ストア派は禁欲主義であったことから、快楽主義のエピクロス派とよく対比されます。ただし、エピクロス派も幸福追求のためには無駄な欲望を捨てることを志向していたと言えますので、意外と似ているのではないかという気がしなくもありません。
しかしながら、エピクロス派が、ある意味では「自分さえ」または「自分たちさえ」平穏で幸福ならそれでいいという発想法で引きこもってしまったのに対し、困難に対して敢然と立ち向かう意思を持っていたという点で異なるかも知れません。
人には様々な欲望があって、それは数え切れないほどですが、そういった欲望に打勝ち、論理的発想法で自分が果たして何にたいしてどのような責任を持つのか、サンデル教授の究極の選択みたいなことが目の前に立ち現われてきた際に、自分はいかなる身の処し方を選ぶべきなのかということを考えた点で、ストア派はより社会性が高いと言えるとも思えます。
言い換えれば、ストア派は道徳重視であったとも言え、道徳は一般的な意味での成文法を超えている、即ち、書かれていなくても当然守らなければならない「自然法」があるとしことが、ローマ法の基礎となり、ロックやモンテスキューなどの現代まで続く法理論の基礎になっていきます。
たとえば人を殺してはいけないということは普通、法律には書いてありません。書かなくても当然のこと、当たり前のことだからです。人間の社会にはそのような当然に護られなければならない規律があるから、それをしっかり守りましょう、自分の欲望を充足させるために、そういった自然法を犯すようなことはやめましょうというのは、確かに気高い道徳性が感じられ、今回、ストア派について書いてみようかなと思って少し調べてみた時に、その気高さに感じ入るところもあり、自分もかくありたいという心境にすらなってしまいました。
そういう意味では、法律に禁止されていなくとも、道徳に違反していると思える行為は後味が悪いものですから、やらないほうがいいですし、結果的にはよりよい人生が開けていくということも言えるかも知れません。
ちょっと聖人君子的で、清濁併せ飲むところがないのも、もしかすると人生という意味ではつまらない部分があると思う人もいるかも知れないのですが、朱に交われば赤くなるですから、清濁併せ飲むと結局、汚れてしまうという気もしなくはありません。
もちろん、完璧にストイックに生きるのは無理ですから、最後はバランスの問題なのかも知れません。
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