幸若舞継承者の子孫のお稽古場を訪問させていただいたら、日本史への理解がぐっと深まる経験になった。

評論家活動をしている友人が都内某所の日本舞踊教室へ行くというので、一緒に伺わせていただくことになった。その友人は仕事の一環としてそちらへよく行くそうなのだが、私は完全に役に立たない立場でただの見学者でしかなく、本当に一緒に行っていいのかやや不安だったが、せっかくなので行かせていただくことにした。そしてそれは非常に貴重な経験になった。

幸若舞のお師匠の先生の名前は幸若知加子先生とおっしゃるお方で、その名の通り、歴史ある幸若舞継承者の子孫の方なのだが、普段は若柳恵華先生というお名前でご活躍されているのだという。で、どうしてお名前が2つあるのかという疑問にぶち当たるのだが、まずはその理由を説明するところから、由緒ある幸若舞と日本の歴史の深い関係について述べてみたい。この記事は先生からたくさんの聞かせていただいたお話を基礎として私なりの解釈を加えたものになるため、もし間違っていて、関係される方からご指摘を受ければ内容は訂正したいと思う。

先生にどうして2つお名前があるのかということなのだが、幸若舞はかつて江戸幕府の音曲役として支援を受けて発展していたものの、明治維新になると支援が受けられなくなり、おそらくは新政府から迫害される恐れもあったため、幸若舞の看板は一旦下ろし、表向きは普通の日本舞踊のお師匠様として活躍しつつ、信用できる人たちの間だけで密かに幸若舞が継承されることになったということなのだった。まさに秘伝の舞である。なので先生にも表のお名前と幸若舞の正当な継承者としてのお名前の2つがあるというわけだ。

ここで疑問に思うのは、なぜ江戸幕府が幸若舞を支援していたのかということなのだが、それが、徳川家康の父親が幸若舞の担い手だったというのである。徳川家康の父親といえば松平広忠だが、この人物が幸若舞を担い、家康の腹違いの兄弟が継承していったと言う。つまり徳川将軍家と幸若舞の家元のお師匠様は親戚筋ということになり、幕府の支援・保護を受けていたとしても納得できることではあるのだ。ここで、私はふと、あるところで「徳川家康は源氏の子孫ではなく、家康の実家の松平氏はそもそも猿楽師をしていた」という話を聞いたのを思い出した。もしその人が幸若舞のことをあまりよく知らず、「猿楽のようなもの」という認識だったのだとすれば、幸若知加子先生からおうかがいしたお話と、以前、私がよそで聞いたことのある話は一致する。

長々と沿革を書いてしまっているが、ここからさらに幸若舞の本質に踏み込んでみたい。幸若舞とは天皇家とも関係の深い陰陽道の思想を継承する舞であり、能の源流であり、もしかすると雅楽とも関係のある実に古い踊りであって、北極星・北斗七星をメタファーにした足の動きをするのが特徴で、独特の摺り足をしたりドンと舞台を踏んだりするとのことで、それはお相撲のしこにも通じるものがあるのだということだった。日本で最初にお相撲をとったのは野見宿禰であると日本書紀に書かれているが、であるとすると、幸若舞は日本書紀以前の時代にまでそのルーツを遡って求めることができるということになる。摺り足は空手のような日本武術の基本的な動きであり、時代劇でもうまい人はきちんと摺り足を使って殺陣をするのだから、私はそのとき、日本の伝統芸術の基本中の基本の足の動きを宗家のお師匠様に教えていただいているということになっていたのである。源氏物語からアダプテーションした『葵上』という能の演目では、六条御息所が生霊となって現われて舞台をドンと踏み込んで音を響かせるが、これも源流は同じであろう。北極星は道教で天皇大帝とも呼ぶので、日本の天皇という称号の源流である可能性が極めて高いと思うのだが、それを表現する足の動きを幸若舞が継承しているのだとすれば、ここは完全に私の推測になるのだが、幸若舞は天皇家のための呪術を担っていた可能性が高いのではないだろうかと思えた。陰陽道は遅くとも天武・持統の時代には確立されていたため、幸若舞は飛鳥時代にまで遡ることができるということなのだ。

さて、私の脳裏に、陰陽道と関わりがあり、かつ徳川家康とも関わりのある人物の名前が頭にふと浮かんだ。織田信長である。信長は本能寺で自害する前に「敦盛」を舞ったことで知られていて、これは当時、本能寺から生き延びた女性たちの証言が残っているため、まず間違いなく「敦盛」を舞ったに違いないのだが、この「敦盛」は幸若舞なのだという。で、故竹内睦泰氏が語ったところによると織田氏は忌部氏の子孫であり、忌部氏とは中臣氏などとともに朝廷の祭祀を担当した家柄であるため、当然、陰陽道とも関わりがあることになる。だとすれば、織田信長は忌部氏の子孫であり、陰陽道に関する知識も豊富であったということになり、陰陽道の精神を継承する幸若舞とも深くつながっていたのだから、人生の最期に幸若舞のレパートリーである「敦盛」を舞ったということは納得できるのだ。信長と家康は今川義元を殺した後で清州同盟を結ぶことになるのだが、そもそも信長が忌部氏から続く陰陽道の継承者で、松平氏が幸若舞の継承者であったとすれば、今川義元がいなくなった後の時代の東海地方で両者が同盟を結ぶのはごく自然なことであるとも言えるだろう。私の完全な妄想だが、もしかすると信長と家康は幸若舞の人脈を通じて以前から密かに連絡を取り合って居り、桶狭間の戦いで今川義元が殺されたのも、今川の武将として戦いに参加していた家康が信長に協力していたからではなかろうか…などと私は妄想してしまった。だとすると幸若舞はギルドのネットワークみたいな感じで影響力を持っていたかも知れないのである。

以上までに述べたことが全て本当だと仮定した場合、これまでとは日本史に関して見えてくる景色が違ってくる。日本史に関わる理解もいろいろと変更されなくてはならなくなるかも知れない。実際、長い日本の歴史を通じて構築された複雑な人間関係・血脈・宗教的つながり、芸術的つながりなど、複数のルートで人はつながっていて、教科書に書かれている歴史はそのほんの上澄みをなぞっているに過ぎないに違いなく、いろいろと探れば関係者だけが密かに継承している歴史・事象・伝承などがたくさんあるに違いないと私は思ったのだった。

幸若知加子先生は、東京コレクションで「敦盛」を舞った時の動画を見せてくださったのだが、その時の先生が謳った「人生五十年」は軽やかな歌声でありながら、少し物悲しい、うまく表現できないが小さな女の子が「通りゃんせ」を歌っているような印象のものだった。数多のドラマや映画で信長が敦盛を舞うシーンが入れ込まれて来たが、どれも気合の入った野太い声の「敦盛」が多く、幸若知加子先生の動画の歌声とは全然印象が違う。人生の最期にあの信長が舞ったのだから、より迫力が出るように演出に力が入ったのだとは思うが、信長の肖像画を見れば、かなり繊細な性格であったことが想像できる。実際には幸若知加子先生の舞のように、もっと軽やかで、悲しげで、品性を感じる舞いだったのかも知れない。



ガンダムに出てきたデキン公王のギレン総帥へのヒトラーの尻尾と揶揄したセリフのヒトラーの尻尾とはどのような意味合いだったのでしょうか?

ギレンはデギン公王に対し「私とてジオン・ダイクンの革命に参加した者です」と述べています。ギレンは新時代を築く側の人間であると自負していることがその一言で分かるわけですが、ヒトラーが自らの原点をドイツ革命に見出している点に於いて両者は共通しています。そして優生思想を信じ劣等と判定した人々を抹殺すると決心している点でも共通しています。しかしヒトラーが時間軸的に先でありギレンはその真似をしているに過ぎない。即ち頭ではなく尻尾の方であるということではないでしょうか。私としてはデギンが「ヒトラーは身内に殺されたのだぞ」と述べているのがひっかかります。その言葉はギレンの運命を予言してはいますが実際のヒトラーは自殺しているからです。デギンにはそのギレンに殺される運命が待っていますから、これがアニメじゃなかったら忌まわしさにぞっとしますね。



昔名作と評判だった映画「戦場のメリークリスマス」をアマプラで見ました。わたしには作品の素晴らしさが全く理解できなかったのですが、勉強不足な点があればご教示くださいませんでしょうか?

私は戦場のメリークリスマスが好きなんですけど、考えてみるとなぜ好きなのか説明できないなあと思いました。で、ちょっと考えてみたんですね。主題は確かにどうということはなさそうな気もします。じゃ、何がいいのかなと。

1つには、坂本龍一さんの音楽が良すぎるので、実際以上にドラマチックに感動的に感じられるという仕掛けになっているということはあると思います。ですが、音楽も映画の一部ですから、それはそれで演出の勝利ではないかなとも思います。

次にカメラワークもあるかなと。たとえば最初の方でたけしさんがローレンスを呼び出してジャングルの中を歩く場面がありますけど、ロングショットの長回しで彼らの歩いている姿を撮影しているんですが、背景はジャングルですから、ずいぶんと遠いところなんだなとも思うのですが、同時に、こんな遠いところでも人間の考えることや感じることは同じなんだなというような不思議な心境にさせられるんですね。で、それだけだと大したことは表現してないんですけど、坂本龍一さんの音楽が流れてますから、凄い場面みたいに思えてしまうんじゃないかなと。

それから、たけしさん(原軍曹)の演技ですよね。実直そうな表情で、この人はきっと心がきれいなのに違いないという印象を与えます。ローレンスに対して時々見せる人間愛。ローレンスは敵の将校で捕虜なのに、原軍曹は昔から親しい友人であったかのように時に本音を語るんですね。

次に簡単に触れますけど、デビッドボウイのかっこよさもあるでしょう。

それから、物語の良さとして登場人物たちの成長というのがあるんじゃないかなと思います。一番わかりやすいのは原軍曹です。彼は死刑の執行を待つ身でありながら英語を学ぶんですね。それだけでも心境の変化を想像すると感動できるというか、原軍曹は死ぬ前に敵のことをよく理解しようと思ったんだなと思うと、ちょっと泣けてくる気がするんです。で、ローレンスが会いに来るわけですが、原軍曹は非常に礼儀正しいわけです。あの捕虜を殴りまくっていた下士官と同じとはとても思えないような穏やかな表情と洗練された身のこなしを観客は見せられることになるわけですけど、当然、果たしてこの人は本当に死刑にされなければならないのだろうか?との疑問も抱かせる演出になっていると思います。ローレンスは「もし私に決められるのなら、あなた方を今すぐ解放し、家族のもとへ帰す」と言うのですが、これもまた、捕虜収容所で殺されたかけて経験を持つローレンスが、敵に赦しを与えるいい場面ではないかなと思います。赦しは人間的成長の一つの証であると私は思います。で、坂本龍一さんのヨノイ大尉ですけど、彼は地中に顔だけ出して埋められて死を待つジャック・セリアズに敬礼し彼の髪を切り取ることで、愛を表現します。それまで捕虜収容所長としての威厳を用いて恫喝する形でしか愛を表現できなかった人が、ようやく穏やかに自分らしいやり方で愛を表現できるようになったという場面なわけですね。

最後に、日本人と白人が対等に渡り合うという点で、世界史・国際社会という観点から重要な作品ではないかなとも思います。この作品は間違いなく『戦場にかける橋』に影響されていますが、あの映画では男同士がぶつかり合い、意地を張り合い、認め合うということを日本人と白人がやり合うわけですね。これは人種差別の克服という観点から言っても我々が気に留めておくべき主題ではあると思うんですね。大島渚さんは更に同性愛という要素を入れて『戦場のメリークリスマス』を作ったとことで、もうちょっとウエットな作品になったと言えると思います。

ウエットが良いのか悪いのかという論点はあり得ますが、より深く観客に刻印される映画になったのではないかと思います。私は同性愛者ではないですが、恋愛感情を抱いてしまった時にどう振る舞うかというのは人類共通のテーマなんだなというようなことも思います。

というわけで長くなりましたが、気づくとあの映画がどんなにいい映画なのかを語るご回答になってしまいましたが、多少なりともご納得いただければご回答したかいがあったかなと思います。



映画「ノルウェーの森」を観た人に質問です。アマゾンのレビューでは、小説を読んだ人もそうでない人も酷評が多いように思います。あなたは観てどう思いましたか?

ノルウェーの森という小説は、そもそもかなりグロテスクな気持ちの悪い作品だと思うのですが、以前の日本人にはそういった表現を受け入れる余裕のようなものがあったと思うのです。人の心の中にある、非常にしんどい、一歩間違えれば死に足を踏み入れてしまいそうな危うい繊細さを村上春樹さんは描こうとしたのではないかなと思うのですが、世の中にはそういった正解のないこと、考えれば考えるほどわからなくなってきて疲れてしまうようなことに小説を読むことで向き合ってみるだけの余裕があつたから、いろいろな意味でノルウェーの森は成立したのではないかと思います。

今はそういったグレーなものを存在させる余裕や遊びのようなものがないような気がします。例えば吉野家の常務さんがかなり酷い失言をしましたけど、20世紀であれば、あの人は口が悪いね、くらいで終わったかも知れないんじゃないかなと思うんです。しかし今は通信技術が発達していますからオンラインで拡散し国民的に批判するのが普通の状況になってきたということもあるし、グレーなものがなくて、正しいか正しくないのか〇か×かということに焦点が合わされていて×なら即退場が今のスタンダードになっていると思うのです。

このような時代に、ノルウェーの森のように、死んだ親友の恋人で精神疾患に苦しんでいる女性と関係を持っていながら、彼女が施設に入っている間もせっせとナンパに励み、直子がいなくなつたからミドリを本命にしようかなと思って電話する主人公は当然アウトなわけです。女性をモノとしか見れてないから、直子と関係を持ちつつナンパに励むわけで、そのような作品は存在するだけで多くの人を不快にするはずですから表現の自由があるとは言え、社会的な評価なども含めて考えてみるとやはり成立しないと言うことだと思います。

主人公はミドリに「で、あなたは今どこにいるの?」という深くて鋭い質問を受け、公衆電話という世界の中心にいながら、それをうまく答えられないままに物語が終わりますから、これこそそんな風に生きてしまう悲しい男がいて、そいつは大学生のころからそうなんだという話を書こうとしたんだと思うんですけど、現代的に言えば、そんな酷いやつが主人公なのがもう非常に気持ち悪いということになるのではないかなと。

で、映画なんですけど、監督はタイ人の人だったと思いますけど、原作の雰囲気をとても大切にしていて、作品の持つグロテスクさも繊細さも再現しようとしていると私は思ったんですが、原作が時代遅れなので、結果として映画も時代言うことだと遅れなものになったと思います。

村上作品は世界中で売れましたけど、欧米では廃退的なデカダンス小説として消費されていようにわたしには見えます。また、アジアに人たちには新しいライフスタイルが提示されているように受け取られたようにも思うのですが、日本社会はその段階を通り過ぎたということなのかも知れません。



「機動戦士ガンダム (主に1st) 」で現実世界の歴史や、戦争、政治がモデルになっている事やモノはありますか?

Quoraにて「「機動戦士ガンダム (主に1st) 」で現実世界の歴史や、戦争、政治がモデルになっている事やモノはありますか?」との質問を受けました。以下が私の回答になります。

第二次世界大戦と冷戦が下敷きになっていると私は考えています。以下に理由を述べます。

ジオンがナチスをモデルにしていることは間違いないとおもいますし、戦争の前半で圧倒的勝利を収めながら最後には国力の差を露呈して敗けるのも枢軸をイメージして描いたものだと思います。地球連邦はアメリカ合衆国連邦政府をイメージしているであろうことも見ていて分かります。たとえばジオンの軍服は色が濃いのでナチスの軍服を連想しますが、連邦の軍服は色が薄いのでマッカーサーなんかが来ていたライトなカーキ色を連想します。

で、その上で、なのですが、実はあの作品は地球連邦を批判する政治色を秘めた作品であると私は考えています。要するに反米アニメなのです。特にテレビシリーズを見ていると、地球連邦組織上層部のエゴイズムの凄さ、平然と弱者を見捨てる冷徹さ、などのようなものが要所要所に差し込まれて描かれていることに気づきます。

で、日本人向けのアニメですから、日本も当然描かれていて、それはサイド7なわけですね。サイド7は宇宙植民地なわけですけれど、地球連邦の都合で戦場にされてしまい、ホワイトベースのみんなは命からがら生き延びるのですが、ジャブローの地球連邦軍の上層部は左うちわでいつでも見捨てる気まんまんであるというような描き方になっています。

もうここまで言えばわかっていただけると思いますけれど、冷戦構造を皮肉っているわけですね。地球連邦の事情でサイド7が戦争に巻き込まれるというのは、アメリカに基地を提供し半分植民地みたいになっている日本にソ連が攻めてくるかも知れず、その時アメリカは海の向こうで涼しい顔をしているんじゃないかと言いたいわけです。地球連邦の官僚の腐敗を糾弾するのはアメリカが腐敗していると指摘したいからです。

赤い彗星のシャアは言うまでもなく共産主義を背負っていて、ルウム戦役などでは地球連邦軍を完膚なきまでに叩き潰す英雄であり、最後はザビ家もぶっ潰して新時代を切り開くというようなイメージを作者は抱いていたはずです。

とはいえ、シャアは本物のニュータイプであるアムロに敗北していくキャラでもありますから、共産主義も超えた新時代も見据えていたのかも知れないとも思います。



台湾ドキュメンタリー映画『日常対話』を通じて考える、虐待の過去と向き合うとは

映画の主たる内容

黄惠偵監督の母親であるアヌさんは、台湾での葬儀に呼ばれる道士という特殊な職業についている人だ。そして同時に夫から激しいDVを受けた過去を持ち、またレズビアンであもる。一見、普通の明るいおばあちゃんのように見えるアヌさんは非常に複雑な人生を送ってきたのだということが、映画が進むにつれて次第に明らかになって行く。観客が強い衝撃を受けずにいられないのは、黄監督とアヌさんが、彼女たちが日常生活で使うダイニングテーブルを挟んで向かい合う場面だろう。黄監督は涙をぬぐおうともせずに、父親から性的な虐待を受けていたと告白する。監督は母親に命じられ夜ごと父親の寝室へと行き、性的虐待に耐えなくてはならなかった。アヌさんは「知らなかった」で押し通した。

私の過去とアヌさん

人は誰でも多かれ少なかれ、心の傷を抱えて生きているはずだ。映画でDVを続けた夫のことが語られた時、私は私自身の父親のことを思い出さずにはいられなかった。私は父と過ごしたことがほとんどないのだが、父は帰ってくると深酒を煽り、母に対して執拗な暴力を加え続けた。ギャンブル狂で、借金がかさみ、暴力団員からの借金の取り立ても執拗に続いた。アヌさんの夫は家族に見捨てられ自殺したのだが、私の父は肝臓を悪くして死んでいる。私は幼少期から、自分が父親と同じような人間になるのではないかとのある種の恐怖とともに生きた。母からは私が父の血をひいているという理由で罵られた。それは今も続き、母はメールで罵ってくる。アヌさんは恋人たちに対して、自分の娘のことを「養子だ」と話していたことが映画で語られるが、もしかすると私の母と同様に、自分の子どもは夫の血を引いているために、その存在を受け入れがたいという気持ちがあったのではないかと私には感じられた。

アヌさん自身のことも、私には母とオーバーラップして見えざるを得なかった。あまり人に話したことはないが私は姉から継続的な虐待を受けていた。このことを過去に数人のごく親しい人に話したことがあるものの、あまりよく理解してもらえなかった。おそらく、姉から弟への虐待というものは一般的に語られる虐待の構造と合わないため、うまく想像してもらえないのではないかと考えている。私が母に対して、なぜ姉から私を救ってくれなかったのかと問い詰めた時、母は「知らなかった」で押し通した。母は私が苦痛で顔をゆがめ、茫然自失している姿を見ている。だが、現場を見ていないから知らなかったと言うのである。私は、私の母も、アヌさんも、逃げ切ろうとしているという点で共通しているように見えてならなかった。やや執拗になって申し訳ないが、アヌさんが恋愛に対して積極的に生きてきたことも私には母とオーバーラップするものだった。黄監督はアヌさんが恋愛に対して積極的であるにもかかわらず、家族に対してはあまり深く関わろうとしていないことにもどかしさを感じてる。私の母は、私が初めて社会人として勤務した職場近くのアパートの鍵を持っていて、ある時私が帰宅すると、母は私の知らない男性との性行為の最中であったということがある。アヌさんがそこまで酷いとは思わないが、何かが壊れてしまっている点が共通しているような気がしてならなかった。

性被害を受けたとある女性とアヌさん

私は、私の学生だった女性にこの映画に関する意見を求めてみた。彼女は以前、私に対し、彼女がレイプされたことがあるとの経験を語ってくれたことがある。彼女は熱心に、繰り返し、そのことについて語った。私は彼女の語る内容を理解する努力は続けたが、一、二度聞いただけでは深く理解することはできなかった。何度も繰り返し耳を傾けることによって、ようやく少しずつ理解は深まって行った。飽くまでも私の理解だが、彼女が私に訴え続けたことは、そのことによる心の傷は生涯続くもので、被害者は苦しみ続けるということだった。彼女のアヌさんに対する評価は厳しいものだった。アヌさんはレズビアンであるために、本当は男性のことが好きではないのかも知れない。しかし、社会的な圧力のために一度は結婚し、娘を生むところまでは耐えた。だが、それ以上、夫の要求にこたえることができないために、彼女は自分の娘を差し出したのではないかと言う見立てを彼女は私に述べた。尚、このことをブログに掲載することについては、彼女から了承を得ている。

生きることの難しさ

もしアヌさんがあのダイニングテーブルの前でシラを切らなければ、私はもっとアヌさんのことを好きになれただろうと思う。人は過去の過ちを受け入れ、反省するならば、いわゆる悔い改めというプロセスを経るならば、救済され赦されなければならないと私は思うからだ。

アヌさんを断罪すればそれで良いというものではもちろんない。アヌさんは多くを語らなかったが、簡単には語れない複雑な事情もあるはずなのだ。おそらくアヌさんはその多くを墓場まで持っていくつもりなのではないだろうか。

人は誰でも完全ではない。私は私が受けた被害について述べたが、私が加害者にならないとは限らない。人は誰もがアヌさんの立場になる可能性と黄監督の立場になる可能性の両方を秘めているに違いない。

アヌさんと黄監督の今後の人生がどのように展開するのか、私は知りたい。監督はいずれ、アヌさんとの関係をある種の高みへと昇華させてくれるのではないかとの期待が私にはある。また映画作品にまとめられる日が来れば、映画館に足を運びたい。

古代父殺し、近代父殺し、ポストモダンの母殺し

質問。近代文芸の父殺しを説明してください。古代ギリシャの父殺しと、ユートピア建設の父殺しはどちらが小説理解にとってより重要ですか?娘による母殺しはどうですか?

近代小説に於ける父殺しの概念の基礎になっているのはフロイトです。フロイトがエディプスコンプレックスという概念を世に問いました。このエディプスというのは、ご承知の通り古代ギリシャ神話のエディプスの父殺しに由来しています。

現代の我々が父殺しという時に、それが古代ギリシャ型父殺しなのか、それとも近代のフロイト型父殺しなのか、どちらなのかと言えば、フロイト型を想定してよいでしょう。思考実験的にギリシャ型とフロイト型を比較することはおもしろいかも知れませんが、近代小説に対する理解を深めるという観点から言えば、フロイト型を出発点にして捉えた方が、話は早いかも知れません。

では父とは何でしょうか。父いう言葉にはルールを決める人、善悪を決める人、罰を与える人、裁く人、権力者などを象徴する場合が多かったのではないかと思います。これ即ちキリスト教的父権主義を象徴しています。イエスが男性であり、イエスの父と精霊が三位一体になって神になるわけですけれど、女性が全く入ってきません。中世ヨーロッパ世界の頂点にいるローマ教皇は男性であり、神聖ローマ皇帝も男性であり、カトリックの教会の神父さんも男性であり、世界のルールは男性が決めていたわけです。聖母マリアのような存在は飽くまでもそのような厳しい男性社会の中に於いて、やすらぎや癒しの象徴にはなったでしょうけれど、聖母マリアがルールを定め、世界の終わりに人類を裁いたりすることは決してないわけです。近代的な、即ちフロイト的な父殺しは、そのような善悪を定める男を殺すことを求めているのであって、ギリシャ神話的に母親を横取りしようとかという話ではないということは押さえておいて損はないかも知れません。近代的な父殺し・神殺しは、父の持っている女性や富を横取りしたいのではなく、もっと本質的なものを変革しようとするものです。父の成し得なかった理想を私が成し遂げるというようなイメージになると思います。

ご質問を要約すると「神を殺してユートピア建設」か「父を殺して父の既得権をもらう」のどちらなのかということになるかと思います。「神を殺してユートピア」という発想を説明するには、ニーチェの存在に言及するのが良いかも知れません。彼は神に頼らぬ、善悪の彼岸に位置する超人という概念を追求しました。中世的な宗教による善悪の決定の先に行くことをニーチェは求めたわけです。ニーチェはフロイトより少し早く生まれ、フロイトよりうんと早く死んでいます。ニーチェとフロイトに共通することは、中世的な宗教世界から解放された(または追放された)人は何を考えて生きれば良いのかという問題意識を解決しようとしたということです。ニーチェは神がいなくても生きている人間像を追求しようとし、フロイトは神抜きで人間の精神を説明しようとしたわけですね。ここで言う神とは父と言い換えてもよいものです。
ですから繰り返しになりますけど、近代以後の世界で父殺しと言えば、神殺しであり、それはニーチェ・フロイト的な概念にたどり着くわけですが、その新しい概念、脱宗教的ユートピア建設=精神面での近代化をやってのけるために、ギリシャ神話のエディプスを持ち出して説明がなされたわけです。ご納得いただけましたでしょうか。

さて、次に、母殺しについて、私になりに簡単に述べたいと思います。まず、母殺しという言葉で私たちが思い浮かべるのは、母殺しをテーマにした寺山修司の映画、『田園に死す』です。この映画では、母なるものからの解放を願った男性の主人公が、いかに母を憎み、母を殺すと誓ったとしても、母はびくともせずに朝食を作り、みそ汁を飲めと迫ります。息子がどれほどユートピア建設を目指そうとしても、そしてユートピア建設にとって母は邪魔である、母は敵であると認識しても、母はそれまで通りのルーティンを決して崩しません。父は殺せば終わりですが、母は殺しても死なないのです。そして息子に味噌汁を飲ませようとする無敵の存在なのです。

しかしこれには、息子の母に対する諦めが見え隠れします。父と息子であれば遠慮なく殺し合えるのですが、母にはそういうわけにはいきません。母は殺しても死なないので、いずれ息子は降伏するしかないのです。エヴァンゲリオンでは父のゲンドウは途中であきらめてシンジの列車を降りていきます。ところが母のユイはとっくの昔に死んだも同然であるにもかかわらず、ゲンドウもシンジもユイのしがらみにがっちり縛られ続けます。仮にそのような強力な母が毒親であった場合、世界は真っ暗闇に包まれてしまうに決まっています。ユイが高天原の天照のようにエヴァンゲリオン実験機の中に閉じこもって出てこないことにより、父と息子の関係はどちらを殺すかまで続く果てしのないものになりました。仮にユイが本当に自ら望んでそうしているのであれば、徹底的な毒親であるとここで認定しておきたいところです。そのようなシンジを母から解放するには、友達の息子を誘惑するという稀代の悪女マリのような存在が必要だったわけです。そしてシンジがマリとの将来を選択することによって、シンジは大人になったということも言えるでしょう。ユイとマリの相克という裏テーマもおもしろそうですが、また機会があれば考えてみたいと思います。

さて、では、娘と母の場合はどうなるのでしょうか?実はこれについては私にも定見がありません。少し考えても思いつきません。強いて言うならば、豊かな母性愛を持つ母と娘が互いに手を取り合い、助け合って、男性中心社会の荒波を乗り越えようとするものか、或いは母と娘ともに近代男性中心主義に飲み込まれてしまい、どちらがより男性にとって理想的なのかを相争って憎み合うパターンのようなものが考えられます。実際にそのような事案はいろいろありますし、リアルに起きた事件の中にも、警察による立証はなされていないものの、母が新しい夫によって強姦された娘を殺した可能性が否定できないようなものもありますから、私が男性であるが故にあまりよく分かっていないだけで、母と娘の相克というものは人類の歴史とともに存在したと見るべきかも知れません。とすれば、男性中心社会がいよいよ本格的に崩壊しているわけですから、今後、文芸や映画の重要なモチーフとして母と娘の関係が描かれてゆき、評論可能な題材や型のようなものが形成されていくと考えてもよいのかも知れません。もしかすると『若草物語』が考える素材になるかもしれないとも思いましたが、それについてはまた後日考えてみたいと思います。



何故パルプフィクションの評価はあそこまで高いのですか? 僕もめちゃくちゃ好きで、面白いとは思いますが、imdbだと10位以内に入っていて、それほどかな?という風に感じます。

「何故パルプフィクションの評価はあそこまで高いのですか?僕もめちゃくちゃ好きで、面白いとは思いますが、imdbだと10位以内に入っていて、それほどかな?という風に感じます。」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

タランティーノ監督は、パルプフィクションの前にレザボアドッグスを撮影しています。アメリカの裏社会の面々を描くというコンセプトは同じですが、レザボアドッグスは男たちの会話だけでどこまでひきつけることができるかということに挑戦しています。そのような試みをした主たる理由は制作費にあると思いますけれど、結構成功していて、最後まで関心を持って私は見ることができたんですね。ただし、やっぱりどうしても、会話だけで引っ張ろうとするものですから、ドキドキわくわくするとか、圧倒的な映像美とか、圧巻のストーリー展開とか、そういうのはないんですよね。まあ、なくてもいい映画はいっぱいありますから、それがないからマイナスということにはなりませんけど、でもやっぱり、より多くのファンを獲得したいと考えるのであれば、ちょっと物足りないところはあると言えると思います。

レザボアドッグスで評価されたことで、パルプフィクションでは制作費を獲得することができ、有名俳優を投入し、場面展開もめまぐるしく変化させることができ、音楽にも凝っていて、飽きっぽい観客でも見続けることができる作品になっていると私は思います。幾つかの人間模様が交差するオムニバスですから、悪く言えば物語がブツ切りになってるんですけど、良く言えば無駄を捨てている。説明を省いている。絵を見て勝手に判断してくれよ、というか、絵が良ければそれでよくね?というある意味では映画に対して非常に純粋な態度で臨んでいるというようなところは、本当に気持ちいいとすら言えると思います。ですから、さっき死んだジョン・トラボルタが、次のエピソードに登場してきても、時間軸に捉われている方がダサいぜ。くらいの勢いがあるので、観客はそれも受け入れることができたんだと思います。映画の最後の方でサミュエル・ジャクソンが神の愛みたいなものに目覚め、ヤクザ稼業から足を洗うわけですけど、足を洗わなかったジョン・トラボルタは殺されるわけですから、ちょっとそのあたり、私は人生について考えさせられてしまい、そのような深みもこの映画の良さではないかなと思います。

で、ですね、タイトルがいいですね。パルプフィクションですから、紙に書いた作り話だよと、ペーパーバックの三文推理小説を電車の中で読み捨てるくらいのライトな感覚で見てくれよ。とタイトルで宣言しているのも、なんか思い出すたびにしみじみするというか、映画を楽しもうよ!という監督の映画に対する哲学みたいなのが感じられて、いいなあと思うわけですね。

そのように素敵な点がたくさんあるパルプフィクションですが、ご指摘の通り、そこまでか?と思わなくもありません。太陽がいっぱいのアランドロンの悲しさ、七人の侍の死にゆく侍たちの悲しさ、市民ケーンの金はあっても愛がないことの悲しさを描いているのかというような話をすれば、そうではない、その分、軽いと言う指摘はあり得ます。ただし、タランティーノ監督は映画とは、観客が映像を見ている瞬間、楽しむことができればそれでいいのだ、というかそれが映画で、考えさせる映画なんかいらねー。という哲学で作ってるわけですから、そういうアンチ教養主義みたいな立場で作った映画としてはやっぱり最高峰に位置するんじゃないですかね。

なんとなく回答してみたらこんなに長くなってしまいました。私、そんなにパルプフィクションは好きじゃないつもりだったんですけど、ここまで書いてしまうということは好きなんだなあと気づきました。



ハリウッド映画では問題の最終解決手段として核兵器が使われることがありますが、アメリカ人は核兵器のリスク(放射能など)をどれくらい理解しているのでしょうか?

「ハリウッド映画では問題の最終解決手段として核兵器が使われることがありますが、アメリカ人は核兵器のリスク(放射能など)をどれくらい理解しているのでしょうか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

『博士の異常な愛情』とか、『渚にて』とか、『チャイナシンドローム』とか、放射線の恐ろしさを伝える作品は英語圏ではいろいろあります。日本人は広島と長崎の惨劇についてよく学んでいますから、確かに日本人に比べれば理解は低いでしょうけれども、「とてつもなく怖いらしい」ということについては、かえって情報が少ないだけに伝説的なものに発展しているのではないかと思います。アメリカ映画で核兵器を使用するのって『エヴォルーション』とか『インディペンデンスデイ』みたいなエイリアンが攻めて来たときとか、隕石が突っ込んでくるときくらいしかないので、もしかするとハリウッドのコンプライアンス的に、核兵器は宇宙から脅威が来た時しか使ってはいけないなどのようなコードでもあるんじゃないですかね。



シンデレラはパーティーでどんな踊りを踊ったのですか?やっぱりワルツですか?

「シンデレラはパーティーでどんな踊りを踊ったのですか?やっぱりワルツですか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

思考実験的に述べます。シンデレラという物語の起源ははっきりしないため、分からないとしか言いようがありません。しかし、我々が知るシンデレラはグリム兄弟が整理してまとめたものあり、グリム兄弟がドイツの人だということを手掛かりに考えてみたのですが、ドイツ語圏で男女がともに躍る音楽にはレントラーとヴィエンナワルツがあるものの、グリム童話が成立した時期にはまだヴィエンナワルツは成立していません。とすれば、レントラー一択になります。レントラーは4分の3拍子の素朴な音調のダンス音楽ですが、これをワルツの前身と見るか、ワルツの一種と見るかで結論は変わることでしょう。