少女終末旅行とキルミーベイベー

少女終末旅行をアマゾンプライムビデオでみた。この手のアニメをアマゾンプライムビデオでみるとすれば、一機にまとめてみることで次週放送まで待たなくていいのがメリットだと言えるのだが、このアニメに関しては、作画と設定がドラマチックで目が離せないにもかかわらず、展開そのものはスローテンポの日常系で、作品の意義をどこに求めるかについて脳の理解がついていくのに困難を要し、まとめてみるだけのエネルギーを維持することができなかった。全12回分を毎日1回分づつみて、なんとか今日にいたったというわけだ。

人類がだいたい滅亡して誰もいない廃墟だけが延々と広がる世界を2人の少女が食糧となんらかの意味での出口を求めて旅を続ける奇妙な物語は、みているうちに、あ、これってキルミーベイベーに似ている思わせる、ある種の空気や雰囲気のようなものを持ち合わせていることに気づいた。

まず少女終末旅行のopの歌詞は、キルミーベイベーのedの歌詞と酷似している部分があり、とても偶然とは思えず、キルミーベイベーの方が先に放送されていたことを考えると、少女終末旅行の方がキルミーベイベーをかなり意識していたのではないだろうかと思える。

また、百合的な展開も似ている。もっとも、キルミーベイベーの場合は表面的には延々と続くボケと突っ込みのどつき漫才ギャグマンガであるため、ぱっとみた感じ百合っぽくは見えないが、あれ、これってもしかして、百合…?と視聴する側がいろいろと想像力を膨らませて、もしかしたら百合かもというところにたどり着くのだが、少女終末旅行は絶対に百合、明白に百合、これで百合でなければおかしい。というくらいにわかりやすい百合であり、このあたりには違いがあると言えばある。だが、どちらも百合である。キルミーベイベーはサービスショットがさほどないのに対して、少女終末旅行はサービスショットが結構たくさんあることも違いとしては挙げておきたい。少女終末旅行の場合、ギャグ的要素が皆無に近いため、チトとユーリの関係性だけにフォーカスされると言ってよく、それだけに百合っぽさが目立つのかも知れない。百合ではないが、終末の廃墟を少女たちが歩くという意味ではコッペリオンもある程度似ているかも知れない。

キルミーベイベーは少女ものがどうとか、百合がどうとかとは関係なく、ギャグが普通に笑えるため、シーズン2を期待していたが、あぎりさんの声優さんが捕まってしまったので、シーズン2は諦めざるを得ず、がっかりしていたのだが、少女終末旅行というインパクトありまくりのアニメによって補われたことは喜ばしい限りだ。もっとも、その少女終末旅行も終了なわけではあるが。

少女終末旅行の最後についてはネットでも議論が分かれていて、死ぬ説と生き延びる説がせめぎあっている。私は作品をみ続ける中、途中から、この2人は既に死んでいるのではないか。観念の世界で旅を続けているだけなのではないかという不思議な感覚を持つようになった。絵がきれいなドラマチックで、人間愛に溢れており、音楽もきれいなので、アニメが好きな人にとっては歴史的に残る素敵な作品として受け入れることができるのではないだろうか。個人的には少女終末旅行のedは繰り返し見たいとても素敵な動画だと思う。



人狼ゲームをアマゾンプライムで観れる分は全部観た

人狼ゲームというシリーズについて、私はつい最近までその存在すら知らなかった。たまたまアマゾンプライムビデオで表示されたので、一応、さらっと見てみるだけ、見てみようか。おもしろくなかったら、視聴をやめればいい。そう思い、クリックした。ぐんぐん引き込まれ、観れる分は全部観てしまった。何がそんなに魅力的に思えたのだろうか…。

内容はかなり悪趣味なもののはずで、ゲーム理論的な人間対人間の誘導、扇動、嘘も方便で乗り切らなくてはならないが、乗り切れなかった即死亡という、結構、やりきれない内容だ。お話だから、フィクションだからと思って視聴するのはいいが、感情移入してしまいやすい人なら悪趣味過ぎて気分が悪くなって見ていられないだろう。何しろ登場人物の9割は死ぬことがお決まりの内容なのだ。このように一つの作品で大勢死ぬのがオーケーになったのは、バトルロワイヤルが映画化されて以降のことではないだろうか。バトルロワイヤルの原作小説が書かれた後、あまりの悪趣味ぶりに不愉快との意見がどこへ行っても大勢を占め、しばらく世に出なかったが、やがて向こう見ずな出版社の手に渡り、書籍になり伝説的な作品として記憶された。ナボコフの『ロリータ』みたいな感じだろうか。

バトルロワイヤルより前の時代、我々は『火垂るの墓』で節子が衰弱して死ぬまでを90分くらいかけて息を止めるような思いでみて、苦悶しつつ涙を流していたのである。そう思うと、バトルロワイヤルでは人の死がお手軽過ぎて、嫌悪感が先に立ってしまう。しかし、設定に慣れてしまうと描き方に関心がいくので嫌悪感は薄れてゆき、このように言っていいのかどうかはやや躊躇するが、作品の良い面にも意識が向くようになるのである。バトルロワイヤルの場合、一人ひとりの死にゆく中学生が、それぞれに青春を生きようとしているそのひたむきさに心をうたれずにはいられない。次々と中学生が死ぬので、視聴する側は次々とそれぞれの青春に付き合わなくてはならなくなり、きわめて濃密な映画視聴の体験になる。ある意味、名作である。バトルロワイヤルで中学生がたくさん死ぬのと、暴れん坊将軍で吉宗が悪いやつの部下を大量に成敗するのは全く性質が違うものだ。バトルロワイヤルの中学生には成敗される理由がない上に、一人ひとり、個性があり、想いがあることが表現されるのだから、観客は消耗する。暴れん坊将軍の場合は吉宗に斬られる下級武士たちに感情移入する機会は与えられないし、どうでもいいどこかの誰かが死ぬ場面なので、観ている側は特に疲れたりしない。暴れん坊将軍では個性のある登場人物は限られる。

いずれにせよ、バトルロワイヤルでそのような死の描き方に慣れてしまった私たちにとっては、人狼ゲームも受け入れやすい作品になった。人狼ゲームは初期のものとそれ以降のもので全くテイストが違う。私は初期のものの方が好きだ。熊坂出という人が監督をしていて、映像ももしかしたら結構きれいということもあるように思えるのだが、死にゆく高校生たちには個性がある。三作目以降には各人の性格はあっても個性がない。ここでいう性格とはそそっかしいとか泣きやすいとか怒りやすいとか優しいとかみたいなものだが、敢えて個性という場合、その人物が何を愛し、何を憎むのか、特定の状況下で如何なる行動を選択するのか、倫理と利益はどちらが優先されると考えているのかといったようなものが個性だと言えるように思う。要するに個性とはいかに生きるかという、生き方の選択の仕方にあらわれるものだ。

第一作と第二作では、作品の前半では各人が運命を逆転させようと努力し、忌まわしき運命から逃れようと、時には権謀実作も弄する。だが、いよいよ逃れられないと分かった時、死をいかにして受け入れるかということが主題になる。なんとかして生き延びようとあがくものもいれば、自ら死を受け入れることによって最期まで能動的であろうとする者もいる。常に合理的な行動をするわけではなく、時にはある種の文学的な心境に至ってしまい、不利益になることを承知で行動を選択することがあり、人は時として非合理的な選択をするという人間観が作品に漂っている。彼が或いは彼女がなぜそのような選択をしたのかということは、作品を観終わってからでも思い返し、反芻し、自分の人生と照らし合わせ、自分ならどうしていただろうかということまで想いを馳せることができるので、うまく作品を吸収すれば、人としての成長をすら期待できるかも知れない。

第一作がこれ

第二作がこれ

一方で、三作目以降にはそのような人生に対する哲学や個性の反映というようなものはない。登場人物たちはゲーム理論的な権謀実作を弄することだけを考えて行動する。従って、誰が最も合理的に賢い頭脳を用いて立ち回ったかどうかだけが問題になる。死に対して、運命に対して、自分がどのような姿勢を選ぶかという、もう少し掘り下げなければ見えて来ない面には目が向いていかない。最後の方は武田玲奈がかわいかったので、「わーっ、武田玲奈かわいー、結婚してー」と思いながら見ることで、退屈さとか陳腐さとかみたいなものを乗り越えて視聴することができた。武田玲奈が出ていなかったら、私はもっとひどい心境になっていたに違いない。

武田玲奈が出ているのがこれと

これ

まあ、そのようにぶつくさ言いながらも一生懸命全部観たのだから、それだけ訴求力のあるシリーズだということは言えるのではないだろうか。


新宿の中村屋サロン美術館

新宿のとある一角に、洋食で有名な中村屋王国みたいなビルが存在する。

中村屋の洋食レストランがあるだけでなく、持ち帰り用の食品点もあれば、美術館まで所有している、中村屋王国である。成功した企業が美術館を持つことは、決していけすかない嫌味な趣味などではない。美術館を持つことは成功者の証であり、文化芸術面での社会貢献の一環であり、社会はそのような成功者や企業に対し、それにふさわしい敬意を持つのがより理想的だと思っているので、「王国」という表現は、私なりの敬意の表明である。ポーラとか、ブリヂストンとかの企業が美術館を持っているのと同じで、そういう施設を持とうと思う発想法は結構素敵なのではないかと私は思う。もうちょっと規模の大きいものではフジサンケイグループが箱根でピカソの絵を集めたりしているのがあって、かつて経営者一族が役員会のクーデターで追放された際、なんとなく空気として、美術品集めにかまけているからこのようなことになったのだと言わんばかりのものが流れていたような気がするが、あのケースと美術品の収集は関係がない。美術品を集めたからクーデターが起きたのではなく、企業のガバナンスに失敗したからクーデターが起きたのである。

ま、それはそうとして、中村屋である。大正から昭和の初めくらいにかけて、中村屋は芸術家サロンとして機能するようになった。創業者が芸術家たちをかわいがり、パトロネージュするようになって、芸術家たちが出入りするようになったというわけだ。言うなれば中村派である。フランス絵画の世界にエコールドパリとか、バルビゾン派とかがあるような感じで、中村派と呼ぶべき絵画グループが存在したわけで、中村屋サロン美術館ではそういった、中村屋にゆかりのある芸術家の作品を見ることができる。私が見学して得た印象としては、中村派の芸術家たちは日本の風景や日本人の佇まいをどのように描けば西洋絵画の手法に馴染ませることができるかということに腐心していたように感じられた。

中村屋と言えば、カレーである。インド独立運動に身を投じ、日本に亡命したラース・ビハーリー・ボースが中村屋に本格的なインドカレーを伝えたそうだ。中村屋のボースはよくチャンドラ・ボースと混同されるが、別人である。ボースは創業者の娘と結婚して日本の生活に馴染んでいくのだが、孫文が日本に亡命した際に宮崎滔天などの支援を受けたのによく似た構図と言えるかも知れない。このボーズのおかげで、東京名物中村屋カレーが楽しめるのである。私もせっかくなので中村屋のカレーパンを食べてみた。地下の食品売り場には小さなフードコートになっていて、カレーパンやスイーツ、ホットコーヒーなどを買ってその場で食べることができる。新宿という、ありふれた要件で誰もが立ち寄る土地で、中村屋の美術館に入ることで非日常を楽しめるのは結構いい経験になった。

中村屋のカレーパン
中村屋で食べたカレーパン

最後に、偶然、チャンドラ・ボースのことにも少しだけ触れたので、ついで議論したいのだが、日本の力を借りてインド独立を果たそうと考えていたチャンドラ・ボースは、日本の敗色が濃厚になる中、日本ではなくソビエト連邦と中国共産党の支援を受けることでインド独立運動の継続を模索するようになった。日本の敗戦を知ったボースは台湾から日本軍機で大連にわたり、ソ連軍に投降することを計画したが、飛行機は離陸の瞬間にプロペラが滑落してしまい、飛行機は地面に激突した。ボースは全身やけどを負い10日あまり持ちこたえたが、彼は台湾で亡くなった。私の想像だが、謀殺なのではないだろうか。ボーズが日本軍機を使って大連に渡ることを計画した以上、日本軍の全面的な協力がなくてはならず、当然、諸方面にボーズの考えは伝達されていたに違いない。そして日本軍内部には多様な意見があり、純粋にアジア解放思想を持つ軍人たちは、たとえ日本が滅びてもボーズにできるだけの協力をすることで、インド独立に協力したいと願っただろうけれど、一方で日本が戦争に敗けたと知って敵に寝返るのかと憤慨した面々もいるだろう。仮にもレイテ沖海戦以降、日本・台湾からは無数の特攻隊員がアメリカ艦隊を目指して飛び立っている。そのため飛行機整備のノウハウの蓄積は凄まじいものがあったに違いなく、プロペラの滑落など意図しなければ起きないのではないかという気がする。それも離陸の瞬間に外れるのだから、誰かが故意に外れるように仕組んだのではないかと思えてならないのだ。このようなチャンドラ・ボース謀殺説は、私の妄想のなせるとんでも都市伝説みたいなものなので、本気にしていただかないでいただきたい。日本とともにアジア解放のために戦ったチャンドラ・ボース氏に敬意を表します。



さようなら、ファーストフード

ニューヨークの新感覚で生きる男性が、一か月の間、マクドナルドの商品だけを食べ続けるとどうなるかという実験的な生活を試みた『スーパーサイズ・ミー』は、多くの人に衝撃を与えた話題作であったに違いない。私も一度みてみたいと思っていた作品なのだが、最近、アマゾンプライムビデオで観たので、ここで簡単に内容をシェアしてみたい。

この作品では、フィルム制作者の男性が自ら出演し、一か月の間、マクドナルドの食事だけで過ごすと誓いを立て、マクドナルドの体への影響がいかなるものかを検証するために、無用な運動を避け、徒歩もなるべく避けて、タクシーを使うように心がけ、もし、マックの店員さんから「スーパーサイズにしますか?」と質問された場合は、かならずスーパーサイズで出してもらうというルールを決めて実行している。アメリカのマックのスーパーサイズである。日本ではとてもお目にかかれない超巨大な食べ物なのだが、それを男性がばかばかと食いまくる映像が続く。当初は気持ち悪くて嘔吐することすらあったが、だんだん慣れてきて、マックの食品に快感を感じるようになり、ついにはマックなしではいられない体になり、結構やせ型だったのにしっかり中年太りになって一か月が終了する。マックの超特大を食べ続けたら、自分のお腹も超特大になっちゃったというわけである。マックがいかに健康に悪いかを証明したフィルムとして名高い作品なのだが、私はマックが嫌いとかそういうわけでもないし、マックを憎んでいるわけでもないので、一応軽くマックを弁護しておいてあげたい。

当該男性の主張するように、マックが太りやすいことには異論はない。また執拗に行われる刷り込み的広告宣伝によって巨大マクドナルド資本が人々から健康とお金を吸い上げていることも事実であろう。しかし、男性は運動しない、歩かない、なるべく超特大にするという、マックサイドが想定していない要素を入れ込んで実験が行われている。運動しなかったことの結果までマックが引き受けなければならないとすれば、それはマックがかわいそうというものである。また、男性の彼女も作品に登場するのだが、若くてびっくりするほど美しい女性で且つビーガンなのだが、作品の中で肉よりドラッグと言い切っている。肉を食べると幸福感を得られるが、肉は体に悪いので、ドラッグで幸福感を得た方がいいというわけだ。あれ?なんか話が違う方向に…と思わなくもない。私は今、ビーガン的生活に憧れて努力中なのだが、ビーガン的生活を追求する際に支障となるのは、いかにして幸福感を得るかという問題であり、タバコもお酒もやめた今、わりとこれは深刻な問題になりつつあって、時間をかければ克服できるとは信じているが、先輩ビーガンは実はドラッグで補っていたとすれば結構ショックである。これについては私なりにまた考えて、自分流の克服法を確立したいとは思っているが、いずれにせよドラッグに頼らない解決を模索しなくてはならない。ドラッグ大国のアメリカ人がどう思うかは知ったことではないが、普通の感覚を持つ日本人なら、ドラッグ依存症とマック依存症のどちらかを選ぶとすればマック依存症を選ぶに違いない。だって、ドラッグは違法なんだから。

マクドナルドがアメリカのクリエイターとか、アーティストとかといった人たちからいかに憎まれているかを知るために、もう一つ映画作品を挙げておきたい『ファウンダー』という作品で、やはりアマゾンプライムビデオで観た。アメリカの地方都市でがんばるマクドナルド兄弟が確立したファーストフード店の権利を乗っ取った男がマクドナルドのファウンダー(創設者)を名乗ってバリバリ仕事をして大金を稼ぎ、糟糠の妻を捨てて他人の奥さんを奪って再婚し、人生勝ち組わっはっはで終わる作品で、観ている側としてはなぜこんな中年おじさんのサクセスストーリーを見なくてはならなかったのかと釈然としない気持ちが湧いてきて、消化不良のまま映画が終わるのだが、このような作品がまかり通るのも、要するにマックのような巨大資本は、この映画の主人公のようないけすかない嫌味なおじさんがみんなからお金を吸い取るためにやっているんですよというメッセージが込められているというわけだ。ハリウッドらしいわかりやすい作品であると言える。

私はハリウッドのお先棒を担ぐつもりはないし、ハリウッドも巨大資本なのでは?という疑問も湧くし、巨大資本=悪とも言えないと思うし…といろいろと気持ちがぐちゃっとなってしまうのだが、そういったこととは関係なく、私はそろそろファーストフードを卒業したいと真剣に考えている。それはマックが悪いのではなくて、私が新しい自分になるための方向性としてビーガンを選ぼうと考え始めているということだ。もちろん、完全なビーガンは私には無理だ。魚、卵、牛乳、チーズ、ヨーグルトをやめる自信はない。魚をやめないのだからベジタリアンとしても失格であり、肉をなんとか近い将来やめられるかどうか…という意思薄弱な頼りないビーガン志望者である。

マクドナルドのバーガーがどんなものでできているかを考えてみよう。まずパンである。パンは普遍的な食品で、特に問題はない。そしてハンバーグなのだが、肉はビーガン志望とかでない限り悪い食材ではなく、場合によっては美容と健康のために必須であると語られることもある食材だ。そしてレタス。レタスがだめだという人はいないだろう。ピクルスも同様である。チーズも挟まっているが、チーズが体に悪いとか聞いたことがない。ということは、マックの看板商品であるハンバーガーはむしろいい食事だと言うことすらできるかも知れない。でも私は卒業しようと思っている。

以上までに諸事情をつらつらと書いてはみたのだが、どうしてそこまでファーストフードから脱しようと思っているのかについて述べたい。肉には依存性がある。パンにも依存性がある。私はそういった依存を減らしていきたいと思っている。お酒とかたばこからの依存からは脱することができた。そういった依存から脱することができるのは実にいい気持ちだ。引き続き肉や糖質への依存からも脱却してみたいと思うようになっていて、その先にある新しい地平を今は見てみたいという好奇心がうずくのである。繰り返すがマックは悪くない。私がマックを卒業するのである。あ、最後に湘南台のバーガーキングへ行っておいた方が思い残しがなくていいかも知れない。私は何を言っているのか…タバコもお酒もやめていくと甘いものがほしくなるので脱糖質がうまくいかなくなり矛盾が生じ、葛藤が生まれる。なかなか難しい問題で、今もいろいろ手探りなのだが、ある程度時間が経てば再びタバコを吸いたいとか思わなくなるので、一機に全部やめてしまうのではなく一つずつやめていくのが心身への負担も少なくていいかも知れない。最終的には魚と卵と牛乳をどうするかという問題に直面することになるとは思うが、それは数年後のことになるだろう。



エコールドパリとギヨーム

先日、横浜美術館で開催されているルノワールと12人の画家たちと題された展覧会へ行ってきた。大人1枚1700円で、最近の展覧会は大抵の場合、結構な金額がするため、うかがうかどうかについて、やや慎重になってしまう。個人的な展覧会選択基準はテーマが絞り込まれているかどうかということが注目ポイントで、ここがしっかりしていれば一本の映画をみたり、一冊の本を読んだりしたのと同じくらいの感想を得ることができ、いい勉強になった、得難い経験だったと思えるのだが、絞り込まれていなければ、単なる陳列であり、あまり勉強にならずにがっかりしてしまうといったあたりを気にしてしまう。で、今回はルノワールと12人の画家たちなので、タイトルだけみればぼやけている。ルノワールなの?それともいろんな画家たちなの?は?となるのだが、オランジェリー美術館の収蔵品をかなりまとめて持ってきてくれた展覧会だということだったので、やっぱり行くことにした。そして、美術館向かう電車の中で、あ、これはエコールドパリの画家たちがテーマなのだなと気づいた。最初からエコールドパリとしてくれれば良かったのに、とも思ったが、ルノワールという名前に集客力があるのだから、なんとかルノワールという言葉を展覧会の正式な名称に入れ込みたかったのだろうと企画された人たちの考えていることを想像したりしてみた。

で、エコールドパリの仕掛け人が誰なのか、この展覧会では分かるようになっている。エコールドパリを直訳すれば、パリの学校という意味になるが、この場合、パリの画家たちの集まり、パリの画壇、パリ派などの意味で使われる。映画人のニューヨークスタジオとか、政治の世界の吉田学校とか、外務省のチャイナスクールとかと似た感じだと思えばいいのではないだろうか。で、このエコールドパリを仕掛けた画商がポール・ギヨームという人物なのである。私はポール・ギヨームなんて人のことは全然知らなかったし、過去にオランジェリー美術館には何度も足を運んだし、バーンズコレクションとか見に行ったりして印象派の絵は見慣れているはずなのに、或いはバルビゾン村まで出かけて、バルビゾン派の絵についても多少の理解はあるつもりだったのに、このポール・ギヨームのことを知らなかったというのは、われながら勉強不足を認めざるを得ない。

で、どうしてこのギヨームなる人物が仕掛け人と私が断定しているのかというと、今回の展覧会ではセザンヌとかモディリアーニとかマティスとかいろいろな人の絵が展覧されているが、複数枚、ギヨームの肖像画が展示されていた。企画の人が、裏テーマはギヨームだよ。本当の主役はギヨームなんだよと、私に語り掛けているようにすら思えた。たとえば、ゴッホはタンギー爺さんという絵で画商の肖像画を描いている。画家にとって画商のプロモーションは極めて重要なことで、多分、画商が神様みたいに見えてくるので、画家としてはその人の肖像画を描かざるを得ない心境になるのではなかろうかと想像してしまった。実際、ゴッホはその死後に弟のテオの奥さんがプロモーションをかけたことで、きわめて高い評価を得るに至ったのだから、絵の力量だけでなくプロモーション力の重要さは強調しても強調しすぎることはないだろう。

そういうわけで、今回の展覧会では、ポール・ギヨームなるパリの画壇の黒幕がいたことを知れたことは個人的にはとても勉強になったのであります。ルノワールの女の子の絵とか、そういうのもたくさんあるので、美術史がどうこうとか、画壇がどうこうとかみたいな絵の周辺的なことよりも、絵そのものを楽しみたいという人にとっても充分見ごたえのある展覧会だったと思います。1920年代、30年代の作品が多く、第一次大戦後のいわゆる戦間期、フランスの隣国であるドイツではナチスが台頭しようとするきな臭い時代に描かれたと考えて見学すれば、絵画の持つ臨場感が更に大きくなるのではないだろうか。



聖徳記念絵画館に行ってきた

明治天皇の人生を日本画40枚と西洋画40枚で表現した聖徳記念絵画館は、知る人ぞ知る近現代史探求のおすすめスポットだ。ここでは3つの観点から、日本近現代史を理解・考察するための材料を得ることができる。まず第一は建物だ。大正中期に建設が始まり、大正末期、昭和が始まる直前に完成している。従って、日本近代がいよいよ成熟しようとする時代の息吹がこの建物には宿っていると言っていいだろう。どういうことかというと、明治時代の和洋折衷建築は木造が中心で、昭和の近代建築は鉄筋コンクリートみたいになっていくのだが、大正期は石を多用しており、昭和に近づけば近づくほど、コンクリートの要素が大きくなるが、この建物のような場合だとそのあたりの流行の変化を取り入れつつ、石もコンクリートも用いているわけで、日本郵船の横浜支店よりはやや古いと思うのだが、やや古い分、石の分量が多いというあたりに着目すればより興味深く観察することができるだろう。アイキャッチ画像では建物の中心部分のみ撮影している。検索すればすぐ出てくるが、多くの場合、この建築物は正面から撮影されており、左右対称のシンメトリーに注目が集まる。実際に行ってみて、正面から印象を確認してみるのもいい経験になるはずだ。

日本郵船歴史博物館の天井
日本郵船歴史博物館の天井

さて、次の楽しみ方としては、当然、絵の内容である。明治天皇の前半生は日本画で描かれており、生誕、元服、即位などの様子が宗教画の聖母子像の如くに神々しくかつ具体的に描かれている。これらの絵が描かれたのは後の時代になるものの、記憶している人が多くいる時代に描かれたものであるため、その記録性は高い。中には徳川慶喜が二条城で大政奉還をしたときの絵、教科書に出てくるあの有名なやつとか、勝海舟西郷隆盛の江戸薩摩藩邸での会見の様子を描いたものとかもあってとても興味深い。

徳川慶喜と大政奉還
徳川慶喜が二条城で大政奉還の意思決定をしている時の様子を描いた絵

実際に二条城に行ってみると、その時の様子が人形で再現されていて、それはそれでおもしろいが、かえってリアリティを損ねており、実感が伴わない。一方で、この絵の場合、実際の記録や関係者の記憶を集めて再現しているため、当時の様子を想像しやすい。司馬遼太郎は『最後の将軍』で、将軍という高貴な人が陪審と顔を突き合わせることはないから、慶喜は別室にいたとしているが、この絵を見る限り、思いっきりみんなの前に登場しているし、相当に情報収取して描いているに違いないのだから、おそらくこのような感じであったと考えて差し支えないのではなかろうか。慶喜が大政奉還したその日に薩摩・長州・岩倉グループによって討幕の密書を得たが、幕府が消滅したのでそれが実行できなくなったと言われていて、慶喜の智謀の深さを示すエピソードになってはいるが、当日は薩摩の重役小松帯刀が二条城に来ていて、積極的に大政奉還賛成を唱えたという話もあるし、小松帯刀は病死さえしなければ新政府の重鎮、場合によっては総裁にすらなっていたであろう人物だということも考えると、どうも慶喜によるフェイントで薩長立ち尽くした説にはなんとなく信用できない面があるのではないかという気もしてくる。こういったことは記録的な面で信憑性の高いこの絵画をじっと立って見つめることで気づいてくることなので、その一事をとってみても、実際に足を運ぶことには大きな意味があると言えるだろう。

西郷隆盛と勝海舟の会見は三田の薩摩藩邸で行われたため、三田に近い田町駅には両者のレリーフを見ることができる。このレリーフは聖徳記念絵画館の絵を参照して作られたものに違いない。西郷隆盛の顔は写真の顔によく似ており、一部に流れる西郷隆盛の写真は別人説を吹き飛ばす威力を持っている。繰り返すがここの絵は記録性を重視しているため、描き手は登場人物の顔について、相当に情報収集しているに違いなく、顔を見て知っている人からも情報を得た上で描いているのだ。田町駅のレリーフはそのうち写真を撮ってくるのでしばしお待ち願いたい。

さて、3つ目の楽しみ方だが、それはなぜ、このように明治天皇の人生を記録することを目的とした美術館が存在するのかについて推理することだ。実際に訪問して見てみれば分かるが、明治天皇の人生を辿るということにはなっているが、その辿り方はあたかも福音書のイエスの生涯を描く宗教画の如くにドラマチックで威厳に満ちており、記録性と同時に物語性も重視して描かれた絵が並んでいる。

伊藤博文や山形有朋のような元勲たちは、明治天皇を新しい日本という神聖な物語の主人公に置くことによって、新しい日本神話的帝国を建設しようとしたことと、それは無縁ではない。伊藤たちは新しい神話を必要としていた。それは古事記・日本書紀をベースにしていはいるが、西洋のキリスト教の如き原理原則・プリンシパルを堅持することのできるパワーを持つものでなくてはならず、それだけの説得力を持ち合わせるのは、彼らの持つカードの中では明治天皇しかなかった。従って、新しい都市である「東京」では、明治天皇の神話をもとに国民国家の首都になる必要があったため、皇居・明治神宮・靖国神社などの神聖スポットを建設することにより、近代東京が天皇の首都であるとする演出の舞台になっていったのだと理解することができるだろう。皇居に行った時、近代天皇制は徳川の遺産の上に近代的官僚制度が作り上げた幻影みたいなものだという印象を得たが、幻影を担保するために周辺諸施設が建設されたと考えても間違っているとは言えないだろう。一応、誤解のないように申し述べておくが、私は近代天皇制度は支持している。

いずれにせよ、以上のような理由で近代日本を理解するのに、非常にお勧めなのが聖徳記念絵画館なのである。



指揮者を見てクラシック音楽を楽しむ

クラシック音楽は耳で楽しむものだ。だから、レコードやCDのような音声メディアが成立するのである。だが、同時に演奏者が演奏をしている姿を見て楽しむものであることを否定する人はいないだろう。演奏区間もそうだ。立派なホールに感動することこそクラシック音楽を堪能する醍醐味であるとすら言うことができるだろう。そういった諸要素をいろいろと含んで楽しむのが音楽だということもできるが、忘れてはならぬのは指揮者である。指揮者を見る目を養ってこそ、クラシック音楽は何倍も楽しめるようになるというものだ。

クラシック音楽は作者が音にその人の哲学を乗せている。それは大げさに言えば神の恩寵だったり、自然の恵みだったり、母性愛だったり、神の怒だったり、自然の怒だったり、人の裏切りや嫉妬だったり様々だ。このように書き出してみると、クラシック音楽と能はよく似ている。

それはそうとして、指揮者はそれをよく呑み込んでいて、相応しい音を演奏者に出してもらうのが仕事ということになるのだが、当然、自分で演奏するわけではない。もちろん演奏する能力はあるが、自分で演奏するのではなくて、身振り手振りで演奏者を励まし、演奏者をその気にさせ、なるべくいい音を出してもらえるように努力し、ともに苦労する。野球の監督のようなものだともいえるが、様々な動きによって気分を盛り上げていくという点ではまるでチアリーダーのような存在だ。監督とチアリーダーを一人で背負うのだから、指揮者は過酷な労働を強いられる立場であるとも言えるだろう。

さて、先にも述べたように、作曲者の哲学を表現するのだから、指揮者はそれに相応しい、深刻な顔をしている方が似合うことは確かだ。言うまでもなくカラヤンのような顔つきがいい。だが、カラヤン然として、君たち、ついてきたまえ。では仕事にならない。ついてくる気になるように指揮者は賢明に踊る。ピエロになる。涙ぐましいほどに指揮者は指揮台の上で全力で躍動している。言うまでもないのだが、演奏者は指揮者がいなくても演奏できる。楽譜があるのだし、演奏者は楽譜を読み取って音を再現する訓練を嫌というほど受けて育った人たちばかりだ。そのため、指揮者不在なら不在でもやってみせる。時々才能のない指揮者がいても演奏会が成立するのは演奏者とかコンサートマスターのおかげだ。とはいえ、それは邪道であって、指揮者が立派に演奏会の主役をつとめなければならない。指揮者は観客に対しては背中で物を言い、演奏者に対しては腕の動きや表情で物を言う。顔をしかめたり笑ってみせたり膨れたりはれたりすぼめたりと百面相をする。

指揮者は演奏者に対しておもしろくなくてはならない。ユーモアを発揮しなければならない。レッスン中、指揮者は必ずおもしろいことを言わなくてはならない。しかめっ面は本番だけである。おもしろいことを言い、演奏者を和ませ、かつ演奏の肝になる部分を理解させ、指揮者の望む音の色へと仕上げていく。仕上げていく以上、指揮者も自分のほしい音色がどんなものか分かっていなければならない。誰よりも正確に且つ斬新にだ。そうでなければ、わかってないなあと言われてしまう。そんなことを言われたら屈辱なので、指揮者もエネルギーを振り絞るのである。

以上のような理由なので、指揮者はかっこいいだけではつとまらない。かっこつけているだけの指揮者には限界がある。が、しかしである。指揮者はかっこよくなくてはいけない。かっこよくない指揮者では全てが台無しだ。指揮者の後ろ姿がかっこ悪いと演奏会はおしまいだとすら思える。私は指揮者の後ろ姿がダメだと言う理由だけで演奏会を途中で帰ったことがある。指揮者は時として演奏者に理解させるためにおもしろい仕草をすることがある。おもしろい仕草と同時にタイミングを掴めば、記憶しやすいからだ。しかし、そればっかりやっていると後ろ姿が絵にならない。

指揮者は演奏者をチアアップするのが仕事なので、あまり観客に顔を向けてはいけない。ダン池田みたいなやり方は論外だし、ちょっといいかと気を緩めて観客を見るようでもいけないと私は思う。観客に見られていることは意識しなければならないが、観客を観てはいけない。まるで役者のようだ。

指揮者はまず自分の頭の中に全体像ができあがっていて、その再現のタイミングを演奏者に伝える。ただ、それだけの仕事なのだが、演奏者は指揮者に合わせるつもりで場にのぞんでいるため、指揮がでたらめだと演奏がでたらめになってしまう。指揮者の動きと演奏者の動きは連動しているが、同時ではない。指揮者の方が0.5秒くらい早い。指揮者の動きを見て演奏が進むからだ。このようなことを考えながら注意深く見ていると、なるほどクラシック音楽はライブで見てこそ値打ちがある。ライブで見なければ分からないことがたくさんあるということに気づくことができるのである。




映画の中のヒトラー

戦後映画で最もたくさん登場した人物の一人としてアドルフ・ヒトラーの名を挙げて異論のある人は少ないだろう。戦後、世界中の映画だけでなくドラマや漫画も含めれば、彼は無数に登場し、下記の直され、再生産あれ、時に印象の上塗りがなされ、時に犯罪性の再告発があり、時にイメージの修正が行われた。

彼を最もイメージ通りに再現し、かつそのイメージを強化する役割を果たしたのは、ソ連映画の『ヨーロッパの解放』(全三部)ではなかろうか。動き方、髪型、髭、声の感じ、狂気、死に方。全て我々にとってのヒトラーのイメージそのものである。特に死に方だが、振り返りたくなるほどとびきりの美しさを誇るエヴァ・ブラウンが嫌がっているにもかかわらず強引に口をこじ開けて青酸カリを押し込み、その後、なかなか勇気が振り絞れずに過去に愛した従妹の名を叫びつつこめかみの引き金を引くという流れは、エヴァ・ブラウンがヒトラーのことを命をかけてまで愛したいと実は思っていなかったにちがいなく、ヒトラーも彼女のことを愛してはおらず、ただ一人でも多く道連れにしてやろうと思ったに過ぎないというギスギスした相互不信によって塗り固められた愛情関係の存在が描かれている。見た人はいないわけで、本当にそうだったかどうかは分からないが、我々のイメージには合う。手塚治虫先生の『アドルフに告ぐ』の場合、実は第三者が忍び込んできて、せっかく名誉ある自決を選ぼうとしているのにそれだけはさせまいとヒトラーを殺害する。実際を見たわけではないので、そういう可能性がゼロではないということくらいしかできない。
ソ連映画の方が、最期の最後でヒトラーが英雄的自決という物語に浸り切れていたとは言えないのとは逆に、『アドルフに告ぐ』では英雄的自決という浪漫に浸ろうとしても浸らせてもらえなかったというあたりは面白い相違ではないだろうか。

だが以上の議論では実は重要な点を見落としてしまっている。ヒトラーが元気すぎるのだ。東部戦線がおもわしくなくなったころから、ヒトラーはパーキンソン病が進み、常に右手が震えており、老け込みが激しかったと言われている。ヒトラー最後の映像と言われている、彼が陥落直前のベルリンでヒトラーユーゲントを励ます場面では、それ以前の中年でまだまだ油がのっているヒトラーとは違い、老年期に入った表情になっている。絶対に勝てないということが分かり、一機に衰弱したものと察することもできるだろう。

で、それを作品に反映させているのが有名な『ヒトラー最期の12日間』である。手の震えを隠しきることすらできない老いたヒトラーは、ちょっとでもなんとかできないかと苦悩し、どうにもならないと分かると、無力感にひしがれつつ叫ぶ。憐れなヒットラー像である。この映画があまりにクオリティが高いため、その後のヒトラー物を作る際にはこの作品の影響が見られるのが常識になるのではないだろうか。以前のヒットラーは若々しすぎ、エネルギッシュ過ぎた。確かに政権を獲ったすぐのころなど、まだまだ元気で颯爽としていたに違いないが、晩年の彼には明らかな衰えが見られるのであるから、映画でベルリン陥落をやる際は、そこは留意されるべき点かも知れない。まあ、ベルリン陥落を映像化しようとするとやたらめったらと金がかかるはずなので、そんなにしょっちゅう映画化されるとも思えないが。

そのようにヒトラー象がいろいろある中、興味深かったのが『帰ってきたヒトラー』だ。激しい戦闘の結果、21世紀へとタイムスリップしてきたヒトラーは、人々の声をよく聞き、演説し、ドイツ人のプライドを大いにくすぐり熱狂的なファンが登場する。一方で、戦後ドイツではナチスの肯定はしてはならないことなので、激しい嫌悪を示す人もいる。だがこの映画で分かることは、ドイツ人は今でも本音ではいろいろ思っているということだ。敗戦国民なので言ってはいけないことがたくさんあるのだが、本心ではいろいろいいたい。ヒトラーのそっくりさん(という設定)が出てきて、「さあ、現代ドイツの不満を何でも述べなさい。私はドイツを愛している」みたいなことを言って歩くと、カメラの前でいろいろな人が政治に対する本音を話すのにわりと驚いてしまった。そして、ドイツ人の中には外国人には来てほしくないと思っている場合も多いということもよく分かった。編集次第なのかも知れないが、そういうことをカメラの前でヒトラーのそっくりさんと並んで話す人がいるというのも否定しがたい事実なのである。問題はヒトラー役の人物がやや体格が良すぎるし、若すぎるということかも知れない。しかも、なかなかいいやつっぽく見えてしまう。あれ?もしかして私も洗脳されてる?




アメリカ映画『アメリカン・ビューティー』に見る愛し方。愛され方。

中年夫婦がなんとか切り盛りする中流家庭は崩壊寸前であり、当事者、すなわち父・母・娘がもういいよねと合意した瞬間に家庭は崩壊し、麒麟・田村の『ホームレス中学生のような』な状態に一瞬にしてなりかねないところからスタートしている。その過程に於いて、旦那は一年間のサラリーだけは獲得したので、破綻はちょっと先のばしに成功した。そして娘の同級生をものにするというアホな妄想を現実にすべく努力を開始した。奥さんは沈む船から逃げ出すために、新しいボーイフレンドとしてやりて不動産営業男をベッドイン。娘はやり手のドラッグの売人とニューヨークへ脱出するというなかなか思い切った手段を模索するようになった。で、なんでこんなことになっちゃったの?と言いたくなるが、よく見ていれば、そうなる気持ちも分かるわなあとも思えてくる。

いくつくあのカップルが付き合いかけてハッピーになり、そうでないのもいるというので、そのあたり、ちょっと詳しく、「愛とは」の入り口まで語れるかどうかやってみたい。

まず一番情けないおやじなのだが、家族に見捨てられていることを承知しているうえに、会社からも見捨てられ、誰にも愛されない私になってしまっている。しかも彼は娘の友達が遊びに来ているのをこっそり盗聴するのだが、なんと当該の友達は「あなたの父親って素敵ね。あれでもう少し筋肉があったらやっちゃうかも」を真に受けて筋トレに励むのである。娘の友達のジョークを真に受けて筋トレする悲しき中年男の姿がそこにある。

奥さんの方は、なんとしても不動産を売って見せる、不動産を売って、成功者と呼ばれる人たちの一部になってみせると努力に努力を重ねるが、なかなかそうもいかなくてすっかり落ち込み気味だ。そして不動産王と周囲から尊敬される凄腕不動産バイヤーの男に近づき、ついにそういう関係になるのである。ここで二人の様子からなぜ彼と彼女はそういう関係にあんったかを少し考えてみたい。行為の最中男は「俺こそは不動産キングだ」と何度も叫ぶ。彼は相手を愛してはいない。彼は性行為中に叫ぶことによって自分とは何かを再確認しようとしており、最高位の相手をそのために利用している。一方の女性はどうだろうか。夫との性交渉はすっかり失われており、欲求不満で満ち満ちている。言い方は悪いが誰でもいいからやっちゃって状態になっており、終わった後もあーこれで私欲求不満が解消できて最高~~という風にご満悦という流れになる。もちろん、この女も男を愛してはいない。

一方で、これは愛によって結ばれているのではないかと考えさせられる二人がいる。この夫婦の娘と、隣に引っ越してきた退役軍人の息子さんだ。父親の暴力は激しく、お母さんは頭がダメになってしまった感じなのだが、こわーい海軍の人なので、ご機嫌斜めにならないように周囲はいつも緊張しなくてはいけないが、それでも、抜け穴はある。そこの息子さんはプロの薬の売人なので、隣の堕落した父親を客にして、ドラッグを売るのである。海軍の父親はその様子を二階の窓から見ている。そして、窓からチラチラ見える様子から「あの二人は同性愛を楽しんでいるに違いない」という全くの桁外れな結論に達し、隣の家に忍び込み、隣の堕落した中年パパとキスするのだが、堕落した中年パパ「あ、あの、間違ってます。私は、そういうわけではないんです・・・・」というので、海軍さんは諦めて帰っていく。ここまでくると海軍さんの妻で、売人の息子の母のあの女性が頭がちょっとダメになってしまっている理由も分からなくもない。海軍さんの妻だけど、全然そういう行為がなくて、おかしくなってしまったのだ。そして社会的地位はあるから体面はと待たなくてはいけない。繰り返しになるが、それでおかしくなってしまったのだと思う。
で、このドラッグを売っている息子さんが、隣の娘さん、ようるすに堕落してしまった中年男に恋をして、二人は少しづつ心を近づけあい、やがて、ピュアな恋を互いに確認する。この映画の中で唯一美しい場面のようなものなのだ。二人は取り巻く環境がなにもかも嫌になってニューヨークへと向かう。売人だけに金はあるし、頼れる人もいるらしい。

さて、幾つかの人間の了解されなければならないところが出尽くしたある日、物語は瞬間に終わる。その日の午後、堕落した中年男はバーガー屋さんで働いていて、そこへ彼の妻と、彼女の不倫相手の男性がスポーツカーみたいなのでドライブスルーにやってくる。不倫発覚というわけである。全財産は奪われ、子どもには会えない….下手すれば人生これでおしまいである。信用大事の不動産を売り続けることができるかどうか…

その日の夜は忙しい。毎日筋トレをして自分を鍛えていた堕落した中年男はなかなか引き締まった肉体を手にしており、自分の娘のところに泊まりに来た、お目当てのスクールガールといい雰囲気になる。互いに欲望とメンツを満たすためだけの行為が行われようとしていたのだが、女性の方が「私、初めてなの。下手だと思われたくないから、先に伝えようと思って..」で、男は素に戻り、僕はとってもラッキーな男だと言い残して自室に入り込み、家族の写真とかを見て過ごす。あるいはこの男の更生の可能性を暗示する場面かも知れないのだが、銃を隠し持った妻によって頭を撃ち抜かれ人生を終える。妻は不倫を知られた以上、自分が文無しになって路上に放り出されても誰も助けてはくれないとの分かっているため、だったら夫を殺してしまえば、離婚の裁判が開かれたないと考え、刑事事件の裁判になることの恐ろしさまで気が回らなかったのだろうとしか考えることができない。といいつつ、もう少し突き詰めてみると、実は妻は主人公の夫を愛していたのかもしれない。夫とセックスレスになったことが諸悪の根源であり、夫ときちんと行為が行われていれば不倫することもなく、大抵の問題が解決していた可能性は残されるようにも思える。そうでなければ、夫を殺害した後で、クローゼットの夫の大量のスーツに抱き着いて泣く場面が入り込む理由がない。

以前はアメリカの中産階級の崩壊というところに注意を向けて見ていましたが、今回はもう少し、いろいろな人の愛の表現方法みたいなことを考える材料になると思い、書いてみました。



シャア・アズナブル論考⑥‐保身と虚栄のシャア‐サイド6を中心に

シャア・アズナブル論考も六回目になった。シャアは映画版での神格化が凄まじいため、ファンはついついシャアに理想を求めてしまいそうになるし、みればみるほどシャアが好きになる。私もそうだ。十代のころから何度となく繰り返しガンダムを見て、シャアのビッグファンになった。しかし、映画版とテレビ版ではシャアの在り方は全く違うし、真実のシャアのファンなら、やはりテレビ版の矛盾や卑小さを抱えているシャアをきちんと理解してこそよりその深みを味わえるというものではないかと思える。

さて、シャアは小心者であり、行動の動機は保身と虚栄に多くを負っている。テレビ版では特にそうだ。それは様々な場面で発揮されているが、今回は分かりやすくサイド6でのシャアに絞って論じたい。ドレン大尉のキャメルパトロール艦隊が全滅した後、シャアはホワイトベースとは距離を取りつつ追跡し、サイド6に入る。サイド6はララアが登場し、アムロとシャアが運命的な出会いを果たす場でもある。この辺りまではテレビ版とアニメ版は共通している。違っているのはシャアのビヘイビアーのようなものだ。一応、映画版の方がより流通しているだろうと勝手に判断して映画版の方を確認しておきたい。

映画版では、サイド6でわりと自由に過ごすシャアはコンスコン艦隊を見殺しにし、ララアに対するセリフもわりとクールで、自信に満ちた英雄的将校のイメージが相応しい感じになっている。いいところだけ切り抜かれたような感じだ。

しかしテレビ版ではシャアが矛盾に満ちており、保身と虚栄に飲み込まれた人物だということが、かなりはっきりと分かるように描かれている。たとえばサイド6に入港した後、シャアはサイド6の官僚カムランから様々な注意事項を直接口頭で伝達される。ホワイトベースのブライト艦長も同じことをされているのだが、ブライト艦長はひたすら低姿勢でカムランからの注意事項に同意する様子が描かれる。ブライトが常識的な人間であることが強調されていると言っていいだろう。一方で、シャアは「知ってる」「兵には言ってある」「ご苦労」とカムランに対しては完全に上から目線であり、注意事項に耳を傾けるのを面倒がる中学生みたいな態度に終始している。もちろん、その方が人間としてはおもしろいが、ここで描かれているのはシャアが文字通り成長しきれていない人物だということだ。更にララアにはデレデレであり、まるで初めて恋をした人物みたいだ。声のトーンが一オクターブ上がっており、やたらと優しい。映画版のクールさはない。池田秀一さんは冨野さんにシャアとララアの関係をきちんと問い合わせたうえで録音に臨んだそうなのだが、この声はそういったことをきっちり踏まえた上での声なのだ。映画版ではララアに対してもクールでかっこいいのだが、テレビ版にそのようなことの片鱗はうかがえない。サイド6とはいえ、仕事中に若い女にうつつをぬかす不真面目男がシャアなのである。

更にテレビ版ではコンスコンから説教される場面まである。映画版では考えられないことだが、コンスコンに呼び出されたシャアは言い返すことすらできず、沈黙してお小言に耐えるのである。若き将校のシャアと超ベテランのコンスコンの様子は、大企業の新入社員と部長の関係性の比喩であるとすら言うことができるかも知れない。コンスコンはシャアを一通り説教した後でホワイトベースにやられてしまうのだが、コンスコンの人生最後の言葉は「シャアが見ているのだぞ」だった。シャアに説教したかしなかったかで、コンスコンのこの一言の意味は微妙に違ってくる。映画版であれば、それは見栄っ張りなコンスコンがシャアに見られることによって見栄が更に刺激され、コンスコンは満たされぬ虚栄心とともに散ってゆくことになる。しかしテレビ版ではコンスコンはシャアに説教しているのである。しかもテレビ版の場合、シャアはわざわざザンジバルに乗って戦場を見物に来ている。さっき説教した相手が最期を見物に来たのだから、コンスコンの言葉は虚栄心によるものというよりも、シャアに説教しても何も通じなかったことへの無念さから来ているようにも見えるのだ。説教が通じていたなら、苦戦している味方を助けるだろうから。

ここで注意したいのだが、サイド6の国際法上の立場と、ジオン公国の実力との関係性をシャアが上手に利用しているということだ。サイド6でのシャアの振る舞いから分かることは、シャアはサイド6の法を全く尊重していないし、カムランのような官僚のこともバカにしているということだ。シャアはカムランに対して「だいたい、ジオンがサイド6を支援しているから、お前ら安全なんじゃねえか」という趣旨のことを言い放つ。一方で、コンスコン艦隊に対しては、サイド6が中立サイドであることを強調し、域内での戦闘をコンスコンにさせまいとやっきになる。コンスコン艦隊は文明人なのでサイド6の国際法上の立場を尊重し、域内での発砲は決してしないのだが、シャアはその様子を見て「ああ、よかった。もうちょっとで国際問題になるところだった」とかなり白々しいことを言う。シャアが法律をどうでもいいと思っていることはカムランに対する態度で明らかなのだから、シャアはここでは国際問題という大義名分を持ち出して、コンスコンの動きを抑制しようとしていると理解することができるだろう。なぜシャアがそんなことをするのかと言えば、ホワイトベースがまかり間違ってコンスコンに打ち取られたのでは自分がかっこ悪くて仕方がないからだ。テレビ版では宇宙に舞台がうつってから、シャアとマクベがキシリアの寵愛を得るための競争関係に陥っている様子が描かれるが、キシリアに対して自分の有能さを証明したいシャアとしては、ここでコンスコンにホワイトベースが打ち取られるようなことがあると、メンツが丸つぶれになってしまうのである。結果、シャアはコンスコンの戦争中の様子を高見の見物をして最終的に見殺しにしているのである。俺に説教したやつがやられやがったざまみろ。とすら思っていそうに見えるくらい、シャアが卑小な存在に見えてしまうのだが、その分、人間らしくもあるしおもしろい。考えようによっては、シャアはガルマを謀殺することによりドズルに追放され、キシリアのようなパワハラ上司にひろわれて汲々とし、コンスコンに説教されるのだから、友人を殺したつけを全力で支払うはめに陥ってしまったのだとも言えるだろう。部下のマリガンがドン引きするのも理解できるというものだ。そんなシャアにはセイラもドン引きなのだが、若さゆえの過ちとはそのようなものなのかも知れない。シャアのように半端に優秀なのが一番苦労なのである。

テレビ版のシャアと映画版のシャアの両方を理解してこそ、作品理解が深まり、より楽しめることができるだろう。




備考※ アイキャッチ画像は皇居を見学した際、休憩所で買ったガンダムコーヒーの缶の表面の絵です。知的財産権の観点から、敢えて缶全体を撮影せず、後ろの背景も入れ込むことにより、当該缶コーヒーは私の知的財産ではないこと、私が消費者として缶コーヒーを購入したことが分かるようにしています。