少女終末旅行とキルミーベイベー

少女終末旅行をアマゾンプライムビデオでみた。この手のアニメをアマゾンプライムビデオでみるとすれば、一機にまとめてみることで次週放送まで待たなくていいのがメリットだと言えるのだが、このアニメに関しては、作画と設定がドラマチックで目が離せないにもかかわらず、展開そのものはスローテンポの日常系で、作品の意義をどこに求めるかについて脳の理解がついていくのに困難を要し、まとめてみるだけのエネルギーを維持することができなかった。全12回分を毎日1回分づつみて、なんとか今日にいたったというわけだ。

人類がだいたい滅亡して誰もいない廃墟だけが延々と広がる世界を2人の少女が食糧となんらかの意味での出口を求めて旅を続ける奇妙な物語は、みているうちに、あ、これってキルミーベイベーに似ている思わせる、ある種の空気や雰囲気のようなものを持ち合わせていることに気づいた。

まず少女終末旅行のopの歌詞は、キルミーベイベーのedの歌詞と酷似している部分があり、とても偶然とは思えず、キルミーベイベーの方が先に放送されていたことを考えると、少女終末旅行の方がキルミーベイベーをかなり意識していたのではないだろうかと思える。

また、百合的な展開も似ている。もっとも、キルミーベイベーの場合は表面的には延々と続くボケと突っ込みのどつき漫才ギャグマンガであるため、ぱっとみた感じ百合っぽくは見えないが、あれ、これってもしかして、百合…?と視聴する側がいろいろと想像力を膨らませて、もしかしたら百合かもというところにたどり着くのだが、少女終末旅行は絶対に百合、明白に百合、これで百合でなければおかしい。というくらいにわかりやすい百合であり、このあたりには違いがあると言えばある。だが、どちらも百合である。キルミーベイベーはサービスショットがさほどないのに対して、少女終末旅行はサービスショットが結構たくさんあることも違いとしては挙げておきたい。少女終末旅行の場合、ギャグ的要素が皆無に近いため、チトとユーリの関係性だけにフォーカスされると言ってよく、それだけに百合っぽさが目立つのかも知れない。百合ではないが、終末の廃墟を少女たちが歩くという意味ではコッペリオンもある程度似ているかも知れない。

キルミーベイベーは少女ものがどうとか、百合がどうとかとは関係なく、ギャグが普通に笑えるため、シーズン2を期待していたが、あぎりさんの声優さんが捕まってしまったので、シーズン2は諦めざるを得ず、がっかりしていたのだが、少女終末旅行というインパクトありまくりのアニメによって補われたことは喜ばしい限りだ。もっとも、その少女終末旅行も終了なわけではあるが。

少女終末旅行の最後についてはネットでも議論が分かれていて、死ぬ説と生き延びる説がせめぎあっている。私は作品をみ続ける中、途中から、この2人は既に死んでいるのではないか。観念の世界で旅を続けているだけなのではないかという不思議な感覚を持つようになった。絵がきれいなドラマチックで、人間愛に溢れており、音楽もきれいなので、アニメが好きな人にとっては歴史的に残る素敵な作品として受け入れることができるのではないだろうか。個人的には少女終末旅行のedは繰り返し見たいとても素敵な動画だと思う。



『この世界の片隅に』の聖地巡礼をしてきた

この世界の片隅に』で泣いた日本人は数知れずで私もその一人だ。原子爆弾という非常に重い問題と、戦争というもう少し一般化可能な、しかし人間同士が命のやり取りをするという普遍的に難しい問題と、すずさんという稀有なキャラクター、顔も美しいが声も美しいのんとすずさんのシンクロ率の高さによって人々は心をわしづかみにされてしまった。

いつか呉に行きたい。すずさんの景色が見たいと思った人は多いはずであり、聖地巡礼で呉を訪れた人、或いは何度も呉に通った人は大勢いるに違いない。私も呉に行きたい、一度でいいから行ってみたいと思っていた。祖父が海軍の人でレイテ沖海戦から生きて帰って呉で終戦を迎えている。情報収集准尉で、原子爆弾関連のこともかなりの程度で知っていたという話だったので、全く縁もゆかりもない土地でもないのである。

先日、広島に一泊二日の出張があって、二日目の午前中だけ自由な時間があったので、朝6時に起きて呉に行き、午後の仕事の前に原爆ドーム、平和記念資料館を見学するという慌ただしい日程を組んだ。広島に行けばお好み焼きもあるし、野球が好きな人にとっては広島カープも魅力なのかも知れないし、私としては浅野40万石の広島城も訪れたいとも思ったが、限られた時間で広島という土地に敬意を払いつつ、聖地巡礼という本意を果たすには、こうするしかなかった。

まず呉まで行ったが意外と遠い。広島駅から一時間くらいかかってしまった。呉駅で降りたものの、土地勘もないし迷って歩いている時間もないので、駅の様子だけ急いで撮影して広島へ帰還することにした。

呉駅の外観
呉駅の外観

とんぼ返りではあったものの、やはり現地に行くというのは有形無形に学べることがある。実際に呉へいく電車の窓から瀬戸内海を見ていて気付いたのだが、延々と対岸が見える。いくら瀬戸内海が狭いとはいえ、対岸が近すぎないか?あそこはもう四国なのか?という疑問が湧き、そんなわけがないのでiphone11で地図と格闘して分かったことは呉の対岸にはけっこう大きな江田島があるということだった。江田島といえば海軍兵学校のあった場所で、江田島関連の本も出ている。映画とかも探せばあるかも知れない。私は江田島の名前は知っていて、海軍の学校があったことも知っていたが、みたことがないので江田島は江ノ島みたいな感じのところなのだろうと勝手な想像をしていたが、違う。江田島は呉港を包み込むように浮かんでいて、たとえば敵が海から来ても直接呉に攻め込むことを困難にしている。天然の要害なのである。制空権をとられてしまえば、あんまり関係はないけれど。とはいえ、このようなことは行ってみてやっと気づくことの一つではないだろうか。

江田島と思しき対岸

『この世界の片隅に』の終盤で呉の街に明かりがつく場面があって、その時の呉の街は対岸にいる若い海軍の兵らしき男たち越しに見えるような構図になっているのだが、あの場面は江田島兵学校から見える終戦後の呉ということだったのだ。聖地巡礼によって得られることは大きい。呉駅には『この世界の片隅に』のポスターも貼られていて、これは呉駅の面目躍如であって、素晴らしきファンサービスである。ブログに掲載したくて撮影したが、著作権とかいろいろあるので、ポスター以外のものも入るようにして、私のオリジナル作品には見えない、一目で駅に貼られたポスターだと分かるように撮影した。知的財産権の侵害との指摘を受ければ削除しなければいけないが、今回の記事は作品への敬意を込めているので、理解を得られれば幸いだ。

呉駅のこの世界の片隅にのポスター
呉駅に貼られた『この世界の片隅に』のポスター

急いで広島駅までもどり、路面電車で原爆ドームへ向かったが、電車が故障で止まってしまい、徒歩で到着することを目指したものの、ちょっと距離を感じたのでやむを得ずタクシーに乗車した。原爆ドームを見て戦慄し、平和記念資料館では涙なしには展示内容を見続けることができなかった。展示がリニューアルしたとは聞いていたが、犠牲者の個々人の方々の生活やお顔の写真、プロフィールなどがたくさん分かるようになっており、現実に生きていた市井の人が原子爆弾によって焼かれたのだということをより理解しやすくなっているように思えた。うんと以前に訪れた時、壊れた時計や熱で溶けた瓶などは確かにショッキングではあったけれど、どこの誰がどんな風に亡くなったのかというような情報が少なく、ただ、ショッキングなだけで、考えたり感じたりすることがあまりうまくできる内容ではなかったような気がした。ワシントンDCのホロコースト記念館を訪問した際、数多の個々人がどこでどんな風に亡くなったのかを戦後の調査で明らかにし、記念館訪問者にも分かるようにしていた展示は現実感があって、自分にそれが起きないとう保障はないという心境になり、真剣に考える契機になった。そして広島や長崎の平和祈念館もこのように個々人のことが分かるようにした方がいいのではないだろうかと思っていたのだが、展示内容はそのようにリニューアルされていたので、私は納得もした一方で、その問題の深刻さを突き付けられたような気がしてショックは大きかった。とはいえ、平和祈念館を訪問してショックを受けない方が問題があるので、私がショックを受けたのは正常なことだ。
原爆ドーム
原爆ドームを北側から見た光景。限られた時間内で急いで撮影した。『この世界の片隅に』のすずさんは反対の方角からスケッチしていたはず。

犠牲者の生前の写真や遺品などとともに、訪問者にショックを与えるのは経験者によって描かれた数多の絵である。原子爆弾の使用直後の写真は少ない。写真を撮っている場合ではなかっただろうし、撮影に必要な機材も吹っ飛んでしまっていて写真が残されているなどということはあまり期待できない。少ない写真によって当時の状況を知ろうとするドキュメンタリーなら見たことがあるが、限界があった。デジタル的な観点からの写真論になっており、肝心の悲しみや悲惨さからは結果的に溝のできる内容になってしまっているように思えてしまったのだ。原民喜の『夏の花』はショッキングだが、読者の想像力に大きく委ねられなければならないものだった。絵はそれらの諸問題を克服する表現手法だ。個別の絵に関することをここで書くのは避ける。とても私が分かったような気持ちで評論できるようなことではない。そうするには重すぎる。

このような絵がたくさん集まったのはNHKが広島の人々に呼び掛けたからなのだそうだ。経験者が生きているうちに、絵という手法で記憶を後世に残そうと考えた人がNHKにいたのだ。NHKには批判も多いが、このようなことはNHKでなければできないだろう。この点は大きく評価されなければならないと私には思える。

シャア・アズナブル論考④‐坊やだからさ

映画版のシャア・アズナブルには一見して一貫した目的があるように見える。ザビ家への復讐を究極の目標に様々な裏工作を行い、最終的にはそれを完遂するというもので、男の中の男というか、男が憧れる男というか、女も憧れるモテる男になっていて、見ていて充分にしびれる男になっている。映画版の1stガンダムは、アムロのことも忘れて、ほとんどシャアのイメージビデオのような仕上がりだ。シャアのファンにとってはたまらない内容になっているし、理想のシャア像が描かれているため、ファンの満足度は高い。そして映画版の普及が、シャアのファンを再生産していったとも言うことができる。アムロよりシャアの方ががぜん人気があると私には思える。

が、しかしである。テレビ版になると、シャアはかくもかっこいいだけの男ではない。様々な局面で判断や優先順位は揺れ動き、迷いが見られ、明らかな誤算も見られるのである。映画版のシャアよりもテレビ版の彼の方が人間的でおもしろい。テレビ版の方が映画版よりも小心者であり、しかしだからこそ、アムロ以上に注力して創造されたキャラクターだと考えることができるだろう。シャアの若さゆえの過ちは映画では分かりにくいが、テレビ版をよく観察することで見えてくるのだ。

そのシャアの最大の誤算が、ガルマの謀殺である。テレビ版にフォーカスするが、シャアはガルマを謀殺するか、それとも自分の手でホワイトベースとガンダムを葬り去り、その戦果をドズルに褒めてもらうかで揺れている。そのどちらになったとしても、シャアのなにがしかの目的は果たされるので、シャアにとっては負けのない勝負になるはずだった。だがここで注目したいのは、シャアがドズルに褒めてほしいと思っているところであろう。人は誰から褒められたいと思うだろうか。大事に思う人だったり、お客様だったり、コンプレックスを感じる相手だったりといった人から褒められたい。要するに認められたい。シャアは上司のドズルに認められたいと思っていて、その心境はなかなかのポチである。だが忘れてはならないのは、シャアにとってドズルは上司であると同様に仇であるザビ家の息子であるという点だ。ガルマがザビ家のプリンスであるのと同様に、ドズルも顔は悪いがザビ家のプリンスなのだ。にもかかわらず、シャアはガルマの謀殺を企てる一方で、ドズルに対しては褒められたいと思っているのである。大いなる矛盾を抱えた男がシャアなのだ。更に言えば、上司に褒められたいというかなりチキンな願望も否定することはない。自分がチキンだと気づかないほどチキンなのであり、このシャアの心境を考えるとファンとしては泣きたくなってくる。

で、先にガルマの謀殺がシャアの最大の誤算であると述べたが、それには以下のような理由があるからだ。シャアはホワイトベースが強すぎるからダメでしたということを理由に、ガルマを守り切れなかったことにして、ホワイトベースに手を下させてガルマを死に追い込んだ。この時のシャアの計算は、ホワイトベースがこんなに強いのだから、ガルマが死んでも自分がサボタージュしたとか、そういう批判は来ないだろうというもので、且つホワイトベースなんて戦争の素人だから自分が本気出したらいつでも潰せるし、今回はガルマの謀殺に利用してやろう。俺って頭いい。と思っていたあたりにある。

結果としては、ガルマの死によって、シャアが恐れていたドズルからは無能のレッテルを貼られて追放され、キシリアに拾われるものの、やはりガルマの死に方がおかしいとにらんだキシリアによって調べが進められ、正体までバレてしまうのである。シャアはガルマの死後もドズルの下で順調に出世するつもりだっただろうから、予定外も甚だしい。キシリアには「ザビ家復讐を諦めて、それでどんなビジョン持ってるの?」と質問され、「ニュータイプの世の中が来るのなら見ていたいっす」と抽象的でとってつけたような発言であり、ほとんど新卒の採用面接くらいでしか通用しないものだ。キシリアは怒ることもできたが、シャアには仕事をしてもらわなければならないので、見逃したというのが真相ということができるだろう。

キシリアの指揮下に入ったシャアはひたすらホワイトベースとガンダムの撃沈に執念を燃やすが、遂に果たせない。アムロの成長が速く、シャアはそれについていけなくなってしまう。もし、ホワイトベースを撃墜できる可能性があったとすれば、ホワイトベースクルーがまだ戦闘に慣れていない時期に、要するにガルマの担当地域にいる間にやってしまうのがベストだっただろう。にもかかわらず、シャアは不要不急のザビ家の復讐を優先し、結果として余裕で潰せるはずだったホワイトベースとガンダムに信頼する部下もプライドも恋人も奪われてズタズタになってしまうし、妹からは刺し違えてやろうかと思われるほど舐められることになる。読みが外れた自称天才はかくもみじめなものなのかと同情を禁じ得ない。

ガルマの国葬が生中継されているとき、それを酒場で聞いていたシャアがガルマのことを「坊やだからさ」と吐き捨てるように形容する場面はとても有名だ。ガルマのどこがどう坊やなのかは意外と謎のようにも思えるのだが、シャアがドズルを畏敬していたことを合わせると以下のような解釈も可能である。シャアは同じザビ家の人物でもドズルにはびびっていたため当面狙っていなかったのだが、ガルマのことは舐めていたために狙ったのである。従って、「坊やだからさ」の真意は、ガルマはドズルに比べて坊やだからだと理解することができるだろう。

そのようにして他人の人生を操れる俺ってすごくね?とか思っているシャアにまるで運命が復讐するかのようにその後の苦難と凋落が押し寄せるのである。シャアへの同情は続く。




シャア・アズナブル論考③‐シャアと彼の部下たち

映画版のガンダムだけを観ているとシャアがやたらと優秀に見える一方でどのような性格の人物なのかというのはよく分からない。合理精神の持ち主とかチャンスを最大限に活かす主義、みたいなことは分かるが、それは性格というよりは能力に起因するものだ。

それに対して、テレビ版のガンダムはシャアの性格描写が入念に行われている。アムロが定型的な内向的ティーンエイジャー程度の性格描写しか行われていないのに対し、シャアについては矛盾があり、悩みがあり、揺れがある。それゆえにテレビ版のシャアは非常に魅力的だ。もちろん、根暗にも見える。人は突き詰めるとみんな根暗な部分があるので、性格描写に力を入れればその対象は根暗になっていかざるを得ないのではないかと思える。

さて、それはそうと、テレビ版のシャアの特徴とはなんだろうか。テレビ版初期のシャアをよく表現しているのは彼と彼の部下との関係性だ。軽巡洋艦ムサイの司令官としてのシャアは部下たちと極めていい関係を築いている。そしてシャアも部下思いだ。例えばクラウンというザクのパイロット大気圏突入戦で残念ながら命を落とすと言う時、彼は「少佐、助けてください、シャア少佐」と叫ぶ。もはや手遅れな状態でシャアにも如何ともしがたいのだが、クラウンにとって戦場の心の支えはシャアなのである。シャアもまた、クラウンの戦死に対して実に悔しそうだ。クラウンだけではない、配下のザクがガンダムに打ち取られる度に、シャアはパイロットの名を呼び、その命を惜しんでいる。部下思いで、心温まる。パプア補給艦が登場する会では、アムロたちがシャアの補給を邪魔する一方で、シャアとムサイクルー及びパプア補給艦艦長は互いに協力し合い、一人はみんなのために、みんなは一人のためにと言わんばかりの献身的な支えあいでなんとか補給を成功に導こうとあがいている。この回は特にジオン軍側の将兵たちの努力が涙ぐましく、シャアとアムロのどちらが本当の主人公なのか分からなくなってくるほどだ。部下たちがシャアを慕っているということもよくわかる。副官のドレン少尉も実によく誠実にシャアを支えている。ドレンはおそらく唯一のシャアの理解者なのだが、これについてはまた日を改めて議論したい。

だが、シャアが部下思いなのは大気圏突破戦までだ。大気圏でホワイトベースとガンダムを打ち漏らしたシャアは、北米大陸を占領するガルマの部隊と合流する。この段階で作戦に対する統帥権はガルマが握っており、シャアは高みの見物を決め込み、明らかにガルマを馬鹿にしている。ドレン少尉がその態度についてとがめることなくシャアを見守る姿には懐の深さを感じるが、シャアはガルマに対して愛情を感じていないし、ガルマの部下に対しても愛情を感じていない。生き延びようと戦死しようと知ったことではないという態度を貫く。それまで部下の生死に強い関心を持っていたシャアは、ここでいきなり保身ばかり考える人物へと変貌してしまうのである。保身を考えるシャアという姿は映画版では決して見られないが、テレビ版では重要な要素になるし、シャアがその分人間的に描かれているという点は注目に値すると言えるだろう。

彼のこの姿勢はその後も変わることはない。ガルマが戦死した後にシャアは左遷され、キシリアに拾われる。シャアはキシリアの寵愛を受けようと努力はするが、その他将兵に対しては、競争者やライバルとしての視線を向けることはあっても協力者としての姿勢を持つことは、はっきり言って決してないのである。キシリアの指揮下に入ったシャアは少佐から大佐に昇進し、マリガンという秀才風の副官を得ることになるが、シャアとマリガンの関係は全然良くない。ドレンがシャアに人間愛を感じていたのに対し、マリガンはシャアにプレッシャーを感じているだけだ。シャアはマリガンが失敗するとそれをなじり「これは貸しにしておく」と言い放つ。そして最後はホワイトベースを絶対沈めろと命令され、マリガンはいやいやホワイトベースと戦い、戦艦ザンジバルとともに散ってゆくことになる。シャアに命令された時のマリガンのため息まじりの「はい」は、本当はそんなことはやりたくないし、シャアみたいな人のために命を捧げるなんて嫌なのだが軍の統帥の関係からシャアの命令には従うしかないという無力感が滲み出ている。映画版ではシャアが「すまん、マリガン」などと言って気遣う風もあるのだが、テレビ版ではシャアが孤立した人間であって、部下たちがシャアにうまくなじめていないという感じになってくる。マリガンの戦死の前にマッドアングラー隊がガンダムにやられるのだが、これに対してシャアの態度は自由にすれば、というもので、本当に上官なのかどうか怪しいとすら感じられるほど淡泊だ。マッドアングラー隊が決死の覚悟でホワイトベースに仕掛けた時、ホワイトベースにはジオンのスパイのミハルが搭乗していたのだが、仮にマッドアングラーが勝てばミハルはホワイトベースとともに命を落とすことになる。情報をよく上げる優秀なスパイなのに、スパイの命はどうでもいいらしいということについて、誰も指摘しないとは思うのだが一応ここで指摘しておく。シャアはもちろん、ミハルについても淡泊だというか、ミハルを番号でしか認識していない。

さて、当初、ドズル指揮下でムサイ艦長だったシャアと、キシリア指揮下のシャアで部下に対する態度がかくも違うのはなぜなのだろうか。おそらく、シャアはムサイの部下たちをとてもよく愛したのだろう。だからこそ、ガルマの戦死をきっかけにシャアが愛した人間関係が断ち切られ、新しい人間関係の渦に入っていった時、シャアは上手に周囲の人を愛することができなくなってしまったのではないかと言うことができるのではないだろうか。シャアはララアと恋愛関係になるが、それは男女の官能的な関係であり、ある種の欲望を満たし合う関係なので、部下との人間愛とは別種のものである。シャアはムサイから引き離されて、人間愛の部分がダメになってしまったのだ。そう思うとシャアは本当に気の毒なのだが、シャアをより一歩深く理解することは、作品理解そのものを深めることに直結する。まだしばらくはシャアについて考えてみたい。

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シャア・アズナブル論考②‐セイラに関するやや甘い考え

シャア・アズナブルについて考える上で決して忘れてはいけないのは、妹のセイラさんとのことである。シャアの本名はキャスバルで、セイラさんの本名はアルテイシアであり、この二人はともにデギン・ザビに暗殺されたジオン・ズム・ダイクンの子供である。ジオンが暗殺された後、この兄と妹はザビ家から逃れるために地球に降りた。そしてある程度成長した後で、キャスバルはアルテイシアを残してジオン公国へと入り込み、シャア・アズナブルという偽名で士官学校に入学し、遂にはジオン軍の士官になるのである。ちょっと違うがショーン・ケンなみに素性を隠しての大出世であると言える。シャアは顔も運動神経も頭も良いので、それぐらいの人物でなければやり通すことはできなかっただろうけれども、シャアは極端に優れた普通の人なので、ニュータイプではあり得ず、周囲からニュータイプかもと期待されることが却って彼を苦しめるようになっていく。ちなみにアムロがニュータイプかどうかもかなり怪しいと言える。物語の終盤ではアムロのニュータイプの開花は見られるが、それまではどちらかと言えばアムロの才能よりもひたすらガンダムの性能頼みである。ガンダムにはディープラーニングAIが搭載されているので、戦闘をすればするほどコンピューターに経験値がたまっていく。要するにガンダムはアムロがあんまり努力しなくても自動的に強くなっていくようにできているのである。

さて、シャアとセイラの関係に話題を戻すが、シャアがニュータイプではなく普通の人だということを物語るのが、妹に対する考え方の甘さではなかろうかと私には思える。

サイド7への潜入に成功したシャアは、警戒中のセイラに発見され、銃を突きつけられる。シャアはヘルメットを脱いで素顔を見せるのだが、セイラはそれが兄だと知って慌ててしまい動けなくなってしまう。シャアはとっさにセイラの構えた銃を足でけり落とし、さっと現場から脱出するのである。

その後ホワイトベースはルナ2に逃げ込み、シャアはドズルから命じられた通りに最低でもホワイトベースの破壊、できれば奪取する目的で部下たちとともにルナ2に潜入する。そこでシャアはじっくりと考える。もし安易にホワイトベースを破壊した場合、妹のセイラを死なせてしまうことになりかねない。それはできない。さて…どうしよう…考えた結果、シャアは銃を突き付けてきた時、セイラは強かった。俺の妹があんなに強いわけがない。従って、あの女は俺の妹に似ているけれど、多分、別人だ。きっと別人だ。別人に違いない。と自分を説得し、作戦を遂行するのである。結果、実は本物の妹だったのだ。シャアが作戦に失敗したので妹は死なずに済んだが、それは結果論である。

二人の次の邂逅はジャブローでのことだ。シャアはやはりホワイトベースだけを狙い少数精鋭でジャブローに潜入し、目的を果たすことはできなかったのだが、その作戦遂行中にセイラとばったり出会ってしまう。シャアは妹に「軍から身を引いてくれないか」と頼み、急ぎその場を去る。そして宇宙へとホワイトベースが出発し、シャアがザンジバルでそのあとを追う段階になって、もしホワイトベースを撃沈したとしても妹が乗っていたら大変だとじっと考え、争いごとをあんなに嫌っていた俺の妹が再び乗るはずがない。俺からも乗らないでくれと頼んだし。と一人合点でno problemと判断してホワイトベース撃沈に執念を燃やす。シャアが失敗したのでセイラは生き延びることができたが、成功していればシャアは妹を殺したことになってしまうところだった。

二人の三度目の出会いは人間から見捨てられたテキサス・コロニーでのことで、シャアは妹がまだホワイトベースに乗っていることに衝撃を受け、金塊をあげるから頼むから地球に帰ってくれと頼み込む。今までは言葉だけでの妹への命令またはお願いだったが、やはり実利による誘導がなければと思ったのかも知れない。そしてシャアはきっと妹は地球に降りたに違いないと思い込んでホワイトベース撃沈に精力的に取り組み、その目論見はことごとく失敗するのだが、それは結果論である。

二人の四度目の出会いがある。シャアとララアがアムロと敵対しているとき、セイラがコアブースターで突っ込んでくる。ゲルググに乗ったシャアは「あーめんどくせえ、こっちは新型モビルスーツなので、こんなやつ叩き落してやれ」と思って攻撃するのだが、きわめて優れたニュータイプであるララアが「大佐いけません!」ということで、よく見てみると、コアブースターの窓には妹の顔があるではないか。シャアはララアに知らせてもらうことができなければ、妹をその手で殺すところだったのである。シャアはたじろぎ、その隙をアムロにつかれて死にかけるが、ララアが身代わりになってシャアは助かるという流れになる。

セイラは「刺し違えて」でも兄を止めようと思っているが、繰り返し殺されかけた立場としては当然だと言えるだろう。或いはホワイトベースを攻撃する度にアムロに撃退されるシャアを不憫にすら思ったかも知れない。小説版でセイラはアムロに対してシャアを殺すことと引き換えに自分の身体を与える。兄が何度も殺しに来るのだから、そのように思えばセイラの心情は実によく理解できるのである。鈍感すぎるぞ…シャア…。俺の妹だからきっとこうに違いないが多く、シャアのセイラに対する考え方は総じて詰めが甘い。

とはいえ、ア・バオア・クーではセイラが炎に飲まれそうになったところをシャアが助けるというようやく兄らしい行動をとる姿を見ることができる。この兄と妹はそのまま今生の別れみたいになってしまうのだが、やはり多くのファンが心を痛めたのだろう。『シャアの日常』では、シャアとセイラの仲睦まじい兄妹愛を見ることができる。アニメ作品が悲劇的なだけにその様子はホッとさせられるものがあって和むのだ。



シャア・アズナブル論考①‐若さゆえの過ち

機動戦士ガンダムは一方に於いてアムロとホワイトベースクルーの成長と団結の物語を描いているが、もう一方に於いてシャア・アズナブルの栄光と転落を描いている。特にテレビアニメ版では顕著だ。しかし、後にリリースされた映画版の影響力があまりに強いため、シャアは偶像化され、完璧な人間の見本のように扱われ、圧倒的な人気を誇るようになった。最近になって『シャアの日常』のようなギャグマンガが通用するようになったのも、シャアが神格化されている故であると言うことができるだろう。但し、そのようなシャアはテレビ版の本意にそぐうものではないということもまた重要な事実であるように思える。何回かに分けて、テレビ版ガンダムでのシャアはどのような存在として描かれているのかを私なりに考察してみたい。

まず、第一回の放送分なのだが、冒頭で宇宙空間を移動するザクが登場し、彼らはサイド7のスペースコロニーに入り込み、地球連邦のモビルスーツを発見し、上官のシャアの判断を待たずに攻撃を始める。突然危機に見舞われたサイド7の住民たちが逃げまどい、ホワイトベースへと非難してゆく中、機械操作の才能に恵まれた少年アムロはこっそりガンダムに搭乗し、使いこなし、ザクを返り討ちにする。計3体いるザクのうち2体はアムロのガンダムによって打ち取られ、残りの1体は脱出してシャアの待つムサイに帰還するのである。

で、この放送分の最後のセリフがシャアの有名な「認めたくないものだな。若さゆえの過ちというものを」だ。シャアはなぜこのようなセリフを吐かねばならなかったのだろうか。若さゆえに彼はどのような過ちを犯したというのだろうか。たとえば「デニムに新兵を抑えられんとはな」というセリフもあるが、これはシャアの指示を待たずに若いザクのパイロットであるジーンが先制攻撃を始めてしまい、同行していた先輩のデニムはジーンの独断専行を追認する形で戦闘に参加した結果、二人とも戦死してしまったことに対するシャアの感想のような一言なのだが、ここだけ見れば、シャアはこの二人の戦死について責任はない。命令無視をしたジーンと、命令無視を追認したデニムに責任がある。その後全40回以上にわたりシャアは敗北に敗北を重ねていくことになるのだが、この段階ではそれはまだ未来のことで、シャアはルウム戦役で輝かしい戦果を挙げたジオン軍のスーパースターだ。この段階で、シャアに落ち度など、ないように見える。にもかかわらず、繰り返しになるが、シャアは「若さゆえの過ち」を認めているのである。果たして何が落ち度だったのだろうか?

この疑問を解くカギが第一回放送分のシャアのセリフに込められている。サイド7でザクとアムロの乗るガンダムとの間で戦闘が始まったと知った時、シャアは「これは私が行くしかなそうだ」と副官のドレンにシャア本人が出撃するとの意思を示す。ジーンとドレンはそもそも偵察が任務なので、二人が引き返してくるのが筋なのだが、事態の収拾のために、どういうわけがシャアが現場へ出向くというのである。言うまでもないが地球連邦軍にご挨拶する義理はない。生きているザクに帰還命令を出し、シャア本人はムサイで待つのが筋なのだ。しかし、シャアは行くという。理由は簡単である。シャアは現場に行きたくなってしまったのである。うずうずしてしまい、現場のジーンとデニムに手柄を立てられるのが悔しいので、自分も手柄を立てに行こうとしているというわけだ。サッカーでシュートを入れたい少年と同じ心境なのである。

そもそも、シャアはゲリラ掃蕩作戦の帰りに、地球連邦のV作戦の存在をキャッチし、その秘密がサイド7にありそうだということで予定外の遠回りをしてサイド7に立ち寄っている。ゲリラ掃蕩を命じられていたシャアに、そのような遠回りをする義理はなかったのだが、敵のV作戦の存在を知ったとたん、うずうずしてしまい、スーパースターの味が忘れられず、ルウム戦役の夢よもう一度と思って、独自の判断で動いたということになる。要するに手柄が欲しくて独断専行したというわけだ。もうちょっと言えば、若きジーンと上官のシャアは同じ心理構造を持っていたということが分かる。二人の運命を分けたものは、ジーンが敵対した相手が連邦軍の技術の結晶であるガンダムであり、シャアが敵対した相手はまだ戦いに不慣れな連邦軍だったという違いくらいしか思い浮かばない。

これでだいたい今回述べたいことは述べたのだが、シャアは上官のドズルから命令されたわけでもないのに、手柄が欲しくてうずうずしてしまい、行かなくてもいいサイド7に行って、なんとザク2機を失い、パイロットを2人戦死させているのである。これがシャアをして「若さゆえの過ち」と言わしめた失敗である。

もちろん、これはシャアの失敗の序の口に過ぎない。今後シャアはガンダムとホワイトベースのために数多のモビルスーツとパイロットを失い、親友を失い、スパイを失い、戦場の盟友を失い、恋人を失い、プライドも失うことになる。気の毒なことこの上ないのだが、このシャアの転落がガンダムの裏テーマだと考えれば、ガンダムという作品理解を深めるために無視するわけにもいかないのである。当面はシャアについて記事を追加していくことを予定している。




【うる星やつらオンリーユー】と【カリオストロの城】の相似関係

ふと気づいたので、備忘のためにここに書いて残しておきたいと思います。

『うる星やつら』の第一回劇場公開映画【オンリーユー】は、作品全体がルパン三世の【カリオストロの城】へのオマージュになっているのではないか、オンリーユーとカリオストロはアダプテーションの関係にあるのではないかということに最近気づいたのです。

『うる星やつらオンリーユー』の冒頭の方で、面堂終太郎の屋敷にあたるとエルなる女性の結婚式の招待状が届く場面がありますが、この際、招待状を持ってきた人物に対し、終太郎が「読め」と命じ、「しかし…」とたじろいだところで終太郎が「構わん」と続けます。

何回もみたことがある人ならすぐに気づくと思いますが、これはカリオストロの城でルパン襲撃に失敗した後のジョドーの背中に貼られていたメッセージカードを読む場面の台詞と全く同じです。伯爵が「読め」と言い、ジョドー「しかし…」とたじろいで、伯爵が「構わん」と続くわけで、作り手は完全に意識して、分かる人はばっちり分かるように、この作品はカリオストロのオマージュだと最初の方で宣言しているのだと言うことができます。

全体の構図としても、男と女の立場が入れ替わっただけで、一人の男性または女性を奪い合う女たちまたは男たちが存在する構造になっています。

以下に簡単に表みたいにしてみます。

あたる⇔クラリス
ラム⇔ルパン三世
エル⇔カリオストロ伯爵

オンリーユーでは誠実で情熱的なラムが、権力で欲望を達成しようとするエルという女性とあたるという一人の男を取り合います。一方で、カリオストロでは、誠実で優しいルパンが、権力で欲望を達成しようとするカリオストロ伯爵とクラリスという一人の女性を取り合うわけで、冒頭の「読め」「構わん」のやり取りも含めると、意識して作り手が相似関係に持ち込んでいるとしか考えられないわけです。シェイクスピアのリア王と黒澤明の乱の関係みたいなものです。

結婚式の場面でも、元ネタであるカリオストロではクラリスが薬物でしゃべれない状態になっており、沈黙をもって結婚に同意するというスタイルに伯爵が持ち込もうとしますが、オンリーユーでは聖職者があたるに対し「以下略」という台詞によってあたるを沈黙させ、結婚の成立に持ち込もうとしています。いよいよ婚姻関係が成立するという直前に、カリオストロではルパンが、オンリーユーではラムが登場するわけです。やや違うのは、オンリーユーではダスティンホフマンの『卒業』をパクっているというところだと言えるでしょう。

このように考えると、伯爵に仕えるジョドーに対してエルにつかえるおばば様がいるし、ルパンの親友の次元に対応しているのは弁天ということになります。峰不二子と対応する人物は存在しませんが、カリオストロでも峰不二子は物語の構造上、存在する必然性は低く、うる星やつらでは尚のこと、対応する人物みたいなものは不要です。敢えて言えば牛丼の大将ですが、牛丼の大将も存在の必然性は低いです。

以上、気づいたことをまとめておきました。



アニメ『生きのびるために』でイスラム世界を一歩深く理解できるか

ヨーロッパ資本で制作された現代のアフガニスタンを舞台にしたアニメ『生きのびるために』は、ある程度イスラム世界がどうなっているのかを理解することに資するように思える。だが一方で、この映画と現実がどれくらい近いのか、或いは遠いのかを判断する材料が私にはない。

私がこの映画を観て最も関心したのは人の動き方が近代人のそれではないということだ。歩き方、走り方、座り方が近代人としての訓練や躾のようなものを受けた人ではないということに注意深く見ることで気づくことができる。近代人の動きというのは感嘆に言うとマラソンできる走り方やそれに準じた動き方みたいなものを私は指していて、いわゆる体育の授業とかきっちりやらされているとそういう動きになるという類のものだ。作り手が意識して近代人ではない動きをキャラクターに与えたことには当然に意味がある。

この映画では女性が一人で外に出歩いただけで人間扱いされないという、西洋近代の洗礼を受けている我々には理解できない受け入れ難い現象が描かれている。しかも主人公の少女の父親が全く理由もないのに監獄に放り込まれるという文化大革命みたいなことが起きてしまう。これが果たして本当にアフガニスタンの日常なのか私には判断できないが、もし本当にそういう日常が繰り返されているのであれば、現代人として容認できない。状況は改善されなければならないし、そのためにできることがあればやるべきだ。

この映画で気づかなくてはいけないことは、主人公の少女が男装をして女性蔑視の社会で生き延び、無意味に監獄に入れられている父親を助けるという物語の展開が、我々近代人の価値観に基づいている一方で、同時に主人公は西洋化された生活を望んでいるわけではないということではないだろうか。繰り返しになるが少女の身のこなしは学校の体育の授業を受けたそれではなく、またそのような立ち居振る舞いを自然なこととして彼女は考えている。ムスリム世界にはムスリム世界のお行儀があり、彼女のその意味ではおそらくきちんと躾されているのだが、我々のそれとは違うということ、そしてそれはそれで正しいということを映画は伝えようとしている。

そのようなことを総合すると、1女性蔑視は容認できない。2しかしムスリムの生活を否定するわけではない。3普遍的な家族愛の3つの要件によってこの作品が成立しているということに気づくことができる。

さて、私はもう一つ、日本アニメをヨーロッパが追い抜いたという感想も得た。日本アニメと言えばジブリである。ジブリと言えば駿である。駿は確かに世界を驚愕させる高い品質のアニメーションを連発した。特にナウシカ、トトロ、もののけ、千と千尋が世界に与えた影響は大きい。ファンタジーであり、登場人物に感情移入しやすく、描きれいで、壮大だ。日本のアニメは世界一だと誰もが認めたに相違ない。しかし駿が『風立ちぬ』のような作品を作ったということは、もはや世界にアピールしたいという考えを捨てており、好きなことを好きなように描きたいということしか考えていないことがわかる。そして駿の次に駿に匹敵する人物は現れないだろう。100年に一人の天才が駿だからだ。とすれば、日本アニメ映画はそのピークを既に過ぎてしまっていることになる。

一方で、駿的壮大なファンタジーに対抗すべく欧米で作られた素朴なアニメはかえって観客の心を打ちやすいのではないかと思える。たとえばこの『生きのびるために』のような作品がそうだ。アニメは派手ならいいというものではないし、画面が凄ければいいというものでもない。凄い画面はCG技術でいくらでも作ることができる。むしろ、一つ一つの絵が素朴かつ真摯に作られることが大切なのではないかと私には思えた。



『火垂るの墓』をもう一度みて気づく「無責任の体系」

高畑勲監督が他界されたことを機に、『火垂るの墓』についてよくよく考える日々が続き、もう二度と見たくないトラウマ映画だと思っていましたが、やっぱりもう一回見ないと何とも言えない…というのもあって、改めて見てみました。ネットで広がる清太クズ論は私の内面からは一掃され、それについては完全否定するしかないとの結論に達しました。

父も母も家もない状態で、清太は妹を守ることに全力を尽くしており、金にものを言わせようとした面はありますが、最後に頼れるのはお金と思えば清太が金を使うことは正しく、更に言えば盗みをするのも妹と生き抜くためにはやむを得ません。それこそ非常時です。空襲で家を焼かれなかった人の数倍、清太個人にとってはとても支えきれない大非常時と言えます。

西宮のおばさんが悪いのでしょうか?私は自信をもって西宮のおばさんが悪いと断言できますが、悪いのは西宮のおばさんだけではないというのがこの作品のミソではないかと思います。とはいえ、まずは西宮のおばさんを糾弾するところから始めたいと思います。確かにおばさんにとっては、清太と節子の兄妹は厄介者です。しかし、親を亡くして焼け出された兄妹に対し「疫病神」だのなんだのと言っていびり倒すのは間違っています。印象的なのは清太が決心して節子とともにこっそり西宮のおばさんの家を去ろうとした際におばさんと不意に遭遇してしまった時の様子です。おばさんは「気いつけて」「せっちゃん、さようなら」と言い、心配そうに二人の後ろ姿を見送ります。おばさんは大人なのです。出て行こうとする二人に対して「何をバカなことを考えているのか。二人で野宿でもするのか。いいから家にとどまってこれからのことをよく考えなさい」と説諭してしかるべきです。しかし、心配そうに見送るだけなのです。いびり倒した上に心配そうに見送るだけのおばさんに非があって当然です。おばさんの家には少なくとも三畳間が余っているわけですし、食料がないと言っても清太と節子の食料の配給もあったのです。二人は野宿者となり、配給すら受け取れない状態へと自滅していく様子がおばさんにはありありと見えたはずです。にもかかわらず、心配そうに見送るだけしかしない大人の責任とは問われなくてはいけません。

この作品では大人の「無責任」が随所で強調されています。たとえば清太が盗みを働いた農家の男は清太を殴り倒し、おさない妹がいることを知りながら「自分が受けた被害」だけに憤慨して警察に突き出します。西宮のおばさんは「助け合い」を清太に強調しましたが、おばさんも所属する大人の世界は我が事のみを考える世界だったわけです。警察官は清太に優しいですが、水を飲ませるだけで今後の二人を助けるきっかけを与えようとまでは考えません。警察官も無責任なのです。清太が母親の着物やお金と交換に食料をもらいに行っていた農家のおじさんも清太にお金がないと分かった瞬間に食料の提供を拒み「うちではそんなに余っていない」「お金や着物のことを言っているのではない」「おばさんに頭を下げろ」と米のおにぎりを食べながら諭しますが、はっきり言えば交換できる物のないやつに与える飯はねえというわけです。

節子が亡くなって荼毘にふすために必要な材料を買いに行ったとき、お店の人が呑気そうに「今日はええ天気やなあ」と言いますが、その表情が実に幸せそうであり、清太にとって重大事である節子の死に対する慎ましい態度というものを見せようとする気遣いすらありません。

高畑勲監督が『火垂るの墓』は反戦映画ではないと言っていましたが、今回改めて見てよく分かりました。これは戦争の悲惨さを描く作品なのではなく、丸山眞男が唱えた「無責任の体系」を描く作品だったのです。ですから、美しい日本とか、助け合いの日本とか、公共道徳に優れた日本とか言ってるけど、お前らみんな、清太と節子を見捨ててるじゃん。と監督は言いたかったのではないかと私には思えます。丸山の無責任の体系のその中心に天皇がいるという議論には私は賛成しかねます。天皇制があるから戦争中の日本人が無責任だったのだという議論そのものが無責任だと私には思えるからです。新聞が煽り、国民も多いに沸いて主体的に戦争に関与し、ある人は儲けも得て、戦争に敗けたら〇〇が悪いと言い立てて自分には責任がないと言い張ろうとする姿こそ無責任です。そしてそれは少なくとも『火垂るの墓』が制作されたその時に於いても同じなのだと高畑監督は主張したかった。だから最後に現代のきらびやかな神戸の夜景のシーンを入れたのではないかと私は思います。

余談というかついでになってしまいますが、統制経済を導入し食料を配給制にして、隣組に入っていないと配給すら受けられないとする、ちょっとでもコースから外れたら即死亡という体制翼賛的国民総動員社会を作ったのは近衛文麿です。国民総動員の名のもとに国民の自由意思を制限し、全てをお国に捧げざるを得ないように仕向けた結果、戦争も敗戦も自分には何の責任もないというロジックが生まれたとすれば、敢えて私は清太と節子が死んだのは、近衛文麿がせいだと言いたいです。

トラウマ映画の『火垂るの墓』ですが、今回は初見ではなく節子が死ぬことは最初から分かってみていましたし、いろいろな情報を得て感情面でも中和してみることができましたから、心理的ダメージは少なくて済みました。もう一回見たいかと問われれば、もう二度と見たくありません。



アニメ映画『GODZILLA-怪獣惑星』のやれることは全部やってる感

アニメ版の『GODZILLA-怪獣惑星』は、とにかくやれることは全部やってる感が強く、私はなかなか満足することができました。まず第一に「終末後」の世界という設定がなかなかいいように思えます。過去、ゴジラは何度となく日本列島に上陸して来ましたが、人間サイドが多大な知恵と努力を注ぎ込み、原則的にゴジラは撃退されてしまいます。赤坂憲雄先生が指摘していらしたようにゴジラは太平洋で戦死した日本兵のメタファーであるとすれば、日本人が繁栄を楽しみ俺たちのことを忘れるということは受け入れがたいと異議申し立てをするかのようにして上陸してきたとしても国土を完全に破壊し尽くすことなく、皇居を破壊することもなくギリギリのところでゴジラは撤退せざるを得なかったと言うことになります。ゴジラは終末的危機をもたらすことはあっても終末は必ず回避されていたわけです。

ところが今回の作品では、ゴジラをして地球の頂点に立たしめ、なぜかわからないが狙い撃ちされる地球人は大急ぎで地球を撤退。あてどない宇宙への放浪の旅に出ます。時代は既に終末後になっています。地球人を宗教的に支えている宇宙人が登場しますが、背の高い美しい金髪の人々で、オカルトの世界では金星人などの宇宙人はブロンドの美少女などの説がありますから、そういった都市伝説も入れ込みつつ、主人公の榊大尉はイケメンで、彼を慕う部下にはきちんと美少女が配されており、キャラ設定にもぬかりないといった感じです。IT技術があほみたいに進歩していて宙に画面が浮かび上がりAIのおかげでいかなる複雑な状況も瞬時に分析可能です。人々がとるものもとりあえず避難宇宙船にはスタートレックや2001年宇宙の旅、またはスペースコロニーを想起させるものがあり、再び意を決してゴジラと対決する人類の武器はモビルスーツならぬパワードスーツで、要するにイケメン、美少女、陰謀、勇気、未知のテクノロジーなどが詰め込めるだけ詰め込んであり、地球で人が頂点に立てないというのは猿の惑星みたいな感じもありますから、そういう要素も取り込んで、作り手がやりたいことは全部やっている、やれることは全てした感に溢れています。ゴジラ撃滅を企図して上陸した地球の地上はもはや得体の知れない植物と有毒がガスで満ちており、もはやナウシカといった様相すら呈しています。更に言うと一体しかいないはずの強敵ゴジラを倒したら、次にもっとでかいラスボス風ゴジラが登場するというのは、永遠にもっと強い敵が出てくるドラゴンボールみたいな感じになっていて、アニメファン、SFファンともに楽しめる内容になっていると思います。

さて、この三部作の続きが果たしてどうなるのか、ここまでいっぱいに広げた風呂敷をどうやってしまいこむのかに注目せざるを得ませんね。