シャア・アズナブル論考⑤‐唯一の理解者ドレン

以前、シャア・アズナブル論考3‐シャアと彼の部下たちというタイトルで記事を書いた。作品中、シャアの部下は末端や軍属のフラナガン博士まで含めると実に大勢いるが、大まかな傾向としてドズル指揮下時代の部下たちはシャアとの関係がすこぶる良く、キシリア指揮下時代になると部下とは隙間風が吹いていて副官のマリガンとも意思疎通に齟齬が見られたりすることについて考えたのだ。要するにドズル指揮下時代のシャアは人間関係に恵まれて幸福だったのに対し、キシリア指揮下時代のシャアは部下からも怪しげな目で見られ、他の将校たちとも協力関係ではなく対立・競争関係という立場になり、辛い中をキシリアの寵愛を得るべく血を吐く思いで努力をしなければならなくなってしまう。現代日本でもブラック上司に泣かされる人は大勢いるに違いないが、シャアがキシリアに対して殺意を抱くのも、ザビ家への恨みとか関係なく労働条件で充分説明できそうな気がしなくもない。やや意地悪な見方だが、キシリアがシャアの正体を見抜いたとき、シャアは「手の震えが止まりません」と言うが、或いは過労による低血糖などが原因かも知れない。ガルマの死後、ドズルに見捨てられたシャアは居場所を失い最終的にはララアというアウトスタンディングな恋人に逃げ込もうとしたが、ララアはアムロに物心両面でやられてしまうため、シャアはつくづく気の毒である。もちろん、シャアの安易な計算によって謀殺されたガルマが更に気の毒なことは言うまでもない。

さて、そのような世知辛い人間関係の中で、唯一の徹頭徹尾シャアの理解者としてふるまった人物がドレンである。当初、軽巡洋艦ムサイでシャアの副官であり肩書は少尉だった。シャアとともに地球に降り、シャアがガルマをサポートする一部始終を見ていたし、ガルマが戦死しても別にいいや、助けよっかなどうしよっかな高みの見物♪などとシャアが無根拠な余裕を見せている時や、今出撃しておけばドズル様への忠誠ってことになっていいかも♪などというあからさまな保身発言、場合によって発言に留まらない保身工作を全部知っていながら、ドレンはシャアにとって完全な味方であり続けた。やはりドレンは中年から壮年にかけてのおじさんなので、シャアのように年齢が若く、ルウム戦役のビギナーズラックでうっかり出世してしまい、なんとか舐められないように戦果を挙げようとあがくシャアを見て、同情のようなものを持つようになったのかも知れないと私は推察している。

シャアがドズル閥を追放されてキシリア閥に引き上げられると、ドレンはドズル閥内で出世して大尉になり、パトロール艦隊の指令になった。軽巡洋艦副官に比べれば大出世である。ドレン艦隊のパトロールエリアにホワイトベースが現れた時、シャアは迷わずドレンに連絡を取り、挟撃するための協力を要請する。これを二つ返事でドレンは快諾する。詳しく見て行けば分かるが、たとえばキシリア閥のマクベがドズル閥のランバラルから協力を求められた際、マクベはほとんど相手にしない。サイド6でコンスコンがホワイトベースと戦闘する際、シャアは高見の見物を決め込むし、テキサスコロニーでマクベがアムロに殺されるときもシャアは助けそうに見えて助けず、シャアの態度にララアがドン引きするという場面もある。そのように思うと、シャアの協力要請に対してドレンが二つ返事で了解したことという一時を以て、両者がどれほど厚い信頼関係で結ばれていたかが分かる。

ドレンがかなりシャアの本質を見抜いていたことは、シャアとドレンとの会話及び、ドレンのモノローグによって理解できる。挟撃の合意がなされた際、ドレンの方が時間的に早くホワイトベースと遭遇することが明白であったため、ドレンはシャアに「間に合いますか?」と質問し、シャアは「私を誰だと思っているのだ」と返す。ドレンは表面的には「失礼しました」とつくろったが、この瞬間、彼には全てが分かったはずである。先にホワイトベースに対する攻撃を始めたドレンは、シャア大佐が到着する前になんとしてもホワイトベースを堕とすのだと発言している。ドレンはシャアにはホワイトベースを打ち取ることができないと分かったからだ。しかし軍人として、シャアにやめておきなさいと言うわけにもいかない。残された選択肢は自分が死ぬことが分かったうえで、シャアが来る前にホワイトベースを打ち取ることにドレンは一縷の望みを託そうとしたのである。間に合うはずもないにもかかわらず、俺、赤い彗星だから不可能を可能にするに決まってるじゃんと言っておきながら間に合わなかった無能なシャアもなかなかに痛いのだ。一方で、シャアの無能を見抜いた上でシャアの身代わりのようになって死ぬことを決意したドレンの心中には同情もするし、決意の強さに感服もする。シャアのためにかくも尽くす人物は他には登場しない。そしてシャアは、思いつきの無理ゲー作戦によって、貴重な理解者であるドレンをも失うことになってしまった。キャメルパトロール艦隊(ドレン艦隊のこと)全滅の知らせを受け、シャアは「ドレンに私が来るまで持ちこたえられんとはな」とつぶやくが、果たしてドレンが命を懸けてシャアを守ろうとした究極の親切心に気づいていたかどうかは謎だし、あんまり気づいていなさそうである。尤も、マスク越しにシャアが強いショックを受けていることは察せられるので、その点は同情できる。妹のセイラには殺すしかないと思われ、ドズルに無能と判定され、キシリアに翻弄されるシャアは、やはり親友のガルマを謀殺したあたりからいろいろなものが狂ってしまったのかも知れない。ガンダムは表面的にはアムロがラブワゴン状態のホワイトベースであいのり的人間関係にもまれつつ成長する物語だが、隠れたテーマは若さゆえの過ちで走り切ったシャアの物語であるということが、論じれば論じるほど明らかになっていくように思える。




シャア・アズナブル論考④‐坊やだからさ

映画版のシャア・アズナブルには一見して一貫した目的があるように見える。ザビ家への復讐を究極の目標に様々な裏工作を行い、最終的にはそれを完遂するというもので、男の中の男というか、男が憧れる男というか、女も憧れるモテる男になっていて、見ていて充分にしびれる男になっている。映画版の1stガンダムは、アムロのことも忘れて、ほとんどシャアのイメージビデオのような仕上がりだ。シャアのファンにとってはたまらない内容になっているし、理想のシャア像が描かれているため、ファンの満足度は高い。そして映画版の普及が、シャアのファンを再生産していったとも言うことができる。アムロよりシャアの方ががぜん人気があると私には思える。

が、しかしである。テレビ版になると、シャアはかくもかっこいいだけの男ではない。様々な局面で判断や優先順位は揺れ動き、迷いが見られ、明らかな誤算も見られるのである。映画版のシャアよりもテレビ版の彼の方が人間的でおもしろい。テレビ版の方が映画版よりも小心者であり、しかしだからこそ、アムロ以上に注力して創造されたキャラクターだと考えることができるだろう。シャアの若さゆえの過ちは映画では分かりにくいが、テレビ版をよく観察することで見えてくるのだ。

そのシャアの最大の誤算が、ガルマの謀殺である。テレビ版にフォーカスするが、シャアはガルマを謀殺するか、それとも自分の手でホワイトベースとガンダムを葬り去り、その戦果をドズルに褒めてもらうかで揺れている。そのどちらになったとしても、シャアのなにがしかの目的は果たされるので、シャアにとっては負けのない勝負になるはずだった。だがここで注目したいのは、シャアがドズルに褒めてほしいと思っているところであろう。人は誰から褒められたいと思うだろうか。大事に思う人だったり、お客様だったり、コンプレックスを感じる相手だったりといった人から褒められたい。要するに認められたい。シャアは上司のドズルに認められたいと思っていて、その心境はなかなかのポチである。だが忘れてはならないのは、シャアにとってドズルは上司であると同様に仇であるザビ家の息子であるという点だ。ガルマがザビ家のプリンスであるのと同様に、ドズルも顔は悪いがザビ家のプリンスなのだ。にもかかわらず、シャアはガルマの謀殺を企てる一方で、ドズルに対しては褒められたいと思っているのである。大いなる矛盾を抱えた男がシャアなのだ。更に言えば、上司に褒められたいというかなりチキンな願望も否定することはない。自分がチキンだと気づかないほどチキンなのであり、このシャアの心境を考えるとファンとしては泣きたくなってくる。

で、先にガルマの謀殺がシャアの最大の誤算であると述べたが、それには以下のような理由があるからだ。シャアはホワイトベースが強すぎるからダメでしたということを理由に、ガルマを守り切れなかったことにして、ホワイトベースに手を下させてガルマを死に追い込んだ。この時のシャアの計算は、ホワイトベースがこんなに強いのだから、ガルマが死んでも自分がサボタージュしたとか、そういう批判は来ないだろうというもので、且つホワイトベースなんて戦争の素人だから自分が本気出したらいつでも潰せるし、今回はガルマの謀殺に利用してやろう。俺って頭いい。と思っていたあたりにある。

結果としては、ガルマの死によって、シャアが恐れていたドズルからは無能のレッテルを貼られて追放され、キシリアに拾われるものの、やはりガルマの死に方がおかしいとにらんだキシリアによって調べが進められ、正体までバレてしまうのである。シャアはガルマの死後もドズルの下で順調に出世するつもりだっただろうから、予定外も甚だしい。キシリアには「ザビ家復讐を諦めて、それでどんなビジョン持ってるの?」と質問され、「ニュータイプの世の中が来るのなら見ていたいっす」と抽象的でとってつけたような発言であり、ほとんど新卒の採用面接くらいでしか通用しないものだ。キシリアは怒ることもできたが、シャアには仕事をしてもらわなければならないので、見逃したというのが真相ということができるだろう。

キシリアの指揮下に入ったシャアはひたすらホワイトベースとガンダムの撃沈に執念を燃やすが、遂に果たせない。アムロの成長が速く、シャアはそれについていけなくなってしまう。もし、ホワイトベースを撃墜できる可能性があったとすれば、ホワイトベースクルーがまだ戦闘に慣れていない時期に、要するにガルマの担当地域にいる間にやってしまうのがベストだっただろう。にもかかわらず、シャアは不要不急のザビ家の復讐を優先し、結果として余裕で潰せるはずだったホワイトベースとガンダムに信頼する部下もプライドも恋人も奪われてズタズタになってしまうし、妹からは刺し違えてやろうかと思われるほど舐められることになる。読みが外れた自称天才はかくもみじめなものなのかと同情を禁じ得ない。

ガルマの国葬が生中継されているとき、それを酒場で聞いていたシャアがガルマのことを「坊やだからさ」と吐き捨てるように形容する場面はとても有名だ。ガルマのどこがどう坊やなのかは意外と謎のようにも思えるのだが、シャアがドズルを畏敬していたことを合わせると以下のような解釈も可能である。シャアは同じザビ家の人物でもドズルにはびびっていたため当面狙っていなかったのだが、ガルマのことは舐めていたために狙ったのである。従って、「坊やだからさ」の真意は、ガルマはドズルに比べて坊やだからだと理解することができるだろう。

そのようにして他人の人生を操れる俺ってすごくね?とか思っているシャアにまるで運命が復讐するかのようにその後の苦難と凋落が押し寄せるのである。シャアへの同情は続く。




シャア・アズナブル論考③‐シャアと彼の部下たち

映画版のガンダムだけを観ているとシャアがやたらと優秀に見える一方でどのような性格の人物なのかというのはよく分からない。合理精神の持ち主とかチャンスを最大限に活かす主義、みたいなことは分かるが、それは性格というよりは能力に起因するものだ。

それに対して、テレビ版のガンダムはシャアの性格描写が入念に行われている。アムロが定型的な内向的ティーンエイジャー程度の性格描写しか行われていないのに対し、シャアについては矛盾があり、悩みがあり、揺れがある。それゆえにテレビ版のシャアは非常に魅力的だ。もちろん、根暗にも見える。人は突き詰めるとみんな根暗な部分があるので、性格描写に力を入れればその対象は根暗になっていかざるを得ないのではないかと思える。

さて、それはそうと、テレビ版のシャアの特徴とはなんだろうか。テレビ版初期のシャアをよく表現しているのは彼と彼の部下との関係性だ。軽巡洋艦ムサイの司令官としてのシャアは部下たちと極めていい関係を築いている。そしてシャアも部下思いだ。例えばクラウンというザクのパイロット大気圏突入戦で残念ながら命を落とすと言う時、彼は「少佐、助けてください、シャア少佐」と叫ぶ。もはや手遅れな状態でシャアにも如何ともしがたいのだが、クラウンにとって戦場の心の支えはシャアなのである。シャアもまた、クラウンの戦死に対して実に悔しそうだ。クラウンだけではない、配下のザクがガンダムに打ち取られる度に、シャアはパイロットの名を呼び、その命を惜しんでいる。部下思いで、心温まる。パプア補給艦が登場する会では、アムロたちがシャアの補給を邪魔する一方で、シャアとムサイクルー及びパプア補給艦艦長は互いに協力し合い、一人はみんなのために、みんなは一人のためにと言わんばかりの献身的な支えあいでなんとか補給を成功に導こうとあがいている。この回は特にジオン軍側の将兵たちの努力が涙ぐましく、シャアとアムロのどちらが本当の主人公なのか分からなくなってくるほどだ。部下たちがシャアを慕っているということもよくわかる。副官のドレン少尉も実によく誠実にシャアを支えている。ドレンはおそらく唯一のシャアの理解者なのだが、これについてはまた日を改めて議論したい。

だが、シャアが部下思いなのは大気圏突破戦までだ。大気圏でホワイトベースとガンダムを打ち漏らしたシャアは、北米大陸を占領するガルマの部隊と合流する。この段階で作戦に対する統帥権はガルマが握っており、シャアは高みの見物を決め込み、明らかにガルマを馬鹿にしている。ドレン少尉がその態度についてとがめることなくシャアを見守る姿には懐の深さを感じるが、シャアはガルマに対して愛情を感じていないし、ガルマの部下に対しても愛情を感じていない。生き延びようと戦死しようと知ったことではないという態度を貫く。それまで部下の生死に強い関心を持っていたシャアは、ここでいきなり保身ばかり考える人物へと変貌してしまうのである。保身を考えるシャアという姿は映画版では決して見られないが、テレビ版では重要な要素になるし、シャアがその分人間的に描かれているという点は注目に値すると言えるだろう。

彼のこの姿勢はその後も変わることはない。ガルマが戦死した後にシャアは左遷され、キシリアに拾われる。シャアはキシリアの寵愛を受けようと努力はするが、その他将兵に対しては、競争者やライバルとしての視線を向けることはあっても協力者としての姿勢を持つことは、はっきり言って決してないのである。キシリアの指揮下に入ったシャアは少佐から大佐に昇進し、マリガンという秀才風の副官を得ることになるが、シャアとマリガンの関係は全然良くない。ドレンがシャアに人間愛を感じていたのに対し、マリガンはシャアにプレッシャーを感じているだけだ。シャアはマリガンが失敗するとそれをなじり「これは貸しにしておく」と言い放つ。そして最後はホワイトベースを絶対沈めろと命令され、マリガンはいやいやホワイトベースと戦い、戦艦ザンジバルとともに散ってゆくことになる。シャアに命令された時のマリガンのため息まじりの「はい」は、本当はそんなことはやりたくないし、シャアみたいな人のために命を捧げるなんて嫌なのだが軍の統帥の関係からシャアの命令には従うしかないという無力感が滲み出ている。映画版ではシャアが「すまん、マリガン」などと言って気遣う風もあるのだが、テレビ版ではシャアが孤立した人間であって、部下たちがシャアにうまくなじめていないという感じになってくる。マリガンの戦死の前にマッドアングラー隊がガンダムにやられるのだが、これに対してシャアの態度は自由にすれば、というもので、本当に上官なのかどうか怪しいとすら感じられるほど淡泊だ。マッドアングラー隊が決死の覚悟でホワイトベースに仕掛けた時、ホワイトベースにはジオンのスパイのミハルが搭乗していたのだが、仮にマッドアングラーが勝てばミハルはホワイトベースとともに命を落とすことになる。情報をよく上げる優秀なスパイなのに、スパイの命はどうでもいいらしいということについて、誰も指摘しないとは思うのだが一応ここで指摘しておく。シャアはもちろん、ミハルについても淡泊だというか、ミハルを番号でしか認識していない。

さて、当初、ドズル指揮下でムサイ艦長だったシャアと、キシリア指揮下のシャアで部下に対する態度がかくも違うのはなぜなのだろうか。おそらく、シャアはムサイの部下たちをとてもよく愛したのだろう。だからこそ、ガルマの戦死をきっかけにシャアが愛した人間関係が断ち切られ、新しい人間関係の渦に入っていった時、シャアは上手に周囲の人を愛することができなくなってしまったのではないかと言うことができるのではないだろうか。シャアはララアと恋愛関係になるが、それは男女の官能的な関係であり、ある種の欲望を満たし合う関係なので、部下との人間愛とは別種のものである。シャアはムサイから引き離されて、人間愛の部分がダメになってしまったのだ。そう思うとシャアは本当に気の毒なのだが、シャアをより一歩深く理解することは、作品理解そのものを深めることに直結する。まだしばらくはシャアについて考えてみたい。

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シャア・アズナブル論考②‐セイラに関するやや甘い考え

シャア・アズナブルについて考える上で決して忘れてはいけないのは、妹のセイラさんとのことである。シャアの本名はキャスバルで、セイラさんの本名はアルテイシアであり、この二人はともにデギン・ザビに暗殺されたジオン・ズム・ダイクンの子供である。ジオンが暗殺された後、この兄と妹はザビ家から逃れるために地球に降りた。そしてある程度成長した後で、キャスバルはアルテイシアを残してジオン公国へと入り込み、シャア・アズナブルという偽名で士官学校に入学し、遂にはジオン軍の士官になるのである。ちょっと違うがショーン・ケンなみに素性を隠しての大出世であると言える。シャアは顔も運動神経も頭も良いので、それぐらいの人物でなければやり通すことはできなかっただろうけれども、シャアは極端に優れた普通の人なので、ニュータイプではあり得ず、周囲からニュータイプかもと期待されることが却って彼を苦しめるようになっていく。ちなみにアムロがニュータイプかどうかもかなり怪しいと言える。物語の終盤ではアムロのニュータイプの開花は見られるが、それまではどちらかと言えばアムロの才能よりもひたすらガンダムの性能頼みである。ガンダムにはディープラーニングAIが搭載されているので、戦闘をすればするほどコンピューターに経験値がたまっていく。要するにガンダムはアムロがあんまり努力しなくても自動的に強くなっていくようにできているのである。

さて、シャアとセイラの関係に話題を戻すが、シャアがニュータイプではなく普通の人だということを物語るのが、妹に対する考え方の甘さではなかろうかと私には思える。

サイド7への潜入に成功したシャアは、警戒中のセイラに発見され、銃を突きつけられる。シャアはヘルメットを脱いで素顔を見せるのだが、セイラはそれが兄だと知って慌ててしまい動けなくなってしまう。シャアはとっさにセイラの構えた銃を足でけり落とし、さっと現場から脱出するのである。

その後ホワイトベースはルナ2に逃げ込み、シャアはドズルから命じられた通りに最低でもホワイトベースの破壊、できれば奪取する目的で部下たちとともにルナ2に潜入する。そこでシャアはじっくりと考える。もし安易にホワイトベースを破壊した場合、妹のセイラを死なせてしまうことになりかねない。それはできない。さて…どうしよう…考えた結果、シャアは銃を突き付けてきた時、セイラは強かった。俺の妹があんなに強いわけがない。従って、あの女は俺の妹に似ているけれど、多分、別人だ。きっと別人だ。別人に違いない。と自分を説得し、作戦を遂行するのである。結果、実は本物の妹だったのだ。シャアが作戦に失敗したので妹は死なずに済んだが、それは結果論である。

二人の次の邂逅はジャブローでのことだ。シャアはやはりホワイトベースだけを狙い少数精鋭でジャブローに潜入し、目的を果たすことはできなかったのだが、その作戦遂行中にセイラとばったり出会ってしまう。シャアは妹に「軍から身を引いてくれないか」と頼み、急ぎその場を去る。そして宇宙へとホワイトベースが出発し、シャアがザンジバルでそのあとを追う段階になって、もしホワイトベースを撃沈したとしても妹が乗っていたら大変だとじっと考え、争いごとをあんなに嫌っていた俺の妹が再び乗るはずがない。俺からも乗らないでくれと頼んだし。と一人合点でno problemと判断してホワイトベース撃沈に執念を燃やす。シャアが失敗したのでセイラは生き延びることができたが、成功していればシャアは妹を殺したことになってしまうところだった。

二人の三度目の出会いは人間から見捨てられたテキサス・コロニーでのことで、シャアは妹がまだホワイトベースに乗っていることに衝撃を受け、金塊をあげるから頼むから地球に帰ってくれと頼み込む。今までは言葉だけでの妹への命令またはお願いだったが、やはり実利による誘導がなければと思ったのかも知れない。そしてシャアはきっと妹は地球に降りたに違いないと思い込んでホワイトベース撃沈に精力的に取り組み、その目論見はことごとく失敗するのだが、それは結果論である。

二人の四度目の出会いがある。シャアとララアがアムロと敵対しているとき、セイラがコアブースターで突っ込んでくる。ゲルググに乗ったシャアは「あーめんどくせえ、こっちは新型モビルスーツなので、こんなやつ叩き落してやれ」と思って攻撃するのだが、きわめて優れたニュータイプであるララアが「大佐いけません!」ということで、よく見てみると、コアブースターの窓には妹の顔があるではないか。シャアはララアに知らせてもらうことができなければ、妹をその手で殺すところだったのである。シャアはたじろぎ、その隙をアムロにつかれて死にかけるが、ララアが身代わりになってシャアは助かるという流れになる。

セイラは「刺し違えて」でも兄を止めようと思っているが、繰り返し殺されかけた立場としては当然だと言えるだろう。或いはホワイトベースを攻撃する度にアムロに撃退されるシャアを不憫にすら思ったかも知れない。小説版でセイラはアムロに対してシャアを殺すことと引き換えに自分の身体を与える。兄が何度も殺しに来るのだから、そのように思えばセイラの心情は実によく理解できるのである。鈍感すぎるぞ…シャア…。俺の妹だからきっとこうに違いないが多く、シャアのセイラに対する考え方は総じて詰めが甘い。

とはいえ、ア・バオア・クーではセイラが炎に飲まれそうになったところをシャアが助けるというようやく兄らしい行動をとる姿を見ることができる。この兄と妹はそのまま今生の別れみたいになってしまうのだが、やはり多くのファンが心を痛めたのだろう。『シャアの日常』では、シャアとセイラの仲睦まじい兄妹愛を見ることができる。アニメ作品が悲劇的なだけにその様子はホッとさせられるものがあって和むのだ。