太平洋戦争もいよいよ望み薄となってきた時期、小磯国昭内閣が中国との単独講和の可能性を模索し、窓口となる人物があまりに信用に足りなかったことから講和は失敗に終わり、その責任を負う形で小磯内閣が総辞職します。その後、後継首相として重臣会議は日露戦争にも参戦したある種の伝説的英雄と見られていた鈴木貫太郎を指名します。鈴木は固辞しますが、昭和天皇たっての希望ということがあり、昭和天皇本人が鈴木貫太郎に頼んだとも言われています。近衛文麿も鈴木貫太郎内閣の成立には積極的だったとも言われています。
もし本当に昭和天皇が頼んだとすれば、天皇の越権行為であり、立憲主義がだいぶ揺らいでいたことを示す事例だと受け取ることもできますが、非常時なので非情の手段をとったとして例外的なことであったという説明も可能かも知れません。
鈴木が昭和天皇から期待されていたことは終戦工作で、とにかく本土決戦に入ってしまう前に戦争を終わらせたいという相当悲壮な覚悟で職務に臨む必要があったに違いありません。
米内光政と木戸幸一がソビエト連邦を仲介にした和平工作に乗り気で、鈴貫太郎もそれに期待をよせていたフシがないわけでもないですが、スターリンは最初から適当に流すつもりであり、当時の状況的にわざわざ仲介して有条件降伏に持ち込むよりも、時期を逃さず日本に侵攻して戦国武将なみに切り取り次第だと考えていたようですから、確かに望み薄であり、徒に終戦を遅らせたという点は残念に思わざるを得ません。
鈴木貫太郎にとって幸だったのか不幸だったのか、7月下旬に連合国側からポツダム宣言が発表され、軍部の強硬論にも配慮して鈴木は「ポツダム宣言にはコメントしない」という態度でしたが、それが「黙殺(ignore)」という表現で世界に伝わり、要するに「拒否(refuse)」なのだなと解釈されてしまい、原子爆弾の投下とソビエト連邦の火事場泥棒的参戦を招いてしまいます。その件について、あくまでも政治家は結果責任だとすれば、鈴木貫太郎には責任があるとも言えますが、原子爆弾とソ連の参戦はそもそも非常識ですから、それを鈴木貫太郎に責任を負わせるのは酷と言えるかも知れません。
1945年8月9日に天皇の地位のを条件にポツダム宣言を受け入れるということを昭和天皇の「聖断」という形で結論を出しますが、連合国側に戦後の天皇の扱いについて「天皇は連合国の制限下におかれる」という返答の解釈で紛糾し、8月14日、改めて昭和天皇の聖断をもう一度仰ぐというやり方でポツダム宣言の受諾を正式に表明することに漕ぎつけます。ちなみに世界は8月9日の段階で日本がポツダム宣言の受け入れを申し入れてきたことが大ニュースになっており、何がどうなっているのか知らぬは日本人ばかりという風になっていたらしいです。
1945年8月14日の夜は、戦争継続派の軍人たちが鈴木貫太郎の自宅を焼き討ちするは、皇居にまで侵入して終戦の詔勅のラジオ放送を阻止しようとまで画策しますが、結局は成功せず、無事ラジオ放送が行われ、ようやく戦争が終わるという展開になります。
既には日本はボロボロでしたら、何故ここまで講和が遅れたのかという疑問がどうしても残る一方、とりあえず本土決戦は避けることができたという意味ではそれなりに評価されてしかるべき内閣と言っていいのではないかとも思えます。
鈴木貫太郎は昭和天皇からとにかく戦争を終わらせることを頼まれており、周囲には「俺はバドリオになるぞ」と話したと言います。バドリオはイタリア降伏を実現させたイタリアの首相であり、要するに戦争継続派を切り捨てて何が何でも戦争を終わらせる役割を自認していたと考えられています。阿南陸軍大臣の出方次第では内閣不一致で総辞職、終戦工作は一からやり直しという不安要素を常に抱えており、そういう意味では阿南が陸軍部内を何とか抑えて終戦に持ち込めるよう努力したという点も評価されるべきかも知れません。阿南は8月15日の朝、終戦のラジオを聴く前に自決しており、彼の美学を称える人もいるようです。
鈴木貫太郎は終戦工作が終わると早速辞表を出し8月17日には総辞職しています。鈴木貫太郎内閣の次は、超短命の東久邇宮内閣が終戦手続きを進めることになります。

