太平洋戦争の転機はミッドウェー海戦とガダルカナル島にあったんかなぁ?と勝手に思っているんですが他に何かありますでしょうか?

思いつくままに挙げてみたいと思いますね。

1,緒戦でインドに行かなかった。当時のイギリス軍の装備は劣弱であったため、本気で攻略したら十分に可能であったかも知れないが、末期になってやってみたら強力な装備を持つイギリス軍にはばまれ、多大な犠牲を出して撤退せざるを得なかった。初期にインド攻略を成し遂げていたらなら、イギリスの戦意喪失→日英講和→アメリカとも講和はあり得た。

2,シンガポール陥落直後に講和しなかった。日本圧倒的優位な戦況下でなんとかして講和のチャンネルを開いていれば、当時はアメリカも何年も戦争するのとか疲れるとか嫌だなあと考えていたかも知れないので、アメリカに満州国を承認させて太平洋を不可侵条約の対象エリアにして講和はあり得た。その場合はイギリスも乗ってきた。

3,サイパン島陥落。大本営はサイパンに大軍を送り込み、ガチガチに陣地を構築させて、これならアメリカ軍も突破できまいと考えていたらしいのだが、どんなにガチガチな陣地も艦砲射撃で木っ端みじんに。とはいえ、サイパン陥落後はまだフィリピン攻略が残っていたので、東條退陣と引き換えに講和のチャンネルを開き、日本は全ての植民地を諦め、中国から完全撤退するという条件で講和できたかも知れない。その場合、戦後の占領はされずにすんだ。

4,近衛上奏文が出されたタイミング。このタイミングで近衛の言う通り講和に持ち込んでいれば、その後の空襲も原子爆弾もソ連の参戦もなく、日本人の命は100万人くらい助かったかも知れない。問題は、そもそもあの段階で講和が可能だったのかどうか。降伏以外にもはや手はなかったかも知れない。

くらいでしょうかね。



『BC級裁判を読む』を読む

終戦直後に行われた戦争犯罪人に対する裁判では、東京裁判にばかり議論が集中しがちですが、同時に多くのBC級戦犯に対する裁判が、各地で開かれていたものの、あまりそれについての議論に触れることはありません。

私の漠然としたイメージでは『私は貝になりたい』的な、勝者による敗者に対する一方的な決めつけ裁判が行われたのではないかというものでしたが、実際にこの本を読んでみると、なかなかそう簡単に判断できるわけでもないということがよく分かります。

B級戦争犯罪人とはハーグ陸戦条約で禁止されているような通常の戦争犯罪を犯した人のことで、たとえば一般市民への残虐行為や捕虜に対する虐待などが入ります。C級の場合、主としてナチスドイツによるホロコーストを裁くことを想定して設けられた概念ですが、日本の場合、それに相当するかどうか議論が分かれるところであり、中国は南京事件をしてC級に値すると主張したようなのですが、結果的にはB級とC級の線引きは曖昧なまま、BC級というくくりで裁判が行われたようです。

難しいのは、多くの場合、上官の命令で行われた残虐行為について、一般の兵隊や下士官などにその責任を問うことができるかどうかという点です。法理法論を説くならば、アメリカ軍による日本各地への空襲や広島・長崎への原子爆弾の投下は一般市民に対する大規模な残虐行為と言っていいはずですから、もし、命令によって行われた日本の兵隊の残虐行為が裁かれるのであれば、アメリカ軍の兵隊も命令に従って行ったそれら残虐行為の責任を問われなくてはいけなくなるという、アメリカにとっても困る状態が生まれてしまいます。

アメリカ側のそのことについては考えていたふしもあるらしく、命令によって行われた場合、或いは組織的に行われたケースに関しては、なるべく命令権者に死刑を言い渡し、命令に従った兵隊に対しては、有期刑でなんとか話をまとめていこうとしたようです。もちろん、「公平な裁き」ということを考えれば、たとえ有期刑であったとしても、アメリカの兵隊は全く罪に問われていないとすれば、不公平なことは間違いがありませんので、それでいいのかという疑問は残らざるを得ませんが、この本を読んで、必ずしも一般に言われているほど、一方的なものとも言い切れなかったということが理解でき、私にとってはそれなりに収穫があったと感じます。

もちろん、捕虜に対する尋問の際、通訳をしていた二等兵が捕虜に対する残虐行為の罪で死刑を宣告されるなど、それはいくらなんでもあんまりだ、かわいそうすぎるという例もないわけではありません。また、栄養失調で捕虜がばたばたと倒れて行った時、日本の兵隊さんも同じく栄養失調でばたばたと倒れていたというようなケース(要するに補給の船が来ないので、捕虜も兵隊も一蓮托生で食糧を得られていなかった)ではそれなりに情状酌量があってもいいのではないかという疑問も残ります。アメリカの捕虜になった日本兵は食事も充分に与えられ、強制的に労働させられることはなかったと聞いたことがありますから、捕虜に対する虐待という点では、日本に分がないとも思えます。

一般市民への残虐行為については、私は日本軍が「現地調達主義」を採用していた以上、現場の兵隊さんは現地人の住宅に入り込んで食糧を略奪せざるを得なくなりますから、そこには構造的な問題があったと言わざるを得ないように思えます。そのようなことを考えると、日本は無理な戦争を無理を承知で無理無理に進めた結果、その手の戦争犯罪が頻発したとも言える気がしますので、どうしても現場の兵隊さんに対しては同情的な心境になることを禁じ得ません。

とはいえ、シンガポールでの華僑虐殺事件などは、急迫性もなく、その必要もないのに明白な意図をもって組織的に行われていた場合もあったようですので、弁解の余地のないものもあったのではないかなあと思います。一方で、空襲の帰りにB29が墜落してしまい、生き延びた搭乗員が現場で処刑されるというケースも多々あったようですが、一般市民を焼き殺しているわけですから、感情面に於いて理解できると同時に、それでもそれは戦時国際法違反になるという板挟み的な心境にもなります。

いずれにせよ、読み進める過程で多くの目をそむけたくなるようなケースが次々と登場しますので、精神的には非常に疲れました。それでももちろん、是非とも読むべき一冊と思います。

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台湾近現代史番外 蘭芳共和国

アメリカが独立するよりも少し前の時代、18世紀後半に客家人がボルネオ島に共和国を作っていたというのを最近知りました。台湾とは直接関係のないことですが、大変興味深いので私の知り得た範囲で備忘のために書きたいと思います。

オランダ東インド会社がボルネオ島に中国人のクーリーを大勢送り込み、奴隷労働させていましたが、その人口が膨れ上がり、一大勢力になったようです。広東地方から私兵も輸入し力をつけた華人社会は地元のスルタンからもその力を認められ、遂に治外法権の地を手に入れ、独立国家を営むに至ります。

建国者は羅芳伯という人物で、なんと天地会の会員であり、客家人商人でもあり、蘭芳公司の総帥でもあった人物で、初代大統領(華人社会では大唐総長と呼んだらしいです)に就任します。細かな政治体制などは分かりませんが、官僚は公選で選ばれていたらしく、大統領に関しては羅芳伯が亡くなる前に次の人物を指名したということらしいので、或いは大統領に限っては禅譲制が慣例化していたのではないかとも想像できます。世襲ではないという意味ではやはり共和制と言えます。100年以上に渡って国家が続いていたということですので、充分に記憶される価値のある共和国と思います。共和制としては東アジアではぶっちぎりで最初の国家であり、成立年が1777年ということですからよくよく考えてみるとフランス革命よりも先であり、近代共和制としては最初期の部類に入ると言ってもいいかも知れません。

また、呉元盛という華人がポンティアナック付近のスルタンを打倒してそこに四代70年にわたる国家を建設したとのことで、非常に勢いがあったことが推察できます。

清仏戦争で清が海外の華人に注意を払うことができなくなった時期、オランダ人によって1884年に占領されたということらしいので、祖国とのチャンネルがあった上で蘭芳共和国が存立していたことも推察できますが、実際にオランダ人がその地域を占領したことを正式に発表したのは辛亥革命の後ということらしく、それまで当面の間は傀儡政権が維持されていたとのことです。相当に複雑です。現地で蘭芳共和国に関する資料はほぼ皆無ということらしいので、或いは広東なり福建あたり、もしくは台湾あたりに関連史料が残っているかも知れません。想像です。

当該の地で暮らしていた華人の多くがその後マレー半島に移住したとのことですので、まさしくシンガポールがその後継国家であると言っていいのかも知れません。

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