指揮者を見てクラシック音楽を楽しむ

クラシック音楽は耳で楽しむものだ。だから、レコードやCDのような音声メディアが成立するのである。だが、同時に演奏者が演奏をしている姿を見て楽しむものであることを否定する人はいないだろう。演奏区間もそうだ。立派なホールに感動することこそクラシック音楽を堪能する醍醐味であるとすら言うことができるだろう。そういった諸要素をいろいろと含んで楽しむのが音楽だということもできるが、忘れてはならぬのは指揮者である。指揮者を見る目を養ってこそ、クラシック音楽は何倍も楽しめるようになるというものだ。

クラシック音楽は作者が音にその人の哲学を乗せている。それは大げさに言えば神の恩寵だったり、自然の恵みだったり、母性愛だったり、神の怒だったり、自然の怒だったり、人の裏切りや嫉妬だったり様々だ。このように書き出してみると、クラシック音楽と能はよく似ている。

それはそうとして、指揮者はそれをよく呑み込んでいて、相応しい音を演奏者に出してもらうのが仕事ということになるのだが、当然、自分で演奏するわけではない。もちろん演奏する能力はあるが、自分で演奏するのではなくて、身振り手振りで演奏者を励まし、演奏者をその気にさせ、なるべくいい音を出してもらえるように努力し、ともに苦労する。野球の監督のようなものだともいえるが、様々な動きによって気分を盛り上げていくという点ではまるでチアリーダーのような存在だ。監督とチアリーダーを一人で背負うのだから、指揮者は過酷な労働を強いられる立場であるとも言えるだろう。

さて、先にも述べたように、作曲者の哲学を表現するのだから、指揮者はそれに相応しい、深刻な顔をしている方が似合うことは確かだ。言うまでもなくカラヤンのような顔つきがいい。だが、カラヤン然として、君たち、ついてきたまえ。では仕事にならない。ついてくる気になるように指揮者は賢明に踊る。ピエロになる。涙ぐましいほどに指揮者は指揮台の上で全力で躍動している。言うまでもないのだが、演奏者は指揮者がいなくても演奏できる。楽譜があるのだし、演奏者は楽譜を読み取って音を再現する訓練を嫌というほど受けて育った人たちばかりだ。そのため、指揮者不在なら不在でもやってみせる。時々才能のない指揮者がいても演奏会が成立するのは演奏者とかコンサートマスターのおかげだ。とはいえ、それは邪道であって、指揮者が立派に演奏会の主役をつとめなければならない。指揮者は観客に対しては背中で物を言い、演奏者に対しては腕の動きや表情で物を言う。顔をしかめたり笑ってみせたり膨れたりはれたりすぼめたりと百面相をする。

指揮者は演奏者に対しておもしろくなくてはならない。ユーモアを発揮しなければならない。レッスン中、指揮者は必ずおもしろいことを言わなくてはならない。しかめっ面は本番だけである。おもしろいことを言い、演奏者を和ませ、かつ演奏の肝になる部分を理解させ、指揮者の望む音の色へと仕上げていく。仕上げていく以上、指揮者も自分のほしい音色がどんなものか分かっていなければならない。誰よりも正確に且つ斬新にだ。そうでなければ、わかってないなあと言われてしまう。そんなことを言われたら屈辱なので、指揮者もエネルギーを振り絞るのである。

以上のような理由なので、指揮者はかっこいいだけではつとまらない。かっこつけているだけの指揮者には限界がある。が、しかしである。指揮者はかっこよくなくてはいけない。かっこよくない指揮者では全てが台無しだ。指揮者の後ろ姿がかっこ悪いと演奏会はおしまいだとすら思える。私は指揮者の後ろ姿がダメだと言う理由だけで演奏会を途中で帰ったことがある。指揮者は時として演奏者に理解させるためにおもしろい仕草をすることがある。おもしろい仕草と同時にタイミングを掴めば、記憶しやすいからだ。しかし、そればっかりやっていると後ろ姿が絵にならない。

指揮者は演奏者をチアアップするのが仕事なので、あまり観客に顔を向けてはいけない。ダン池田みたいなやり方は論外だし、ちょっといいかと気を緩めて観客を見るようでもいけないと私は思う。観客に見られていることは意識しなければならないが、観客を観てはいけない。まるで役者のようだ。

指揮者はまず自分の頭の中に全体像ができあがっていて、その再現のタイミングを演奏者に伝える。ただ、それだけの仕事なのだが、演奏者は指揮者に合わせるつもりで場にのぞんでいるため、指揮がでたらめだと演奏がでたらめになってしまう。指揮者の動きと演奏者の動きは連動しているが、同時ではない。指揮者の方が0.5秒くらい早い。指揮者の動きを見て演奏が進むからだ。このようなことを考えながら注意深く見ていると、なるほどクラシック音楽はライブで見てこそ値打ちがある。ライブで見なければ分からないことがたくさんあるということに気づくことができるのである。




クラシック音楽の聴き方

今年の夏休みはショッキングなことが幾つか続いたので、映画をじっくり観たり、本をゆっくり読んだりということに時間を使うことができず、やむを得ず心境が回復するまでクラシック音楽を聴くことにした。随分時間がかかったが、現状は大体立ち直っている。

で、なぜクラシック音楽ばかりを聴いたのかと言えば、J-POPもK-POPも聴きたいような心境になれず、ロックはおろかジャズですら明るすぎて聴く気になれずに、自分の心境に合うものが聴きたいと思うと、クラシックの静かなやつを選んで聴くようになってしまった。言うまでもなくショパンである。ショパンのピアノばかり何週間も聴いていた。クラシックでショパンのピアノに浸るというのは随分ときざったい気もするが、私はピアノはもちろん弾けないし、音符も何となくしか分からない、俄かクラシックリスナーである。

で、とにかくクラシックしか聴きたくなかったのだが、心境の変化とともに、聴きたいものに変化が現れ、結果としてクラシック音楽に対してちょっとだけ理解が深まった気がするので、ここで書いておきたいと思う。

まず、繰り返しになるが、心境が思いっきり落ち込んでいる時はショパンのソフトなピアノ以外は受け入れることができない。で、少し回復して私がよく選ぶようになったのがショスタコービッチである。なんとなく暗いのだがなんとなく明るいという、どんな心境で聴いていいのか分からないのがショスタコービッチの良さである。回復期にあって、ちょっと回復したかも知れないけど、まだ自信ないという私の心境にぴったりと合った。それからしばらくして、私はラフマニノフに手を出した。ラフマニノフのピアノはわりとシンプルだが迫力がある。迫力のあるものに私が耐えられるようになったということに私は気づくことができた。

さて、クラシック音楽と言えば、普通、ベートーベンとかモーツアルトあたりが一般的且つ定番ではなかろうか。小林秀雄がモーツアルトを絶賛しているので、モーツアルトは最高に決まっているという先入観が私にあったが、モーツアルトは明るすぎることに気づいた。『アマデウス』という映画でも明るく無邪気で天才のモーツアルトが登場するが、テンションが上がっている時か、無理にでも上げたい時でないととても聴いていられない。そして、ドンジョバンニとか聴いたらなんとなく「音楽ってこんな風にデザインできるんだぜ」と彼が言っているような気がしてしまい、久石譲さんが音楽に才能は必要ないという言葉を読んだことがあるのを思い出し、「あー、音楽って基本のデザインのパターンを知っているかどうかで違って捉えられるんだろうな」という素朴だが私にとっては新しく、芸術とは才能ではなくパターンであるという個人的には革命的な格言を思いついてしまったのである。

今は充分に元気なので、ベートーベンの第九をちょうど聴きながらこれを書いている。ベートーベンは映画でモーツアルトみたいになれと教育されて、そこまで辿り着けない悩みみたいな描かれ方をしていたのだが、突き詰めるとパターン+ちょっとだけ個性なのだとすれば、別に迷ったり悩んだりする必要はないのではないかという気がした。芸術はパターンなのである。第九だって、「な、お前ら、こういうの好きなんだろ」のパターンに従っているように私には思える。

以上、素人の音楽談義でございました。