エドワード・ヤン監督は私の個人的に一番好きな台湾映画の監督です。エドワードヤン監督にはまって中国語の勉強を始めたと言ってもいいかも知れません。『牯嶺街少年殺人事件』がつとに有名ですし、日本でもファンが多いと思いますが、双璧と言ってもいいのが『ヤンヤン夏の思い出』ではないかと思います。
台北で暮らす普通の(実際にはちょっと上流というか、なかなかのプチブル)人々の何気ない生活の中に宿る悲しいこと、嬉しいこと、苦しいこと、辛いこと、不安に思うことが徒然なるまま感たっぷりに描かれています。台北市の街をそのまま撮影していて、詳しい人ならどこで撮影しているかも分かると思うのですが、その日常感というか普通感というか、映画を観ているのか実際に街を歩いているのか分からなくなってくるくらいなのですが、故意に何かを映そうとしていない感がかえって良いようにも思えます。
台湾映画では恋愛はつきものですが『ヤンヤン夏の思い出』では、哀しい恋がこれでもかと繰り出されます。付き合うか、どうだ、付き合うのか?付き合わないのか?と観客はやきもきしながら観るしかないのですが、どれも「寸止め」で消化不良になるというか、その消化不良を楽しむというのが台湾映画の観方なのではないかと言うこともできるのではないかという気もします。
ヤンヤンは登場人物たちが人間模様を織りなす家庭の一番年齢が低く、彼自身が何かをするというわけではなくて、いわば日常の悲喜こもごもの「目撃者」という立場なのですが、ヤンヤンの普通で無垢な少年ぶりにも人気が集まる理由の一つがあるのではないかとも思えます。
イッセー尾形さんが主役の呉念真の会社とパートナーシップを模索する日本のゲーム会社の人として登場しています。台湾で日本人がどんな風に見られているかが、この映画のイッセー尾形さんの雰囲気から垣間見ることができます。この映画でのイッセー尾形さんは、神のように自信を持って未来を予測し、ブッダのように鳩を手なずけ、天使のようにソフトで、ピアノが弾けて、最後に「やっぱりできない」と申し訳なさそうにする呉念真に寛容な赦しの言葉を与えます。ちょっと軽く人間離れしているというか、そういう風に描きたいというか、ちょっと神話化した方がしっくりくると信じられているという感じです。実際の日本人が本当にそういう人ばかりかということは重要ではなくて、そんな風に台湾では描かれるというのは大変興味深いいことのように思えます。
個人的にはイッセー尾形さんの都市生活カタログの記憶喪失になった男が記憶を回復して接待に行くことを思い出す話とか、試験監督員の話とか、おもしろおかしい日本人の姿が好きなのですが、イッセー尾形さんが都市生活カタログ的おもしろおかしい日本人も、『ヤンヤン夏の思い出』的な神ってる日本人も、『太陽』の昭和天皇もできるという事実に改めて尊敬の意を強くしてしまいます。ああ、『沈黙』では竹中采女の役をしている(予告編で見た限りでは)ですので、本当に何でもできる人です。
さて、台湾映画に於ける日本人に戻りますが、そういう神ってる日本人の描かれ方は『非情城市』でも、ソフトでちょっとお公家さんぽい日本人女性がそういうのを背負っていて、『海角7号』でそういうのがある種の頂点を迎え、『セデック・バレ』で悪魔になり、『KANO』で名誉回復の軌跡を辿っています。南京事件関連の映画も台湾では上映されますので、台湾人の日本人に対する複雑な感情がなんとなく見えて来る気がします。
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