シャア・アズナブル論考⑤‐唯一の理解者ドレン

以前、シャア・アズナブル論考3‐シャアと彼の部下たちというタイトルで記事を書いた。作品中、シャアの部下は末端や軍属のフラナガン博士まで含めると実に大勢いるが、大まかな傾向としてドズル指揮下時代の部下たちはシャアとの関係がすこぶる良く、キシリア指揮下時代になると部下とは隙間風が吹いていて副官のマリガンとも意思疎通に齟齬が見られたりすることについて考えたのだ。要するにドズル指揮下時代のシャアは人間関係に恵まれて幸福だったのに対し、キシリア指揮下時代のシャアは部下からも怪しげな目で見られ、他の将校たちとも協力関係ではなく対立・競争関係という立場になり、辛い中をキシリアの寵愛を得るべく血を吐く思いで努力をしなければならなくなってしまう。現代日本でもブラック上司に泣かされる人は大勢いるに違いないが、シャアがキシリアに対して殺意を抱くのも、ザビ家への恨みとか関係なく労働条件で充分説明できそうな気がしなくもない。やや意地悪な見方だが、キシリアがシャアの正体を見抜いたとき、シャアは「手の震えが止まりません」と言うが、或いは過労による低血糖などが原因かも知れない。ガルマの死後、ドズルに見捨てられたシャアは居場所を失い最終的にはララアというアウトスタンディングな恋人に逃げ込もうとしたが、ララアはアムロに物心両面でやられてしまうため、シャアはつくづく気の毒である。もちろん、シャアの安易な計算によって謀殺されたガルマが更に気の毒なことは言うまでもない。

さて、そのような世知辛い人間関係の中で、唯一の徹頭徹尾シャアの理解者としてふるまった人物がドレンである。当初、軽巡洋艦ムサイでシャアの副官であり肩書は少尉だった。シャアとともに地球に降り、シャアがガルマをサポートする一部始終を見ていたし、ガルマが戦死しても別にいいや、助けよっかなどうしよっかな高みの見物♪などとシャアが無根拠な余裕を見せている時や、今出撃しておけばドズル様への忠誠ってことになっていいかも♪などというあからさまな保身発言、場合によって発言に留まらない保身工作を全部知っていながら、ドレンはシャアにとって完全な味方であり続けた。やはりドレンは中年から壮年にかけてのおじさんなので、シャアのように年齢が若く、ルウム戦役のビギナーズラックでうっかり出世してしまい、なんとか舐められないように戦果を挙げようとあがくシャアを見て、同情のようなものを持つようになったのかも知れないと私は推察している。

シャアがドズル閥を追放されてキシリア閥に引き上げられると、ドレンはドズル閥内で出世して大尉になり、パトロール艦隊の指令になった。軽巡洋艦副官に比べれば大出世である。ドレン艦隊のパトロールエリアにホワイトベースが現れた時、シャアは迷わずドレンに連絡を取り、挟撃するための協力を要請する。これを二つ返事でドレンは快諾する。詳しく見て行けば分かるが、たとえばキシリア閥のマクベがドズル閥のランバラルから協力を求められた際、マクベはほとんど相手にしない。サイド6でコンスコンがホワイトベースと戦闘する際、シャアは高見の見物を決め込むし、テキサスコロニーでマクベがアムロに殺されるときもシャアは助けそうに見えて助けず、シャアの態度にララアがドン引きするという場面もある。そのように思うと、シャアの協力要請に対してドレンが二つ返事で了解したことという一時を以て、両者がどれほど厚い信頼関係で結ばれていたかが分かる。

ドレンがかなりシャアの本質を見抜いていたことは、シャアとドレンとの会話及び、ドレンのモノローグによって理解できる。挟撃の合意がなされた際、ドレンの方が時間的に早くホワイトベースと遭遇することが明白であったため、ドレンはシャアに「間に合いますか?」と質問し、シャアは「私を誰だと思っているのだ」と返す。ドレンは表面的には「失礼しました」とつくろったが、この瞬間、彼には全てが分かったはずである。先にホワイトベースに対する攻撃を始めたドレンは、シャア大佐が到着する前になんとしてもホワイトベースを堕とすのだと発言している。ドレンはシャアにはホワイトベースを打ち取ることができないと分かったからだ。しかし軍人として、シャアにやめておきなさいと言うわけにもいかない。残された選択肢は自分が死ぬことが分かったうえで、シャアが来る前にホワイトベースを打ち取ることにドレンは一縷の望みを託そうとしたのである。間に合うはずもないにもかかわらず、俺、赤い彗星だから不可能を可能にするに決まってるじゃんと言っておきながら間に合わなかった無能なシャアもなかなかに痛いのだ。一方で、シャアの無能を見抜いた上でシャアの身代わりのようになって死ぬことを決意したドレンの心中には同情もするし、決意の強さに感服もする。シャアのためにかくも尽くす人物は他には登場しない。そしてシャアは、思いつきの無理ゲー作戦によって、貴重な理解者であるドレンをも失うことになってしまった。キャメルパトロール艦隊(ドレン艦隊のこと)全滅の知らせを受け、シャアは「ドレンに私が来るまで持ちこたえられんとはな」とつぶやくが、果たしてドレンが命を懸けてシャアを守ろうとした究極の親切心に気づいていたかどうかは謎だし、あんまり気づいていなさそうである。尤も、マスク越しにシャアが強いショックを受けていることは察せられるので、その点は同情できる。妹のセイラには殺すしかないと思われ、ドズルに無能と判定され、キシリアに翻弄されるシャアは、やはり親友のガルマを謀殺したあたりからいろいろなものが狂ってしまったのかも知れない。ガンダムは表面的にはアムロがラブワゴン状態のホワイトベースであいのり的人間関係にもまれつつ成長する物語だが、隠れたテーマは若さゆえの過ちで走り切ったシャアの物語であるということが、論じれば論じるほど明らかになっていくように思える。




シャア・アズナブル論考④‐坊やだからさ

映画版のシャア・アズナブルには一見して一貫した目的があるように見える。ザビ家への復讐を究極の目標に様々な裏工作を行い、最終的にはそれを完遂するというもので、男の中の男というか、男が憧れる男というか、女も憧れるモテる男になっていて、見ていて充分にしびれる男になっている。映画版の1stガンダムは、アムロのことも忘れて、ほとんどシャアのイメージビデオのような仕上がりだ。シャアのファンにとってはたまらない内容になっているし、理想のシャア像が描かれているため、ファンの満足度は高い。そして映画版の普及が、シャアのファンを再生産していったとも言うことができる。アムロよりシャアの方ががぜん人気があると私には思える。

が、しかしである。テレビ版になると、シャアはかくもかっこいいだけの男ではない。様々な局面で判断や優先順位は揺れ動き、迷いが見られ、明らかな誤算も見られるのである。映画版のシャアよりもテレビ版の彼の方が人間的でおもしろい。テレビ版の方が映画版よりも小心者であり、しかしだからこそ、アムロ以上に注力して創造されたキャラクターだと考えることができるだろう。シャアの若さゆえの過ちは映画では分かりにくいが、テレビ版をよく観察することで見えてくるのだ。

そのシャアの最大の誤算が、ガルマの謀殺である。テレビ版にフォーカスするが、シャアはガルマを謀殺するか、それとも自分の手でホワイトベースとガンダムを葬り去り、その戦果をドズルに褒めてもらうかで揺れている。そのどちらになったとしても、シャアのなにがしかの目的は果たされるので、シャアにとっては負けのない勝負になるはずだった。だがここで注目したいのは、シャアがドズルに褒めてほしいと思っているところであろう。人は誰から褒められたいと思うだろうか。大事に思う人だったり、お客様だったり、コンプレックスを感じる相手だったりといった人から褒められたい。要するに認められたい。シャアは上司のドズルに認められたいと思っていて、その心境はなかなかのポチである。だが忘れてはならないのは、シャアにとってドズルは上司であると同様に仇であるザビ家の息子であるという点だ。ガルマがザビ家のプリンスであるのと同様に、ドズルも顔は悪いがザビ家のプリンスなのだ。にもかかわらず、シャアはガルマの謀殺を企てる一方で、ドズルに対しては褒められたいと思っているのである。大いなる矛盾を抱えた男がシャアなのだ。更に言えば、上司に褒められたいというかなりチキンな願望も否定することはない。自分がチキンだと気づかないほどチキンなのであり、このシャアの心境を考えるとファンとしては泣きたくなってくる。

で、先にガルマの謀殺がシャアの最大の誤算であると述べたが、それには以下のような理由があるからだ。シャアはホワイトベースが強すぎるからダメでしたということを理由に、ガルマを守り切れなかったことにして、ホワイトベースに手を下させてガルマを死に追い込んだ。この時のシャアの計算は、ホワイトベースがこんなに強いのだから、ガルマが死んでも自分がサボタージュしたとか、そういう批判は来ないだろうというもので、且つホワイトベースなんて戦争の素人だから自分が本気出したらいつでも潰せるし、今回はガルマの謀殺に利用してやろう。俺って頭いい。と思っていたあたりにある。

結果としては、ガルマの死によって、シャアが恐れていたドズルからは無能のレッテルを貼られて追放され、キシリアに拾われるものの、やはりガルマの死に方がおかしいとにらんだキシリアによって調べが進められ、正体までバレてしまうのである。シャアはガルマの死後もドズルの下で順調に出世するつもりだっただろうから、予定外も甚だしい。キシリアには「ザビ家復讐を諦めて、それでどんなビジョン持ってるの?」と質問され、「ニュータイプの世の中が来るのなら見ていたいっす」と抽象的でとってつけたような発言であり、ほとんど新卒の採用面接くらいでしか通用しないものだ。キシリアは怒ることもできたが、シャアには仕事をしてもらわなければならないので、見逃したというのが真相ということができるだろう。

キシリアの指揮下に入ったシャアはひたすらホワイトベースとガンダムの撃沈に執念を燃やすが、遂に果たせない。アムロの成長が速く、シャアはそれについていけなくなってしまう。もし、ホワイトベースを撃墜できる可能性があったとすれば、ホワイトベースクルーがまだ戦闘に慣れていない時期に、要するにガルマの担当地域にいる間にやってしまうのがベストだっただろう。にもかかわらず、シャアは不要不急のザビ家の復讐を優先し、結果として余裕で潰せるはずだったホワイトベースとガンダムに信頼する部下もプライドも恋人も奪われてズタズタになってしまうし、妹からは刺し違えてやろうかと思われるほど舐められることになる。読みが外れた自称天才はかくもみじめなものなのかと同情を禁じ得ない。

ガルマの国葬が生中継されているとき、それを酒場で聞いていたシャアがガルマのことを「坊やだからさ」と吐き捨てるように形容する場面はとても有名だ。ガルマのどこがどう坊やなのかは意外と謎のようにも思えるのだが、シャアがドズルを畏敬していたことを合わせると以下のような解釈も可能である。シャアは同じザビ家の人物でもドズルにはびびっていたため当面狙っていなかったのだが、ガルマのことは舐めていたために狙ったのである。従って、「坊やだからさ」の真意は、ガルマはドズルに比べて坊やだからだと理解することができるだろう。

そのようにして他人の人生を操れる俺ってすごくね?とか思っているシャアにまるで運命が復讐するかのようにその後の苦難と凋落が押し寄せるのである。シャアへの同情は続く。




シャア・アズナブル論考③‐シャアと彼の部下たち

映画版のガンダムだけを観ているとシャアがやたらと優秀に見える一方でどのような性格の人物なのかというのはよく分からない。合理精神の持ち主とかチャンスを最大限に活かす主義、みたいなことは分かるが、それは性格というよりは能力に起因するものだ。

それに対して、テレビ版のガンダムはシャアの性格描写が入念に行われている。アムロが定型的な内向的ティーンエイジャー程度の性格描写しか行われていないのに対し、シャアについては矛盾があり、悩みがあり、揺れがある。それゆえにテレビ版のシャアは非常に魅力的だ。もちろん、根暗にも見える。人は突き詰めるとみんな根暗な部分があるので、性格描写に力を入れればその対象は根暗になっていかざるを得ないのではないかと思える。

さて、それはそうと、テレビ版のシャアの特徴とはなんだろうか。テレビ版初期のシャアをよく表現しているのは彼と彼の部下との関係性だ。軽巡洋艦ムサイの司令官としてのシャアは部下たちと極めていい関係を築いている。そしてシャアも部下思いだ。例えばクラウンというザクのパイロット大気圏突入戦で残念ながら命を落とすと言う時、彼は「少佐、助けてください、シャア少佐」と叫ぶ。もはや手遅れな状態でシャアにも如何ともしがたいのだが、クラウンにとって戦場の心の支えはシャアなのである。シャアもまた、クラウンの戦死に対して実に悔しそうだ。クラウンだけではない、配下のザクがガンダムに打ち取られる度に、シャアはパイロットの名を呼び、その命を惜しんでいる。部下思いで、心温まる。パプア補給艦が登場する会では、アムロたちがシャアの補給を邪魔する一方で、シャアとムサイクルー及びパプア補給艦艦長は互いに協力し合い、一人はみんなのために、みんなは一人のためにと言わんばかりの献身的な支えあいでなんとか補給を成功に導こうとあがいている。この回は特にジオン軍側の将兵たちの努力が涙ぐましく、シャアとアムロのどちらが本当の主人公なのか分からなくなってくるほどだ。部下たちがシャアを慕っているということもよくわかる。副官のドレン少尉も実によく誠実にシャアを支えている。ドレンはおそらく唯一のシャアの理解者なのだが、これについてはまた日を改めて議論したい。

だが、シャアが部下思いなのは大気圏突破戦までだ。大気圏でホワイトベースとガンダムを打ち漏らしたシャアは、北米大陸を占領するガルマの部隊と合流する。この段階で作戦に対する統帥権はガルマが握っており、シャアは高みの見物を決め込み、明らかにガルマを馬鹿にしている。ドレン少尉がその態度についてとがめることなくシャアを見守る姿には懐の深さを感じるが、シャアはガルマに対して愛情を感じていないし、ガルマの部下に対しても愛情を感じていない。生き延びようと戦死しようと知ったことではないという態度を貫く。それまで部下の生死に強い関心を持っていたシャアは、ここでいきなり保身ばかり考える人物へと変貌してしまうのである。保身を考えるシャアという姿は映画版では決して見られないが、テレビ版では重要な要素になるし、シャアがその分人間的に描かれているという点は注目に値すると言えるだろう。

彼のこの姿勢はその後も変わることはない。ガルマが戦死した後にシャアは左遷され、キシリアに拾われる。シャアはキシリアの寵愛を受けようと努力はするが、その他将兵に対しては、競争者やライバルとしての視線を向けることはあっても協力者としての姿勢を持つことは、はっきり言って決してないのである。キシリアの指揮下に入ったシャアは少佐から大佐に昇進し、マリガンという秀才風の副官を得ることになるが、シャアとマリガンの関係は全然良くない。ドレンがシャアに人間愛を感じていたのに対し、マリガンはシャアにプレッシャーを感じているだけだ。シャアはマリガンが失敗するとそれをなじり「これは貸しにしておく」と言い放つ。そして最後はホワイトベースを絶対沈めろと命令され、マリガンはいやいやホワイトベースと戦い、戦艦ザンジバルとともに散ってゆくことになる。シャアに命令された時のマリガンのため息まじりの「はい」は、本当はそんなことはやりたくないし、シャアみたいな人のために命を捧げるなんて嫌なのだが軍の統帥の関係からシャアの命令には従うしかないという無力感が滲み出ている。映画版ではシャアが「すまん、マリガン」などと言って気遣う風もあるのだが、テレビ版ではシャアが孤立した人間であって、部下たちがシャアにうまくなじめていないという感じになってくる。マリガンの戦死の前にマッドアングラー隊がガンダムにやられるのだが、これに対してシャアの態度は自由にすれば、というもので、本当に上官なのかどうか怪しいとすら感じられるほど淡泊だ。マッドアングラー隊が決死の覚悟でホワイトベースに仕掛けた時、ホワイトベースにはジオンのスパイのミハルが搭乗していたのだが、仮にマッドアングラーが勝てばミハルはホワイトベースとともに命を落とすことになる。情報をよく上げる優秀なスパイなのに、スパイの命はどうでもいいらしいということについて、誰も指摘しないとは思うのだが一応ここで指摘しておく。シャアはもちろん、ミハルについても淡泊だというか、ミハルを番号でしか認識していない。

さて、当初、ドズル指揮下でムサイ艦長だったシャアと、キシリア指揮下のシャアで部下に対する態度がかくも違うのはなぜなのだろうか。おそらく、シャアはムサイの部下たちをとてもよく愛したのだろう。だからこそ、ガルマの戦死をきっかけにシャアが愛した人間関係が断ち切られ、新しい人間関係の渦に入っていった時、シャアは上手に周囲の人を愛することができなくなってしまったのではないかと言うことができるのではないだろうか。シャアはララアと恋愛関係になるが、それは男女の官能的な関係であり、ある種の欲望を満たし合う関係なので、部下との人間愛とは別種のものである。シャアはムサイから引き離されて、人間愛の部分がダメになってしまったのだ。そう思うとシャアは本当に気の毒なのだが、シャアをより一歩深く理解することは、作品理解そのものを深めることに直結する。まだしばらくはシャアについて考えてみたい。

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シャア・アズナブル論考②‐セイラに関するやや甘い考え

シャア・アズナブルについて考える上で決して忘れてはいけないのは、妹のセイラさんとのことである。シャアの本名はキャスバルで、セイラさんの本名はアルテイシアであり、この二人はともにデギン・ザビに暗殺されたジオン・ズム・ダイクンの子供である。ジオンが暗殺された後、この兄と妹はザビ家から逃れるために地球に降りた。そしてある程度成長した後で、キャスバルはアルテイシアを残してジオン公国へと入り込み、シャア・アズナブルという偽名で士官学校に入学し、遂にはジオン軍の士官になるのである。ちょっと違うがショーン・ケンなみに素性を隠しての大出世であると言える。シャアは顔も運動神経も頭も良いので、それぐらいの人物でなければやり通すことはできなかっただろうけれども、シャアは極端に優れた普通の人なので、ニュータイプではあり得ず、周囲からニュータイプかもと期待されることが却って彼を苦しめるようになっていく。ちなみにアムロがニュータイプかどうかもかなり怪しいと言える。物語の終盤ではアムロのニュータイプの開花は見られるが、それまではどちらかと言えばアムロの才能よりもひたすらガンダムの性能頼みである。ガンダムにはディープラーニングAIが搭載されているので、戦闘をすればするほどコンピューターに経験値がたまっていく。要するにガンダムはアムロがあんまり努力しなくても自動的に強くなっていくようにできているのである。

さて、シャアとセイラの関係に話題を戻すが、シャアがニュータイプではなく普通の人だということを物語るのが、妹に対する考え方の甘さではなかろうかと私には思える。

サイド7への潜入に成功したシャアは、警戒中のセイラに発見され、銃を突きつけられる。シャアはヘルメットを脱いで素顔を見せるのだが、セイラはそれが兄だと知って慌ててしまい動けなくなってしまう。シャアはとっさにセイラの構えた銃を足でけり落とし、さっと現場から脱出するのである。

その後ホワイトベースはルナ2に逃げ込み、シャアはドズルから命じられた通りに最低でもホワイトベースの破壊、できれば奪取する目的で部下たちとともにルナ2に潜入する。そこでシャアはじっくりと考える。もし安易にホワイトベースを破壊した場合、妹のセイラを死なせてしまうことになりかねない。それはできない。さて…どうしよう…考えた結果、シャアは銃を突き付けてきた時、セイラは強かった。俺の妹があんなに強いわけがない。従って、あの女は俺の妹に似ているけれど、多分、別人だ。きっと別人だ。別人に違いない。と自分を説得し、作戦を遂行するのである。結果、実は本物の妹だったのだ。シャアが作戦に失敗したので妹は死なずに済んだが、それは結果論である。

二人の次の邂逅はジャブローでのことだ。シャアはやはりホワイトベースだけを狙い少数精鋭でジャブローに潜入し、目的を果たすことはできなかったのだが、その作戦遂行中にセイラとばったり出会ってしまう。シャアは妹に「軍から身を引いてくれないか」と頼み、急ぎその場を去る。そして宇宙へとホワイトベースが出発し、シャアがザンジバルでそのあとを追う段階になって、もしホワイトベースを撃沈したとしても妹が乗っていたら大変だとじっと考え、争いごとをあんなに嫌っていた俺の妹が再び乗るはずがない。俺からも乗らないでくれと頼んだし。と一人合点でno problemと判断してホワイトベース撃沈に執念を燃やす。シャアが失敗したのでセイラは生き延びることができたが、成功していればシャアは妹を殺したことになってしまうところだった。

二人の三度目の出会いは人間から見捨てられたテキサス・コロニーでのことで、シャアは妹がまだホワイトベースに乗っていることに衝撃を受け、金塊をあげるから頼むから地球に帰ってくれと頼み込む。今までは言葉だけでの妹への命令またはお願いだったが、やはり実利による誘導がなければと思ったのかも知れない。そしてシャアはきっと妹は地球に降りたに違いないと思い込んでホワイトベース撃沈に精力的に取り組み、その目論見はことごとく失敗するのだが、それは結果論である。

二人の四度目の出会いがある。シャアとララアがアムロと敵対しているとき、セイラがコアブースターで突っ込んでくる。ゲルググに乗ったシャアは「あーめんどくせえ、こっちは新型モビルスーツなので、こんなやつ叩き落してやれ」と思って攻撃するのだが、きわめて優れたニュータイプであるララアが「大佐いけません!」ということで、よく見てみると、コアブースターの窓には妹の顔があるではないか。シャアはララアに知らせてもらうことができなければ、妹をその手で殺すところだったのである。シャアはたじろぎ、その隙をアムロにつかれて死にかけるが、ララアが身代わりになってシャアは助かるという流れになる。

セイラは「刺し違えて」でも兄を止めようと思っているが、繰り返し殺されかけた立場としては当然だと言えるだろう。或いはホワイトベースを攻撃する度にアムロに撃退されるシャアを不憫にすら思ったかも知れない。小説版でセイラはアムロに対してシャアを殺すことと引き換えに自分の身体を与える。兄が何度も殺しに来るのだから、そのように思えばセイラの心情は実によく理解できるのである。鈍感すぎるぞ…シャア…。俺の妹だからきっとこうに違いないが多く、シャアのセイラに対する考え方は総じて詰めが甘い。

とはいえ、ア・バオア・クーではセイラが炎に飲まれそうになったところをシャアが助けるというようやく兄らしい行動をとる姿を見ることができる。この兄と妹はそのまま今生の別れみたいになってしまうのだが、やはり多くのファンが心を痛めたのだろう。『シャアの日常』では、シャアとセイラの仲睦まじい兄妹愛を見ることができる。アニメ作品が悲劇的なだけにその様子はホッとさせられるものがあって和むのだ。



シャア・アズナブル論考①‐若さゆえの過ち

機動戦士ガンダムは一方に於いてアムロとホワイトベースクルーの成長と団結の物語を描いているが、もう一方に於いてシャア・アズナブルの栄光と転落を描いている。特にテレビアニメ版では顕著だ。しかし、後にリリースされた映画版の影響力があまりに強いため、シャアは偶像化され、完璧な人間の見本のように扱われ、圧倒的な人気を誇るようになった。最近になって『シャアの日常』のようなギャグマンガが通用するようになったのも、シャアが神格化されている故であると言うことができるだろう。但し、そのようなシャアはテレビ版の本意にそぐうものではないということもまた重要な事実であるように思える。何回かに分けて、テレビ版ガンダムでのシャアはどのような存在として描かれているのかを私なりに考察してみたい。

まず、第一回の放送分なのだが、冒頭で宇宙空間を移動するザクが登場し、彼らはサイド7のスペースコロニーに入り込み、地球連邦のモビルスーツを発見し、上官のシャアの判断を待たずに攻撃を始める。突然危機に見舞われたサイド7の住民たちが逃げまどい、ホワイトベースへと非難してゆく中、機械操作の才能に恵まれた少年アムロはこっそりガンダムに搭乗し、使いこなし、ザクを返り討ちにする。計3体いるザクのうち2体はアムロのガンダムによって打ち取られ、残りの1体は脱出してシャアの待つムサイに帰還するのである。

で、この放送分の最後のセリフがシャアの有名な「認めたくないものだな。若さゆえの過ちというものを」だ。シャアはなぜこのようなセリフを吐かねばならなかったのだろうか。若さゆえに彼はどのような過ちを犯したというのだろうか。たとえば「デニムに新兵を抑えられんとはな」というセリフもあるが、これはシャアの指示を待たずに若いザクのパイロットであるジーンが先制攻撃を始めてしまい、同行していた先輩のデニムはジーンの独断専行を追認する形で戦闘に参加した結果、二人とも戦死してしまったことに対するシャアの感想のような一言なのだが、ここだけ見れば、シャアはこの二人の戦死について責任はない。命令無視をしたジーンと、命令無視を追認したデニムに責任がある。その後全40回以上にわたりシャアは敗北に敗北を重ねていくことになるのだが、この段階ではそれはまだ未来のことで、シャアはルウム戦役で輝かしい戦果を挙げたジオン軍のスーパースターだ。この段階で、シャアに落ち度など、ないように見える。にもかかわらず、繰り返しになるが、シャアは「若さゆえの過ち」を認めているのである。果たして何が落ち度だったのだろうか?

この疑問を解くカギが第一回放送分のシャアのセリフに込められている。サイド7でザクとアムロの乗るガンダムとの間で戦闘が始まったと知った時、シャアは「これは私が行くしかなそうだ」と副官のドレンにシャア本人が出撃するとの意思を示す。ジーンとドレンはそもそも偵察が任務なので、二人が引き返してくるのが筋なのだが、事態の収拾のために、どういうわけがシャアが現場へ出向くというのである。言うまでもないが地球連邦軍にご挨拶する義理はない。生きているザクに帰還命令を出し、シャア本人はムサイで待つのが筋なのだ。しかし、シャアは行くという。理由は簡単である。シャアは現場に行きたくなってしまったのである。うずうずしてしまい、現場のジーンとデニムに手柄を立てられるのが悔しいので、自分も手柄を立てに行こうとしているというわけだ。サッカーでシュートを入れたい少年と同じ心境なのである。

そもそも、シャアはゲリラ掃蕩作戦の帰りに、地球連邦のV作戦の存在をキャッチし、その秘密がサイド7にありそうだということで予定外の遠回りをしてサイド7に立ち寄っている。ゲリラ掃蕩を命じられていたシャアに、そのような遠回りをする義理はなかったのだが、敵のV作戦の存在を知ったとたん、うずうずしてしまい、スーパースターの味が忘れられず、ルウム戦役の夢よもう一度と思って、独自の判断で動いたということになる。要するに手柄が欲しくて独断専行したというわけだ。もうちょっと言えば、若きジーンと上官のシャアは同じ心理構造を持っていたということが分かる。二人の運命を分けたものは、ジーンが敵対した相手が連邦軍の技術の結晶であるガンダムであり、シャアが敵対した相手はまだ戦いに不慣れな連邦軍だったという違いくらいしか思い浮かばない。

これでだいたい今回述べたいことは述べたのだが、シャアは上官のドズルから命令されたわけでもないのに、手柄が欲しくてうずうずしてしまい、行かなくてもいいサイド7に行って、なんとザク2機を失い、パイロットを2人戦死させているのである。これがシャアをして「若さゆえの過ち」と言わしめた失敗である。

もちろん、これはシャアの失敗の序の口に過ぎない。今後シャアはガンダムとホワイトベースのために数多のモビルスーツとパイロットを失い、親友を失い、スパイを失い、戦場の盟友を失い、恋人を失い、プライドも失うことになる。気の毒なことこの上ないのだが、このシャアの転落がガンダムの裏テーマだと考えれば、ガンダムという作品理解を深めるために無視するわけにもいかないのである。当面はシャアについて記事を追加していくことを予定している。




李香蘭と戦争(日中戦争10)

李香蘭は本名は山口淑子さんといい、戦争中は日本語が上手な中国人女優として知られていましたが、戦後になって日本人だということをカミングアウトし、その後は日本で、本名で活躍し、参議院議員にまでなるという、かなり数奇な人生を歩んだ人だと言えると思います。

で、どうして戦後になって日本人だとカミングアウトすることになったのかというと、これは日本の敗戦とばっちりつながっている話なんですよね。戦争中、李香蘭は満州映画協会というプロパガンダ映画会社の専属女優だったわけですが、日本の戦争協力をするための映画作品に出まくってます。たとえば日本人男性に殴られることによって、恋心に目覚める中国人女性とか、現代では考えられないようなプロットですが、当時はそれが日本国内では大いに受けたわけです。一方で、中国で上映された際には、不評だったとも言われていますが、現代に比べればまだまだ娯楽の少ない時代ですし、見目麗しい李香蘭に心を奪われた中国人男性もいたかも知れません。他にも皇民化をしっかり受け入れている台湾先住民の役とかもあって、李香蘭は日本大好きイエーイな中国人の役で映画に出まくっていたたわけですから、戦争が終わった後、中国で戦争犯罪人に指名されます。上海から日本へ逃れる船に乗る直前、「あ、お前李香蘭じゃないか」と職員が気づいて、中国人を裏切った中国人(漢奸)という扱いになって、裁判にかけられてしまったんですね。

で、どうやってこの危機を乗り越えたのかというと、日本の戸籍抄本を取り寄せて、はい、私は本当は日本人なんです。戸籍がありますから、ということになったんです。中国人を裏切った中国人ではないということが証明されて日本に帰ることができたというわけです。
終戦直後、中国大陸で命を落とした日本人はたくさんいるはずですから、李香蘭は運が良かったと言えるかも知れません。李香蘭と同時代人に川島芳子という人物がいますが、彼女は清朝皇族の娘さんとして生まれ、日本に養子に出され、戸籍上は日本人のはずなのですが、処刑されています。酷い話のようにも思いますが、川島芳子生存説もありますから、いずれまた詳しくそれについても考えてみたいと思います。李香蘭と川島芳子の運命を分けたものは何かというようなことを思うと、本当に紙一重だったようにも思えますから、当時の関係者は薄氷を踏む思いだったに相違ありません。溥儀の弟の溥傑さんと結婚した嵯峨侯爵家の浩さんも、戦争が終わってから日本に帰るまでの二年ほどの間、辛酸をなめつくしたことを自伝に書いています。

この手の本を読めば読むほど、日本人ですから、ついついびびりあがってしまいます。もう70年も前のことですしが、やっぱり自分その立場だったらどうしようというようなことを考えて、ぶるってしまいます。
田村志津江先生という高名な研究者の方が『李香蘭の恋人』という著作で、李香蘭の恋人だった説のある台湾人の男性のことを取り上げ、この男性は気の毒にも上海で映画の仕事をしているときに対日協力者という理由で銃で撃たれて殺されてしまうのですが、山口淑子さんが、「あの日、私は殺されたあの人と待ち合わせていたんですけど、現れなかったんです」という趣旨の発言をしたことや、墓参もしているので、李香蘭と劉さんというこの台湾人の男性とが交際していたのではないかという説がけっこう真面目にささやかれた時期もあったようなのですが、田村先生はこの著作で李香蘭は忙しすぎて、満州と東京を行ったり来たりしていて、新しい作品のクランクインが目前で、上海へ行っている場合ではなかったのではないかと疑問を呈しています。この著作では他にもいろいろ李香蘭批判が鋭く行われていて、何もそこまで…と思わなくもなかったのですが、戦争中は優遇されて、戦争協力も熱心にやっていて、戦後は戦後で反省もなく国会議員になって、あんた、映画芸術の関係者なのに、ちょっと権力に近すぎるんじゃないんですかと田村さんは言いたいのだと思います。

権力から近いことが=悪いかといえば、別にそこまで思いませんが、権力に抱き込まれてしまうのは確かに問題ですから、難しいところだなあとも思います。



【うる星やつらオンリーユー】と【カリオストロの城】の相似関係

ふと気づいたので、備忘のためにここに書いて残しておきたいと思います。

『うる星やつら』の第一回劇場公開映画【オンリーユー】は、作品全体がルパン三世の【カリオストロの城】へのオマージュになっているのではないか、オンリーユーとカリオストロはアダプテーションの関係にあるのではないかということに最近気づいたのです。

『うる星やつらオンリーユー』の冒頭の方で、面堂終太郎の屋敷にあたるとエルなる女性の結婚式の招待状が届く場面がありますが、この際、招待状を持ってきた人物に対し、終太郎が「読め」と命じ、「しかし…」とたじろいだところで終太郎が「構わん」と続けます。

何回もみたことがある人ならすぐに気づくと思いますが、これはカリオストロの城でルパン襲撃に失敗した後のジョドーの背中に貼られていたメッセージカードを読む場面の台詞と全く同じです。伯爵が「読め」と言い、ジョドー「しかし…」とたじろいで、伯爵が「構わん」と続くわけで、作り手は完全に意識して、分かる人はばっちり分かるように、この作品はカリオストロのオマージュだと最初の方で宣言しているのだと言うことができます。

全体の構図としても、男と女の立場が入れ替わっただけで、一人の男性または女性を奪い合う女たちまたは男たちが存在する構造になっています。

以下に簡単に表みたいにしてみます。

あたる⇔クラリス
ラム⇔ルパン三世
エル⇔カリオストロ伯爵

オンリーユーでは誠実で情熱的なラムが、権力で欲望を達成しようとするエルという女性とあたるという一人の男を取り合います。一方で、カリオストロでは、誠実で優しいルパンが、権力で欲望を達成しようとするカリオストロ伯爵とクラリスという一人の女性を取り合うわけで、冒頭の「読め」「構わん」のやり取りも含めると、意識して作り手が相似関係に持ち込んでいるとしか考えられないわけです。シェイクスピアのリア王と黒澤明の乱の関係みたいなものです。

結婚式の場面でも、元ネタであるカリオストロではクラリスが薬物でしゃべれない状態になっており、沈黙をもって結婚に同意するというスタイルに伯爵が持ち込もうとしますが、オンリーユーでは聖職者があたるに対し「以下略」という台詞によってあたるを沈黙させ、結婚の成立に持ち込もうとしています。いよいよ婚姻関係が成立するという直前に、カリオストロではルパンが、オンリーユーではラムが登場するわけです。やや違うのは、オンリーユーではダスティンホフマンの『卒業』をパクっているというところだと言えるでしょう。

このように考えると、伯爵に仕えるジョドーに対してエルにつかえるおばば様がいるし、ルパンの親友の次元に対応しているのは弁天ということになります。峰不二子と対応する人物は存在しませんが、カリオストロでも峰不二子は物語の構造上、存在する必然性は低く、うる星やつらでは尚のこと、対応する人物みたいなものは不要です。敢えて言えば牛丼の大将ですが、牛丼の大将も存在の必然性は低いです。

以上、気づいたことをまとめておきました。



『純粋芸術としての映画』の近代

いろいろな巡り合わせが重なり、珍しい本を手にすることになった。正確にはある人からある人へと私が本を届けに行く役目を負うことになり、役得としてその本を読むことができたのだ。本のタイトルは『純粋芸術としての映画』で、著者はフィヨドル・スチェパン。翻訳者は佐々木能理男となっている。この佐々木さんという人についてぐぐってみたところ、敗戦の前まではナチスに関連する文章を数多く翻訳した人ということらしいので、ドイツ語に堪能な人だったのだろう。また、戦後は不遇をかこつ日々を送ったようなのだが、それもやはりナチスに肩入れしてしまったのが仇になったのだろう。で、本の奥付を見ると昭和10年発行とあり、ナンバリングもされていた。私にこの本を渡した人によると、三百冊限定で印刷されたものだということだったので、ナンバーは三百のうち何番目に印刷したのかを示すのだろうと思う。シルクスクリーンにナンバリングしてあるのと同じような感じと言っていいかも知れない。

で、この本の内容なのだが、忘れないうちにここに書いてしまっておきたい。要点としては映画と演劇は似て非なるものであり、映画と現実も似て非なるものだ(要するに写実的とかそんなものはない)ということらしい。特に映画と演劇の違いについては念入りに議論されていて、演劇の場合は生きている人間が舞台で演じるため、そこには観客と演者が共有する空間が生まれる。そして観客は演者の動きや台詞によって喜怒哀楽を疑似体験するのだが、映画はそういうものではない。映画を演劇の延長線上のように考え、演劇が物語を見せるように、映画で演劇のような物語を見せると思って映画を理解することはできない。と主張されていた。なぜなら、映画の本質はモンタージュだからだ。

一応、モンタージュとは何かを簡単に定義しておきたいが、分かりやすく簡潔に言うとすれば切ったり貼ったりする編集のことだ。編集と言えば話しは早いがカタカナにしなくては気が済まない人はいるものだ。

で、本に戻るが映画はモンタージュするのが醍醐味なので何かを物語るということとは本質的に合致しないということらしい。これは映画と演劇の闘争であるとすら述べられていて、そこまで違った性質を持つ芸術行為なのなら闘争する必要はないとも思えるが、とにかく闘争らしい。トーキー映画が生まれる前、映画は動く写真で全てを表現していた。いい作品はモンタージュの勝利なのであり、代表的な勝利者がチャップリンということにされている。一応、私は反論したくなってしまったので、ここでちょっと反論するが、チャップリンも『独裁者』からトーキーを始めていて、その後の作品もトーキーだ。トーキーじゃない有名な作品としてふと頭に思い浮かぶのはドイツ表現主義の『カリガリ博士』だが、ところどころに台詞を書いたカットが入っているのでやっぱりトーキーの方が便利なのではないかと思えてしまった。ついでに言うともう少し後のドイツ表現主義映画で『M』という有名な作品があるが、これはトーキーのはしりみたいな作品なので、やっぱりみんな動く写真というより喋る映画の方が好きなのではないかともふと思えてしまったのである。とはいえ、この本では動く写真なので、リズムだけが問題なのであり、なぜここまでリズムを問題にするのかと言うと、近代人の生活は仕事も余暇も機会とともにリズミカルにこなせるように仕組みができあがっているので、映画という新しい芸術が物語という文脈を無視してリズムのみに注力するのも言うなれば必然、くらいの勢いで書かれてあった。

で、人間の現実とも映画は全く関係ないのだと同書は主張する。人間が人間らしく動くのを写すのはちっとも映画という芸術の主旨にあっておらず、その先を行く何かをモンタージュするのが映画だということになるらしい。

私は映画理論については単位はとったが専門ではないし、そういうことに関する論文も書いたことはない。ただ、この本の内容を以前にどこかで触れたことがあるような気がして、よくよく考えてみると、その単位をとった授業でドゥルーズの映画論を読まされて似たようなことが書かれてあったのを思い出した。めちゃめちゃ省略すると、彼もまた映画の本質をモンタージュとリズムに見出していたからこそ、映画について運動と時間の観点から延々と議論していたのだ。ついでに言うと最近見た上演芸術でも物語・文脈を無視し、脱人文主義みたいなものを目指していた内容だったので、こういう流れは100年前からあったのだとこの本を読んで改めて納得したところがあった。私はまだまだ浅学で分かっていないところも多いが、この本がドゥルーズのネタ本なのだなくらいに思えば、勉強になるわけです。



映画『非常時日本』の荒木貞夫

大阪毎日新聞社1933年に作った『非常時日本』という映画がある。youtubeで断片的なものを見ることができたので、ここにそれについての備忘を残しておきたい。この映画については『日本映画とナショナリズム』という研究論文集で詳しく触れられているので、それも参照しつつ述べたい。

で、この映画の内容なのだが、荒木貞夫が今の日本人は西洋的資本主義の享楽に溺れて堕落していてなっとらんと叱咤しており、続いて日本精神や皇国精神、皇軍がどうのこうのと延々と演説するもので、画面には荒木の演説の声とともに都市生活を楽しむ当時の日本の人々の姿が映し出されている。要するに荒木の批判する人々の姿とともに荒木のやや高めの声が流れ続けるという代物なのである。おもしろいかと問われれば、ちっともおもしろくない。全くおもしろくないと言ってもいいほどおもしろくない。荒木の演説そのものが空疎で何を言っているのかよく分からないからだ。

『日本映画とナショナリズム』という論文集では、日本のことを「皇国」と呼び、日本軍のことを「皇軍」と呼ぶのを定着させたのが荒木貞夫その人であり、その定着手段が今回取り上げているこの『非常時日本』という映画を通じてだということらしかった。当時の日本は既に大正デモクラシーも経験しているため、リベラリズムを受け入れて生きている人は多かった。この映画に映し出されている声なき都市生活者だ。そして既に世界恐慌・昭和恐慌も経験しているため、やや資本主義への疑念がもたれている時代でもあったが、実は30年代に入ると関東大震災からの傷も癒えはじめ、高橋是清の財政もばっちり決まって日本は世界恐慌からいち早く立ち直り、また大正デモクラシーの時代よろしく明るく楽しい資本主義の世界は始まりかけていた時代であったとも言える。

だが、満州事変後の日本は、結局は自ら新しい繁栄を放棄するかのようにしてひたすらに滅亡へと走って行ってしまい、残念ではあるが戦争にも負けてしまった。もし日本が満州事変とかやらずに明るく楽しい消費社会に突入していたら、世界の歴史は全く違ったものになっていたかも知れない。で、荒木貞夫は明るく楽しい消費社会を批判する演説をしていたわけだが、当然のごとくこの映画はヒットしなかったらしい。そりゃそうだ。当時の日本人は今の私たち日本人よりも遥かに娯楽を求めていた。私たちはある意味では娯楽に飽き飽きしている。ミニマリストを目指したり、プチ断食をしてみたりというのが流行るのは、娯楽と消費が限界に達して、ちょっと違ったことをやってみたいという風に世の中が変わってきたからだ。

一方で当時の日本人は洋服や洋楽を今よりももっと強く求めていたし、荒木貞夫の演説が心に届いたとも思えない。私は当時の帝国当局者の東南アジア向けのプロパガンダ放送に関する資料を読み込んだ時期があるが、東南アジア在住の邦人には時局に関するニュースや国威発揚の演説よりも西洋音楽の放送の方が需要があって、プロパガンダを流しても効果がないと担当者がこぼしていたのを読んだことがある。かように30年代の人々は戦争よりも消費と西洋を求めていた。

以上述べたことをざっくりと要約して結論するとすれば、1930年代、一般の日本人は西洋化、資本主義的消費社会、明るく楽しい資本主義みたいな方向に進みたがっていたが、満州事変以降、しっかり戦争をやって勝ちたい当局としては、たとえば荒木貞夫のようなおしゃべり好きをメディアに登場させて宣伝し、人々の戦意高揚をはからねばならなかった。従っていわゆる戦前的全体主義は1930年代以降に急速に盛り上がったもので、それ以前、そんなものは存在しなかった。ということができるだろう。無駄な戦争をやって敗けて滅亡したのだから、残念なことは残念だが、荒木貞夫みたいな人たちが権力の中枢にいることを許容する権力構造が存在した以上、いずれは破綻するしかなかったのかも知れない。



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