証券会社に勤務している50代の方に、株はやらないほうがいいと言われました。説明を求めても、いやあやらない方がいいの一点張りです。長年勤務してらっしゃるので何かしら理由はあるのでしょうが何故でしょうか?

「証券会社に勤務している50代の方に、株はやらないほうがいいと言われました。説明を求めても、いやあやらない方がいいの一点張りです。長年勤務してらっしゃるので何かしら理由はあるのでしょうが何故でしょうか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

私の知っている人のお父さんが保険の仕事をしているので、家族の間では決してお金の話をしてはいけないとのルールがあると言っていました。保険の人はお客さんに保険に加入することの金銭的なメリットを話す、お金のプロなのに、家庭ではお金の話を禁ずるというのは不思議なことだなあと思いました。理由を聞いても、その人はなぜかは分からないと言っていました。

私はその話を聞いてから何年も考え続けたのですが、私が何度か保険の勧誘を受けた際、「将来の不安」、「家族を安心させる」など、金銭的な不安を指摘され、はっきり言えば不安を煽ることで私の心を動かそう、保険に入ろうかなと思わせようとしていると感じたことがあるので、きっとその友人のお父さんは、日々、お客さんにお金の不安を煽って、要するにお客をカモにしているという自覚があって、家族がお金のことで同じような雰囲気になるのが嫌だったのだろうと思うのです。

さて、ご質問の証券会社の方ですが、証券会社もお客をカモにしてなんぼの世界ですから、おそらく同じような経験をしているのではないでしょうか。客に電話をかけて「〇〇の株、儲かりまっせ」と言う。客の目を欲でくらませて、ナンピンさせたり損切させたりして少しずつむしりとっていくというわけですね。で、損をした客が血相を変えて怒鳴り込んでくることもあったりして、その時も心中「投資は自己責任だと知らないのか。素人め。雑魚が」と思っていたりしたと言うことではないでしょうか。で、あれば、その方はお客に株を進めつつ、内心ではお客を軽蔑していたのでしょう。株は自己責任であるにもかかわらず、セールストークで判断を狂わせて売買させるのが仕事ですから、因果な商売と言えば、因果な商売です。

私は個人的に思うのですけれど、証券会社とか株のアナリストみたいな人に勧められて株を買うのはお勧めできません。自分の資産を他人に委ねる危険な行為と思います。そういう人は成長しませんし、かつ、損をすれば、アドバイスをした人を恨むことにもなるでしょう。自分で勉強して、売買のシナリオも描けるようになれば、損をしても自分が悪いと諦めることもできますし、しっかり勉強して経験も積めば、多少の損はあっても、長い目で見てプラスになると思います。



日本人の男は生涯賃金の1/3を家と保険に費やし、イタリア人の男は女性と洋服に費やすそうです。もちろん誇張ですが納得感があります。その他の国は、国民性として何にお金を使っているか、教えてくれませんか?

「日本人の男は生涯賃金の1/3を家と保険に費やし、イタリア人の男は女性と洋服に費やすそうです。もちろん誇張ですが納得感があります。その他の国は、国民性として何にお金を使っているか、教えてくれませんか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

しばらく考えましたが、アメリカですと教育費です。大学の学費がやたらと高いということもありますが、大学に入るまでの準備に非常にお金がかかります。日本ですと大学入試は筆記試験で高得点であればそれでよいので、ぶっちゃけがり勉すればそれでよく、私もがり勉しましたけれど、机にかじりついて問題集を解くだけですから安上がりです。しかしアメリカの場合は小中高での成績や課外活動、内申の総合点で決まります。要するに全員AO入試なのです。小中高とコンスタントによい成績を維持するためには子供のメンタルと身体の健康に注意を払い続けなければならないのはもちろんのこと、課外活動でいい結果を出してもらうために熱心にスポーツの練習をさせたり、芸術を学ばせたりしなくてはいけませんし、ボランティアにも参加する必要があって、そうすると親はボランティア団体に寄付を求められるという副作用も覚悟しなくてはいけません。リーダーにふさわしい人材に育ってもらわなければいけませんから、サマーキャンプとかボーイスカウトとか、次々とお金がかかるというわけです。そのため、アメリカではお父さんの生命保険は非常に重要視されています。お父さんは子供が生まれれば、もはや子供の教育費を稼ぐマシーンでしかありませんので「もし、あなたが死んだら、子供の教育費はどうなるのだ?」は日本以上にシビアな問題なのです。

あと、中華圏ですと投資に金融資産を注ぎ込みます。日本ではすっかり不動産神話が失われましたが、中華圏ではそれは健在であり、誰もが不動産オーナーになって左うちわの教養人生活を夢見ます。都会に親からもらった物件を持っている人は有利ですが、そうでない人はローンを組み、自分の住まない住宅を購入して家賃収入を得ようとします。しかし、ローンが高すぎることや、住宅はそもそも維持費がかかること、スカ物件が少なくなく、思い切って億の住宅を買ったのに違法建築がバレて物件の価値がなくなるというのもわりとよくあります。非常に恐ろしい魑魅魍魎が行き交う不動産の世界というわけですが、もうちょっと少額で投資したいという人は株をやることになります。ただし、株はよほど充分な資金を持っていなければ利益率は必ずしもよくないですし、ちゃんと勝ち続けるためには日々、相場の動向をチェックし、タイミングを逃さないトレードが必要です。しかし、どうしても「片手間で儲けるのが財テク」と思っている人が多く、そういう人はあまりうまく行きません。もちろん、日本と中華圏の人では投資をやっている人口が全然違いますので、投資でいい結果を出している人はぼろぼろいます。



谷崎潤一郎『小さな王国』から、お金について考える

谷崎潤一郎の短編に『小さな王国』というものがあります。東京育ちの主人公は学者を志してはいましたが、生活のために学者に専念するわけにはいかず、小学校の教師になります。結婚し、子どもも生まれ、家族が増えていきますから、お金がどんどんかかるようになります。もちろん俸給は上がっては行くものの、物価の上昇もあって東京ではとても生活が維持できないと考えた主人公は北関東の某所で教師の職を得て移り住みます。

さて、主人公は小学校で沼倉という少年に出会います。第一印象はあか抜けない、田舎の普通の少年という感じでしたが、話しをさせてみるとそこそこ頭がいい少年だという印象を主人公は抱きます。主人公が驚愕するのは、この沼倉少年が子どもたちに対して通常ではあり得ないほどのカリスマ性を発揮し少年たちを統率しているという事実を知った時でした。しかもジャイアンのように腕力にものを言わせるわけではなく、沼倉少年は物静かに黙考して筋の通った判断をし子どもたちがそれに従うというわけで、得体の知れない、末恐ろしいような気さえさせる、本物のリーダーの資質を持っている少年だったわけです。

そういう児童が反抗的な場合は教師は手を焼くことになりますが、沼倉少年の場合はそういうわけではありません。聞き分けがよく、教室全体の雰囲気を維持することにも協力的で、少年たちは沼倉少年に服従を誓い続ける以上、彼の命じた通りに教師にとっては実にやりやすいペースで物事が進んでいきます。沼倉少年は様々な罰則を少年たちに対して宣言しており、少年たちは制裁を恐れて沼倉少年に従うわけですが、当該の罰則は沼倉少年本人をも拘束を受けるものであり、あたかも法の下の平等が沼倉少年の指導の下に生まれて来たかのようにすら見えてきます。沼倉少年はなかなかの名君主、または颯爽とした大統領みたいな立場と言っていいかも知れません。

主人公の教師は沼倉少年が協力的で助かるなあとしばしいい気分で過ごしますが、再び驚愕せざるを得ない事実を知ります。沼倉少年が独自に紙幣を発行しているというのです。同じ学校に通う主人公の息子が小遣い銭ではとても買えないようなものを時々買って帰るので、問い詰めると沼倉紙幣を使用しているのだと白状します。現物を見てみると、金額を印刷した紙に「沼倉」という判が押されており、この判が押されていれば有効というわけです。この紙幣は沼倉少年の配下の少年たちの間だけで通用するもので、大人たちには絶対内緒というルールがあり、主人公の息子はルールを破ったことになりますが、万引きしたわけではないということを証明するために洗いざらい吐露したというわけです。放課後になると配下の少年たちは某所に集まり、油屋の息子は家から油を、服屋の息子は家から服を持ってくるという感じで市場が開かれ、沼倉紙幣を使って取引が行われるというわけです。

ここまで来ればもはや国家です。主人公ははてどうしたものかと考えますが、それよりも先に自分の生活苦を考えなければならないという現実にぶち当たります。赤ちゃんのミルクが次の給料日が来る前に切れてしまうのです。主人公は沼倉少年に「先生もまぜてくれないか」と頼み、沼倉紙幣を受け取ります。そしてミルクを買いに行き、そこで、あ、俺は今なんてばかなことをしているんだろうと気づくところで物語は終わります。

この物語の面白さはいろいろなものがあって、例えば沼倉少年というある種の天才を如何に描くか、或いは意外と平凡な人生を送ってしまったと思いつつ惰性で生きている主人公に焦点を当てるかということでも違ったおもしろさが見つかるでしょうけれど、ここでは沼倉紙幣について考えてみたいと思います。

お金には実態がなく、中央銀行が適当に出している紙でしかないことは、議論の余地がありません。もちろん信用ある国家の発行する通貨には相応な信用がつくわけですが、金本位制の時代のように、完全に担保されているわけでもありません。日本円が日本で流通できるのは、みんなが10000円札という紙に価値があると合意しているからに過ぎず、これはドルであろうとポンドであろうと人民元であろうと違いはありません。そのように考えると、沼倉紙幣は沼倉少年に信用がある限り、少なくとも沼倉信者にとっては実質的に価値があると認めても一向に差し支えないのではないかという気がしてきます。もちろん、沼倉紙幣には弱点があって、それは紙幣と交換し得る物資はその紙幣共同体に参加する少年たちが家から持ってくる(言わば、輸入)に頼らざるを得ません。ましてや沼倉紙幣は大人からの信用はありませんので、円との互換性もありません。従って、闇経済化せざるを得ないという面はあります。しかし、市場が立ち、やがて自分で生産して沼倉紙幣と交換する人物が現れれば、当該の紙幣は円との互換性がなくとも信用を維持しやすくなり、更に発展すればやがては誰もが認めるようになって円でもドルでも交換できるというところまで発展したとしても、それは現実的ではないかも知れませんが論理的にはあり得るわけです。ビットコインと同じです。岡田斗司夫さんの提唱する1オカダも同じような感じだと思います。

この作品が世に出たのが1918年ですから、現代とは違い金本位制が根強く支持されていた時代です。このような時代によくもまあ、通貨は発行したもの勝ちみたいな発想の作品が書けたものだと驚くあまりですが、1917年にロシア革命が起きており、世の中には社会主義や共産主義という新しい価値観が今後どのように広がるのか、全く無視することもできないという空気があったでしょうし、アナーキズムもそれなりに流行していましたから、沼倉紙幣が発行されるという発想は、谷崎本人の脳裡にそのような新しい時代の始まり、今までとは違った未来像がふと立ちあらわれて作品化されたのかも知れません。おもしろいお話しです。人間心理という点からも、政治経済という点からも、或いは近現代史という視点からも楽しむことができると思います。



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