アメリカ映画『ウィンド・リバー』の問題意識

アメリカ映画、『ウインド・リバー』はカンヌ映画祭で「ある視点」賞を獲得している。ある視点ってどういう意味?とちょっと戸惑うのだが、内容と背景を知れば、なるほどそういうことかと理解できる。ネタバレするのでご注意ありたし。

アメリカは世界中のいろいろな民族や人種が暮らしているが、その中でちょっと特殊な立ち位置にいるのがネイティブ・アメリカンと呼ばれる人々だ。何が特殊なのかというと、アメリカ合衆国の法への忠誠心や敬意の持ち方についてちょっと違うことが認められている人々だと言い換えてもいい。普通、大抵のアメリカ人は辿ればヨーロッパなりアジアなりアフリカなりから渡ってきたか連れて来られた人々になるわけだが、彼らが共通して求められることはアメリカ連邦の法への忠誠心を持ち、それに対して敬意を払うことだ。アメリカ合衆国憲法はアメリカそのもの、即ちアメリカの国体みたいなものなので、徹底的に教育されるし、新しい移民にも憲法への理解が要求される。憲法を理解せずにアメリカ人になることはできない。

しかし、例外的な人々も存在する。ネイティブ・アメリカンと呼ばれる人々だ。彼らはイギリスからアングロ・サクソンがやってくる前からアメリカ大陸で暮らしていた。先住権は彼らにあり、従って、移民と同じ扱いを受けてもらうわけにはいかない。もともと、彼らには彼らの法がある。そういうわけでネイティブ・アメリカンの人々は自治区で暮らすことができる。たとえば日本人移民が自治区とか作ったら大正時代の排日移民法みたいな話になって大問題になるに違いないわけで、そのように考えるとネイティブ・アメリカンの特殊な立ち位置が理解できるだろう。アングロ・サクソンやフリーメイソンが持ち込んだ連邦の法に従う義理はないので、自治区内である程度、自分たちらしい生活が送れるようになっている。

だが、はっきり言えば、そうなっているはずだと言う方が正しいかも知れない。

たとえばこの映画のウインド・リバーという土地では、鹿児島県くらいの広さの土地に警察官は6人しかいない。事実上、地元の警察は無力だ。ネイティブ・アメリカンには当然、部族の掟みたいなものがあるはずだが、生活が基本的に西洋化してしまっている現代で、掟なるものがどの程度機能するかは甚だ疑わしい。

従って、ネイティブ・アメリカンの自治区はアメリカの中で見捨てられた、忘れられてしまった土地になってしまっている感がある。連邦の法にも見捨てられ、経済発展の恩恵にも浴さず、広大な原野の中でどうにか死なない程度に日々を送っている。犯罪の温床になりやすい。

この映画では、ドラッグに溺れる若者や、見捨てられた土地で働くモラルを忘れた白人、性的な暴行被害に遭い命を落とすネイティブ・アメリカンの少女などが登場する。問題意識は明らかだ。この見捨てられた人々がいることを、観客は忘れているのではありませんか?ということだ。

ドラッグに溺れる若者は、アメリカン・ビューティの若者みたいにファッション性があるからドラッグをするわけではない。他に自分の魂を救済する手段がないのでドラッグに走る。永遠に報われることのない土地で、彼らには希望がない。ドラッグは悪いことだが、果たしてそれは若者が悪いのか?との問いかけがなされる。

ネイティブ・アメリカンの少女の不審死の報を受けてFBIの女捜査官が派遣されるが、アメリカ文明を代表するはずの彼女はブリザードの吹きすさぶ北アメリカ大陸の原野の真ん中でなすすべを知らない。周囲の助けがなければ何もできないばかりか、捜査で気を抜けば、自分が命を落としかねない。

ネイティブ・アメリカンの少女を死に追い込んだのは、モラルをなくした白人の男どもで、全く正当化できないが、このような原野の中であれば、ばれないから、どうせアメリカ連邦の法律はそこまで効力がないからと思い、やってしまうのかも知れない。

アメリカは自助努力の価値を信じている人々の集まりだ。しかし先に述べたようにネイティブ・アメリカンの自治区はその例外的な立ち位置にあり、自治の美名のっもと、犯罪被害が救済されにくい、犯罪の温床になりかねず、対処が求められる。そういう問題意識を持った映画だった。なかなか大変なテーマを扱っているので、かくあるべしと言うことはできないが、このような問題意識に触れることは大切なことだ。困っている人を助けるためのきっかけになるかも知れないし、自分が他人を傷つけないことへの誓いを新たにすることもできるだろう。

さようなら、ファーストフード

ニューヨークの新感覚で生きる男性が、一か月の間、マクドナルドの商品だけを食べ続けるとどうなるかという実験的な生活を試みた『スーパーサイズ・ミー』は、多くの人に衝撃を与えた話題作であったに違いない。私も一度みてみたいと思っていた作品なのだが、最近、アマゾンプライムビデオで観たので、ここで簡単に内容をシェアしてみたい。

この作品では、フィルム制作者の男性が自ら出演し、一か月の間、マクドナルドの食事だけで過ごすと誓いを立て、マクドナルドの体への影響がいかなるものかを検証するために、無用な運動を避け、徒歩もなるべく避けて、タクシーを使うように心がけ、もし、マックの店員さんから「スーパーサイズにしますか?」と質問された場合は、かならずスーパーサイズで出してもらうというルールを決めて実行している。アメリカのマックのスーパーサイズである。日本ではとてもお目にかかれない超巨大な食べ物なのだが、それを男性がばかばかと食いまくる映像が続く。当初は気持ち悪くて嘔吐することすらあったが、だんだん慣れてきて、マックの食品に快感を感じるようになり、ついにはマックなしではいられない体になり、結構やせ型だったのにしっかり中年太りになって一か月が終了する。マックの超特大を食べ続けたら、自分のお腹も超特大になっちゃったというわけである。マックがいかに健康に悪いかを証明したフィルムとして名高い作品なのだが、私はマックが嫌いとかそういうわけでもないし、マックを憎んでいるわけでもないので、一応軽くマックを弁護しておいてあげたい。

当該男性の主張するように、マックが太りやすいことには異論はない。また執拗に行われる刷り込み的広告宣伝によって巨大マクドナルド資本が人々から健康とお金を吸い上げていることも事実であろう。しかし、男性は運動しない、歩かない、なるべく超特大にするという、マックサイドが想定していない要素を入れ込んで実験が行われている。運動しなかったことの結果までマックが引き受けなければならないとすれば、それはマックがかわいそうというものである。また、男性の彼女も作品に登場するのだが、若くてびっくりするほど美しい女性で且つビーガンなのだが、作品の中で肉よりドラッグと言い切っている。肉を食べると幸福感を得られるが、肉は体に悪いので、ドラッグで幸福感を得た方がいいというわけだ。あれ?なんか話が違う方向に…と思わなくもない。私は今、ビーガン的生活に憧れて努力中なのだが、ビーガン的生活を追求する際に支障となるのは、いかにして幸福感を得るかという問題であり、タバコもお酒もやめた今、わりとこれは深刻な問題になりつつあって、時間をかければ克服できるとは信じているが、先輩ビーガンは実はドラッグで補っていたとすれば結構ショックである。これについては私なりにまた考えて、自分流の克服法を確立したいとは思っているが、いずれにせよドラッグに頼らない解決を模索しなくてはならない。ドラッグ大国のアメリカ人がどう思うかは知ったことではないが、普通の感覚を持つ日本人なら、ドラッグ依存症とマック依存症のどちらかを選ぶとすればマック依存症を選ぶに違いない。だって、ドラッグは違法なんだから。

マクドナルドがアメリカのクリエイターとか、アーティストとかといった人たちからいかに憎まれているかを知るために、もう一つ映画作品を挙げておきたい『ファウンダー』という作品で、やはりアマゾンプライムビデオで観た。アメリカの地方都市でがんばるマクドナルド兄弟が確立したファーストフード店の権利を乗っ取った男がマクドナルドのファウンダー(創設者)を名乗ってバリバリ仕事をして大金を稼ぎ、糟糠の妻を捨てて他人の奥さんを奪って再婚し、人生勝ち組わっはっはで終わる作品で、観ている側としてはなぜこんな中年おじさんのサクセスストーリーを見なくてはならなかったのかと釈然としない気持ちが湧いてきて、消化不良のまま映画が終わるのだが、このような作品がまかり通るのも、要するにマックのような巨大資本は、この映画の主人公のようないけすかない嫌味なおじさんがみんなからお金を吸い取るためにやっているんですよというメッセージが込められているというわけだ。ハリウッドらしいわかりやすい作品であると言える。

私はハリウッドのお先棒を担ぐつもりはないし、ハリウッドも巨大資本なのでは?という疑問も湧くし、巨大資本=悪とも言えないと思うし…といろいろと気持ちがぐちゃっとなってしまうのだが、そういったこととは関係なく、私はそろそろファーストフードを卒業したいと真剣に考えている。それはマックが悪いのではなくて、私が新しい自分になるための方向性としてビーガンを選ぼうと考え始めているということだ。もちろん、完全なビーガンは私には無理だ。魚、卵、牛乳、チーズ、ヨーグルトをやめる自信はない。魚をやめないのだからベジタリアンとしても失格であり、肉をなんとか近い将来やめられるかどうか…という意思薄弱な頼りないビーガン志望者である。

マクドナルドのバーガーがどんなものでできているかを考えてみよう。まずパンである。パンは普遍的な食品で、特に問題はない。そしてハンバーグなのだが、肉はビーガン志望とかでない限り悪い食材ではなく、場合によっては美容と健康のために必須であると語られることもある食材だ。そしてレタス。レタスがだめだという人はいないだろう。ピクルスも同様である。チーズも挟まっているが、チーズが体に悪いとか聞いたことがない。ということは、マックの看板商品であるハンバーガーはむしろいい食事だと言うことすらできるかも知れない。でも私は卒業しようと思っている。

以上までに諸事情をつらつらと書いてはみたのだが、どうしてそこまでファーストフードから脱しようと思っているのかについて述べたい。肉には依存性がある。パンにも依存性がある。私はそういった依存を減らしていきたいと思っている。お酒とかたばこからの依存からは脱することができた。そういった依存から脱することができるのは実にいい気持ちだ。引き続き肉や糖質への依存からも脱却してみたいと思うようになっていて、その先にある新しい地平を今は見てみたいという好奇心がうずくのである。繰り返すがマックは悪くない。私がマックを卒業するのである。あ、最後に湘南台のバーガーキングへ行っておいた方が思い残しがなくていいかも知れない。私は何を言っているのか…タバコもお酒もやめていくと甘いものがほしくなるので脱糖質がうまくいかなくなり矛盾が生じ、葛藤が生まれる。なかなか難しい問題で、今もいろいろ手探りなのだが、ある程度時間が経てば再びタバコを吸いたいとか思わなくなるので、一機に全部やめてしまうのではなく一つずつやめていくのが心身への負担も少なくていいかも知れない。最終的には魚と卵と牛乳をどうするかという問題に直面することになるとは思うが、それは数年後のことになるだろう。



アメリカ映画『アメリカン・ビューティー』に見る愛し方。愛され方。

中年夫婦がなんとか切り盛りする中流家庭は崩壊寸前であり、当事者、すなわち父・母・娘がもういいよねと合意した瞬間に家庭は崩壊し、麒麟・田村の『ホームレス中学生のような』な状態に一瞬にしてなりかねないところからスタートしている。その過程に於いて、旦那は一年間のサラリーだけは獲得したので、破綻はちょっと先のばしに成功した。そして娘の同級生をものにするというアホな妄想を現実にすべく努力を開始した。奥さんは沈む船から逃げ出すために、新しいボーイフレンドとしてやりて不動産営業男をベッドイン。娘はやり手のドラッグの売人とニューヨークへ脱出するというなかなか思い切った手段を模索するようになった。で、なんでこんなことになっちゃったの?と言いたくなるが、よく見ていれば、そうなる気持ちも分かるわなあとも思えてくる。

いくつくあのカップルが付き合いかけてハッピーになり、そうでないのもいるというので、そのあたり、ちょっと詳しく、「愛とは」の入り口まで語れるかどうかやってみたい。

まず一番情けないおやじなのだが、家族に見捨てられていることを承知しているうえに、会社からも見捨てられ、誰にも愛されない私になってしまっている。しかも彼は娘の友達が遊びに来ているのをこっそり盗聴するのだが、なんと当該の友達は「あなたの父親って素敵ね。あれでもう少し筋肉があったらやっちゃうかも」を真に受けて筋トレに励むのである。娘の友達のジョークを真に受けて筋トレする悲しき中年男の姿がそこにある。

奥さんの方は、なんとしても不動産を売って見せる、不動産を売って、成功者と呼ばれる人たちの一部になってみせると努力に努力を重ねるが、なかなかそうもいかなくてすっかり落ち込み気味だ。そして不動産王と周囲から尊敬される凄腕不動産バイヤーの男に近づき、ついにそういう関係になるのである。ここで二人の様子からなぜ彼と彼女はそういう関係にあんったかを少し考えてみたい。行為の最中男は「俺こそは不動産キングだ」と何度も叫ぶ。彼は相手を愛してはいない。彼は性行為中に叫ぶことによって自分とは何かを再確認しようとしており、最高位の相手をそのために利用している。一方の女性はどうだろうか。夫との性交渉はすっかり失われており、欲求不満で満ち満ちている。言い方は悪いが誰でもいいからやっちゃって状態になっており、終わった後もあーこれで私欲求不満が解消できて最高~~という風にご満悦という流れになる。もちろん、この女も男を愛してはいない。

一方で、これは愛によって結ばれているのではないかと考えさせられる二人がいる。この夫婦の娘と、隣に引っ越してきた退役軍人の息子さんだ。父親の暴力は激しく、お母さんは頭がダメになってしまった感じなのだが、こわーい海軍の人なので、ご機嫌斜めにならないように周囲はいつも緊張しなくてはいけないが、それでも、抜け穴はある。そこの息子さんはプロの薬の売人なので、隣の堕落した父親を客にして、ドラッグを売るのである。海軍の父親はその様子を二階の窓から見ている。そして、窓からチラチラ見える様子から「あの二人は同性愛を楽しんでいるに違いない」という全くの桁外れな結論に達し、隣の家に忍び込み、隣の堕落した中年パパとキスするのだが、堕落した中年パパ「あ、あの、間違ってます。私は、そういうわけではないんです・・・・」というので、海軍さんは諦めて帰っていく。ここまでくると海軍さんの妻で、売人の息子の母のあの女性が頭がちょっとダメになってしまっている理由も分からなくもない。海軍さんの妻だけど、全然そういう行為がなくて、おかしくなってしまったのだ。そして社会的地位はあるから体面はと待たなくてはいけない。繰り返しになるが、それでおかしくなってしまったのだと思う。
で、このドラッグを売っている息子さんが、隣の娘さん、ようるすに堕落してしまった中年男に恋をして、二人は少しづつ心を近づけあい、やがて、ピュアな恋を互いに確認する。この映画の中で唯一美しい場面のようなものなのだ。二人は取り巻く環境がなにもかも嫌になってニューヨークへと向かう。売人だけに金はあるし、頼れる人もいるらしい。

さて、幾つかの人間の了解されなければならないところが出尽くしたある日、物語は瞬間に終わる。その日の午後、堕落した中年男はバーガー屋さんで働いていて、そこへ彼の妻と、彼女の不倫相手の男性がスポーツカーみたいなのでドライブスルーにやってくる。不倫発覚というわけである。全財産は奪われ、子どもには会えない….下手すれば人生これでおしまいである。信用大事の不動産を売り続けることができるかどうか…

その日の夜は忙しい。毎日筋トレをして自分を鍛えていた堕落した中年男はなかなか引き締まった肉体を手にしており、自分の娘のところに泊まりに来た、お目当てのスクールガールといい雰囲気になる。互いに欲望とメンツを満たすためだけの行為が行われようとしていたのだが、女性の方が「私、初めてなの。下手だと思われたくないから、先に伝えようと思って..」で、男は素に戻り、僕はとってもラッキーな男だと言い残して自室に入り込み、家族の写真とかを見て過ごす。あるいはこの男の更生の可能性を暗示する場面かも知れないのだが、銃を隠し持った妻によって頭を撃ち抜かれ人生を終える。妻は不倫を知られた以上、自分が文無しになって路上に放り出されても誰も助けてはくれないとの分かっているため、だったら夫を殺してしまえば、離婚の裁判が開かれたないと考え、刑事事件の裁判になることの恐ろしさまで気が回らなかったのだろうとしか考えることができない。といいつつ、もう少し突き詰めてみると、実は妻は主人公の夫を愛していたのかもしれない。夫とセックスレスになったことが諸悪の根源であり、夫ときちんと行為が行われていれば不倫することもなく、大抵の問題が解決していた可能性は残されるようにも思える。そうでなければ、夫を殺害した後で、クローゼットの夫の大量のスーツに抱き着いて泣く場面が入り込む理由がない。

以前はアメリカの中産階級の崩壊というところに注意を向けて見ていましたが、今回はもう少し、いろいろな人の愛の表現方法みたいなことを考える材料になると思い、書いてみました。



ソフィア・コッポラ監督『ロスト・イン・トランスレーション』の、わりと共感してしまう恋

ビル・マーレイがアメリカ人俳優として日本のテレビcmに出演するために招待され、新宿あたりの超高級ホテルで中期的に滞在した時、同じホテルに若いアメリカ人の夫婦も滞在しており、ビル・マーレイと若い夫婦の奥さんとが微妙な関係になっていくという、一瞬、なにそれ…と思いそうだが実はわりと共感できる爽やかな内容になっている映画だと私には思えた。

若い夫婦の旦那は優秀なカメラマンで仕事のために日本の来たのだが、忙しくて奥さんはわりと放っておかれている。しかも旦那の知り合いのモデルみたいな女の人も同じホテルに宿泊していて、仲良くバーで飲んだりするけれど、奥さんとしてはちょっとおもしろくない。

一方、ビル・マーレイは大スターで、年齢的にもいい中年のおっさんなのだが、日本滞在がそんなに忙しいというわけでもなく、結果、若奥さんとビル・マーレイが一緒にあちこちででかけたりして、だんだん怪しい関係を予想させる展開になるのだが、両者は怪しい関係になることを選ばないというところが、好印象なのである。酔っぱらった若奥さんをベッドで寝かせた時、よっぽどいろいろ考えたけど、やっぱりやめておこうというビル・マーレイの態度に好感を持たない人はいないだろう。

で、ビル・マーレイがいよいよ日本を離れるという時になって、二人はホテルのロビーで握手をして別れる。空港までのハイヤーに乗っている途中、彼は若奥さんが都内を一人でぶらぶら歩いているのを見かけてしまい、車を一旦止めさせて、後ろから声をかける。二人は強く抱きしめ合い、キスをする。キス以上の関係にはならないのだが、両者はキス以上の愛情関係があることを確認し合い、満たされた心境で本当に別れるという流れになる。既婚者が配偶者以外とキスするのは本当だったらダメなのだが、それまでのギリギリ、もう一歩踏み出しそうで踏み出さないのをジリジリと見せられている観客としては、おー、そうか。そういう形で成就したのかと祝福したい心境になってしまい、ついつい共感してしまったのである。そういう恋は、ある。

東京が舞台で、日本人もいっぱい出てくるが、全てはこの二人のすれすれの恋のだしみたいな感じに使われており、別に日本を舞台にしなくてもいい内容なのだが、おそらくソフィア・コッポラが日本で遊んだ時によほど楽しかったのだろう。「東京ライフをパリピでリア充イエーイ」感があふれている。多分、ソフィア・コッポラが同じような感じで遊んだのがいい思い出になったに違いない。

私は東京が大好きだし、東京は楽しい場所だともちろん思うが、一点のみ、ソフィア・コッポラと私の間に東京の楽しみ方に関する認識の相違がある。私と彼女の間で認識の相違があるからと言って、誰にも問題はないのだが、一応、私が個人的に所有しているブログなので、認識の違いについて述べておきたい。ソフィア・コッポラの描いたパリピでリア充でセレブな東京生活は確かに楽しいに違いない。だが、私は言いたい。東京のいいところは、金がなくても楽しいという点だ。かつて世界一物価の高かった東京は、今や先進国では最も物価の安い都市であり、にもかかわらず、最も品質の良いものが手に入る都市であり、手に入らないものはない。つまり、東京は世界一コスパの良い国なのであって、安くておいしいもの、安くていいものが溢れている。そして日本人の所得水準は世界最高ではないが、今でも世界最高級だ。こんなに素晴らしいことはない。繰り返すが、東京は金がなくても楽しいところが魅力なのである。

さて、最後にもう一つ、ビル・マーレイについて少しだけ考えたい。中年男の鑑である。ゴーストバスターズで女子大生を誘惑しようと目論む科学者の役をしていたが、以前、テレビ局スタッフを口説き落とそうとやっきになるお天気レポーターの役をしている映画を観たことがある。そして、今回は若奥様とギリギリな恋をする。要するに恋愛が似合う中年男なのだ。恋が似合う中年男はこの世で最も魅力的な存在のように私には思える。見習いたい。



スピルバーグ監督『キャッチミーイフユーキャン』で思う、払うべきものはちゃんと払おう

スピルバーグ監督の映画は大体外さない。大体面白い。エンタテインメントと人間性へのメッセージが両方入っているので評価が極端に分かれることもないし、観れば必ず楽しめたと感じることができる。

で、『キャッチミーイフユーキャン』も面白かったのだが、私が考えたのは、デカプリオが演じている天才的な詐欺師とその父親の関係のことだった。映画の始まりの場面では、父親はロータリーのメンバーに選ばれて誇らしげにスピーチをする。「私はミルクをバターに変えた」と譬え、彼はミルクの中におぼれそうなほど絶望的な状態でもがき続け、その結果、よくかき混ぜられたミルクは固形のバターへと変化し、自分はおぼれずに立つことができたというわけだ。相当な苦労と努力をし、困難を克服した結果、彼はロータリーのメンバーという名誉を手に入れた。

しかし、妻は他の男のところへ行ってしまい、デカプリオの父親は失意に打ちのめされているにも関わらず税金を払わなくてはいけないことに頭に来て、税金を払うくらいなら逃げてやると決心し、逃げ続ける。デカプリオの父親は税務署から逃れるために職も居場所も転々とするが、実は税金さえ払ってしまえば人生をやり直すことができるかも知れないのに、彼は「税金だけは払ってやるものか」という執着心があるために人生をやり直す機会を自ら遠ざけているのだと私には感じられた。しかも税金は法律に従って払うべき市民としての義務であり、義務を果たすことが人生をやり直すための絶対的な条件なのだとこの映画では示唆されているように思える。

さて、デカプリオも喪失感は大きい。母親が別の男のもとへ去ったのである。そりゃ、喪失感は大きいだろう。しかも父親は税金逃れで逃走しているのだ。世の中に恨みや反発を感じる心情は理解できなくもない。で、たまたま彼はめちゃめちゃ頭が良かったので少しずつ詐欺の手法を覚え、偽の小切手を本物同様にゴート札みたいに量産し、口もうまけりゃ顔もいいので金も女も好きなだけ手に入れることに成功する。しかし彼の人生が真実に満たされるということはない。なぜなら彼が真実に求めていることは家庭的な愛情であり、そこが母親の出奔によって破壊されているので、どれだけ金を集めて女を集めても決定的な部分が癒えていかないし、それでもその虚しさから逃げるために彼はもっともっと派手に詐欺を続けていく。詐欺で得たお金はどれだけやってもあぶく銭であり、充実には近づかない。彼もまた、払うべきものを払わずに生きてやろうと決心した点では父親と共通していると言える。

ぐっと来るのは彼が捕まった後、偽造に精通した彼がFBIに協力することで市民生活を送ることを赦され、後には偽造防止の手法の知的財産を得てかなり高額な収入と自分の家庭を持つことができるようになったという結末である。彼はFBIに協力することを条件に懲役刑から逃れることができたが、少なくともFBIに協力するという代償を支払うことで詐欺を続ける必要がなくなり、逃げ回って虚しい贅沢をする代わりに家庭という彼が真実に求めていた愛情生活を得ることができたのだと言うことができるだろう。

これは私たちの人生にとっても教訓になる。税金に限らず、払うべきものを払ってこそ信用が得られる。そしてほしい物が手に入るように世界はできている。単に等価交換ということを言いたいのではなく、正当な努力と代償によって、自分の人生を得ることができるということをスピルバーグは言っているのではないかと私には思えた。

彼の父親がその後どうなったかについては映画では描かれていないので分からないが、多分、息子がいろいろなんとかしたのではないかと想像することはできる。父親も税金さえ払えば人生をきちんとやり直すことができるだろう。なぜそう言えるかというと、私自身が転職や病気などで人生を何度かやり直し、それでもこのような半端者が今、大学の非常勤でとにかく飯が食えるという程度にまではやってこれたので、人生は何度かはやり直しがきくものだし、実際に本気で取り組んでみれば実現可能なことはたくさんあるとしみじみと思うからだ(一度社会人になった者が大学院に戻って勉強し直して非常勤でもそういう方面の職に就けるのは奇跡的だし、非常勤だけでどうにか飯が食えるのはかなりの奇跡なのだ)。




スコセッシ監督『タクシードライバー』の運命の分かれ道

マーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』では、ニューヨークの若きタクシー運転手をロバート・デ・ニーロが演じている。デニーロは大統領選挙の候補者の事務所で働く女性をナンパし、デートに連れ出すことに成功するが、結局のところはフラれてしまい、自分がもてないことを世の中のせいにする、よくある若者のように銃を購入し、それを使用するチャンスを伺おうとする。そして一旦は彼をふった女性の勤務先の大統領選挙候補者の演説場所まで出かけるが、政治家のボディガードに目をつけられてしまい慌ててその場を逃走する。

このシークエンスと並行しつつ、デニーロと12歳の少女との出会いが進行していく。12歳の少女の役はジョディフォスターが演じていて、びっくりするくらいかわいいのだが、映画では家出した彼女は体を売ることで生計を立てており、彼女を買いたい場合は仲介人を通さなくてはならない。仲介人とそのボス、そして彼女の生活の場兼サービスの提供場であるホテルの経営者が絡んでおり、要するに彼女はそのような悪い奴らに食い物にされているという構図になる。

政治家の暗殺を諦めたデニーロはジョディフォスターを救出することに目標を変更し、仲介人とそのボス、そしてホテルの経営者を撃ち殺し、ジョディフォスターはめでたく実家へ帰ることになる。彼女の両親からはデニーロに感謝の手紙が届き、彼は3人も殺害しているにもかかわらず、少女を救出するという英雄的な動機による行動であることから免責され、以前と同様にタクシードライバーの職を続けるという流れになっている。

さて、ローティーンの少女を利用した管理売春はゆるされる行為ではない。まず管理売春がゆるされないし、ローティーンの少女にそれをやらせているということもゆるされない。当然、そんな奴らは罰せられなければならないと言えるだろう。だがここで、敢えて比較衡量してみたいのだが、果たしてローティーンの少女の管理売春を終わらせるという行為と3人の男に対する裁判なしのリンチ死刑はつり合いのとれるものだろうかということだ。感情的なことを言えば、家出娘を食い物にする3人の男たちが殺されても全く心は痛まない。よくやったデニーロということになるし、そういう前提で映画も作られている。しかし、ちょっと冷静になった場合、本当に3人も殺しておいて無罪放免でいいのかという疑問が私には残る。もちろん、映画に法理法論を持ち込んでも仕方がないので、飽くまでも考える材料としてではあるが。

あと疑問に残るのは、デニーロは闇の組織の人間を3人殺しているのだから、組織から報復を受けないのだろうかという疑問も私の内面では何度も浮上した。ニューヨークで以前の通りに生活していたら、殺されるのではないだろうか。

ついでに言うと、デニーロは3人殺した後にジョディフォスターの部屋で警察に発見されるのだが、破壊力の強いマグナムみたいなのを持ってローティーンの女の子の部屋にいる男であれば、問答無用で現場で警官に撃ち殺されるのではないだろうかという疑問も残るのである。

もちろん映画なので、そのような疑問を持つことにもしかするとあまり意味はないのかも知れない。だって映画なんだから。ではこの映画の一番の考えどころは何かと言えば、女性にフラれて世の中に恨みを持った男が銃を購入した後の、銃の使い道である。デニーロが最初に考えたことは政治家の暗殺だった。幸いなことにボディガードに目をつけられて現場を逃げ去るということで彼はそのような明白な犯罪を犯さずに済んだのである。もしボディガードがちょっと抜けているような場合であれば、彼はその犯行を成し遂げただろうし、その後は確実に逮捕されるかその場で撃ち殺されるかのどちらかになっていたはずである。繰り返しになるが彼は幸運にもその犯行に失敗し、次のターゲットとして選んだのがローティーンの少女を食い物にする悪いやつらで、デニーロは英雄になることができた。スコセッシ監督は禍福は糾える縄の如しというようなものを描きたかったのかも知れない。デニーロが犯罪者になるか英雄になるかは紙一重だったのである。突き詰めれば政治家のボディガードがたまたま優秀だったという一点にかかっていたとも言えるだろう。

ショーン・ペンの出ている『リチャード・ニクソン暗殺を企てた男』という映画と『タクシー・ドライバー』が私にはダブって見える。ショーン・ペンの場合、空港の職員が優秀ではなかったので銃を持ったまま飛行機に乗り込み、そこで犯行を犯した彼は撃ち殺されてしまう。デニーロがショーン・ペンみたいな末路を迎える可能性もあったわけで、私には『リチャード・ニクソン暗殺を企てた男』という映画は、『タクシー・ドライバー』のデニーロがもし途中で方向転換しなかったらどうなっていたかを描こうとしたのではないかという気がするのである。デニーロもショーン・ペンも人生が思うようにいかず世の中を恨んでいるという点で一致しているし、銃を手に入れて世の中に復讐してやろうと考えるところまでも一致している。しかし、ショーン・ペンの方は運悪く途中まで目論見通りに進んでしまったので撃ち殺され、デニーロは幸運にも最初から目論見通りにいかず、英雄になったというわけだ。教訓としては、人生にはいろいろなことがあるし、世の中を恨みたくなるようなこともあるかも知れないが、だからと言って他人を傷つけるようなことを考えたり、実行しようとするのはよした方がいいということになる。デニーロも運が悪ければどこかの段階で殺されていたかも知れないのだ。世のため人のため、真面目に誠実に生きていれば、きっといいことがあるはずだ。


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プライベートライアンと捕虜の問題

スピルバーグの『プライベートライアン』という映画では、主要な話題の一つとして捕虜をいかに処遇するかという問題が描かれている。

何度か観れば気づく(一回観ただけで気づく人もいるかもしれない)のだが、降伏の意思を示したドイツ兵、または戦闘意欲を失ったと見られるドイツ兵に対し、躊躇なく銃弾が浴びせられ、殺される場面が複数回映画の中で登場する。それは画面の端の方で起きていたり、短い時間しか割かれていないため、見落としがちなことだと思うのだが、作り手は当然、意識して気づく人には気づくようにそれを入れ込んでいると私は思っている。

単にそのようにさりげなく入れこまれているだけではなく、ライアン二等兵を探しに行く小部隊が敵と遭遇し、銃撃戦の末に一人のドイツ兵を捕虜にする場面がある。部隊員たちは戦闘直後で戦友を失ったこともあり気が立っていて、ドイツ兵に対する強い殺意を持っており、自分の墓穴を掘らせるということまでしている。自分のための墓穴を掘らせるのは、捕虜に対する侮辱行為とも言えるので、この段階で既に国際法違反の疑いは濃厚なのだが、墓穴を掘らせるということは、その後の処刑を暗示するのに充分であり、それもまた国際法違反になるはずだが、もし本当に命を奪えば疑いなく国際法違反である。しかし、小部隊と捕虜一人なのだから、密かに始末したとしてもバレる可能性は低い。先に述べたように感情的には激しい憎悪を抱いているのだから、展開としてはこのまま殺すのだろうか?という疑問を持ちつつ観客はことの推移を見守ることになるのだが、通訳として参加していた兵士が隊長のトムハンクスに国際法の順守を強く主張し、トムハンクスもそれも確かに言えているという感じで処遇に悩む姿が描かれる。現実的な問題としても数名の小部隊なのだから捕虜を管理する能力を備えているわけではなく、前進しなければならない任務も負っているため、捕虜の後送も現実的ではないし、捕虜が自分で歩いて連合軍の後方の基地へ向かい投降することは考えにくい。戦友が殺されたことへの憎悪がある一方で、捕虜は命乞いをしており、命乞いをする捕虜の命を奪うことは、人間的感情の面からも受け入れがたい。という悩ましい状況に陥るのである。

結果、トムハンクスは捕虜の解放を決心し、目隠しをしてこのまま1000歩まっすぐ歩いてここから立ち去れという指示を出し、命からがら助かった捕虜は言われた通りにして姿を消す。だが、当該のドイツ兵は改めてドイツ軍に復帰し、トムハンクスの部隊と交戦する。このドイツ兵は頑強な兵士として描かれており、なかなかに強く、トムハンクスの部下も倒すし、銃撃でトムハンクスをも倒す。国際法の順守を訴えた通訳兵とも遭遇するのだが、ドイツ兵にとっては命の恩人でもあるので、通訳兵のことは見逃し、彼は戦闘を続行する。戦況的にはドイツ軍優位で進むように見えるのだが、終盤になって連合軍の航空戦力が応援に駆け付け、ドイツ兵は抗戦不可能を悟り、降伏する。通訳兵はそもそも戦闘に参加するだけの勇気がなく、隠れていたのだが、この時になってドイツ兵の前に銃を向けて登場する。ドイツ兵は命を助けてもらった恩義があるので、親愛の情を見せようとするのだが、彼がトムハンクスを倒すところを物陰から見ていた通訳兵は、そのドイツ兵を撃ち殺す。既に投降の意思を見せている以上、明白な国際法違反であり、戦争犯罪だ。

だが、映画の全体の構成から言えば、命を助けたドイツ兵が隊長のトムハンクスを倒したのだから、「弱虫」の通訳兵が勇気を振り絞ってついに自分の意思で立ち上がり、隊長の仇をとったことがある種のクライマックスとして描かれている。

このような映画の構成から我々は何を読み取ることができるだろうか。複数回登場する、無抵抗のドイツ兵の殺害場面には一切の情けは感じられない。そしてそれを批判する論調も映画からは感じ取れない。また、命乞いをするドイツ兵が結果としてトムハンクスを倒したという事実は、情けをかけた相手に仇で返されたとも言え、通訳兵が飛び出して来てそのドイツ兵を倒すことが英雄的な場面として描かれているということを考えれば、私には結論は一つしかないもののように思える。即ち、ドイツ兵と言えば国際法的にも認められた正規の兵士とも言えるが、ナチスまたはその協力者である。そして、ナチスに情けは一切無用という問答無用の信念をスピルバーグが持っているということではないかということだ。ドイツ兵に国際法は無用ということだ。

スピルバーグはユダヤ人で、幼少年期には収容所から生還した人から腕に刻まれた囚人番号の入れ墨を見せられるなどの経験をして育ったと読んだことがある。そのため、ナチスを批判的に描くことには積極的であり、決して情けをかけようとはしない。たとえばインディジョーンズでドイツ兵はわりとよく登場するが、彼らが人間的な要素を持っているという描写は絶対にないし、インディジョーンズ本人も彼らは殺してもいいという確信を持っていると言ってもいいように思える。『シンドラーのリスト』では、ナチス党員でありながらユダヤ人の命を救ったシンドラーを顕彰している面はあると言えるが、道楽で人助けをしたことへの後悔を号泣するという形で表現しており、たとえシンドラーであっても完全に免罪されるとは言い難いという思いがスピルバーグの内面にはあるのではないだろうかと私には思える。

もちろん、私もナチスドイツには賛成しないし、ホロコーストは当然に批判されなくてはならないし、それは徹底批判されて当然であるとも思う。なので、スピルバーグの作品作りに異論はない。先日『ターミナル』を観て、私は爆笑し、感動した。スピルバーグは天才だと思った。『ターミナル』もまた、主人公は亡国の民である。スピルバーグの作品を掘り下げて考えれば、常にそこに辿り着いていくのかも知れない。日本はナチスと同盟していたことがあったが、『太陽の帝国』では日本人を人間的に描いてくれているので、そういったことには感謝したい。

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ビューティフルマインドの逆転人生を考える

プリンストンの天才ナッシュ教授はいつのころからか統合失調症を発症し、ありもしないソビエト連邦のスパイ網の暗号コードを新聞や雑誌から読み解き始める。彼には親友もいるし国家機密級の仕事のための相棒もいる。しかし、親友も相棒も実は彼の脳が生み出した幻覚であり、彼は精神病院に強制的に入院させられることになる。

その後退院するが、毎日服用する薬の副作用で頭が充分に働かなくなり、天才的な数学者だったはずが、まったく仕事ができない日々を送るようになる。妻が仕事をし、家族の生活を支えるのだが、当然に重苦しい日々を送らざるを得なくなる。妻は時に彼の症状に付き合い切れなくなるからだ。

だが、やがて彼はかつてのライバルでプリンストンの教授になった友人に頭を下げ、社会適応のために図書館へ出入りする許可をもらうことができ、長い長い日々を図書館通いで過ごすのである。幻覚の親友と相棒はついてまわるが、彼は意を決して彼らを無視する。このまま人生を終えてもおかしくはないのだが、とある学生に質問をされ、それに答えるうちに私的なゼミのようなものを開くようになり、やがて教鞭を取るところまで社会的に回復し、最後の最後でなんと若いころに書いた論文の成果が認められノーベル賞を獲るというジェットコースターのような人生を描いた映画が『ビューティフルマインド』だ。

彼の人生を俯瞰すれば、全体として成功しているように見えるが、病気との格闘は絶望的な心境に彼を陥れたに違いなく、それ以前の経歴があまりに素晴らしすぎるからこそ、療養生活を送らざるを得ないことは堪えたに違いない。

果たして彼を救ったのはなんだったのだろうか。私は二度この映画を観たが、もし自分だったらと我が身を振り返らざるを得ない。妻が彼を見棄てなかったことは大きい。人生で最も辛い時の同伴者が彼の妻だった。そのようなパートナーがいる人は幸福だ。そして若いころ、すでに発症していたが、本人も周囲も気づいていないような時に仕上げておいた仕事が彼を社会的な復帰に大きな助けになった。

私は、私のようなコミュ障が彼と同じ境遇になった時に自分を支えてくれるパートナーを得られるかと自問したが自信はない。また、今仮にそういう境遇になった時にそれでも自分を助けてくれるだけの仕事の蓄積があるかと自問しても自信はない。

しかし、彼が彼自身を救うことができたのは、発症以前の栄光だけによるものではないことも繰り返しみると分かってくる。彼はまず、自分が病人であることを認めることにより、症状に苛まれなくなった。正確に言うと症状は続いたが、幻覚に自分の行動が影響されなくなる程度にまでコントロールできるようになった。自分が病人だと認めなければ、症状をコントロールすることもできない。彼は重篤な病人だったし、社会的な居場所を一時的には失ったが、病人だということを自覚した上で、友人に頭を下げ、じょじょに社会適応し、やがて社会復帰を果たしたという側面は否定しがたい。彼は不運な病によって人生の敗北者だと感じたかも知れないが、人生の敗北者だということを認めることにより一歩ずつ回復へと歩いて行ったのだと言える。

この作品から我々のような凡人が得られる教訓は、自分がもし何らかの理由で不愉快な立場に転落してしまった時、過去の栄光にすがろうとせず、自分の現状を素直に認め、真摯に取り組むことで、人生をやり直すことではないかという気がする。

私にも他人には言いにくい深い挫折の経験がある。そしてその挫折から今日に至るまで、苦しみ続けてきたが、一歩ずつ、社会的にも人間的にも回復を重ねて来た。そのため、ナッシュ教授の人生を完全な他人事と片付けることができない。私は挫折したばかりのころはそれを受け入れることができず、今も完全に受け入れることができているかは分からないが、少しずつ挫折を認め、挫折した自分という立ち位置を認め、そこから回復するためのプランを練り、そのプランの全てが実現したわけではないが、ある程度は実現したので再び自分の人生を歩いているという実感はある。挫折した時、挫折したことを認めることが人生をやり直す第一歩になると言えるのかも知れない。

もう一つ得られる教訓としては、人生一寸先は闇であり老若男女問わず、いつどこで何が自分の身に起きるかわからないが、それまでに積み重ねて来たものが身を助けるということが言える。ナッシュ教授は入院させられる前に学位も獲り、実績も残したことがその後の人生の回復に役立った。我々がナッシュ教授ほどの大成果を残すことは難しいかも知れないが、それでも、もしものことが起きたとき、それまでに積み重ねてきたものが自分を助けるのだとすれば、日々の行いや精進、真摯な取り組みが大切だということは言えるだろう。いつ何があるかわからないからこそ、何事にも真摯に取り組むべきだ。真摯に取り組んだことの全てにいい結果が出るとは限らないが、取り組まなければ結果は決して出ない。それに、案外、自分で気づいていないだけで、自分の取り組みはそれなりに報われているのかも知れない。



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シンドラーはなぜ号泣しなくてはならなかったか

スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』は、あまりに安易に人がナチスに殺害される場面が連続して続くため、観客はそれが実話に基づいているだけに驚愕せざるを得ない。人命があまりにも軽く扱われていたこと、一部の人間をただ、それその人がその人であるという理由だけで死に追い込まれたこと、人間に対する罪の重みに考えさせられるし、日本人の観客であれば自分の祖父母の世代はこの連中と手を組んでいたという目をそむけたくなるような事実にも向き合わなくてはならない。

そのよう深刻な映画作品の中で、救いになるのはシンドラーという男の存在である。軽妙な会話とウイットに富み、金持ちで、敗戦へまっしぐらという絶望的な時代状況の下で贅沢な暮らしを楽しみ、女性にもてる。羨ましいご身分であり、その気楽な感じに安心感をついつい持ってしまうのだが、そのように彼が軽快に人生を楽しんでいるにもかかわらず、1000人を超すユダヤ人を強制収容所から救い出し、死の恐怖から解放したという人間としての功績もまた賞賛に値するものである。しかも、強制収容所から救い出す理由が軍需工場の強制労働者が必要だと言う偽悪的なものであるために、シンドラーからは偽善の嫌らしさを感じることもない。様々な意味で完璧な主人公だ。

しかし、映画の最後のあたりでシンドラーは号泣することになる。シンドラーが号泣したことについては、「興覚め」という意見もあったし、私もそう思った。果たして何故に、スピルバーグはシンドラーに号泣させたのだろうか。ナチスのユダヤ人迫害を憎むスピルバーグの立場からすれば、明るく楽しくユダヤ人の命を救ったシンドラーを、そのまま明るく楽しい人生を軽妙に生きる男として最後まで描いてもさほど問題はないはずのように思えてならなかった。

しかし、スピルバーグはシンドラーに号泣させることにした。私はその理由について何年も考え続けてきたが、最近改めて見直して、シンドラーは号泣しなければならなかった、シンドラーの号泣は二つの意味で必然であると考えるようになった。以下にその理由を述べる。
まず、シンドラーにとって人を救うことは道楽だった。道楽であろうと何であろうと人を救うことは賞賛すべきことだし、別に道楽でやってもいいではないかとも思えるが、シンドラーはナチスのユダヤ人迫害に対して、一人の分別のある人間であれば、敢然と戦わなくてはならなかったはずである。道楽でやるということは無理してまでは救わなかったとも言える。人の生き死にを神でもない人間が道楽で、自分のできる範囲でリストアップするという行為の恐ろしさに彼は気づかなくてはならなかった。彼はユダヤ人を工場労働者として連れてこさせるために金品を用いたが、それは徹底したものではなかった。彼はしっかり自分が贅沢できるだけの資金は残しておいたし、楽しい人生を犠牲にしてまで人助けをするつもりはなかった。そしてそれは罪深い。人の命を救助する際、それは道楽ではなく自分の存在を危うくさせることがあったとしても、それでも覚悟を持って尚取り組むべき「正義の戦い」でなければならない。シンドラーはそれをしなかった。映画として完結するためには、シンドラーはその罪深さに気づく必要があったに違いない。シンドラーが身に着ける様々なぜいたく品をナチスの担当者に渡せば、もっと救えたのである。金品よりも遥かに大切なものをシンドラーは救うことができたはずである。そのことに、敗戦が決まってから、もはやそうしなくてもよくなってから彼は気づいた。言い方を変えるならば気づくのが遅すぎたのである。スピルバーグはシンドラーを評価しながらも、気づくのが遅かったということの罪を糾弾している。そのため、シンドラーは興味深い男ではあっても英雄にはなれないのである。
 だが、単に糾弾の対象にするためにシンドラーが号泣する場面を挿入したというわけでもないと私は思う。シンドラーの人間的成長も描かれなければならなかったのではないかと私には思える。シンドラーは道楽で人助けをして悦に入っていたが、人助けは道楽でするものではない、もっと真剣に覚悟を決めてやるべきものでなくてはならなかったということに敗戦を迎えてから気づいたシンドラーにできることは号泣することしかなかったのである。しかし、たとえそれがユダヤ人を助けるという意味では遅すぎたとしても、一人の人間の魂の向上という点から見れば遅すぎるということは決してあり得ない。この作品はファシズムが特定の人間を迫害することの犯罪性を糾弾するだけでなく、同時にシンドラーという一人の男の人間的成長という二つの目的を持って制作されたと考えることができる。

それ故、スピルバーグのシンドラーに対するまなざしは決して冷徹なものではない。たとえ道楽とはいえ、ユダヤ人の救済に努力した男としてそれなりに賞賛しているし、更に人間的な成長の瞬間を迎えたのだから、その点に於いてシンドラーを祝福しているとも言えるのである。人が、その人の行動や考え方を変化させる瞬間に立ち会う時、それはたとえ日常生活でもある種の感動を伴うことがある。ナチスドイツの犯罪性を糾弾しつつ、シンドラーという男の成長物語も描いたスピルバーグはやはり言うまでもないが天才なのである。



『ファイナル・イヤー』‐オバマ大統領の壮大なイメージビデオ

オバマ政権最後の一年をカメラが追いかけ続けた『ファイナル・イヤー』は、オバマ大統領が好きな人にとってはたまらないイメージビデオになっており、オバマ大統領が嫌いな人にとっては「かっこつけやがって」と別の意味で見ていられない作品と言えるかも知れません。

登場するのはオバマ氏とケリー氏、その他彼を支える周囲のスタッフたちなわけですが、マスメディアの見ていないところでカメラが回っているため、もうちょっと突っ込んだあたり、どのようにして彼らが意思決定をしているのか、どんな会話をしているのかというあたりを見ることができるのは興味深いです。ホワイトハウスの中がどうなっているのかも、僅かながら見て取ることも可能です。もちろん、見せられないところはカメラは回ってないでしょうから、歴史の評価を待たなくてはいけないとも思えます。

さて、とにかく彼らは走ります。走りながら意思疎通をしています。かっこいいの一言に尽きるいい場面が次々と出てきます。人が走る姿は見る人に感銘を与えます。なぜかは分かりませんが、人が走っている姿には何らかの感動的なものがあります。箱根駅伝をみんなが一生懸命見るのも、オリンピックのマラソンをみんなが一生懸命見るのも、なぜか分からないけど人が走るという姿に感動するからです。

で、この映画では大統領のスタッフたちが走るだけではありません。真剣な表情で議論を積み重ねる様子が撮影されています。世界の平和のために真剣な表情で議論を重ねる彼らの姿はもちろんとても絵になります。そしてなんと言ってもオバマ大統領の絵になることと言ったら文句ありません。高く評価されるスピーチ力、苦悩し、重大な決断を迫られる際の表情、どれも決まっています。

お決まり、お約束と言ってもいいですが、世界中を訪れて、人種、民族、宗教を越えてオバマ大統領が親しく話をする場面、特に子供たちとコミュニケーションする場面はこれでもかというくらいに登場します。子どもとコミュニケーションをする人はいい人と決まっているようなものですから、この映画のオバマ大統領いい人アピール大作戦は大いなる成功を収めていると言ってもいいでしょう。

シリアの深刻な問題についてはわりと突っ込んだところまでこの作品で論じていますが、一方で東アジアの難しい問題は基本的にほぼ無視。唯一、オバマ大統領が広島を訪問したところだけは丁寧に撮影されています。

そして最後の方では大統領選挙でトランプ氏が勝利する場面。民主党勝利を確信していたはずの大統領スタッフたちが文字通り言葉をなくしている様子が撮影されます。こればっかりはかっこよく撮影するわけにはいかず、同情的な雰囲気を漂わせるほかありません。

個人的にちょっと気づいたのはケリー氏がこれでもかというくらいに登場するわりにヒラリーさんが全然出てきません。この映画だけ見ると、ヒラリーっていう人、本当にいたっけ?と思ってしまうほどです。オバマとヒラリーは仲が悪いんだと主張する人の動画を見たことがありますが、意外と本当にそうだったのかも知れません。

いずれにせよ、オバマ大統領が去る前の一年を撮り続け、結果として身内で楽しむ壮大なファミリービデオみたいになっています。オバマ大統領が好きな人にとってはたまらないことでしょう。