長崎の出島にイギリス船籍の軍艦が入港し、オランダ人商館員を一時拘束するという前代未聞の事件が、江戸時代後期の1808年に起き、江戸幕府の関係者が右往左往するという事態に陥ります。
この事件はナポレオン戦争と直接絡んでおり、また、長崎の出島がヨーロッパ人の目からどう見えていたかということが分かるという意味でも興味深い出来事ではなかったかと思います。
フランス革命の後の1794年、フランスはネーデルランド連邦(オランダ)に侵攻し、同地ではフランスの衛星国のバタヴィア共和国が樹立されます。1798年に、フランスではナポレオンによるクーデターが決行され、ナポレオンは統領政府を樹立し、第一統領(または第一コンスルとも)に就任します。コンスルとは古代の共和制ローマの執政官のことで、ナポレオンが古代ローマを強く意識していたことが分かります。
1804年にナポレオンは自身がフランス皇帝であると宣言し、続く1806年にはバタヴィア共和国を廃止して同地にホラント(オランダ)王国を樹立して弟のルイ・ボナパルトを国王に即位させます。
この時点でオランダ本国及び世界中のオランダの植民地がナポレオンの影響下に入ったことになります。ネーデルランド連邦共和国の統領を世襲していたオラニエ=ナッサウ家のウイレム5世はイギリスに亡命し、海外のオランダ領がフランスに接収される前にイギリスの方で押さえてほしいと要請します。イギリスから見れば千載一遇のチャンスですので、おおいに乗り気で、世界再征服戦争のようなことが始まります。
日本との貿易を独占していたオランダ東インド会社は1794年に解散しており、当時の長崎の出島はほぼ孤立した状態に陥っていましたが、一応はオランダ国旗を掲げ、ナポレオンに屈従したわけではないということを示していました(当時の日本人にとってはおよそ感知しないことではありました)。
そしていよいよ、フェートン号事件が発生します。イギリス海軍のフェートン号が、ウイレム5世の依頼というこれ以上ないくらいまっとうな大義名分で長崎へ入港します。長崎の出島は日本の江戸幕府の視点からすれば、オランダ人を隔離・管理する目的で設置された場所ですが、ヨーロッパ人の目から見れば、オランダの海外領土という風に理解されていたことが分かります。
しかしその手口は、入港時、オランダ国旗を掲げて偽装し、2人のオランダ商館員が小舟で近づいてきたのを拘束するという荒っぽい方法で、フランスからの解放を大義名分としているにも関わらず、これでは解放者なのか侵略者なのかさっぱり分からんという展開になってしまっています。更に、オランダ商館員の返還を求めた長崎奉行所に対しては水、食料、燃料の提供を要求し、さもなくば長崎港に停泊中の船を焼き払うという脅迫を行います。これでは海賊と同じです。
当時、長崎港の警備は鍋島藩が担当していましたが天下泰平の世の中で「どうせ大したことは起きない」と高をくくっており、イギリス軍艦に対抗するだけの戦力がありません。長崎奉行は周辺の各藩に軍の出動を命じますが、それらの軍が到着する前に長崎奉行所が要求された品物を提供することで解決し、フェートン号はオランダ商館員を解放して悠々と引き揚げたのでした。
実際に人を拘束して脅迫したという意味では、ペリーの黒船来航以上にショッキングな事件で、ペリーがいかに紳士的であったかを理解できるとすら言えそうです。
このことで、鍋島藩は大いに面目が潰れましたが、教訓となり、鍋島藩はその後、いち早く産業の促進と軍備の増強に着手するようになり、逼迫する藩の財政に関しても思い切った構造改革を実施して、幕末にはやたらめったら強い藩に生まれ変わっていくことになります。
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