【自己訓練】マインドフルネス呼吸法をやってみた

最近、精神科医の和田秀樹さんが監修したアドラー心理学に関するムック本を読んでみたのですが、本の後ろの方でマインドフルネス呼吸法をやってみましょうみたいなことが書いてあったので、ちょっとやってみました。

マインドフルネス呼吸法というのはやり方そのものは簡単で、本の説明に従えば、楽な姿勢で座り、目を閉じ、数秒かけて息を吸い、数秒かけて吐く、というただそれだけのことですから、難しいということは全然ありません。以前、座禅を習ったことがあるのですが、そこでは先生から座禅をする時は雑念を追い払わなくてはいけない、雑念が浮かんでい来たら意図的にそれを排除し「無」の状態を目指さなくてはいけないと教わりました。それを実践するのは意外と難しいもので、雑念は次から次へと湧いてきますから、雑念を追い払おうとする心の動きだけで結構疲れてしまいます。また、座禅の組み方や姿勢の在り方なども、ちゃんとしたお作法やルールがありますから、そっちの方に気を取られ、精神が休まるとかそういう境地にはなかなか辿り着くことができませんでした。もちろん、西田幾多郎が座禅を通じて東洋の思想を西洋的な論理でも理解できるように体系化したことには意義があり、マインドフルネス呼吸法も究極的には西田幾多郎的な善の研究的なところを目指す一歩なのだとは思いますし、ゆくゆくは座禅マスターみたいなところにたどり着きたいという願望のようなものはあります。とはいえ、実践的に今の生活に合うようにというような感じで求めるとすれば、マインドフルネス呼吸法の方がやりやすいなあというのが実感です。マインドフルネスと座禅のどちらかがより優れているかなどという議論を始めてしまえば、むしろ本来の目的にそぐわず、本末転倒かも知れません。

マインドフルネス呼吸法のいいところは、禅を習ったときに禁じられた雑念を放置してオーケーなところです。むしろ、静かに目を閉じ呼吸をしているときは湧いてくる雑念からヒントが得られるのではないかとすら思えます。アニメの一休さんが座禅を組んで頓智を思いつくのも、マインドフルネス的効果なのではなかろうかという気がします。

先日、ちょっとやってみて、頭の中に「無理するな」という言葉が浮かび、あ、そうか、楽に生きよう。などと思え、自分にとってはちょうど自分に必要な言葉だったように思えましたから、自己対話としても活用できるのではないかという気がします。ユングは人の心の中には、女性的な男性性、男性的な女性性、感情的包容力のある女性性、リーダーシップのある男性性などが同居しているとしましたが、自己対話とは、そういった自分の内面にあるいくつかのパーソナリティとの対話であるかも知れず、それは迷ったときや疲れているとき、困ったときなどに叡智に近づく効果的な方法であるかも知れません。

まあ、そこまで深く考えなくとも、休憩としても最適ですから、今後も思い立った時にやってみようと思います。ほんの数分、目を閉じて静かに呼吸するだけで、意外と疲れも減少すると感じます。

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フロイト‐人は無意識によって支配されている

ヨーロッパでは伝統的に人間の理性を追及し、理性とは何かを明らかにしようとする試みが続けられました。ある程度は現代でもそうかも知れません。それに対するカウンターパートを唱えたのがフロイトであると言ってもいいかも知れません。アメリカではプラグマティズムがそのカウンターパートであり、ヨーロッパ内部ではオーストリア人のフロイトがそうであったというわけです。

フロイトは人は理性によって行動したり決断したりするのではなく、無意識によって自分ではどうすることもできないような衝動で行動したり決断したりするのだと考えました。無意識とは何かと説明するとすれば、エロス、タナトス、トラウマ、エディプスコンプレックスあたりに集約できるかも知れません。

エロスとは主として性に対する衝動であり、これには社会通念上の制限があるのが普通ですから、当然に抑圧され、無意識の世界、自分では気づかない心の奥底の領域に閉じ込めざるを得なくなります。

エロスは単に性的なことだけを指すのではなく、生きるということと密接に結びついています。生きるとは即ち創造的であり生産的な行為のことです。ですので、一生懸命仕事をしている人やがんばっている人、情熱的に生きている人はそれだけでエロスに満ちていると言うことができるかも知れません。

そのエロスの反対にあるのがタナトスです。一般に破壊衝動と訳されていると理解しています。フロイトは第一次世界大戦をその目で見ていますから、かくも残酷なことが起きるのは経済的合理性などでは説明できず、人の心の奥深いところに破壊衝動、タナトスへの欲求があるからだとフロイトは考えました。カミュの理由なき殺人もこういう視点から説明可能かも知れません。また、私たちがカミュの『異邦人』を読んで、読んだ人が全員そうではないにしても、ある程度理解できるなあと思えるのも、私たちの心の奥底にタナトスが共通して存在しているからだと考えることも可能なように思えます。

トラウマは精神的外傷と訳されるもので、幼少年期の心の傷が生涯ついてまわるとフロイトは考えました。なくて七癖と言いますが、心の傷を抑圧しているために人は時として合理性に欠く行動をとるのだというわけです。ドイツの伝統的な観念論や古代ギリシャ以来の理性に対して喧嘩を売っているとも言えますが、確かにトラウマという言葉を使うことによっていろいろ説明できることは確かなようにも思えます。

最後にエディプスコンプレックスですが、これが果たして各人に誰にでも存在するかどうかはあんまり分かりません。「父親」的存在に厳しくされることで、父親を克服したいという願望が生まれることは理解できますが、そこを母親という女性の取り合いの話になるのがすんなりと受け入れることができず、これはヨーロッパ社会に特有の何かなのではないかとも思えますが、そこは人それぞれの判断や感じ方によって異なるかも知れません。

フロイトが理性ではなく無意識という言葉で人間を説明したことの画期性は今も否定されてはいませんが、フロイトが無意識を否定的・悲観的に捉えていたのに対し、弟子のユングは無意識に対して創造性などの人間の可能性を見出し、アドラーはトラウマに捉われない人生の構築を唱えるようになり、フロイトと決別することになります。

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サルトル‐私は何かは私が決める

サルトルは「人間は自由という刑に処されている」と述べました。なんとなく、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』と対比関係にあるのではないかという気もしてきますが、要するに自由には責任が伴うため、自由に生きることには責任相応の苦痛も引き受けなくてはいけません。それができないのであれば、フロムが言ったように自由から逃走せざるを得ず、ホッブスのレヴァイアサンか風の谷のナウシカの巨神兵に全てを預けてしまい、主体性をなくしてうことになってしまいます。

サルトルはそれを赦されることではないと考えました。人間は生まれて来た時はまだ内面が確立されてはいないけれど、やがて成長するに従い、内面が確立し、自分が実際に存在すると感じることができる、実存を獲得します。

問題はここからであり、実存を獲得した人間には当然に選択の自由が与えられており、私がいつ誰と何をどのように行おうと、それは私の勝手というものなのですが、やる以上は責任を持たなくてはいけません。法律論的にそうだという議論も可能でしょうし、道徳的な観点からそうだということも可能でしょうし、あるいは特定の選択をした自分に対して責任があるというような言い方もできるはずです。

それをもう少し敷衍して考えるとすれば、私が何者であるかは私自身で決めると言ってもいいかも知れません。慈悲深い人間である私、或いは悪徳な私、清貧な私、または欲深い私、信心深い私、または無神論者の私、そういったものは全て自分で選んで決めることができますし、選んだ以上は責任が生まれるのです。それはもう「自由という刑」が執行されている状態であり、人としての尊厳を保つためにはこれは受け入れなければならない刑だというわけです。

このような考え方はやはりニーチェの超人を源とするのではないかと思えます。超人とは何かを考えた時に、それはサルトルの示したような自由という刑を受け入れるだけの覚悟を持つ人間のことであり、それはおそらくはアドラー的人間観とも共通するはずです。人は何にでもなれるとアドラーは言いましたが、サルトルはそれを実行せよと私たちに迫ります。責任を持つ主体として何かを選び取ることは、その行為自体が社会参加であり、それをアンガージュマンと言うそうですが、それは個々人が世界に対して責任を負うという厳しい考え方であり、猛々しく颯爽としていますが、果たしてサルトル本人がどこまでそれを実践できたかについてはやや微妙な気がしないわけでもないですねえ。

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ハイデガー-私は必ず死すべき存在である

ハイデガーは20世紀で最も著名な哲学者とも呼ぶべき人物かも知れません。しかし、ナチスの勃興期に於いて支持を表明したことが、戦後に於いて彼に追放されるという不運をもたらします。

それまでとは全く違う、新しい何かが登場した時、それはとても魅力的に見え、それ以前の伝統とか習俗とかそういったものは古臭い、陳腐なものに見えてしまいがちです。たとえばニーチェが神はんだと言ったことの背景には、19世紀の燃料機関の発達というとんでもなく画期的で、かつそれが人間の手によって生み出されたという驚きがあったからです。神の手によらず、人の手によって作られた燃料機関に魅了され、ニーチェは神よりも人に可能性を感じたのだと言ってもいいかも知れません。

ハイデガーがナチスに出会った時、ニーチェが機会文明と出会ったようなときめきを覚えたのでしょうか。それはあり得ないようなことではないかも知れません。エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』で、ナチス勃興期に於いて特に顕著に彼らを支持したのは若者たちであったと述べています。ナチスの制服やポーズや行進がいかした感じに見え、小さな商店を開いているような父親たちの姿が古臭い、陳腐で威厳のないものに見えたことが、ナチスに対して若者が熱狂した理由なのだとしています。ですから、ハイデガーもそういった陶酔に引っかかってしまったとしても、不思議なことではなかったのかも知れません。「ナチスのような集団を支持するなんて信じられない。ばかじゃね」という態度を取るよりも、「ナチス的なものは歓喜や興奮、熱狂や陶酔とともにくる。自分にそれを見定める力があるかどうかは常に自問されなければならない」という態度を保つことの方が賢明のように思えますが、時として賢明であることは熱狂することより遥かに難しくなるはずです。熱狂と陶酔は恋愛と同じで気持ちいいですから、人はそちらへ流れやすいものではないかという気がしてしまいます。

そうとして、ハイデガーは人は自分が死ぬということをよく自覚して生きるべきと説きました。これを「死の先駆的決意性」と呼ぶらしいのですが、要するに死を覚悟して今を生きろということに尽くされるのではないかと思えます。そういったことを日々の習慣とか、或いは日常生活、いわゆる終わりなき日常にかまけて死を忘れ、己の天命を忘れることなく生きよ。というような感じでしょうか。だとすれば、それはやはりニーチェに共通する部分があるように思えます。ニーチェは超人という概念は提示しましたが、超人と言っても人は人ですので、必ず死ぬという運命から逃れることはできません。その上で、「行きて汝のなすべきことをなせ」と要求することは、ハイデガー流に言えば「死の先駆的決意性」と言い換えることができるかも知れないですし、アドラー的な過去にとらわれず今を生きろということにも通じるのではないかという気もします。

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