高橋是清内閣が人事の紛糾で崩壊した後、次の首相候補として有力視されたのは、原敬→高橋是清ラインに対して常に敵対姿勢を貫いていた憲政会の加藤高明が有力視されていました。高橋是清の政友会としては、加藤高明政権を阻止するため、軍人宰相を企図し、海軍の加藤友三郎を元老会議に推薦します。当時、元老会議には松方正義が存命で、松方を抱き込む形での無理無理な首相指名です。
衆議院で多数派を形成できないと首相は非常にやりにくいということを知っていた加藤友三郎は、衆議院に自分の基盤がないことで一旦は固辞しますが、憲政会が全面協力するという約束で、松方の了承もあって、首相就任を受け入れます。加藤友三郎はワシントン軍縮会議の直接の担当者であり、首相の立場になれば当然それを粛々と実行します。当時は軍事費が財政を圧迫していましたので、まともな措置と私には思えます。「海軍が軍縮しているのだから」という、お隣さんがそうだから論法で陸軍も軍縮を受け入れざるを得なくなり、陸軍大臣山梨半造のもとで、山梨軍縮と呼ばれる軍縮が行われることになりました。だらだらと続いて金だけかかるシベリア出兵も中止されます。
財政圧迫の要因は、現代では社会保障費で、当時は軍事費、というのはよく時代を映していると思えます。
「軍事費」に制限をかけなくてはいけないという世論が形成されたことに陸海軍は危機感を覚えるようになり、やがて「予算が獲れるのなら戦争してもいい。というか戦争したい」という、現代の我々の視点から見れば馬鹿げていると思える発想法は、大正時代の軍縮に求めることができるかも知れず、時間をかけて少しずつ形成された発想法であるために、昭和初期の軍部でもそれが当然と思えるところまで行ってしまったのではなかろうかという気もします。
ワシントン軍縮会議のけりがついて一息でいれて、さあ、これからという時に加藤友三郎は病没してしまいます。やはり軍縮は軍部からの反対が強かったでしょうから、精神的な負担が強かったのかも知れません。
加藤友三郎の急逝を受けて後継首相選びをしている最中に関東大震災が起きてしまい、内田康哉を臨時首相にして対応しつつ、急いで山本権兵衛が次の首相に決められ、第二次山本権兵衛内閣が登場することになります。この時代では、裕仁親王が摂政宮をしていて、山本権兵衛は裕仁親王によって任命されています。
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