ギリシャ神話のカロンとイシグロカズオ

ギリシャ神話にカロンという神様と人間の間みたいな男がいる。彼はコイン1枚であの世への渡し舟を出すことを請け負っており、ある人物のあの世に行って帰って来るためにコイン2枚を口に含んで塔から飛び降り自ら命を絶ち、しかも帰って来るためのもう1枚のコインも持っていたので見事生還するというエピソードもある。生きている者は追い払われあの世への舟を出してもらえない一方、古代ギリシャではカロンにきちんとあの世へ送ってもらうために死者を弔う際に船賃としてコイン1枚を副葬する習慣もあったそうだ。どうしてもあの世へ行かせろという強情者も出てくるため、そういった時はカロンはかなり難しい立場に追い込まれることもあるという。

さて、三田文学でイシグロカズオに関する特集が組まれているのを読んだのだが、そこでニール・アディスンという人のイシグロカズオ研究の論文が掲載されており、このカロンについても触れられていた。イシグロカズオの作品にカロンが出てくるというわけである。イシグロカズオの『忘れられた巨人』では、愛し合う老夫婦が共にあの世(と思しき場所)へ渡る舟に乗りたいと船頭に頼み込む。仮にこの船頭がカロンだとすれば、通常人間は同時に死なない(夫婦でも先にどちらかが死ぬのが通常だ)ため、一度の船出には1人しか乗り込むことができない。しかし、夫婦の愛情が強く結ばれていると船頭が確信を得た場合にのみ、2人で一緒に舟に乗ることができるのである。船頭は夫婦を別々に「面接」し、彼は当該の夫婦が確かに真実の愛によって結ばれていると確信し、2人同時の乗船を認めるのである。

さて、私は『忘れられた巨人』での船頭があの世へのおくりびとだということについては理解していたが、カロンだとは気づかなかった。単にギリシャ神話に対する知識が浅かったので、知らなかったにすぎないのだが、ニール・アディスンという人の論文を読んで、よくよく考えてみた結果、愛し合う夫婦が一緒にあの世へ向かう死者の旅路を進むとすれば、それは心中しか考えられない。イシグロカズオは『忘れられた巨人』で、老夫婦が心中の決心をする心の動きを描いたのだと言うことができるだろう。

だが、様々な解釈があり得るとは思うが、妻が舟に乗り込みいざいよいよ出発という段になって夫は舟に乗り込まず、そのままどこへともなく立ち去ってしまう。仮に2人が心中を決意し合った仲だとすればぎりぎりのところで相手でだけを死に追い込み、夫は生き延びるという裏切り行為をしたと理解することもできるだろう。或いは無理心中をして、自分だけ死にきれないというパターンなのかも知れない。妻は何十年も前に不義を行ったことがほんの短期間あり、中世以前イギリスというまだアングロサクソン民族が成立する前の独特な神話的な作用が効果を持つという設定になっているから、彼らはその苦しい記憶を忘れていることができたのだが、その効果が失われた途端に夫はそれを思い出し、妻との心中という選択肢を放棄したとも言えるかも知れない。この場合、人それぞれの価値観にもよるが、不義に対する不寛容な夫を責めることもできるかも知れないし、不義に対する最終局面での復讐も尤もだと考えることもできるかも知れない。愛する人が不義をするというのは人生に絶望したくなるほどの苦しみに違いないので他人がどうこう言うことではないが、小説や文芸を読むのは「自分がその立場だったとすれば」と考える材料にすることが醍醐味だとも言えるため、自分だったらどうだろうと考えてみるのも自己理解につながり人生をより豊かにすることができるかも知れない。尤も、現代人の考えから行けば、不義は赦しがたいが心中しようと言って騙して相手だけ死なせるというのもかなりの大である。離婚するのが正解だということになるかも知れない。



イシグロカズオ『わたしを離さないで』の赦されない愛

イシグロカズオさんの『わたしを離さないで』は文章もきれいで(翻訳者の力量ですが)、内容もいかにもジュブナイルできらきらした感じで透明感があり、何度も読み返した作品です。

舞台はイギリスのどこぞの地方都市、時代は多分近未来。完全全寮制の学校で主人公たちは暮らしています。彼らは勉強にも取り組みますし、恋愛するにことにも熱心な普通の十代の少年少女たちですが、一つだけ普通ではないのは彼らがみなクローンだということです。この設定には賛否両論あり、奇をてらい過ぎという意見もあれば、特に気にしない、おもしろかったという意見もあるようです。

いずれにせよ、彼らはある程度の年齢に達すると臓器提供専用のクローンとして誰かのために少しずつ臓器を提供し、やがて死に至ります。おそらく、批判する人にとっては「あり得ない設定で哀れを誘うな」ということなのかも知れません。

子どもたちはある程度大きくなると外出も許可されるようになり、旅行にも行けます。どのみち長生きできない運命なので、「提供者」になる前に短い人生を楽しむことには学校側もおおらかな様子です。少年少女たちは、いろいろなことが理解できる年齢になると、将来の運命を教師から聞かされ、それを受け入れていくしかないのですが、都市伝説のようにある噂が流れます。それはたとえクローン人間であっても、内面に精神があるということを認められると自由放免され、普通の人と同じように生きていける、提供者にならなくてよくなるという噂です。それはたとえば同じ施設内で暮らす男女が真実に愛に結ばれているということを理事長に認めてもらえると、愛は人の精神が存在する疑い得ない証拠と認定され、外の世界で二人で暮らすことが認められるとか、そういったものです(クローンなので、子どもは作れないという設定にはなっています)。

主人公のキャシーとトミーはその噂を信じ、理事長の住まいも割り出して、直談判に乗り込みます。トミーには描き溜めた独特の絵の束という必勝の成果物があり、その絵は精巧な機械仕掛けのネズミの絵だったりするわけですが、このような作品が描けるということは内面に精神や魂が宿っている、即ちの普通の人間と同じであるということの証明になると理事長に直訴します。しかし、優しそうな初老の女性の理事長は申し訳なさそうに、しかしきっぱりと、いかなる事情があっても施設で育った少年少女たちの運命を変更することはできないと伝えます。ここがこの物語の静かなクライマックスになっています。

このようにしてキャシーとトミーは運命からは逃れられないことを悟り、粛々とそれに従っていくということになるのですが、「クローンというあり得ない設定を持ち出されて感動できるか」という議論は確かにあり得ます。私はけっこう感動したので文句はないのですが、文句を言う人の気持ちも分からないわけではありません。人間ドラマとして成立するかということは大事なことです。

しかし、たとえば独裁政権下で自分で自分の運命を選択できない悲劇というのは実際の歴史に沢山あったわけですから、それをこの物語に擬されているという捉え方もできると思います。また、『電気羊はアンドロイドの夢は見るか?(映画版は『ブレードランナー』)』では人造人間が内蔵された電池が切れる前になんとか自分の生命を延長したいと願ってあがきますが、この作品の場合はむしろ、ロボットなのに人間的である部分が好意的に受け止められたような印象が私にはありますので、クローンが人間的な感情を持ち、運命に抵抗することに人間的な魅力を感じたり、私たち普通の人間にも運命に抵抗しようとあがくことはよくあることですから、自分を投影したり共感したり、感情移入したりできてもいいのではないかなぁと思う次第です。
スピルバーグ監督の『AI』という映画も「ロボットだから感情移入できない」ということでは成立しません。そんなこと言ったらドラえもんは…ナウシカの巨神兵は…とか言ってるとそれはそれできりがありません。

まぁ、いずれにせよ、私は原作も映画も感動しました。イシグロカズオさんの作品は好きです。半分は翻訳者の力量のおかげです。きっと。

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イシグロカズオ『忘れられた巨人』の失われた愛

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イシグロカズオ『忘れられた巨人』の失われた愛

おそらく6世紀ごろのブリテン島、神話と現実の境界がまだ曖昧だった時代、アングロサクソン民族が成立する少し前の時代、老夫婦が息子の暮らす村を目指して旅をする物語。夫のアクセルと妻のベアトリスは強い愛に結ばれ、互いに気づかい合い、双方を必要とし、守り合いながら旅を続けます。歴戦の戦死、奇怪な姿をする鬼たちと鬼に襲われた少年、世間から離れて暮らす修道士、あの世の島と思しきところまで舟を渡す船頭などと出会い、全ての出来事には裏があり、やがては裏の裏まで明らかになる、重厚な物語が展開されます。

読み進めるうちに気づくのは、当初は二人が強い愛で結ばれているはずに見えたのが、少しずつ実は夫の妻に対する執着心や独占欲のようなものが極度に強いのではないか?という疑念に変わっていくことです。夫は妻のそばを方時も離れることはありませんが、医療の知識を持つ修道士の診察を受ける時に妻に服を脱ぐように求めはしないかと不安になるなど、ちょっと度が過ぎているように見えなくもありません。そして息子が暮らすであろう村にはいつまでも辿り着くことがありません。ちなみに修道院の雰囲気はエーコ先生の『薔薇の名前』の修道院とちょっと似ている感じです。

人の記憶を曖昧にさせ、忘れさせてしまうドラゴンが生きている間、人間はみな過去の記憶を思い出すことができません。歴戦の戦士がドラゴンの居場所を見つけ出し、その首を打ち取ることによって人の心にかかっていた霧が晴れていくように人々は過去の記憶、特に悲しみの記憶、悲しいがゆえに思い出したくない記憶を蘇らせていきます。

アクセルとベアトリスは息子の暮らす村など存在しないことに気づき、過去の様々な経緯を思い出します。特に思い出したくなかったであろうことは、ベアトリスがほんのわずかの間、他の男性のところへ行ってしまっていたという記憶です。二人はそれを思い出し、息子が暮らす村も存在しないということを受け入れ、二人であの世と思しき島へと渡りたいと船頭に頼みます。通常、その島ではそれぞれが一人ぼっちに孤独に暮らすことになっていますが、船頭がインタビューして真実の愛で結ばれていると認められた男女だけが二人で島を渡ることを認められます。アクセルとベアトリスはめでたく真実の愛で結ばれた数少ない夫婦と認定されますが、いざいよいよというときになって夫のアクセルは妻を見捨てて船着き場を去って行き、そこで物語は終わります。それまで果たして二人は船頭から真実の愛で結ばれていると認定されるかどうかがある種の見せ場にもなっているため、私は肩透かしを食らった感じになり、そのうえでなぜそのような終わりなのかを考えさせられました。

夫のアクセルは妻のベアトリスの不貞の過去を受け入れることができなかったが故に、妻に対して異常とも思える執着を見せ、そして最後の最期で決して赦せないということを一人立ち去るということで表現しています。愛とは何かを定義することは難しいことですが、もし赦しが一つの愛の形であるとすれば、アクセルはベアトリスに執着はしていても愛してはいなかったと受け取ることもできるように思います。

イシグロカズオさんの作品は過去に『日の名残り』と『わたしを離さないで』を読みましたが、『忘れられた巨人』を含む三作品、どれもがハッピーエンドではないラブストーリーになっています。よく言われるように作家は生涯同じテーマを繰り返し書き続けるのだとすれば、イシグロカズオさんの生涯のテーマは失われる愛であるとも思えます。作家が選ぶテーマは究極にはその人の人生の忘れがたい経験と感情がベースにならざるを得ないはずですので、イシグロカズオさんはよほど大きな喪失体験をしたのではないかとの想像を禁じることができません。

人を愛するとはどういうことか、求めずに愛する、与えることで愛する、赦すことで愛するとはどういうことか、自分にそれは実践可能か、といったことは誰にとっても人生を送る上で考えなくてはいけない大きな課題だと思いますが、この作品を読むことで、自分は果たして周囲の誰か、大切な誰かを愛することができているかどうかを考えるいいきっかけにできるかも知れません。

翻訳者の腕が大きいのだろうと思いますが、文章がとてもきれいで読みやすく、端的で、それでいて刺激的です。どの作品もとても素敵で、過去にはイシグロカズオ研究をやろうかと思ったこともあるくらいです。(研究方面では右往左往しています…涙)

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