ファーストガンダムの映画化を推したいと思います。ファーストガンダムのテレビ版は作画が粗く、フラウボウが片手でガンダムの指を押し上げるなどリアリティに乏しいあからさまな子どもだまし的なエピソードもあり、且つ、肝心のシャアは本当に暗く無能で忌まわしい男でしたから、何もかもぱっとしませんでした。
映画版では打って変わり、作画が洗練され、子どもだましエピソードは一掃され、シャアはしびれるほどかっこよく、私を含む今のおじさん世代が全員いてこまされてしまいました。
ギレンはデギン公王に対し「私とてジオン・ダイクンの革命に参加した者です」と述べています。ギレンは新時代を築く側の人間であると自負していることがその一言で分かるわけですが、ヒトラーが自らの原点をドイツ革命に見出している点に於いて両者は共通しています。そして優生思想を信じ劣等と判定した人々を抹殺すると決心している点でも共通しています。しかしヒトラーが時間軸的に先でありギレンはその真似をしているに過ぎない。即ち頭ではなく尻尾の方であるということではないでしょうか。私としてはデギンが「ヒトラーは身内に殺されたのだぞ」と述べているのがひっかかります。その言葉はギレンの運命を予言してはいますが実際のヒトラーは自殺しているからです。デギンにはそのギレンに殺される運命が待っていますから、これがアニメじゃなかったら忌まわしさにぞっとしますね。
Quoraにて「「機動戦士ガンダム (主に1st) 」で現実世界の歴史や、戦争、政治がモデルになっている事やモノはありますか?」との質問を受けました。以下が私の回答になります。
第二次世界大戦と冷戦が下敷きになっていると私は考えています。以下に理由を述べます。
ジオンがナチスをモデルにしていることは間違いないとおもいますし、戦争の前半で圧倒的勝利を収めながら最後には国力の差を露呈して敗けるのも枢軸をイメージして描いたものだと思います。地球連邦はアメリカ合衆国連邦政府をイメージしているであろうことも見ていて分かります。たとえばジオンの軍服は色が濃いのでナチスの軍服を連想しますが、連邦の軍服は色が薄いのでマッカーサーなんかが来ていたライトなカーキ色を連想します。
で、その上で、なのですが、実はあの作品は地球連邦を批判する政治色を秘めた作品であると私は考えています。要するに反米アニメなのです。特にテレビシリーズを見ていると、地球連邦組織上層部のエゴイズムの凄さ、平然と弱者を見捨てる冷徹さ、などのようなものが要所要所に差し込まれて描かれていることに気づきます。
で、日本人向けのアニメですから、日本も当然描かれていて、それはサイド7なわけですね。サイド7は宇宙植民地なわけですけれど、地球連邦の都合で戦場にされてしまい、ホワイトベースのみんなは命からがら生き延びるのですが、ジャブローの地球連邦軍の上層部は左うちわでいつでも見捨てる気まんまんであるというような描き方になっています。
もうここまで言えばわかっていただけると思いますけれど、冷戦構造を皮肉っているわけですね。地球連邦の事情でサイド7が戦争に巻き込まれるというのは、アメリカに基地を提供し半分植民地みたいになっている日本にソ連が攻めてくるかも知れず、その時アメリカは海の向こうで涼しい顔をしているんじゃないかと言いたいわけです。地球連邦の官僚の腐敗を糾弾するのはアメリカが腐敗していると指摘したいからです。
赤い彗星のシャアは言うまでもなく共産主義を背負っていて、ルウム戦役などでは地球連邦軍を完膚なきまでに叩き潰す英雄であり、最後はザビ家もぶっ潰して新時代を切り開くというようなイメージを作者は抱いていたはずです。
とはいえ、シャアは本物のニュータイプであるアムロに敗北していくキャラでもありますから、共産主義も超えた新時代も見据えていたのかも知れないとも思います。
シャア・アズナブル論考も六回目になった。シャアは映画版での神格化が凄まじいため、ファンはついついシャアに理想を求めてしまいそうになるし、みればみるほどシャアが好きになる。私もそうだ。十代のころから何度となく繰り返しガンダムを見て、シャアのビッグファンになった。しかし、映画版とテレビ版ではシャアの在り方は全く違うし、真実のシャアのファンなら、やはりテレビ版の矛盾や卑小さを抱えているシャアをきちんと理解してこそよりその深みを味わえるというものではないかと思える。
さて、シャアは小心者であり、行動の動機は保身と虚栄に多くを負っている。テレビ版では特にそうだ。それは様々な場面で発揮されているが、今回は分かりやすくサイド6でのシャアに絞って論じたい。ドレン大尉のキャメルパトロール艦隊が全滅した後、シャアはホワイトベースとは距離を取りつつ追跡し、サイド6に入る。サイド6はララアが登場し、アムロとシャアが運命的な出会いを果たす場でもある。この辺りまではテレビ版とアニメ版は共通している。違っているのはシャアのビヘイビアーのようなものだ。一応、映画版の方がより流通しているだろうと勝手に判断して映画版の方を確認しておきたい。
映画版では、サイド6でわりと自由に過ごすシャアはコンスコン艦隊を見殺しにし、ララアに対するセリフもわりとクールで、自信に満ちた英雄的将校のイメージが相応しい感じになっている。いいところだけ切り抜かれたような感じだ。
しかしテレビ版ではシャアが矛盾に満ちており、保身と虚栄に飲み込まれた人物だということが、かなりはっきりと分かるように描かれている。たとえばサイド6に入港した後、シャアはサイド6の官僚カムランから様々な注意事項を直接口頭で伝達される。ホワイトベースのブライト艦長も同じことをされているのだが、ブライト艦長はひたすら低姿勢でカムランからの注意事項に同意する様子が描かれる。ブライトが常識的な人間であることが強調されていると言っていいだろう。一方で、シャアは「知ってる」「兵には言ってある」「ご苦労」とカムランに対しては完全に上から目線であり、注意事項に耳を傾けるのを面倒がる中学生みたいな態度に終始している。もちろん、その方が人間としてはおもしろいが、ここで描かれているのはシャアが文字通り成長しきれていない人物だということだ。更にララアにはデレデレであり、まるで初めて恋をした人物みたいだ。声のトーンが一オクターブ上がっており、やたらと優しい。映画版のクールさはない。池田秀一さんは冨野さんにシャアとララアの関係をきちんと問い合わせたうえで録音に臨んだそうなのだが、この声はそういったことをきっちり踏まえた上での声なのだ。映画版ではララアに対してもクールでかっこいいのだが、テレビ版にそのようなことの片鱗はうかがえない。サイド6とはいえ、仕事中に若い女にうつつをぬかす不真面目男がシャアなのである。
更にテレビ版ではコンスコンから説教される場面まである。映画版では考えられないことだが、コンスコンに呼び出されたシャアは言い返すことすらできず、沈黙してお小言に耐えるのである。若き将校のシャアと超ベテランのコンスコンの様子は、大企業の新入社員と部長の関係性の比喩であるとすら言うことができるかも知れない。コンスコンはシャアを一通り説教した後でホワイトベースにやられてしまうのだが、コンスコンの人生最後の言葉は「シャアが見ているのだぞ」だった。シャアに説教したかしなかったかで、コンスコンのこの一言の意味は微妙に違ってくる。映画版であれば、それは見栄っ張りなコンスコンがシャアに見られることによって見栄が更に刺激され、コンスコンは満たされぬ虚栄心とともに散ってゆくことになる。しかしテレビ版ではコンスコンはシャアに説教しているのである。しかもテレビ版の場合、シャアはわざわざザンジバルに乗って戦場を見物に来ている。さっき説教した相手が最期を見物に来たのだから、コンスコンの言葉は虚栄心によるものというよりも、シャアに説教しても何も通じなかったことへの無念さから来ているようにも見えるのだ。説教が通じていたなら、苦戦している味方を助けるだろうから。
ここで注意したいのだが、サイド6の国際法上の立場と、ジオン公国の実力との関係性をシャアが上手に利用しているということだ。サイド6でのシャアの振る舞いから分かることは、シャアはサイド6の法を全く尊重していないし、カムランのような官僚のこともバカにしているということだ。シャアはカムランに対して「だいたい、ジオンがサイド6を支援しているから、お前ら安全なんじゃねえか」という趣旨のことを言い放つ。一方で、コンスコン艦隊に対しては、サイド6が中立サイドであることを強調し、域内での戦闘をコンスコンにさせまいとやっきになる。コンスコン艦隊は文明人なのでサイド6の国際法上の立場を尊重し、域内での発砲は決してしないのだが、シャアはその様子を見て「ああ、よかった。もうちょっとで国際問題になるところだった」とかなり白々しいことを言う。シャアが法律をどうでもいいと思っていることはカムランに対する態度で明らかなのだから、シャアはここでは国際問題という大義名分を持ち出して、コンスコンの動きを抑制しようとしていると理解することができるだろう。なぜシャアがそんなことをするのかと言えば、ホワイトベースがまかり間違ってコンスコンに打ち取られたのでは自分がかっこ悪くて仕方がないからだ。テレビ版では宇宙に舞台がうつってから、シャアとマクベがキシリアの寵愛を得るための競争関係に陥っている様子が描かれるが、キシリアに対して自分の有能さを証明したいシャアとしては、ここでコンスコンにホワイトベースが打ち取られるようなことがあると、メンツが丸つぶれになってしまうのである。結果、シャアはコンスコンの戦争中の様子を高見の見物をして最終的に見殺しにしているのである。俺に説教したやつがやられやがったざまみろ。とすら思っていそうに見えるくらい、シャアが卑小な存在に見えてしまうのだが、その分、人間らしくもあるしおもしろい。考えようによっては、シャアはガルマを謀殺することによりドズルに追放され、キシリアのようなパワハラ上司にひろわれて汲々とし、コンスコンに説教されるのだから、友人を殺したつけを全力で支払うはめに陥ってしまったのだとも言えるだろう。部下のマリガンがドン引きするのも理解できるというものだ。そんなシャアにはセイラもドン引きなのだが、若さゆえの過ちとはそのようなものなのかも知れない。シャアのように半端に優秀なのが一番苦労なのである。
テレビ版のシャアと映画版のシャアの両方を理解してこそ、作品理解が深まり、より楽しめることができるだろう。
備考※ アイキャッチ画像は皇居を見学した際、休憩所で買ったガンダムコーヒーの缶の表面の絵です。知的財産権の観点から、敢えて缶全体を撮影せず、後ろの背景も入れ込むことにより、当該缶コーヒーは私の知的財産ではないこと、私が消費者として缶コーヒーを購入したことが分かるようにしています。
以前、シャア・アズナブル論考3‐シャアと彼の部下たちというタイトルで記事を書いた。作品中、シャアの部下は末端や軍属のフラナガン博士まで含めると実に大勢いるが、大まかな傾向としてドズル指揮下時代の部下たちはシャアとの関係がすこぶる良く、キシリア指揮下時代になると部下とは隙間風が吹いていて副官のマリガンとも意思疎通に齟齬が見られたりすることについて考えたのだ。要するにドズル指揮下時代のシャアは人間関係に恵まれて幸福だったのに対し、キシリア指揮下時代のシャアは部下からも怪しげな目で見られ、他の将校たちとも協力関係ではなく対立・競争関係という立場になり、辛い中をキシリアの寵愛を得るべく血を吐く思いで努力をしなければならなくなってしまう。現代日本でもブラック上司に泣かされる人は大勢いるに違いないが、シャアがキシリアに対して殺意を抱くのも、ザビ家への恨みとか関係なく労働条件で充分説明できそうな気がしなくもない。やや意地悪な見方だが、キシリアがシャアの正体を見抜いたとき、シャアは「手の震えが止まりません」と言うが、或いは過労による低血糖などが原因かも知れない。ガルマの死後、ドズルに見捨てられたシャアは居場所を失い最終的にはララアというアウトスタンディングな恋人に逃げ込もうとしたが、ララアはアムロに物心両面でやられてしまうため、シャアはつくづく気の毒である。もちろん、シャアの安易な計算によって謀殺されたガルマが更に気の毒なことは言うまでもない。
さて、そのような世知辛い人間関係の中で、唯一の徹頭徹尾シャアの理解者としてふるまった人物がドレンである。当初、軽巡洋艦ムサイでシャアの副官であり肩書は少尉だった。シャアとともに地球に降り、シャアがガルマをサポートする一部始終を見ていたし、ガルマが戦死しても別にいいや、助けよっかなどうしよっかな高みの見物♪などとシャアが無根拠な余裕を見せている時や、今出撃しておけばドズル様への忠誠ってことになっていいかも♪などというあからさまな保身発言、場合によって発言に留まらない保身工作を全部知っていながら、ドレンはシャアにとって完全な味方であり続けた。やはりドレンは中年から壮年にかけてのおじさんなので、シャアのように年齢が若く、ルウム戦役のビギナーズラックでうっかり出世してしまい、なんとか舐められないように戦果を挙げようとあがくシャアを見て、同情のようなものを持つようになったのかも知れないと私は推察している。
シャアがドズル閥を追放されてキシリア閥に引き上げられると、ドレンはドズル閥内で出世して大尉になり、パトロール艦隊の指令になった。軽巡洋艦副官に比べれば大出世である。ドレン艦隊のパトロールエリアにホワイトベースが現れた時、シャアは迷わずドレンに連絡を取り、挟撃するための協力を要請する。これを二つ返事でドレンは快諾する。詳しく見て行けば分かるが、たとえばキシリア閥のマクベがドズル閥のランバラルから協力を求められた際、マクベはほとんど相手にしない。サイド6でコンスコンがホワイトベースと戦闘する際、シャアは高見の見物を決め込むし、テキサスコロニーでマクベがアムロに殺されるときもシャアは助けそうに見えて助けず、シャアの態度にララアがドン引きするという場面もある。そのように思うと、シャアの協力要請に対してドレンが二つ返事で了解したことという一時を以て、両者がどれほど厚い信頼関係で結ばれていたかが分かる。
ドレンがかなりシャアの本質を見抜いていたことは、シャアとドレンとの会話及び、ドレンのモノローグによって理解できる。挟撃の合意がなされた際、ドレンの方が時間的に早くホワイトベースと遭遇することが明白であったため、ドレンはシャアに「間に合いますか?」と質問し、シャアは「私を誰だと思っているのだ」と返す。ドレンは表面的には「失礼しました」とつくろったが、この瞬間、彼には全てが分かったはずである。先にホワイトベースに対する攻撃を始めたドレンは、シャア大佐が到着する前になんとしてもホワイトベースを堕とすのだと発言している。ドレンはシャアにはホワイトベースを打ち取ることができないと分かったからだ。しかし軍人として、シャアにやめておきなさいと言うわけにもいかない。残された選択肢は自分が死ぬことが分かったうえで、シャアが来る前にホワイトベースを打ち取ることにドレンは一縷の望みを託そうとしたのである。間に合うはずもないにもかかわらず、俺、赤い彗星だから不可能を可能にするに決まってるじゃんと言っておきながら間に合わなかった無能なシャアもなかなかに痛いのだ。一方で、シャアの無能を見抜いた上でシャアの身代わりのようになって死ぬことを決意したドレンの心中には同情もするし、決意の強さに感服もする。シャアのためにかくも尽くす人物は他には登場しない。そしてシャアは、思いつきの無理ゲー作戦によって、貴重な理解者であるドレンをも失うことになってしまった。キャメルパトロール艦隊(ドレン艦隊のこと)全滅の知らせを受け、シャアは「ドレンに私が来るまで持ちこたえられんとはな」とつぶやくが、果たしてドレンが命を懸けてシャアを守ろうとした究極の親切心に気づいていたかどうかは謎だし、あんまり気づいていなさそうである。尤も、マスク越しにシャアが強いショックを受けていることは察せられるので、その点は同情できる。妹のセイラには殺すしかないと思われ、ドズルに無能と判定され、キシリアに翻弄されるシャアは、やはり親友のガルマを謀殺したあたりからいろいろなものが狂ってしまったのかも知れない。ガンダムは表面的にはアムロがラブワゴン状態のホワイトベースであいのり的人間関係にもまれつつ成長する物語だが、隠れたテーマは若さゆえの過ちで走り切ったシャアの物語であるということが、論じれば論じるほど明らかになっていくように思える。
映画版のシャア・アズナブルには一見して一貫した目的があるように見える。ザビ家への復讐を究極の目標に様々な裏工作を行い、最終的にはそれを完遂するというもので、男の中の男というか、男が憧れる男というか、女も憧れるモテる男になっていて、見ていて充分にしびれる男になっている。映画版の1stガンダムは、アムロのことも忘れて、ほとんどシャアのイメージビデオのような仕上がりだ。シャアのファンにとってはたまらない内容になっているし、理想のシャア像が描かれているため、ファンの満足度は高い。そして映画版の普及が、シャアのファンを再生産していったとも言うことができる。アムロよりシャアの方ががぜん人気があると私には思える。
が、しかしである。テレビ版になると、シャアはかくもかっこいいだけの男ではない。様々な局面で判断や優先順位は揺れ動き、迷いが見られ、明らかな誤算も見られるのである。映画版のシャアよりもテレビ版の彼の方が人間的でおもしろい。テレビ版の方が映画版よりも小心者であり、しかしだからこそ、アムロ以上に注力して創造されたキャラクターだと考えることができるだろう。シャアの若さゆえの過ちは映画では分かりにくいが、テレビ版をよく観察することで見えてくるのだ。
そのシャアの最大の誤算が、ガルマの謀殺である。テレビ版にフォーカスするが、シャアはガルマを謀殺するか、それとも自分の手でホワイトベースとガンダムを葬り去り、その戦果をドズルに褒めてもらうかで揺れている。そのどちらになったとしても、シャアのなにがしかの目的は果たされるので、シャアにとっては負けのない勝負になるはずだった。だがここで注目したいのは、シャアがドズルに褒めてほしいと思っているところであろう。人は誰から褒められたいと思うだろうか。大事に思う人だったり、お客様だったり、コンプレックスを感じる相手だったりといった人から褒められたい。要するに認められたい。シャアは上司のドズルに認められたいと思っていて、その心境はなかなかのポチである。だが忘れてはならないのは、シャアにとってドズルは上司であると同様に仇であるザビ家の息子であるという点だ。ガルマがザビ家のプリンスであるのと同様に、ドズルも顔は悪いがザビ家のプリンスなのだ。にもかかわらず、シャアはガルマの謀殺を企てる一方で、ドズルに対しては褒められたいと思っているのである。大いなる矛盾を抱えた男がシャアなのだ。更に言えば、上司に褒められたいというかなりチキンな願望も否定することはない。自分がチキンだと気づかないほどチキンなのであり、このシャアの心境を考えるとファンとしては泣きたくなってくる。
で、先にガルマの謀殺がシャアの最大の誤算であると述べたが、それには以下のような理由があるからだ。シャアはホワイトベースが強すぎるからダメでしたということを理由に、ガルマを守り切れなかったことにして、ホワイトベースに手を下させてガルマを死に追い込んだ。この時のシャアの計算は、ホワイトベースがこんなに強いのだから、ガルマが死んでも自分がサボタージュしたとか、そういう批判は来ないだろうというもので、且つホワイトベースなんて戦争の素人だから自分が本気出したらいつでも潰せるし、今回はガルマの謀殺に利用してやろう。俺って頭いい。と思っていたあたりにある。
結果としては、ガルマの死によって、シャアが恐れていたドズルからは無能のレッテルを貼られて追放され、キシリアに拾われるものの、やはりガルマの死に方がおかしいとにらんだキシリアによって調べが進められ、正体までバレてしまうのである。シャアはガルマの死後もドズルの下で順調に出世するつもりだっただろうから、予定外も甚だしい。キシリアには「ザビ家復讐を諦めて、それでどんなビジョン持ってるの?」と質問され、「ニュータイプの世の中が来るのなら見ていたいっす」と抽象的でとってつけたような発言であり、ほとんど新卒の採用面接くらいでしか通用しないものだ。キシリアは怒ることもできたが、シャアには仕事をしてもらわなければならないので、見逃したというのが真相ということができるだろう。
キシリアの指揮下に入ったシャアはひたすらホワイトベースとガンダムの撃沈に執念を燃やすが、遂に果たせない。アムロの成長が速く、シャアはそれについていけなくなってしまう。もし、ホワイトベースを撃墜できる可能性があったとすれば、ホワイトベースクルーがまだ戦闘に慣れていない時期に、要するにガルマの担当地域にいる間にやってしまうのがベストだっただろう。にもかかわらず、シャアは不要不急のザビ家の復讐を優先し、結果として余裕で潰せるはずだったホワイトベースとガンダムに信頼する部下もプライドも恋人も奪われてズタズタになってしまうし、妹からは刺し違えてやろうかと思われるほど舐められることになる。読みが外れた自称天才はかくもみじめなものなのかと同情を禁じ得ない。
ガルマの国葬が生中継されているとき、それを酒場で聞いていたシャアがガルマのことを「坊やだからさ」と吐き捨てるように形容する場面はとても有名だ。ガルマのどこがどう坊やなのかは意外と謎のようにも思えるのだが、シャアがドズルを畏敬していたことを合わせると以下のような解釈も可能である。シャアは同じザビ家の人物でもドズルにはびびっていたため当面狙っていなかったのだが、ガルマのことは舐めていたために狙ったのである。従って、「坊やだからさ」の真意は、ガルマはドズルに比べて坊やだからだと理解することができるだろう。
そのようにして他人の人生を操れる俺ってすごくね?とか思っているシャアにまるで運命が復讐するかのようにその後の苦難と凋落が押し寄せるのである。シャアへの同情は続く。
映画版のガンダムだけを観ているとシャアがやたらと優秀に見える一方でどのような性格の人物なのかというのはよく分からない。合理精神の持ち主とかチャンスを最大限に活かす主義、みたいなことは分かるが、それは性格というよりは能力に起因するものだ。
それに対して、テレビ版のガンダムはシャアの性格描写が入念に行われている。アムロが定型的な内向的ティーンエイジャー程度の性格描写しか行われていないのに対し、シャアについては矛盾があり、悩みがあり、揺れがある。それゆえにテレビ版のシャアは非常に魅力的だ。もちろん、根暗にも見える。人は突き詰めるとみんな根暗な部分があるので、性格描写に力を入れればその対象は根暗になっていかざるを得ないのではないかと思える。
さて、それはそうと、テレビ版のシャアの特徴とはなんだろうか。テレビ版初期のシャアをよく表現しているのは彼と彼の部下との関係性だ。軽巡洋艦ムサイの司令官としてのシャアは部下たちと極めていい関係を築いている。そしてシャアも部下思いだ。例えばクラウンというザクのパイロット大気圏突入戦で残念ながら命を落とすと言う時、彼は「少佐、助けてください、シャア少佐」と叫ぶ。もはや手遅れな状態でシャアにも如何ともしがたいのだが、クラウンにとって戦場の心の支えはシャアなのである。シャアもまた、クラウンの戦死に対して実に悔しそうだ。クラウンだけではない、配下のザクがガンダムに打ち取られる度に、シャアはパイロットの名を呼び、その命を惜しんでいる。部下思いで、心温まる。パプア補給艦が登場する会では、アムロたちがシャアの補給を邪魔する一方で、シャアとムサイクルー及びパプア補給艦艦長は互いに協力し合い、一人はみんなのために、みんなは一人のためにと言わんばかりの献身的な支えあいでなんとか補給を成功に導こうとあがいている。この回は特にジオン軍側の将兵たちの努力が涙ぐましく、シャアとアムロのどちらが本当の主人公なのか分からなくなってくるほどだ。部下たちがシャアを慕っているということもよくわかる。副官のドレン少尉も実によく誠実にシャアを支えている。ドレンはおそらく唯一のシャアの理解者なのだが、これについてはまた日を改めて議論したい。
だが、シャアが部下思いなのは大気圏突破戦までだ。大気圏でホワイトベースとガンダムを打ち漏らしたシャアは、北米大陸を占領するガルマの部隊と合流する。この段階で作戦に対する統帥権はガルマが握っており、シャアは高みの見物を決め込み、明らかにガルマを馬鹿にしている。ドレン少尉がその態度についてとがめることなくシャアを見守る姿には懐の深さを感じるが、シャアはガルマに対して愛情を感じていないし、ガルマの部下に対しても愛情を感じていない。生き延びようと戦死しようと知ったことではないという態度を貫く。それまで部下の生死に強い関心を持っていたシャアは、ここでいきなり保身ばかり考える人物へと変貌してしまうのである。保身を考えるシャアという姿は映画版では決して見られないが、テレビ版では重要な要素になるし、シャアがその分人間的に描かれているという点は注目に値すると言えるだろう。
彼のこの姿勢はその後も変わることはない。ガルマが戦死した後にシャアは左遷され、キシリアに拾われる。シャアはキシリアの寵愛を受けようと努力はするが、その他将兵に対しては、競争者やライバルとしての視線を向けることはあっても協力者としての姿勢を持つことは、はっきり言って決してないのである。キシリアの指揮下に入ったシャアは少佐から大佐に昇進し、マリガンという秀才風の副官を得ることになるが、シャアとマリガンの関係は全然良くない。ドレンがシャアに人間愛を感じていたのに対し、マリガンはシャアにプレッシャーを感じているだけだ。シャアはマリガンが失敗するとそれをなじり「これは貸しにしておく」と言い放つ。そして最後はホワイトベースを絶対沈めろと命令され、マリガンはいやいやホワイトベースと戦い、戦艦ザンジバルとともに散ってゆくことになる。シャアに命令された時のマリガンのため息まじりの「はい」は、本当はそんなことはやりたくないし、シャアみたいな人のために命を捧げるなんて嫌なのだが軍の統帥の関係からシャアの命令には従うしかないという無力感が滲み出ている。映画版ではシャアが「すまん、マリガン」などと言って気遣う風もあるのだが、テレビ版ではシャアが孤立した人間であって、部下たちがシャアにうまくなじめていないという感じになってくる。マリガンの戦死の前にマッドアングラー隊がガンダムにやられるのだが、これに対してシャアの態度は自由にすれば、というもので、本当に上官なのかどうか怪しいとすら感じられるほど淡泊だ。マッドアングラー隊が決死の覚悟でホワイトベースに仕掛けた時、ホワイトベースにはジオンのスパイのミハルが搭乗していたのだが、仮にマッドアングラーが勝てばミハルはホワイトベースとともに命を落とすことになる。情報をよく上げる優秀なスパイなのに、スパイの命はどうでもいいらしいということについて、誰も指摘しないとは思うのだが一応ここで指摘しておく。シャアはもちろん、ミハルについても淡泊だというか、ミハルを番号でしか認識していない。
さて、当初、ドズル指揮下でムサイ艦長だったシャアと、キシリア指揮下のシャアで部下に対する態度がかくも違うのはなぜなのだろうか。おそらく、シャアはムサイの部下たちをとてもよく愛したのだろう。だからこそ、ガルマの戦死をきっかけにシャアが愛した人間関係が断ち切られ、新しい人間関係の渦に入っていった時、シャアは上手に周囲の人を愛することができなくなってしまったのではないかと言うことができるのではないだろうか。シャアはララアと恋愛関係になるが、それは男女の官能的な関係であり、ある種の欲望を満たし合う関係なので、部下との人間愛とは別種のものである。シャアはムサイから引き離されて、人間愛の部分がダメになってしまったのだ。そう思うとシャアは本当に気の毒なのだが、シャアをより一歩深く理解することは、作品理解そのものを深めることに直結する。まだしばらくはシャアについて考えてみたい。
シャア・アズナブルについて考える上で決して忘れてはいけないのは、妹のセイラさんとのことである。シャアの本名はキャスバルで、セイラさんの本名はアルテイシアであり、この二人はともにデギン・ザビに暗殺されたジオン・ズム・ダイクンの子供である。ジオンが暗殺された後、この兄と妹はザビ家から逃れるために地球に降りた。そしてある程度成長した後で、キャスバルはアルテイシアを残してジオン公国へと入り込み、シャア・アズナブルという偽名で士官学校に入学し、遂にはジオン軍の士官になるのである。ちょっと違うがショーン・ケンなみに素性を隠しての大出世であると言える。シャアは顔も運動神経も頭も良いので、それぐらいの人物でなければやり通すことはできなかっただろうけれども、シャアは極端に優れた普通の人なので、ニュータイプではあり得ず、周囲からニュータイプかもと期待されることが却って彼を苦しめるようになっていく。ちなみにアムロがニュータイプかどうかもかなり怪しいと言える。物語の終盤ではアムロのニュータイプの開花は見られるが、それまではどちらかと言えばアムロの才能よりもひたすらガンダムの性能頼みである。ガンダムにはディープラーニングAIが搭載されているので、戦闘をすればするほどコンピューターに経験値がたまっていく。要するにガンダムはアムロがあんまり努力しなくても自動的に強くなっていくようにできているのである。
さて、シャアとセイラの関係に話題を戻すが、シャアがニュータイプではなく普通の人だということを物語るのが、妹に対する考え方の甘さではなかろうかと私には思える。
サイド7への潜入に成功したシャアは、警戒中のセイラに発見され、銃を突きつけられる。シャアはヘルメットを脱いで素顔を見せるのだが、セイラはそれが兄だと知って慌ててしまい動けなくなってしまう。シャアはとっさにセイラの構えた銃を足でけり落とし、さっと現場から脱出するのである。
その後ホワイトベースはルナ2に逃げ込み、シャアはドズルから命じられた通りに最低でもホワイトベースの破壊、できれば奪取する目的で部下たちとともにルナ2に潜入する。そこでシャアはじっくりと考える。もし安易にホワイトベースを破壊した場合、妹のセイラを死なせてしまうことになりかねない。それはできない。さて…どうしよう…考えた結果、シャアは銃を突き付けてきた時、セイラは強かった。俺の妹があんなに強いわけがない。従って、あの女は俺の妹に似ているけれど、多分、別人だ。きっと別人だ。別人に違いない。と自分を説得し、作戦を遂行するのである。結果、実は本物の妹だったのだ。シャアが作戦に失敗したので妹は死なずに済んだが、それは結果論である。
二人の次の邂逅はジャブローでのことだ。シャアはやはりホワイトベースだけを狙い少数精鋭でジャブローに潜入し、目的を果たすことはできなかったのだが、その作戦遂行中にセイラとばったり出会ってしまう。シャアは妹に「軍から身を引いてくれないか」と頼み、急ぎその場を去る。そして宇宙へとホワイトベースが出発し、シャアがザンジバルでそのあとを追う段階になって、もしホワイトベースを撃沈したとしても妹が乗っていたら大変だとじっと考え、争いごとをあんなに嫌っていた俺の妹が再び乗るはずがない。俺からも乗らないでくれと頼んだし。と一人合点でno problemと判断してホワイトベース撃沈に執念を燃やす。シャアが失敗したのでセイラは生き延びることができたが、成功していればシャアは妹を殺したことになってしまうところだった。
二人の三度目の出会いは人間から見捨てられたテキサス・コロニーでのことで、シャアは妹がまだホワイトベースに乗っていることに衝撃を受け、金塊をあげるから頼むから地球に帰ってくれと頼み込む。今までは言葉だけでの妹への命令またはお願いだったが、やはり実利による誘導がなければと思ったのかも知れない。そしてシャアはきっと妹は地球に降りたに違いないと思い込んでホワイトベース撃沈に精力的に取り組み、その目論見はことごとく失敗するのだが、それは結果論である。
二人の四度目の出会いがある。シャアとララアがアムロと敵対しているとき、セイラがコアブースターで突っ込んでくる。ゲルググに乗ったシャアは「あーめんどくせえ、こっちは新型モビルスーツなので、こんなやつ叩き落してやれ」と思って攻撃するのだが、きわめて優れたニュータイプであるララアが「大佐いけません!」ということで、よく見てみると、コアブースターの窓には妹の顔があるではないか。シャアはララアに知らせてもらうことができなければ、妹をその手で殺すところだったのである。シャアはたじろぎ、その隙をアムロにつかれて死にかけるが、ララアが身代わりになってシャアは助かるという流れになる。
セイラは「刺し違えて」でも兄を止めようと思っているが、繰り返し殺されかけた立場としては当然だと言えるだろう。或いはホワイトベースを攻撃する度にアムロに撃退されるシャアを不憫にすら思ったかも知れない。小説版でセイラはアムロに対してシャアを殺すことと引き換えに自分の身体を与える。兄が何度も殺しに来るのだから、そのように思えばセイラの心情は実によく理解できるのである。鈍感すぎるぞ…シャア…。俺の妹だからきっとこうに違いないが多く、シャアのセイラに対する考え方は総じて詰めが甘い。
とはいえ、ア・バオア・クーではセイラが炎に飲まれそうになったところをシャアが助けるというようやく兄らしい行動をとる姿を見ることができる。この兄と妹はそのまま今生の別れみたいになってしまうのだが、やはり多くのファンが心を痛めたのだろう。『シャアの日常』では、シャアとセイラの仲睦まじい兄妹愛を見ることができる。アニメ作品が悲劇的なだけにその様子はホッとさせられるものがあって和むのだ。
機動戦士ガンダムは一方に於いてアムロとホワイトベースクルーの成長と団結の物語を描いているが、もう一方に於いてシャア・アズナブルの栄光と転落を描いている。特にテレビアニメ版では顕著だ。しかし、後にリリースされた映画版の影響力があまりに強いため、シャアは偶像化され、完璧な人間の見本のように扱われ、圧倒的な人気を誇るようになった。最近になって『シャアの日常』のようなギャグマンガが通用するようになったのも、シャアが神格化されている故であると言うことができるだろう。但し、そのようなシャアはテレビ版の本意にそぐうものではないということもまた重要な事実であるように思える。何回かに分けて、テレビ版ガンダムでのシャアはどのような存在として描かれているのかを私なりに考察してみたい。
まず、第一回の放送分なのだが、冒頭で宇宙空間を移動するザクが登場し、彼らはサイド7のスペースコロニーに入り込み、地球連邦のモビルスーツを発見し、上官のシャアの判断を待たずに攻撃を始める。突然危機に見舞われたサイド7の住民たちが逃げまどい、ホワイトベースへと非難してゆく中、機械操作の才能に恵まれた少年アムロはこっそりガンダムに搭乗し、使いこなし、ザクを返り討ちにする。計3体いるザクのうち2体はアムロのガンダムによって打ち取られ、残りの1体は脱出してシャアの待つムサイに帰還するのである。
で、この放送分の最後のセリフがシャアの有名な「認めたくないものだな。若さゆえの過ちというものを」だ。シャアはなぜこのようなセリフを吐かねばならなかったのだろうか。若さゆえに彼はどのような過ちを犯したというのだろうか。たとえば「デニムに新兵を抑えられんとはな」というセリフもあるが、これはシャアの指示を待たずに若いザクのパイロットであるジーンが先制攻撃を始めてしまい、同行していた先輩のデニムはジーンの独断専行を追認する形で戦闘に参加した結果、二人とも戦死してしまったことに対するシャアの感想のような一言なのだが、ここだけ見れば、シャアはこの二人の戦死について責任はない。命令無視をしたジーンと、命令無視を追認したデニムに責任がある。その後全40回以上にわたりシャアは敗北に敗北を重ねていくことになるのだが、この段階ではそれはまだ未来のことで、シャアはルウム戦役で輝かしい戦果を挙げたジオン軍のスーパースターだ。この段階で、シャアに落ち度など、ないように見える。にもかかわらず、繰り返しになるが、シャアは「若さゆえの過ち」を認めているのである。果たして何が落ち度だったのだろうか?
この疑問を解くカギが第一回放送分のシャアのセリフに込められている。サイド7でザクとアムロの乗るガンダムとの間で戦闘が始まったと知った時、シャアは「これは私が行くしかなそうだ」と副官のドレンにシャア本人が出撃するとの意思を示す。ジーンとドレンはそもそも偵察が任務なので、二人が引き返してくるのが筋なのだが、事態の収拾のために、どういうわけがシャアが現場へ出向くというのである。言うまでもないが地球連邦軍にご挨拶する義理はない。生きているザクに帰還命令を出し、シャア本人はムサイで待つのが筋なのだ。しかし、シャアは行くという。理由は簡単である。シャアは現場に行きたくなってしまったのである。うずうずしてしまい、現場のジーンとデニムに手柄を立てられるのが悔しいので、自分も手柄を立てに行こうとしているというわけだ。サッカーでシュートを入れたい少年と同じ心境なのである。
そもそも、シャアはゲリラ掃蕩作戦の帰りに、地球連邦のV作戦の存在をキャッチし、その秘密がサイド7にありそうだということで予定外の遠回りをしてサイド7に立ち寄っている。ゲリラ掃蕩を命じられていたシャアに、そのような遠回りをする義理はなかったのだが、敵のV作戦の存在を知ったとたん、うずうずしてしまい、スーパースターの味が忘れられず、ルウム戦役の夢よもう一度と思って、独自の判断で動いたということになる。要するに手柄が欲しくて独断専行したというわけだ。もうちょっと言えば、若きジーンと上官のシャアは同じ心理構造を持っていたということが分かる。二人の運命を分けたものは、ジーンが敵対した相手が連邦軍の技術の結晶であるガンダムであり、シャアが敵対した相手はまだ戦いに不慣れな連邦軍だったという違いくらいしか思い浮かばない。
これでだいたい今回述べたいことは述べたのだが、シャアは上官のドズルから命令されたわけでもないのに、手柄が欲しくてうずうずしてしまい、行かなくてもいいサイド7に行って、なんとザク2機を失い、パイロットを2人戦死させているのである。これがシャアをして「若さゆえの過ち」と言わしめた失敗である。
もちろん、これはシャアの失敗の序の口に過ぎない。今後シャアはガンダムとホワイトベースのために数多のモビルスーツとパイロットを失い、親友を失い、スパイを失い、戦場の盟友を失い、恋人を失い、プライドも失うことになる。気の毒なことこの上ないのだが、このシャアの転落がガンダムの裏テーマだと考えれば、ガンダムという作品理解を深めるために無視するわけにもいかないのである。当面はシャアについて記事を追加していくことを予定している。
ガンダム劇場版『めぐりあい宇宙』はそれまでの劇場版第一部、その続きの『哀戦士』編までの物語の一旦の終局へ向かって行く重厚かつ特に重要な一編です。
ホワイトベースのクルーが誰と誰が付き合いそうかという「あいのり」風状態になっている一方で、シャアはララァという恋人を確実ゲット。階級は大佐でフラナガン博士も囲い込み、キシリアもめろめろにさせています。
『めぐりあい宇宙』の重要なテーマは人の覚醒で、その代表選手がアムロ、次にセイラ、そしてミライになりますが、実は外せないテーマとしてシャアの限界というものがあるように思います。
冒頭、宇宙に出たばかりのホワイトベースをザンジバルで追撃しようとするシャアは同空域内でパトロール中のドレン大尉に支援を求めます。位置的にドレン大尉の方が早くホワイトベースと接触します。ドレン大尉がシャアに「間に合いますか」と質問すると、シャアは「私を誰だと思ってるんだ?」と余裕しゃくしゃくの返答をしたのに間に合いません。ザンジバルがホワイトベースに接触する30秒前にドレン大尉の艦隊は全滅。シャアはさくっとサイド6へ方向転換します。
サイド6ではコンスコン隊が包囲し、ホワイトベースの出航を待ちかまえます。シャアもサイド6にいるのですが、どこ吹く風とララァと二人でテレビで戦闘の推移を見守ります。冷徹と言えば冷徹ですが、ガンダムを倒すためのチャンスをみすみす逃すという意味では何かがしっくりおさまりません。テレビ見てる場合かよです。
テキサスコロニーでは自爆を装いガンダムから逃げなくてはならないところにまで追い込まれます。シャアはニュータイプ第一号みたいな人ですが、気づくと運動神経がやたらいいだけの兄ちゃんになってしまっています。
テキサスコロニーで妹と偶然再会したシャアは「父の仇を撃つ」と言いますが、「嘘でしょう、兄さん」と見抜かれてしまいます。最後はキシリアを撃って所期の目的を果たしますが、シャアの内面でいろいろ揺れていることが分かります。「疲れて来たから、これからはどこか他人のいないところでララァと遊んで暮らしたいなあ」とかチラッと思うこともあったかも知れません。
ソロモンの戦いに参加しないのは指揮系統の問題がありますからまあ、いいとして、ララァは戦死する、ゲルググの片腕は切り落とされるとぱっとせず、「今の私にガンダムはたおせん」と自分でも認める事態に陥っています。本人も限界を感じています。
キシリアからの評価もがた落ちで、シャアにとっては居場所のない、立場のない心境に追い込まれたに違いありません。キシリアみたいな人が上司だとごきげんとりが大変でしょうから、そういう人からの評価のがた落ちはなんともやりにくくて仕方がないに違いないのです。アバオアクーでジオング撃沈では「赤い彗星も地に落ちたものだな」とまで言われる始末。このまま終戦になったらかっこ悪いことこの上ありません。アムロとフェンシングで勝負しますが「マスクがなかったら即死だった」くらいに完敗しています。ぶっちゃけ残念すぎる状態で見ていられません。エヴァンゲリオンでいえば自分が一番のポジションにいると思っていたのに実はシンジの方が凄かったことにショックを受けるアスカ状態です。ナウシカで言えば戦争で勝っているつもりだったのに気づくと負けが込んでくるクシャナ状態です。
ジオングをぶっつけで使いこなしたりする場面では、くさっても赤い彗星という感じで、観る側としては多少は安心します。最後にキシリアを撃って父の仇を果たす場面もくさってもシャアと言えます。シャアが好きな人は多いと思いますので、そういう場面を見てほっとする人は多いのではないかと思います。
シャアのこと以外で『めぐりあい宇宙』の個人的な見どころとしてはザクとドムとゲルググがごろごろ出てくるところです。中二心が刺激されます。音楽もいいと思います。意外なところで注目したいのは、サイド3内部で向き合うように立つデギンの建物とギレンの建物がなかなか前衛的なところです。新時代建設をうたう政権は、それを人々に印象付けるために前衛芸術を必要とするという演出の歴史に対する鋭い観察があると思います。
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