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立花隆さんが亡くなりました。彼の著書で感銘を受けたもの、もしくはおすすめなどありますか?

私は『臨死体験』ですね。立花さんはその書籍の最後のところで、死後の世界については死んでから心配すれば良いのだと結ばれていました。

この著作で立花さんは臨死体験は、そのほとんどが脳内の作用で説明が着くのだけれど、でも、ではなぜ人に精神が宿るのか(即ちなぜ私たちには心があるのか)は説明できないと述べています。全てが脳内の作用であれば臨死体験は夢みたいなものであり、脳の作用を超えた精神が存在するのであれば、臨死体験の先には神様に会える世界があるのかも知れないということになるわけです。

後に立花さんはインタビューに答えて、自分の人生の最後の望みは穏やかで充分な臨死体験をすること、即ち、満足できる死出の旅を経験することだと述べていました。どうも言葉の節々から、立花さんは臨死体験は脳内作用であろうと判断されていることが感じられましたが、このたび最期を迎えられたことが分かった今、立花さんの望み通りの臨死体験が経験されたことを祈りたくなります。

私は村上春樹さんの『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』で書かれた人が死を迎える時の内面的な時間の感覚と立花さんの探求した臨死体験は非常に似ているのではないかと思っています。それはどういうものかというと、脳内ではほんの短い時間、臨死体験が起きているのだけれど、死にゆく本人の主観的な時間の流れは1000年に匹敵する可能性があるということです。

例えば死後の世界に得られる永遠の命、神の千年王国みたいな表現がされることがありますけど、上に述べたように物理的時間が数分でも、主観的時間が千年であれば、人は誰もが死を迎えた時、永遠とも思える、千年の内面的時間を経験するのかも知れません。ですから死に際が大事、布団の上で安らかに死を迎えることが重要なのではないかと思うのです。安らかに死を迎えれば、主観的千年も安楽なものであるということがあり得るからです。

死を迎える時に神様によって審判されるとか、閻魔大王によって審判されるとかというのも、同じ理屈で昔から表現されてきたことなのではないかとも思います。ですから、あんまり外道な生き方をしてろくでもない死に際を迎えることのないようにすることは極めて重要なことではないかと考えています。

私がまだ疑問に思っていることとして、臨死体験は果たしてどれくらい続くのだろうかというものがあります。立花さんの著作では、マウスは命を失う直前のほんの短い間に非常に強い脳波が出ることが観察されることが述べられています。この生命が尽きる直前の激しい脳波が放出されている時間、臨死体験が起きている可能性があると。しかし脳波が出終わった後、本当に完全な死を迎えたと言えるのだろうかと私は思うのです。極めて微弱な、計測不能なくらいに微弱な電気信号はまだ出ていて、マウスは引き続き臨死体験をしているということはあり得るのではないだろうかという疑問が私には残って居ます。

脳死後に臓器提供の意思を示している人の体が臓器摘出中に動くことがあるというのも聞いたことありますし、体が抵抗して暴れ出すというのも読んだことがあって、それが誇張された表現なのかどうかは分かりませんけれど、脳死と判定された状態というのは実はまだほんのわずかに命の電気信号は通っているにもかかわらず、完全に死んだと判定されてしまうということではないのかと思えなくもないのです。脳死後に臓器を摘出されたり、死後に行政解剖されている時、死者は臨死体験を断ち切られている可能性はあると思うのです。ですから首を切る処刑法なんかも、臨死体験を断ち切るという意味で残酷な刑なのかも知れないとかも思うのです。

で、ですね、じゃあ、臨死体験が完全に終わるまでどれくらいかかるのかって話になるんですけど、もしかするとその期間が49日なんじゃないかなと。死者の魂は49日間この世にとどまると言わていることの真実の意味は、それだけの期間、人はかなりゆっくりと完全な死に向かって行くということであるとすれば、その間、臨死体験が継続されていないと誰に断言できるでしょうか。

そう考えると、火葬って結構やばい気がするんです。私、最近、死後は土葬がいいなあと思うようになって、どうすれば土葬してもらえるのか、キリスト教圏への移住も含んで考えるようになっています。



古代父殺し、近代父殺し、ポストモダンの母殺し

質問。近代文芸の父殺しを説明してください。古代ギリシャの父殺しと、ユートピア建設の父殺しはどちらが小説理解にとってより重要ですか?娘による母殺しはどうですか?

近代小説に於ける父殺しの概念の基礎になっているのはフロイトです。フロイトがエディプスコンプレックスという概念を世に問いました。このエディプスというのは、ご承知の通り古代ギリシャ神話のエディプスの父殺しに由来しています。

現代の我々が父殺しという時に、それが古代ギリシャ型父殺しなのか、それとも近代のフロイト型父殺しなのか、どちらなのかと言えば、フロイト型を想定してよいでしょう。思考実験的にギリシャ型とフロイト型を比較することはおもしろいかも知れませんが、近代小説に対する理解を深めるという観点から言えば、フロイト型を出発点にして捉えた方が、話は早いかも知れません。

では父とは何でしょうか。父いう言葉にはルールを決める人、善悪を決める人、罰を与える人、裁く人、権力者などを象徴する場合が多かったのではないかと思います。これ即ちキリスト教的父権主義を象徴しています。イエスが男性であり、イエスの父と精霊が三位一体になって神になるわけですけれど、女性が全く入ってきません。中世ヨーロッパ世界の頂点にいるローマ教皇は男性であり、神聖ローマ皇帝も男性であり、カトリックの教会の神父さんも男性であり、世界のルールは男性が決めていたわけです。聖母マリアのような存在は飽くまでもそのような厳しい男性社会の中に於いて、やすらぎや癒しの象徴にはなったでしょうけれど、聖母マリアがルールを定め、世界の終わりに人類を裁いたりすることは決してないわけです。近代的な、即ちフロイト的な父殺しは、そのような善悪を定める男を殺すことを求めているのであって、ギリシャ神話的に母親を横取りしようとかという話ではないということは押さえておいて損はないかも知れません。近代的な父殺し・神殺しは、父の持っている女性や富を横取りしたいのではなく、もっと本質的なものを変革しようとするものです。父の成し得なかった理想を私が成し遂げるというようなイメージになると思います。

ご質問を要約すると「神を殺してユートピア建設」か「父を殺して父の既得権をもらう」のどちらなのかということになるかと思います。「神を殺してユートピア」という発想を説明するには、ニーチェの存在に言及するのが良いかも知れません。彼は神に頼らぬ、善悪の彼岸に位置する超人という概念を追求しました。中世的な宗教による善悪の決定の先に行くことをニーチェは求めたわけです。ニーチェはフロイトより少し早く生まれ、フロイトよりうんと早く死んでいます。ニーチェとフロイトに共通することは、中世的な宗教世界から解放された(または追放された)人は何を考えて生きれば良いのかという問題意識を解決しようとしたということです。ニーチェは神がいなくても生きている人間像を追求しようとし、フロイトは神抜きで人間の精神を説明しようとしたわけですね。ここで言う神とは父と言い換えてもよいものです。
ですから繰り返しになりますけど、近代以後の世界で父殺しと言えば、神殺しであり、それはニーチェ・フロイト的な概念にたどり着くわけですが、その新しい概念、脱宗教的ユートピア建設=精神面での近代化をやってのけるために、ギリシャ神話のエディプスを持ち出して説明がなされたわけです。ご納得いただけましたでしょうか。

さて、次に、母殺しについて、私になりに簡単に述べたいと思います。まず、母殺しという言葉で私たちが思い浮かべるのは、母殺しをテーマにした寺山修司の映画、『田園に死す』です。この映画では、母なるものからの解放を願った男性の主人公が、いかに母を憎み、母を殺すと誓ったとしても、母はびくともせずに朝食を作り、みそ汁を飲めと迫ります。息子がどれほどユートピア建設を目指そうとしても、そしてユートピア建設にとって母は邪魔である、母は敵であると認識しても、母はそれまで通りのルーティンを決して崩しません。父は殺せば終わりですが、母は殺しても死なないのです。そして息子に味噌汁を飲ませようとする無敵の存在なのです。

しかしこれには、息子の母に対する諦めが見え隠れします。父と息子であれば遠慮なく殺し合えるのですが、母にはそういうわけにはいきません。母は殺しても死なないので、いずれ息子は降伏するしかないのです。エヴァンゲリオンでは父のゲンドウは途中であきらめてシンジの列車を降りていきます。ところが母のユイはとっくの昔に死んだも同然であるにもかかわらず、ゲンドウもシンジもユイのしがらみにがっちり縛られ続けます。仮にそのような強力な母が毒親であった場合、世界は真っ暗闇に包まれてしまうに決まっています。ユイが高天原の天照のようにエヴァンゲリオン実験機の中に閉じこもって出てこないことにより、父と息子の関係はどちらを殺すかまで続く果てしのないものになりました。仮にユイが本当に自ら望んでそうしているのであれば、徹底的な毒親であるとここで認定しておきたいところです。そのようなシンジを母から解放するには、友達の息子を誘惑するという稀代の悪女マリのような存在が必要だったわけです。そしてシンジがマリとの将来を選択することによって、シンジは大人になったということも言えるでしょう。ユイとマリの相克という裏テーマもおもしろそうですが、また機会があれば考えてみたいと思います。

さて、では、娘と母の場合はどうなるのでしょうか?実はこれについては私にも定見がありません。少し考えても思いつきません。強いて言うならば、豊かな母性愛を持つ母と娘が互いに手を取り合い、助け合って、男性中心社会の荒波を乗り越えようとするものか、或いは母と娘ともに近代男性中心主義に飲み込まれてしまい、どちらがより男性にとって理想的なのかを相争って憎み合うパターンのようなものが考えられます。実際にそのような事案はいろいろありますし、リアルに起きた事件の中にも、警察による立証はなされていないものの、母が新しい夫によって強姦された娘を殺した可能性が否定できないようなものもありますから、私が男性であるが故にあまりよく分かっていないだけで、母と娘の相克というものは人類の歴史とともに存在したと見るべきかも知れません。とすれば、男性中心社会がいよいよ本格的に崩壊しているわけですから、今後、文芸や映画の重要なモチーフとして母と娘の関係が描かれてゆき、評論可能な題材や型のようなものが形成されていくと考えてもよいのかも知れません。もしかすると『若草物語』が考える素材になるかもしれないとも思いましたが、それについてはまた後日考えてみたいと思います。



何故パルプフィクションの評価はあそこまで高いのですか? 僕もめちゃくちゃ好きで、面白いとは思いますが、imdbだと10位以内に入っていて、それほどかな?という風に感じます。

「何故パルプフィクションの評価はあそこまで高いのですか?僕もめちゃくちゃ好きで、面白いとは思いますが、imdbだと10位以内に入っていて、それほどかな?という風に感じます。」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

タランティーノ監督は、パルプフィクションの前にレザボアドッグスを撮影しています。アメリカの裏社会の面々を描くというコンセプトは同じですが、レザボアドッグスは男たちの会話だけでどこまでひきつけることができるかということに挑戦しています。そのような試みをした主たる理由は制作費にあると思いますけれど、結構成功していて、最後まで関心を持って私は見ることができたんですね。ただし、やっぱりどうしても、会話だけで引っ張ろうとするものですから、ドキドキわくわくするとか、圧倒的な映像美とか、圧巻のストーリー展開とか、そういうのはないんですよね。まあ、なくてもいい映画はいっぱいありますから、それがないからマイナスということにはなりませんけど、でもやっぱり、より多くのファンを獲得したいと考えるのであれば、ちょっと物足りないところはあると言えると思います。

レザボアドッグスで評価されたことで、パルプフィクションでは制作費を獲得することができ、有名俳優を投入し、場面展開もめまぐるしく変化させることができ、音楽にも凝っていて、飽きっぽい観客でも見続けることができる作品になっていると私は思います。幾つかの人間模様が交差するオムニバスですから、悪く言えば物語がブツ切りになってるんですけど、良く言えば無駄を捨てている。説明を省いている。絵を見て勝手に判断してくれよ、というか、絵が良ければそれでよくね?というある意味では映画に対して非常に純粋な態度で臨んでいるというようなところは、本当に気持ちいいとすら言えると思います。ですから、さっき死んだジョン・トラボルタが、次のエピソードに登場してきても、時間軸に捉われている方がダサいぜ。くらいの勢いがあるので、観客はそれも受け入れることができたんだと思います。映画の最後の方でサミュエル・ジャクソンが神の愛みたいなものに目覚め、ヤクザ稼業から足を洗うわけですけど、足を洗わなかったジョン・トラボルタは殺されるわけですから、ちょっとそのあたり、私は人生について考えさせられてしまい、そのような深みもこの映画の良さではないかなと思います。

で、ですね、タイトルがいいですね。パルプフィクションですから、紙に書いた作り話だよと、ペーパーバックの三文推理小説を電車の中で読み捨てるくらいのライトな感覚で見てくれよ。とタイトルで宣言しているのも、なんか思い出すたびにしみじみするというか、映画を楽しもうよ!という監督の映画に対する哲学みたいなのが感じられて、いいなあと思うわけですね。

そのように素敵な点がたくさんあるパルプフィクションですが、ご指摘の通り、そこまでか?と思わなくもありません。太陽がいっぱいのアランドロンの悲しさ、七人の侍の死にゆく侍たちの悲しさ、市民ケーンの金はあっても愛がないことの悲しさを描いているのかというような話をすれば、そうではない、その分、軽いと言う指摘はあり得ます。ただし、タランティーノ監督は映画とは、観客が映像を見ている瞬間、楽しむことができればそれでいいのだ、というかそれが映画で、考えさせる映画なんかいらねー。という哲学で作ってるわけですから、そういうアンチ教養主義みたいな立場で作った映画としてはやっぱり最高峰に位置するんじゃないですかね。

なんとなく回答してみたらこんなに長くなってしまいました。私、そんなにパルプフィクションは好きじゃないつもりだったんですけど、ここまで書いてしまうということは好きなんだなあと気づきました。



フリーメイソンとは何か

最近、リアルな友人からフリーメイソンについてやってほしいとのリクエストがありましたので、今回はそれでやってみたいと思います。

10年ほど前、私はパリのフリーメイソン博物館を訪問したことがあります。パリの地下鉄のカデ駅の近くにあるんですが、パリの地下鉄ってわかりにくくて、慣れるまでちょっと苦労するんですが、そのときは、たまたま私が宿泊しているホテルが近くて、徒歩数分の距離のところにあったわけです。

で、カデ駅周辺ってどんなところかって言うと、ややさびれてます。パリの北の方でちょっと古めかしい、19世紀の雰囲気を残した感じの場所なんですね。パリは都市設計の方針としてナポレオン三世の時代の雰囲気を残すようにしているらしいんですけど、まあ、多分、当時の雰囲気を色濃く残すエリアだと言っていいんじゃないかなと思うような場所なんです。ラストタンゴインパリという映画がありましたが、あの映画でマーロンブランドが若い女性に銃で撃たれて死ぬとき、彼が最後に見る風景が昔ながらのパリの街並み、パリに並ぶアパートの屋根なんですが、観客はマーロンブランドに対して、最後に見る風景がパリのアパルトメントの屋根で良かったじゃないかって祝福してやりたくなるんですが、あんな雰囲気のところなんですね。

で、ところがですね、フリーメイソン博物館は、その周辺の雰囲気と全く合わない感じの建物なんです。21世紀風というか、宇宙船みたいな、2001年の宇宙の旅とか連想しそうな不思議な建物なんですね。で、金さえ払えば誰でも展示品が見れるようになっていて、そうだなあ、多分、1500円くらい払ったと思いますけど、中で写真撮っても何も言われないんですね。で、六分儀とか、そういうフリーメイソンのための道具とかが展示されているという、ただそれだけの場所なんです。フリーメイソンっていうと秘密結社ということで、凡人が足を踏み入れてはいけないんじゃないかなって雰囲気ありますけど、この博物館に限ってはそんなことはなかったんですね。

展示品の説明はフランス語で書かれていて、私も一応、入門程度にフランス語はやったんですけれど、やっぱりそれだけだと限界があって、詳しいことは分からなかったんですが、まあ、それでも、珍しいものを見れたということで私は満足したわけです。で、博物館の隣にあった本屋さんがもうちょっとおもしろかったんです。というのも、フリーメイソン関連の本しか売ってない本屋さんで、本当にうず高く書物が積まれているわけですけど、じっと見ていると、とにかくフランス革命とフリーメイソンの関係を論じた本が多いんです。英語で革命はレボルーションですけど、フランス語で革命はレボルシオンなので、じっと見ていると、ごく基本的なことは分かってくることもあるわけです。で、どうやら、フリーメイソンがフランス革命の成功のためにいろいろがんばったんだよ。というようなことが書かれているみたいなんですよ。

で、考えてみるとですね、確か、ミスター都市伝説の関暁夫さんが、フリーメイソンの理念は自由平等博愛って言ってたんですよね。自由平等博愛ってまんまフランス革命の理念なわけですよ。ですから、フランス革命の陰にフリーメイソンがいたとしても、別にそんなにびっくりすることじゃないというか、ふーん、さもありなんという感じに思っていいんじゃないかなと言う気がするんですね。

アメリカの独立戦争もフリーメイソンが絡んでいたとよく言われます。場合によっては、フリーメイソンがアメリカ独立を達成したみたいな表現も私は読んだことがあります。

で、よくよく考えてみると、アメリカ独立戦争も、フランス革命も、中世から続く王様とか皇帝とか、或いは貴族などの持っている権威や利権というものを否定して、一般市民、商売をする人、技術で仕事をする人、ブルジョワ階級、こういった人たちが努力や能力に応じて出世できる社会にしようと、そういう目的を持って実現されたものだと言う面があると思うんです。アメリカ独立戦争の理念に人民主権というものがありますけど、フランス人のトクビルが書いたアメリカの民主政治は、アメリカでは全ての人がこの人民主権社会を実現するために参加・協力を求められた、つまりそういう理念の国なんだと説明してますけど、仮にフリーメイソンが本当にアメリカの独立戦争やフランス革命に関わっていたとしたら、或いは本当に陰の演出をしていたのだとすれば、まあ、辻褄は合うんじゃないかなと思います。

ローマカトリックはフリーメイソンを非常に強く敵視していて、稀に枢機卿がフリーメイソンのメンバーだということがばれると大問題になるらしいんですけど、上のような流れを考えると、これも確かに頷けるものがあると思います。というのも、中世ヨーロッパがどういう世の中だったのかと言えば、ローマカトリックの権威に公認された王様とか皇帝とかが領地領民を支配することができる社会だったわけです。有名なものですと、中世ヨーロッパに燦然と君臨した神聖ローマ皇帝が人事のことでローマ教皇と対立した事件があったんですが、ローマ教皇が当時の神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世を破門するという段階まで揉めてですね、ハインリッヒ4世が謝罪するという展開になりました。この謝罪のときにですね、ローマ教皇の滞在先のお城の門の前で雪の中3日間立ち続けたというんですね。で、だったらしょうがないということで、教皇が赦しを与えたというのがありました。カノッサの屈辱事件と言いますけど、神聖ローマ皇帝はヨーロッパの世俗社会では最高の権威者でしたけど、それでもローマ教皇にはひれ伏さなくてはならなかったんですね。なぜかというと、皇帝と言う立場、位はですね、ローマ教皇に公認してもらえなければ、他の人も認めてくれないからなんですね。この権威がローマ教皇の力の源泉でもあったし、また、神聖ローマ皇帝とか、その他各地の王様や諸侯・貴族にとっても、「私はローマ教皇に認めてもらったからこの土地を支配する権利がある」と言い張ることができるので、王様や貴族にとってもこの仕組みは便利だったわけです。ウインウインな関係が確立されていたわけですよね。

ですから、エリザベスというケイト・ブランシェットが主演している映画で、ローマカトリックと英国教会の対立の深刻さが描かれますけど、イギリスのエリザベス女王の父親のヘンリー八世が、ローマカトリックめんどくせえ、うちは宗教的に独立しますんで、そういうことでよろしくと言い出してですね、英国教会、アングリカンチャーチをを作ったというのは、大事件だったわけです。ローマ教皇に正統性を与えてもらわなくても、イギリス国王は自分で自分に権威づけしますからというわけですね。もう、ローマ教皇はうちでは不要ですからという宣言みたいなものになるわけですね。

で、フリーメイソンに戻りますけれど、フランス国王にしても事情は同じなわけですね。ローマカトリックにフランス統治の権利を認めてもらうことで、自分のフランス統治の権利を主張することができるというわけです。ルイ14世のころの絶対王政というのも、絶対王政をやってもいい根拠というのは、王権神授説というもので、王様の権力は神様に与えてもらった絶対的なものだから、民衆は言うことを聴けよ、ということになるわけですが、神様にそのような権利を与えてもらうというのは、そのプロセスがどうなっているかというと、ローマカトリックがちゃんと世俗と神様の間をとりもってくれていますから、要するにローマカトリック教会から、「お前、フランス王な」と言ってもらえたから、王権神授説が成り立つというようなイメージで捉えればいいでしょうと思います。

フリーメイソンがフランス革命を主導して、フランスの王権を否定するということは、究極的にはローマカトリックの権威を否定することになるので、フリーメイソンとローマカトリックは犬猿の仲、不倶戴天の敵になるという風に私は理解しています。

という風に考えるとですよ、たとえばフランス革命を思想面で支えたルソーもですね、やっぱフリーメイソンの仲間だったんじゃないかとかですね、或いはナポレオンもそうだったんじゃないかとかですね、いろいろ想像が広がるわけです。

ナポレオンがやったことというのは、周辺諸地域にフランス革命を輸出したことになるんですね。まあ、最終的に彼は皇帝になって、元の木阿弥みたいな話になっちゃうから、やや微妙ですけど、皇帝への即位も、ローマカトリックの使者に冠を被せてもらうのではなく、自分で冠を被ることで儀式を完成させていますから、その行動が権威を持つのかどうかは議論が分かれるかも知れませんが、源義経も自分で帽子を被って元服したと言い張りましたから、ありかなしかと言えば、ありなのかも知れませんけど、ナポレオンのこような行動もカトリックの権威を受け入れてはいないという暗黙の自己表現だったとも言えるのではないでしょうか。

そのように考えると、その後のヨーロッパで吹き荒れた革命の嵐はやはり、もしかすると、フリーメイソンが絡んでいるんじゃないかとも思えます。市民革命が起き、長くその土地を支配した王様や貴族が追放され、憲法が制定されて、支配者は王様ではなく、憲法だ、要するに法の支配だと、で、憲法が人民主権を定めているから、主権者は人民だというロジックが形成され、広がっていく、立憲主義的な社会の確立がフリーメイソンの目的であったとした場合、王の否定がカトリックの否定であるとすれば、そりゃ、フリーメイソンとカトリックが不倶戴天の敵になるのも、理解はできますね。

私はどちらの側を応援するということもないですけど、カトリックの側からすれば、フリーメイソンは、新しい理念で世界を覆い尽くそうとしていると、陰謀論を言いたくなるでしょうし、フリーメイソンの側からすれば、カトリックこそ権威を使って世界を支配をしているという批判をしたくなるというようなことかも知れません。

私は、アメリカに留学した時に、ローマ法王を激しく批判するテレビ番組を見たり、雑誌記事を読んだりしたことがあって、当時はローマ法王と言えば、とてもありがたい心のきれいな、マザーテレサみたいな人だと思ってましたから、アメリカでのローマ教皇批判にはびっくりしたんですけど、アメリカがプロテスタントの国だということを考えてみれば、そして、カトリックと王や皇帝の相性が良く、逆に言うとフリーメイソンが立憲主義や反カトリックのプロテスタントとの相性が良いのだという風にとらえると、アメリカでのローマ教皇批判の風土も、よりすんなりと理解できるのだと思います。

で、仮に私が上に述べたような仮説が正しいとした場合ですけれども、間違っていたら謝罪しますが、仮に正しい場合、日本に与えた影響というものもですね、どういうものであったか、というのをより具体的に把握できるんじゃないかなと思うんです。

日本人で一番最初にフリーメイソンのメンバーになったのは西周と津田真道であったことは知られています。幕府に費用を出してもらってオランダに留学していた時期にフリーメイソンに入ったらしいんですね。で、西周は帰国後、徳川慶喜のところで仕事をするんですけど、憲法草案を書かされています。立憲主義を広めることがフリーメイソンの目的ではないかということを私は先に述べましたけれど、西が帰国後に憲法草案を書いたというのも、彼がフリーメイソンのメンバーだったことを考えると、すんなりと矛盾なく辻褄が合うんですよね。徳川慶喜は戊辰戦争の最中、西郷隆盛に追い詰められて殺される寸前でしたけれど、イギリス公使パークスが西郷に慶喜を殺すなと言ってきてですね、それで慶喜は助かっています。勝海舟の回想によると、もし西郷が受け入れない場合は、慶喜をイギリスに亡命させることでパークスと話しがついていたということらしいんですね。たとえばですよ、西周が慶喜をフリーメイソンに誘っていてですね、パークスもフリーメイソンのメンバーだったとしたら、人間関係的に、フリーメイソンのメンバー同士の助け合いだと思うと説明がつくんじゃないかなと言う気がします。そもそも、慶喜は大政奉還をしてますけど、そういうのをやろうかなと思うというのも、フリーメイソンの古い権威を打ち壊すという考え方に賛同する部分が慶喜にはあって、だからそうしたと言うこともできるんじゃないですかね。このあたりは完全に想像で、私もちょっと飛ばしてると言うか、ここまで言っちゃっていいんだろうかと思いながら続けてますけど、坂本龍馬がフリーメイソンだったという説もあるらしいですが、もし本当だったとしたら、坂本龍馬が大政奉還を言い出して、それを慶喜も同意したという流れは非常に分かりやすいという気もするし、坂本龍馬が新政府に慶喜を重要人物として迎え入れようと考えたと言われるのも、納得できるとも思います。ただ、慶喜は坂本龍馬という人物の存在を知らなかったんですね。維新後にいろいろ関連本を読んで坂本龍馬のことを知ったそうなんです。だから、陰でフリーメイソンつながりで竜馬と慶喜が連携していたとかまで想像するのは、かなりフライングということになってしまうとは思います。

明治時代、日本はイギリスとアメリカに随分とかわいがってもらって発展しましたが、イギリスとアメリカがローマカトリックの権威から離脱を目指した国であるということを考えると、当時の日本人が徳川将軍という、日本の古い権威を否定して、新しい立憲主義の国を作ったということでかわいがってもらえていたのが、気づくと天皇が徳川将軍以上に神格化された存在になっていって、イギリス人やアメリカ人が当初想定していたものと違ってきたから、第二次世界大戦でフルボッコされたと捉えるのは、考えすぎでしょうか。

随分と長くなってしまいましたが、仮にフリーメイソンの目的がここまで述べたような立憲主義国家を増やすことだとしたらですね、世界中の大抵の国は憲法を持っていますから、フリーメイソンの目的は達せられたのではないかなという気もします。じゃ、これから、どうするのかってことですけど、それはまた世界の流れをじっくり見つめていれば、分かってくるのかも知れませんね。



台湾は人口2400万人位、GDP70兆円位の中でTSMCの投資額が3.3兆円とのこと。凄まじいですね。鴻海もあるし、この30年で、もはや日本とは師弟関係逆転ですね?

「台湾は人口2400万人位、GDP70兆円位の中でTSMCの投資額が3.3兆円とのこと。凄まじいですね。鴻海もあるし、この30年で、もはや日本とは師弟関係逆転ですね?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

台湾の経済発展が凄まじいのは事実と思います。特に最近の5年から10年での発展ぶりには目を見張るものがあり、生活水準も飛躍的に伸びています。おそらく台北の中心部の有名企業で働く人や起業して成功しているタイプの人であれば、一般の日本人よりも豊かな生活を享受しているのではないかと感じます。特に日本の生活水準が下がっていて、銀座や祇園のような旦那さんが集う贅沢なエリアは全盛期と比較すれば壊滅状態に近く、要するにお金に余裕のある人がいなくて、若い就職したばかりの人に話を聞くとその薄給ぶりには涙を誘うものがあります。私が新聞社に入った時は額面の初任給20万に対して諸手当がたくさんついて手取りは倍近くあるというようなも感覚だったのですが、今は初任給20万から保険や年金などが引かれて手取り3分の2くらいになるそうです。斜陽の国と日の出の国くらいの勢いの違いがあって、もはや日本がアジアで抜きんでて豊かという時代ははっきりと終わったと思います。「師弟関係逆転」と表現するためには、師弟関係が存在していることが前提になりますが、少なくとも日本人の実感としては師匠であったという感覚はないのではないでしょうか。師匠は弟子の幸福や生活に気を配ってやらなくてはいけませんが、日本人はそういうことはしてきませんでした。下請けとしてあごで使ってきただけです。台湾の方としてはいよいよ日本越えが見えてきたというところだと思います。シャープが買収された時、私は台湾にいましたけれど、国を挙げての祝祭ムードは非常に印象的でした。今日本の様々な資産はお買い得ですから、台湾人の不動産購入は拍車がかかると思います。台北の不動産は上がりすぎていて利回りが悪く、日本の不動産の方が儲かるという話がよく出ているようです。日本人は今さら不動産なんか…と手を出しませんから、これからは本格的に買われていくのではないでしょうか。たとえばパリやロンドンの不動産はムスリムの人々に買われまくっているそうですが、同じことが東京でも起きるでしょう。帝国ホテルの最大株主が台湾企業というような時代もすぐそこに来るような気がします。私は以前はもうちょっと日本にがんばってほしいと思っていましたが、最近は諦めました。買われるがままに買われるしかなさそうに思います。



ハリウッド映画では問題の最終解決手段として核兵器が使われることがありますが、アメリカ人は核兵器のリスク(放射能など)をどれくらい理解しているのでしょうか?

「ハリウッド映画では問題の最終解決手段として核兵器が使われることがありますが、アメリカ人は核兵器のリスク(放射能など)をどれくらい理解しているのでしょうか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

『博士の異常な愛情』とか、『渚にて』とか、『チャイナシンドローム』とか、放射線の恐ろしさを伝える作品は英語圏ではいろいろあります。日本人は広島と長崎の惨劇についてよく学んでいますから、確かに日本人に比べれば理解は低いでしょうけれども、「とてつもなく怖いらしい」ということについては、かえって情報が少ないだけに伝説的なものに発展しているのではないかと思います。アメリカ映画で核兵器を使用するのって『エヴォルーション』とか『インディペンデンスデイ』みたいなエイリアンが攻めて来たときとか、隕石が突っ込んでくるときくらいしかないので、もしかするとハリウッドのコンプライアンス的に、核兵器は宇宙から脅威が来た時しか使ってはいけないなどのようなコードでもあるんじゃないですかね。



5chとyoutubeならどちらの情報が信用できると思いますか?

「5chとyoutubeならどちらの情報が信用できると思いますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

youubeは偽名やなりすましも可能であるとはいえ、一応はアカウントを晒して利用しますから、それだけ責任も問われます。ですので5chよりも情報の信用性は高いと思います。匿名だからこそぶっちゃけることも可能という考え方もあるでしょうけれど責任を負わなないわけですから、信用という点では評価は下がると思います。



シンデレラはパーティーでどんな踊りを踊ったのですか?やっぱりワルツですか?

「シンデレラはパーティーでどんな踊りを踊ったのですか?やっぱりワルツですか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

思考実験的に述べます。シンデレラという物語の起源ははっきりしないため、分からないとしか言いようがありません。しかし、我々が知るシンデレラはグリム兄弟が整理してまとめたものあり、グリム兄弟がドイツの人だということを手掛かりに考えてみたのですが、ドイツ語圏で男女がともに躍る音楽にはレントラーとヴィエンナワルツがあるものの、グリム童話が成立した時期にはまだヴィエンナワルツは成立していません。とすれば、レントラー一択になります。レントラーは4分の3拍子の素朴な音調のダンス音楽ですが、これをワルツの前身と見るか、ワルツの一種と見るかで結論は変わることでしょう。



まだアメリカンドリームはあると思いますか?

「まだアメリカンドリームはあると思いますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

アメリカンドリームは定義がやや曖昧です。ある人はドナルドトランプみたいな大金持ちになることだと言うかも知れません。しかしある人はヨーロッパで農奴みたいな扱いを受けていた人たちがアメリカで自由な独立自営業者になることをアメリカンドリームだと言うでしょう(Catsで歌っている、I like to be in America!というのは、基本的にこれです)。ある人はマコ岩松さんみたいなハリウッド俳優になったりすることだと言うかも知れません。即ちアメリカでなんらかの成功を収めれば、なんでもアメリカンドリームということになります。従いまして、幾らでも定義を変えていけるアメリカンドリームは今も存在します。



部下に木村という者がいます。ある時その木村がそのまた部下に「木村拓哉でもないあなたの指示に何故従う必要があるの?」と言われました(実話)が、これは指示を拒否するのに正当な理由となり得るでしょうか?

「部下に木村という者がいます。ある時その木村がそのまた部下に「木村拓哉でもないあなたの指示に何故従う必要があるの?」と言われました(実話)が、これは指示を拒否するのに正当な理由となり得るでしょうか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

軍には統帥の体系があって、誰が誰に命令する権利があるのか極めて明確です。自分が所属する部隊の上官の命令に従わない場合は軍法会議にかかられますが、命令権はかくも重大な力を持つため、たとえ軍歴が長かろうと、或いは階級が上であろうと、所属していない部隊の司令官に命令されるいわれは無く、仮にそのようなことが起きれば統帥権の干犯に当たります。以前の日本軍であれば、天皇は全ての軍人に命令する権利がありましたが、陸軍の参謀総長に海兵に命令する権利はありません。師団長は指揮下の連隊に命令する権利はありますが、他師団の連隊に命令する権利はありません。更にその下の、、、以下略を説明したらわかってくれないものでしようか、、、