シンデレラはパーティーでどんな踊りを踊ったのですか?やっぱりワルツですか?

「シンデレラはパーティーでどんな踊りを踊ったのですか?やっぱりワルツですか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

思考実験的に述べます。シンデレラという物語の起源ははっきりしないため、分からないとしか言いようがありません。しかし、我々が知るシンデレラはグリム兄弟が整理してまとめたものあり、グリム兄弟がドイツの人だということを手掛かりに考えてみたのですが、ドイツ語圏で男女がともに躍る音楽にはレントラーとヴィエンナワルツがあるものの、グリム童話が成立した時期にはまだヴィエンナワルツは成立していません。とすれば、レントラー一択になります。レントラーは4分の3拍子の素朴な音調のダンス音楽ですが、これをワルツの前身と見るか、ワルツの一種と見るかで結論は変わることでしょう。



海外の映画などで見られる間違った日本の文化の解釈にはどんなものがありますか?

「海外の映画などで見られる間違った日本の文化の解釈にはどんなものがありますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

ドイツ人のアーノルド・ファンクという映画監督が撮影した『新しき土』という映画があるのですが、これは日本人の伊丹万作との二人監督ということで話題になりました。ドイツ語タイトルは『侍の娘』というもので、ファンクは最初からステレオタイプの日本イメージの映像を作る気まんまんだったようです。で、この映画では恋愛に敗れた原節子が自ら命を絶つために火山へ向かうという場面があります。侍=切腹であり、侍の娘というタイトルからも分かるように、侍の娘も恥辱を受ければ命を絶つとの前提があり、日本の温泉のイメージと結びついて火山で自殺という発想になったんだと思います。伊丹万作はこの設定にきれまくり、二人の監督は全く別々に映画を撮影しました。今、ネットで探せば、ファンク版は見つかるのではないかと思います。



ノンフィクション映画の最高傑作はどの作品だと思いますか?

「ノンフィクション映画の最高傑作はどの作品だと思いますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

フランス人の映画監督が日本の広域団体の組長に密着した『young yakuza』を推したいと思います。とあるお母さんが、息子がニートなので鍛えてやってほしいと熊谷組の組長さんに頼みます。で、息子は組の見習いみたいになるんですけど、息子が成長するのかというと全然しないんですね。息子は最終的には自分の時間がないという理由でバックレるわけなんですが、息子と一緒に行動しつつ、熊谷組長にもいろいろ話を聞くことで、広域団体の人達の日常とか、考え方とか、価値観とか、そういったものが分かる内容になっています。そういった人達の本音とかって確かに私たちは知りませんし、そもそも会話をすることすら普通はないと思います。私が子供のころは父親が半グレだったのでそういう人も家に来ましたけど、家が特殊なのであって、普通はやっぱり出会わないと思うんです。私も新聞記者を辞めてからはそういう人とは一切出会わなくなりました。そういうわけですから、どういう声のトーンで話すのかというようなところから始まって、組の存在意義とか、組長さんに生きがいみたいなものとかがだんだん分かってくるのは大変に興味深いです。表の顔と裏の顔があって、表の顔は気前良く撮影に応じるんですけど、裏の顔は決して見せないし、カメラの前で「これ以上は見せない」と言い切っている場面がありますから「あ、やっぱり裏はあるんだなあ」ということも想像できるわけです。熊谷組長が長身でハンサムなフォトジェニックな人なものですから、その世界がもしかしたら実はとても魅力的な世界なのではないかと、錯覚を起こしそうになります。話す内容も、街の人たちの治安を守るためとか、組員は家族同然、行き場のない人を救う場所、のような良いこと言うんですよね。

で、バックレた息子さんですけど、組の人には足取りが分からないままでしたから、多分、お母さんのところにも帰ってないんですけど、最後にカメラの前に現れます。で「自分の時間がなかったから」というようなことを言います。この一言からも、組の人たちの日常生活が想像できます。本当にいつも一緒にいて助け合って、何かが起きれば団結するイメージが喚起されます。たけしさんの映画でも組の人達が仲間同士ほんとうに仲良しですけど、あんな感じなんだろうなと言うのが伝わってくるんですね。私のように孤独を愛するタイプには無理かも知れない、とかいろいろ考えたりしました。時々、あの映画のことは思い出すんですけど、そもそもニートの息子さんを鍛えてもらおうと思って組に入れてしまうお母さんってどうなんだろうなと言う何とも言えないものがいつももやっと残るのですが…。

この映画はカンヌにも特別招待されて、組長さんもカンヌに招待されたことで話題になりました。



全人類が突然あと一年で死滅するとわかったら、人類はどのような行動に出ると思いますか?

「全人類が突然あと一年で死滅するとわかったら、人類はどのような行動に出ると思いますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

『渚にて』というSF小説では、放射能汚染により人類が次第に死に絶える中、最後に残ったオーストラリアの人々が静かに滅びの日を待ちます。もちろん、そうではない、不心得な人がいることも示唆されますが、主たる登場人物が最後の瞬間まで文明人として自律的・倫理的な振る舞いを保ちます。私もそうありたいと思いますし、本当に死滅すると分かると何に手を付けていいのかもわからなくなってしまいますから、多くの人もそんな感じになるのではないでしょうか。



ランチェスター戦略を日本文化を海外に紹介するYouTuberに応用するとしたら、どうしたら良いですか?理論は分かっても、実際に当てはめる部分が出来ず困っています。

「ランチェスター戦略を日本文化を海外に紹介するYouTuberに応用するとしたら、どうしたら良いですか?理論は分かっても、実際に当てはめる部分が出来ず困っています。」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

私、ざっくりとしたことしか知らないんですけど、仮にランチェスター戦略なるものの肝が、たとえ弱者であっても狭い範囲の勝てる領域で勝とう。というものであるとすれば、日本文化に興味のある人々が多そうな地域に絞り、その地域の人たちに気づいてもらえるような動画づくりということになるのではないかと思います。パッと思いつくのは台湾ですが、韓国の人々の日本への関心も並々ならぬものがあります。あと、日本人移民の多いハワイ、ブラジル、カリフォルニアでしょうか。英語なり韓国語なり中国語なりの字幕をつけるとか、そういった国や地域の人を雇ってナビゲーターにするとかなら可能と思います。仮にテーマで絞るのであれば、アニメ、漫画、ゲーム、寿司、忍者あたりに焦点を絞り込むということでしょうかね。



海外の映画などで見られる間違った日本の文化の解釈にはどんなものがありますか?

「海外の映画などで見られる間違った日本の文化の解釈にはどんなものがありますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

ドイツ人のアーノルド・ファンクという映画監督が撮影した『新しき土』という映画があるのですが、これは日本人の伊丹万作との二人監督ということで話題になりました。ドイツ語タイトルは『侍の娘』というもので、ファンクは最初からステレオタイプの日本イメージの映像を作る気まんまんだったようです。で、この映画では恋愛に敗れた原節子が自ら命を絶つために火山へ向かうという場面があります。侍=切腹であり、侍の娘というタイトルからも分かるように、侍の娘も恥辱を受ければ命を絶つとの前提があり、日本の温泉のイメージと結びついて火山で自殺という発想になったんだと思います。伊丹万作はこの設定にきれまくり、二人の監督は全く別々に映画を撮影しました。今、ネットで探せば、ファンク版は見つかるのではないかと思います。



【ゴッドファーザー】マイケルコルレオーネの性格分析【アメリカ映画】

今回はフランシス・フォード・コッポラ監督が制作した、もしかしたら世界で最も有名なアメリカ映画かも知れない、映画『ゴッドファーザー』の、マイケルコルレオーネがどんな性格で、何を考えて残酷な殺人事件を起こしたり、或いはそういう命令を出したりしていたかについて、ちょっと考えてみたいと思います。

この映画の冒頭は、マイケルの妹のコニーの結婚式から始まります。主たる登場人物が一同に会する名場面ですが、ここにいる人達の中で、果たして何人殺されるでしょうという謎かけみたいな効果を持つ画面でもあります。一度目の鑑賞ではそこまで考えることはできませんけれど、何度も見れば、あ、このおじさん、後で死ぬ人だ。とかだんだんわかってきますから、そういうことに気づいてくれよと監督は求めているんだと思います。

ニューヨークのイタリアマフィアの結婚式がボスでマイケルの父親であるドン・ビトー・コルレオーネの巨大な邸宅で行われているわけですから、邸宅の外には警察の車両が監視目的で張り込みをしており、新聞記者も来ているというわけで、家の外はアメリカ・ニューヨークであり、家の中はスモールイタリーみたいになっていることが、結婚式で歌われている歌とか、みんなの様子から分かる、みんな楽しそうだけれど、実は異文化が直接退対峙するような、緊張感のあるシーンなわけですね。

で、そこにアメリカ海軍の軍服を着たマイケルが恋人を連れてやってきます。マイケルもビトー・コルレオーネの三男ですから、正真正銘イタリア系アメリカ人なわけですが、軍服を着て登場したという事実は、彼がイタリア系ということよりも、普通のアメリカ市民であるということを自分のアイデンティティとして意識しているということが分かります。アメリカは退役軍人を非常に大事にするわけですが、マイケルも自分は退役軍人だということを制服で無言で語っているわけですね。1945年の夏という設定になっていますから、マイケルはおそらく太平洋で日本軍と戦って帰ってきた英雄であるわけです。マイケルは次第に実におっさんくさいマフィアのボスへと変貌していきますし、アメリカ人である前にイタリア系みたいな雰囲気になっていくんですけど、この段階では、まだそういう雰囲気ではありません。

マイケルには兄が二人いますから、マイケルがマフィアを継承するなんて誰も考えてないし、イタリア系じゃない恋人を堂々と連れてくるあたりに、マイケル自身もそんな生き方を選ぶつもりはないということが表現されていると言っていいと思います。

さて、当時ニューヨークでめっちゃ恐れられた、マーロン・ブランドが演じているビトー・コルレオーネなわけですが、そこに盾突く男が現れます。ソロッツオという男で、他のマフィアの大ボスみたいなのも味方につけているだけじゃなく、ニューヨーク市警の警部まで抱き込んでいるという一筋縄ではいかない男です。ソロッツオはビトー・コルレオーネに対し、ニューヨークでドラッグを売りたいから協力してほしいともちかけるのですが、ビトー・コルレオーネは断ります。コルレオーネ・ファミリーはカジノビジネスをシノギにしているのですが、カジノはいわばお金持ちの遊びみたいなものなのに対し、ドラッグは貧乏人に売りつけて廃人にするという悪魔の商品ですから、そんなのは協力しねえというわけです。

そしてしばらくの地に、ビトー・コルレオーネは銃撃を受け、死んだかと思いきや命は助かって入院します。マイケルが病院にかけつけるのですが、父親に護衛がついていないということに気づき、まあ、必死で自分が守ろうとするんですね。そうやってがんばっているときに、ソロッツオに抱き込まれた警部が現場にやってきて、てめーこのやろー邪魔なんだよみたいな話になって、マイケルの頬っぺたの骨が折れるほど酷く殴ります。

続いて、ソロッツオからコルレオーネ・ファミリーに連絡が来るんですけど、このまま互いに殺し合ってもよくないから、話し合いたい、マイケルを代表者にしてよこしてほしいと言ってきます。

マイケルはマフィアの仕事とはかかわっていない素人で、若いおぼっちゃんですから、幾らでも丸め込めると思ったのかも知れません。コルレオーネ側では、なめんなこのやろーといきりたつんですが、マイケルが「じゃ、僕がやつらを殺す」言うんですね。みんな、一瞬爆笑するんですけど、状況的にマイケルならやつらを殺せると気づき、みんなの表情が本気になっていきます。

本来、マフィアの仕事から距離を置いていた、真面目なアメリカ市民であるはずのマイケルが、どうして殺人を請け負おうというくらいに心境が変化したのだろうかと言えば、警部に思いっきり殴られたんで、やっぱり頭に来ているわけですよね。

この映画のおもしろいところは、マイケルという素朴で真面目なアメリカ市民が、イタリアマフィアの大ボスとして存分に腕を振るうようになるまでの変貌ぶりがしっかり描かれているところなんですけど、イメージとしてはアメリカで育ったものの、イタリアン・マフィアのDNAがマイケルにとってはもっと優勢になっていて、血は水よりも濃いというか、マイケルも本当はそんなのは嫌だと思っているのに、気づくとどんどんマフィアぽくなっていくというところがさらに見せ場みたいな感じなわけですね。
で、マイケルは指定されたレストランでソロッツオと警部との三人で会うことになります。レストランを指定された直後にコルレオーネ・ファミリーの関係者がレストランおトイレのタンクの裏に殺人用の銃をガムテープではりつけに行ったはずですから、マイケルはタイミングを見計らってトイレに行き、銃をとってきてためらわずに二人を撃ち殺し、銃を現場に捨てて立ち去るという筋書きが想定されていました。

しかしマイケルはすぐにはトイレに行かないんですね。マイケルはソロッツオと話し合おうとします。この時の彼の本音としては、できればソロッツオと和解のための話し合いが成立すればいいのにと思っているらしいんです。ここはマイケルの独断なんですけど、彼の出した条件は、父親の身の安全を保障するというものでした。ソロッツオの答えは「俺にそんなことが約束できるわけがない。俺はそんなに偉くないんだ」というものでした。要するにマイケルの父親のビトー・コルレオーネの安全は約束されない、ソロッツオは本音では今後も父親の命を狙い続けるつもりらしいということが分かります。もしソロッツオが「分かった。お父さんには手を出さない」と返答してくれれば、マイケルはこのまま話し合いをまとめて帰ったかも知れません。マイケルの目が泳ぎ始めます。表情に不安が浮き上がってきます。ソロッツオが父親を狙わないと約束しないので、この段階で彼はソロッツオと警部を殺害する決心を固めたと言えます。つまりマイケルは血気盛んで敵は殺せ!とか思うタイプじゃなくて、慎重に慎重に考え抜いて、どうしてもそれ以外の選択肢がないと判断してから、人を殺すというタイプなんですね。マイケルの心の叫びみたいなのが聞こえてくるとすれば、本当はこんな結末を望んではいなかったのに..。というようなものだと思います。

で、彼はイタリアに逃亡し、何年も逃亡生活を送ります。ニューヨークには恋人が待っているのに、シシリー島の美しい女性と恋に落ち、結婚してしまいます。マイケルのニューヨークの恋人はダイアン・キートンが演じてるんですけど、彼女は教養のある、ちゃんと教育を受けた、まっとうなアメリカ市民という感じの雰囲気なんですね。でもマイケルは、その恋人よりも、シシリー島の田舎娘だけれど、情熱的な本能のレベルで男性の心を刺激する女性に惹かれてしまったわけです。要するにマイケルのイタリア系としてのDNAが刺激されてしまったと説明できる場面ですし、或いはこの時、イタリア人女性と結ばれてしまった彼はアメリカ人であるよりもイタリア系として生きることを、知らずに選択してしまったということなのかも知れません。

結局、イタリアの美しい若奥様は、マイケルの代わりに殺されてしまいます。ニューヨークでマフィアの手打ちが行われ、マイケルはアメリカに帰ってくるし、ダイアン・キートンと理想的な家庭を築こうと努力するんですけど、彼女はマイケルの手が血で汚れていることにうすうす気づいていて、しかもマイケルがアメリカ人というよりイタリア人の雰囲気がどんどん強くなっていくので、違和感をぬぐえなくなっていってしまいます。
で、マイケルの性格を表すもう一つの殺人事件が、映画の終盤で描かれます。マイケルの上の兄のソニーはマフィア同士の抗争で殺されてしまい、下の兄のフレードは頭がちょっと悪すぎるのでマフィアのボスは無理だったものですから、マイケルがマフィアを継承します。で、父親のビトー・コルレオーネが亡くなったタイミングで、敵のマフィアに潰される前に、まとめて敵を皆殺しにするわけです。ゴッドファーザー的解決という表現を読んだことがありますけど、要するにまとめてやっちまうことをそう呼ぶようです。

ただ、これで終わりではありませんでした。マイケルは兄のソニーがなぜ殺されたのかを多分、かなり前から調べていて、どうやら妹のコニーの旦那のカルロが裏切っていたらしいということに気づきます。というのも、カルロ、コニーにDVはするは、浮気はするは、最低男の見本みたいなやつなんですが、コニーが兄のソニーに電話して「助けて!」と言ったところ、ソニーはボディガードもつけずに飛び出して行って、機関銃でハチの巣にされてしまったという経緯があったからなんですね。つまりシチュエーション的に、カルロがわざとコニーを殴り、ソニーをおびき出したと読みとることができるというわけです。

で、ですよ、マイケルはカルロに告げるんですね。「バルツイーニとかタッタリアとか、お前が裏でつながっていたであろう、敵対するマフィアのボスはまとめて死んだ」と。カルロは驚愕します。全部バレてると気づくわけですね。マイケルは「カルロ、お前は妹のコニーの夫じゃないか、私がお前を殺すと思うか?」と悪魔のささやきみたいなことを言います。「さあカルロ、お前をそそのかしたのは誰だ?バルツイーニか?タッタリアか?私に嘘をつくな。嘘は相手を侮辱している」とたたみかけてくるわけですね。カルロは「バルツイーニ」と力なく小さな声で言います。カルロ本人による裏切りの告白というわけです。こうしてカルロは殺されることになってしまいました。ここで注目したいのは、マイケルはぎりぎり最後までカルロにチャンスを与えてることなんですね。もしカルロが白を切りとおすのなら、それを信じてもいい、ある種の男に二言はないみたいな、日本風に言えば武士に二言はないみたいな価値観だと思うんですけど、マイケルはカルロに対して、最後は自分で運命を選べるようにしたわけです。で、カルロが甘い男なので、自白してもゆるしてもらえると勘違いして、しゃべっちゃったと。言うわけですね。

最初の事件と、このカルロの事件に共通しているのは、できればぎりぎり最後まで、マイケルとしては命を助ける可能性を残そうとしたことです。でも、相手がそっちを選んでくれない。だからやむを得ず殺したということになってですね、マイケルは自分では望んでないのに、血を流すことになってしまうという苦しみを味わうことになります。

ゴッドファーザーパート2になると、下の兄のフレードがマイケルを裏切っていたことがバレて最後に殺されます。で、パート3では、マイケルがそのことをひたすら後悔し続けてきたことが分かるという流れになっています。マイケルは号泣しつつというか、慟哭しながらフレードの殺害を命じたことを懺悔します。いかにそのことで彼が苦しみ続けて来たかが分かる、いい場面というか、ぐっとくる場面ではあるんですけど、本当は血を流したくないのに、そうならざるを得ないということで苦しみ続けて来た、マイケルの人生には同情すべき点も多いと思います。で、感情にまかせずに、最後の最後まで、相手を殺さずにすむ可能性を探ろうとするあたりに、マイケルがアメリカという市民社会の法をきわめて重視する社会に属する人間であるということを見て取ることができるわけです。ただし、本当に殺したくないと思えば、それでも殺さないと言う究極のゆるしを与える天使のマイケルになれる可能性もあったわけですけど、自分の頭の中で設定した条件を相手が満たすと迷わずやっちゃうという辺りに、マイケルの弱さもあるということなのかも知れません。




『シン・エヴァンゲリオン劇場版』について語って頂けませんか?

「『シン・エヴァンゲリオン劇場版』について語って頂けませんか?」というquoraでの質問に対する私の回答です。

私ねえ、はっきり言って、今さらどうでもいいと思ってたんですけど、今日、思い立って、みにいったんですよ。そしたらですね、良かったですよ。今までの全てのもやもやを晴らす決心が制作者にあったんだなということも分かりますし、これからしっかり生きろよっていう観客へのメッセージもねえ、感じることができたんですよ。エヴァって私みたいな中二病の人が大好きな作品ってイメージ強いですけど、今回の作品をみると、ああ、成長しろよってことなんだな。大人になるって素敵なことだよと、庵野さんが私たちに言ってくれたんだと思うんですよね。中二病のままだと岡田斗司夫に金を吸い取られるだけだから、リアルな女とデートしろよ。みたいな。



源氏物語と摂関政治

平安時代、天皇が直接政治に関わって意思決定をする時代は終わり、代わりに藤原氏による摂関政治が通常運用されていくようになります。

藤原氏による摂関政治がどういうものかをなるべく手短に述べてみたいのですが、まず天皇の皇后を必ず藤原氏の女性にします。で、皇后が生んだ男子を次の天皇に即位させます。そうすると、皇后の実家の藤原氏のお父さんは、天皇の母方の祖父という立場になります。ですから、眷属という観点から言えば、この藤原氏のおじいちゃんは天皇よりも立場が上になります。ですので、天皇が幼少の間はこのおじいちゃんが摂政として天皇の代わりに政治を行うわけです。摂政は天皇代理ですね。で、天皇がだんだん成長して大きくなってくると、摂政は必要ありません。天皇は大人になったらなんでも自分でできるからです。ですから、建前上、摂政は終了します。代わりに関白が天皇の代わりに政治をします。関白の場合は、天皇代理ではなく、天皇に対して政治の責任を負うという感じですね。戦前の内閣が天皇に対して責任を負っていたのとイメージとしては近いと思います。建前としては、天皇は素晴らしいので、摂政に頼らなくていいんだけれど、政治のような汚れ仕事は関白がやりますから、どうか帝は毎日楽しく過ごしてくださいという感じでしょうかね。誰が関白をやるかというと、天皇の母方の祖父として摂政をしていた人が引き続き関白をやります。メンバーは同じなんですね。要するに形式を整えて藤原氏が政治権力を完全に握り、天皇は実権を失っていきます。とはいえ、これで両者が持ちつ持たれつ、うまくやっていたのが摂関政治とも言えるでしょう。天皇家に政治の実権を奪い返そうとしたのが白河上皇による院政の開始ということになりますが、これまた次回以降になると思います。で、このシステムが機能し続ける限り、天皇の母親は必ず藤原氏の摂関家の人でなくてはいけませんでしたから、逆に言うと天皇の息子でも、お母さんが藤原摂関家の人でなければ用済みというか、生きていると逆に命を狙われるかも知れないので一休さんみたいに早々に出家したりするということになるんですね。

さて、この摂関政治の最盛期がいつかと言えば、非常に有名ですけれど、藤原道長の時代だったわけです。ただし、道長自身はもともと藤原摂関家のトップだったわけではないんですね。藤原摂関家のトップを氏の長者と言ったりしますけれど、道長にはお兄さんがいました。で、このお兄さんが道隆という人なんですが、お酒が大好きな人で、関白まで上り詰めるものの、糖尿病で死んでしまいます。で、道長にチャンス到来というわけです。おそらくはあちこちに賄賂も送って様々な工作に明け暮れたと思うのですが、兄道隆の息子が藤原氏の氏長者になることを阻止することに政治生命をかけて成功し、自分が氏長者になることを一条天皇に認めてもらいます。道長は権力強化のために、自分の娘彰子を一条天皇の皇后にします。実はこれはかなり強硬策だったのです。というのも、一条天皇には既に、藤原道隆の娘の藤原定子という女性を皇后にしていたんです。天皇は権力者ですから側室を複数持つことは問題なかったんですが、皇后二人は一条天皇以前にはありませんでした。つまり初めてのことでした。皇后は天皇の正妻さんなわけですが、一条天皇には正妻が二人いたわけです。清朝最後の皇帝だった溥儀には第一夫人と第二夫人がいたのは、ラストエンペラーという映画でも描かれていますが、溥儀の正式な妻は飽くまでも第一夫人だけであって、第二夫人とはランクが違っていました。それくらい正式な妻は一人というのが近代以前の東洋でも普通な概念なわけですが、一条天皇には同格の皇后が二人いたわけです。その異例ぶりをご理解いただけますでしょうか。

そして、道長の娘の彰子の家庭教師になったのが、源氏物語を書いた紫式部というわけですね。ちなみに、ライバルの皇后である定子の家庭教師が清少納言です。時々、おもしろがって紫式部vs清少納言みたいな語られ方をすることがありますが、世代的には清少納言の方が若干上で、両者は面識はなかったみたいです。紫式部は清少納言をライバル視していたみたいですが、清少納言からすれば自分の引退後に紫式部が出てきたみたいな感じなので、どうでもよかったんじゃないですかね。

紫式部は宮中に仕えながら源氏物語を書いたわけですが、これが平安貴族の間で大ヒットし、紫式部は一挙にスターみたいになったそうです。一条天皇も源氏物語を愛読していて、紫式部の生徒である彰子とは、源氏物語が共通の話題になり、そのおかげで仲良しになったみたいなイメージでとらえられているみたいです。

源氏物語を真面目に読めば気づきますが、主人公の光源氏ってキャラクター的には結構、テキトーなんですね。光源氏が政治の世界でどうやって生き延びていくかとか、そういった男性目線からの切実な内容は省略されています。光源氏は出世も失脚も復活もするんですが、細かいことは書かれていません。紫式部にとって、そんなことはどうでもいいからです。顔はいいけど、中身は最低というキャラクターで、紫式部は意識してそんな風に書いています。なぜかというと、紫式部はあちこちの女と遊ぶ悪い男のために涙する女たちの姿を描きたかったからだと私は理解しています。光源氏がものにしていく女性たちのプロフィールや心情、容姿などに関するディテールの細かいこと。具体的で、リアリティがあり、平安時代の貴族の生活が分かるだけでなく、心情ということに関しては、現代でも多くの女性の共感を得られるものになっていると言っていいのではないかと思います。

光源氏のモデルは藤原道長なのではないかという説もあるみたいなんですが、はっきり言ってどうでもいいですよね。仮に光源氏のモデルが道長であったとしても、紫式部は道長を描きたかったわけではないからです。

そういうわけで、藤原道長の摂関政治全盛期に誕生した源氏物語について今回は述べましたが、先に述べましたように、平安後期から末期にかけて、上皇による院政が行われ、摂関政治は衰退していきます。それについてはまた次回やりたいと思います。