシア大集団安全保障ができあがったと考えたとしても不思議なこととは言えません。ただ、まさかアドルフヒトラーが独ソ不可侵条約を破ってソビエト連邦に攻め込むとは考えていなかったというのが唯一の誤算であり、いろいろな意味で命取りの誤算だったとも言えるように思えます。

イギリス・アメリカはヒトラーのソビエト連邦侵攻は既に予想しており、その予想については松岡の耳にも届いていたとも言われています。ヒトラーはバイエルン地方の山荘に大島駐ベルリン大使を招き、ソビエト連邦へ侵攻する意思を伝えるということもありましたから、松岡が上に述べた大安全保障構想はそれが成立する前から既に破綻する方向に向かっていたのかも知れません。欧州事情、正しく複雑怪奇です。真っ直ぐで正直、誠実を美徳とする日本人が策士を気取って動き回れるような甘いものではなかっとも言えそうです。

ナチスドイツがヤバい集団だということは当時も多くの人たちが気づいていたはずですし、日本人にも見抜いていた人はいたに違いないと思いますが、アメリカを脅威に感じる不安によって現実を歪んだ形で理解されるようになってしまったのかも知れません。ドイツがバルバロッサ作戦でソビエト連邦に侵攻したのは、松岡構想の破綻を意味しますし、本来であれば国際信義を無視するナチスを見限ってこそ正解になるはずですが、日本帝国の中枢では大島大使の情報が正しかったことに驚き、その後大島大使から主観と願望が入り混じったドイツ必勝の確信の電信を信じ込んだというのは、現代人から見れば、この点に関しては同情する気にもなれず、がっくしするしかありません。ドイツからは日本も極東ソ連に侵攻するように矢のような催促があったと聞いたことがありますが、日本帝国はそれでも律儀に日ソ中立条約を順守し、最後の最後でスターリンにはしごを外されるという無残な終焉を迎えます。

日本はヒトラーに騙されてスターリンにも騙されるという、まるで滑稽なピエロのようなものだったわけですが、日本人として情けなさ過ぎて涙も出ません。ただただ、がっくしです。アドルフヒトラーには彼個人の妄想があり、日本帝国には打倒蒋介石という別の妄想とアメリカに対する恐怖心があって頭がいっぱいになっており、日本とドイツの同盟は同床異夢の感を拭うことができません。日本はドイツと単独不講話の約束もしており、これはドイツだけ講話して日本だけはしごが外されてはたまらないという不安を払拭するためにした約束ですが、太平洋戦争が始まった後、シンガポール陥落後に講和への努力をしなかったのは、ドイツとの約束が足かせになっていたからで、騙されまくりながらも自分たちは律儀に約束を守り、結果として滅亡するわけですから、目も当てられないというか、資料を読みながら「見ていられない」という絶望感に打ちのめされます。

当該の資料では、他にヒトラーユーゲントに着想を得て植民地の若者に体験入営させるたという内容の記事もあり、当時の日本のドイツ信仰が如何に強力だったかを思い知らされます。宮崎駿さんが「日本人は戦争が下手だから、戦争はやらない方がいい」と言っていた動画を見たことがありますが、私も全く同感です。

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昭和16年4月1日に発行されたとある情報機関の機関紙では、アメリカの事情が座談会形式で紹介されています。当時官僚だった人がアメリカに渡航して帰ってきて、アメリカ近況を雑感のような感じで話しているのですが、アメリカ人の対日感情は頗る悪化している一方で、アメリカの海軍力は日本の帝国海軍に比べて劣っており、戦闘機の性能も日本の方が高く(『風立ちぬ』みたいにとことん研究し抜いて世界一軽い飛行機を作ったわけですから)、アメリカにはとても参戦する準備ができていないと述べられています。そのため、日本には経済的な圧迫を加え続ける必要があると考える人が多いとも述べています。

また、もしアメリカがヨーロッパの戦線に参戦するとしても、それはアメリカがドイツに勝てるという目途が立つなら参戦するだろうけれど、ドイツが圧倒的有利な情勢なので、アメリカは参戦しないだろうとも述べています。更にアメリカはいわゆるモンロー主義の国なので、戦争にそもそも消極的なので、やっぱり参戦はないというわけです。で、話題はドイツ軍のイギリス上陸はどうかという方向に向かい、これは結構難しいかも知れないから、今どうするべきか検討中。

というような内容でした。ざっと読んだ感想としては状況の分析は非常に正しいとも思えます。日本側から真珠湾への一発がなければアメリカ世論は戦争には賛成しなかったでしょうし、当時はまさか日本から真珠湾攻撃をやるとは誰も知らない(山本五十六は既に何度も頭の中でシミュレーションしていたことでしょうけれど)状況ですから、アメリカの参戦はないと考えるのは「常識的」と言ってもいいかも知れません。また、ドイツ軍のイギリス上陸はそんなに簡単ではないという見方も正しいと言えます。結果としてはイギリスの海軍力がドイツのそれを圧倒し、アドルフヒトラーはイギリス上陸を断念することになったわけですから、ほとんど無謬と言ってもいいほど正鵠を射た分析とも思えます。ドイツがバルバロッサ作戦を始めるのはこの年の6月ですし、ドイツとソビエト連邦は不可侵条約を結んでいたことも考えれば、まさかドイツが二正面作戦をやるとは誰も考えていなかったわけで、繰り返しになりますが、本当に正しい分析としか言いようがありません。

ただ、やはりこの世は一寸先は闇と言うべきかも知れないのですが、イギリス攻略を断念したヒトラーがソビエト連邦に矛先を向けてから状況が一変したことを現代人である私たちは知っています。二正面戦争で手が回らなくなり、ナチスドイツは滅亡していくという運命を辿ります。そのドイツを頼みにしていた日本帝国も道連れに滅亡するわけです。日本帝国も資本、物量では劣っており、昭和15年の東京オリンピックも東京万博も開催できなかったわけですから、枢軸国サイドは資本・物量で敗けており、長期戦になれば勝てないということは、考えてみれば歴然としていたと言ってもいいかも知れません。

ナチスドイツはプロパガンダに於いて大変に成功していたと言われています。日本帝国もナチスのプロパガンダに引っかかってしまったような気がしなくもありません。古い資料は推理小説を読んだりするほど面白いわけではないですが、当時の人の考えていたことがよく見えてきますし、当時の空気、教科書には書かれていない細部についても見えてきますので、それが醍醐味と思います。もうしばらく、この資料を追いかけていくつもりです。

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昭和史67‐ビルマルート爆撃

とある情報機関の発行していた機関紙の昭和15年12月1日付の号では、ビルマの援蒋ルートを日本軍が爆撃したことに関する記事が掲載されていますので、ちょっと紹介してみたいと思います。当該の記事によると「イギリスをはじめアメリカやロシアは飛行機、自動車、弾丸、鉄砲を重慶に売り込んで蒋介石の後押し」をしていると述べられており、イギリス、アメリカ、ロシアの真の目的は日本と蒋介石政府の双方を弱らせて東洋の土地を奪うことだとしています。

で、メコン川の遥か上流のヒマラヤ山脈を伊豆の踊子の如く九十九折りになって重慶へと向かうトラックを足止めするために、ヒマラヤ奥地の橋を爆撃したという武勇談が述べられているわけですが、この段階でイギリス、アメリカをはっきりと「敵認定」していることが分かるほか、当該記事ではソビエト連邦も敵認定していることが感じ取れます。

爆撃した橋は「功果橋」と呼ぶらしく、その橋が果たして誰の所有なのか、イギリス領ビルマの範囲内なのか、それともチベットなのか或いはちょっと見当のつかない場所なのかは検索をかけてみてもわからなかったのですが、蒋介石政府にたどり着く前の地点を攻撃しているわけですから、既にイギリスとは戦闘行為が始まったと受け取ってもいいくらいの事態に昭和15年末頃の段階で発展していたということが分かります。

日中戦争が始まった当初、アメリカはモンロー主義で、芦田均の『第二次世界大戦外交史』ではイギリス、フランスオランダは当初日本と事を構えて東南アジアの植民地を失うことを恐れていたとも書かれてありましたから、そもそも欧米と事を構えることを日本帝国の当局者も想定していなかったのではないかと思います。早々に戦争を終わらせていれば、太平洋戦争になることはなかったかも知れません。ところが、延々といつまでも戦争が終わらず、近衛文麿はここぞとばかりにそもそもの持論である全体主義的統制経済をやり始め、軍需品が必要ですから民生品が品薄になり物資不足で資金も不足という深刻な事態に陥りつつある中で、愈々欧米諸国とも事を構える決心を堅めつつあるあたり、読んでいる現代人の私としては背筋が寒くなる思いです。

当該の情報機関は当初は台湾とその対岸の広東、南京あたりの情報収集及び戦果の宣伝みたいなことをしていたのですが、だんだん手を広げるようになり、フィリピンインドネシアインドシナと範囲が拡大して今回とうとうビルマまで手を出したという感じです。「東亜共栄圏」なる言葉が公然と使われ始め、日満支(汪兆銘政権)だけでなく、東南アジア全域を含む日本経済ブロックを作ろうとしていたわけですが、どうも当初からそのような想定をしていたわけではなく、どこかの時点で「行けるところまで行こう」という発想になったように思えます。行けるところまで行こうとすれば、必ず欧米の大国と戦争になるまで突き進むことになりますから、そういう決心をした段階で日本帝国滅亡フラグが立ったも同然とも思え、かえすがえす「馬鹿なことを…」と思はざるを得ません。広田内閣の五相会議で南進が採用され、近衛内閣の閣議で南進が改めて正式に国策として採用されたことから、官僚主義的に深く考えずに国策通りに進んだのかも知れません。一旦決まった政策について臨機応変できないあたり、今ももしかするとあまり変わらないのではないかという気もします。援蒋ルートを断ちたい陸軍と日本経済ブロックを作りたい政治家と、宮崎滔天や頭山満みたいな民間の大アジア主義がぐちゃっと混ざって肥大したという感もなくもありません。精工に練られた構想というわけではなく船頭多くして船山に登る式の場当たり的、ご都合主義的な拡大主義が見て取れます。

一重に蒋介石との戦争に勝つために遠いビルマまで爆撃に出かけ、英米と険悪になり対抗策としてドイツのアドルフヒトラーと結ぶという悪手を選び、滅亡への坂道を転げ落ちようとしている日本帝国の姿を追うのは心理的なダメージが強いですが、取り敢えず手元の資料は全部読む覚悟で読み進めています。

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昭和史65‐日独伊三国同盟と昭和天皇の詔書

とある情報機関が発行していた機関紙の昭和15年10月15日付の号では、盛大に日独伊三国同盟の成立を祝福しています。昭和天皇の詔書、更には近衛文麿の告諭、ついでにダメ押しの如くリーフェンシュタールの『民族の祭典』の宣伝まで掲載した狂喜乱舞ぶりを見せています。現代人の視点からすれば、アドルフヒトラーと手を結ぶというのは絶対にあり得ないとしか思えないですし、アメリカ・イギリスが「日本帝国滅亡させてもいいよね」と決心させる決定打になったとも思いますから、当時の資料を読むのはつくづくため息をつかざるを得ないのですが、取り敢えず、まず、昭和天皇の詔書の内容を見てみたいと思います。

政府二命ジテ帝国ト其ノ意図ヲ同ジクスル独伊両国トノ提携協力ヲ議セシメ茲二三国間二於ケル条約ノ成立ヲ見タルハ朕ノ深ク悦ブ所ナリ

とされています。この詔書を誰が起草したのかは分かりませんが、近衛文麿首相が強く働きかけて詔書の渙発に至ったことは間違いないものではないかと思います。近衛文麿としては天皇に詔書を出させることで三国同盟の正統性を高めたいという意図があったに違いなしと思います。昭和天皇本人がアドルフヒトラーに対してどういう意見を持っていたのかは多少謎ではありますが、昭和天皇は天皇に即位したばかりのころは色々と政治に口を出し、自分の影響力の大きさに驚いて立憲君主に専念しようと誓ったものの、やっぱりついつい口を出してしまうと繰り返していましたから、近衛文麿がアドルフヒトラーと組みたいと言い出した時に絶対反対というわけではなかったのかも知れません。『昭和天皇独白録』では、ナチスと話をまとめて帰って来た松岡洋右について「ヒトラーに買収でもされたのではないか」とかなり冷ややかなことを語っていますが、敗戦後のことですから、昭和15年の時の天皇の心境と敗戦後の天皇の心境には大きな変化があったと考える方が自然と思えますから、やはり昭和15年の段階で昭和天皇本音がどこにあったかはなんとも言えません。首相選びについては昭和天皇はファッショな人物は避けるようにという意見表面をしたことがあったようですが、近衛文麿は全体主義こそ国家国民を救うと信じ込んでいた本物のファシストとも思え、本当に昭和天皇は近衛文麿が首相でいいと思っていたのか疑問にも思えてきます。しかし一方で昭和天皇には名門出身者に対してはある程度寛容で、信用もしていたようですから、天皇家、宮家に次ぐ日本屈指の名門である近衛家の人物ということで、近衛文麿に対しては思想を越えた信頼があったのかも知れません。

昭和天皇が政府要人と会見した際、大抵の場合、要人の椅子の背もたれは暖かくなかったと言います。緊張して背筋を伸ばしていたからです。ところが近衛文麿が立ち去った後、背もたれは暖かかったと言いますから、近衛が昭和天皇に対する時もだいぶリラックスした感じだったことが想像できます。昭和天皇は大正天皇の摂政を努めた時から政治の中心にいて、政治家としてのキャリアは半端なく、大抵の政治家や官僚、軍人は昭和天皇に比べればどうってことないみたいな感じで恐縮するしかなかったのかも知れないものの、近衛文麿は西園寺公望に仕込まれて若いころにはベルサイユ会議にも参加していますから、近衛は近衛で政治家としてのキャリアは半端なく、家柄もその辺の軍人や官僚とは全然違うという自負もあったに違いありません。昭和天皇と近衛文麿、両者の呼吸の具合、人間関係を踏み込んで調べていけば面白いかも知れないですが、取り敢えずここでは日独伊三国同盟に話を戻します。

当該の号では昭和天皇の詔書の下に「内閣総理大臣公爵」近衛文麿の告諭が掲載されています。そこでは

今ヤ帝国ハ愈々決心ヲ新ニシテ、大東亜ノ新秩序建設二邁進スル秋ナリ(ここで言う「秋」とは「時」というニュアンス。一日千秋の「秋」みたいな感じでしょうか)

と述べられています。果たして近衛の言う大東亜がどこまでの広さなのか、東南アジアもシベリアも行けるところまでひたすら突き進むという意味なのか、それともそれなりにどの程度の広さという考えがあったのかどうか、はっきりとしたことは私にも分かりませんが、諸外国の人物が読めば「日本はアドルフヒトラーみたいな凄いのと手を結んだから行けるところまで行くぜっ」と宣言しているように見えたに違いありません。アドルフヒトラーは日本と同盟してソビエト連邦を挟み撃ちにする野望を抱いていた一方で、松岡洋右はベルリンからの帰りに立ち寄ってモスクワで日ソ不可侵条約を結んで帰って来たという一点をとってみても、日本とドイツは同床異夢の関係で、この同盟はほとんど有効に機能することもなく、後世にアドルフヒトラーのような極悪人と手を結んだという日本人に対する悪評だけが残ったわけですから、こうして日本帝国は滅亡していくのかと思うと「ため息」以外の言葉を書くことができません。

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昭和史57‐南進論とフィリピン

フィリピンは長年スペインの植民地下にありましたが、米西戦争の結果、アメリカ領になります。ただ、フィリピンではスペイン時代から独立運動、抵抗運動が根強く、アメリカ領になってからもその抵抗は続き、しかも宮崎滔天のようなアジア主義者がフィリピン独立運動に協力する動きも見せていましたから、アメリカも相当に手を焼いたようです。結果としては、アメリカの議会でもフィリピン分離論が盛り上がり、フランクリン・ルーズベルト大統領の時代にフィリピン独立法が成立し、第二次世界大戦後の1946年に既定路線通りにフィリピンは独立を果たします。

日清戦争の結果、日本が台湾を領有して以降、西洋列強は日本が更に南に位置するフィリピンに対して領土的野心を持っているのではないかと警戒していたようですが、1905年に桂・タフト協約でアメリカのフィリピンに対する権益を日本が犯さないと約束し、日本が朝鮮半島に対する権益をアメリカは認めるという交換協定のようなものが結ばれ、双方、手出しをしないという状況が続きます(上述したように、宮崎滔天のような民間人はいろいろ動いていたようですが…)。1908年には高平・ルート協定というものが結ばれ、日本はアメリカのハワイ・フィリピンに対する権益を犯さないと約束し、アメリカは日本の朝鮮半島及び南満州の権益を黙認するという協定が結ばれます。アジア太平洋地域に於ける勢力図の再確認のようなものだったと言っていいかも知れません。

ですが、日本国内では南進論が根強く、第一次世界大戦の結果、フィリピン東方の南洋諸島が日本の委任統治領になったことから、フィリピンは日本の領域に囲い込まれたアメリカ領という、ちょっと難しい位置になってしまうことになりました。

さて、先にも述べたように、フィリピンが1946年に独立することは30年代から既定路線になっていたわけですが、日本側が不安に感じたのはフィリピンに米海軍基地が存続するかどうかということだったようです。私が追いかけているとある情報機関の発行していた機関紙の昭和14年1月11日発行の号では、フィリピン独立法について述べられており、しかしその後もアメリカ海軍基地が存続するかどうかについての懸念が述べられています。当該記事では「比律賓の永久中立の問題」と「米軍海軍根拠地の問題」があると指摘しています。当時、この記事が出た段階では、日本帝国は広田弘毅首相の時代に五相会議で南進が決定された後なわけですが、それは云わばこっそり五人の大臣でそういうことにしようと相談して決めた程度のもので、具体的に南進論が閣議で正式に決定されるのは1940年7月、近衛文麿内閣でのことです。当該記事は同じ年の1月という微妙な時期に出されたことになるわけですが、独立後のフィリピンの「永久中立」を求めるというのは、日本の南進にアメリカ海軍が脅威になるという認識があったからに相違なく、もうちょっと踏み込んで言えば、南進論が国策になっている以上、そのうちフィリピンも獲りたい、控えめに言っても「大東亜共栄圏」構想にフィリピンを取り込みたいという狙いが背景にあったことは間違いないように思えます。欧米列強が自国の植民地が日本に獲られるのではないかと警戒したのは、読みとしては正しかったとも言えますし、結果的にこの国策が日本帝国を滅ぼすことになったとも言えるため、何もわざわざ遠い南国を獲りに行かなくても良いものを…という残念な心境になってしまいます。

日本の南進論が具体的に発動するのは北部仏印進駐からで、その後アメリカ側からは日本に対し、もし日本帝国が南部仏印にまで手を出したら経済制裁をすると警告を出していたにもかかわらず、南進の国策通り、日本帝国は南部仏印にまで進駐を始めます。フランス本国がナチスドイツに降伏した後なので、おそらくは渋々ではあったではあろうものの、日本のインドシナ進駐は平和的に行われました。ナチスドイツがフランス本国を抑えてくれていたおかげで楽にインドシナを獲れたという意味ではラッキーだったわけです。ただし、それが結果としては太平洋戦争への引き金へと発展していくわけですから人間の運勢と同じく、国運という言葉がついつい頭をよぎります。当時は、自国のブロック経済圏を持たなければやられてしまうという強迫観念のようなものがあったのではないかとも思えてきます。

太平洋戦争で山本五十六が真珠湾攻撃に出たのも、帝国海軍が如何にアメリカ海軍を脅威に感じていたかを示すもので、フィリピンにアメリカ海軍基地が存続するかどうかは当局者にとっては重大な関心事であったに違いありません。アメリカ軍は蛙飛び作戦で重要な島だけを獲って日本本土へ迫る方針で臨みますが、当初フィリピンは無視していいのではないかとの議論があったのに対し、マッカーサーが良心の観点からフィリピンは奪還しなければならないと主張した背景には、アメリカがフィリピン独立を約束していたということでより説得力を持ったのかも知れません。フィリピンでの戦いでは関東軍の主力が投入され、ほぼ全滅という悲惨な結果になりますが、更には関東軍の主力が不在になっていたために終戦直前になってソビエト連邦の侵攻がより容易になったと思うと、日本帝国がひたすら負のスパイラルへと落ち込んで行ったことが分かります。

フィリピンもインドシナも満州も日本から遠く離れた土地で、それらの地域が誰の主権に収まろうと日本人としては知ったことではないとも言えますが、その遠い土地を巡って何百万人もの日本人が命を落としたと思うと、いったいあの戦争はなんなのだと首をかしげざるを得なくなってしまいます。

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昭和史54‐東亜経済ブロック‐遅れて来た帝国

昭和14年10月ごろの資料の読み込みをしたのですが、一方で「来年は紀元は2600年」と華々しく書き立てつつ、物資の不足に相当に悩んでいたことも見えてきます。「日本帝国」は内地の他に千島、南樺太、北海道、沖縄、台湾、朝鮮半島、関東州、南洋と諸方面に広がっていただけでなく、満州国、汪兆銘政権という傀儡政権も作っていたので、影響力を及ぼした範囲はかなり広いため、私もその全てを追いかけることは、まあ、そもそも無理と思ってはいるのですが、植民地の一つである台湾では電力供給の調整、物価の統制、米の消費の抑制の呼びかけ、国債購入の奨励と、これだけ挙げただけでもどれだけ物資に困っていたかが分かります。全て一重に蒋介石政府と戦争するためにここまで国力をつぎ込み、国民には我慢を呼び掛けているわけですから、これでアメリカと戦争をしようというのもそもそも無茶な話と言えますが、もう一歩踏み込んで言えば、アメリカの経済制裁のきっかけになった南仏印進駐の主たる動機は蒋介石包囲にあり、ハルノートを受け入れたくなかったというのも、突き詰めれば蒋介石との戦争を止めるよりはアメリカと戦争した方がまだましだという発想があったと言え、どうしてそこまで、国を潰す覚悟で蒋介石と戦い続けようとしたのか、個人的にはさっぱり理解に苦しむところです。

とある昭和14年10月21日付の情報機関の発行した機関紙では「日満支ブロック」という言葉が出てきます。イギリスやフランスが自分たちの植民地を囲い込んで、そこでうまく回しているのだから、日本も帝国の領域+満州国+汪兆銘政権で友好親善経済ブロック確立というわけです。但し、上述したように物資の確保に汲々としていたわけですから、はっきり言えば、満州国と汪兆銘政権の支配地域の資源も日中戦争の続行のために使用したいというのが本音のように思えます。「紀元2600年」に合わせて東京夏季オリンピック、札幌冬季オリンピック、更には東京万国博覧会まで誘致して盛り上げようとしていたわけですが、それは全てリソース不足のために中止されるという、がっくしな事態に陥って行くわけですから、読んでるこっちががっくしです。当該の機関紙には、帝国の植民地で暮らす華僑の人たちの汪兆銘政権支持の声明のようなものも出されており、果たして華僑の本音がどこにあったのか、本音では蒋介石を支持しつつ、帝国に慮って汪兆銘政府を支持することにしていたのか、或いは一部には本気で汪兆銘を支持して「日満支」親善友好を願っていたのか、もはや永遠の謎ですが、やはりどうしても、そこまでして蒋介石と戦い疲弊しなくてはならなかったのかが、繰り返しにはなりますが、理解に苦しんでしまうのです。当該の機関紙では、何度か蒋介石がコミンテルンで組んでいるから、コミンテルンの拡大を抑えるために、要するに防共のために蒋介石と戦わなくてはならないと書いていたことがあるのですが、その前から日本帝国と蒋介石は戦争状態に入っていたため、順序が逆ということになってしまいます。もうちょっと言うと、一方で防共と言いつつ、ノモンハンでえらい目に遭わされて、その後は日ソ不可侵条約へと発展し、あれほど目の敵にしていたソビエト連邦を友邦と見做して、ソ連が参戦してくるまではソ連の仲介による太平洋戦争の講話を模索するという本末転倒へと日本帝国の運命は流れて行ってしまいます。いろいろなものを読めば読むほど、読みつつ考えれば考えるほど、日本帝国の末路が意味不明なものに思え、日本人として結論としては「がっくし」となってしまうわけです。


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昭和史23‐張鼓峰事件

張鼓峰は朝鮮半島と満州国とソビエト連邦の入会地みたいな感じになって、どこに主権がはっきりとは分からないエリアにあり、日本側も軍を置くというようなことはせず、ソビエト側も同じく積極的に介入するわけでもなく、なんとなくにらみ合いになる時期が続いていたことがありました。

昭和13年7月29日、ソ連側が進撃し、同地域の占領を目指します。山稜地帯ですからそこを奪取すれば満州、朝鮮エリアをかなり遠くまで見渡せるので何かと有利という、当然といえば当然の理由で、ある意味早い者勝ちと考えてソ連側が軍を出したようです。

日本側は夜襲をかけ、ソ連軍を撃退しますが、その後、一進一退の泥仕合が続けられることになります。日本にとってこの戦いの最も大きな意味は、日本軍が始めて機械化された部隊と衝突する経験をしたということにあると言えるかも知れません。第一次世界大戦にまともに参加していなかった日本軍は原則として歩兵が銃剣を持って突撃すれば根性で勝てるという、日清戦争・日露戦争の神話のようなものを是としており、これは少なくとも陸軍では太平洋戦争の末期ごろまでこの神話を信じていたわけですが(硫黄島、沖縄戦あたりから、考えが変わり、必ずしもやられっぱなしという感じではなくなったようにも思えるので、完全に末期のころは違ったと言えるのではないかと思います)、当時のとある情報機関がその模様について述べている機関紙によると、ソ連側はそこまで本気ではなく、局地戦でことを収めようとしており、中国に肩入れしているという立場上、うちもがんばってますよということを示す目的で、一応、戦争してみたらしいというような観測が述べられています。

この戦いは長期化せず、当時駐ソビエト公使だった重光葵が停戦を申し入れ、その段階でそれぞれが守備しているラインでそれ以上動かないということが決められたのですが、実際の戦闘ではソ連軍が後半で本気を出し、相当な規模の軍を投入し、日本軍に空爆も浴びせ、日本側は全滅に近い大きな被害を受けたと言われています。一方で、最近の研究ではソ連側の方が被害の実数として大きかったことも分かっているようですが、構図としてはノモンハン事件と全く同じだったことが分かります。つまり、日本側は現地軍だけで根性で戦うのに対し、ソ連側は一点集中で大量の軍を送り込み、どれほど被害がでようとも、そんなの関係ねえと資源を注ぎ込んで、勝ちを収めるという構図が全く同じなわけです。

私が読んでいる当該情報機関の資料ではそういったことには触れてはいません。インテリジェンスの甘さを感じざるを得ないと思えてなりません。張鼓峰事件の教訓が生かされることはなく、ノモンハン事件でも同じ展開を見せたということは、自分にとって不利なことには目を向けないという陸軍の致命的な体質があったのではないかと思えてしまいます。

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昭和史20‐中国共産党とソビエト連邦と排日運動

昭和13年3月21日付の某情報部発行の機関紙では、国民党軍の台湾に対する空襲があったことを受けて、防空に対する心構えや準備、今後は航空母艦による襲来も想定しなければならないという不気味に的中している予想などが書かれていますが、興味深いのは当該情報部が海外の排日運動に対して大変敏感になっていることです。香港では排日運動をしていた人物が逮捕されて国外退去になるという有様で、マニラでは華僑による排日運動は沈静化に向かっている一方、シンガポールでは排日運動が威力妨害の域に達しているなどと記述しています。台湾に巨大なラジオ施設を作り、南方方面に宣伝戦をしかけようという構想が書かれていたことは前にも述べましたが、情報当局が宣伝戦についてかなり神経をすり減らしていることが手に取るようにわかります。非常に不安だったのではないか、だからこそ機関紙で繰り返し、東南アジアでの排日運動に対して敏感になっていたのではないか、それだからこそ宣伝戦にも力を入れようとしていたのではないかという気がします。

もう一つ興味深かったのは、中国共産党と国民党が手を握ったものの、その後は必ずしも両者の関係は緊密なものにはなっていないという情勢分析があったことです。その理由としては、中国共産党と手を結べばソビエト連邦から多量の援助が得られると期待していたのがそれほどでもなく、中国共産党としてはもらいが少ないのに口は出してくるという不満が溜まっているという話になっています。しかもソビエト連邦と手を結べばドイツ・イタリアを敵に回す上に英米の信頼も失うのでかえって藪蛇になっていると結論づけています。

これは半分は正しいが半分は間違った情報分析と言えます。英米がもっとも警戒していたのがアドルフヒトラーであることは間違いありません。英米とソビエト連邦はアドルフヒトラーを倒すということで利害が共通していたわけで、日本がアドルフヒトラーやムッソリーニに近づくことによって、日本の方こそ英米の信頼を失っていくことになるという最も重要な点にこの分析者は気づいていません。しかしながら、ソビエト連邦を手を結んでも介入してくるわりにもらいが援助が少ないのは多分、事実だったでしょうから、そこは合っているのではないかとも思えます。

いずれにせよ、情報分析担当者のインテリジェンスがこの程度であったこと、アドルフヒトラーが世界で最も警戒されている人物だということを見抜けなかったということは、残念ながら戦争に敗けるのも致し方のないことかも知れません。あるいは情報分析者が中央の動向を「忖度」して中央にも受け入れてもらえるような内容の分析結果を出していたという可能性も否定できませんが、そのような忖度ありきのインテリジェンスは値打ちがありません。やはり、敗けるべくして敗けた…と思わざるを得ませんねえ…。

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