勅使河原宏監督『豪姫』の時間を隔てた愛

勅使河原宏監督の『豪姫』は本当に凄い作品です。褒めるなどというおこがましいことが私なんかにできるはずもないです。ただただ、ため息をつくように画面を見続ける以外にできることはありません。

美しい映像。豪華な衣装。深い演出。どれも私のような半端者があれこれ言えるようなものではありません。何度となく繰り返しみて、細部に至るまで作りこまれた演出に気づいていくしかありません。何十回観ても完全に読み解くことはできないかも知れません。それでもせっかくこの世に生まれてきてこの映画を観ないなどというもったいないことはできません。

表情がいいです。表情で多くのことを語っています。口ほどに物を言っています。『エリザベス』と同じです。

秀吉が愚かで嫌な人です。強い人かも知れませんが、愛を知らない人です。愛させようとする人ですが、愛したくなる人ではありません。古田織部に対し釈明と命令を繰り返しますが、心が通い合うということがありません。秀吉がどんな人だったのか、その人物像についてはいろいろな描き方があるでしょうけれど、私にはこの映画の秀吉像がしっくりきます。小西行長がかくも積極的で不誠実な裏切りをしたのには、このような秀吉の人間性があるようにも思えて来ます。

豪姫が美しいです。若いころは元気で活発ですが、奥様になった後のアンニュイな美しさにはただただ感嘆するだけです。私の世代にとって姫と言えば、ナウシカクラリスです。ナウシカにもクラリスにもアンニュイがありません。豪姫にはあります。宮沢りえという人は本当に凄い人なんだなあと、ほとほと思うだけです。

古田織部に使えている臼という男がいます。普段は焼き物を作っています。超人的な体力の持ち主で、隠密的なこともできます。秀吉に切腹させられた利休の首を利休の愛人の家に届けます。愛人は覚悟を決めて自ら命を絶ちます。臼は自分が首を届けたことで女性が死んでしまうという展開に驚愕し、豪姫の寝所に入り込み、その後、主人にきちんとことわって出奔します。

臼は山の中で過ごします。やがて秀吉が死に、関ケ原の戦いがあり、ついに大坂の陣へと時代が変転して行きます。臼は山を下り、偶然が重なり合って豪姫と再会します。豪姫は前田利家の娘として生まれて秀吉の養女になり、宇喜多秀家に嫁いだ人ですが、関ケ原の戦いで負けて宇喜多秀家は息子ともども八丈島に流されます。豪姫は加賀で何もすることがない、ただ無聊なだけの日々をアンニュイに過ごしています。このアンニュイぶりがため息をつきたくなるほど美しいです。タバコを吸う豪姫のすわり姿は芸術品です。臼は豪姫の下で働きます。

古田織部が家康にあらぬ疑いをかけられて閉門・切腹になるという事態を迎えます。臼は豪姫の使者として織部の屋敷に入り込み、織部の最期を見届けます。その報告のために加賀の豪姫のもとに帰ります。豪姫と臼は再び結ばれます。20年を経て二人が再び愛し合うという展開は、どのようなことがあっても運命的に結ばれていれば必ずそうなるという意味にも思え、『嵐が丘』を連想します。

勅使河原監督の作品はそんなにたくさんあるわけではありません。ですが、理解できます。こんなに作りこまれた作品を一生のうちにたくさん作れるはずはありません。残された私たちには、繰り返し観て称賛することしかできません。

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『ゴッドファーザー』から見えるアメリカ社会の本質的な部分

アメリカ映画の『ゴッドファーザー』が、イタリア人移民の家族の物語を描いたものだということはよく知られています。

お父さんのヴィトーコルレオーネは少年期にシシリーからニューヨークへ移民し、一代で強力なイタリアマフィア組織を築き上げます。アルカポネほど浮ついた感じのする人物ではなく、労働の価値を知り、弱者を愛し、困っている人を助ける人格者です。しかしヴィトーコルレオーネがどれほど強いボスになろうとも、彼は最後まで裏街道の人生を歩くことしかできません。決して昼間の顔にはなれません。

一方、息子のマイケルコルレオーネは違います。大卒で、しかも、何といっても第二次世界大戦で戦った退役軍人です。アメリカ生まれで、上院議員でも州知事でも目指そうと思えば目指せます。

アメリカは人種、民族、宗教の違う人々が集まって作られた国家ですが、以前は人種のるつぼと呼ばれたものの、最近では人種のサラダボウルと呼ばれます。人種は溶け合っているのではなく、同じ皿の上にそれぞれに乗っかっているだけだと表現されます。大統領選挙の度に候補者の人種、ルーツ、宗教について取り沙汰されることは、それがアメリカでは敏感な問題なのだということを示しています。イタリア系の人はイギリス系やフランス系の人たちに比べると下のランクに見られることが多いようです。ヴィトーコルレオーネはそのような差別をも跳ね返す黒いスターと呼んでも良い存在です。一方で、マイケルは違います。繰り返しますが、生まれた瞬間からアメリカの市民権を持っていて、大卒で、退役軍人です。アメリカでは退役軍人には強い尊敬が払われます。ベトナム戦争以降は多少、ややこしい感じで語られることもありますが、『ゴッドファーザー』の時代背景は第二次世界大戦直後です。ベトナム帰還兵のような暗いイメージはありません。もしかしたら、メンタル面で苦しんだ元兵隊さんも大勢いたかも知れないですが、そういうことは上手に隠蔽されています。隠蔽可能なほどに社会に成長力があり、勢いがあり、祝勝ムードの漂う時代です。

マイケルコルレーオネは父親後を継ぎ、マフィアのボスになります。父親からすれば、ボスよりも政治家になってほしかったに違いないですが、いろいろな経緯でボスになります。「血」で説明することも可能かも知れません。或いは本人の性格で説明することもできるでしょう。マイケルの役はアルパチーノです。内側に激しいものを秘めている感じが非常によく合っています。ロバートデュバルが弁護士のトムヘーゲンの役をしています。アイルランド系の孤児で、ヴィトーコルレオーネに拾われて大学も出させてもらっています。その恩義に対する忠誠心は強いもので、彼は全身で心は血縁を超越すると主張しています。ダイアンキートンが若くて美しいです。久々に見ると驚きで椅子から落ちそうになります。

『ゴッドファーザー パート3』では、アルパチーノとダイアンキートンの間でもうけられた二人の子どものうち、息子は大学進学を拒否してなんとオペラ歌手になります。娘の方は敵方のマフィアに殺されてしまいます。マフィアの世界は厳しい。と同時に、少なくとも息子はその血を敢然と拒否したということができます。70年代が舞台ですので、時代の変化というものが表現されているのかも知れません。

とはいえ、移民制限の話題が持ち上がったりする昨今、移民の心はアメリカを語る上で欠かせない要素です。ソクーロフ監督の『太陽』でも、日米戦争の遠因に排日移民法があることを匂わせています。そういう意味では、ヨーロッパからアメリカへやって来た人々の物語である『ゴッドファーザー』と日本からアメリカへ行った人々を描いた『カポネ大いに泣く』は共通した問題意識を持っていると言えるかも知れません。

熊井啓監督『千利休 本覚坊遺文』の静かだが激しい男の意地

熊井啓監督の『千利休 本覚坊遺文』では、千利休の弟子の本覚坊と織田有楽斎が、利休の死の真相について語り合います。二人にとってそれは必ず解き明かさなければならない謎であるにもかかわらず、どうしても真相に辿り着くことができません。何故なら、千利休が死んだのは、秀吉との間で起きた意地の張り合いの結果みたいなもので、そういうことになると利休と秀吉の間のことを想像で埋めていくしかないからです。

本覚坊と織田有楽斎は、古田織部や山上宗二の思い出を語りながら、見聞きしたことを想いだし、そこから利休の心境に迫ろうとしていきます。利休が秀吉に切腹を命じられたことは今も様々な想像や推量があるものの、はっきりとしたことが分かっているわけではありません。諸事情から想像するしかありません。それは或いは利休が茶聖の立場を利用して暴利を得たということかも知れません。それとも、寺の門に自分の木造を置いたことかも知れません。しかし、それはわざわざ切腹するような騒ぎに発展するような話ではありません。

利休が秀吉に対し、朝鮮出兵に関して意見したのではないかと本覚坊は推理します。それもあるかも知れません。しかし、おそらくは意地の張り合いで利休が見事に死んでみせた、ということに見えます。文字通り、命をかけて意地を張りとおしたということかも知れません。

映像に無駄がありません。お茶のお作法について私はよく知りませんが、多分、完璧にお作法を研究し尽くしたうえで作品が作られています。建物がきれいです。山の中の小さな庵だってもきれいです。小さな庵には小さな庵の美学があります。画面の一つ一つを見逃すのがもったいなくて瞬きするのもちょっと躊躇するほどです。無駄な台詞がありません。座る姿で多くのことを語ります。静かです。しっかり論じなければならないところは有楽斎が論じます。静と動の区分が明確です。本覚坊は利休の思い出を抱きしめて一人わびさびの人生を送ります。わびさびは難しいです。誰にも説明できない、定義のないものなので論じることができません。お茶と座禅は似ています。違うとも言えます。どっちもありです。禅問答ほど面倒なものはありません。

本覚坊は死んだ利休と、いわば念力で通信しています。利休の心を探っています。人は心でつながりあっているとも言えますし、五感を脳で処理して理解する以上、完全に孤立しているとも言えます。にもかかわらず、孤立した完全なシステムなのに他人の心と通じ合うことができます。本覚坊は日々思う中で、思い出の中の利休と対話し、秀吉との確執について「ああ、こういうことだったのか」と気づいていきます。有楽斎もその都度聴かされてなるほど納得という風になっていきます。中村錦之助が有楽斎をやるのがとても合っています。趣味人風でありながら武人風の鋭さも持っています。知りたいと懸命に願っていることは、ある時、ふと情報が入ったり、天啓のように気づいたりして謎が解けるということは私にも経験があります。本覚坊と有楽斎はそのようにして利休の秀吉に対する意地のひだのようなものを見つけていきます。

利休役の三船敏郎の賢者な感じがハンパありません。凄まじく崇高な人に見えます。若いころは『羅生門』みたいにやんちゃ風が似合い、年齢を重ねたら賢者が似合うのですから、うらやましいことこの上ありません。最後は利休が言いたいことを最後まで言い切ります。論争のある、意見の違うことでここまで言うのは作者の勇気です。素直に尊敬します。

私の推量ですが、弟子の山上宗二が小田原で秀吉に殺された時から、利休と秀吉の間には不協和音が起きたのではないかなあと思います。信長の茶頭をして秀吉の茶頭をしたような人ですから、秀吉が信長の政権を簒奪したことはリアルタイムで知っている人ですし、それでも秀吉と手を携えて出世していくのですから、それなりの生臭さも持っている人だったと思います。だから互いに利用し合って本来はそれでよかったはずなのです。ですが、山上宗二が殺された後は、犯してはいけない領域に秀吉が入ってしまった。以後、利休は茶の席の度に殺意を持たれるくらいに秀吉を侮辱し続けた。のではなかろうかという気がします。遠藤周作が大友宗麟について書いた『王の挽歌』でも、野上弥生子の『秀吉と利休』でも、そこは外せないポイントなのではなかろうかなどと思います。

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映画『羅生門』の陰影と顔芸と成功する人生

黒澤明監督の『羅生門』がどれほどよくできた傑作かということについては、もはやここで語るまでもないことです。何度みても、その良さにひきこまれ、何回もみているのにもったいなくてよそに目を向けることができません。本当にいい作品です。

なんと言っても陰影の映像美が素晴らしいです。空、雲、太陽、木漏れ日、人の顔、立ち姿。白黒映画なので全部陰影ですから、当たり前と当たり前ですが、白黒のパワーが全開です。立つ姿だけで物語ることができます。台詞がなくても物語ることができます。男の走る姿、女の座る姿、台詞を必要としないエネルギーに満ちています。谷崎潤一郎の言う陰影礼賛が映画になったらこういう感じか、と思ってしまいます。

三船敏郎の顔芸が素晴らしいです。強さも弱さも余裕も窮地も顔で表現できています。顔の彫りが深いからかも知れません。表情だけで物語ることができます。この点は『エリザベス』にも共通したものです。もうちょっと言うと、動きと表情が男のエロスに満ちています。天分なのかも知れません。訓練ではカバーし切れないものを持って生まれてきた人と言ってもいいのではないかと思います。人生とはそういうものかも知れないです。人生で成功するためには「こんな風になりたい」と憧れをもって努力するよりも、自分の天分を見極め、天分のあるものを突き詰めていく方が効率がいいかも知れないということをこの映画を観ると考えてしまいます。

殺される武士の役の森雅之の彫りも深いです。しかし、顔芸が三船敏郎ほど豊かではありません。怒っている時も悲しんでいる時も喜んでいる時もあんまり変わりません。喜怒哀楽の変化を感じさせません。もし、三船敏郎と森雅之のどちらか端整かと問えば、文句なしに森雅之です。彫刻のように美しい顔をしています。しかし、弱さが似合いません。森雅之タイプが弱さを見せれば、単に情けなく見えてしまいます。一方で三船敏郎が弱さを見せるのも絵になります。かわいいやつに見えます。『七人の侍』でも『椿三十郎』でも時々見せる弱さや困惑が魅力的に映ります。男も女も三船も惚れます。弱さが絵になるというのは実にうらやましいことです。無敵です。やはり、これも天分と考えるのが妥当のように思えます。

京マチ子の顔芸もいいです。京マチ子はちょっとだけ雰囲気が田中裕子に似ていると思います。異論もあるかもしれないですが、仮に原節子や吉永小百合を引き合いに出すとすれば、田中裕子に近いと思います。私の好みが影響していますので、異論のある方に対してはすみませんとしか言えません。泣いても笑っても怒っていても絵になります。京マチ子の説明不可能な魅力は三分の一は訓練、三分の一は魂、残りの三分の一は持って生まれた顔の造形に原因するものではないかと思います。人間が生まれた後で伸ばすことができるのは訓練だけですから、どんなにがんばっても天分のない人は京マチ子になれません。私がいかに努力しようと三船敏郎になれないのと同じです。

霊媒師の岸田今日子が恐いです。本領が発揮されています。絶賛以外の言葉はありません。

誰がどの役にふさわしいかを見極めて適材適所した黒澤明が最終的には一番凄いということなのかも知れません。晩年の『夢』とかぶっちゃけそんなにおもしろくないですし、『乱』もちょっと多弁ではなかろうかと思わなくもありません。そういう意味では『羅生門』は監督の才能、役者さんやスタッフの巡りあわせ、時運の全てがかっちりと合わさって生まれた奇跡とも言えそうな気がします。

人生の成功は持って生まれた天分の見極めにあり、と言えるのではなかろうかと、今回改めて『羅生門』を観て思った次第です。

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原田眞人監督『クライマーズハイ』の地方紙記者のカッコよさと日本の戦後

原田眞人監督の『クライマーズハイ』は、横山秀夫さんの原作とは大事なところで違いがありますので、その辺りを中心に述べてみたいと思います。

映画でも原作でも、新聞記者の世界が描かれているという点では同じです。私は地方紙の記者ではありませんでしたが、支局にいたころの感覚は近いものがあったように思います。地方の記者は中央の記者のようにぱっと華やかな場面を取材することはあまりありません。地道で地域に密着していて、地元の人と一緒に生きています。土地と一緒に生きる新聞記者が土地の人となれ合うことは決して珍しいことではありません。それゆえに、なれ合わず、ジャーナリズムをやるという矜持を保たなくてはいけません。小さな事件、地元のイベント、目立たないスポーツ大会にであってもジャーナリストとしての矜持とともに取材に行きます。そこがかっこいいのです。大きな事件、有名な事件を扱わなくても矜持を保とうとするからかっこいいのです。尊敬できるのです。

『クライマーズハイ』では、日航機墜落事故の時の架空の地元新聞社が登場します。残酷な事故に地元の記者たちは浮足だちます。大きな事故の現場に取材に行けるからです。不謹慎ですが、新聞記者はそういうあたりが不謹慎になるようにできています。「不謹慎だ」とは思いますが、ああ、新聞記者はこんな風に浮足立つのかというのがよく分かります。編集で怒号が飛び交います。雰囲気がとてもよく出ています。共同通信とNHKの報道を適当にいじって独自の記事みたいに装う場面も「あぁ、わかるわぁ」と思います。

当時、現役で報道の仕事をしていた人から日航機墜落事故の取材の経験を聞かされたことが何度もあります。彼らにとっては「勲章」なのです。この映画では日航機事故に絡む、いわゆる「陰謀論」も目立たないように、しかしはっきりと触れています。「原田監督が触れているのだから本当かな」と私は思ってしまいそうになるのですが、知識不足なので判断することができません。

新聞記者は読者の存在を忘れがちです。人間関係が狭く、業界の人と取材先の人(県庁とか県警の人)に限られてくるので、その人たちが読んでどう思うかだけに関心が向きがちです。自分の書いた記事が他社の記事より詳しいか、他社の記者が知らないことを自分は書くことができたかどうかに意識が向いてしまいます。売り上げと記事の内容は関係がないので、読者の存在を忘れます。映画でも原作でも、事故被害者の遺族の人が新聞がほしくて新聞社に来ます。編集の人は「ちょっと邪魔なんですけど」と言わんばかりに追い払います。主人公の悠木という記者が追いかけて新聞を手渡します。記者は普通の人、普通の読者に寄り添えるかという、実は一番大切かも知れないことが挿入されています。

原作では悠木記者が子どもだったころ、家が貧しくてお母さんが客を取っていたというエピソードが書かれています。映画ではお母さんはアメリカ軍の兵士を相手にしていたと少し変更が加えられています。この変更で、映画だけの持つ意味がぐっと深まります。日本の戦後を語る上で不可欠なアメリカというタームが登場します。私たちがどういう時代を生きているのかを短い場面でさっと問いかけています。

また、映画では悠木記者の息子がヨーロッパで育ち(離婚して元奥さんはスイスに行ったのについていった)、白人の女性と結婚してニュージーランドで牧場を経営しているという場面が最後の方に短く入っています。奥さんの白人の女性は決ずしも目の覚めるような「美人」というわけではありません。普通の人です。それ故にこの息子さんが「西洋」の幻影を追うような人生を送っているわけではないことが分かります。普通に出会い、普通に愛を育て、普通に努力し、懸命に、でも多分幸せに生きていることが分かります。悠木記者のお母さんはアメリカ軍の兵隊に買われる存在でしたが、息子さんは愛情によって西洋の人と結ばれています。その間にある乗り越えるべき何かを息子さんは乗り越えたということを暗示しています。今を生きる日本人の私たちに、そういう何かを乗り越えて行こう、乗り越えるべきだ、乗り越えられるというメッセージを監督が込めているように私は感じます。

原田眞人監督の映画は『バウンスkoGALS』の時から一貫して、戦後の日本を問いかけています。近代の日本にとって西洋は欠かすことのできないタームであり、戦後の日本にとってアメリカは欠かすことのできないタームです。『バウンスkoGALS』の主人公がアメリカに留学するとはどういうことか、私たちの人生にとってアメリカとは何かを考えてほしいと言っているように私には感じられます。『おニャン子危機一髪』はみてないのでわかりません。

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『王立宇宙軍 オネアミスの翼』の成功のモダニズム

『王立宇宙軍 オネアミスの翼』はいい映画です。男子の心を掴まないはずがありません。堀江貴文さんは王立宇宙軍が好きで、夢を叶えたくて宇宙事業に投資し、40億円くらい騙されたという話ですが、夢を叶えるために最善を尽くすことには私は共感しますし、その原点が王立宇宙軍だというのもとてもよく理解できます。何故なら、この映画は男性が好きなものが全力で詰まっているからです。

仲間がいて、かわいい女の子となんとなく仲良くなれて、一夜にしてスターに祭り上げられ、失敗寸前で逆転的に成功する。男性にとってこれ以上充実した瞬間を得られることはないかも知れません。そういう意味では中二病です。しかし、中二病は男性の証明のようなものです。男をやるには中二病もやらなくてはいけません。宿命のようなものです。

主人公のシロツグラーダットは中年になりかけの普通の男です。架空の国にある架空の「宇宙軍」に就職しています。今風に言えば就職負け組です。空軍に入れるほど成績が良くないので宇宙軍に入ります。でもしかの就職です。将軍は有人宇宙衛星を打ち上げる夢を持っていますが、部下は誰一人としてそれが成功するとは信じていません。また、そんなものを打ち上げることに価値を感じてもいません。価値を感じないことのためになんとなく日々を過ごす、退屈な人生です。ある日、将軍は本気で有人宇宙衛星の打ち上げを宣言します。かわいい女の子に「戦争をしない宇宙軍は素敵」と言われて心境の変化が起きたシロツグが宇宙飛行士に志願します。予算がありません。裏のお金を使います。シロツグはマスメディアの脚光を浴びます。たかが宇宙、されど宇宙。子どもたちにとってはシロツグは英雄です。大人たちからは金の無駄遣いという白い眼で見られたりします。シロツグは悩みます。悩みながらも最後までやります。そこがいいのです。敵がロケットを狙って攻めてきます。もう諦めて退避するしかないという直前で、シロツグが「俺は一人でもやる。死んでも上がってみせる」と言います。スタッフがもう一度結束します。もうぎりぎり、敵が目の前のその時にロケットがあがり、見事にロケットが空を飛び、有人衛星が衛星軌道に乗ります。

敵が目の前まで来ているその時に成功するという展開がドラマチックです。自分の言葉で仲間が結束してくれる。こんなにうれしいことはないのではないかと思います。宇宙から極超短波で放送します。「宇宙軍は素敵」と言ってくれた女の子も聞いてくれているかも知れません。心が浮き浮きします。

シロツグはガンダムのアムロのような天才性は持っていません。シャアのような優秀な人物でもないです。ナウシカのようなカリスマがあるわけでもないです。職場に対してシニカルな目を持つ、いわば退屈な学校に我慢して出席している普通の男の子と同じです。そういう人が一夜にして脚光を浴び、困難を乗り越えて最後には成功を掴む。これほど男心をくすぐる話はありません。自分にもやれる、自分にもできる。そんな気がしてきます。

男は頭の中が何歳になっても同じなので、大人になってから繰り返しみても飽きません。見る度にカタルシスを得ることができます。確かに中二的で男の子っぽくて甘い幻想に満ちた作品なのかも知れません。ルパン三世と同じかも知れません。ただ、もしも、人は夢を見るために映画を観るのだとすれば、かくも夢見心地にさせてくれる作品もそうはないのではないかと思います。自分にも奇跡が起きるかも知れないという気分になれることはとても素敵なことです。

この架空の国の科学技術の水準は1950年代くらいに見えます。白黒テレビをブラウン管で見ています。今日よりも明日の方が進歩することを実感できた時代だと思います。近代は素晴らしい。自分も努力と少々の運によって成功できる、ビッグボーイになれると感じることができた時代に違いありません。努力して成功することこそ、モダニズムの特徴の一つです。都市に人が集まります。競争が生じます。困難に打ち勝ったものには神様が様々なご褒美を与えてくれます。自分の人生には意味があると感じることができます。しかし誰もがそう感じるためには、50年代60年代のような、人類史上でも稀に見る成長の時代でなくてはいけません。中産階級が幸福だと信じることができる時代でなくてはうまくいきません。

今の時代がどうかということは簡単には言えません。努力すれば成功できるというほど甘い時代ではありません。しかし、成功と幸福をワンセットに考える必要もありません。AIがなんでもやってくれるようになれば、仕事で成功すると幸福になれるというモデルに変化が生まれるかも知れません。金銭や社会的な地位で成功していなくても幸福だと感じられる時代が来るとすれば、『王立宇宙軍』のような男の子の夢モデルにこだわらなくてもいいかも知れません。それでもこの作品は男の子の心を直で刺激するので、どんな時代になっても楽しめる作品と思います。

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遠藤周作『イエスの生涯』で福音書をもう一歩深く理解する

新約聖書に入っている、いわゆる四福音書は通して読んでもどういうことなのかよく分かりません。細部に関する説明が書かれていないだけでなく、前後関係が不明なこと、何を指しているのか分からないことがたくさん書かれているので、はっきり言ってちんぷんかんぷんで意味不明です。イエスの頭に油をかける女が出てきたり、ガダラの豚が群れを成して湖に飛び込んだり、シュールすぎます。「福音書は壮大な文学」みたいに言う人もいますが、あんな意味不明な作品が素晴らしい文学作品だとは私には思えません。日本で福音書を読む場合は、ラテン語→英語→日本語と何重にも翻訳されているという部分を差し引く必要があるかも知れないですが、たとえそうだとしてもあまりに大幅に違うということもないでしょうから、私には不親切な読み物に思えて仕方がありません。

想像ですが、遠藤周作さんも同じ思いを持ったのではないかと思います。『侍』では、主人公がカトリックの教えに触れて、そんな奇怪な物語の男を信心することが信じられないというような感想を持ちます。私も同じ感想です。

遠藤周作さんの『イエスの生涯』ではそういった不明な部分、奇怪で説明のつかない部分に分け入り、詳しく検証し、分析し、聖書に対するインテリジェンスを発揮してくれています。福音書に書いてあることが、一体どういうことなのかを西洋の学者の見解も交えて、著者の知見と結論を述べてくれています。福音書に対する理解が深まり、違和感、意味不明な感覚がだいぶ減ったので、そういう意味では一読して良かったと思っています。もちろん、遠藤周作さんがこの著作の中で述べているように、遠藤さんの人生を投影して書かれているものですので、そこはそういうものだと思って読まなくてはいけません。もっとも、自分の人生や心を投影しないものを人は書くことができません。このブログもそうですし、その他の全ての本、文章、記事もそうだと私は思います。ですので、「私は中立に淡々と述べただけだ」と言う人の書く物よりも、「自分の人生を投影している」と書いてる書物の方が正直で、その分、信頼できるかも知れません。

遠藤さんが取り組んだ最大の疑問は、イエスの弟子たちが、イエスの死後、命をかけて布教に取り組んだのは何故か、ということです。イエスが逮捕された時、弟子たちは驚いて逃げてしまいます。しかし、四散したわけではなく、エルサレムの外のいずれかに固まって身を寄せ合っていたようです。更に一部の弟子たちはイエスの審問の場に同席しており、その一部始終を見ています。遠藤さんが疑問に思うのは、なぜ、一部始終を見た弟子が逮捕されなかったのかということです。弟子のペトロ、またはペトロに代表される複数の弟子たちはユダヤ教会と取引し、いわばイエスを売ることで身の安全を得た可能性があることを遠藤さんは指摘しています。

もしそうだとすれば、イエスの死後、弟子たちが命の危険を省みずに布教したことの説明がつきません。見捨てた師匠のことは早く忘れて新しい人生を歩むと考えるのが普通です。しかも、ペトロに代表されるように、イエスのことは知らない、私と彼は関係ないと言い張って難を逃れようとする心の弱い人たちです。或いは、自分は何とか助かりたいと願う普通の人です。

遠藤さんはイエスが十字架にかにけられた時、最後の言葉の中で決して弟子たちを非難しなかったことをその理由として考えています。普通だったら自分を見捨てた者に呪詛の言葉を吐いて死んでいくものかも知れません。しかし、イエスは最期まで愛の言葉を説き続け、死に至ります。完全な愛とは何かをイエスは自分が十字架にかけられることによって証明したと言うこともできるかも知れません。弟子たちの心の中に感動とイエスを見捨てたことへの後悔が広がります。この時の心の動きが弟子たちを大きく変化させ、不屈の伝道師へと生まれ変わったのだと遠藤さんは考えます。

いろいろ理解できてくると福音書はおもしろいです。イエスがエルサレムに入り、逮捕され、審問を受け、ピラトがイエスの死刑を避けようとするもののうまくことが運ばず、ゴルゴダの丘へと十字架を担いで歩かされる場面を頭の中である程度像を結ぶようになると、その圧巻さ、ドラマチックさを感じられるようになってきます。

遠藤さんが描くイエスのイメージ、またはイエスがこの世に来たことの意味についての考察などは、他に『深い河』『おバカさん』『死海のほとり』『沈黙』『キリストの誕生』などを合わせて読むことでだんだんわかってきます。そのため、『イエスの生涯』だけで全てを理解することはできません。まず、ストーリーとしてイエスがどんな人なのかという像を頭の中に結べるようにするには『死海のほとり』を読むのがいいと思います。「無力で無能だが、弱い人をただ愛するイエスキリスト」の姿は、福音書に書かれている数々の奇跡、即ち合理的に説明のつかない出来事に対して、遠藤さんなりの解釈を加えて、それでもイエスは「愛」だけを説くという深い意味を持つ人だったということが描かれます。理解しやすいです。その上で『おバカさん』『深い河』『キリストの誕生』の順番で読み、実は最後に『沈黙』を読むのがいいのではないかなあと思います。これは私見です。

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鈴木清順監督『カポネ大いに泣く』の日本とアメリカ

鈴木清順監督の作品の中で、最も有名なのは『ツィゴイネルワイゼン』だと思いますが、個人的なベストは『カポネ大いに泣く』です。田中裕子が美しいです。ショーケンが若くてたくましいです。

映画のオープニングでは20世紀初めごろのアメリカの映像が使われています。遊園地で遊んでいる人々や飛行機に乗って楽しんでいる人々が映っています。日本人にとってアメリカとはこういうものだということを表現しているのだと思います。不思議な道具を使って楽しく人生を謳歌する人々が昔の日本人にとってのアメリカ人です。眩しき別世界です。

田中裕子とショーケンが夫婦でサンフランシスコに渡ります。悪いやつに騙されて田中裕子は娼婦になり、ショーケンはアメリカで浪花節をやります。歌舞伎でも能でもなく浪花節というところが渋いように思います。沢田研二がショーケンと田中裕子を助けます。阿藤海が広東語をしゃべっています。今見れば、阿藤海さんが出ているだけで泣けます。たこ八郎さんが出ています。泣けます。

ショーケンは世間知らずです。夜の大統領と昼の大統領の違いが理解できません。アメリカで一番偉い人の前で浪花節がやりたいと思い、夜の大統領のアルカポネの前で浪花節をやります。細かいことを計算をせず、真っすぐに、純粋な天真爛漫さだけで突き進みます。それがこの人物の魅力なのです。禁酒法の時代に酒の利権をめぐってアルカポネと日本系マフィアが抗争します。日本系マフィアはほぼ皆殺しです。アメリカの大ボスには勝てないのです。アルカポネはチャックウイルソンがやっています。懐かしいです。

田中裕子が事故で死にます。ショーケンはアメリカ人の愛人と暮らします。戦争が始まり、日本人と日系人は収容所に入れられます。愛人の手引きでショーケンは脱走します。そして最後に切腹してあの世の入り口で田中裕子と再会します。切腹は痛すぎてショーケンは悶絶します。「こんなはずでは」と口走ります。切腹に興味津々だったアメリカ人の愛人は驚いてどこかへ逃げてしまいます。なぜ切腹しなければいけないのかという謎が残ります。映画に謎解きはありません。何度も観て考えなくてはいけません。全てにおいて勝るアメリカ人に日本人が自己表現を挑むとすれば、切腹しかなかったのかも知れません。或いは切腹は外せないのかも知れません。『戦場のメリークリスマス』と同じです。

アメリカロケは一切しなかったそうです。横浜で撮影しています。あ、京浜東北とか思います。日本で十分にアメリカを見つけることができる、日本の近代とはどういうものかを考える材料にしてほしいと言っているように思えます。

玉乗りが素晴らしいです。田中裕子の三味線も本当に弾いています(と思います。撮影の時に本当に弾いていると思うのですが、音と手が時々合っていない箇所があるので、三味線の音はアフレコとかなとも思います)。浪花節とジャズのセッションがあります。様になっていて渋いです。細部にエネルギーが使われているので何度観ても新しい発見がある映画です。

『かもめ食堂』の覚悟と孤独と救い

『かもめ食堂』は女性を中心に絶大な支持を得た伝説的な映画です。私も周囲の人に聞いたら、女性はだいたい「とても好きだ」と答えます。友人の中には『かもめ食堂』の影響で新婚旅行にヘルシンキに選んだという人もいます。

男性からはそこまで支持されているとも感じませんが、男性でも、何度も繰り返し観るうちに小林聡美さんの凛とした役に共感や感情移入ができるようになると思います。ヘルシンキで日本料理のお店をするというのはかなりの覚悟が必要です。お店を開けば固定費用がかかります。居酒屋さんならお酒で売り上げを伸ばすことができますが、このお店はそういうわけでもありません。ロンドンやパリのようにチャラい夢見がちな場所でもありません。日本人目当ての商売でもありません。正々堂々真っ向勝負でストックホルムの人を相手に日本食で商売しようという静かな冒険です。客は集まらないと思うのが普通です。主人公はお店を構えて客が来ないなら無理して集めないという姿勢を貫きます。内心不安に違いありません。しかし、自分のスタイルは守ります。

もたいまさこさんが「いいわね。好きなことをやっていらして」と言うと小林聡美さんは「嫌いなことをやらないだけです」と答えます。さりげない会話ですが、壮絶です。嫌いなことをやらないと覚悟して、いろいろ捨てて断捨離したら、ヘルシンキで日本食屋さんをする選択肢が残ったというのは壮絶な人生です。日本で同じことをやるのは主人公的にはダメなのです。自分を貫いた結果、そうなってしまうというのは妥協なき人生という意味で憧れもありますが、そうでもしなければ生きられないという意味では背後にある苦しさを想像しないわけにはいきません。

私は片桐はいりさんが変な顔をしないで普通の役で出ているのをこの映画で初めて見たと思ったのですが、学生にみせると片桐はいりさんのアップで笑いが起こります。人の顔を見て笑ってはいけませんと注意しようかとも思いましたが、大学生はもう大人ですし空気を壊したくなかったのでわたしは気づかないふりをしました。自分の防衛を優先しました。ごめんなさい。

傷ついた人を癒す力がある作品です。アル中のおばさんが立ち直ります。逃げた男も帰ってきます。希望を与える作品です。実際には深い孤独が隣合わせです。映画を一回観ただけでは分かりません。しかし、何度も観ると行きずりの日本人の女性三人が肩を寄せ合い孤独と絶望に戦っています。緊張感を失くせば負けてしまいます。常に自分を保つ気力と覚悟が必要です。

最後は客でお店がいっぱいになります。客はみんな地元の人です。北欧の人が日本料理をおいしいおいしいと満足そうに食べる姿は理屈抜きに日本人の自意識を満足させます。そういう面は『カリオストロの城』に通じるものがあるのかも知れません。最後にお店が満席になるのは祈りのようなものだと思います。自分を貫き、信じて歩けばきちんと結果を出すことができるのが人生だ。人生とはそうであってほしい。ヘルシンキまで行って日本食屋さんをやらないと自己実現できないほど不器用な人でもちゃんとやれる。成功できる。そんな祈りや願いが込められているのだと思います。そこに観る人は共感するし、感動するし、静かで優しいカタルシスを得ることができるのではないかという気がします。




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『カリオストロの城』の日本の戦後

『カリオストロの城』は何度観ても感動して涙が出てくるとてもいい作品だということは、わざわざここで述べる必要もないほどのことだと思います。

カリオストロ公国は景色がとてもきれいです。設定ではフランスとスペインの間にあって地中海に面した人口3500の世界で一番小さな独立国です。小さい国は魅力的です。『マシアスギリの失脚』みたいに、お話しを大袈裟にせずに独特の世界を作ることができます。雪が積もった峰々と湖が美しいです。お城もきれいです。ディズニーランドのお城みたいです。設定ではお城ができたのは16世紀の終わりころです。イギリスではエリザベス女王の時代が始まったか始まらないかくらい。中世が終わるか終わらないか、イタリアでは中世は終わっているけどフランスとスペインの中間ならまだ中世かな。といった感じのころです。日本では織田信長か豊臣秀吉の時代です。

中世のヨーロッパのお城があんなにかわいくてきれいで素敵というのはちょっと考えにくいです。中世ヨーロッパのお城と言えば、ずどーんと暗くて重苦しい感じのイメージが私にはあります。『薔薇の名前』や『忘れられた巨人』に出てくる修道院のようなイメージです。映画『エリザベス』のスコットランドのお城みたいなイメージです。カリオストロの城みたいなきれいでかわいいお城と言えばルードビッヒ2世のノンシュバンシュタイン城ですが、それは19世紀につくられたお城です。時代的に合いません。

しかし、カリオストロの城には日本人の夢と願いが全力で込められています。ヨーロッパのお城はきっとあんな風にきれいで豪奢でかわいい感じに違いない、そうであってほしい、そうでなくては困るくらいのエゴの欲求を受け止めています。イメージ通りのヨーロッパのお城にルパンと次元と五右衛門と銭形が行くからおもしろいのです。日本人が活躍するからおもしろいのです。日仏ハーフのルパンと銭形がどちらも勝者で、敗者がカリオストロ公爵だから日本人にカタルシスを与えます。戦いに勝利し、クラリス姫のような可憐な美少女の「心を盗んで」去って行くから称賛してしまうのです。何回観ても飽きないのです。

パリのインターポール本部で銭形はカリオストロ公爵の偽札づくりを告発します。しかし、欧米のえらい人たちは政治的な理由でそれを無視することに決めます。観ている側は銭形の誠の心に共感します。初めて見たのは小学生の時ですから「大量の偽ドルが発注された」とか「この偽ルーブル札こそCIAの発注じゃないのかね」とか言われてもよくわかりませんでした。いずれにせよ、国際政治の複雑な大人の事情に負けずに日本男児の銭形が正義を貫こうととする姿を観るのが気持ちよかったのです。

お城といい、欧米相手に正義を貫こうとする銭形の姿といい、最後にルパンと銭形が勝者になるところといい(両方勝者にならないと観客的には不満になる)、改めて観てみると日本人の敗戦トラウマの快復が大きなテーマだということに気づきます。欧米に憧れるという気持ちと欧米に勝ちたいという気持ちの両方を解決しているのがこの作品です。架空の国をやっつけることで、誰も傷つけずに物語の世界でトラウマが癒されます。最後にクラリスがルパンにキスをしてほしそうにするところがトラウマ快復の総仕上げです。ルパンは倫理の観点からキスしないので観ている側は更に気分がいいのです。私もクラリスみたいな人にそんな風にされたいです。実際にそんな風にされたら顔が近すぎてけっこううっとうしいかも知れません。それでもやっぱりされたいです。

作者は以上述べたことを十分に知っていて意図的にそうしています。クラリス姫が閉じ込められる北側の塔の部屋はアラビア趣味です。ヨーロッパのオリエンタリズムをサイードが指摘する前からよく心得ています。ゴート札がブルボン王朝を破滅させたという設定もフランス革命の原因がマリーアントワネットの贅沢とかではなく通貨政策の失敗だったとうこともちゃんと押さえています。宮崎駿さんですから私が気づくくらいのことは十分に意識的だと思います。

ルパンもカリオストロ伯爵もおっさんです。なぜクラリスはルパンのことは好きで、伯爵のことは嫌いなのでしょうか。よーく考えてみると、ルパンは手品でクラリスを喜ばせています。手品かよ…。と私は少しがっくりきます。私は手品ができないので、あんな風にはやれないというごく個人的な理由です。私は楽器も球技も習字も手品も手足を使うことはどんなに練習してもうまくなりません。今はもうあきらめています。

クラリスとナウシカはよく似ています。その理由は作者の好みに集約されるはずです。何回観ても涙が出てくるので作ってくれた人には感謝しています。



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