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現在高校生です。将来は映画監督になりたいのですが、どのような訓練をすればいいのでしょうか。また、今は文学作品を読み漁り、映画を沢山見ているのですが、これはあっているのでしょうか?

渋谷にドキュメンタリー映画の学校があります。その学校に行ったからと言って映画監督としてやっていけるというわけではないですが、そういう学校に行くことで情報も得られるし、その方面に詳しい友人も得られるかも知れません。ドキュメンタリー映画を舐めてはいけません。低予算で作れる一方で、監督がどれくらい問題を深堀しているかがバレるのがドキュメンタリーです。

おそらくエンタメ系の映画監督をなさりたいのだと思いますが、なんらかの形で世に出て行けば、エンタメ系への道も開けて来るのではないかと思います。

例えば原田眞人監督はクライマーズハイや関ケ原、燃えよ剣などドラマ映画で著名な人ですが、最初の映画はおニャン子クラブのドキュメンタリー映画でした。私は最近、初めてそのおニャン子の映画を観たのですが、真剣な練習風景には引き込まれてしまい、この人は最初の作品からすでに天才だったのだと恐れ入りました。

そういうわけですので、えり好みせず、自分の才能を発揮できそうな好機があれば、乗って見るべきです。

文学作品を読み漁り映画を沢山みていらっしゃるとのことですが、これは映画監督をめざすかどうかにかかわらず、教養人として当然の努力ですので、がんばってください。



日本映画の最盛期は、昭和25年(1950)から昭和40年 (1965) 位までではないか、と思いますが、如何でしょうか?異論をお聞かせ下さい。

私もそれくらいなんじゃないかなあと思います。黒澤明、溝口健二、小津安二郎あたりの人たちが生き生きと仕事をしていた時代ってそれくらいですよね。

異論を入れるとすれば、もう少し後の時代になると大島渚とか北野武の時代になってくると思うのですけれど、仮に黒澤・溝口・小津と大島・北野に区分した場合、前者はある種の耽美的映像主義者たちで後者はエモいのを追求するロマン派的映像主義者のような気がします。で、やはり私は甘いので、後者の方が心に残ります。



そもそもガーシー氏は何故あれほどまでに芸能界の裏事情に詳しかったのでしょうか?それとも芸能関係者なら誰でも知っているけど決して口外しなかったことを、タブーを破って安全な場所から配信していただけですか?

芸能人と一般女性のパーティをセッティングしていたので、芸能人の他人に見られたくない面をたくさん見てきたというのはあると思います。私も個人的に一度だけ、そのようなことを仕事にしている人が一般女性に声をかけているところを見たことがありました。芸能人のプライベートな場に参加できるのですから女性たちも大喜びな様子でした。



なぜヨーロッパ人は第二外国語、第三外国語を短期間に習得できるのでしょうか?

ヨーロッパ言語同士であれば文法が似ていて語彙も共通しているものが多く、生活していく中でも他のヨーロッパ出身の人に出会って会話する機会が多いですから、習得しやすいということはあると思います。

ついでに言うと、日本語韓国語は文法が酷似しているほか、中国語は文法こそ違えども、漢字を使えば互いになんとなく意思疎通できるという面がありますから、日本人でも韓国語と中国語をメインに学べばわりと多言語話者になれる可能性はあると思います。私は中国語はがんばった自信ありますが、韓国語は途中でやめてしまいました。ただ、非常に似ていますから、きちんと続けていればかなり話せるようになったはずだと思いますし、今も機会があればまた取り組みたいと思いっています。



台北の友人(本省人)を久しぶりに訪ねたのですが、友人は周囲の人と話す際にも北京語ばかりで話し、台湾語をほとんど話しません。台北では台湾語は近い将来途絶えるでしょうか?

私もそんな気がします。

私の知る範囲で言えば、台北及び新北市あたりは本省人も外省人も北京語さえ話せればいいという雰囲気があって、30代以下は北京語しか話さないのが普通な気がします。20代の学生でも、おじいちゃんおばあちゃんとは台湾語を使うけれども学校ではオール北京語が普通でした。私は近いうちに北部の台湾語話者はいなくなると思います。

南部の台湾語話者はかなり根強く残り続けるのではないかなとも思います。とはいえ、数十年の差、世代的には2世代かがんばっても3世代でなくなっていくのではないかという気は確かにします。おそらく、今、南部で暮らしている人は、私の意見を聞けば怒って否定するでしょう。南部で台湾語がすたれることなどあり得ないと。

上海を旅行した時、若い人も上海語を使っていましたから、大陸では普通話と現地語が共存しているのだなということが感じられましたけれど、台湾では国民党が北京語オンリーで推し進めたために、それがスタンダードになってしまい、北京語の方がかっこいいという刷り込みも強くなっていて、ちょっと引き返せない段階に入ったと言う気はします。



押井守監督作品はたくさんありますが、初心者はどのような順番で観ていったらいいでしょうか?

まず『うる星やつら』関連から観るのが良いでしょう。子どもにも見せられるのが前提ですから、理屈ぽかったり、不条理系だったりしても丁寧に説明してくれているので、普通に楽しむことができると思います。

それが終われば次は『パトレイバー』関連が良いでしょう。『うる星やつら』よりも社会派で硬派な内容ですが、やはり説明が丁寧ですので、分かりやすいです。

それが終われば『麿子』が良いでしょう。作画が奇異であり設定が複雑な上に登場人物たちが欲でまみれているため、どんなに見返しても気分の悪くなる作品ですが、押井守作品を理解していきたいということであれば、避けて通るわけにもいきませんので、この段階で観るのが良いと思います。

その次は攻殻機動隊が良いでしょう。観客に完全に分かってもらう必用はないとの前提で作っており、われわれは登場人物が何を言っているのか、どういう設定なのかを押し量ってみなくてはなりませんが、それが醍醐味という人もきっといることでしょう。

その次にスカイ・クロラに辿りつく感じでしょうか。観客に分かってほしいとも思っていないし、飛行機が飛ぶ姿だけを執拗に、舐めるように描き続けた作品ですから、飛行機が好きでなければおもしろくもなんともなく、設定はグロテスクで、私は飛行機に乗っている時に見て寝てしまったという経験を持ちますが、それぐらい観客を見捨てた作品になっています。

それでも押井守が好きだ!という人には『アヴァロン』を薦めます。重苦しいですが、私は嫌いではないです。

まだ観れるという方は『立食師列伝』をどうぞ。私は当該シリーズの第一作しか観ていませんが、うる星やつらシリーズでやたらと立ち食いが出て来るのはこういうことかと、そこまで立ち食いが好きなのかというのが感じられてきますので、押井守理解は深まるのではないかと思います。

それより最近のは分かりません。さすがに押井守に疲れてしまいました。






モンゴル帝国の最大版図を見て気が付いたのですが、現在の先進国の地域はモンゴル帝国の支配から逃れています。何か関係がありますか?

あると思います。皇帝が多民族を支配する地域では国民国家の形成が困難になりやすいですから、モンゴル人に長く支配された地域が近代国民国家の建設に乗り遅れるのは理解できることです。

近代国家は国民皆兵をやりたがりましたが、見ず知らずの人のために死に行く兵士を量産するには、国民国家の方が都合がいいのです。

そういうのを英仏日独伊は一定地域を同一言語で統一できていましたから、うまくやれていたということではないかなと思います。

アメリカとカナダは少し事情が異なるものの、憲法で押し切ったと言えます。

東欧はスラブ、匈奴、ムスリムがモザイクのように隣り合って暮らしていると思います。多民族共生は大切なことですが、国民国家の建設には不利で、そなような社会になつた理由の一つはモンゴル人の支配にあつたかも知れません。

中央アジアでも、トルコ人、ロシア人、コサック、ツングース、満州人、モンゴル人がひしめきあい、国民国家の建設に出遅れたという面はあると思いますが、これもモンゴル帝国の長い支配と関係あるかも知れません。



30歳近くになり友達が居ません、どーやったら友達が出来ますか?マジで0です

資格を取ったり趣味のための教室に通うのが王道かなと思います。で、まずは友達ではなく恋人を作るのです。意外かも知れませんが友達よりも恋人の方が作りやすいです。というのも友情とは互いに敬意を払い合う純粋な感情であるのに対し、恋愛は互いの欲望を満たすものですから魚心あれば水心、割れ鍋に綴じ蓋で、30前後の男女であれば最もパートナーを必要とする年代ですから、恋人を最も作りやすい時期です。ですから恋人を得られそうならささっとそうしましょう。そのようにして恋人の友達と友達になります。



恋人が太ったり老けても愛しぬくのが本当の愛なら、恋人が犯罪やイジメをしていても愛すのが本当の愛ですか?

ドストエフスキーが『罪と罰』でそのような愛を描いています。殺人犯のラスコーリニコフの出所を待つ恋人は貧しさのために一度は公娼になったことがあります。真実の愛があれば、いかなることも乗り越えていけるし、その乗り越えようとする姿こそ崇高であるとドストエフスキーは思い、そう描いたわけですね。果たしてそれが現実的かどうかは別問題ですし、ドストエフスキーの場合は若いころに死刑執行直前に恩赦されるという経験をしたため頭の中身がぶっとんでいますので、普通の人たちとは発想が違います。但し、それでも、ドストエフスキーが示した愛のあり方に理想があるということについては同意します。