スピノザはデカルトの思想には強い影響を受けたと言われていますが、デカルトが唱えた物心二元論に対しては批判的であり、この世の全てのもの、人の心から花や草などの自然現象、その他ありとあらゆるものに神が宿るとする神一元論という結論に至るようになりました。これを汎神論と呼びますが、全てに神が宿る、或いは全てが神の現れである、または全てが神の一部であるとする考え方は、「無神論」であるとして強い批判を浴び、社会的に干されてしまい、孤独な最期を迎えることになります。あくまでも神に対する考え方の問題でしかないにもかかわらず、社会的に干されてしまうのですから、お気の毒としか思えません。
この「汎神論」という言葉を聴けば、ちょっといろいろ読んでいる人であれば、遠藤周作さんのことがぱっと思い浮かぶのではないかと思えます。遠藤周作さんはかすてメタフィジック批評、形而論的な観点からの批評を行おうとした人ですが、日本人的な形而上の観念とヨーロッパのそれとは違うという立場から、日本の著述の世界をある種の脱ヨーロッパへ向かわせようと努力します。そこには江藤淳先生の『喪失と成熟』的な立場に立てば、西洋に対する強い反感、ある種の憎悪があるように思えなくもありません。遠藤周作さんは上に述べた汎神論と20世紀に入って話題になった宗教多元論という観点から、最後の長編である『深い河』を書き、その信じるところを小説作品にしています。
この遠藤周作さんの汎神論と、スピノザの汎神論は神は遍く宿っていると考える点で大変によく似ています。スピノザはオランダの人ですが、慶応大学の仏文科を卒業し、フランスに留学してヨーロッパの思想哲学の体系を熱心に研究した遠藤周作さんがスピノザを理解していなかったなどということはあり得ず、スピノザの汎神論のこともよく理解し、スピノザが無神論者だと批判されたことも当然に知っており、彼は自身をある程度スピノザに重ね合わせたのではないかとすら思えてきます。
『深い河』の大津はイエスキリストの如く、人の罪を背負って孤独な死を迎えます。これはスピノザがそうであり、またソクラテスがそうであったように、「自分が正義だ」と信じて疑わない人の罪を代わって受け入れるという広い意味での愛の行為であったと言えるのかも知れません。私にそうする勇気はないですが、そのように思うと、ソクラテス、イエス、スピノザ、大津に繋がる自己犠牲の愛の系譜が出来上がるようにも思え、大変に興味深いことのように思えます。