新宿の中村屋サロン美術館

新宿のとある一角に、洋食で有名な中村屋王国みたいなビルが存在する。

中村屋の洋食レストランがあるだけでなく、持ち帰り用の食品点もあれば、美術館まで所有している、中村屋王国である。成功した企業が美術館を持つことは、決していけすかない嫌味な趣味などではない。美術館を持つことは成功者の証であり、文化芸術面での社会貢献の一環であり、社会はそのような成功者や企業に対し、それにふさわしい敬意を持つのがより理想的だと思っているので、「王国」という表現は、私なりの敬意の表明である。ポーラとか、ブリヂストンとかの企業が美術館を持っているのと同じで、そういう施設を持とうと思う発想法は結構素敵なのではないかと私は思う。もうちょっと規模の大きいものではフジサンケイグループが箱根でピカソの絵を集めたりしているのがあって、かつて経営者一族が役員会のクーデターで追放された際、なんとなく空気として、美術品集めにかまけているからこのようなことになったのだと言わんばかりのものが流れていたような気がするが、あのケースと美術品の収集は関係がない。美術品を集めたからクーデターが起きたのではなく、企業のガバナンスに失敗したからクーデターが起きたのである。

ま、それはそうとして、中村屋である。大正から昭和の初めくらいにかけて、中村屋は芸術家サロンとして機能するようになった。創業者が芸術家たちをかわいがり、パトロネージュするようになって、芸術家たちが出入りするようになったというわけだ。言うなれば中村派である。フランス絵画の世界にエコールドパリとか、バルビゾン派とかがあるような感じで、中村派と呼ぶべき絵画グループが存在したわけで、中村屋サロン美術館ではそういった、中村屋にゆかりのある芸術家の作品を見ることができる。私が見学して得た印象としては、中村派の芸術家たちは日本の風景や日本人の佇まいをどのように描けば西洋絵画の手法に馴染ませることができるかということに腐心していたように感じられた。

中村屋と言えば、カレーである。インド独立運動に身を投じ、日本に亡命したラース・ビハーリー・ボースが中村屋に本格的なインドカレーを伝えたそうだ。中村屋のボースはよくチャンドラ・ボースと混同されるが、別人である。ボースは創業者の娘と結婚して日本の生活に馴染んでいくのだが、孫文が日本に亡命した際に宮崎滔天などの支援を受けたのによく似た構図と言えるかも知れない。このボーズのおかげで、東京名物中村屋カレーが楽しめるのである。私もせっかくなので中村屋のカレーパンを食べてみた。地下の食品売り場には小さなフードコートになっていて、カレーパンやスイーツ、ホットコーヒーなどを買ってその場で食べることができる。新宿という、ありふれた要件で誰もが立ち寄る土地で、中村屋の美術館に入ることで非日常を楽しめるのは結構いい経験になった。

中村屋のカレーパン
中村屋で食べたカレーパン

最後に、偶然、チャンドラ・ボースのことにも少しだけ触れたので、ついで議論したいのだが、日本の力を借りてインド独立を果たそうと考えていたチャンドラ・ボースは、日本の敗色が濃厚になる中、日本ではなくソビエト連邦と中国共産党の支援を受けることでインド独立運動の継続を模索するようになった。日本の敗戦を知ったボースは台湾から日本軍機で大連にわたり、ソ連軍に投降することを計画したが、飛行機は離陸の瞬間にプロペラが滑落してしまい、飛行機は地面に激突した。ボースは全身やけどを負い10日あまり持ちこたえたが、彼は台湾で亡くなった。私の想像だが、謀殺なのではないだろうか。ボーズが日本軍機を使って大連に渡ることを計画した以上、日本軍の全面的な協力がなくてはならず、当然、諸方面にボーズの考えは伝達されていたに違いない。そして日本軍内部には多様な意見があり、純粋にアジア解放思想を持つ軍人たちは、たとえ日本が滅びてもボーズにできるだけの協力をすることで、インド独立に協力したいと願っただろうけれど、一方で日本が戦争に敗けたと知って敵に寝返るのかと憤慨した面々もいるだろう。仮にもレイテ沖海戦以降、日本・台湾からは無数の特攻隊員がアメリカ艦隊を目指して飛び立っている。そのため飛行機整備のノウハウの蓄積は凄まじいものがあったに違いなく、プロペラの滑落など意図しなければ起きないのではないかという気がする。それも離陸の瞬間に外れるのだから、誰かが故意に外れるように仕組んだのではないかと思えてならないのだ。このようなチャンドラ・ボース謀殺説は、私の妄想のなせるとんでも都市伝説みたいなものなので、本気にしていただかないでいただきたい。日本とともにアジア解放のために戦ったチャンドラ・ボース氏に敬意を表します。



渋谷の北海道スープカレー

北海道は何を食べてもおいしい奇跡の土地である。日本各地においしいところはある。だが、しかし、北海道のように新天地でおいしいものがどんどん生まれてきたという力強いロマンのあるところは、他にない。北海道こそ日本の近代史の本質を物語る運命を背負ってきた土地であるとすら言えるだろう。

北海道の歴史と言えば、アイヌの人々だ。一万石扱いで北海道全体の管理・開墾・交易を扱ってきた松前藩は、アイヌの人々を奴隷的労働状態に追い込み、縄張りを奪うなどして利権を拡大したとされる。正式な「アイヌ史」のようなものは勉強したことがないので、私の知識ではこの程度のことしか言えないのだが、日本が植民地を拡大していた時代、台湾の原住民に対して、或いは満州地方の漢民族に対して似たようなことはなされてきたと言ってしまってもさほど間違ってはいないだろう。なし崩し的に領有していったという手法に着目すれば、沖縄で行わたこととも通底すると言えるだろう。

台湾では霧社事件のような身の毛もよだつ反乱暴動が起き、その鎮圧も苛烈であったとされているが、北海道でそのようなできごとは聞いたことがない。アイヌと和人の抗争ということになれば、平安時代のアテルイあたりまでさかのぼらなければならないのではないだろうか。そのようなわけで、アイヌの人々の平和を愛する様子は尋常ならざるほど徹底しているのかも知れない。ああ、アイヌの人とお話がしてみたい。アイヌ資料館が八重洲と札幌にあるはずで、いずれは八重洲のアイヌ資料館にも足を運ぶ所存だが、最終的には札幌のアイヌ資料館に日参してようやく見えてくるものがあるのではないかとも思える。二週間くらい時間をとり、最初の一週間は図書室でひたすら資料を読み込み、二週目はできればアイヌ語の基本くらいは勉強してみたい。教えてくれる先生がいるかどうかは分からないので、飽くまでもそういう空想を持っているというだけなのだが。

いずれにせよ、その北海道はとにかく食事がおいしいのである。海の幸も陸の幸も本州のそれとは段違いに味が濃い。かつて北海道のホッケは食用には向かないと言われたが、今では日本人の主たる食材の一つだ。ホッケは実に美味なのだが、そのホッケですら食材の人気ランク外になるほど、北海道の味は充実しているのである。しかもサッポロビール園があって、対抗するようにアサヒビール園がある。私はもうそのようなビール飲み放題的なところへはいかないが、北海道の食のアミューズメントがいかに充実しているかを議論するための材料として言及してみた。

さて、スープカレーだ。北海道はサッポロビールがおいしく、函館・札幌・旭川のラーメンは伝説的なおいしさで、当然魚もうまいのだが、そこに被せるようにスープカレーもうまいのだ。私は函館に一週間ほど旅行したことがあるのでよく知っている。どうして普通の地方都市にこんなにおいしいものが次々と普通に売り出されているのかと、北海道の底力に驚愕したのである。その北海道のスープカレーが渋谷で食べられると知り、私は小躍りした。ヒカリエのすぐ近くにそのスープカレー屋さんはあった。イカスミ風味もあったのだが、まずはプレーンで頼んでみた。十二分に辛い、たっぷりのスパイスが食欲を刺激するし、スープなので、ごくごくいけてしまう。奇跡の味である。北海道へのリスペクトとともに、ここに書き残しておきたい。尚、この時は人におごってもらったので、おごってくれた人に感謝である。

精神科医の樺沢紫苑氏が、北海道のスープカレーを流行させたのは自分であると豪語する音声ファイルを聞いたことがあるが、本当なのだろうか…今も確信を持てずにいる。



JR藤沢駅構内のカレーステーション

中曽根政権期、国鉄が解体され、JRという新しい鉄道会社が誕生した。国鉄は国営だったが、JRは民営である。そのため合理的な経営が図られることが期待されるようになった一方で、それまで国鉄で働いていた多くの労働者が不要になるとの見通しがあり、まさか会社の経営が変わったのであなた辞めてくださいというわけにもいかず、人材をいかに活用されるかが議論の対象になった。国鉄には極めて協力な労働組合である国労があり、中曽根首相(当時)の狙いは、国労の解体にあったとの見立てもあって、それはそれで説得力のある見立てであるとは思うのだが、ここではそこには踏み込まず、人材活用の方に光を当てたい。

国鉄で労働者として勤務し、JRになってから行き場をなくしてしまった数万人規模の労働者の人たちは、JRの多角的経営というか、副業みたいな場へと異動させられていった。私の記憶が間違っていなければ、売店みたいなところとか、テーマパークみたいなところとかへ異動があったように思う。そして、そうしたJRの副業と人材活用の一環に、レストラン業があって、その一環としてJR藤沢駅にもカレー屋さんが作られたのである。

消費者の立場としては、カレー屋さんで働いている人が元国労かどうかということは関係がない。もともと鉄道の仕事をしていた人かどうか、そういったことはどうでもいい。問題はおいしいかどうかである。当時、まだまだ若かった私にとって、JR藤沢駅のカレーステーションは、ショッキングなくらいに私の心を揺さぶった。要するに、この駅のカレー事業は大当たりで、私は非常にこのお店を気に入り、一時は足しげく通ったものである。繰り返すが、私は決して、働いている人に同情して通ったのではない。駅で気軽にカレーが食べられるというコンセプトに感激し、実際にカレーもおいしいから、ますます感激の度を強め、通ったというわけだ。

最近、久々に立ち寄ったので、記念にカレーの写真を撮り、ブログでも記事として残しておきたい。安くておいしいカレーが通りますよ♪



松屋のオリジナルカレーを食べてきた

松屋が12月1日でオリジナルカレーの販売を中止するというニュースが持ち上がったのは昨日のことである。そして、昨日のうちに、松屋がカレーの販売を中止するのではなく、販売するカレーが変更されるのだということまでが明らかになった。カレーがなくなるとすれば、ショッキングだが、カレーが変更されるというだけであれば、そのショック度合いはそこまで高くはない。とはいえ、今販売されているカレーはなくなるのである。通信販売としては残されるとのことだが、店舗で出されなければやがて忘れられ、知らないうちに通信販売も終了するだろう。

で、実は私は松屋でカレーを食べたことがない。松屋は牛丼屋さんだと信じていた私にとって、松屋でカレーを食べるとの選択肢は最初からなかった。しかしである。ネットでは「あのおいしい松屋のカレーがなくなる」との悲鳴が響いていた。そんなにおいしいのか?しかももうすぐ食べられなくなるのか…では食べようと決心した私は近くの松屋まで出かけたのである。

結論から言えば、松屋のオリジナルカレーは椅子から落ちてもおかしくないほどおいしい。とてもおいしい。しかも安い。コスパ最強である。ブラックカレー風で、ペッパーの風味がきいており、充分に辛い。カレーは辛くなくてはいけないが、これくらい風味がきいて辛いのだから、人気が出て当然だ。このおいしいカレーの販売中止ということになれば、ファンは悲しむだろう。ファンが大勢いることは間違いない。おいしくて、安いのだから。

今後、創業カレーなるものが登場するらしいのだが、その全容は現状では明らかではない。想像だが、オリジナルカレーの名称のまま値上げするのは難しいとの判断があって、商品名を変えて値上げするのではないだろうか。とはいえ、今はともかく、松屋のオリジナルカレーに敬意を表したい。