生前、ノーベル文学賞を獲ると言われ続けた作家の安倍公房は、少年期を満州で送っています。
彼の作品の一つである『けものたちは故郷をめざす』は、終戦後も満州で暮らしていた日本人の若者が冬の満州を懸命にわたり抜いて日本へ帰るという内容のものです。この作品はあくまでも創作であって、公房個人の経験を書いたものではないとのことなのですが、実際に満州で暮らしたことのある人間だけに書けるであろう迫力に満ちています。
どの点に於いて迫力に満ちているのかと言うと、寒さに於いてです。
本州の温暖な気候で育った私には想像に限界がありますが、手も耳もちぎれんばかりの寒さの中、時には徒歩で、時には馬車で真冬の満州を南へ南へと進む様子を読むだけで、じわっじわっと体が冷えていくほどの感覚になっていきます。
公房の作品に満州のことが書かれることはほぼありません。『砂の女』や『他人の顔』などの彼の著名な作品でも、満州のことを伺わせることはないです。詳細な研究をすれば彼にしか分からない微妙な表現が含まれる可能性はありますが、ざっと読むだけで気づくことはできないでしょう。
公房の作品には主張があり、作品はそのために書かれるので、個人的な経験というものは敢えて排除しているところがあるように私には感じられます。ただ、それでも全力でおもしろい作品が多いですから、今後も読まれ続けることは間違いのないことだと思います。
医学や化学の知識を使用して人間と社会を描こうとした公房の作品の中で、実際に暮らしたことのある満州を舞台にした『けものたちは故郷をめざす』は少々異色な作風と言ってもよいのです。その作品から満州での彼の経験を知ることは難しいと言われていますが、公房の歴史観や中国観を知る上では大いに読むべき作品のように思います。