ドイツがソ連侵攻をしなければドイツは勝てましたか?

勝てた可能性はあると思います。日独同盟がむすばれた時、日本では多くの人がヨーロッパの戦争でドイツが絶対に勝つと考えられていましたが、それはソ連と戦争していなかったからですね。で、ソ連とも戦争を始めたと知り、これでヒトラーは敗けたと嘆いた人がいたそうです。それくらいソ連との戦争は潮目を変える出来事であったと思います。二正面戦争をしながらアメリカ軍までやってきて、それでも3年持ちこたえたわけですから、如何にドイツ軍が凄かったかということだとは思います。

当時、ポール・アインチヒという経済記者みたいな人がいて、彼はドイツは必ず敗けると予言していました。なぜなら、資本力のある方が勝つのが近代戦争だからだと。で、当時のイギリスは世界一の金持ちですから、ドイツがどれほど素晴らしい戦術と技術力で攻めてこようとも最終的には金の力で幾らでも戦車や飛行機を準備できるイギリスが勝つであろうと述べていたわけです。

但し、当時の状況を考えるに、イギリスの富の源泉である植民地は日本軍に侵攻に脅かされていて、実際、しばらくしたら怒涛の勢いで日本が取って行ったわけです。

ですので、仮にドイツが本当に対英戦争だけに集中していた場合、1942年、43年あたりでドイツがようやくイギリス上陸ロンドン占領みたいなことはあり得たと思います。

それをヒトラーが待ちきれなかったのが枢軸国滅亡の要因ではないかなと思います。

ヒトラーには日本の居合を教えてあげた方が良かったかも知れません。



あなたの思う、世界史で一番面白い時代はいつですか?

18世紀の終わりごろから19世紀の初期あたりは近代の始まりであり、現代に生きる我々の生活や価値観と直接つながってきますので、大変に興味深いと思います。1776年、アメリカ合衆国が独立しますが、この時、フランスのブルボン王朝はイギリスに対する嫌がらせのためにアメリカに肩入れしていたわけですね。で、そのブルボン王朝は無謀な戦争をやり続けたおかげで財政破綻し、1789年にフランス革命が起き、ルイ16世とマリーアントワネットが断頭台に消えるというショッキングな事件も起きましたが、これが立憲主義・三権分立・共和制などの近代国家誕生の礎にもなったわけです。フランスはその後、独裁政権が生まれたり王政復古したり紆余曲折しますが、その紆余曲折そのものが近代的政体を模索する正解なき旅路みたいなところもあったわけです。で、その後、ナポレオンの時代が来ますけれども、ナポレオンが最も大きな影響を世界史に与えたできごとは神聖ローマ帝国の解体であったのではないかと私は思います。当時既に形骸化の感の強い神聖ローマ帝国ではありましたが、中世的なローマ教皇と神聖ローマ皇帝の二重権力によるヨーロッパ秩序の維持・支配というものが、完全に終わったことをナポレオンは分かりやすく世の中に示したわけですね。そのインパクトは強く、ベートーベンは『英雄』をコンポーズするくらいに新時代にかぶれることになりましたし、フィヒテは危機感を抱いて演説して歩くことにもなったわけです。ヘーゲルのような哲学者は、なぜナポレオンという、これまでとは全く違ったタイプの政治家・支配者がこの世に登場したのかという疑問を説明する必要を感じて歴史哲学を発展させていくことになります。つまりナポレオンはフランス人で、フランスを変えたはずですが、実はドイツ語圏に多大な影響を与えたわけですね。ナポレオンは同じことをロシアでやろうとして自滅していくことにもなっていきました。私はアドルフヒトラーが同時代のドイツ人に強く支持された理由の一つとして、彼らの記憶の奥深くにナポレオンが生き続け、語り継がれたからではないかという気がしてなりません。歴史には時々英雄が生まれ、歴史そのものを次の段階へ強引に移行させることがある。前回はナポレオンだった。そして今回はアドルフヒトラーなのだと彼らは錯覚してしまったのではないかという気がするのです(アドルフヒトラーの登場は、「面白い」ことでは全くありませんが、考察し続けなければならないという考えから言及しました)。吉田松陰も影響を受け、日本からナポレオンが生まれることを求めました。清朝でも梁啓超が中国人のナポレオンが生まれなくてはならないと主張する文章を書いています。

というような感じで、大変に興味が尽きません。



ガンダムに出てきたデキン公王のギレン総帥へのヒトラーの尻尾と揶揄したセリフのヒトラーの尻尾とはどのような意味合いだったのでしょうか?

ギレンはデギン公王に対し「私とてジオン・ダイクンの革命に参加した者です」と述べています。ギレンは新時代を築く側の人間であると自負していることがその一言で分かるわけですが、ヒトラーが自らの原点をドイツ革命に見出している点に於いて両者は共通しています。そして優生思想を信じ劣等と判定した人々を抹殺すると決心している点でも共通しています。しかしヒトラーが時間軸的に先でありギレンはその真似をしているに過ぎない。即ち頭ではなく尻尾の方であるということではないでしょうか。私としてはデギンが「ヒトラーは身内に殺されたのだぞ」と述べているのがひっかかります。その言葉はギレンの運命を予言してはいますが実際のヒトラーは自殺しているからです。デギンにはそのギレンに殺される運命が待っていますから、これがアニメじゃなかったら忌まわしさにぞっとしますね。



民主化運動はたくさんありますが、反民主化運動は人類の歴史であるのでしょうか?

「民主化運動はたくさんありますが、反民主化運動は人類の歴史であるのでしょうか?」というquoraでの質問に対する私の回答です。

たとえばファシズムは民主とは逆の概念であると思いますので、ファシズム運動をした人、ファシストを自称した人、ファシズムに近い体制を確立するための努力をした人は反民主化運動家たちであり、彼らの運動は反民主化運動と言えるのではないかと思います。例としては、たとえばアドルフヒトラー、国家総動員法を成立させた近衛文麿、クメール・ルージュのポルポト、スペインのフランコ、イタリアのムッソリーニなど、多くの自覚的ファシストまたは事実上のファシストが歴史に名を残しています。おそらく、フロリダのキューバ移民はフィデロ・カストロをファシストを呼び非難することでしょう。毛沢東やスターリンのような有名な共産圏の指導者をそのようにカテゴライズするべきかどうかについても、議論する人の立場によって違ってくるように思います。




映画の中のヒトラー

戦後映画で最もたくさん登場した人物の一人としてアドルフ・ヒトラーの名を挙げて異論のある人は少ないだろう。戦後、世界中の映画だけでなくドラマや漫画も含めれば、彼は無数に登場し、下記の直され、再生産あれ、時に印象の上塗りがなされ、時に犯罪性の再告発があり、時にイメージの修正が行われた。

彼を最もイメージ通りに再現し、かつそのイメージを強化する役割を果たしたのは、ソ連映画の『ヨーロッパの解放』(全三部)ではなかろうか。動き方、髪型、髭、声の感じ、狂気、死に方。全て我々にとってのヒトラーのイメージそのものである。特に死に方だが、振り返りたくなるほどとびきりの美しさを誇るエヴァ・ブラウンが嫌がっているにもかかわらず強引に口をこじ開けて青酸カリを押し込み、その後、なかなか勇気が振り絞れずに過去に愛した従妹の名を叫びつつこめかみの引き金を引くという流れは、エヴァ・ブラウンがヒトラーのことを命をかけてまで愛したいと実は思っていなかったにちがいなく、ヒトラーも彼女のことを愛してはおらず、ただ一人でも多く道連れにしてやろうと思ったに過ぎないというギスギスした相互不信によって塗り固められた愛情関係の存在が描かれている。見た人はいないわけで、本当にそうだったかどうかは分からないが、我々のイメージには合う。手塚治虫先生の『アドルフに告ぐ』の場合、実は第三者が忍び込んできて、せっかく名誉ある自決を選ぼうとしているのにそれだけはさせまいとヒトラーを殺害する。実際を見たわけではないので、そういう可能性がゼロではないということくらいしかできない。
ソ連映画の方が、最期の最後でヒトラーが英雄的自決という物語に浸り切れていたとは言えないのとは逆に、『アドルフに告ぐ』では英雄的自決という浪漫に浸ろうとしても浸らせてもらえなかったというあたりは面白い相違ではないだろうか。

だが以上の議論では実は重要な点を見落としてしまっている。ヒトラーが元気すぎるのだ。東部戦線がおもわしくなくなったころから、ヒトラーはパーキンソン病が進み、常に右手が震えており、老け込みが激しかったと言われている。ヒトラー最後の映像と言われている、彼が陥落直前のベルリンでヒトラーユーゲントを励ます場面では、それ以前の中年でまだまだ油がのっているヒトラーとは違い、老年期に入った表情になっている。絶対に勝てないということが分かり、一機に衰弱したものと察することもできるだろう。

で、それを作品に反映させているのが有名な『ヒトラー最期の12日間』である。手の震えを隠しきることすらできない老いたヒトラーは、ちょっとでもなんとかできないかと苦悩し、どうにもならないと分かると、無力感にひしがれつつ叫ぶ。憐れなヒットラー像である。この映画があまりにクオリティが高いため、その後のヒトラー物を作る際にはこの作品の影響が見られるのが常識になるのではないだろうか。以前のヒットラーは若々しすぎ、エネルギッシュ過ぎた。確かに政権を獲ったすぐのころなど、まだまだ元気で颯爽としていたに違いないが、晩年の彼には明らかな衰えが見られるのであるから、映画でベルリン陥落をやる際は、そこは留意されるべき点かも知れない。まあ、ベルリン陥落を映像化しようとするとやたらめったらと金がかかるはずなので、そんなにしょっちゅう映画化されるとも思えないが。

そのようにヒトラー象がいろいろある中、興味深かったのが『帰ってきたヒトラー』だ。激しい戦闘の結果、21世紀へとタイムスリップしてきたヒトラーは、人々の声をよく聞き、演説し、ドイツ人のプライドを大いにくすぐり熱狂的なファンが登場する。一方で、戦後ドイツではナチスの肯定はしてはならないことなので、激しい嫌悪を示す人もいる。だがこの映画で分かることは、ドイツ人は今でも本音ではいろいろ思っているということだ。敗戦国民なので言ってはいけないことがたくさんあるのだが、本心ではいろいろいいたい。ヒトラーのそっくりさん(という設定)が出てきて、「さあ、現代ドイツの不満を何でも述べなさい。私はドイツを愛している」みたいなことを言って歩くと、カメラの前でいろいろな人が政治に対する本音を話すのにわりと驚いてしまった。そして、ドイツ人の中には外国人には来てほしくないと思っている場合も多いということもよく分かった。編集次第なのかも知れないが、そういうことをカメラの前でヒトラーのそっくりさんと並んで話す人がいるというのも否定しがたい事実なのである。問題はヒトラー役の人物がやや体格が良すぎるし、若すぎるということかも知れない。しかも、なかなかいいやつっぽく見えてしまう。あれ?もしかして私も洗脳されてる?




エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』とナチズム

エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』はあまりに有名すぎて私がここでどうこう言うまでもないことかも知れません。「社会心理学」という分野にカテゴライズされてはいますが、基本的にはフロイトやアドラーの近代心理学の基礎を踏まえ、それを基にドイツでナチズムが勃興した理由を考察している超有名な著作です。

内容の大半はサディズムとマゾヒズムに対する一般的な説明に終始しており、まさしく心理学の解説書みたいな感じですが、サディズムとマゾヒズムが対立項として存在するのではなく、同時に同一人物の内面に存在するとする彼の指摘は我々が普段生きる中で意識しておいた方がいいことかも知れません。

曰く、サディズムを愛好する人物は相手から奪い取ることに満足を得ようとすると同時に、権威主義的であるが故により高位の権威に対しては進んで服従的になり、自らの自由を明け渡すというわけです。ですので、ある人物は自分より権威のある人物に対しては服従的なマゾヒストであり、自分より権威の低い(と彼が見做した)人物に対してはサディストであるということになります。人はその人が社会的にどの辺りの地位に居ようと、権威主義的である限り、より高次なものに対して服従し、より低次と見做せるものに対しては支配的になるということが、連鎖的、連続的に連綿と続いていることになります。

この論理は私にはよく理解できます。誰でも多かれ少なかれ、そのような面はあるのではないでしょうか。権威は確かに時として信用につながりますが、権威主義に自分が飲み込まれてしまうと、たとえサディズム的立場に立とうと、マゾヒスト的立場に立とうと、個人の尊厳と自由を明け渡してしまいかねない危険な心理構造と言えるかも知れません。

フロムはアドルフ・ヒトラーを分析し、彼自身が大衆の先導をよく心得ていたことと同時に権威に対して服従的であったことを明らかにしています。イギリスという世界帝国に対するヒトラーの憧憬は、チェンバレンがズデーデン地方問題で譲歩した際に、軽蔑へと変化します。なぜなら如何に抗おうととても勝てないと思っていた相手に対して持っていてマゾヒスト的心理が、相手の譲歩によって崩れ去り、なんだ大したことないじゃないかと意識が変化してサディズム的態度で臨むようになっていくというわけです。

自由都市はドイツ発祥です。ですから、本来ドイツ人は自由と個人の尊厳を愛する人々であるはずですが、第一次世界大戦での敗戦とその後の超絶なインフレーションと失業により、絶望し、他人に無関心になりヒトラーというサディストが現れた時、喜んでマゾヒスト的に服従したともフロムは指摘しています。ドイツ人のような自由と哲理の伝統を持つ人々が、自ら率先してナチズムを支持し、自由を明け渡し、文字通り自由から逃走したことは、単なる過去の奇妙かつ異例なできごととして片づけることはできず、如何なる人も状況次第では自由を明け渡し、そこから逃走する危うさを持っていることがこの著作を読むことによってだんだん理解できるようになってきます。

私はもちろん、自由と民主主義を支持する立場ですから、フロムの警告にはよく耳を傾けたいと思っています。簡単に言えば追い詰められすぎると自由から逃走してしまいたくなるということになりますから、自分を追い詰めすぎない、自由から逃走する前に、自分の自由を奪おうとする者から逃走する方がより賢明であるということになるのかも知れません。





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米内光政内閣‐陸軍による倒閣

阿部正信内閣が当事者能力を失って総辞職すると、陸軍では畑俊六が後継首相として指名されるのではないかという期待が広がり、ある種の熱が生まれてきます。ところが昭和天皇は陸軍が日独伊三国同盟に積極的なことに不安を感じており、昭和天皇の意思によって海軍の米内光政が後継首相に指名されることになりました。

天皇が後継首相の選考に影響力を発揮することは立憲君主という性質上問題があり、本来であればそういうことはできないはずです。ただ、昭和天皇が人事に積極的な意思を示し、それが実現することは異例のこととはいえ、天皇の政治に対する影響力が非常に曖昧なものであったことが分かります。戦後、昭和天皇の戦争責任はどこまで問えるかという議論は無数になされましたが、制度上の権能と実際上の影響力に乖離があり、その乖離の程度には天皇以外の外的要因が働くことも多く、結果として真相が測りがたいという難しいことに至ってしまったという印象が残ります。

また、政党政治家に首相指名の話がいかなかったのは、昭和天皇や西園寺公望のような究極のエスタブリッシュメントが、政党政治家たちのことを、人気投票で選ばれるために嘘もつくし政権を獲るためには見苦しい陰謀も厭わず、白を黒といい抜けようとするレトリックを駆使することに疲れていた、或いは失望していた、「政党政治家は二流の人間のやることだ」という諦観に至っていたというようにも見えてきます。広田弘毅が首相指名される時、天皇は広田氏が名門の出身者でないことを不安に感じたというエピソードもあるようですが、当時のことですから、まだ、天皇と周辺には日本は究極のエスタブリッシュメントが寡頭政治をするのがちょうど良いと思っていたのではないかとも感じられます。もっとも、当時の気配であれば政党政治家が首相になれば陸軍なり憲兵なりに命を狙われる可能性が高く、危なくておちおち首相に指名できないという側面もあったかも知れません。

ヨーロッパではアドルフヒトラーがポーランドを分割占領した後、イギリス・フランスとも西部戦線で対峙していましたが、しばらくは双方ともに積極的な攻勢に出ることがなく、半年ほど事実上の休戦状態に入ります。米内光政はドイツとの同盟に懐疑的で、ヨーロッパで本当にアドルフヒトラーが勝つかどうか分からないという雰囲気の中、同盟締結に踏み切らないままでいましたが、ドイツ軍が国境の森林地帯を抜けてフランスのマジノ線要塞を後方から攻撃するという虚をつく電撃作戦で勝利し、早々にフランスが降伏したことから、陸軍部内ではバスに乗り遅れてはいかんということになり、とにかく非ドイツの米内光政を引きずりおろせという話が持ち上がって、畑俊六が陸軍大臣を辞任し、陸軍の総意として後任の大臣は出さないという挙に出たため、米内内閣は総辞職せざるを得なくなります。

陸軍という際限なき冒険主義者が軍部大臣現役武官制を盾にとり、日本という馬の鼻づらをあらぬ方向へと引きずり回す様子が見てとれ、知れば知るほどがっくり来ます。本当にこの時代の出来事はがっくりくることばかりです。

米内内閣の次は、近衛文麿が二度目の組閣を命じられることになりますが、この段階では西園寺公望は近衛にあまり大きな期待は持っていなかったと言われます。近衛は中国での「聖戦」を貫徹しつつ、日本を国家社会主義みたいな国にして、アメリカ様のご機嫌をとるという無理と矛盾に満ちた国策を進めようとし、やがて運命の太平洋戦争へと続いていきます。


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阿部信行内閣‐当事者能力の喪失

平沼騏一郎内閣が「欧米の天地は複雑怪奇」として総辞職をした後、後継の首相選びは難航します。外交、日中戦争ともに手詰まりで出口がなく、西園寺公望は「(後継首相に誰がいいか)自分には意見がない」とまで言い出したと言われます。首相の成り手がいないという深刻な時代に立ち至った時、陸軍が阿部信行擁立に動き、消去法的に阿部信行が首相に指名されることになります。

阿部信行の出身母体は陸軍でありながら、皇道派にも統制派にも属しておらず、多少リベラルな面も持っていた人物とも言われていますが、外交でも日中戦争でも打てるべき手がなくなっており、始まった時から死に体だった感がぬぐえません。そのような人物を首相に据えざるを得ないほど、日本そのものが当事者能力を喪失していたのではないかとすら思えてきます。

阿部内閣時代にアドルフヒトラーがポーランドに侵攻し、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告をすることで、第二次世界大戦が始ってしまいますが、阿部はヨーロッパ情勢に対しては中立の姿勢を見せます。更に、行き詰まった外交を打開する目的で、外交権を外務省から内閣へと奪い取ることを画策しますが、外務省職員の強い反発を受け、こちらの方は頓挫してしまいます。

汪兆銘政権を相手に日中講和の可能性を探りますが、そもそもが蒋介石を抜きにした和平案ははっきり言って無理があり、蒋介石とのルートを確保しようとしなかった、またはできなかったということは、日中戦争解決が根本的に不可能だったことを示していると言えるかも知れません。

1940年1月、汪兆銘の側近が香港に逃れ、汪兆銘と日本との間に交わされている和平交渉が「売国的」なものであると暴露し、講和交渉がこれ以上不可能と考えた阿部信行内閣は総辞職へと至ります。阿部は総辞職にあたり「日本の国は陸軍とそれ以外に分裂している。ここを調整するのは想像していた以上に難しかった」という主旨の弁を残したと言われていますが、政治家や外交官がどれほど手を尽くしても軍が実力行使でちゃぶ台返しで既成事実を積み重ねていくという図式がもはや慣例化しており、シビリアンコントロールは喪失していたと見るべきですので、この段階で既に日本の命運は尽きていたと思えなくもありません。

歴代の首相の動きを見ているとかくも複雑怪奇なことが外国人に説明して分かってもらえるわけもなく、知れば知るほど暗澹たる気持ちになっていきます。阿部信行内閣の次はこれもまた短命な米内光正内閣が登場します。


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平沼騏一郎内閣‐欧州は複雑怪奇

第一次近衛文麿内閣が総辞職した後、後継首相に指名されたのは枢密院議長の平沼騏一郎でした。平沼騏一郎は司法界の出身ですので、政党政治家でもなければ軍人でもなく、また名門貴族でもない一味違ったタイプの首相と言えるかも知れません。

しかし、閣内では親ドイツと新英米で対立があり、近衛文麿を無所任大臣として起用している辺りには、ある程度、傀儡色の強い部分があったという印象も残ります。全体主義色の濃い国民徴用令もこの時に出されています。近衛文麿の体制翼賛体制には否定的でありながら、国民徴用令を出すというあたり、なんとも理解に苦しむところが残ります。半年あまりで潰れてしまった内閣ですので、さほどの仕事ができたとも言えません。

ただし、記憶すべき出来事はいろいろと起きています。日本の運命がいよいよ暗転するという時に、指導力を発揮した形跡は見当たりません。この時期にノモンハン事件が起きており、最近の研究ではソ連側の被害の方が大きかったことが指摘されていますが、それでもやはり大陸に於ける動員力の違いがはっきりした事件と言え、その後の日本帝国にとって重要な研究材料になったはずですが、結局はその教訓が生かされたとも言い難しというところです。

米英強調・反共・親ドイツという3つの要素が三つ巴になっていましたが、そこに独ソ不可侵条約という不測の外交的な爆弾が投下されます。この独ソ不可侵条約そのものがアドルフヒトラーのトラップのようなものですが、ドイツと提携しつつソビエト連邦に対抗するという基本的な軸が崩れて「欧州の天地は複雑怪奇」という言葉を遺して総辞職に至ります。

英米協調でありながらアメリカからは日米通商航海条約の破棄を通告されてしまい、本音は親英米でドイツの勢いを利用して防共という点では松岡洋右と共通項を持ちながらも対立しているなど、当時の政治家は支離滅裂感が強く、私にはこの段階ですでに日本政府は当事者能力を失いつつあったのではないかと訝し気に感じてしまいます。

平沼騏一郎が退陣した後は、阿部信行内閣、米内光政内閣の二つの短命政権が続き、いよいよ運命の第二次・第三次近衛内閣の時代を迎えます。とはいえ、平沼騏一郎が首相に就任した時点では、日本は既に後戻りのできない峠を越えていたのではないかとも思えます。知れば知るほど、返す返すもがっくり来てしまう昭和史です。ろくに首相として仕事のできなかった平沼騏一郎氏がなぜA級戦犯で終身刑を言い渡されるのかも別の意味で残る謎です。


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226事件で岡田啓介首相が退陣した後、組閣を命じられたのが広田弘毅です。当初、西園寺公望は近衛文麿を首相に推す意向を持っていたようですが、近衛が固辞し、吉田茂の説得で広田弘毅が組閣を引き受けることになったという経緯があるようです。

広田弘毅という人は見るからに文官風で、東京裁判で裁かれている姿を見ると、違和感というか受け入れがたいというか、何か不可思議な儀式を見せられているような気分になってしまうのですが、広田弘毅内閣の時代に軍部大臣現役武官制を復活させたこと、日独防共協定を結んだこと、それから近衛内閣の時代に外務大臣を務めた際、南京攻略戦後に強行な外交策に出てトラウトマン和平工作を水泡に帰させたことなど、確かに要所要所で日本が滅亡していく方向へと舵を切っていたと見ることも可能かも知れません。

軍部大臣現役武官制については、仮に予備役の軍人を大臣に据えることができたとしても、軍部大臣そのものが大抵の場合、陸海軍の意向を受けて行動もするし、辞表もチラつかせて脅しかけてくるしという面があるので、このことだけで軍国主義への道を開いたと考えるのは酷なように思えます。このような制度を作ろうと作るまいと、犬養毅が統帥権干犯問題で内閣を揺さぶる手法が可能だということを証明した後は、軍のなすがままにならざるを得なかったのではないかと私には思えます。

では、日独防共協定はどうでしょうか。日本としてはソビエト連邦に備えるための外交策で、リッペントロップが積極的に活動して締結されたものですが、後にアドルフヒトラーは独ソ不可侵条約を締結したことで「欧米事情は複雑怪奇」と言わしめるほどに当時の国策を実現していくものではなかったことが分かります。日本はアドルフヒトラーの外交のお遊びにつき合わされて引っ張りまわされただけで、英米からの敵視が増幅するという副作用もあったわけですので、こっちは体を張ってでも拒絶すべきものだったのではないかという気がします。

後に重臣会議のメンバーとなった広田弘毅は日独伊三国同盟の締結について、英米を敵に回すという理由で強く反対したらしいのですが、果たして日独防共協定は推して三国同盟に反対するというのはどういう心境なのかと首を傾げてしまいます。

もちろん「ソビエト連邦の脅威に対抗できるのならばヒトラーと手を組む、そうでなければ手を組まない」というロジックが理解できないわけではありません。しかしながら、最終的には対英米の協和が必須だったことは間違いなく、重要なポイントには取り組まず、小手先でいろいろなんとかしようとしたのが裏目裏目に出たのではないかという気がしなくもありません。大局を見誤っていたとしか言えません。

南京攻略戦後の交渉材料のつり上げによるトラウトマン工作の破綻は、広田弘毅が「外交のプロ」として、敵の首都を陥落させた以上、要求は更に大きくできるという常道を通したのかも知れませんが、実際問題としてはそれも裏目に出たわけで、策士策に溺れるの感が否めません。

東京裁判では広田弘毅は「自ら計らわない」に徹し、一切の自己弁護を行わなかったことで知られています。もしかすると、ヒトラーや蒋介石との外交で策謀を働かせ、次々と裏目に出て国を滅亡に導いてしまったことへの自責のようなものからそのような心境になったのではないかという気がします。

そうはいっても文官が文官としての仕事をして極刑に処されるというのはやはり気の毒というか、感情的に受け入れがたいものがあります。広田弘毅という人物をどう評価するかは、或いはあと30年ぐらい待ってみて、東京裁判の時代に生きていた人がいなくなったくらいからやり直さなくてはいけないのかも知れません。

広田弘毅内閣は馬場鍈一大蔵大臣の超巨大予算で混乱が生じ、寺内寿一陸軍大臣と政友会の浜田国松との間で「軍を侮辱するのか」「軍を侮辱していない。速記録を見返して軍を侮辱した箇所があったら私は腹を切る。もし見つからなかったら寺内君が腹を切れ」というタイマンの張り合いが起き、頭にきた寺内は広田首相に懲罰的な議会の解散を要求しますが、広田内閣は内閣不一致として総辞職します。

当時はもはや軍の影響力を排除した組閣は不可能に近い状態に陥っており、予備役の林銑十郎が次の組閣を担うことになります。

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