江戸時代、日本人にとっての西洋といえばオランダであり、西洋に関する研究はひとまとめに蘭学と呼ばれていたわけですが、実はオランダだけで西洋は語れないのだという現実を江戸時代後期に入ると日本人はまざまと見せつけられていくことになります。19世紀の半ばになれば、アメリカだのイギリスだのフランスだのと続々と日本に接近してきますが、まず、日本に接近してきた西洋と言えば、ロシアであって、彼らとの衝撃的な出会いは大黒屋光太夫という商人がロシア領内に漂流したことから始まります。18世紀の終わりころのできごとです。
大黒屋光太夫一行を乗せた船が故障して漂流してしまい、アリューシャン列島の島にたどり着きます。現在、アリューシャン列島はアメリカ領ですが、当時はロシア領でした。アメリカ合衆国がのちにロシア皇帝からアラスカを買い取るんですが、それ以前はロシア皇帝の土地だったんですね。
で、大黒屋光太夫はアリューシャンの孤島でロシアの辺境警備隊みたいな人たちと出会い、彼は日本に帰りたいのだと訴えます。当時、大航海時代から何百年も経ってますし、産業革命もそろそろ起きそうな気配の時代ですから、技術的に日本に帰ることは決して難しくなかったはずですが、政治的には困難でした。ロシア領から正式に出ていくためにはロシア皇帝の許可が必要だという話になり、大黒光太夫とその仲間たちはロシア皇帝エカテリーナ2世に帰国の許しをもらうため、なんとシベリアを越えてペテルブルクを目指します。地球半周ですよね。で、すっごい時間が経って、光太夫の仲間のほとんどが外地で死んでしまって、それでもなんとかペテルブルクでエカテリーナ二世との謁見を果たした光太夫は日本に帰ってきました。井上靖さんが『おろしや国酔夢譚』で光太夫の話を書いてますけど、他にも吉村昭さんも光太夫のことを小説にしています。
で、この時、光太夫を日本に送り届けた男がラクスマンというわけで、ラクスマンは光太夫を北海道に送り届けたついでに松前藩に対し日本との通商交渉の意思があることを伝えます。日本側はそういったことは長崎じゃないと話し合えないと言い出したので、長崎に行くのかなと思うとさにあらず、ラクスマンは帰っていきました。
じゃ、これで終わりかというとそうではないんですね。次にレザノフが来ます。レザノフはロシア皇帝アレクサンドル一世の親書を携え、日本人漂流民もつれて日本に来るんですが、ラクスマンの時に長崎へたらいまわしにされそうになった話を知っていたらしく、直接長崎に姿を現しました。レザノフは日本語の勉強もしていたそうです。しかし、長崎奉行から、うちはオランダとしか交易してませんのでと門前払いされてしまいました。このレザノフ事件は結構な衝撃を与えたらしく、佐久間象山が海岸地帯の防衛の必要性を訴えた『海防策』という著作で、この著作を書こうと思うようになったのはレザノフが日本に来たからだと述べてますし、ラクスマンに続いてレザノフが来たということは、ロシア人はだんだん領域を広げて日本に迫ってるのではないかとの疑念が幕府首脳にもたれるようになって、間宮林蔵の北方派遣にもつながっていきます。間宮林蔵はサハリン島はシベリア大陸とはつながっていないことを発見し、そこは間宮海峡と呼ばれますけれど、ロシア側ではタタール海峡と呼ぶらしいんですが、間宮林蔵はその海峡を越えてアムール川の方まで行き、清朝の役人にも会って、ロシアの進出状況を調べています。19世紀にはチェーホフもサハリン島へ行って現地の人々の生活を記録したりしていますから、サハリン島、千島列島、北海道あたりは日露双方が互いに縄張り争いを意識し合う微妙な土地だったことが分かります。
やがて時代が下るとプチャーチンが来日し、日本とロシアの間で北方の国境線が策定されました。千島列島のエトロフとウルップの間で国境線が定められ、樺太島に関しては、両国民雑居の地ということになりましたから、やはり、まだどちらのものとも言えない、悩ましい、曖昧な状態だったのであろうと思います。もちろん、北海道からサハリン島にかけてはアイヌの人々やツングースの人々が暮らしていて、彼らは別にロシア皇帝に忠誠を誓ったり、徳川将軍の命令に従ったりする義理もないわけですから、知らないうちに国境線の策定とかされても困るという話になるのはもちろんのことと思います。いつか、アイヌ研究みたいな特集もやってみたいですね。