諸国民の春‐1848年革命

ナポレオン戦争の後始末をつけるために行われたウイーン会議ではタレーランが敗戦国でありながら旧秩序回復を大義名分としてブルボン王朝の復活に成功させました(フランス分割でもおかしくなかったところを、タレーランがふんばったといったところです)。一方で、ナポレオンによって消滅させられた神聖ローマ帝国の復活はなく、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国が失われた分、一歩後退なうえに、そもそも大事なお姫様であるマリーアントワネットがフランス革命で殺されていますので、かなり憤懣が残ったのではないかとも思えます。しかしながら、ハプスブルク家の代理人みたいな立場になっていたメッテルニヒががんばったおかげで、少なくともオーストリア帝国は維持できた、という言い方もできるかも知れませんが、この積もり積もった怨念のようなものが第一次世界大戦にまで持ち越されますので、人の恨みというのは甘く見てはいけないものかも知れません。

さて、その第一次世界大戦が起きる前に、ヨーロッパでは「諸国民の春」と呼ばれる大動乱を経験しています。フランスでは王政復古後にルイ18世、更にはシャルル10世というブルボン家の国王が二代続きましたが、ルイ18世の治世の後半から絶対王政の復活を志向するようになり、国民が「なめとんのかああっ」と1830年に7月革命を起こします。シャルル10世国外に逃亡し、オルレアン公ルイ・フィリップが王位に就きます。オルレアン家はブルボン家とは親戚関係にはなりますが、シャルル10世が海外に亡命したことでその本家筋は終了し、分家筋がその間隙に割って入った感じです。ルイ・フィリップは立憲君主制を標榜し、国民の王ともてはやされ、表面的にはフランスの民主革命の一環のようにも見えますが、なんとなくルイ・フィリップが裏でいろいろ画策したのではないかという気がしなくもありません。7月革命でパリの主要な地域が革命派によって占領された後、国民的人気の高かったラファイエットと一緒にパリ市庁舎のベランダに登場するという、いかにもあざとい演出は、むしろルイ・フィリップ陰謀説を強化する材料になるのではないかとすら思えてきます。しかしながら、1848年2月、改革について議論する「改革宴会」と呼ばれるものが当時流行っていたようなのですが、それを規制しようとして国民の反発を買い、2月革命が勃発します。ルイ・フィリップはイギリスに逃れ、そこで生涯を終えることになりました。民主主義に対する規制をかける者に対しては暴力で対抗するというフランス革命の精神はフランス史やフランス政治、或いはフランス人を理解する上で知っておくべきであるようにも思え、それだけ民主主義を大事にする国なのだということは私は評価できるのではないかという気がします。

さて、この2月革命によってナポレオンの甥であるルイ・ナポレオンが大統領に選ばれますが、この革命の勢いがオーストリアに飛び火します。民主化を求める学生運動が議会に侵入するという事態が起き、あたかも1968年の世界的な学生運動や、最近台湾で起きたひまわり学生運動を想起させるできごとですが、宰相だったメッテルニヒが辞任し海外へ亡命します。一般的にはこれでウイーン体制が崩壊したと言われます。有能なメッテルニヒが突然いなくなったことで国を運営するものがいなくなり、各地で反乱が頻発し、4月には皇帝一家はウイーンを離れるという展開を見せます(後に復帰しますが、オーストリア帝国解体の兆しであったと言えるようにも思えます)。

このような動きはフランスとオーストリアだけで起きたのではなく、同じ年の3月にはハンガリーでも革命運動が起き、それまでハプスブルク家の大帝国の完全な一部であったハンガリーは自治権を獲得し、オーストリア帝国はオーストリア・ハンガリーの同君連合に体制が移行します。ドイツでも政権と国民の衝突が起きています。

他にもヨーロッパ各地で革命・暴動が広がっており、ヨーロッパ全域が王や皇帝による支配から、立憲制度に基づく立憲君主制または共和制という価値観が共有されるようになり、同時に民族自決という価値観も持たれていくようになっていきます。フリーメイソン陰謀説が当然あると思いますが、民主主義には賛成ですから、ヨーロッパはよりよい方向に向かったと言ってもいいのではないかという気がしなくもありません。もっとも、英仏帝国主義がその後に全盛期を迎えますので、なにやっとんじゃいという感想も同時に持ってしまうわけですが…。



タレーラン‐戦争で敗けても外交で勝つ

フランス人外交家のタレーランと言えば、ナポレオン戦争でフランスが敗戦国になってにもかかわらず、何も失わずに上手にウイーン会議を乗り切ったことで、つとに有名です。ヨーロッパで外交をした人の中ではとりわけ優れた人として知られています。

もともとは司教の道を歩んでいたというちょっと一味違う出発点を持っている人なのですが、政治に対する関心が強く、フランス革命の後に国民議会の議員に選ばれた後でローマ教皇ピウス2世から破門されています。フランスではユグノー戦争などがあったように、カトリックとプロテスタントのせめぎ合いが激しく、タレーランとしてもローマ教皇に付き従うような人生を歩むことには疑問があったのかも知れません。

ロベスピエールの恐怖政治時代は、言いがかりで断頭台に送られてはたまらないとアメリカに亡命していましたが、後に帰国し、ナポレオンのクーデターを共謀。ナポレオンが政権を取ってからはその腹心としてかいがいしく仕えたらしいものの、ナポレオンにとっては必ずしも「居心地の良い相手」とも言えなかったようです。ナポレオンが皇帝に即位した後はその侍従長まで努めますが、ナポレオンが失脚するとあっさりブルボン家の利益を代表してウイーン会議に参加していますから、腹の中ではナポレオンに対してはタレーランの方でもいろいろ考えるところがあったのかも知れません。ロベスピエールの時代にアメリカに亡命していたことや、ブルボン家の復活に貢献していたことなどを考えると、ナポレオンなどは所詮はフランスの主権の簒奪者、用が済んだらさようなら。という感じがどことなく漂っていたとしても不思議ではないようにも思えます。

ナポレオンが追放された後に行われたウイーン会議は「会議は踊る、されど会議は進まず」と揶揄する言葉が残されていたように、ようするにだらだらとやって細かいことをぐちぐちとやって、タレーランが諸方を懐柔していたようです。「悪いのはナポレオンなわけですから、全部元に戻せばそれでいいじゃありませんか。あ、そうだ、イギリスとは同盟国になりましょう。互いに戦争しないと決めれば安心じゃありませんか。あっはっは」というようなことをおそらくは熱心にかつしつこく言って歩いたのではないかと想像すると、お主やるな、という言葉がついつい頭に浮かびます。

オーストリアのハプスブルク家からすれば、ハプスブルク家のお姫様であるマリーアントワネットは殺された上に、神聖ローマ帝国の消滅という衝撃的なことまでフランスにやらかせてしまったわけですから、この際、フランスを分割してバラバラにしてしまいたいくらいに思っていたはずですが、本気でそれを実行しようとすればまた面倒な戦争を何回かやらなくてはいけなくなるかも知れません。ハプスブルク家の利益を代表するメッテルニヒが現実的な協調路線で話をまとめようとしたことも、タレーランにとっては幸いしたように思えます。イギリスは百年戦争以来、ヨーロッパ大陸に対する領土的野心みたいなものが萎えてしまっていましたから、タレーランのアイデアに乗ってフランスと同盟しておけば、少なくともヨーロッパからちょっかいを出される心配はなくなるというわけで、フランスにとってはイギリスがこっちについてくれたならオーストリア皇帝もロシア皇帝も無理は言うまいという、ちょうどいい感じのバランスオブパワーが成立したという感じでしょうか。敗戦国でありながら、フランスのヨーロッパ政治の主要プレイヤーとしての地位を守り抜いたタレーラン、恐るべし。かも知れません。

タレーランの尽力により、諸国はブルボン王家の復活を認め、ルイ18世が新しい王として君臨することになります。ただし、タレーラン本人はルイ18世のことをあまり好きではなかったようです。ルイ18世はルイ16世夫妻が危機に陥っていた際にはドイツに亡命し、ルイ17世がタンプル塔で死ぬまで虐待された時には安全な場所に居ながら摂政を自称し、ルイ17世が亡くなったという知らせを受けるとルイ18世(つまり、王位継承請求権者)を名乗ったあたり、確かに狡猾でエゴイスティックに思えなくもありません。想像ですがタレーランは古き良きブルボン王朝を理想としつつも、時代は市民社会へと移行する最中であり、せっかく復活させたブルボン王朝もルイ18世のような欲深おじさんに継承させざるを得なかったという点はやむを得ない…納得できないが満足すべし。と思ったのかも知れません。

タレーランとメッテルニヒの共同作業で誕生したとも言えるウイーン体制は、その後にヨーロッパが革命の季節を迎えたり、第一次世界大戦になったりして必ずしも続いたとも言えませんが、ヨーロッパ域内のことだけとは言え、国際協調のモデルがだんだん形作られて行ったという意味で意義深いのではないかとも思えます。


ナポレオン戦争‐旧秩序の破壊者

フランス革命が発生した後、国政の実権はロベスピエールたちジャコバン派が政権を握ります。彼らがルイ16世を処刑した後、ヨーロッパ諸国が対フランス大同盟を組み、フランス包囲網が作られます。周辺諸国は当時はまだ君主制が普通ですから、フランス型共和制の理念が自国に及ぶことに強い懸念を持っていたはずですし、国王処刑というショッキングなできごとに対する人間的な怒りというものも感じていたかも知れません。このような国難に対し、ロベスピエールは粛清に次ぐ粛清ということで国内を引き締めることで対応しようとしますが、嫌疑があればすぐ断頭台という恐怖政治の手口は結果的には多くの政敵を作ることになり、彼は議会から追放され、市役所に逃げ込むも議会が「ロベスピエールに味方する者は法の保護を受けることはできない」と宣言したことで周囲から人が離れてゆき、ロベスピエールは自殺しようとするものの失敗してしまい、翌日には断頭台へと送られます。テルミドールのクーデターと呼ばれる事件です。ロベスピエール派たちが最後の晩餐をした場所が残っていますが、そこはマリーアントワネットが最後の日々を過ごしたのと同じ場所で、盛者必衰、諸行無常を感じざるを得ません。この時、一軍人だったナポレオンはロベスピエールのオーギュスタンと親交があることが危険視され、予備役編入されてしまいます。

ロベスピエール派を粛清した国民公会は絶対に自分たちが選挙に負けない法律を成立させたが、当時は国民公会の人気がなく、王党派も多く残っていたために暴動が起きます。ヴァンデミエールの反乱と言います。国民公会がナポレオンを起用したところ、散弾の大砲で王党派を蹴散らしてしまい、このことでナポレオンは再び表舞台に登場することになります。市民に向けて殺傷力の強い散弾の大砲を使うわけですから、そんじょそこらの人物とは訳が違います。勝てる方法が分かっているのなら、それをやるという、彼の単純かつ明快な論理がそこにあったのではないかと思います。

ロベスピエールが死のうと生きようと、フランスに対する外国からの脅威は消えていません。得に、マリーアントワネットの実家のハプスブルク家のオーストリアはかなりの敵意を燃やしています。国民公会はドイツとイタリアの方面に軍を送ってオーストリアを包囲する戦略をとりますが、ドイツ方面では苦戦したのに対し、イタリア方面の指揮を任されたナポレオンは連戦連勝で単独で講和まで勝ち取り、ここに第一次フランス包囲網は崩壊することになります。外交までやってしまうところに「躊躇しない」という彼の性格が良く出ているように思えます。

しかし、当時、イギリスが強敵としてまだ立ちはだかっていたのですが、ナポレオンはイギリス優位の理由をインドの領有にあると見て、中継点になっていたエジプト征服戦争に出かけます。実は戦争でナポレオンは苦戦を強いられ、兵を見捨てて徳川慶喜ばりに側近だけを連れて脱出し、フランスへ帰還します。そしてブリュメールのクーデターを起こし、フランス政治の実権を握るわけです。帰還したナポレオンは国民から歓喜で迎えられたと言われていますが、残された兵たちが帰還してくればナポレオンの敵前逃亡がばれてしまうため、その前に手を打ったと思えなくもありません。

国際社会は再びフランス包囲の大同盟を組んでフランスを圧迫しようとしますが、ナポレオンがオーストリア軍に大勝利し、あっけなくこの大同盟は瓦解します。1804年、ナポレオンはなんと国民投票によって皇帝に選ばれ、しかもそれはナポレオンの子孫が皇帝の地位を世襲するという内容のもので、そんなことが投票によって可能になるとは目に見えない力がナポレオンを後押ししていたのではないか、神が彼に肩入れしていたのではないかとすら思えてきます。

当時、イギリスとオーストリアが気脈を通じ合っており、またしてもフランス包囲網が形成されます。ナポレオンはオーストリア及び
神聖ローマ帝国連合を東正面に、西正面には大英帝国という難しい局面に於かれた上、イギリス上陸を目指して行われたトラファルガーの戦いではイギリスのネルソンの艦隊にフランス艦隊が破られるという大きい失点をしてしまいます。反対に、東正面ではアウステルリッツの戦いで、神聖ローマ帝国及びロシア皇帝の同盟軍を破り、神聖ローマ帝国は解散・消滅の運命を辿ることになりました。フランスにとってはハプスブルクこそ主敵であり、ハプスブルクの権威の象徴である神聖ローマ皇帝を消滅させたことは、かなり大きな意味を持ったかも知れません。

ナポレオンはブルボン王朝の人間をスペイン王から外し、弟をオランダ王に即位させ(フェートン号事件の要因になった)、ベルリンまで兵を送りプロイセン王は更に東へ脱出し、ナポレオンはヨーロッパ内陸部の主要な地域をその支配下に置きます。スペインにはブルボン朝の王がいましたが、それも自分の兄に交代させています。ナポレオン大帝国の完成です。ナポレオンはイギリスを主敵とするようになり、トラファルガーの戦いの怨念もありますから、大陸封鎖令を出してイギリスに商品が入らないように工作し始めます。島国イギリスを兵糧攻めにするというわけですが、ロシア帝国はイギリスへの小麦の輸出は経済的に是非とも続けたいことであり、ナポレオンにばれないようにイギリスへの輸出を続けます。これを知ったナポレオンがロシア遠征を決意し、ここが運命の別れ道となってしまいます。

ナポレオン軍はモスクワ占領までは漕ぎつけますが、ロシア側は焦土作戦で対抗します。こういう場合は持ってる土地が広い方が有利です。ロシア政府政府からの講和の要請は待てど暮らせど届きません。トルストイの『戦争と平和』でも見せ場と言っていい場面です。広大なロシアを延々と東征することは現実問題として不可能であり、しかも冬が到来すればフランス兵がバタバタと死んでいくことは明白で、ナポレオンは冬の到来の直前に撤退を決意しますが、撤退戦は戦いの中でも特に危険なもので、コサック兵の追撃を受ける破目になり、出征時60万人いたナポレオン軍の兵士で帰還できたのは僅かに5000人だったと言います。ほぼ完全に全滅、太平洋戦争のレイテ戦以上に酷い有様となってしまったと言えます。

新たなフランス大同盟が迫り、遂にパリは陥落し、フォンテーヌブローでナポレオンは退位させられます。彼は地中海のエルバ島に追放され、国際社会はナポレオン後の秩序構築のためにウイーン会議を開き、タレーランが「ナポレオン以前の状態に戻ればいいじゃあありませんか、あっはっは」とルイ18世の王政復古を議題に上げ、フランスが敗戦国かどうかよく分からないようにしてしまい、「悪いのはナポレオンですよね」で乗り切ろうとします。

ところがナポレオンがエルバ島から脱出。パリに入って復位を宣言します。ヨーロッパ諸国はナポレオンの復位を認めず、フランスを袋のネズミにするように各地から進軍が始まり、有名なワーテルローの戦いでナポレオン軍はほぼ完全に破壊され、彼は海上からの脱出も図りますが、世界最強の英艦隊に封鎖され、遂に降伏。大西洋の絶海の孤島であるセント・ヘレナへ流されて、そこで側近たちとともに面白くもなんともない生活を送り最期を迎えます。晩年のナポレオンはあまりにもお腹がでっぱり過ぎていたことから肝硬変が腹水が溜まっていたのではないかとする病死説と、フランスに送り返されたナポレオンの遺体がまるで生きているかのような状態だったことから、ヒ素による毒殺説までいろいろあり、今となっては分かりません。ナポレオンの棺は今も保存されており、巨大な棺の中で彼は今も眠っているはずですが、敢えて蓋を開いて調べようとする人もいないようです。

そのような墓暴きみたいなことがされないのは、今も畏敬の念を持たれていることの証であるとも思えますし、ワーテルローで降伏した後、裁判にかけられて処刑されてもおかしくないのに、絶海の孤島に島流しで済んだというのはナポレオンの強運が普通ではないということの証明なのかも知れないとも思えます。

振り返ってみれば、ナポレオンは暴れるだけ暴れて、果たして何を残したのか…という疑問はありますが、神聖ローマ帝国の消滅は、ハプスブルク家の凋落を目に見える形で示したものであったとも言えますから、少し長い目で見れば、ヨーロッパ秩序を大きく変えたということは言えるように思います。秩序を破壊する人と新秩序を構築する人は別の人、というのが普通なのかも知れません。


ウエストファリア体制‐国際社会の誕生。ドイツの確立。



近世ヨーロッパの歴史を語る上で欠くことができないのが宗教戦争です。ヘンリー8世が英国教会を作ったことで、イギリスでは英国教会派とカトリック派の激しい殺し合いが起き、エリザベス1世がメアリスチュアートを処刑するという悲惨な出来事が起きたのも、このような宗教対立の一環として起きたことと言えます。フランスでもユグノー戦争があり、その過程でヴァロア王朝が滅亡し、ブルボン王朝のアンリ4世が宗教的融和を目指したものの、ルイ14世の時代にカトリックへの回帰が見られました。宗教戦争は単なる信仰の問題に留まらず、フランス国王ブルボン家対神聖ローマ皇帝ハプスブルク家の覇権争いという別の要素が入り込み、更に複雑なものへとなっていきます。もう少し言えば、スペイン国王はハプスブルク家が握っていましたが、カルロス2世を最後にブルボン家の国王が誕生しており、少なくとも西方ではブルボン家有利、時代は前後しますが、東方に於いてはウエストファリア体制の確立によってハプスブルク家が窮するという展開を見せています。

ドイツで行われた30年戦争を経てウエストファリア体制は、1648年にウエストファリア条約が締結されたことによって出来上がった、ヨーロッパ世界初の国際協調体制であり、一般にウエストファリア条約が最初の国際法、ウエストファリア体制が最初の近代的国際秩序などと説明されるようです。ウエストファリア条約によってカトリックとプロテスタントとの間で行われた宗教戦争は終結し、ヨーロッパがようやく「平和」という概念を大切にするようになり始めたと考えることもできるかも知れません。

ウエストファリア体制の大きな特徴は、神聖ローマ皇帝の座を握っていたハプスブルク家の勢力が大きく減退したというところにあります。かつてローマ教皇を凌駕するほどの強大な権力と権威を維持していた神聖ローマ皇帝ですが、ウエストファリア体制が確立した後は大きく大権が縮小されることになり、300にも及ぶとされるドイツ諸邦の事実上の独立が実現することとなり、ハプスブルク家は名目的な皇帝権及び実質的な幾つかの国の君主権(こっちは普通に君主)を保つ程度にまで力が縮小してしまうことになります。そもそもカトリック対プロテスタントという枠組みで行われた戦争であったにも関らず、カトリック教徒のフランス国王ルイ13世が同じくカトリックの盟主として振舞っていた神聖ローマ皇帝のハプスブルクに対抗してプロテスタント側についたというあたり、世知辛いというか、ヨーロッパ情勢は複雑怪奇との思いを抱かざるを得ません。

神聖ローマ帝国が消滅するのは19世紀初頭、ナポレオン戦争の時代であり、それまで神聖ローマ皇帝は存続しますし、第一次世界大戦が終わるまではオーストリア・ハンガリー帝国を維持し続けたという意味ではハプスブルク家は長くその命脈を保ちますし、今も子孫はいて、多分、超絶なお金持ちですから、盛者必衰とは言うものの、私もハプスブルクの家に生まれたかったなあなどとふと思わないわけでもありません。ハプスブルク家で一番有名な人物はマリア・テレジアとその娘のマリー・アントワネットで、特にマリー・アントワネットがぶっちぎりで有名と思いますが、ハプスブルクとブルボンの政略結婚でルイ16世のところにお嫁に行き、フランス革命に巻き込まれてしまいます。考えてみれば、ルイ14、15、16世が戦争をやりまくって、しかも多くの場合に失敗して財政難に陥ったことがフランス革命の主たる要因とも言えますから、それをマリー・アントワネット一人の贅沢に責任が押し付けられたように語られることがあるのは、どうしても気の毒に思え、婚家の失態を背負わされているとも言える彼女は重ね重ね気の毒に思えてなりません。

ハプスブルク家はドイツ語圏を中心にその勢力を保っていたわけですが、ウエストファリア体制確立後は、ホーエンツォレルン家のプロイセン王国がドイツ語圏を凌駕するようになり、プロイセン王国はやがてドイツ帝国を称するまでに強力な存在感を示すようになりますが、こちらもウイリヘルム2世の時代に第一次世界大戦で敗戦し、ドイツ帝国は消滅するという運命を辿ります。

まあ、いずれにせよ、ナポレオン戦争に至るまでは、ウエストファリア体制は揺れつつも存続したといえる枠組みですし、国際協調は私たち日本人のテーゼみたいなものだと私は思いますから、知識として知っておくことは損はないように思います。

フロイト‐人は無意識によって支配されている

ヨーロッパでは伝統的に人間の理性を追及し、理性とは何かを明らかにしようとする試みが続けられました。ある程度は現代でもそうかも知れません。それに対するカウンターパートを唱えたのがフロイトであると言ってもいいかも知れません。アメリカではプラグマティズムがそのカウンターパートであり、ヨーロッパ内部ではオーストリア人のフロイトがそうであったというわけです。

フロイトは人は理性によって行動したり決断したりするのではなく、無意識によって自分ではどうすることもできないような衝動で行動したり決断したりするのだと考えました。無意識とは何かと説明するとすれば、エロス、タナトス、トラウマ、エディプスコンプレックスあたりに集約できるかも知れません。

エロスとは主として性に対する衝動であり、これには社会通念上の制限があるのが普通ですから、当然に抑圧され、無意識の世界、自分では気づかない心の奥底の領域に閉じ込めざるを得なくなります。

エロスは単に性的なことだけを指すのではなく、生きるということと密接に結びついています。生きるとは即ち創造的であり生産的な行為のことです。ですので、一生懸命仕事をしている人やがんばっている人、情熱的に生きている人はそれだけでエロスに満ちていると言うことができるかも知れません。

そのエロスの反対にあるのがタナトスです。一般に破壊衝動と訳されていると理解しています。フロイトは第一次世界大戦をその目で見ていますから、かくも残酷なことが起きるのは経済的合理性などでは説明できず、人の心の奥深いところに破壊衝動、タナトスへの欲求があるからだとフロイトは考えました。カミュの理由なき殺人もこういう視点から説明可能かも知れません。また、私たちがカミュの『異邦人』を読んで、読んだ人が全員そうではないにしても、ある程度理解できるなあと思えるのも、私たちの心の奥底にタナトスが共通して存在しているからだと考えることも可能なように思えます。

トラウマは精神的外傷と訳されるもので、幼少年期の心の傷が生涯ついてまわるとフロイトは考えました。なくて七癖と言いますが、心の傷を抑圧しているために人は時として合理性に欠く行動をとるのだというわけです。ドイツの伝統的な観念論や古代ギリシャ以来の理性に対して喧嘩を売っているとも言えますが、確かにトラウマという言葉を使うことによっていろいろ説明できることは確かなようにも思えます。

最後にエディプスコンプレックスですが、これが果たして各人に誰にでも存在するかどうかはあんまり分かりません。「父親」的存在に厳しくされることで、父親を克服したいという願望が生まれることは理解できますが、そこを母親という女性の取り合いの話になるのがすんなりと受け入れることができず、これはヨーロッパ社会に特有の何かなのではないかとも思えますが、そこは人それぞれの判断や感じ方によって異なるかも知れません。

フロイトが理性ではなく無意識という言葉で人間を説明したことの画期性は今も否定されてはいませんが、フロイトが無意識を否定的・悲観的に捉えていたのに対し、弟子のユングは無意識に対して創造性などの人間の可能性を見出し、アドラーはトラウマに捉われない人生の構築を唱えるようになり、フロイトと決別することになります。

スポンサーリンク