昭和史73‐南部フランス領インドシナ進駐とアメリカの経済制裁

昭和16年7月下旬、日本軍は既に北部フランス領インドシナに進駐していましたが、更に南部フランス領インドシナへの進駐も開始します。当時、フランス本国はヴィシー政府という親ドイツ政権が一応、正統政府ということになっていて驚くなかれイギリスと戦闘状態に入っていました(そのカウンターパートとしてドゴールの亡命政府である自由フランス政府があり、戦後、ドゴールの政権が「戦勝国」としての立場を得ることになります)から、日本とヴィシー政権は友好国の関係になっており、進駐そのものは平和的に行われました。もちろん、フランス領インドシナのフランス人社会にとっては、日本軍の進駐はおもしろくなかったはずですが、力関係的にしぶしぶ受け入れざるを得なかったという感じだったのではないかと思います。この進駐エリア拡大は、同年7月2日の御前会議で決められた国策に素直に従って行われたものであり、官僚的に粛々と既定路線を歩んだようにも見え、無限の拡大は必ず滅亡をきたすと思えば官僚に指示する立場の政治家の資質に疑問をもたざるを得ないとも思えます。

当時の日本帝国としては援蒋ルートを全て遮断することに情熱を注いでおり、それを実際に実行するには重慶政府を完全包囲するという遠大な構想を持っていたようです。単に陸路を塞いでも空路で援助が届きますから、この包囲網を完成させるには、インドも含む飛行機でも届かない程度の広大なエリアを手中に収める他なく、これは太平洋戦争が終わるまで実現することはありませんでしたし、戦争の末期になって無理に無理を重ねて強行したインパール作戦が如何に無残な結果になったかは後世を生きる私たちのよく知るところです。

さて、アメリカは日本の南部フランス領インドシナ進駐に対して敏感に反応し、日本に対する経済制裁、在米日本資産の凍結、石油の禁輸を打ち出します。私の手元の資料にある9月1日付の号では、「米国恐る々に足らず、我に不動の覚悟あり」という勇ましい記事が掲載されており、「わが国では数年前からかうなることを予想して、あらゆる対策を講じて」いるから驚く必要はないし、アメリカには強力な日本軍と戦う覚悟はないから不安はないというような主旨のことが述べられています。当時、既にオランダ領インドネシアとの協商が模索され、交渉に失敗した後なのですが、当該記事の著者が誰かは不明なものの、その念頭には武力によるオランダ領インドネシアへの侵攻によりパレンバン油田の石油を手に入れるという構想があったのではないかと思います。

アメリカが日本と戦争する覚悟がなかったという一点に於いて、情勢分析は正しかったかも知れません。真珠湾で鮮やかに勝ちすぎてアメリカ人は日本に対する復讐を誓い、覚悟を決めることになったわけですから、真珠湾攻撃さえなければアメリカも大戦争みたいな面倒なことは避けて、どこかで適当な折り合いをつけようとしたかも知れません。当該の資料では「ドイツを見よ」というような言葉も書かれており、日本帝国が如何にドイツ信仰を強くしていたかも見て取れるのですが、アドルフヒトラーがいるから大丈夫という実は薄弱な根拠が、日本帝国を強気にさせたのだと思うと、やりきれなくなってきます。松岡洋右がドイツ、イタリアの了解を得て日ソ中立条約を結び、ドイツもソビエト連邦と不可侵条約を先に結んでいたにもかかわらず、ドイツはバルバロッサ作戦でソビエト連邦への侵攻を始めたわけですから、遅くともこの段階で、アドルフヒトラーはおかしい、信用できない、ヒトラー頼みで国策決定をすることは危ないと気づいていなければいけません。

真珠湾攻撃まであと少し、ため息をつきつつ、引き続き資料を読み進めるつもりです。

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昭和史66‐「反米」言説

とある情報機関が発行していた昭和15年11月15日付の号では、「あわてだしたアメリカ、日本の南進をねたむ」という記事が登場します。昭和12年ごろの分から一冊づつ読み続けて愈々来たなという感じです。当該記事によると、ドイツとイタリアがヨーロッパに新秩序を打ち立て、日本も東亜に新秩序を打ち立てようとしているにもかかわらず、アメリカがその新秩序を乱そうとしていてけしからん、みたいな内容になっています。日本の北部フランス領インドシナの進駐と日独伊三国同盟が結ばれた時期がほぼ重なっているのですが、それに対してアメリカは「いやがらせ」をすべく日本に屑鉄の輸出を禁止したとしてまず現状を述べています。続いて今後の予測としてアメリカは日本に石油を売らなくなるかも知れないとも書かれていますが、それはかえってアメリカが困ることになるとも述べています、アメリカで産出される大量の石油の一番の買い手は日本なのだから、日本の石油を売らなくなればアメリカの石油業者が困るだけでなく、東南アジアは枢軸国側が抑えているのだから、東南アジアの資源がアメリカに輸出されなくなり、アメリカは干上がるという議論の組み立てになっています。

その後の歴史の展開を知っている現代人としては、上のような見方は非常に甘いもので、日本帝国はこてんぱんにぼこぼこにやられて終了してしまうわけですが、それはあくまでも結果論ですから、当時の人間になってこの記事を考えた場合、半分正しいくらいの評価を与えてもいいのではないかと思います。というのは、実際に当時のアメリカは日本に輸出することで儲けていたわけで、時間が経てばアメリカの内部で日本に輸出させろ、でなければ商売あがったり困るじゃないかという声が出ることはある程度予想可能なことだからです。

とはいえ、第一に日本はナチスドイツと手を結んでしまいましたから、アメリカに於ける日本に対する「敵」認定は既に済んでおり、やるならやるぞと言わんばかりに太平洋艦隊は西海岸からハワイへと移動していきます。場合によってはグアム、フィリピンあたりまで主力艦隊が進出してもおかしくないかも知れないという事態へと展開していくわけですが、この段階でアメリカとしては、日本なんて資源のない国はちょっといじめてやれば膝を屈するに違いないという、あちらはあちらでちょっと甘い見通しがあったようにも思えます。

その後、連合艦隊が鮮やかに真珠湾奇襲を行い、ワシントンDCの日本大使館では寺崎英也氏の転勤パーティを前日に行って宣戦布告文の手交が予定より遅れてしまい、宣戦布告前の奇襲攻撃ということになってしまい、アメリカ人をして日本への復讐を誓わせることになってしまいます。ちょっと幻的ではあるもののアメリカが満州国を承認して、日本は蒋介石から手を引くという日米諒解案が実を結ぶ可能性もなかったわけではなく、これを松岡洋右が潰してしまうのですが、或いは真珠湾まで出かけていかなくても日本が一番ほしかったのはインドネシアのパレンバン油田ですから、直接パレンバン油田だけ狙えばよかっただけだったかも知れません。アメリカは元々モンロー主義で、世論は戦争に介入することには否定的だったわけですが、真珠湾攻撃という悪手で日本帝国は自分で生存の可能性を潰したと言えなくもないように思えます。

当該記事の重要な点は、この段階で日本でもアメリカを「敵」認定しますよというある種の宣言みたいなところだと思うのですが、当時はフランスを倒して「最強」に見えたナチスドイツと同盟を結び、ソビエト連邦ともうまくやって松岡洋右は自分の外交が成功していると確信していた時機でしょうから、アメリカに対しても強気でいられたのかも知れません。その後の歴史を知る現代人としては、今回紹介した記事に潜む危うさが目に付いてしまい、このようにして国が滅びていくのかと思うと目も当てられない、見ていられないという暗澹たる心境にならざるを得ません。

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昭和史64‐フランス領インドシナと援蒋ルート

とある情報機関が発行していた昭和15年9月15日付の機関紙で、フランス領インドシナについて紹介する記事がありましたので、ここでちょっと紹介してみたいと思います。当該の記事では、インドシナ半島の風土や気候のようなものを紹介した後で、フランスが領有するに至った経緯が書かれています。そんなに難しいことや裏情報みたいなものは特になく、一般知識の範囲でフランスが徐々に当該地域を領有していった様子が書かれています。ちょっと興味深いのは、当時のフランスがあてこんだ流通ルートと援蒋ルートが同じものだという指摘がされている点です。更にその記事の最後の方では、フランス本国が「衰弱」したので、今後の展開は違ったものになるだろうというような意味の言葉で締めくくられています。

昭和15年の段階では、フランスには親ナチス的なヴィシー政府が成立しており、フランス領インドシナもヴィシー政府の治下に収まっていましたから、日本としては南進という国策がある上に、「東亜経済ブロック」拡大という野心的な視点からも獲れそうな場所であり、同時に援蒋ルートを断ち切るためにもほしい場所であったということが、当該の記事からうっすらと見えてくるように思えます。おそらく財界はマーケットという意味で欲しがり、陸軍は援蒋ルートの遮断という意味で欲しがり、当時の近衛文麿内閣は統制経済、全体主義を是とし、ナチスを理想とする今から見ればとんでもない政権でしたが、統制経済が必要になってくるというのははっきり言えば物資不足の裏返しなので、統制経済をやりたい政治サイドとしてもインドシナ半島の資源があれば助かるという意味で欲しがっていたのかも知れません。

その後日本は同意の上で北部フランス領インドシナに進駐し、更には南部フランス領インドシナに進駐します。南部に進駐する前、アメリカのルーズベルト大統領が、もし日本が南部フランス領インドシナに進駐すれば経済封鎖すると明確に警告していたにもかかわらず、フランス本国がナチスに握られている間に多分大丈夫だろう的な発想で進駐してしまうわけですが、そのような行動に出てしまった背景には、上に述べたように軍、財界、政治家がこぞってそこを欲しがっていて日本の中で残念なことにコンセンサスが取れてしまったことに要員があるように思えます。そしてルーズベルトは警告通りに経済封鎖を始めるわけです。

少し長めのスパンで言えば、日本帝国は満州事変での対応を誤って滅亡への第一歩を踏み出したと言えますが、もう少し短めのスパンで言えば、この南部フランス領インドシナへの進駐が日本の命取りになったとも思えますから、何をやっているのだか…とため息をつくしかありません。

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