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李氏朝鮮と明治日本

キーワード
征韓論、脱亜論、日清戦争、閔妃、伊藤博文、日韓併合

デリケートな問題なので、結構、神経を使って話しましたが、韓国の人に敬意を払いつつ、話すよう努力しています。




明治天皇の肖像写真

明治天皇の肖像写真には幾つかのバージョンがあって、印象が非常に違うのですが、それはなぜかというようなことを話しています。「天皇」というデリケートな話題を今回はやっていますので、いつもより、やや多めに緊張しています。




封建社会の解体【日本史ラジオ71】大久保と西郷による大名騙しゲーム

版籍奉還、廃藩置県、秩禄処分まで、封建社会の支配階級がその特権を段階的に奪われていく状況を説明しています。武士たちは明治維新後に特権を奪われました。しかし、士族が日本の近代化を促進したことは事実と思いますので、そういった功績についても述べています。




土方歳三、死す

江戸城無血開城の後も、新政府軍は北上して戊辰戦争は継続されました。内戦ばかり続けている場合ではないはずですが、新政府軍としては、抵抗しそうな相手は武力で抑え込み、誰が真の勝利者なのかをはっきりさせておきたかったのだろうと思います。文字通り、勝てば官軍というわけです。

旧幕臣たちが集まって立ち上げた彰義隊の立てこもる上野を新政府軍が攻略した上野戦争では、長州藩の大村益次郎が、どういうわけか薩摩の兵隊がばんばん死にまくる作戦を立案し、戦いそのものは新政府軍の勝利に終わりましたが、その後、大村益次郎が暗殺されるという事態が起きていますので、おそらく彼は薩摩の人間に恨まれたんでしょうねえ。当時はみんな気が立っていますから、立ち居振る舞いがうまくいかないと、いろいろ大変な時代なんですね。きっと。

新政府軍は更に北へと移動していき、越後長岡藩との間で戦争になりましたが、まあ、もちろん、新政府軍の勝利で、長岡藩の知恵者である河井継之助がいったん占領されたところを取り返すという荒業も見せましたし、石原莞爾が陸軍大学の卒業論文で河井継之助の戦いのことを書いたそうですから、それは見事なものに違いなかったと思いますけれど、やっぱり一旦崩れちゃうと、挽回するのは難しいということだったのでしょうか。戦いに敗れた河井継之助は会津へ向かう途中で命を落としてしまいました。

当時、東北地方の諸藩は、新政府軍に対抗するための奥羽列藩同盟を結成し、河井継之助が目指した会津はその盟主としての役割を担いましたが、新政府軍は極めて激しい攻撃を会津城にしかけたことはつとに有名です。会津藩は藩主松平容保が幕府の命令で京都守護職を担当し、会津藩お預かりだった新選組が長州藩士を追い回したことなどの恨みを一身に受けていましたから、新政府軍は遠慮も容赦もなく会津を潰しかかったみたいです。この会津戦争の会津側の戦死者は三千人くらいだったらしいんですけど、会津藩士って三千人くらいだったらしいので、会津藩の侍たちはほぼ全滅だったということなのだろうと思います。もちろん、会津戦争は単に会津藩と新政府軍の戦いだったというわけではなく、奥羽列藩同盟と新政府軍との戦いでしたから、仙台や米沢あたりからも応援の兵隊は来ていたとは思いますけれど、主力は会津の兵隊だったでしょうから、ほぼ全滅というのはその過酷さは想像するにあまりあります。会津城が砲撃でぼろぼろになった写真も残っていますし、会津城周辺では戦死者の死体で溢れたそうですが、新政府軍は敢えて埋葬せず、より残酷な印象が残るように死体を故意に放置したという話もあるみたいです。長州藩のこの故意に残酷にやってしまう手法が後の日本陸軍に受け継がれたんじゃないかっていう指摘を読んだことがありますけれど、いずれにせよ、そんな風なことが連想されてしまうくらい酷かったらしいです。最近はどうかは知りませんけれど、以前は会津市民の人たちの萩市民への敵意は凄いもので、山口県の人と結婚しようとすると反対されるとか、市長同士でも握手の拒否があるとかという話は有名ですよね。

戦いに敗れても、新政府軍に降伏することを拒否したい人たちは北海道を目指しました。北海道の箱館には、榎本武揚率いる旧幕府海軍が占領し、共和国の建設を始めていたため、旧幕臣たちは、榎本のところに集まっていったそうです。彼らの箱館共和国では、政府総裁を投票で選んでいますから、東洋で最初の共和国であったと言っていいと思います。もっとも、彼らは徳川家の人物を北海道に呼んで、君主にしようという相談もしていたみたいですから、目指していたのは立憲君主制の国家、イギリスみたいな国にしたかったのかも知れません。箱館共和国には、幕府のために軍事顧問をしていたフランス人の軍人たちも参加していました。もう、明らかに仕事というより友情で彼らは結ばれていたと思っていいですよね。これは。

榎本たちは各国領事に国家を旗揚げしたことを宣言し、各国の領事たちは箱館共和国を交戦団体として承認しています。一応、勘違いしてはいけないので、ちょっと細かいことについて述べておきますと、国家として承認したわけではないんですね。交戦団体として承認したんです。国家として承認するかどうかは本国が決めることなので、現地の領事には権限がないんですけれど、内戦状態の土地の交戦団体として承認することは現地の領事にはできたわけです。箱館共和国を名乗る武装集団が日本の領域で正当な政府の支配を受けていない状態で存在することは、日本が内戦中の国であるということを国際法的に認めていることになるので、もしかすると、日本に安定されるより、不安定でいてくれた方がいろいろ都合がいいと思うような、不心得な外交官もいたかも知れません。まあ、考えすぎかもしれませんけれど。

このようにして榎本のところに集まった男たちの中に、新選組副長だった土方歳三がいました。土方は会津戦争にも参加していましたが、戦況が悪化して北上せざるを得なかったんですね。彼は榎本の政府で陸軍奉行並という職位を得て、要するに参謀総長みたいな立場で箱館共和国に参加したわけです。陸軍奉行並という職位は、陸軍奉行じゃないんだけれど、陸軍奉行と同じくらいの立場。という意味なので、だったら陸軍奉行にしてあげてと思わなくもないんですが、土方は伝統的な徳川家臣、いわゆる三河武士ではないので、ちょっと格下扱いされてしまったのでしょうか。

この土方歳三の北海道での戦いは、非常に見事であったと言われています。土方は彼らが陣取った五稜郭の近くに存在していた松前藩の城を陥落させ、江差エリアも占領しています。彼は故意に坂の上のあたりに陣取って、攻め寄せる敵は土方の部下たちによって狙い撃ちされて、とても坂を越せなかったそうですが、このような銃を使った用兵を見事にやってのけた土方は、おそらく、鳥羽伏見の戦いで、自分たちが加納鷲男みたいな伊東甲子太郎の残党に高いところから狙い撃ちにされた経験から学び、同じことを敵に対してやってみせたということではないかと思います。土方が健在な限り、箱館共和国は陸戦では無敵であるかのように見えましたし、実際、箱館での土方は負け知らずでした。それでも、海軍戦力で言うと、土方を援護するために出撃した虎の子の軍艦開陽丸が座礁して沈没するという痛恨のミスもあって、だんだん箱館共和国は次第に追い詰められていきました。幕府が注文した軍艦を新政府軍が受け取って使用したりとかしていたそうなので、もはや孤立無援の箱館共和国はあまり大きな希望のある将来は期待できなかったのかも知れません。

土方歳三の写真は一枚だけ存在しています。いよいよ新政府軍による五稜郭総攻撃が行われるという直前に撮影したと考えられるもので、彼は若い部下に写真を持たせて五稜郭を脱出させています。その部下が東京の日野の土方の家族に写真を届けたため、今もその写真を我々は見ることができるというわけです。土方は京都でそれは女性にモテたそうですけど、確かにかっこいい顔立ちだと思います。現代でも通用する美男子だと言っていいのではないでしょうか。土方は新政府軍の戦いの最中、銃撃を受けて戦死しているところを発見されました。そのような状態であったため、果たして誰の攻撃によって死んだのか、どんな風に倒れたのかといったことは全く分かってはいません。映画やドラマでも土方の最期の描き方には統一感がなく、はっきり言ってばらばらなのですが、そんな風になってしまうのも、土方の最期を目撃した人がいなかったからだと言っていいと思います。気づいた時には土方は倒れていたわけです。

戊辰戦争の最後の戦場になった箱館に土方のような男がいたことについて、私はわりと感動してしまいます。徳川慶喜も新選組の働きは認めていたように、幕末でぱっとしない幕府軍関係者の中で、新選組は群を抜いていたというか、新選組だけがんばっていた感じがあるので、その新選組を実務面で引っ張ていた土方歳三が途中で逃げたり諦めたり捕まったりせず、ちゃんと戦い抜いてくれたと思うと、むねあつになっちゃうんですね。絵になるというか、伝説になる戦い方をしてくれたというか、まあ、簡単に憧れてしまいます。司馬遼太郎さんの『燃えよ剣』で描かれる土方が戦死する前夜の感じとか、ちょっと泣けちゃうんですよ。

個人的に箱館に行ったときに、土方の倒れていた場所にも訪れてみました。土方の写真のコピーが置かれていて、ちゃんとここで倒れていましたよと分かるようになっているんですけど、文字通り聖地巡礼みたいな感じでしみじみと眺めてしまいましたね。土方がしっかり戦ってくれたので、新政府軍の側も遠慮なく戦争に没頭することができたので、明治はすっかり江戸時代のことを振り切ってなりふり構わぬ近代化に突き進むことができたのかも知れません。

いよいよ明治です。



慶喜助命運動‐フリーメイソン人脈を頼って亡命も視野に

徳川慶喜は1867年の秋に大政奉還をしたわけなのですが、薩長両軍はそれでも慶喜に対する追及の手を緩めず、遂に武力による京都御所の占領という手段に訴え、事態を戦争に持ち込もうとします。慶喜は近代化が進んだ幕府軍が実は張子の虎だと気付いていたため、武力衝突を慎重に避けましたが、同時に、時間が経てば薩長政権は空中分解し、朝廷は自分を頼ってくるであろうことにも確信を持っていたはずで、そういうことであるから、とにかく武力衝突さえしなければいいのだとの戦略のもと、幕府軍を引き連れて京都を離れ、大坂城に入ります。これは戦略的撤退であったはずですが、実際には慶喜が再び京都に入ることはありませんでした。この判断は小手先の効果は期待できましたが、大局的には政局に対するイニシアチブを発揮できなくなるという大きなデメリットを伴うものであり、政治家としての徳川慶喜はこの段階で自分で運命をコントロールできない立場になってしまうことになりました。

慶喜は忍の一字で事態が好転するのを待ちましたが、江戸における薩摩藩邸関係者の治安攪乱運動がおかしな感じで功を奏し、江戸では薩摩藩邸焼き討ちにまで事態が発展してしまい、ことの次第を知った大坂城の徳川将兵たちはいきりたち、慶喜は将兵たちを抑えきることができず、遂に将兵に出撃を許し、事態は鳥羽伏見の戦いに発展します。徳川軍は大坂から京都へ鳥羽街道と伏見街道の二手に別れて進軍し、途中、薩長軍に阻まれ、通せ通さないの押し問答があって、そのまま流れで戦闘状態に入っていきます。この戦いで徳川軍はほぼ完全な敗北を喫したのですが、やはり大きな理由としては充分に考え抜いた戦略や作戦があったわけではなく、感情に任せて漠然と京都まで行こうということしか頭の中になく、実際の戦闘になったときに何をどうしていいのか分からないという部隊があまりにも多かったということを、彼らの敗因として挙げることができるでしょう。要するに深い考えもなければ、必ず成し遂げるする覚悟もなく、やってみて難しいから逃げかえるという体たらくを世界中に露呈してしまったのでした。対する薩長軍はここで敗ければ死ぬ以外に選択肢はないとの覚悟だけは決まっており、碌な戦略はなかったと思いますけれど、その覚悟の点で徳川軍を圧倒することができたと考えていいと思います。勝海舟の回想によれば、薩長軍は防衛ラインが一本しかなく、後詰の予備兵力もなかったため、徳川軍がどこか一か所でも突破していれば、簡単に瓦解していた可能性があったのですが、そのようなことは全然起きませんでした。私個人の想像を交えるとすれば、徳川軍は優勢な兵力に安堵してしまっていて、誰もが自分だけは安全なところに居たいと考えるようになっており、全員が無責任なまま敗れて行ったのだという気がしてなりません。無責任とは本当に恐ろしいものです。徳川軍は近代化された陸軍連隊を投入していましたが、彼ら陸軍連隊は長州征伐戦争では、ほとんど何も仕事をしておらず、鳥羽伏見の戦いでも同様にほとんど何も仕事をしていなかったそうです。新選組だけが極めて勇猛果敢に事態に立ち向かい、他の部隊に比べて極端に多い戦死者を出しています。鳥羽伏見の戦いでは、薩長軍が自らを天皇の軍隊であるということを宣言する目的で錦の御旗を担ぎ出し、それで徳川将兵が腰砕けになったと説明されることがありますが、私はそれは徳川将兵の言い訳のように聞こえてしまってなりません。そもそも、当時、錦の御旗をそれ以前に見たことがある人はいませんでしたから、薩長が錦の御旗を引っ張り出してきても、果たしてそれがなんなのか、きちんと認識され得たのかどうか、私は怪しいものだと思っています。錦の御旗については、この鳥羽伏見の戦い以前に使用された例は後醍醐天皇と足利尊氏の時代にまで遡らなくてはならないそうで、それも太平記にそういうのがあったと書かれているだけで、誰もそれを見たことはやはりなかったのです。ですから徳川将兵が後の時代になって「だって、錦の御旗に逆らうことなんてできないじゃないか」と言い訳の材料としてそれを使ったに違いないと思えてしまうのです。

慶喜の大坂城脱出についても、同じような説明ができるのではないでしょうか。敗走して帰ってきた徳川将兵たちに対し、慶喜はみんな明日もまたがんばろうというような感じの訓示を述べ、その夜のうちに側近とお気に入りの女性たちだけを連れて軍艦で江戸へ脱走します。この慶喜の行動について、慶喜は水戸徳川家の尊王思想的教育を受けて育ったので、錦の御旗の話を聞いて戦意を喪失したとの説明があると思いますけれど、私は違うと思います。慶喜は素晴らしい頭脳を使って自分の保身しか考えていない人でしたから、徳川将兵たちに対して「どうしても、京都まで行きたいというから、許可してやったのに、自分たちより遥かに少ない敵軍に圧倒されて敗走して来たわけだから、お前たちのために俺が命を張る義理はないし、明日から頑張ってもお前たちに勝てるわけないし、このまま大坂城に残って俺が指揮官だということになったら、後で切腹させられるかも知れないし、繰り返すけど、お前たちのために切腹する義理なんかない」と思っていたに違いないのです。そして、脱走を決心した時、錦の御旗が出てきたからというのは良い言い訳にできるとも、その優れた頭脳で考えついたに違いありません。慶喜は、感情で動いてしまって少数の敵にやられてしまう無能な徳川将兵たちを愛していなかったでしょうし、そんなやつらのことはどうでもいいから、見捨てても心が痛まないとの、ある意味非常に適切な判断をして大坂城を脱出したのだと思います。勝てる見込みのない無責任な将兵たちに自分の運命を委ねるより、自分の命が助かるために自己の判断で行動した慶喜の判断は正しかったと言えると思います。彼は兵隊たちを見捨てたという意味で、司令官としては失格でしたが、実際に自分の命は助かったわけですから、九死に一生を得たナイスプレーであったと言えると思います。

これから先、薩長軍のことを新政府軍と呼ぶことにしたいと思いますけれども、西郷吉之助は新政府軍を率いて江戸を目指します。西郷は慶喜を殺す気まんまんだったのですが、西郷の意図を阻む様々な策略が発動されました。まず、慶喜の完全無抵抗な姿勢です。慶喜は朝廷に書いた手紙で謝罪し、抵抗しませんから攻めて来ないでくださいとのお願いもしています。そして本人は上野の寛永寺に引きこもって謹慎の姿勢を貫きました。西郷はこの慶喜の非暴力無抵抗主義を無視することにしました。飽くまでも慶喜を天皇に対する謀反人ということにして、切腹させるか斬首にするかはともかく、殺す気で江戸へと進んだのです。

次に西郷の前に現れたのは、幕臣の山岡鉄舟です。山岡鉄舟は勝海舟に頼まれて、西郷と勝の下交渉のために進撃中の西郷を訪問したのです。ここで西郷は慶喜を他家にお預けにするとの案を示しましたが、山岡鉄舟はそれだけはどうかご容赦くださいと頼み込んだそうです。というのも、武士が他家にお預けになった場合、ほとぼりが冷めたころに切腹させられるというのがわりとよくあることだったらしく、どう考えても慶喜の他家お預かりは切腹のための下準備だとしか思えなかったからなんですね。ドラマなどでは山岡鉄舟の懇願に西郷がほだされたり、その後の勝海舟との会談で、西郷が説得されたりしていますが、実際には、西郷は山岡鉄舟の懇願を一蹴し、慶喜を殺す決意を全く揺るがすことなく、江戸へと進撃を続けたそうです。

西郷の決心をぐらつかせたのは、イギリス公使パークスだったそうです。イギリスは薩英戦争以来、薩摩とは友好関係を樹立しており、イギリス公使のパークスは、国際世論を味方につけたい新政府としても心強い相談相手みたいな感じだったと思うのですが、そのパークスが西郷の陣を訪問し、慶喜を殺すことは国際法に違反すると通告したというのです。国際法では戦闘意欲を喪失した敵を殺してはならないということになっているため、恭順の意を示して謹慎している慶喜を殺すことはできないし、そんなことをしたらイギリスは新政府を支持しないし、他の諸国もそうするだろうと、通告したというか、西郷を脅したんですね。西郷はここで決心をにぶらせてしまったようです。

さて、総仕上げは勝海舟です。勝は江戸の三田にあった薩摩藩邸に入った西郷隆盛を訪問します。この時、おそらく西郷はすでに慶喜を殺すことを諦めており、両者の話し合いは穏やかなものだったと言います。なにしろ、勝海舟が慶喜の命の代わりに持ってきたお土産が素晴らしいわけですね。徳川軍は完全に無抵抗で江戸城を明け渡すというわけです。そしてもし、この申し出を西郷が断った場合は、江戸を火の海にして徹底抗戦するというわけですから、西郷にとっては楽に江戸城を手に入れられる絶好のチャンスでもあったわけで、これで慶喜助命問題は決着しました。勝は三田の山に位置した薩摩藩邸から見える江戸の街を指さして、こんなに素晴らしい場所を戦火から救わなくてはならないと西郷を説得したそうですが、このエピソードは西郷を脅した話なんだと理解するのがいいと思います。もし慶喜を殺したら、江戸を火の海にして抵抗する。その結果生じる如何なる不都合も責任は西郷にあると勝は言っていたわけですね。

勝海舟の回想によると、それでも西郷が慶喜を殺すことにこだわった場合は慶喜をイギリスに亡命させることでパークスと話がついていたそうです。私、思うんですけど、慶喜は側近の西周の紹介でフリーメイソンのメンバーになっていたんじゃないかと思うんですが、パークスもフリーメイソンのメンバーで、勝海舟もやっぱりフリーメイソンのメンバーだったんじゃないかという気がするんです。で、一連のできごとはフリーメイソンの互助的な機能が功を奏したんじゃないかなと思えなくもないんですね。まあ、ここは想像です。でも、そんな風に考えるといろいろ辻褄が合うように思えるんですよね。

このようにして、慶喜は徳川家康以来受け継がれてきた徳川家の全ての遺産と引き換えに助かることに成功しました。慶喜は水戸で謹慎し、その後は静岡で引退生活を送り、晩年は明治天皇と会見して名誉回復して公爵として都内で暮らし、20世紀まで生きました。私は慶喜のこのような開き直った生き方が嫌いじゃありません。歴代将軍の中で最も長寿な人であったそうです。

これで慶喜は完全に歴史の表舞台からは消え去り、政治とも無関係になります。また、徳川復権の可能性が全くなくなった以上、新政府が日本を代表する唯一の政府になったはずなのですが、それでも新政府軍はいけにえを求めて北上していきました。それはまた次回以降にやりたいと思います。



徳川慶喜の頭脳戦

14代将軍徳川家茂が大坂城で病に倒れた際、その死の床において次の将軍に田安亀之助を指名したそうです。田安亀之助はまだ幼少で、当時は長州征伐戦争がまだ終わっていない非常時でしたから、ぶっちゃけ誰もが次の将軍は徳川慶喜がふさわしいと思ったらしいのですが、家茂は慶喜と将軍の座を争ったライバル関係でもあったので、自分が死んで慶喜が次の将軍になるというのは受け入れがたいと思ったのかも知れません。本来、将軍の遺言は非常に重視されてしかるべきですが、まあ、繰り返しますけど、非常時なものですから、慶喜の場合、年齢的30歳くらいで充分に大人であり、将軍後見職として家茂と一緒に上洛し、孝明天皇とも様々な意見交換をすることができる関係性を持っていて、禁裏御守衛総督として禁門の変では幕府軍を現場で指揮した慶喜の豊富な政治経験は、誰もが認めているところであったわけです。

というわけで、慶喜以外に人はいないという中、慶喜はなかなかの策士なものですから、将軍就任要請を断ります。それでも頼まれるので、慶喜は徳川宗家は相続するが、将軍職は就任しないと突っぱねます。これは実に巧妙です。というのも、過去260年間、徳川宗家は将軍と決まっているわけです。現代風に言えば自民党の総裁が総理大臣になるのが通常で、時々総裁と総理を別人がやるとする総総分離論というのが出ますが、ああいうのはただのブラフで誰も本気にしないというのと同じような感じだと考えればいいと思うのですが、いずれにせよ慶喜は、徳川宗家は引き受けますと答えた段階で、もう、他に将軍に相応しい人はいないということが明白なのに、更にそこで将軍にはならないと言うわけです。幕府首脳たちはひたすら慶喜に頭を下げて頼み込んで将軍を引き受けてもらうしかない状態になったわけです。

このようにして慶喜は、決して誰かと将軍の地位を争って勝ち取ったのではなく、頼み込まれて将軍になったという体裁を手に入れたわけです。そりゃ確かに権力の亡者みたいになってやっと将軍になった人という印象よりも、頼み込まれてやむを得ず将軍になったという印象の方がはるかにいいですし、仕事はしやすくなったに違いありません。

ちなみに勝海舟は慶喜と性格が合わなかったことがよく知られているのですが、勝海舟曰く、長州藩との停戦協議のために広島に行って帰ってきたら慶喜が将軍になっていた、以前は飽くまでも政局に立ち向かう同僚みたいな感覚があったのに、これで君臣の関係になってしまったと不満を述べています。で、勝海舟は慶喜に対して「私は徳川家の家臣ですが、あなたの家臣になったわけではないですからね」と言ったそうです。慶喜からすると、勝海舟ってほんとに気分の悪い奴ですよね。明治維新後は慶喜と勝海舟の立場は逆転してしまって、慶喜は何かと勝海舟を頼りにせざるを得ず、明治天皇との会見が実現した時、慶喜は勝海舟に涙を流して頭を下げたそうです。もっとも、こういったことは勝海舟の回想だけがソースで、慶喜が何かを語っているわけではありません。そして勝海舟は明治維新関係者で一番のほら吹きで有名ですから、もしかすると真相はちょっと違ったかも知れませんが、まあ、そういうこともあったという感じで流してもらえればと思います。

将軍になった慶喜は幕府の近代化に力を注ぎました。大きなものとしては、幕府陸軍のバージョンアップ、同海軍の強化、そして三権分立の立憲主義の導入です。幕府陸軍は、三万人の兵力を誇る近代化された軍隊で長州征伐戦争にも参加していましたが、碌な仕事をしていません。独活の大木、無用の長物というわけで、これではいかぬとフランス人将校を軍事顧問に徹底的に旗本の子弟をしごいたそうです。フランスの軍隊は一般市民を徴兵するスタイルのものですから、誇りある旗本子弟たちも上官に怒鳴り散らされて泥まみれになって訓練されるわけですけど、この泥まみれがかなり不評だったらしいのですが、そんなこと言ってる場合かよという風にも思います。なにしろお家が潰れてしまえば、自分たちも失職してしまうわけですが、そのような危機感をあまり感じないんですよね。海軍の方ですけど、こちらはとにかくお金をかけて世界中から最新の軍艦を買いまくっていたわけですね、これももっとやろうということで、小栗上野介に横須賀で造船所を作る計画を進めさせています。で、とにかく海軍の整備はお金がかかりますから、資金はナポレオン三世から大金を借りて進めようということになり、実際には本当に借用書を書く前に徳川幕府がなくなって、借りないままになったはずだとは思いますけど、実現していたら、借金の方に北海道がフランス領になっていた可能性もあったわけですね。そのような売国的なことも厭わず慶喜はバンバン強い幕府軍を作ろうとしました。考え方としては正しいと思います。だって、長州との戦争で、幕府軍が張子の虎だとわかった以上、ハッパかけてかけていくしかないわけですよ。生き残るためには。

で、とても興味深いのは政治に関すること、慶喜の政権構想がとても興味深いんです。慶喜はオランダに幕府の費用で留学して帰ってきた西周を側近として迎え、新しい政治制度と憲法の草案を作るように命じています。西周の憲法草案では、天皇は京都周辺の土地を領地として生活を安定させる一方、日本国の統治には具体的に関与せず、官位を与えたりすることとカレンダーに関することを司ることに専念するとしています。天皇には君臨すれども統治せずというイギリス的な立憲君主になってもらうというわけですね。で、具体的な政治はどうするのかというと、基本的に三権分立で、それらの一番トップに立つのが大君なんですね。大君というのは、要するに大統領みたいな立場なわけで、この大統領(大君)に慶喜が就任し、ある程度いろいろ定まったらその後の大統領は選挙で選ぶというような感じだったらしいです。司法と立法もあって、立法府の方は武士や大名で構成されるとしていました。上下院まで想定していたそうです。一般市民の政治参加について言及されていなかったみたいなんですが、おそらくは段階的に一般市民の政治参加もできるようにしていくというイメージだったのではないでしょうか。このような政治制度はフランスを参考にしたんだと思います。イギリス的な要素とフランス的な要素の両方の学ぶべき点を大いに学んだと言える内容だとは思います。で、そういうことを憲法で明記するというわけです。西周はヨーロッパの政治制度を留学中につぶさに研究したんでしょうね。立憲主義の普及はフリーメイソンの目的の重要な部分だと私は理解しているんですけど、西周もフリーメイソンだったことを思うと、彼は日本をフリーメイソンの理念に合う国にしようとしたんだと言うことができると思いますし、彼と意見が一致していた慶喜もフリーメイソンのメンバーになっていたんじゃないかという気がしてなりません。

そのようにして、幕府の力を充実させることで、新しい近代的徳川幕府を再建しようとしていた慶喜ですけれど、ここまで述べてきた感じでわかると思うんですが、大統領制の国家を作るわけですから要するに徳川幕府はもう別に存在しなくても困らないよねと慶喜自身が考えていたと思うんですね。なので、簡単に大政奉還をオプションとして考えることができるということなんだと思うんですよ。大政奉還後の慶喜の政権構想というのは、徳川幕府は消滅した後も、慶喜本人は朝廷の中枢にとどまって、自分が中心となった新政府づくりを行うというもので、気持ちいいくらいに幕府官僚たちを見捨てるという選択肢を選んでいます。

そもそも、なぜ慶喜が大政奉還をしたのかというと、当時、徳川が政治をする正統性は何かという議論が盛んになっていて、それは朝廷から政治を委任されているからだというロジックが生まれてですね、これを大政委任論と言うんですけれど、この大政委任論を前提にしてですね、委任された政治を朝廷にお返ししますというのが大政奉還なわけです。一般に、大政奉還は坂本龍馬が思いついて、それを後藤象二郎に話し、後藤象二郎が山之内容堂に伝えて、山之内容堂がそのアイデアを難しい漢文を使った格調高い文章で建白書に書いて、それを読んだ徳川慶喜が在京諸藩の重役の意見を聞いた上で決断されたことになっています。しかし、大政奉還論そのものは、少なくとも横井小楠が慶喜がまだ将軍後見職だった時期にすでに述べているもので、そこまで目新しいものとも言えません。坂本龍馬が思いついたというのは、横井小楠が松平春嶽のところで政治顧問をやっていて、坂本龍馬も勝海舟の紹介状を持って会いに行ったことがあって、その時に大政奉還論を教えてもらっていて、薩長同盟が成立した後に、あ、そういえば横井さんが大政奉還って言ってたなあ、あれいいよね。じゃ、ぱくっちゃおう。というのが真相であったであろうと思います。それで坂本龍馬が悪いとかダメだとか言いたいんじゃなくて、そういう風にあんまり重苦しく考えずに、誰もが頭で分かっていながら、まさかと思っていることを、じゃ、そうすればいいじゃん、と言ってのけるのが龍馬も面白いところだと思いますし、大政奉還に至る流れも、龍馬のじゃ、そうすればいいじゃん精神の発露の結果ともいえるのが、まあ、やっぱり面白いと言えると思うんですね。

で、慶喜はもちろん大政奉還論を知っていて、それを信頼している山之内容堂から建白されたものですから、ある意味ではこのまま渡りに船で行っちゃおうと思ったんじゃないでしょうか。どのみちいずれ自分で徳川幕府を解散させるつもりだったわけですから、ちょうどよかったんですよ。

慶喜はこの大政奉還によって、岩倉具視と大久保一蔵が強引に引き出した倒幕の密勅を空振りにさせたと言われています。倒幕の密勅では、幕府が政治をわたくししているからけしからんので征伐するという論理展開になる予定だったのが、政治権力を返上されたわけですから、もはや政治を私物化しているとか言えなくなるというわけですね。これが本当だとすると、本当に慶喜にとってナイスタイミングで山之内容堂の建白があったということになり、それがこのような政局を切り抜ける切り札になったというのも興味深いですが、慶喜が自分の政治目的と政局遊泳という二つの違う性質のことを一挙にやってしまったというのも、彼の手腕みたいなものが尋常ではないということを示していると思います。カミソリ慶喜ですね。岩倉具視も大久保一蔵も西郷吉之助も慶喜の頭脳の回転には舌を巻いたと言われていますが、そりゃ、確かにそうですね。将軍が大政奉還やっちゃうんですから。ついでですけど、大政奉還のあの有名な絵は事実とは違ったそうです。将軍が諸藩の重役と対面するとか当時の常識では絶対にあり得なくて、慶喜は別室にいて、諸藩重役と直接話したのは老中の板倉さんだったそうですよ。

で、ですね、更におもしろいのは、慶喜はこの大政奉還によって、自分の政治権力を完璧なものにできるという見通しまで、まず確実に持っていたというところが凄いんですよ。大政奉還をしたところで、朝廷には政治を実際になんとかする能力はないわけですね。当面は幕府に引き続き具体的な行政とか外交とかは担当してほしいという話になって、朝廷内部では慶喜には関白になってもらおうかという話まで出たそうです。もし鳥羽伏見の戦いが起きずに、徳川軍がじっと我慢して状況が好転するのを待っていたら、朝廷から慶喜個人への政治の全権委任みたいなことになって、労せずして徳川慶喜大統領誕生みたいな話になっていた可能性もあるわけですよ。まあ、実際にはそうはならなかったわけですけれどね。

大政奉還後、慶喜中心の政府が樹立されそうな気配なので、焦った薩長が京都御所を武力で制圧するという、いわゆる薩長クーデターが起きます。岩倉、大久保、西郷の打倒慶喜の策略は全て成功しなかったので、結局最終手段として、武力に頼ったというわけです。禁門の変のときの長州藩がやったことと同じだったというわけです。

で、慶喜としてはここで戦争をやっては全ての布石が無駄になると考えました。仮に戦争になっても徳川軍が勝てば問題ないわけですが、長州征伐で、いかに幕府軍がダメダメかを知っている慶喜としては、徳川の軍隊は数だけは多いので、威嚇には使えても実戦では役に立たないと判断し、戦争を避けようとしたわけですね。慶喜と徳川将兵は二条城に籠っていたんですけど、二条城と京都御所はめちゃめちゃ近いので、当時の一触即発な状況下で何かが起きてはいけませんから、慶喜の命令で徳川軍は大坂城まで引いていきます。大坂と京都くらい離れていれば、うっかり戦端が開かれるということはないとの判断だったわけですね。そしておそらく、この時のこの判断が、痛恨だったのではないか、慶喜はそうとは述べていないはずですが、晩年の彼はそのように考えていたのだと思います。大坂にひいた徳川軍は、再び京都に入ろうとしたものの、二度と入ることはありませんでした。明治維新後も、慶喜は二度と京都を訪問することはありませんでした。維新後、慶喜は京都から大坂へと移動する時のことを何度も夢に見たそうです。あれが分水嶺だった、あの時の戦略的撤退が、永久追放になってしまったと慶喜は気づいていたんだと思います。ちなみに慶喜がまだ二条城にいたとき、京都御所内部の小御所というところで、有名な小御所会議が開かれ、そこで慶喜の辞官納地が決定されています。辞官納地とは、慶喜が権力を乱用したとかの罪があるから、官位を辞職して領地も朝廷に返上しなければならないと命令することを指すのですが、小御所会議に参加していた慶喜支持派の山之内容堂とか松平春嶽とかは熱心に慶喜を弁護しています。松平春嶽の方はわりと理知的に、論理的かつ現実的にみんなが納得しそうな解決策を提案していて、それも彼の性格の一面を表していると思えて興味深いのですが、辞官納地を主張する人たちはどのみち慶喜は受け入れないだろうから、その時は武力で征伐だ!という話に持っていこうとしていたようなんですね。薩長としては武力で徳川と勝負をつけて天下を獲るというのが基本戦略で、慶喜が武力衝突に乗ってこないのでジリジリしていたわけです。それに対し松平春嶽は、慶喜はちゃんと応じると思うから、みんな冷静にやろうよ、とうようなことを発言していたみたいです。山之内容堂は酒乱で有名な人で、酔っぱらって会議に出ていたんですが、彼も慶喜無罪論で気炎を吐きました。確かに慶喜には具体的な訴因になるような罪状とか別にないですから、犯罪者として追及することはそもそも無理筋なため、山之内容堂の言うことも説得力があったんですね。で、大久保一蔵が困ってしまって、外で待っていた西郷吉之助に相談したところ、山之内容堂を殺せばいいじゃないか(短刀一本あれば充分でごわす)と発言し、そんなことを西郷が言っていたというのを山之内容堂も小耳に挟んでしまって、彼は沈黙してしまい、そのようにして議論が決着したそうです。

慶喜は大坂城に入ると、各国の外交官を集め、今後も外交は自分が仕切るから心配するなと宣言しています。彼の戦略では、じっと待っていれば京都の新政府はいろいろ困って慶喜を頼ってくるので、慶喜的には以前とは何も変わらないとの自信があったんでしょうね。慶喜には時間を味方にする余裕がありましたが、大久保・西郷はそういうわけにはいきません短期決戦するしかなく、焦りがあったに違いありません。とにかく戦争に持ち込みたい大久保・西郷が最後の手段としてやったのが、江戸の薩摩藩邸がなんでもいいのでトラブルを起こすというもので、そもそも本当にそれで大坂城の慶喜たちが怒りまくって戦争に乗ってくるかどうか、分からなかったと思いますけど、あんまりにも江戸の薩摩藩邸に出入りする不良浪人たちの乱暴狼藉がひどいものですから、江戸では薩摩藩邸焼き討ち事件が起きちゃうんですね。で、それを知った大坂城の徳川将兵たちがいきりたち、薩長と戦争させてくよというエネルギーが大きくなりすぎて、暴発しちゃって、慶喜が最も嫌がっていたであろう戦略なき戦争になってしまい、鳥羽伏見の戦いへと発展していきます。

このように慶喜の政局運営を見ていくと、慶喜が極めて優れた策略家であることは分かるのですが、策略家でしかないというところに彼の限界があるということも分かってきます。なぜそんな風になってしまうのかというと、やはり彼には信頼できる部下がいなかったということが大きいのだろうと思います。幕末、一番活躍した幕臣は勝海舟だろうと思いますけれど、その勝海舟は慶喜と仲が悪くて互いに嫌いだったみたいですし、他にあんまりめぼしい優秀な幕臣とか名前が思い当たらないんですよね。山岡鉄舟もいいとは思うんですけど、幕臣として歴史残る活躍は西郷との交渉くらいしかないわけですし、それは確かに慶喜の命を救うという意味で大仕事であったことは確かですけど、強大な幕府陸軍は役に立たないし、官僚たちの多くは水戸出身の慶喜に対する警戒心の方が強かったみたいですし、大奥も慶喜を支持していたとも言い難い感じなので、慶喜は孤立無援の状態で自分の頭脳だけで大久保とか西郷みたいなしつこいのを相手に戦わなければならなかったわけですね。それには同情してしまいます。私個人の意見ですが、慶喜はほぼ全ての局面でその時その時に考え得る最高の対処法をしています。ただ、怒りまくる徳川将兵を抑えることに失敗したことで全てがダメになってしまいました。やっぱり身内の要因でダメになってしまったわけですから、やっぱ同情するしかないですかね。

鳥羽伏見の戦いについてとか、江戸無血開城のあたりは慶喜の助命運動と絡めてまたやりたいと思います。