昭和史67‐ビルマルート爆撃

とある情報機関の発行していた機関紙の昭和15年12月1日付の号では、ビルマの援蒋ルートを日本軍が爆撃したことに関する記事が掲載されていますので、ちょっと紹介してみたいと思います。当該の記事によると「イギリスをはじめアメリカやロシアは飛行機、自動車、弾丸、鉄砲を重慶に売り込んで蒋介石の後押し」をしていると述べられており、イギリス、アメリカ、ロシアの真の目的は日本と蒋介石政府の双方を弱らせて東洋の土地を奪うことだとしています。

で、メコン川の遥か上流のヒマラヤ山脈を伊豆の踊子の如く九十九折りになって重慶へと向かうトラックを足止めするために、ヒマラヤ奥地の橋を爆撃したという武勇談が述べられているわけですが、この段階でイギリス、アメリカをはっきりと「敵認定」していることが分かるほか、当該記事ではソビエト連邦も敵認定していることが感じ取れます。

爆撃した橋は「功果橋」と呼ぶらしく、その橋が果たして誰の所有なのか、イギリス領ビルマの範囲内なのか、それともチベットなのか或いはちょっと見当のつかない場所なのかは検索をかけてみてもわからなかったのですが、蒋介石政府にたどり着く前の地点を攻撃しているわけですから、既にイギリスとは戦闘行為が始まったと受け取ってもいいくらいの事態に昭和15年末頃の段階で発展していたということが分かります。

日中戦争が始まった当初、アメリカはモンロー主義で、芦田均の『第二次世界大戦外交史』ではイギリス、フランスオランダは当初日本と事を構えて東南アジアの植民地を失うことを恐れていたとも書かれてありましたから、そもそも欧米と事を構えることを日本帝国の当局者も想定していなかったのではないかと思います。早々に戦争を終わらせていれば、太平洋戦争になることはなかったかも知れません。ところが、延々といつまでも戦争が終わらず、近衛文麿はここぞとばかりにそもそもの持論である全体主義的統制経済をやり始め、軍需品が必要ですから民生品が品薄になり物資不足で資金も不足という深刻な事態に陥りつつある中で、愈々欧米諸国とも事を構える決心を堅めつつあるあたり、読んでいる現代人の私としては背筋が寒くなる思いです。

当該の情報機関は当初は台湾とその対岸の広東、南京あたりの情報収集及び戦果の宣伝みたいなことをしていたのですが、だんだん手を広げるようになり、フィリピンインドネシアインドシナと範囲が拡大して今回とうとうビルマまで手を出したという感じです。「東亜共栄圏」なる言葉が公然と使われ始め、日満支(汪兆銘政権)だけでなく、東南アジア全域を含む日本経済ブロックを作ろうとしていたわけですが、どうも当初からそのような想定をしていたわけではなく、どこかの時点で「行けるところまで行こう」という発想になったように思えます。行けるところまで行こうとすれば、必ず欧米の大国と戦争になるまで突き進むことになりますから、そういう決心をした段階で日本帝国滅亡フラグが立ったも同然とも思え、かえすがえす「馬鹿なことを…」と思はざるを得ません。広田内閣の五相会議で南進が採用され、近衛内閣の閣議で南進が改めて正式に国策として採用されたことから、官僚主義的に深く考えずに国策通りに進んだのかも知れません。一旦決まった政策について臨機応変できないあたり、今ももしかするとあまり変わらないのではないかという気もします。援蒋ルートを断ちたい陸軍と日本経済ブロックを作りたい政治家と、宮崎滔天や頭山満みたいな民間の大アジア主義がぐちゃっと混ざって肥大したという感もなくもありません。精工に練られた構想というわけではなく船頭多くして船山に登る式の場当たり的、ご都合主義的な拡大主義が見て取れます。

一重に蒋介石との戦争に勝つために遠いビルマまで爆撃に出かけ、英米と険悪になり対抗策としてドイツのアドルフヒトラーと結ぶという悪手を選び、滅亡への坂道を転げ落ちようとしている日本帝国の姿を追うのは心理的なダメージが強いですが、取り敢えず手元の資料は全部読む覚悟で読み進めています。

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昭和史56‐ドイツ必敗予言‐次期大戦の経済的研究

とある情報機関の機関紙の昭和14年12月11日付の号で、ポール・アインチヒという人物の『次期対戦の経済学的研究』について言及されている記事がありましたので、ちょっと紹介してみたいと思います。ポール・アインチヒという人物について検索してみたところ、彼はルーマニア出身で後にフィナンシャルタイムスの記者になり、英国に帰化した人物のようです。で、当該の記事に曰く

先づ「英国は戦闘には敗けるかも知れないが、戦争にはきっと勝つであらう」と云ひ又、「ナチス・ドイツの恐るべき戦闘力に、たとひファシスト・イタリーの援助があったにしても、民主主義国が必ず勝つといふことは、戦争の結果が大いに経済的理由によって左右されるものである限り、疑ひに一点の余地もない」と断じまして最後に左の如く結んでおります。
「若しも第二次世界大戦が始まるならば、それは必ずや長期戦になるであらうが、長期戦に於ては経済的理由が勝ち負けを決する極めて重要な要素であるから、英吉利のやうな金準備が豊かであり、之によって豊富な食料品や原料品を得られる国は、独逸のやうな金が少く又、食料品や原料品の乏しい国に対し、必ず最後の勝利を得る事が出来る事は、前大戦の時と同じである」と言うて居るのであります。

と紹介しています。後の歴史の展開を知っている我々から見れば、ポール・アインチヒのドイツ必敗の予言はその理由も含めて完璧に的中したということが分かりますが、当該記事の筆者は、「必ずしもそうとは思はない」としながらも、「近代戦」が経済戦であることは認めています。次いでアドルフ・ヒトラーの著作である『我が闘争』の内容を紹介し、ヒトラーがドイツが第一次世界大戦で敗けたのは、銃後の国民が節約に徹しなかったからだと述べているとして、日本も蒋介石との長期戦に勝つためには、国民が隠忍自重し、我慢を重ねて贅沢をせず、節約して経済戦に勝たなくてはならないとしています。当時の段階は、英米の蒋介石政権への肩入れは明らかで、何せ世界の大国であるアメリカとイギリスが蒋介石に存分に援助を与えているわけですから、経済戦の面でも昭和14年の段階で、緒戦で連勝しながらも実は日本の側が窮していたわけで、当該記事の著者もその事情ははっきりしすぎるくらいによく分かっていたようで、筆致からは焦燥感のようなものを感じ取ることができます。当時の日本はすでに経済戦でも敗けていて、国際世論は日本に味方せず、東南アジア華僑も蒋介石支持でしたから情報戦でも敗けていたと言わざるを得ないように思えます。また「大東亜共栄圏」という理念も、要するに植民地をたくさん持っているイギリスは何かと有利なので、日本もそうしたい、或いはそうしないと世界に追いついていけないという焦燥感と表裏一体、不離不足だったということ、イギリスみたいになるためには、遅れてきた日本のような帝国も経済ブロックを持たなくてはいけないという、切実さのようなものも感じ取れます。

結果としては日本帝国は植民地の維持だけでも大変で、更に満州国や汪兆銘政権への援助で手いっぱいになり、太平洋戦争が始まると占領地が広すぎてどうしていいか分からないというところまで追い込まれていきますから、石橋湛山の言うところの「小日本主義」が正しかったと言えますし、戦後の日本が繁栄したのも、小日本主義に徹したからと言えるようにも思います。いよいよ昭和15年、アメリカとの開戦前夜の息詰まる危機感と焦燥感のある記事がどんどん出てくるはずですから、日本人の私としては歴史に関心があるという意味では、多少わくわくもしますが、同時に日本帝国の滅亡へのまっしぐらを辿るわけですので、何ともやりきれない心境にもなってしまいます。


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昭和史46‐東亜ブロック経済

私が追いかけている情報機関の機関紙の昭和14年7月21日付の号では、東亜ブロック経済の建設の必要性が主張されています。簡単に内容を説明すると、イギリスは大英帝国でブロック経済をやっている。フランスもまたしかり、ソヴィエト連邦もまたしかりである。これら欧米列強は既に自分たちが多くの植民地を得てブロック経済をうまく回しくいうことができるのに対し、日本はそうではないから、台湾を拠点に、現在占領しつつある、海南島、広東地方、南洋諸島とも連携してブロック化していくべきだという内容になっています。実は日本は常に物資不足、戦費不足に悩んでいましたから、満州でもどこでもアメリカ資本を呼び込んでマージンをとるような商売をした方が早いと私は思うのですが、時代が時代というか、自分たちの植民地を持たなければ安心できない。さあ、みなさん、日本帝国ブロック経済のために邁進しましょうというわけです。当該の文章では、蒋介石が中国を半分植民地みたいにして列強にうまみをもたせる、要するに「売国」することで欧米からの援助を得て日本の進撃を阻んでいるのでますます許せんというわけです。

ブロック経済は要するにその地域内だけで自給自足し、盟主(イギリス、フランス、または日本)が儲かる仕組みを作るというわけですが、当該の号で一つ関連記事と思えるものがあったので、それも紹介したいと思います。台湾在住華僑たちによって排英運動が起きているというのです。

同年7月18日に排英運動の華僑大会が開かれたとされています。要するに、上に述べたようなブロック経済の推進を台湾在住華僑も賛成していて協力的だぞと言っているわけですね。同大会では東亜秩序を見だし、搾取を続けるイギリスは許せんとする宣言を採択し、英大使に対する勧告電として「事変以来、英国ノ援蒋政策ハ東亜ヲ乱スモノニシテ、恨骨髄二徹スルモノアリ 時既二至レリ、速カニ援蒋政策ヲ放棄シ正義日本ト協力セヨ、サモナクバ東亜ヨリ撤退スベシ」という文章も掲載されています。台湾在住華僑の人たちの心境は非常に複雑なものがあったでしょうから、この声明文のどこまで本音なのか、見抜くことはなかなかに難しい作業です。中華系の人にも対日協力者がいたことは間違いのないことと思いますから、あるいはそういう人が熱心に進めたのかも知れませんし、あるいは日本帝国域内で暮らす華僑にとってはとにかく身の安全というものを図らなくてはならないという不安もあったでしょうから、その不安を解消するためだったのかも知れません。そのあたりは、もはや神のみぞ知るところかも知れません。

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昭和史45‐太平洋戦争の前哨戦-コロンス島事件

日中戦争で日本軍は厦門の占領を果たしますが、厦門沖の小さな島であるコロンス島(中国語では鼓浪嶼と言うらしいです)は、列強の租界になっており、日本軍も手を出さずにいました。対日協力者の洪立動という人物が暗殺されたことがきっかけで日本軍が揚陸艇を出して上陸し、英米仏連合軍も上陸を辞さずとする事件が起きます。この事件について多少資料を探したり、検索もしたのですが、ほとんど情報がないので、詳しいことは分かりません。ただ私が追いかけている情報機関の機関紙の昭和14年6月21日付の号では多少のことは書かれているのですが、当該機関紙は日本軍にとって都合の悪いことは書かないので、果たして戦闘があったかどうかも定かではないですが、どうも本格的な衝突になることを回避するために日本軍が撤退するという顛末だったようです。一歩間違えば戦争になっていたわけですから、太平洋戦争の前哨戦だったと位置づけることも可能と思えます。

当該機関紙では、日本軍は租界に手を出すつもりはなく、真犯人とその背後の組織を摘発することが目的だと説明したのに、英米仏が軍を出動させるとはなにごとか、そもそも工部局(コロンス島の行政・治安を担当していた部署)が仕事をしないからこういうことになるのだと怒りを爆発させています。当該の記事では各国でどのような報道があったかも紹介しており、中国の新聞は「日本軍が英米仏に屈した」と大見出しで盛り上がり、オランダ領インドネシアの新聞では「英米が連合し、アメリカの太平洋艦隊が展開するようになった場合、まさかドイツ・イタリアと同盟して対抗する」などのような愚かなことはしないだろうと論じており(実際には、その後、当該記事の通りになったわけですが)、イギリスではモンロー主義のアメリカも、日本に対抗することについては手を引かないことを示したとの評価をし、英蘇連携も進むだろうとの見方も出しています。アメリカの新聞では「日本が租界を奪取するという前例を作らせなかった」この意義を強調しており、まあ、はっきり言えば、日本は英米仏中と戦争する寸前まで行っていたわけで、世界的に完全に孤立していたことが浮き彫りにならざるを得ません。ドイツとイタリアがいたではないかとの指摘もあるかも知れませんが、ドイツ、イタリアは太平洋、東南アジアにはほとんど影響力がありませんから、事実上の意味は全くないと言っていいとも思えます。

それらの報道について当該記事では「日本側に云はせれば却って極東に於ける日本の勢力を日々不安焦燥の目で眺めていた諸外国が(略)日本をおどさうとしているのではないか、(略)強硬である日本の態度に驚きあわてふためゐてゐる英米仏の強がりも面白いではないか」と結んでいます。日本がどれだけ危ない橋を渡っているのかについての自覚が全くないことに愕然としてます。情報部を収集したり、プロパガンダをすることはできてもインテリジェンスができない、諜報ができない日本帝国の脆弱さを見せつけられてしまった思いで、orzとしか言えません。

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昭和史41‐英米の蒋介石援助

とある情報機関が発行していた機関紙の昭和14年4月21日付の号では、イギリス、アメリカによる蒋介石の援助について解説していますので、紹介してみたいと思います。当該の記事では、蒋介石政権が中国大陸のかなり奥の方まで追い詰められているにもかかわらず、粘り強く抵抗を続けている理由として、蒋介石政権が外貨を大量に持っていることを指摘しており、なぜそんなにお金があるのかと言えば、世界中の華僑資本家の支持があることと、イギリス、アメリカの援助があることを理由として挙げています。日本は緒戦では買ってはいますが、世界的規模で敗けていたと何度もこのブログで書いていますが、やはり、この記事も日本が世界的な視野から見れば孤立していたことを裏書きするようなものだと言っていいのではないかと思います。

当該記事では、フランスの経済新聞が、イギリスの蒋介石への援助は東アジアの権益を守るために援助しているのであって、蒋介石そのものへのシンパシーに基づくものではないという趣旨のことを書いていると紹介していますが、まさしく、英米の権益を日本が脅かすからこそ、やがては日本帝国の滅亡を迎えることになってしまったわけですから、この記事を紹介することで、蒋介石はそんなに英米に愛されているわけではないという解釈を与えるのは大局を見失っていると判断せざるを得ないと思えます。

当該の記事は、いずれ蒋介石は大金だけを持って中国大陸から脱出しなければならないことになるだろうけれど、その場合、それまで蒋介石のために戦ってきた中国人民見捨てられるのだという主旨のことで結ばれていますが、事態は後にこの予言の通りになったとも言え、そういう意味ではここは見抜いていたと言ってもいいですが、それは日本帝国が滅亡した後に起きたわけで、当該情報部は英米が日本帝国をつぶすことをとにかく優先していたという結果的事実を見抜くことができていません。

「情報部」を名乗るくらいですから、情報収集のプロ、情報分析のプロの集団であったはずですけれど、全く分析できていなかった、日本有利と宣伝するだけのプロパガンダ機関にすぎなかったと思うと、頭脳なき戦争を日本は進めていたのだも思われて、やっぱりがっくし…。ですねえ。


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ナポレオン戦争‐旧秩序の破壊者

フランス革命が発生した後、国政の実権はロベスピエールたちジャコバン派が政権を握ります。彼らがルイ16世を処刑した後、ヨーロッパ諸国が対フランス大同盟を組み、フランス包囲網が作られます。周辺諸国は当時はまだ君主制が普通ですから、フランス型共和制の理念が自国に及ぶことに強い懸念を持っていたはずですし、国王処刑というショッキングなできごとに対する人間的な怒りというものも感じていたかも知れません。このような国難に対し、ロベスピエールは粛清に次ぐ粛清ということで国内を引き締めることで対応しようとしますが、嫌疑があればすぐ断頭台という恐怖政治の手口は結果的には多くの政敵を作ることになり、彼は議会から追放され、市役所に逃げ込むも議会が「ロベスピエールに味方する者は法の保護を受けることはできない」と宣言したことで周囲から人が離れてゆき、ロベスピエールは自殺しようとするものの失敗してしまい、翌日には断頭台へと送られます。テルミドールのクーデターと呼ばれる事件です。ロベスピエール派たちが最後の晩餐をした場所が残っていますが、そこはマリーアントワネットが最後の日々を過ごしたのと同じ場所で、盛者必衰、諸行無常を感じざるを得ません。この時、一軍人だったナポレオンはロベスピエールのオーギュスタンと親交があることが危険視され、予備役編入されてしまいます。

ロベスピエール派を粛清した国民公会は絶対に自分たちが選挙に負けない法律を成立させたが、当時は国民公会の人気がなく、王党派も多く残っていたために暴動が起きます。ヴァンデミエールの反乱と言います。国民公会がナポレオンを起用したところ、散弾の大砲で王党派を蹴散らしてしまい、このことでナポレオンは再び表舞台に登場することになります。市民に向けて殺傷力の強い散弾の大砲を使うわけですから、そんじょそこらの人物とは訳が違います。勝てる方法が分かっているのなら、それをやるという、彼の単純かつ明快な論理がそこにあったのではないかと思います。

ロベスピエールが死のうと生きようと、フランスに対する外国からの脅威は消えていません。得に、マリーアントワネットの実家のハプスブルク家のオーストリアはかなりの敵意を燃やしています。国民公会はドイツとイタリアの方面に軍を送ってオーストリアを包囲する戦略をとりますが、ドイツ方面では苦戦したのに対し、イタリア方面の指揮を任されたナポレオンは連戦連勝で単独で講和まで勝ち取り、ここに第一次フランス包囲網は崩壊することになります。外交までやってしまうところに「躊躇しない」という彼の性格が良く出ているように思えます。

しかし、当時、イギリスが強敵としてまだ立ちはだかっていたのですが、ナポレオンはイギリス優位の理由をインドの領有にあると見て、中継点になっていたエジプト征服戦争に出かけます。実は戦争でナポレオンは苦戦を強いられ、兵を見捨てて徳川慶喜ばりに側近だけを連れて脱出し、フランスへ帰還します。そしてブリュメールのクーデターを起こし、フランス政治の実権を握るわけです。帰還したナポレオンは国民から歓喜で迎えられたと言われていますが、残された兵たちが帰還してくればナポレオンの敵前逃亡がばれてしまうため、その前に手を打ったと思えなくもありません。

国際社会は再びフランス包囲の大同盟を組んでフランスを圧迫しようとしますが、ナポレオンがオーストリア軍に大勝利し、あっけなくこの大同盟は瓦解します。1804年、ナポレオンはなんと国民投票によって皇帝に選ばれ、しかもそれはナポレオンの子孫が皇帝の地位を世襲するという内容のもので、そんなことが投票によって可能になるとは目に見えない力がナポレオンを後押ししていたのではないか、神が彼に肩入れしていたのではないかとすら思えてきます。

当時、イギリスとオーストリアが気脈を通じ合っており、またしてもフランス包囲網が形成されます。ナポレオンはオーストリア及び
神聖ローマ帝国連合を東正面に、西正面には大英帝国という難しい局面に於かれた上、イギリス上陸を目指して行われたトラファルガーの戦いではイギリスのネルソンの艦隊にフランス艦隊が破られるという大きい失点をしてしまいます。反対に、東正面ではアウステルリッツの戦いで、神聖ローマ帝国及びロシア皇帝の同盟軍を破り、神聖ローマ帝国は解散・消滅の運命を辿ることになりました。フランスにとってはハプスブルクこそ主敵であり、ハプスブルクの権威の象徴である神聖ローマ皇帝を消滅させたことは、かなり大きな意味を持ったかも知れません。

ナポレオンはブルボン王朝の人間をスペイン王から外し、弟をオランダ王に即位させ(フェートン号事件の要因になった)、ベルリンまで兵を送りプロイセン王は更に東へ脱出し、ナポレオンはヨーロッパ内陸部の主要な地域をその支配下に置きます。スペインにはブルボン朝の王がいましたが、それも自分の兄に交代させています。ナポレオン大帝国の完成です。ナポレオンはイギリスを主敵とするようになり、トラファルガーの戦いの怨念もありますから、大陸封鎖令を出してイギリスに商品が入らないように工作し始めます。島国イギリスを兵糧攻めにするというわけですが、ロシア帝国はイギリスへの小麦の輸出は経済的に是非とも続けたいことであり、ナポレオンにばれないようにイギリスへの輸出を続けます。これを知ったナポレオンがロシア遠征を決意し、ここが運命の別れ道となってしまいます。

ナポレオン軍はモスクワ占領までは漕ぎつけますが、ロシア側は焦土作戦で対抗します。こういう場合は持ってる土地が広い方が有利です。ロシア政府政府からの講和の要請は待てど暮らせど届きません。トルストイの『戦争と平和』でも見せ場と言っていい場面です。広大なロシアを延々と東征することは現実問題として不可能であり、しかも冬が到来すればフランス兵がバタバタと死んでいくことは明白で、ナポレオンは冬の到来の直前に撤退を決意しますが、撤退戦は戦いの中でも特に危険なもので、コサック兵の追撃を受ける破目になり、出征時60万人いたナポレオン軍の兵士で帰還できたのは僅かに5000人だったと言います。ほぼ完全に全滅、太平洋戦争のレイテ戦以上に酷い有様となってしまったと言えます。

新たなフランス大同盟が迫り、遂にパリは陥落し、フォンテーヌブローでナポレオンは退位させられます。彼は地中海のエルバ島に追放され、国際社会はナポレオン後の秩序構築のためにウイーン会議を開き、タレーランが「ナポレオン以前の状態に戻ればいいじゃあありませんか、あっはっは」とルイ18世の王政復古を議題に上げ、フランスが敗戦国かどうかよく分からないようにしてしまい、「悪いのはナポレオンですよね」で乗り切ろうとします。

ところがナポレオンがエルバ島から脱出。パリに入って復位を宣言します。ヨーロッパ諸国はナポレオンの復位を認めず、フランスを袋のネズミにするように各地から進軍が始まり、有名なワーテルローの戦いでナポレオン軍はほぼ完全に破壊され、彼は海上からの脱出も図りますが、世界最強の英艦隊に封鎖され、遂に降伏。大西洋の絶海の孤島であるセント・ヘレナへ流されて、そこで側近たちとともに面白くもなんともない生活を送り最期を迎えます。晩年のナポレオンはあまりにもお腹がでっぱり過ぎていたことから肝硬変が腹水が溜まっていたのではないかとする病死説と、フランスに送り返されたナポレオンの遺体がまるで生きているかのような状態だったことから、ヒ素による毒殺説までいろいろあり、今となっては分かりません。ナポレオンの棺は今も保存されており、巨大な棺の中で彼は今も眠っているはずですが、敢えて蓋を開いて調べようとする人もいないようです。

そのような墓暴きみたいなことがされないのは、今も畏敬の念を持たれていることの証であるとも思えますし、ワーテルローで降伏した後、裁判にかけられて処刑されてもおかしくないのに、絶海の孤島に島流しで済んだというのはナポレオンの強運が普通ではないということの証明なのかも知れないとも思えます。

振り返ってみれば、ナポレオンは暴れるだけ暴れて、果たして何を残したのか…という疑問はありますが、神聖ローマ帝国の消滅は、ハプスブルク家の凋落を目に見える形で示したものであったとも言えますから、少し長い目で見れば、ヨーロッパ秩序を大きく変えたということは言えるように思います。秩序を破壊する人と新秩序を構築する人は別の人、というのが普通なのかも知れません。


アメリカ独立戦争‐ヨーロッパ政治の延長とそこからの離脱

「代表なくして課税なし」と言う合言葉で知られるアメリカ独立戦争ですが、そこに至る背景には幾つかの前哨戦があります。

ヨーロッパでは神聖ローマ皇帝の継承問題を巡り、ハプスブルク家とプロイセン王国が対立、オーストリア継承戦争が行われ、ハプスブルク家はシレジア地方を失い、神聖ローマ皇帝の権威そのものが帝国内で低下していきます。ハプスブルク家は東にロシアとオスマントルコ、北にプロイセン、西にフランスという脅威に囲まれつつ、帝国そのものが自治性の高い王国の集合体であったために基盤が弱く、外国と戦争する前に国内の獅子身中の虫をなんとかすることに追われる始末となっており、わりと命運が尽きかけた感が滲んできます。

ハプスブルク家の実質的支配者であったマリア・テレジアはこの苦境から脱するためにルイ15世の息子、即ちルイ16世にマリー・アントワネットを嫁がせ、要するに政略結婚でフランスからの脅威から解放され、プロイセンに対する復讐戦を準備し、これが後に7年戦争と呼ばれる世界大戦級の大戦争へと発展します。この七年戦争ではイギリスがプロイセンの側につき、構図としてはフランス・ハプスブルク連合vイギリス・プロイセン連合(かなり単純化しています)ということになるのですが、結果としては諸国の海外植民地での戦争へもつながっていきます。更に、スペイン国王がブルボン王朝の血筋ですので、フランスサイドについたこともあり、かなり複雑な様相を呈します。

アメリカ大陸はヨーロッパ諸国の草刈り場みたいになっており、フランス植民地、イギリス植民地、スペイン植民地がそれぞれに競合していたわけですが、ヨーロッパでの戦争が当然のごとくアメリカ大陸に飛び火し、英仏西が三国志のごとくぶつかり合いました。ヨーロッパの戦局が一進一退であったのに対し、アメリカ大陸での戦争は、ハプスブルク家がそもそも関心を持っていなかったことと、フランスがヨーロッパでの戦いに集中して、アメリカ大陸では現地入植者だけでなんとかしろという方針であったために、結果としては海にまもられ自国が攻め込まれる不安の少ないイギリスが全体的に有利に戦闘を進めます。

結果、1763年のパリ条約でフランスはアメリカ大陸におけるほとんど全ての地域を放棄するということになり、これがフランス革命の遠因になってはいくのですが、ここはアメリカ独立戦争の話をしたいので、アメリカの方に視点を置きますが、イギリス本国が7年戦争にかかった戦費をアメリカの入植者に課税することで埋めようと考え、あらゆるものに課税していきます。アメリカ本国からの反発は強かったようなのですが、植民地からは議会に代表を送ることができません。「代表なくして課税なし」とは、そのような状況に対する不満から生まれた言葉なわけです。イギリス本国としては「お前ら入植者を守るために7年戦争でめちゃめちゃ金を使ったんだから、その分はお前らで償えよな」ということになるのでしょうから、アメリカからの非難を完全に無視してタウンゼント諸法と呼ばれる新しい税制に関する法律を成立させ、これからはアメリカの入植者からがっつり税金をとるぜという姿勢を明確にします。

激昂したアメリカ入植者たちが暴動を起こし、課税対象の一つである英国製のお茶の荷物を破棄するという有名なボストン茶会事件が起きます。ティーパーティ運動という言葉がよくつかわれますが、これはこのボストン茶会事件の精神、アメリカの出発点を忘れるなという意味で使われているわけです。

ジョージワシントンら独立派は民兵を組織し、やがて彼らはアメリカの正規軍へと再編されていきますが、アメリカ軍がアメリカ大陸のイギリス軍との戦闘を開始し、イギリス軍はアメリカ植民者の中の王党派の協力を期待しますが、結局は王党派からの本格的な協力を得るというような事実は起きず、それでもイギリス軍は装備や訓練の面でなかなかの強さを持っていたと言われていますが、アメリカ軍は数で勝っており、戦闘は膠着状態に陥ります。また、アメリカ植民者は狩りのための銃を日常的に必要としていたため、工夫を重ねて射程の長い銃の開発に成功していたため、それがアメリカ側に勝利をもたらしたとの話もあるようです。

いずれにせよ、戦闘の真実の決着は英米両軍の実力によるものではなく、ヨーロッパからの介入によってもたらされます。アメリカ大陸での「内戦」を、雪辱の好機と見たフランスがアメリカ軍を支援し、ヨーロッパでも戦争の準備に入ります。イギリスとしてはアメリカに注力したい局面でありながら、フランス艦隊の動きにも注意しなければならないという二正面作戦に迫られ、フランス国王とスペイン国王は親戚ですから、スペインの動きに目配せしなければならないという、困った状況に追い込まれます。結果としてアメリカ東海岸方面に於ける海上連絡も必ずしも思うように進まず、アメリカ軍が徐々に勢いをつけ、最終的にはヨークタウンのイギリス軍を包囲し、イギリスが降伏したことで、戦争集結の道が開かれます。1783年にパリで休戦条約が結ばれ、1787年にアメリカ合衆国憲法が制定され、1789年に初代大統領としてジョージワシントンが選ばれます。世界史に大きな影響力を持つアメリカ合衆国の誕生です。

アメリカ独立戦争は、単に地理的な意味での分離独立運動だっただけでなく、王権の否定という市民社会の理念がその精神的支柱でもあったため、アメリカでは今も独立戦争とは呼ばず、革命と呼んでいます。また、ヨーロッパの国際政治に巻き込まれるのは嫌だという発想が強くなり、モンロー主義も根強い理念として生き続けていくことになります。イギリスはこの戦争でネイティブアメリカンの部族からの協力を得るためにいろいろな約束をしていたらしいのですが、イギリス敗戦でそれらの約束は履行されず、怒ったネイティブアメリカンたちがアメリカと戦うという展開もあり、古い西部劇では「インディアン」が悪者に描かれるというパターンが増えるという現象につながります。尤も、第一次世界大戦の時にそうであったように、イギリスがネイティブアメリカンとの約束をたとえ戦争に勝ったとしても履行していたかどうかはかなり疑わしいようにも思えます。フリーメイソンがアメリカを作ったという話もあるみたいですが、本当にそうだとしても別にそれはそれでいいのではないか、目くじらを立てて声を荒げて論争しなければならないような問題でもないでしょうと個人的には思います。いよいよ近代です。




エリザベス1世‐私には子孫は要らない

英国教会を設立し、ローマ教皇と袂を分かったイングランド王ヘンリー8世が亡くなった後、ヘンリー8世が唯一授かった男子であるエドワード6世が王位を継承しますが、彼は成人する前に早世してしまいます。ここで、イングランドでは適切な王位継承権を持つ男子がいないという状況が生まれました。非嫡出、または元嫡出の女性の子供たちはいましたので、果たしてこの中の誰が適切なのか…と当時の人も頭を抱えたようなのですが、ヘンリー8世がローマ教皇から独立して日が浅く、血統的に最も良さそうなのはメアリ1世でしたが、彼女がカトリックであったことで話がややこしなり、なんとヘンリー8世の子供ではなく、ヘンリー8世の妹の孫に当たるジェーン・グレイという若い女性が選ばれます。しかし、メアリ1世派の反撃でジェーン・グレイは反逆の罪で死刑が執行されるという悲劇的な運命を辿ります。まだ20歳にも達していない若い女性でしたから、本人の政治に対する意思というよりも、周囲の大人たちに翻弄されて人生を終えたとも思え、どうしても気の毒だ…という印象を拭い去ることができません。

メアリ1世の統治の時代、カトリック回帰政策がとられますが、それに反発するワイアットの乱が起き、エリザベス1世もその反乱に加担したのではないかとの疑惑が持たれ、彼女はロンドン塔に幽閉されます。殺されるかどうか紙一重の相当に厳しい精神状態に追い込まれたものと想像できます。

メアリ1世は神聖ローマ皇帝の従弟でスペイン国王のフェリペ2世と結婚し、スペインは思いっきりぶっちきりで真剣なカトリックの国ですから、スペイン王との結婚ともなれば、イングランドのカトリック回帰、更に、場合によってはフェリペ2世によるイングランドのスペイン化すら予想され得る展開になったわけですが、フェリペ2世の英国滞在期間がそれなりにあったにも関わらず、メアリ1世は子どもを得ることができませんでした。後継者を産まなくてはならないという焦りや追い詰められた感情が強かったらしく、想像妊娠という症状が出、彼女心身が衰弱していきます。しかしながら、他に適切な人物がいないという理由で、カトリックを否定し、英国教会を信仰するエリザベスが後継者に指名され、メアリ1世の死後、エリザベスが英国王に即位します。

ロンドン塔で死ぬか生きるかを経験した後に国王即位ですから、文字通りジェットコースターの人生のようにも思えてきますが、即位後の彼女も全く安泰ではありません。エリザベス1世が成立間もないテューダー朝の国王であったのに対し、伝統あるスチュアート朝の血統を引くフランス王妃メアリ・スチュアートがイングランド王の継承権を主張します。フランス側としては百年戦争の恨みが強いでしょうから、ここは引っ掻き回せるだけ引っ掻き回してやろうという考えがあったのかも知れません。メアリ・スチュアートは帰国後もスコットランド王でありながら英国王の継承権を主張し続けます。メアリは軟禁状態に置かれますが、エリザベス1世の本心ではメアリを処刑することに躊躇があったようなのですが、カトリック信徒であるメアリの自筆のスペイン王へ宛てた手紙(エリザベスを倒すのに協力してほしい)が見つかるなどして、無罪放免にするにもやりようがない状況となり、メアリは処刑されるという運命を迎えます。

更にその後、メアリを処刑したことの残虐性を口実に、スペイン王フェリペ2世が有名な無敵艦隊をイングランドに送り、イングランドそのものを征服しようと襲い掛かってきましたが、焼き討ちによって木造艦隊を全滅に瀕する状況に陥らせて勝利します。危機と勝利を繰り返すエリザベス1世の人生には波乱万丈極まれりの感があります。なかなかここまで激しい人生を送る人も少ないのではないでしょうか。

エリザベス1世は生涯結婚せず、愛人は何人もいたと言われていますが、誰かの子供を産むということもなく、天寿を全うします。69歳で亡くなったということですから、現代人の感覚から言えばまだまだ早いですが、当時としては天寿を全うしたと表現してもいいのではと思います。エリザベス1世の死により、テューダー朝は後継者が全くいなかったために終焉を迎え、処刑されたメアリの息子でスコットランド王に即位していたジェームスがイングランド王としても即位することになり、その血統は今日の英王室にも引き継がれています。この時からイングランドとスコットランドは同君連合国家となり、今日に至るまでのイギリスの複雑な諸問題の一つになっていきます。

以上のようなことを思うと、スコットランド王がイングランド王を兼ねるという形での吸収合併は、スコットランドがイングランドを吸収したように見えなくもなく、しかし実質的にはイングランドがスコットランドを吸収したというちょっと分かりにくい感じになっているということが言え、なるほど400年を経た今日でも揉めるわけだと納得できなくもありません。スコットランドにはちゃんと首相もいて、スコットランド首相はスコットランド風の英語で発言をしますから、そこにも根深さを感じさせます。

話をエリザベス1世に戻しますが、もし、エリザベスが真実にテューダー朝の継続を望んだとすれば、何らかの方法はあったかも知れません。従妹とか更にその先の従妹まで探し出してきて後継者に指名することは完全に不可能であったとも思えません。ただ、彼女はそうはしませんでした。また自分の子孫も残しませんでした。そこには彼女の「血塗られた血統を残したいとは思わない」または「子孫を残しても殺し合うだけ」という深い諦めか悟りのようなものがあったのではないかと思えます。彼女の死後、メアリの息子がイングランド王を継承する可能性は当然、彼女も十分に予見していたに違いないと思いますが、むしろメアリに対する贖罪の気持ちでそうなるように、自然とそうなっていくように仕向けていたのではなかろうかとすら思えてきます。激しい人生を送った人であるだけに、そこから滲み出る人間的な心のようなものも、エリザベス1世について考える時に感じ取ることができるように思えてきます。


ヘンリー8世‐悲嘆に暮れるカリスマ



イギリスの歴史を通じ、おそらく最も有名な国王がヘンリー8世ではなかったかと思います。ウエールズ、アイルランドをイングランドの版図と結合させ、いわゆる連合王国を作り出した王であり、今に至るまでそれはイギリスのもめごとの種にいつでもなり得るという意味では、ちょっと問題のある人だったのかも知れないのですが、ヘンリー8世以降にはスコットランドの併合もありますから、我々日本人の目から見て、「現代のイギリス」の形が大体できあがったのがヘンリー8世の時代と言えるかも知れません。既に百年戦争は終わっており、イングランド王がフランス王の王位を如何に要求しようとも、それが叶う余地はもはやなくなっていたと言えますが、慣例的に、フランス王を言い張ったことは記憶されてもいいかも知れません。

ヘンリー8世の人生でヨーロッパの歴史に最も大きな影響を与えた事績は、英国教会のカトリックからの分離と言えるのではないかと思います。ヘンリー8世以前から、教会を経ずに直接に神とつながることができるという発想を持った人はいたことはいましたが、見つかり次第異端審問で火あぶりにされており、キリスト教という巨大な世界と長い歴史の中で、ヘンリー8世が初めてローマカトリックに従わないキリスト教会を設立したことは、その後、ヨーロッパがカトリックとプロテスタントとの間で宗教戦争を続けたことの始まりとも言えるものです。

ヘンリー8世の英国教会の設立はごく個人的な理由に拠っています。大変に有名な話ですが、離婚したいと考えたヘンリー8世がローマ教皇からその許可を得ることができず、揉めに揉めてヘンリー8世は破門されてしまいます。神聖ローマ皇帝が破門された時に、雪の中3日間立って謝罪し、ローマ教皇から赦しを得たというカノッサの屈辱とは反対に、ヘンリー8世は自分の裁量で教会組織を設立してしまったというわけです。そのようなことが可能になった背景には、神聖ローマ皇帝の正当性がローマ教皇によって与えられていたという原理的な問題があったのに対し、英国王は百年戦争と薔薇戦争というやっかいな戦争を経験したことで、世界の中心のバチカンとの連動制を失った辺境なりの世界を作り上げていた、或いはイギリスの事情が複雑すぎてローマ教皇が介入できなかったということがあるかも知れません。

また、ビザンツ帝国の滅亡によって始まったルネッサンスがそれなりにヨーロッパ各地へと波及していく時代でもありましたから、ローマ教皇だけが信仰の主催者や頂点に立てるわけではない、カトリックは絶対的な存在ではないとの意識がじわじわっと広がっていたことも、心理的にヘンリー8世を後押ししたのかも知れません。英国教会のミサとカトリックのミサは、その他のプロテスタントのミサと比べるとよく似ているなあという感想を持ったことがありますが、プロテスタントの人々は信仰の在り方がカトリックとは違うことをレゾンデートルにしているのに対し、英国教会の場合は、ヘンリー8世の個人的事情に拠るものですから、信仰の在り方を変えなければならない必然性という点はどうしても低くなってしまうため、組織としてはカトリックではないが、やることは大体、カトリックと同じみたいなことになったのかも知れませんん。

ローマ教皇を敵に回しても「どうだ、やれるもんならやってみろよ」という不敵な態度を見せたヘンリー8世ですが、私生活は大変に荒んだもので、おそらくは「愛」には激しい渇望があった、或いは愛とは何かがよくわからなくなってしまった人だったのではないかと思えなくもありません。当時のイングランドのテューダー朝は薔薇戦争で勝ち抜いて建設された新しい王朝であったため、ヘンリー8世はどこからも文句の出ない嫡出男子を求めていたと言われていますが、ローマ教皇を敵に回して(当時の感覚で言えば世界そのものを敵に回して)まで手に入れた2人目の妻は流産を繰り返します。3人目の妻であるジェーン・シーモアが男子を産み、その子が後にエドワード6世としてヘンリー8世の死後に王位に就くことにはなるのですが、その時の出産が原因でジェーン・シーモアが亡くなってしまいます。エドワード6世は病弱で、安心できないヘンリー8世は次々と妻を取り替えていく人生を歩むわけですが、却って無駄に王位継承権者を増やすことになり、その子どもたち、従妹たちの間での残念なことに殺し合いの歴史が展開されていくことになってしまいます。そして最後の勝利者のエリザベスは子どもを残さず、テューダー朝は絶えてしまうという意味の分からない結果へとつながってしまうわけです。もしかしたらエリザベスは自分の子孫が殺し合う場面を想像し、敢えて子孫を残さなかったのではないかとすら思えてきます。

ヘンリー8世は時に悲嘆に暮れ、時にパラノイア的にもなり、その個人の内面を想像すれば、発狂寸前の日々を送っていたのではないか、時々本当に発狂していたのではないかとも思えますが、中年期には王としての堂々とした風格と知性、教養があり、カリスマ的に尊敬されていたとも言います。天才とは他人には分からない苦労を背負い込む運命にあるものなのかも知れません。



百年戦争‐イギリスとヨーロッパの分離。フランスの強国化。

百年戦争は、中世ヨーロッパ最大の歴史的な大変動とも言ってよいものであったと思えます。単に長い間にわたって戦争していたということに限らず、その後のイギリスとフランスの運命を分け、現代に通じるヨーロッパの枠組みの確定に大きな影響を与えたという点でも、看過できない歴史的な出来事と言るとも思えます。

百年戦争の最初の出発点は、フランス王位継承問題です。シャルル4世が亡くなったことで、フランス王家のカペー朝で王位継承に相応しい男子がいなくなってしまったため、傍系でヴァロア伯爵の血筋であるフィリップ6世がフランス国王を継承しますが、イギリスからちょっと待てとの物言いがつきます。イギリス国王のエドワード3世の母親がシャルル4世の妹であったため、傍系のフィリップ6世がフランス国王に即位できるのであれば、自分にも同じ権利があるはずだ、フランス王位を寄越せと言い始めたわけです。当時、フランス国内ではフィリップ6世で別に問題はないという世論が濃厚だったらしいですから、完全にエドワード3世からのいちゃもん、言いがかりの部類に入るのではないかと思えます。

当時は封建荘園制の時代ですから、領地が広ければ、それだけで即収入の増加につながりますし、神聖ローマ皇帝の影響力の衰退が著しく、フランスを抑えれば更にその先のドイツまで影響力を広げることができるかも知れない、名目上、神聖ローマ皇帝に従っているネーデルランドも抑えることができるかも知れないという壮大な男のロマンみたいなものがエドワード3世の心中に芽生えたかも知れず、またヨーロッパ域内での交易は盛んになって来ていましたから、広大なエリアを抑えることができれば、市場の獲得につながる、即ち、19世紀に盛んになったヨーロッパの帝国主義みたいなことをヨーロッパ域内でやれるといううまみもエドワード3世の頭に浮かんだことは想像に難くありません。

このような英国王の一方的な欲望から始まった英仏百年戦争ですが、初期に於いてはイギリス側が圧倒的な勝利を得ます。もともと英国王はノルマン朝が英国王の称号を持ちながら、フランスにも所領を持ち、フランスではフランス国王に対して臣下の例をとるという複雑な立場になって以来、フランスの所領を保つという立場を一貫させており「いずれは英仏一君王国を」という空気もあったものと思われます。英国のエドワード黒太子が率いる英国軍は強く、フランス王家は存在はしても実際的な影響力を失う事態に陥り、フランス王国は事実上の崩壊状態に突入します。

1420年トロワ条約が結ばれ、当時のフランス国王シャルル6世は、イングランド王ヘンリー5世とその子孫にフランス国王の座を継承させると約束することになり、1422年のシャルル6世が亡くなった後、イギリス・フランス二重王国、一君連合が発足する運びになり、ヘンリー6世が二重王国の王として君臨することになりましたが、そもそもフランス国内で支持を得られず、ヨーロッパ社会全体でほとんど支持を得ることができず、フランス国内に於ける英米双方の戦いが延々と続くことになってしまいます。

このように泥沼化した状態に風穴を開けたのがジャンヌダルクです。彼女はシャルル7世に忠誠を誓い、彼のフランス国王即位を実現させるために奮闘します。有名なものはオルレアン解放戦であり、それまでどうにもならなかった、諦めモードだったフランス軍が一機に活発さを取り戻し、イギリス側を押し返していくという展開になります。シャルル7世はフランス王になるための戴冠式を無事済ませ、英仏一君連合状態は解消されます。しかしながら、その後、ジャンヌはコンピエーニュの戦いでブルゴーニュ兵に捕らえられ、イングランドに引き渡されて異端審問にかけられ、紆余曲折を経て火刑に処せられてしまいます。コンピエーニュの戦いでブルゴーニュ兵がイングランド軍に協力していたことや、それに先立って行われたフランス軍によるパリ包囲戦では、イギリス軍とパリ市民が協力してフランス軍を撃退した場面もあったことから、当時はまだ現代のようなナショナリズムがフランスでは確立されていなかったであろうことが見て取れます。各地で衆参離合、合従連衡が行われていたわけです。

そうは言ってもフランス王シャルル7世の勢いが止まらず、ジャンヌダルクの救出はできませんでしたが(救出しなかった?)、イングランド軍を大体撃退し、百年戦争は終結します。

その後、イングランド国内では薔薇戦争が勃発し、まあ、ヨーロッパ大陸からは手を引いて、イングランド王はブリテン島内部のことに関心を持つようになり、むしろスコットランドやアイルランドの方へと矛先を向けて行くことになりますので、イギリスのEU離脱の時にも、イギリスはヨーロッパか否かのような議論がありましたが、これを境にイギリス人は心理的にも地理的にも大陸とは一線を引いた歴史を歩んで行くことになります。一方で、フランスでは強力な王権が誕生し、大陸内での影響力の拡張を図るようになり、現代に至る大国としての第一歩を歩み出すことになっていきます。