立花隆さんの著作は、『臨死体験』『サル学の現在』『死は怖くない』など、幾つか拝読したことがあります。立花さんは脳の機能に関する最新の研究をフォローすることで、死とは何かを説明しようと試みているわけですが、臨死体験に関する取材を通じて、立花さんの解答に辿り着いていらっしゃるようです。
まず、臨死体験とは何かを一応、押さえておきたいと思います。人が心肺停止などの状態に陥ると、通常は脳に酸素が届かなくなり、死に至ります。しかし、時々、ぎりぎりのところで心肺の活動が再開し、生還する人がいます。最近は救急医療の技術が発達していることで、そういう人の数が増えているらしいです。そのような人たちが心肺停止をしていた間、共通してある種の夢のような現象を視覚的に体験することが分かっており、これを一般に臨死体験と呼ぶわけですが、有名な話なので私が細かく述べる必要もないのですが、まず目の前に川があり、それを超えるとそれは美しい野原があって、お花が一面に咲いていて、気分もよく、幸福感に包まれて、前へ前へ進んでいくといずれかの段階で、過去に亡くなった親族や知人が現れたり、親族でも知人でもないけれど、すっごい崇高な存在に出会ったりします。臨死体験をした人は神に出会ったと表現する人もいるようです。そういった死んだおばあちゃんや神か天使か分からないsomething greatみたいな存在に、お前はまだ早いから帰りなさいと言われて引き返したところで意識が戻るというパターンが一般的で、他には途中で門があり、鬼か悪魔か分からない門番みたいな人がいて「あんたがこの門をくぐるのはまだ早い」と追い返されて意識が戻るというケースも少なくないようです。
最初の川はまさしく我々が一般的に言うところの三途の川に相当するものと言え、古来、人々がそういったものが存在すると認識していた証のようなものとも思えますが、臨死体験中にイエスキリストに出会う場合もあれば、ご先祖様に出会う場合もあるため、ある程度の文化的差異というものが存在するのではないかとも考えられています。もし、臨死体験に文化的差異が影響しているとすれば、文化的差異とは生きている間に教育されたりして会得するものなわけですから、真実に「あの世」に行ったというわけではないという結論に必然的に辿り着かざるを得ません。即ち、臨死体験という現象が実際に存在するからと言って、死後の世界が本当にあるとは断言することはできないわけです。
そのため、立花さんは世界中の脳科学の学者に取材したりすることを続けることで、臨死体験は物理的に説明可能なものであるとの結論に至ります。臨死体験は神秘体験でもなんでもなく、唯物論的に説明できるというわけです。マウスを使った実験により、生き物が真実に死を迎える直前に脳が激しく活動し、その後、完全に死に至るという現象が観測されたことから、臨死体験もまた、そのようなものなのではないか、いよいよ真実に生命が失われるという時になって、幸福な感覚で死んでいけるというシステムが人間に備わっているのではないかというわけです。そこから先、生物が完全に死んだ後、果たして本当にあの世があるのかどうかについては、死んでみなければ分からない領域に入ってしまうことになり、門番に入っていいよと言われて入った後、どうなるかは、どんなにがんばって知恵を絞り、観察を続け、ケーススタディを積み重ねてもやっぱり分からないという結論に至らざるを得なくなります。
しかしながら、それらの取材を通じて立花さんは死が怖くなくなったと言います。真実に死んだ後、仮に唯物論的な人間観が正しく、自分が消えて無くなるにせよ、自分が消滅するその瞬間は、生きているときでは味わうことができないほどの素晴らしく、美しく、崇高で、幸福なものであるに違いないのであれば、本当に自分が消えて無くなったら何も分からなくなるのだから、そこは心配する必要はなく、人生最後の幸福な経験を楽しもうくらいの感覚でいいのではないかくらいに立花さんは考えているようです。立花さんの著作を読むと、その瞬間を楽しみにしているようにすら思えなくもありません。また、時間的感覚というのは主観的なものですから、村上春樹さんの『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』のように、客観的物理的な死が訪れ、肉体が消滅するとしても、主観的時間感覚は1000年でも持続可能、ほぼ永久に無限に自分の存在を感じることは可能であるとも推測することができるため、客観的には死んだとしても主観的には不死であると考えることすら不可能ではありません。
しかしながら、立花さんは1つだけ条件をつけています。幸福な臨死体験をするためには、死の床の環境が良くなくてはいけないというのです。たとえば寒いところで倒れていたら、極寒の臨死体験をしたという事例があるため、暑いところで倒れてしまえば灼熱の臨死体験をする可能性もあり、事故などで即死の場合は臨死体験そのものが断絶されてしまう恐れもあり、暑くもなく寒くもない環境で安楽に死んでいけることが肝要であるとのことらしいです。
もっとも、個人的にはマッチ売りの少女や、イエスキリストの最期の瞬間を題材にした『最後の誘惑』という映画のように、如何に過酷な環境であったとしても、幸福感や主観的時間の変化というものはあり得るとも思えますから、いわゆる「畳の上で死ぬ」ということにそこまで固執しなくてもいいかも知れません。『戦場のメリークリスマス』でジャックセリアズ少佐が日本軍の虐待を受け死んでいくとき、過去に裏切ったことでうしろめたさを感じている相手である弟がセリアズ少佐の前に現れ、自宅へと招きますが、これも少佐の臨死体験ということになるのかも知れません。とはいえ立花さんの考えの方が正しい可能性もありますから、もし、死ぬのなら、自宅のベッドの上で眠るようにというのが理想的とも思えます。
最後に、もう一つ、欠くことのできない重要な議論があります。過去、臨死体験した人々によって語り継がれた三途の川や神や天使が脳の機能によって説明できるとすれば、神や仏は本当に存在しないのかという疑問が残ります。唯物論で「そんなものは存在しない」と押し切ることももちろんできますし、釈迦の教えの場合であれば、エネルギー不滅の法則には人間の魂というエネルギーも含まれるのだから、死ねば即輪廻転生ということも、ロジックとして成立しないわけではありません。もちろん、検証不可能なことですが、立花さんは、臨死体験が脳科学によって説明できるとしても、宗教を否定することはできないと結論しています。なぜなら、人間が死ぬときに、そのような幸福な体験をしなければならない合理的説明は存在せず、そのような安らかな死が与えられるように生まれた時からプログラムされているとすれば、そのプログラムがあるということ事態が、神のなせる業であるかも知れず、それを否定する材料は一切ないからということになります。
まあ、いろいろあるとしても死んでみなければわかりませんし、人は必ず死ぬわけですから、死んだ後のことは心配せずに、今を懸命に生きるということに尽きるかも知れません。
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