イタリア詩人、ジャコモ・レオパルディの近代

19世紀イタリアにジャコモ・レオパルディなる詩人が存在したことについて、東洋人の我々の中で知っている人はほとんど居ないだろう。私も最近になって知ったのである。イタリア語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語に通じていた彼はそれら古典の教養を存分に生かしながら、新しい時代のための詩を書いた人物であるらしい。その作風は悲観的だが、ある程度無視論的な響きを持ち、それだけある程度自由主義的な響きを持っていたそうだ。当然、ナポレオン戦争と関係があるし、長い目で見れば社会主義とも関係があると言えるだろう。

ナポレオン戦争に影響を受けた芸術家として個人的にぱっと思い当たるのはベートーベンだ。第九交響曲の『歓喜の歌』は王侯貴族のためではなく一般のドイツ人のために書かれたもので歌詞もイタリア語ではなくドイツ語で書かれている。ちょっと前の世代のモーツアルトがドイツ語で戯曲を書くことについては相当揉めたらしいのだが、ベートーベンがドイツ語の楽曲を作るということで揉めた話というのは聞いたことがない。もしかするとちょっとはあったのかも知れないが、ベートーベンのドイツ語歌曲はわりとすんなりと受け入れられた。

モーツアルトとベートーベンの違いは生まれた時代の違いに拠る。モーツアルトはフランス革命とナポレオン戦争の最中に活躍したが、ベートーベンの時代にはナポレオン戦争は一応だいたい終わっていて、タレーランが戦争に敗けても外交で勝つという巧みな政治活動を行った時期と大体重なる。

さて、ベートーベンはともかく、レオパルディである。レオパルディは神なき時代の救いなき悲観主義を描いたらしいのだが、もう一つ重要な点として国民を描こうとしたという点は見落とされるべきではない。ナポレオン戦争は各地で国民意識を覚醒させるという効果をもたらした。フランス軍はもちろん自由平等博愛の普遍的理念で押しまくったわけだが、たとえばドイツのフィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』という演説で民族主義を説いて歩いたように、ナポレオンに対する反作用としてヨーロッパ各地で民族と国家というものが強く認識された時代でもある。

ここで注意しなければいけないのは王侯による支配と国民国家は全く別のものであるということだ。たとえばドイツ語圏で乱立した王侯国家は国王の私有物であり、軍は国王の私有財産によって傭兵が雇われて機能した。それに対して国民国家では、国民はその国の人間だというだけで国家の戦争に対して責任を負う。21世紀の現代人の我々にとって、それは必ずしも正しいこととは言えなくなっているが、当時は王侯貴族の支配から脱却し、国民または市民による共和政治の理想がヨーロッパ社会に広がり、その旗頭がナポレオンだった。

レオパルディはそのような時代の空気を思いっきり感じて生きたイタリア人詩人であったため、国民という言葉にロマンを与えたと言われている。レオパルディ流の国民国家という近代との接点であると言えるだろう。私はイタリア語もラテン語もギリシャ語もできないので、一般的な解説に+して私の個人的な見解を述べることしかできないのだが、ナポレオン戦争を境にロマン主義的国家主義がヨーロッパに広がったことは事実であり、レオパルディはその新しい思潮を胸いっぱいに吸い込んだに違いないことは想像できる。彼は古典的なローマカトリックや王侯支配に対するアンチテーゼとして「国民」を重視し、国民を中心とした社会づくりを夢見た。残念なことに30代半ばで病死してしまったため、彼は国民という概念の行くつく先に普仏戦争が起きたことを見ることはできなかったし、それがエスカレートした結果としての第一次世界大戦を見ることもなかった。古典的な支配体制を崩すために国民という概念を創造することに彼は役立ったかも知れないが、その結果を見ることはなかったことが良かったのか悪かったのか。

ただ、彼個人は潔癖で真面目で勤勉で生き方ば不器用だったらしい。ちょっと私に似ている。どこが似ているのかというと、勤勉であるにもかかわらず、それがすぐにお金に直結しないところである。お金に関するセンスさえあれば、レオパルディも私も勤勉にお金を儲けていたのではないかと思わなくもない。フランスのロートレックみたいに…一応付け足すが、ゴーギャンは遊びたいだけなので、勤勉でもなければお金のセンスも持ち合わせていない。ただの付言になってしまいましたが….あ、ゴッホもか…



昭和史66‐「反米」言説

とある情報機関が発行していた昭和15年11月15日付の号では、「あわてだしたアメリカ、日本の南進をねたむ」という記事が登場します。昭和12年ごろの分から一冊づつ読み続けて愈々来たなという感じです。当該記事によると、ドイツとイタリアがヨーロッパに新秩序を打ち立て、日本も東亜に新秩序を打ち立てようとしているにもかかわらず、アメリカがその新秩序を乱そうとしていてけしからん、みたいな内容になっています。日本の北部フランス領インドシナの進駐と日独伊三国同盟が結ばれた時期がほぼ重なっているのですが、それに対してアメリカは「いやがらせ」をすべく日本に屑鉄の輸出を禁止したとしてまず現状を述べています。続いて今後の予測としてアメリカは日本に石油を売らなくなるかも知れないとも書かれていますが、それはかえってアメリカが困ることになるとも述べています、アメリカで産出される大量の石油の一番の買い手は日本なのだから、日本の石油を売らなくなればアメリカの石油業者が困るだけでなく、東南アジアは枢軸国側が抑えているのだから、東南アジアの資源がアメリカに輸出されなくなり、アメリカは干上がるという議論の組み立てになっています。

その後の歴史の展開を知っている現代人としては、上のような見方は非常に甘いもので、日本帝国はこてんぱんにぼこぼこにやられて終了してしまうわけですが、それはあくまでも結果論ですから、当時の人間になってこの記事を考えた場合、半分正しいくらいの評価を与えてもいいのではないかと思います。というのは、実際に当時のアメリカは日本に輸出することで儲けていたわけで、時間が経てばアメリカの内部で日本に輸出させろ、でなければ商売あがったり困るじゃないかという声が出ることはある程度予想可能なことだからです。

とはいえ、第一に日本はナチスドイツと手を結んでしまいましたから、アメリカに於ける日本に対する「敵」認定は既に済んでおり、やるならやるぞと言わんばかりに太平洋艦隊は西海岸からハワイへと移動していきます。場合によってはグアム、フィリピンあたりまで主力艦隊が進出してもおかしくないかも知れないという事態へと展開していくわけですが、この段階でアメリカとしては、日本なんて資源のない国はちょっといじめてやれば膝を屈するに違いないという、あちらはあちらでちょっと甘い見通しがあったようにも思えます。

その後、連合艦隊が鮮やかに真珠湾奇襲を行い、ワシントンDCの日本大使館では寺崎英也氏の転勤パーティを前日に行って宣戦布告文の手交が予定より遅れてしまい、宣戦布告前の奇襲攻撃ということになってしまい、アメリカ人をして日本への復讐を誓わせることになってしまいます。ちょっと幻的ではあるもののアメリカが満州国を承認して、日本は蒋介石から手を引くという日米諒解案が実を結ぶ可能性もなかったわけではなく、これを松岡洋右が潰してしまうのですが、或いは真珠湾まで出かけていかなくても日本が一番ほしかったのはインドネシアのパレンバン油田ですから、直接パレンバン油田だけ狙えばよかっただけだったかも知れません。アメリカは元々モンロー主義で、世論は戦争に介入することには否定的だったわけですが、真珠湾攻撃という悪手で日本帝国は自分で生存の可能性を潰したと言えなくもないように思えます。

当該記事の重要な点は、この段階で日本でもアメリカを「敵」認定しますよというある種の宣言みたいなところだと思うのですが、当時はフランスを倒して「最強」に見えたナチスドイツと同盟を結び、ソビエト連邦ともうまくやって松岡洋右は自分の外交が成功していると確信していた時機でしょうから、アメリカに対しても強気でいられたのかも知れません。その後の歴史を知る現代人としては、今回紹介した記事に潜む危うさが目に付いてしまい、このようにして国が滅びていくのかと思うと目も当てられない、見ていられないという暗澹たる心境にならざるを得ません。

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昭和史65‐日独伊三国同盟と昭和天皇の詔書

とある情報機関が発行していた機関紙の昭和15年10月15日付の号では、盛大に日独伊三国同盟の成立を祝福しています。昭和天皇の詔書、更には近衛文麿の告諭、ついでにダメ押しの如くリーフェンシュタールの『民族の祭典』の宣伝まで掲載した狂喜乱舞ぶりを見せています。現代人の視点からすれば、アドルフヒトラーと手を結ぶというのは絶対にあり得ないとしか思えないですし、アメリカ・イギリスが「日本帝国滅亡させてもいいよね」と決心させる決定打になったとも思いますから、当時の資料を読むのはつくづくため息をつかざるを得ないのですが、取り敢えず、まず、昭和天皇の詔書の内容を見てみたいと思います。

政府二命ジテ帝国ト其ノ意図ヲ同ジクスル独伊両国トノ提携協力ヲ議セシメ茲二三国間二於ケル条約ノ成立ヲ見タルハ朕ノ深ク悦ブ所ナリ

とされています。この詔書を誰が起草したのかは分かりませんが、近衛文麿首相が強く働きかけて詔書の渙発に至ったことは間違いないものではないかと思います。近衛文麿としては天皇に詔書を出させることで三国同盟の正統性を高めたいという意図があったに違いなしと思います。昭和天皇本人がアドルフヒトラーに対してどういう意見を持っていたのかは多少謎ではありますが、昭和天皇は天皇に即位したばかりのころは色々と政治に口を出し、自分の影響力の大きさに驚いて立憲君主に専念しようと誓ったものの、やっぱりついつい口を出してしまうと繰り返していましたから、近衛文麿がアドルフヒトラーと組みたいと言い出した時に絶対反対というわけではなかったのかも知れません。『昭和天皇独白録』では、ナチスと話をまとめて帰って来た松岡洋右について「ヒトラーに買収でもされたのではないか」とかなり冷ややかなことを語っていますが、敗戦後のことですから、昭和15年の時の天皇の心境と敗戦後の天皇の心境には大きな変化があったと考える方が自然と思えますから、やはり昭和15年の段階で昭和天皇本音がどこにあったかはなんとも言えません。首相選びについては昭和天皇はファッショな人物は避けるようにという意見表面をしたことがあったようですが、近衛文麿は全体主義こそ国家国民を救うと信じ込んでいた本物のファシストとも思え、本当に昭和天皇は近衛文麿が首相でいいと思っていたのか疑問にも思えてきます。しかし一方で昭和天皇には名門出身者に対してはある程度寛容で、信用もしていたようですから、天皇家、宮家に次ぐ日本屈指の名門である近衛家の人物ということで、近衛文麿に対しては思想を越えた信頼があったのかも知れません。

昭和天皇が政府要人と会見した際、大抵の場合、要人の椅子の背もたれは暖かくなかったと言います。緊張して背筋を伸ばしていたからです。ところが近衛文麿が立ち去った後、背もたれは暖かかったと言いますから、近衛が昭和天皇に対する時もだいぶリラックスした感じだったことが想像できます。昭和天皇は大正天皇の摂政を努めた時から政治の中心にいて、政治家としてのキャリアは半端なく、大抵の政治家や官僚、軍人は昭和天皇に比べればどうってことないみたいな感じで恐縮するしかなかったのかも知れないものの、近衛文麿は西園寺公望に仕込まれて若いころにはベルサイユ会議にも参加していますから、近衛は近衛で政治家としてのキャリアは半端なく、家柄もその辺の軍人や官僚とは全然違うという自負もあったに違いありません。昭和天皇と近衛文麿、両者の呼吸の具合、人間関係を踏み込んで調べていけば面白いかも知れないですが、取り敢えずここでは日独伊三国同盟に話を戻します。

当該の号では昭和天皇の詔書の下に「内閣総理大臣公爵」近衛文麿の告諭が掲載されています。そこでは

今ヤ帝国ハ愈々決心ヲ新ニシテ、大東亜ノ新秩序建設二邁進スル秋ナリ(ここで言う「秋」とは「時」というニュアンス。一日千秋の「秋」みたいな感じでしょうか)

と述べられています。果たして近衛の言う大東亜がどこまでの広さなのか、東南アジアもシベリアも行けるところまでひたすら突き進むという意味なのか、それともそれなりにどの程度の広さという考えがあったのかどうか、はっきりとしたことは私にも分かりませんが、諸外国の人物が読めば「日本はアドルフヒトラーみたいな凄いのと手を結んだから行けるところまで行くぜっ」と宣言しているように見えたに違いありません。アドルフヒトラーは日本と同盟してソビエト連邦を挟み撃ちにする野望を抱いていた一方で、松岡洋右はベルリンからの帰りに立ち寄ってモスクワで日ソ不可侵条約を結んで帰って来たという一点をとってみても、日本とドイツは同床異夢の関係で、この同盟はほとんど有効に機能することもなく、後世にアドルフヒトラーのような極悪人と手を結んだという日本人に対する悪評だけが残ったわけですから、こうして日本帝国は滅亡していくのかと思うと「ため息」以外の言葉を書くことができません。

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新井白石とイタリア人宣教師シドッチ

イタリア人宣教師のシドッチは1708年に屋久島に上陸し、直後、地元の人に発見されて長崎に護送されます。長崎ではオランダ語通訳と対面しますが、シドッチはラテン語またはイタリア語を使うため、ある程度の語彙の相似は認められるものの、何を言っているのかはっきりとは分かりません。カトリック宣教師のシドッチは新教国のオランダ人を敵視していたため、出島のオランダ人との直接の会見はためらわれ、襖越しにシドッチと通訳が話すのを聴かせますが、オランダ人もよく分からないと言います。

ただ、シドッチが江戸に行きたいと言っていることは分かったため、それならばそうしようということになり、江戸へ送られて新井白石と対面するという次第になります。

新井白石はシドッチと面会し、来日目的、ヨーロッパ事情、キリスト教の思想などについて質問します。数年後にその時に得た情報を基に、その他の手に入る文献や私見を交えて白石は『西洋紀聞』を書き表すことになります。新井白石とシドッチの対面は遠藤周作さんの『沈黙』でロドリゴ司祭と通訳武士との宗教問答のモデルになっているとも言われていますが実際には違うようです。私が諏訪邦夫さんの現代語訳を読んだ限りではシドッチの覚えたての日本語と新井白石のオランダ語を用いての、おそらくは手ぶり身振りと筆談でなんとなくわかるというのが大半のやりとりであったため、『沈黙』のような気迫のある理詰めの話し合いにはならなかったのではないかと思えます。『西洋紀聞』では、イエスキリストの伝承は仏教の伝承によく似ており、イスラエルがヨーロッパに比べて比較的インドに近い土地であることから、ユダヤ教は仏教を下敷きにしているのではないかという推論を立てていますが、これはシドッチとの対面の際のやりとりでそういう話があったというよりは、飽くまでもシドッチの話を聞いてから、白石が自分で論考したとものではないかと思えます。

キリスト教が激しく迫害されて何十年も経ち、もはやヨーロッパの宣教師も日本への布教を諦めたかのように思えるこの時代になぜシドッチが来日したのかについて、新井白石はシドッチが元禄時代の小判をどこからか入手して所持していたことに着目し、元禄時代に財政難陥った幕府が小判の質を落としたことを知り、日本の国情不安と見て人心に訴えかける好機を見たのだろうと書いています。そこに気づく新井白石も慧眼ですが、金貨の質に着目したカトリック教会もさすがです。ただ結果として元禄はインフレになり空前の好景気に沸いたというのは想定の範囲外だったのかも知れません。

新井白石はキリスト教のあらましを理解した上で、その教えは仏教と似ているが浅はかであるとの結論に達しており、これは何となく、遠藤周作さんの『侍』で長谷倉常長(支倉常長をモデルにしている)が、イエスキリストの福音書の物語を聴いてこんな奇怪な物語を信じることはできないと驚愕する部分に通じているようには思えます。 

江戸の小石川に禁教とされていたキリスト教の信徒または宣教師を隔離・幽閉するための切支丹屋敷があり、シドッチはそこで軟禁されますが、シドッチの身の回りの世話をしていた夫婦に洗礼を授けていたことが発覚し、牢に入れられ、その翌年に亡くなったとされています。劣悪な環境での衰弱死が想像され、火あぶりとかそういうのも酷いですが、衰弱死させるのもかなり酷いやり方のように思えます。コルベ神父を連想させられなくもありません。

最近になって跡地から人の骨が見つかり、DNA鑑定の結果、イタリア人のものである可能性が高いとされ、必然的にシドッチ司祭のものではないかと考えられています。『西洋紀聞』そのものについては新井白石の知的好奇心の旺盛さが感じられて、ちょっといい話なのですが、一方でシドッチの最期は壮絶すぎて、両者の運命の違いというものまで考えさせられます。もっとも、新井白石は八代将軍吉宗の時に「お役御免になったんだから今住んでいる屋敷から立ち退け」と言われ「ざけんな、ここは俺の家だ。絶対引っ越さねーからな」というやり取りがあり、幕府の役人がはてどうしたものかと困っていたら大火事が起きて新井白石の屋敷も燃え落ちてしまうという、へんてこりんな晩年を迎えています。私は密かに、新井白石引っ越し問題をどう解決するかで頭を抱えた役人が故意に火事を起こしたのではないかと邪推しています。

新井白石の『西洋紀聞』は後世にに読み伝えられ、魏源の『海国図志』と並び、幕末の知識人の西洋事情を知るための参考資料になったようです。



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