西ローマ帝国滅亡後の諸王国乱立時代

西ローマ帝国がオドアケルによって滅ぼされた後、力の空白を埋めようとするかのようにヨーロッパ各地で諸王国が乱立するようになります。たとえばイタリア半島には東ゴート王国、イベリア半島には西ゴート王国(設定的にクラリス姫のご先祖のご先祖)、ブリテン島には七王国、北アフリカにはヴァンダル王国、ブリテン島にはいわゆる七王国(『忘れられた巨人』の時代)というように、旧西ローマ帝国の版図は砕けたガラスのようにバラバラになります。

彼らの多くはフン族の大移動によって西へと押し出されたゲルマン民族の人々で、後のイギリスフランスドイツなどのヨーロッパ諸国の基礎になる世界を作っていった人たちですが、そこへ至るのはまだ少し先のことであり、これらの小王国は3つのスーパーパワーによって圧倒され、整理されていく運命を辿ります。3つのスーパーパワーとは、1、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、2、ウマイヤ朝、3、フランク王国の3つです。1は古典的正統派であるのに対し、ウマイヤ朝は中東世界から力の空白を見つけて張り出してきた新興勢力と言え、3のフランク王国の場合はそもそも世界政治のプレイヤーと認められていなかった人々が時代の変化の波にのって力を蓄えた、新興勢力中の新興勢力と言ってもいいのではないかと思います。

西ローマ帝国を滅ぼしたオドアケルですが、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)皇帝ゼノンと対立します。ゼノンは東ゴート王テオドリックにオドアケル征伐を命じ、オドアケルはラヴェンナに追い詰められ、降伏するも殺されるという末路を辿ります。その東ゴート王国もテオドリックの死後に混乱が生じ、ビザンツ皇帝ユスティニアヌス一世によって滅ぼされます。

東ゴート王国と親戚関係にあると言ってよい西ゴート王国はアフリカづたいに海を渡って北上したウマイヤ朝によって滅ぼされ、混乱は新しい帝国による新世界秩序の形成によって収拾されていきます。ヨーロッパ中央西寄りの辺りではフランク王国が伸長し、ブリテン島も七王国もウェセックスによるイングランド統一がなされ、現代のイギリスの母体になっていきます。イングランドは小王国を併合して作ったことや、バイキングやノルマン人の微妙な力関係が影響し合う土地であったため、現代のような明確に「自分はイギリス人だ(またはイングランド人だ)」というような意識が発達するまでは時間がかかったとも言われています。

このようにしてビザンツ、ウマイヤ、フランクによってヨーロッパが分け合われ、イギリス独自の歴史構造を持つにいたりますが(イギリスEU離脱騒動の際、イギリスはヨーロッパかヨーロッパではないのかという議論がなされたのは、以上のようにヨーロッパ大陸とは歴史に関するパラダイムの違いがあるからとも言えます)、ビザンツ帝国、ウマイヤ朝はやがて勢力を衰退させ、フランク王国は分裂し、歴史の舞台から去っていくことになります。『薔薇の名前』のような中世ヨーロッパ本番がいよいよ始まります。

ホッブスと巨神兵と自由からの逃走

イギリス人のホッブスは、人間には自然権があると考えました。自然権とは即ち自分の存在を保護する権利、ホッブス的な考えて言えば、自分の生存を保護するためなら何をやってもいいという権利とも言い換えることができるかも知れません。現在の我々の法体系でも、完全にホッブスと同じと言っていいかはともかく、人間には自分を守る権利がある、即ち自然権があるということを大きく認めていると言えると思います。一方で、個人が自然権を主張した場合、他者の自然権と対立することが決してないわけではありません。その場合、自己保存の権利を行使するという理由から殺し合いになるということは場合によってはあり得ます。そういう意味では自然権には本質的に限界があるとも言え、今日においてもよく「公共の福祉に反しない限り〇〇する権利がある」みたいに言われますので、自然権には限界が内在していると言ってもいいのかも知れません。

そのため、ホッブスは「人間にはやっていいことと悪いことがある」という前提を考え、議論する余地もないくらいにやってはいけないことについては法律に書いてるあるとかないとか関係なくにやってはいけないとし、それが自然法であるとしました。グロティウスの考え方に共通する部分もあるように思えます。

さて、そうは言っても人間には自然権があるわけですから、有名な「万人の万人に対する闘争」状態が起きる余地は残されており、「自然法なんか知るか!それより俺の自然権が優先じゃぁっ!」という人が絶対に出てくるでしょうから、そこを何とかするために、レヴァイアサンという架空の絶対的に優越した力を持つ存在を想定し、人間は国家の統治をレヴァイアサンみたいな恐ろしい存在に委任することによって、平和と安定が保たれると結論しました。

人間の自由の根本中の根本とも言える自然権を認める前提から出発しながら、最終的にはレヴァイアサンに委任するというのは本末転倒のようにも思えなくもないのですが、ホッブスは清教徒革命でフランスに亡命していますので、国王の主権なり強権なりを肯定するような結論にしたいという政治的な動機なり理由、または背景があったのかも知れません。

「人間には自然権があるけど、自然法を守れるほど賢明ではないので、強権に委任したい」というのは、なんとなくエーリッヒフロムの『事由からの逃走』を連想させます。フロムはこの著作でナチスドイツがワイマール憲法下で合法的に政権を獲得したのは何故か、何故人々はナチスドイツを支持したのかということについて考察しました。人には強権に委任したい、強権に委任することで自分個人の意思決定という責任から逃れて楽になりたという願望がもしかしたらあるのかも知れず、それはたとえば戦後にアメリカで行われたアイヒマン実験でもある程度は実証されたことだとも言えるかも知れません(アイヒマン実験には再現性に乏しいという理由で批判する人もいるそうなので、当該の実験が絶対に正しいと言い切ることもできないかも知れませんが)。

そのようなレヴァイアサンを連想させるものとしては、『風の谷のナウシカ』の巨神兵を忘れることはできません。漫画版のナウシカでは、絶対的な叡智とパワーを持つ裁定者である巨神兵が、人工物であるにもかかわらず神の如き存在として振る舞い、不正義に対しては鉄槌を加えます。巨神兵を創造したのが誰かは明示されてはいませんが、そうでもしなければ人は殺し合わざるを得ないと考える絶望的な人間観があり、それは著作者の宮崎駿さんの人間観なのかも知れません。

人間に精神は実在するか?



立花隆さんが臨死体験に関する調査や研究を長く続けられ、著作で発表されたり、NHKで関連する番組が制作されたりしたことは、わざわざ私がここで述べなくても、よく知られていることと思います。

臨死体験がどのようなものなのかを考える際、立場は大きく二つに分かれます。一つはそれは単なる脳内作用に過ぎず、いわばある種の夢のようなもので、死後の世界を証明したり、魂の存在を証明したりするに足りる事象ではないとする立場です。一方で、それは確かに「臨死体験」は死後の世界の入り口まで行った体験であり、死後の世界は当然に存在するし、魂もまた実際に存在するものであるという立場の人もいます。どちらの立場もそれなりに説得力があるように私には思え、果たしてどちらが正しいのかは死んでみないと分かりませんので、急いで死ぬ必要もありませんし、いずれ死ぬことは確かですから、そういったことはうんと将来のお楽しみにとっておけばいいのかも知れません。個人的には死後の世界はあると思いたいといったところですが、それも死んでみなければ確かなことは分かりません。

臨死体験について詳しく理解するために、立花さんは脳の作用につてもいろいろな考察をしました。サル学について取材したことも脳についてより深い理解を得るための一環であったと理解しています。

脳については様々なことが分かっていることは確からしく、私は理系のことは門外漢ですが、脳が非常に精緻に設計されているということは素人向けの本を読んだりして、なんとなくは理解でき、かくも精緻なものが設計されている以上、神は確かに存在するのではないかと思えることもしばしあります。

立花さんはその著作で、脳の記憶したり知覚したりすることのメカニズムはよく解明されているものの、精神の発露というものが分からないというようなことを述べていました。もう少し平たい言い方をすれば、心はどこから来るのか、なぜ心があるのかが解明できないと言ってもいいかも知れません。精神がなければ知覚や記憶は単なるデータに過ぎません、脳はデータ処理においては素晴らしい機能を持つということは分かったとしても、それだけでは心を説明することはできず、ましてや瞑想のような行為によって叡智に得ようとするのはデータを仕入れるのとは逆のベクトルの行為であるため、説明できません。

かつて、イギリス経験論の系譜に入るヒュームは、精神とは知覚の束に過ぎないと考えました。従って、精神は存在しないと結論づけました。デカルトが我思うゆえに我ありとして主観の存在を肯定=精神の存在を肯定したのに対し、ヒュームはそれに対してすら、懐疑的でなければならないと考えとも言えると思います。

バークリーという人物は、存在とは知覚されることであるとの立場を採り、知覚されないものは存在しないと考えましたが、これもまた、精神の実在を否定する立場とも言えます。精神が実在するのであれば、誰かにそれを知覚されなけなくとも存在するはずであるため、全てが知覚されることによって存在するとの前提に立てば、精神は実在しないとの結論に達することも可能です。ヨーロッパの哲学ですから、精神の実在は神の存在とも直結する議論であるため、ある程度無神論的な要素を持つというか、ヨーロッパでの議論は最終的には神は存在するか、存在するとすればどのような性質で存在するか、それらの議論に合理的整合性がとれなければ、即ち神は存在しないのではないかというあたりのせめぎ合いですから、我々日本人の感覚とは直結し難いところもありますが、そうであっても、心の実在というところまで落とし込めば、日本人にとっても全く無縁な議論とも言い切れず、関心を持ってしまうところではあります。

ヒュームやバークリーの議論は、人間は記憶の連続性によって自分が個性を持つと認識しているものの、それすらも実は怪しい、昨日の自分と今日も自分は別の存在であるかも知れず、そうとすれば、私が存在するかどうかも実は怪しいというところまで行ってしまうわけですが、この場合、心は存在しないということになり、私は自分が心を持つ存在だと思いますので、完全に受け入れるのはちょっと難しいようにも思えます。ただ、彼らの議論を受け入れるかどうかは、それぞれの人に任される問題であるとも思えますので、ここで完全に結論してしまうことは控えたいと思います。

ロック‐人間はディープラーニングする存在だ

デカルトは「我思うゆえに我あり」として、自分の主観だけは絶対的にその存在を疑うことができないと考え、それは人間は生まれながらにして主観を持っていると考えましたが、イギリス人のロックはその主観さえも絶対的かつ生得的なものとは言えないとの考えに至りました。

ロックによると、人間は生まれた時に全く白紙の状態であり、その状態を「タブラ・ラサ」と呼びました。多分、ラテン語ではないかと思います。タブラ・ラサと言ったらなんか重々しいものみたいに思えてきますが、要するに白紙状態ということのようです。フランス語でエクリチュールと言ったらなんか凄い難しい概念みたいに思えてきますが、英語で言ったらただのライティングというのと同じ感じかも知れません。

さて、それはともかく、完全に白紙の状態ということは、心も存在しないということではないかと思えます。私はど素人ですが、脳科学によると人は生まれて来た後に他者や環境の存在を認識することで自己を認識するように神経細胞が発達していくのだそうです。これが本当だとすれば脳科学的な見解(多分、脳科学者の世界の一派の人たちの考え)と、ロックのタブラ・ラサ的人間観には共通するものであると考えることができるかも知れません。

更に言うと、ロックはイギリス経験論的な立場から人間は様々な経験を繰り返し経ることにより、まずは単純な実感、甘いとか寒いとか熱いとか冷たいとかの実感を経て、複合的な考え、これぐらい寒いと暖房だなとか、これぐらい甘いと糖尿病になるかも知れないななどの推論を導き出すことができるようになると考えましたが、私はロックの人間観は今はやりのAIのディープラーニングと全く同じことなのではないかという気がします。

AIもまた、様々なデータをディープラーニングし、それら膨大なデータを基にシミュレーションをし、こうすれがゲームに勝てるとか、経済はこれから良くなるとか悪くなるとか、株は上がるとか下がるとかなどの未来に対する推論を立てることができるようになるとされています。

以上のような人とAIの共通点に気づくと、やがてAIは人間そっくりに、感情や自我を持つようにもなっていくのかも知れません。

しかしながら、人には心があり、心には、たとえばチョコレートという言葉を聴いたらぱっとキットカットみたいなものを思い浮かべるとか、北海道と聴いたら北の国からの場面を思い出すとかという作用があります。果たしてAIにそういう作用をさせることができるかどうかが乗り越えなければならない壁であるというようなことを、私はえらい先生の音声で聴いたことがあります。その辺りは科学技術の進歩と発展を見守るしかないかも知れません。

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フランシスベーコン‐良くも悪くも現実主義

イギリス経験論哲学の祖とも言えるフランシスコベーコンですが、その発想法の原点は徹底したリアリズムにあったようです。そのため、古代ギリシャ哲学が「宇宙の真理」を探求したことに対しては軽蔑的な態度で臨んでいたとも言われます。観察することによって知識や真理に到達するという点では古代ギリシャ哲学とも共通する部分はあるように思えますが、ベーコンは「役に立つ知識」を重要し、役に立たない知識には関心を持たなかった、或いは「そんな知識を得るための努力は無駄としか思えない、思索にふけって神とか世界とか善とかについて考えるやつってばかじゃね?」くらいに思っていたらしいのです。ベーコンはイギリス近代思想の礎になったとも言えますが、フランス近代思想の礎となったモンテーニュとはその点によって違うがあると言ってもいいかも知れません。

どうも、そのような発想法を持つに至った背景には若いころに苦労し過ぎたということがあったのではないかとも思えます。父親の遺産を受け継ぐことができず、青年期は借金に苦しんだといいます。その後は法曹の世界で活躍し、政治の舞台にも登場して栄達していくわけですが、出世のためには手段を選ばないところがあったらしく、結構、えぐいこともやっていたらしいです。晩年期に入ってから、収賄の罪に問われて失脚し、著述や研究に没頭する日々に入ります。ある時、雪で冷やせば肉の保存期間が長くなるのではないかと考え、その実験をしているときに肺炎になってしまい亡くなってしまいました。想像ですが、ベーコンとしては「もう一花咲かせてやりたい」という思いが強く、「冷蔵技術を確立すれば儲かる」という動機で上のような実験をしたのではないかと思えます。

そのように書くと、人間的に問題のある人で、なんだかなぁ…という結論になってしまいかねませんが、彼の残した4つのイドラという概念は大変に説得的でかつ教訓的でもあると思えます。一つが「種族のイドラ」、次が「洞窟のイドラ」、続いて「市場のイドラ」、そして最後に「劇場のイドラ」があります。イドラとは偏見を意味しており、種族のイドラとは人間という種族が本質的・内在的に有する偏見で、洞窟のイドラは個人的な思い込み、井の中の蛙大海を知らず的なもので、市場のイドラとは市場で飛び交う種々雑多な情報に右往左往させられることを指し、劇場のイドラとは権威にひれ伏しそれを崇拝し、無批判に信じることを指しています。

以上の四つのイドラに自覚的になることはより良い人生を送る上で特に大切なことのように思えますが、ベーコンの場合は以上の4つのイドラを利用して出世したい、おいしい思いがしたいという側面が強く、そういう意味では本人もまた深い業によってイドラに取り込まれた人であったと言えるかも知れません。もっとも、我々人間でも多かれ少なかれイドラを抱え込んでいると言えますので、ベーコンだけが特別にどうとも言い切れず、ベーコンの人生を自分の問題として観察すると、新しい叡智を得られるかも知れません。

ベーコンが以上のようなイドラという概念を著述するに至った経緯は、いわゆるイギリス経験論というある種の研究法則を用いたことがあるわけですが、全ては実験的に経験してみないと分からない(下手な考え休むに似たり)という考え方は現代人の実践主義にも通じるものであるとも思えます。経験論的帰納法によって得られる見解のことを一般に知恵と呼ぶと私は理解していますが、そういう面に於いては、徹底した現実主義者であったベーコンから学べる点もあるように思えます。

トマスモアの『ユートピア』の理想と現実

15世紀後半から16世紀前半までを生きたイングランド人のトマスモアは、その著作である『ユートピア』で、完全に理想的な世界を表現しています。それは、農業生産が完全自給の世界であり、人々の労働時間は一日6時間と定められ、都市と農村の格差を無くすために、二年ごとに都市と農村の人々を入れ替え、更には最も便利な蓄財のツールである貨幣は廃止される世界です。

以前、フランス映画で、とある地球外の文明人たちが、貨幣のような不便で人の心を濁らせる存在はすでに不要になっている生活を送っていましたが、集会場で物々交換をしていたので、「それではかえって不便ではないか…」という感想を持ってしまい、やっぱり通貨無き社会というのは難しいものなのではないかとも思えます。

もし、トマスモアの描いたような、労働時間も決まっており、一切の格差がないとすれば、それは確かにいい社会のように思えますが、人には経済と労働以外の格差も存在するため、完全に格差を消滅させることは不可能というか、それを目指すとかえって人間性を失うことにもなりかねず、経済に限定して格差をなくし、それをして理想郷だと考えるのは、私はちょっと浅はかなのではないかと個人的には思えます。また、そのような社会は変化のダイナミズムに乏しい可能性が高いように思え、結果として多様性を容認せず、環境要因の変化にももろい社会になるのではないかという気もしなくもありません。

格差はあるけど、平和でお気楽だったのが江戸時代です。武士は今日と同じ明日を生きることができることで安心して仕事をすることができます。しかも、臨時で寝ず番みたいなのはあったとしても、基本的には夕方には家に帰れるという理想的で平安な仕組みです。仮にこれについて社会主義的な批判をするとすれば、そのような安心安定は農村から搾取によって成立していたため、容認し難いということになるのではないかと思います。実際、現代人で武士のような特権階級が実際に存在することがいいと思っている人はいないでしょうから、やはり、江戸時代の武士的平安はトマスモアの理想郷とはかなりの違いがあると言えると思います。

一方、江戸時代の農村では、確かに東北地方の冷害のような深刻なことも起きたとはいえ、農村は農村で高い自治を保ち、かつ、平和で、豪農と呼ばれた家も多かったように、それなりに豊かさを享受していたのではないかと思います。ですが、農村の高い自治というものがくせもので、私の頭には『楢山節考』的な生きづらさが浮かんできてしまいます。

興味深いのは、平和主義者であったトマスモアは平和維持のための強力な軍隊の存在が必要だと考えていたことです。強制力がないと、もっとお金がほしいから一日八時間働くというけしからんという輩が出てくるとも言えますし、都会の生活が好きなので、農村に行きたがらないという人も出てくるということもあるかも知れません。理想郷を他者から狙われないための自衛という意味も当然に入るはずです。一歩間違えれば文化大革命に突入しかねない話とも思えます。トマスモアが考えていたのは、ホッブスのレヴァイアサンとか、ナウシカの巨神兵みたいな感じのものかも知れません。宮崎駿は巨神兵のような存在の必要性を認めながらも拒絶したいという矛盾と葛藤の中をナウシカで描いたのだと思いますが、最近の南スーダンPKOとか、或いは力の均衡による平和とか、パクスアメリカーナとか、いろいろな議論をはらみそうな論題ではあるかも知れません。

これは私個人の人間観にかかわることですが、やはりトマスモア的理想郷を作るためには、その社会に参加する人間に高い倫理性が求められるのではないかと思えます。市場原理主義やグローバリズム、自由経済主義のようなものは、社会主義とは逆の発想のようにも一見思えますが、市場原理主義や自由主義経済は虚偽の表示をしないなどの高い倫理性が求められる仕組みであると私は考えていて、トマスモアであろうと、アナーキズムであろうと、経済リベラルであろうと、個々人に高い倫理性が求められますので、突き詰めるとあまり違わない社会になるのではないかとも思います。

トマスモアはヘンリー八世の離婚に反対して処刑されるという、命をかけて信念を貫いた人ですが、彼自身も、高い倫理性を実践すべく日々自己を教育していたのかも知れません。

日露戦争をざっくりがっつりと語る

日清戦争によって日本は「やったー!朝鮮半島は日本の勢力下だ!」と一瞬湧きましたが、三国干渉で遼東半島の租借は諦めなくてはいけなくなります。李王朝の高宗と閔妃は清があまり頼りにならないということが分かると、親ロシアへと傾いていきます。朝鮮宮廷内で身の安全が確保できないと感じるとロシア公使館に避難してそこで政治を行ったりするようになります。

ロシア公使館から夫妻が戻ると、日本の兵隊やゴロツキみたいなのが集団になって朝鮮王宮に乱入し、閔妃を殺害するという常識ではとても考えられない事件が起きます。背後に在朝鮮公使の三浦梧楼がいたと言われています。当時は閔妃と大院君が本気の殺し合いをしていたので、日本軍を手引きしたのが大院君ではなかったかという説もあるようです。まず第一に日本の兵隊は閔妃の顔を知らないので女官に紛れると誰が閔妃なのか分かりません。閔妃の写真とされるものがあったという説もありますが、過去に閔妃の写真であったと言われていたものほは現在では別人のものだとも考えられるようになっており、大院君の手引きがなければ閔妃の殺害は難しかったのではないかということらしいです。いたましい事件であることは間違いありませんので、あんまり適当なことは言えませんが、いずれにせよ閔妃は亡くなってしまい、朝鮮の親ロシア派の勢力が大きく打撃を受けることになります。

ロシアは朝鮮半島各地に軍事拠点を作り始め、李鴻章を抱き込んで露清鉄道を建設し、大連まで引き込んでくるということになり、シベリア鉄道の複線化工事にも着手され、それらの鉄道網が完成すればヨーロッパからいくらでも兵隊と武器を運べるようになりますので、こうなっては日本は手出しができなくなるとの焦りが日本側に生じます。

小村寿太郎がイギリスと話をつけて日英同盟を結びます。これはどちらかの国がどこかの国と戦争になった場合は中立を守るという、「同盟」と呼ぶわりにはパンチ力に欠ける内容で、日本とロシアが戦争することを前提に、イギリスはロシアと戦争しなくてすむという免責事項みたいなものですが、日本とイギリスが同盟関係にあるということは有形無形に日露戦争で優位に働きます。

日本とロシアの交渉で、北緯39度を境に朝鮮半島を日本とロシアで分け合うという提案がされますが、ロシア側は難色を示します。ニコライ二世が皇太子時代に日本を訪問した際に巡査に殺されそうになったことで、日本嫌いが強かったという説もありますが、開戦ぎりぎり直前にニコライ二世から明治天皇に宛てて譲歩の意思を示す親書を送るはずが極東総督が握りつぶしたという話もあり、ちょっとはっきりしません。

戦争はまず日本側が旅順のロシア旅順艦隊に砲撃を浴びせるという形で始まります。児玉源太郎は朝鮮半島に上陸した後に北進して満州にいたクロパトキン軍を全滅させてヨーロッパから援軍が来る前に講和に持ち込むという構想を持っていたようですが、想定外の難題が持ち上がります。

日本の連合艦隊が旅順港を包囲していましたが、ヨーロッパからロシアバルチック艦隊が出撃し、半年くらいで日本まで攻めて来るということになり、連合艦隊は旅順艦隊とバルチック艦隊の挟み撃ちに遭う恐れが生じ、早期に旅順艦隊を叩きたいのだけれど旅順艦隊は旅順港に閉じこもって出て来ない、日清戦争の時に北洋艦隊の母港を陸戦で攻略したのを同じように旅順を攻略してほしいと言う話が湧いて出ます。連合艦隊が挟み撃ちに遭って全滅したら、対馬海峡の制海権がロシア側に移りますので、兵站が途切れてしまい、大陸の日本軍は立ち枯れして日本終了のお知らせになってしまいます。ちなみに清は局外中立を宣言し、好きにしてくれわしゃ知らんという立場を採ります。

ロシアは旅順港を取り巻く山々に堅固なコンクリートの要塞を築いていましたが、児玉源太郎は別に放っておけばいいと思っていて、旅順要塞の攻略をあまり重視しておらず、乃木希典の第三軍を送り込んだものの「突撃でばーっとやったら旅順要塞も陥落するだろう」という甘い考えで対処します。

気の毒なのは乃木希典の方で、コンクリートと機関銃でがちがちに固めてあるところに「突撃でばーっとやって、何とかしろ」と言われたのでその通りにやってみたら大量に戦死者が出るという展開になってしまいます。普通に考えてそれは無理というもので、司馬遼太郎さんは乃木希典が無能だったからだという観点から『坂の上の雲』を描きましたが、私は乃木希典が悪いというよりも「突撃でばーっとやれ」と言った児玉源太郎の方に問題があるのではないかというように私には思えます。

旅順要塞そのものを獲れるかどうかは戦略的な観点からははっきり言えばどちらでもよく、どこか一か所でもいいから旅順港が見える高台を奪取して砲撃で旅順艦隊を撃滅するのがいいということが分かって来たので、乃木希典の第三軍は旅順港を望見できる203高地に攻撃の軸足を変えます。ここもなかなか手ごわいですが、内地から送られてきた巨大な大砲でバンバン撃ち込みながら兵隊もどんどん突撃させて、味方の弾で兵隊がちょっとぐらい死んでもいいという無慈悲な作戦では203高地はようやく陥落。旅順艦隊を砲撃して同艦隊は全滅します。連合艦隊はこれで安心して佐世保に帰り、艦隊をきちんと修理してバルチック艦隊との決戦に臨むことになります。

次の問題はバルチック艦隊がどのルートで来るのかよくわからないということで、対馬海峡ルート、津軽海峡ルート、宗谷海峡ルートが想定され、討ち漏らしたら大変だと秋山真之参謀はのたうち回るように悩み抜きますが、バルチック艦隊のような巨大な船の集団が安全に通ろうと思えば充分な深さと幅のある対馬海峡を選ぶに違いなく、ここは東郷平八郎長官の見立てが正しかったと思えます。

有名な日本海海戦は秋山参謀の考えた丁字作戦でバルチック艦隊を全滅させたということになっていますが、最近の研究ではどうもぐねぐねに回りこんだりしていたようです。いずれにせよ稀に見る圧勝で海の方は心配なくなります。

陸の方では奉天の会戦でクロパトキンのロシア軍が北へと撤退します。日本が勝ったというよりもクロパトキン的には日本をどんどん北へおびきよせて兵站を疲れさせるという作戦で、日本軍が疲れ切るころにはヨーロッパからも兵隊がどっさり来て日本軍全滅でやっぱり日本終了のお知らせになるという予定でしたし、実際、奉天会戦で日本軍は疲れ切り大砲の弾もろくに残っていないという状態になってしまいます。

弾がないということがバレる前に何とか講和しないと、繰り返しになりますが日本終了のお知らせになるのですが、伊藤博文が金子堅太郎をアメリカに送り込み、セオドアルーズベルトに頼み込んで講和の仲介をしてもらえることになり、ポーツマス会議が行われます。

ポーツマス条約では賠償金はもらえませんでしたが、ここで戦争が終わっただけでも御の字で「賠償金が獲れてない!」と新聞が煽ったことで日比谷焼き討ち事件が起きますが、それは無理難題というものです。

このように見ていくと、現場の努力が多大であったことは間違いないないと思いますが、戦争が更に長期化していれば、日本軍の全滅は必至だったと言えること、高橋是がアメリカとイギリスで公債を売りまくって借金まみれで財政的にも限界が見えていたこともあり、アメリカとイギリスが日本に対して好意的で、戦争がやめられるように話をつけさせてくれたという天祐のおかげで体裁上「勝てた」ということが分かってきます。運が良かったからと言うこともできますが、そこが神話化されて後の世代では太平洋戦争が行われることになりますので、勝って兜の緒を締めよという意味のことを秋山真之が述べていますが、実際、その通りだということを40年後に身を以て示すことになってしまいます。









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Brexit、トランプの次はフランスのルペンか?

2016年はまさかのイギリスEU離脱で度肝を抜かれましたが、続いてトランプ大統領誕生に驚愕させられるとてもない一年でした。流れとしては自国中心主義、または国益優先主義と言えるようなもので、それまでの世界とは違った流れになって来たかも知れないなあとは思えます。

過去数十年の流れは国際化、グローバリズム、できるだけ政府の規模や関与を縮小し、国境の壁を低くし、小さい政府の自由主義というものが強かったように思いますし、私もそういうのを聴かされて成長してきましたので、そうものだと信じているところがありましたが、今年に入っていきなりがらがらと崩れてきたという印象です。

来年はフランス大統領選挙がありますが、ここまで来たらやっぱりフランスの「極右」政党と評されるフランス国民戦線のマリーヌ・ルペンさんが大統領になっても何にも驚きません。そういう流れなのだと私は納得するつもりです。

この流れに目を付けたBBCがルペンさんにインタビューし「brexit、トランプと来れば次は」とルペンさんに水を向けると「次はルペン大統領です」と言い切る感じが、以前なら泡沫の人が一応空元気で言っていると思えたものがなんとなく現実味を帯びた重みを感じてしまいます。

このインタビューでは「自分はレイシストではない」として、「レイシスト」という侮蔑表現をしないでくれとも言っています。国益優先主義であってそれそれ以上でも以下でもなく、その立場から新しい移民の受け入れに関してはもちろんノーだが、宗教の違いによって誰かを迫害するということももちろんないという主旨のことを述べています。あと、プーチンさんに対する意見はわりといいみたいです。

クリミア侵攻以来、世界の悪役でアメリカとその同盟国から制裁を受けているロシアのプーチンさんですが、対峙しているはずのヨーロッパがBrexitで内側から瓦解傾向を見せ、アメリカではプーチンさんと話ができそうなトランプさんが大統領になり、日本の安倍首相もプーチンさんとはケミカルが合っているみたいですし、ついでに言うと多分、デュテルテさんもプーチンさんのことは嫌いじゃないように思えます。

一時期は追い込まれていたように見えたプーチンさんですが、何となくプーチンさんの努力や行動とは関係のないところで親プーチンぽい人がぱらぱらと登場して来ているように思え、やはり苦しい時にぐっと耐える胆力で自分に波が来るのを待つというしたたかさがここに来て効果を発揮しつつあるのかも知れません。

世界で国益中心主義が流行すること事態については悪いとは思いません。自分の生活を優先した上で余力があったら他人を助けるというのは普通のことですし、余力がないときはまず自分の生活を考えることを責めることはできません。ただ、なんとなく、じわーっとですが、1930年代に世界各地でファシズムが流行したのとちょっと似ているような気がしないわけでもありません。

来年はとりあえずはフランス大統領選挙でルペンさんが勝つか、勝たないまでもどれだけ票を獲るかはちょっと注目したいところです。

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クリミア戦争と日本

1850年代は世界史的にも日本史的にも大きな転換点を迎えていた時代と言えます。

1850年代の日本で起きた大事件と言えばペリーの来航とその結果としての日米和親条約、更にプチャーチンの来航とその結果としての日露和親条約と領土の確定、1858年の安政五か国条約などがあり、日本は列強の力に屈して国是たる鎖国を捨て、不平等条約を締結せざるを得なくなるという辛い時代でもあります。しかし一方で、植民地化されるような憂き目に遭うことはなく、不平等条約だけで済んだという見方もできるのではないかと思います。

1853年から1856年までの間、イギリス・フランス・オスマントルコ連合軍とロシアとの間で第ゼロ次世界大戦とも言えるクリミア戦争が行われ、列強はその戦争に忙殺されていたために、日本がまだ世間知らずのひよっこだった状態の時に軍事力で蹂躙されるという最悪の事態に至らずに済んだと見ることも可能ではないかと思います。

ペリーが江戸湾沖に出現したことはショッキングな事件と言えますが、列強の中ではまだ新興国の部類に入るアメリカはクリミア戦争に参加しておらず、英仏がクリミア戦争に忙殺されて太平洋の方が手薄になった力の空白になったこともあって、ペリーは場合によっては琉球占領まで構想するという大胆さを見せることができました。日本は少しずつ外交を学び、列強とわたりあうようになっていきますが、クリミア戦争がなければ英米仏露で日本に侵攻して分け合うなどという事態が起きなかったとは言い切れず、わりと外交が素人で正直なアメリカ人のペリーと、クリミア戦争中であんまり派手にやれずに物腰柔らかなロシア人のプチャーチンとの間で慣らし運転をし、その後で英仏という真打登場ですので、日本人にとってはやりやすい順番だったと言えるかも知れません。

また、ペリー来航後の江戸幕府の軍事力の増強は目覚ましいものがあり、特に軍艦はお金にいとめをつけずにバンバン外国から輸入しており、1860年代にはそう簡単には手出しさせないところまでそれが育っていきます。アメリカの南北戦争が終わり、大量のエンフィールド銃が日本に入ってきますが、これも含んで驚くべき猛スピードで近代化が進められたとも言えそうです。

ここまでばっちり備えておいて鳥羽伏見の戦いで幕府軍がぼろ負けしたというのはもはや謎で、錦の御旗の登場くらいでしか説明がつかないのですが、佐幕派討幕派合わせて相当な軍事力を備えていたというのが植民地にならずに済んだ背景にあると思えますので、繰り返しになりますが1850年代という微妙な時代を比較的穏便に過ごせた日本は幸運だったと捉えることができると思えます。

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ナポレオン戦争とフェートン号事件

長崎の出島にイギリス船籍の軍艦が入港し、オランダ人商館員を一時拘束するという前代未聞の事件が、江戸時代後期の1808年に起き、江戸幕府の関係者が右往左往するという事態に陥ります。

この事件はナポレオン戦争と直接絡んでおり、また、長崎の出島がヨーロッパ人の目からどう見えていたかということが分かるという意味でも興味深い出来事ではなかったかと思います。

フランス革命の後の1794年、フランスはネーデルランド連邦(オランダ)に侵攻し、同地ではフランスの衛星国のバタヴィア共和国が樹立されます。1798年に、フランスではナポレオンによるクーデターが決行され、ナポレオンは統領政府を樹立し、第一統領(または第一コンスルとも)に就任します。コンスルとは古代の共和制ローマの執政官のことで、ナポレオンが古代ローマを強く意識していたことが分かります。

1804年にナポレオンは自身がフランス皇帝であると宣言し、続く1806年にはバタヴィア共和国を廃止して同地にホラント(オランダ)王国を樹立して弟のルイ・ボナパルトを国王に即位させます。

この時点でオランダ本国及び世界中のオランダの植民地がナポレオンの影響下に入ったことになります。ネーデルランド連邦共和国の統領を世襲していたオラニエ=ナッサウ家のウイレム5世はイギリスに亡命し、海外のオランダ領がフランスに接収される前にイギリスの方で押さえてほしいと要請します。イギリスから見れば千載一遇のチャンスですので、おおいに乗り気で、世界再征服戦争のようなことが始まります。

日本との貿易を独占していたオランダ東インド会社は1794年に解散しており、当時の長崎の出島はほぼ孤立した状態に陥っていましたが、一応はオランダ国旗を掲げ、ナポレオンに屈従したわけではないということを示していました(当時の日本人にとってはおよそ感知しないことではありました)。

そしていよいよ、フェートン号事件が発生します。イギリス海軍のフェートン号が、ウイレム5世の依頼というこれ以上ないくらいまっとうな大義名分で長崎へ入港します。長崎の出島は日本の江戸幕府の視点からすれば、オランダ人を隔離・管理する目的で設置された場所ですが、ヨーロッパ人の目から見れば、オランダの海外領土という風に理解されていたことが分かります。

しかしその手口は、入港時、オランダ国旗を掲げて偽装し、2人のオランダ商館員が小舟で近づいてきたのを拘束するという荒っぽい方法で、フランスからの解放を大義名分としているにも関わらず、これでは解放者なのか侵略者なのかさっぱり分からんという展開になってしまっています。更に、オランダ商館員の返還を求めた長崎奉行所に対しては水、食料、燃料の提供を要求し、さもなくば長崎港に停泊中の船を焼き払うという脅迫を行います。これでは海賊と同じです。

当時、長崎港の警備は鍋島藩が担当していましたが天下泰平の世の中で「どうせ大したことは起きない」と高をくくっており、イギリス軍艦に対抗するだけの戦力がありません。長崎奉行は周辺の各藩に軍の出動を命じますが、それらの軍が到着する前に長崎奉行所が要求された品物を提供することで解決し、フェートン号はオランダ商館員を解放して悠々と引き揚げたのでした。

実際に人を拘束して脅迫したという意味では、ペリーの黒船来航以上にショッキングな事件で、ペリーがいかに紳士的であったかを理解できるとすら言えそうです。

このことで、鍋島藩は大いに面目が潰れましたが、教訓となり、鍋島藩はその後、いち早く産業の促進と軍備の増強に着手するようになり、逼迫する藩の財政に関しても思い切った構造改革を実施して、幕末にはやたらめったら強い藩に生まれ変わっていくことになります。



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