『エリザベス ゴールデンエイジ』の大人の女性のやたら強運なことと生きる覚悟

強運であることは、人生の成功に必要なことです。果たしてどうすれば強運が得られるかは誰もが日々探求することの一つではないかと思います。

『エリザベス ゴールデンエイジ』を観ると強運は勝手についてくるもので、努力とか人間性とかは関係ないのではないかとふと思ってしまいます。『エリザベス』では若い娘さんだったエリザベスI世は続編のこの映画で、大人の見事な政治家に成長しています。素晴らしい頭脳と豪胆さで難局を乗り切ります。

しかし、観れば観るほど気づくのは、その強運です。暗殺されそうになります。助かります。反逆されそうになります。摘発します。スペインが無敵艦隊で攻めてきます。勝ちます。それらの勝利に本人の努力は関係ありません。暗殺されそうになった時は、犯人の気まぐれで運よく助かります。スコットランドのメアリー女王の謀反は側近が見破ります。スペインの無敵艦隊を撃滅したのは本人ではなく部下です。そのような視点から観ると、運が味方しているからこそいろいろな難局を乗り越え、人生が切り開かれていくことが分かります。

え…そしたら、運を良くしたいと思えばどうすればいいの…?と私たちはため息をつくしかありません。

とはいえ、この映画では強運のヒントも観客に与えてくれるように思います。それは恐怖心に捉われないことです。暗殺されそうになったら騒ぎ立てず、来るなら来いと構えます。無敵艦隊が攻めて来たときに兵隊を奮い立たせるスピーチをします。そういう時に人心を掴むためには自分の安全を気にし過ぎないことが必要です。自分も一緒に死ぬ覚悟だと伝えるためには、逃げ道を絶つ覚悟が必要です。本当に死ぬ覚悟を持たなくてはそういう時にスピーチできません。

そのように思えば、大事なところで逃げない覚悟、いつが大事な場面なのかを見極める聡明さの両方がなくてはいけないということに気づきます。覚悟があれば聡明になります。ということは結局は胆力ということに集約されそうな気もします。スペイン艦隊が攻めてくる不安に押しつぶされそうな時、星占い博士の言葉でエリザベスは勇気づけられます。必要な時に必要なことを言ってくれる友人なりブレインがいるということも、大切な条件なのかも知れません。人を見る目も大切です。無敵艦隊が焼き討ちで滅びる様子を陸からエリザベスが見る姿はカタルシスに満ちています。形勢を逆転させ重圧から解放される、助かったという安堵、奇跡が起きたことへの感謝に溢れています。スペインの側に立てば不愉快だと思いますが、そんなことは考えずにエリザベスの側に立って観れば感動します。

全てが強運と胆力によってうまくいっているように見えますが、一つだけどうしてもうまくいかないことがあります。男性との恋愛がうまくいきません。第一作では元恋人に裏切られます。続編のゴールデンエイジではアメリカ大陸を探検する男に恋をしますが、彼はエリザベスの侍女と結婚してしまいます。眉毛が濃くて髭をそらずに色黒なので、男の目から見ると暑苦しいです。ですが、こういうタイプがもてるのかと思うと、私も見習わなくてはいけないかも知れません。うまくやらないとたんに暑苦しいのだけなので自分に合わないスタイルなら諦めた方がいいかも知れません。

エリザベスは政治家としては素晴らしい歴史的な成功を収めたとしても、一人の女性としては成功できなかったという言い方もできるかも知れません。そこに空虚が入り込んできます。しかし、そのようにして運命のバランスがとられていると見ることもできますし、政治家としては成功しても恋愛運には恵まれないということを受け入れることが人生をうまく回していく極意なのではないかという気もします。生きていれば嫉妬もします。落胆もします。不安で押しつぶされそうになる時もあります。狂喜乱舞する時もあります。この映画ではエリザベスが一人で観客の人生が投影できるようになっていると私は思います。観る人がそれぞれに自分の不安や苦しみや生きる喜びをエリザベスに投影できます。この映画を作った人はただものではありません。

この映画を観て運勢について考え、自分の生き方を省みることも有意義なのではないかと思います。

完全についでの話ですが、イングランドに攻めてくるスペインのフェリペII世が登場する場面はなんとなく手抜きです。一方でスコットランドのメアリー女王が処刑される場面は涙が出そうになるほど荘厳で作り込まれています。メアリー女王の処刑は日本で言えば大坂夏の陣の秀頼と淀殿と同じくらいにイギリスでよく語られる悲劇ですので、どこからも異議が出ないようにと特にエネルギーそ注いで作られたのかも知れません。

スポンサーリンク

関連記事
映画『エリザベス』の戦う女性の成長と演説力

映画『エリザベス』の戦う女性の成長と演説力

イギリス映画の『エリザベス』は、ケイトブランシェットが主演し、深い歴史考証とリアリティの宿ったディテールなどで世界的に高い評価を得た映画です。

私も何十回も観ましたが、何度観ても飽きません。時代は16世紀の終わりごろです。日本では信長の時代です。イギリス王ヘンリー8世がローマカトリックから独立した英国教会を立ち上げ、イギリス国内は新教と旧教の間で血で血を洗う争いになっています。ヘンリー8世の娘のエリザベスは、王位継承権争いと宗教争いの両方の煽りを受け一度はロンドン塔に収監されますが、カトリック教徒のメアリー女王が亡くなったことで王位に就きます。スコットランドにも王位継承権を持つ者がいます。スコットランドのバックにフランスがいます。血縁と宗派で人間関係が複雑に入り組んでいて、誰がどういう順番で王位継承権を持っていて、なんでフランスが絡んでくるのか、調べれば調べるほどよく分からなくなってきます。保元の乱みたいです。

いずれにせよ、エリザベスは王位に就いた後も各方面から反発を受け、命を狙われます。議会にはノーフォーク公があわよくば自分が権力者になろうとしています。国内のカトリックの偉い大司教様もいらっしゃいます。フランス王にもスペイン王にもスコットランドもそれぞれに動機があります。イギリスのEU離脱騒動はこの辺まで絡んでくるので根が深いです。何百年も前のことが未だに影響しています。

この時代、イギリスはまだ強くありません。当時、最も成功しているヨーロッパの国はスペインで、世界の中心はトルコです。イギリスは辺境です。他の国に頭を下げなくては独立を保つことができません。強い国の王家の人と結婚して半分属国みたいにしないといけないというプレッシャーがかかってきます。当時はまだ政治は男性がするものという意識が強いです。女性が政治をすることへの反発もあります。

エリザベスはまず国内の議会を説得します。演説がうまいです。演説の練習をする場面が出てきます。ユーモアと反対者にとっての都合の悪い事実関係を織り交ぜて議論を自分にとって有利な方へと導いてきます。口八丁かというとそういうわけでもありません。常に誠実に自分の考えを言葉に出そうとしています。ただ、相手に伝わる言葉を選ぶために慎重に言葉を選びます。論的からいろいろ言われてさっと切り替えすのは天性の強さです。自分が有利になるために偽りを言うはないです。頭に来たら頭に来たと言います。感情を隠しません。自分に対して正直でいつつ、論敵、政敵、外敵と渡り合います。

王位に就いたばかりのころはまだまだ子供な感じです。戦争したり暗殺されかけたりを繰り返すうちにだんだん強くなっていきます。成長していきます。表情に変化が出てきます。大人の顔になっていきます。強さが出てきます。よくもこんな演技ができるものです。凄いとしか言えません。映画の最後はゴッドファーザー的解決で外敵政敵論敵を一掃します。観客はカタルシスを感じます。外敵の代表はローマ法王庁からエリザベス暗殺の目的で派遣されてきた修道士です。007のダニエルクレイグがその役をしています。この映画の時はまだまだ若いです。007シリーズのダニエルクレイグと比べると、この映画ではまだまだ子どもの顔をしています。今の方がかっこいいです。自分の鍛え方はんぱないのです。きっと。見習わなくてはいけません。

当時、イタリアはすでにルネッサンスですが、イギリスはまだまだ中世です。中世の終わりかけです。映画の雰囲気づくりが半端ないです。それぞれのワンショットが美術館の絵みたいです。中世のイギリスってこんな感じだったんだろうなぁとただただ感嘆するだけです。イシグロカズオさんの『忘れられた巨人』みたいな世界の延長みたいな感じです。役者さんたちの目の演技がいいです。目は口ほどのモノを言います。一瞬の目の動きで多くのことを語っています。一度か二度観ただけでは全部に気づくことはできません。ノーフォーク公に送り込まれた女スパイの目の動きに何度目かに観たときに気づきます。気づくと見事です。はっきりと、気づいた人にはしっかりと分かるように作られています。何十回観た後でも、演出の全てに気づいているかと問われれば不安です。まだまだ気づいていないディテールがあるに違いありません。

スポンサーリンク

関連記事
『エリザベス ゴールデンエイジ』の大人の女性のやたら強運なことと生きる覚悟

『博士の異常な愛情』のアイロニーを解読する

『博士の以上な愛情―或いは私は如何にして心配することを止め水爆を愛するようになったか』は、どんな内容の映画かということについては大変知られていることだと思います。

アメリカ軍の空軍基地司令官が共産主義の陰謀論を自分の頭の中で妄想し、先手必勝を確信し、独断でソ連周辺を飛び回っている爆撃機に水爆の投下を命じます。冷戦の時代です。キューバ危機とかあった時代です。一瞬でもそういう妄想が頭に浮かぶ人が多い時代です。通常、核攻撃を大統領の命令なしにできるはずはありません。しかし、この映画では命令系統の盲点をついて司令が独断でできるようになっています。アナログの時代ですので、今のデジタルの時代よりは盲点は多いかも知れません。とはいえ物語ですので、実際にそのようなことは起こり得ないと思いますし、実際に起こりませんでした。

むしろ関心を持ちたいのは、この映画に込められたアイロニーの数々です。注意深くみていくと、随所にアイロニーが散りばめられていることが分かります。というかアイロニー満載です。司令官の爆撃命令を受け取った爆撃機の機長は部下に「平然と水爆を落せるやつは人間じゃない」と話します。エノラゲイに対する暗然たる批判になっていることに気づきます。司令が自分の組み立てた妄想をイギリスから派遣されてきた副官に話します。司令はソフトマッチョな感じのするカウボーイ風のナイスガイです。監督は冷笑的に「どんな人間が戦争を起こすのか」を観客に問いかけています。コカ・コーラの自動販売機が登場するのも何をかいわんやというところです。私はコカ・コーラなしでは生きていけない人間ですが、その自動販売機の登場に、監督の言いたいことが入っています。あまりに直接的すぎて、ここで書くのは憚られるほど明確です。

ソビエト連邦が、もし先制攻撃を受けたときのための備えとして死の灰と放射線で全人類を滅亡させる「皆殺し装置」を開発しており、不幸にして爆撃機がソビエト連邦への攻撃に成功してしまうため「皆殺し装置」が発動してしまいます。

ドクターストレンジラブがアイロニーの究極の存在です。元ナチスで、アメリカに帰化した彼は、科学技術の責任者としてアメリカ政府の高官になります。彼は「皆殺し装置」が発動されたことについて、大統領に対し、選ばれた者だけが地下に避難し、原子力でエネルギーを得て100年後の放射線の半減期まで耐え忍ぶよう提案します。核で世界と人類が滅びるというときに、やはり核で生き延びようとする逆説が生きています。

福島原子力発電所の事故が起きて以降、日本人は基本的には原子力発電に対して失望していると私は思います。一時的な使用はもしかするとありかも知れないですが、恒常的な使用はあり得ないと感じている人が多いと思います。50年も前に作られた映画ですが、311以前に観るのと、以降に観るのとでは感じ取れることも変わってくるような気がします。

これはもはや謎と言っていいですが、キューブリック監督はいったい何と戦っていたのだろうか…ということを私はしきりに考えます。推測するしかできませんが、他の作品も一緒に観ることで、おぼろげながら、その意図を知ることはできるかも知れません。とはいえ、それは、もはや個人のレベルでそれぞれに想像力をたくましくする他はないような気もします。

ついでになりますが、ピーターセラーズという役者さんが一人で三役こなしていて、それぞれに別人に見えるところがすごいです。大統領とドクターストレンジラブとイギリス人副官をこなしています。誰かに教えてもらえなければ、簡単には気づきません。ただ、個性が強いので一回目に観たときに「なんかあるな」くらいには気づくかも知れません。一回気づけば簡単にわかりますが…。

関連記事
『2001年宇宙の旅』のAI

スポンサーリンク