古代父殺し、近代父殺し、ポストモダンの母殺し

質問。近代文芸の父殺しを説明してください。古代ギリシャの父殺しと、ユートピア建設の父殺しはどちらが小説理解にとってより重要ですか?娘による母殺しはどうですか?

近代小説に於ける父殺しの概念の基礎になっているのはフロイトです。フロイトがエディプスコンプレックスという概念を世に問いました。このエディプスというのは、ご承知の通り古代ギリシャ神話のエディプスの父殺しに由来しています。

現代の我々が父殺しという時に、それが古代ギリシャ型父殺しなのか、それとも近代のフロイト型父殺しなのか、どちらなのかと言えば、フロイト型を想定してよいでしょう。思考実験的にギリシャ型とフロイト型を比較することはおもしろいかも知れませんが、近代小説に対する理解を深めるという観点から言えば、フロイト型を出発点にして捉えた方が、話は早いかも知れません。

では父とは何でしょうか。父いう言葉にはルールを決める人、善悪を決める人、罰を与える人、裁く人、権力者などを象徴する場合が多かったのではないかと思います。これ即ちキリスト教的父権主義を象徴しています。イエスが男性であり、イエスの父と精霊が三位一体になって神になるわけですけれど、女性が全く入ってきません。中世ヨーロッパ世界の頂点にいるローマ教皇は男性であり、神聖ローマ皇帝も男性であり、カトリックの教会の神父さんも男性であり、世界のルールは男性が決めていたわけです。聖母マリアのような存在は飽くまでもそのような厳しい男性社会の中に於いて、やすらぎや癒しの象徴にはなったでしょうけれど、聖母マリアがルールを定め、世界の終わりに人類を裁いたりすることは決してないわけです。近代的な、即ちフロイト的な父殺しは、そのような善悪を定める男を殺すことを求めているのであって、ギリシャ神話的に母親を横取りしようとかという話ではないということは押さえておいて損はないかも知れません。近代的な父殺し・神殺しは、父の持っている女性や富を横取りしたいのではなく、もっと本質的なものを変革しようとするものです。父の成し得なかった理想を私が成し遂げるというようなイメージになると思います。

ご質問を要約すると「神を殺してユートピア建設」か「父を殺して父の既得権をもらう」のどちらなのかということになるかと思います。「神を殺してユートピア」という発想を説明するには、ニーチェの存在に言及するのが良いかも知れません。彼は神に頼らぬ、善悪の彼岸に位置する超人という概念を追求しました。中世的な宗教による善悪の決定の先に行くことをニーチェは求めたわけです。ニーチェはフロイトより少し早く生まれ、フロイトよりうんと早く死んでいます。ニーチェとフロイトに共通することは、中世的な宗教世界から解放された(または追放された)人は何を考えて生きれば良いのかという問題意識を解決しようとしたということです。ニーチェは神がいなくても生きている人間像を追求しようとし、フロイトは神抜きで人間の精神を説明しようとしたわけですね。ここで言う神とは父と言い換えてもよいものです。
ですから繰り返しになりますけど、近代以後の世界で父殺しと言えば、神殺しであり、それはニーチェ・フロイト的な概念にたどり着くわけですが、その新しい概念、脱宗教的ユートピア建設=精神面での近代化をやってのけるために、ギリシャ神話のエディプスを持ち出して説明がなされたわけです。ご納得いただけましたでしょうか。

さて、次に、母殺しについて、私になりに簡単に述べたいと思います。まず、母殺しという言葉で私たちが思い浮かべるのは、母殺しをテーマにした寺山修司の映画、『田園に死す』です。この映画では、母なるものからの解放を願った男性の主人公が、いかに母を憎み、母を殺すと誓ったとしても、母はびくともせずに朝食を作り、みそ汁を飲めと迫ります。息子がどれほどユートピア建設を目指そうとしても、そしてユートピア建設にとって母は邪魔である、母は敵であると認識しても、母はそれまで通りのルーティンを決して崩しません。父は殺せば終わりですが、母は殺しても死なないのです。そして息子に味噌汁を飲ませようとする無敵の存在なのです。

しかしこれには、息子の母に対する諦めが見え隠れします。父と息子であれば遠慮なく殺し合えるのですが、母にはそういうわけにはいきません。母は殺しても死なないので、いずれ息子は降伏するしかないのです。エヴァンゲリオンでは父のゲンドウは途中であきらめてシンジの列車を降りていきます。ところが母のユイはとっくの昔に死んだも同然であるにもかかわらず、ゲンドウもシンジもユイのしがらみにがっちり縛られ続けます。仮にそのような強力な母が毒親であった場合、世界は真っ暗闇に包まれてしまうに決まっています。ユイが高天原の天照のようにエヴァンゲリオン実験機の中に閉じこもって出てこないことにより、父と息子の関係はどちらを殺すかまで続く果てしのないものになりました。仮にユイが本当に自ら望んでそうしているのであれば、徹底的な毒親であるとここで認定しておきたいところです。そのようなシンジを母から解放するには、友達の息子を誘惑するという稀代の悪女マリのような存在が必要だったわけです。そしてシンジがマリとの将来を選択することによって、シンジは大人になったということも言えるでしょう。ユイとマリの相克という裏テーマもおもしろそうですが、また機会があれば考えてみたいと思います。

さて、では、娘と母の場合はどうなるのでしょうか?実はこれについては私にも定見がありません。少し考えても思いつきません。強いて言うならば、豊かな母性愛を持つ母と娘が互いに手を取り合い、助け合って、男性中心社会の荒波を乗り越えようとするものか、或いは母と娘ともに近代男性中心主義に飲み込まれてしまい、どちらがより男性にとって理想的なのかを相争って憎み合うパターンのようなものが考えられます。実際にそのような事案はいろいろありますし、リアルに起きた事件の中にも、警察による立証はなされていないものの、母が新しい夫によって強姦された娘を殺した可能性が否定できないようなものもありますから、私が男性であるが故にあまりよく分かっていないだけで、母と娘の相克というものは人類の歴史とともに存在したと見るべきかも知れません。とすれば、男性中心社会がいよいよ本格的に崩壊しているわけですから、今後、文芸や映画の重要なモチーフとして母と娘の関係が描かれてゆき、評論可能な題材や型のようなものが形成されていくと考えてもよいのかも知れません。もしかすると『若草物語』が考える素材になるかもしれないとも思いましたが、それについてはまた後日考えてみたいと思います。



何故パルプフィクションの評価はあそこまで高いのですか? 僕もめちゃくちゃ好きで、面白いとは思いますが、imdbだと10位以内に入っていて、それほどかな?という風に感じます。

「何故パルプフィクションの評価はあそこまで高いのですか?僕もめちゃくちゃ好きで、面白いとは思いますが、imdbだと10位以内に入っていて、それほどかな?という風に感じます。」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

タランティーノ監督は、パルプフィクションの前にレザボアドッグスを撮影しています。アメリカの裏社会の面々を描くというコンセプトは同じですが、レザボアドッグスは男たちの会話だけでどこまでひきつけることができるかということに挑戦しています。そのような試みをした主たる理由は制作費にあると思いますけれど、結構成功していて、最後まで関心を持って私は見ることができたんですね。ただし、やっぱりどうしても、会話だけで引っ張ろうとするものですから、ドキドキわくわくするとか、圧倒的な映像美とか、圧巻のストーリー展開とか、そういうのはないんですよね。まあ、なくてもいい映画はいっぱいありますから、それがないからマイナスということにはなりませんけど、でもやっぱり、より多くのファンを獲得したいと考えるのであれば、ちょっと物足りないところはあると言えると思います。

レザボアドッグスで評価されたことで、パルプフィクションでは制作費を獲得することができ、有名俳優を投入し、場面展開もめまぐるしく変化させることができ、音楽にも凝っていて、飽きっぽい観客でも見続けることができる作品になっていると私は思います。幾つかの人間模様が交差するオムニバスですから、悪く言えば物語がブツ切りになってるんですけど、良く言えば無駄を捨てている。説明を省いている。絵を見て勝手に判断してくれよ、というか、絵が良ければそれでよくね?というある意味では映画に対して非常に純粋な態度で臨んでいるというようなところは、本当に気持ちいいとすら言えると思います。ですから、さっき死んだジョン・トラボルタが、次のエピソードに登場してきても、時間軸に捉われている方がダサいぜ。くらいの勢いがあるので、観客はそれも受け入れることができたんだと思います。映画の最後の方でサミュエル・ジャクソンが神の愛みたいなものに目覚め、ヤクザ稼業から足を洗うわけですけど、足を洗わなかったジョン・トラボルタは殺されるわけですから、ちょっとそのあたり、私は人生について考えさせられてしまい、そのような深みもこの映画の良さではないかなと思います。

で、ですね、タイトルがいいですね。パルプフィクションですから、紙に書いた作り話だよと、ペーパーバックの三文推理小説を電車の中で読み捨てるくらいのライトな感覚で見てくれよ。とタイトルで宣言しているのも、なんか思い出すたびにしみじみするというか、映画を楽しもうよ!という監督の映画に対する哲学みたいなのが感じられて、いいなあと思うわけですね。

そのように素敵な点がたくさんあるパルプフィクションですが、ご指摘の通り、そこまでか?と思わなくもありません。太陽がいっぱいのアランドロンの悲しさ、七人の侍の死にゆく侍たちの悲しさ、市民ケーンの金はあっても愛がないことの悲しさを描いているのかというような話をすれば、そうではない、その分、軽いと言う指摘はあり得ます。ただし、タランティーノ監督は映画とは、観客が映像を見ている瞬間、楽しむことができればそれでいいのだ、というかそれが映画で、考えさせる映画なんかいらねー。という哲学で作ってるわけですから、そういうアンチ教養主義みたいな立場で作った映画としてはやっぱり最高峰に位置するんじゃないですかね。

なんとなく回答してみたらこんなに長くなってしまいました。私、そんなにパルプフィクションは好きじゃないつもりだったんですけど、ここまで書いてしまうということは好きなんだなあと気づきました。



ハリウッド映画では問題の最終解決手段として核兵器が使われることがありますが、アメリカ人は核兵器のリスク(放射能など)をどれくらい理解しているのでしょうか?

「ハリウッド映画では問題の最終解決手段として核兵器が使われることがありますが、アメリカ人は核兵器のリスク(放射能など)をどれくらい理解しているのでしょうか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

『博士の異常な愛情』とか、『渚にて』とか、『チャイナシンドローム』とか、放射線の恐ろしさを伝える作品は英語圏ではいろいろあります。日本人は広島と長崎の惨劇についてよく学んでいますから、確かに日本人に比べれば理解は低いでしょうけれども、「とてつもなく怖いらしい」ということについては、かえって情報が少ないだけに伝説的なものに発展しているのではないかと思います。アメリカ映画で核兵器を使用するのって『エヴォルーション』とか『インディペンデンスデイ』みたいなエイリアンが攻めて来たときとか、隕石が突っ込んでくるときくらいしかないので、もしかするとハリウッドのコンプライアンス的に、核兵器は宇宙から脅威が来た時しか使ってはいけないなどのようなコードでもあるんじゃないですかね。



シンデレラはパーティーでどんな踊りを踊ったのですか?やっぱりワルツですか?

「シンデレラはパーティーでどんな踊りを踊ったのですか?やっぱりワルツですか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

思考実験的に述べます。シンデレラという物語の起源ははっきりしないため、分からないとしか言いようがありません。しかし、我々が知るシンデレラはグリム兄弟が整理してまとめたものあり、グリム兄弟がドイツの人だということを手掛かりに考えてみたのですが、ドイツ語圏で男女がともに躍る音楽にはレントラーとヴィエンナワルツがあるものの、グリム童話が成立した時期にはまだヴィエンナワルツは成立していません。とすれば、レントラー一択になります。レントラーは4分の3拍子の素朴な音調のダンス音楽ですが、これをワルツの前身と見るか、ワルツの一種と見るかで結論は変わることでしょう。



海外の映画などで見られる間違った日本の文化の解釈にはどんなものがありますか?

「海外の映画などで見られる間違った日本の文化の解釈にはどんなものがありますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

ドイツ人のアーノルド・ファンクという映画監督が撮影した『新しき土』という映画があるのですが、これは日本人の伊丹万作との二人監督ということで話題になりました。ドイツ語タイトルは『侍の娘』というもので、ファンクは最初からステレオタイプの日本イメージの映像を作る気まんまんだったようです。で、この映画では恋愛に敗れた原節子が自ら命を絶つために火山へ向かうという場面があります。侍=切腹であり、侍の娘というタイトルからも分かるように、侍の娘も恥辱を受ければ命を絶つとの前提があり、日本の温泉のイメージと結びついて火山で自殺という発想になったんだと思います。伊丹万作はこの設定にきれまくり、二人の監督は全く別々に映画を撮影しました。今、ネットで探せば、ファンク版は見つかるのではないかと思います。



ノンフィクション映画の最高傑作はどの作品だと思いますか?

「ノンフィクション映画の最高傑作はどの作品だと思いますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

フランス人の映画監督が日本の広域団体の組長に密着した『young yakuza』を推したいと思います。とあるお母さんが、息子がニートなので鍛えてやってほしいと熊谷組の組長さんに頼みます。で、息子は組の見習いみたいになるんですけど、息子が成長するのかというと全然しないんですね。息子は最終的には自分の時間がないという理由でバックレるわけなんですが、息子と一緒に行動しつつ、熊谷組長にもいろいろ話を聞くことで、広域団体の人達の日常とか、考え方とか、価値観とか、そういったものが分かる内容になっています。そういった人達の本音とかって確かに私たちは知りませんし、そもそも会話をすることすら普通はないと思います。私が子供のころは父親が半グレだったのでそういう人も家に来ましたけど、家が特殊なのであって、普通はやっぱり出会わないと思うんです。私も新聞記者を辞めてからはそういう人とは一切出会わなくなりました。そういうわけですから、どういう声のトーンで話すのかというようなところから始まって、組の存在意義とか、組長さんに生きがいみたいなものとかがだんだん分かってくるのは大変に興味深いです。表の顔と裏の顔があって、表の顔は気前良く撮影に応じるんですけど、裏の顔は決して見せないし、カメラの前で「これ以上は見せない」と言い切っている場面がありますから「あ、やっぱり裏はあるんだなあ」ということも想像できるわけです。熊谷組長が長身でハンサムなフォトジェニックな人なものですから、その世界がもしかしたら実はとても魅力的な世界なのではないかと、錯覚を起こしそうになります。話す内容も、街の人たちの治安を守るためとか、組員は家族同然、行き場のない人を救う場所、のような良いこと言うんですよね。

で、バックレた息子さんですけど、組の人には足取りが分からないままでしたから、多分、お母さんのところにも帰ってないんですけど、最後にカメラの前に現れます。で「自分の時間がなかったから」というようなことを言います。この一言からも、組の人たちの日常生活が想像できます。本当にいつも一緒にいて助け合って、何かが起きれば団結するイメージが喚起されます。たけしさんの映画でも組の人達が仲間同士ほんとうに仲良しですけど、あんな感じなんだろうなと言うのが伝わってくるんですね。私のように孤独を愛するタイプには無理かも知れない、とかいろいろ考えたりしました。時々、あの映画のことは思い出すんですけど、そもそもニートの息子さんを鍛えてもらおうと思って組に入れてしまうお母さんってどうなんだろうなと言う何とも言えないものがいつももやっと残るのですが…。

この映画はカンヌにも特別招待されて、組長さんもカンヌに招待されたことで話題になりました。



全人類が突然あと一年で死滅するとわかったら、人類はどのような行動に出ると思いますか?

「全人類が突然あと一年で死滅するとわかったら、人類はどのような行動に出ると思いますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

『渚にて』というSF小説では、放射能汚染により人類が次第に死に絶える中、最後に残ったオーストラリアの人々が静かに滅びの日を待ちます。もちろん、そうではない、不心得な人がいることも示唆されますが、主たる登場人物が最後の瞬間まで文明人として自律的・倫理的な振る舞いを保ちます。私もそうありたいと思いますし、本当に死滅すると分かると何に手を付けていいのかもわからなくなってしまいますから、多くの人もそんな感じになるのではないでしょうか。



ランチェスター戦略を日本文化を海外に紹介するYouTuberに応用するとしたら、どうしたら良いですか?理論は分かっても、実際に当てはめる部分が出来ず困っています。

「ランチェスター戦略を日本文化を海外に紹介するYouTuberに応用するとしたら、どうしたら良いですか?理論は分かっても、実際に当てはめる部分が出来ず困っています。」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

私、ざっくりとしたことしか知らないんですけど、仮にランチェスター戦略なるものの肝が、たとえ弱者であっても狭い範囲の勝てる領域で勝とう。というものであるとすれば、日本文化に興味のある人々が多そうな地域に絞り、その地域の人たちに気づいてもらえるような動画づくりということになるのではないかと思います。パッと思いつくのは台湾ですが、韓国の人々の日本への関心も並々ならぬものがあります。あと、日本人移民の多いハワイ、ブラジル、カリフォルニアでしょうか。英語なり韓国語なり中国語なりの字幕をつけるとか、そういった国や地域の人を雇ってナビゲーターにするとかなら可能と思います。仮にテーマで絞るのであれば、アニメ、漫画、ゲーム、寿司、忍者あたりに焦点を絞り込むということでしょうかね。



海外の映画などで見られる間違った日本の文化の解釈にはどんなものがありますか?

「海外の映画などで見られる間違った日本の文化の解釈にはどんなものがありますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

ドイツ人のアーノルド・ファンクという映画監督が撮影した『新しき土』という映画があるのですが、これは日本人の伊丹万作との二人監督ということで話題になりました。ドイツ語タイトルは『侍の娘』というもので、ファンクは最初からステレオタイプの日本イメージの映像を作る気まんまんだったようです。で、この映画では恋愛に敗れた原節子が自ら命を絶つために火山へ向かうという場面があります。侍=切腹であり、侍の娘というタイトルからも分かるように、侍の娘も恥辱を受ければ命を絶つとの前提があり、日本の温泉のイメージと結びついて火山で自殺という発想になったんだと思います。伊丹万作はこの設定にきれまくり、二人の監督は全く別々に映画を撮影しました。今、ネットで探せば、ファンク版は見つかるのではないかと思います。



【ゴッドファーザー】マイケルコルレオーネの性格分析【アメリカ映画】

今回はフランシス・フォード・コッポラ監督が制作した、もしかしたら世界で最も有名なアメリカ映画かも知れない、映画『ゴッドファーザー』の、マイケルコルレオーネがどんな性格で、何を考えて残酷な殺人事件を起こしたり、或いはそういう命令を出したりしていたかについて、ちょっと考えてみたいと思います。

この映画の冒頭は、マイケルの妹のコニーの結婚式から始まります。主たる登場人物が一同に会する名場面ですが、ここにいる人達の中で、果たして何人殺されるでしょうという謎かけみたいな効果を持つ画面でもあります。一度目の鑑賞ではそこまで考えることはできませんけれど、何度も見れば、あ、このおじさん、後で死ぬ人だ。とかだんだんわかってきますから、そういうことに気づいてくれよと監督は求めているんだと思います。

ニューヨークのイタリアマフィアの結婚式がボスでマイケルの父親であるドン・ビトー・コルレオーネの巨大な邸宅で行われているわけですから、邸宅の外には警察の車両が監視目的で張り込みをしており、新聞記者も来ているというわけで、家の外はアメリカ・ニューヨークであり、家の中はスモールイタリーみたいになっていることが、結婚式で歌われている歌とか、みんなの様子から分かる、みんな楽しそうだけれど、実は異文化が直接退対峙するような、緊張感のあるシーンなわけですね。

で、そこにアメリカ海軍の軍服を着たマイケルが恋人を連れてやってきます。マイケルもビトー・コルレオーネの三男ですから、正真正銘イタリア系アメリカ人なわけですが、軍服を着て登場したという事実は、彼がイタリア系ということよりも、普通のアメリカ市民であるということを自分のアイデンティティとして意識しているということが分かります。アメリカは退役軍人を非常に大事にするわけですが、マイケルも自分は退役軍人だということを制服で無言で語っているわけですね。1945年の夏という設定になっていますから、マイケルはおそらく太平洋で日本軍と戦って帰ってきた英雄であるわけです。マイケルは次第に実におっさんくさいマフィアのボスへと変貌していきますし、アメリカ人である前にイタリア系みたいな雰囲気になっていくんですけど、この段階では、まだそういう雰囲気ではありません。

マイケルには兄が二人いますから、マイケルがマフィアを継承するなんて誰も考えてないし、イタリア系じゃない恋人を堂々と連れてくるあたりに、マイケル自身もそんな生き方を選ぶつもりはないということが表現されていると言っていいと思います。

さて、当時ニューヨークでめっちゃ恐れられた、マーロン・ブランドが演じているビトー・コルレオーネなわけですが、そこに盾突く男が現れます。ソロッツオという男で、他のマフィアの大ボスみたいなのも味方につけているだけじゃなく、ニューヨーク市警の警部まで抱き込んでいるという一筋縄ではいかない男です。ソロッツオはビトー・コルレオーネに対し、ニューヨークでドラッグを売りたいから協力してほしいともちかけるのですが、ビトー・コルレオーネは断ります。コルレオーネ・ファミリーはカジノビジネスをシノギにしているのですが、カジノはいわばお金持ちの遊びみたいなものなのに対し、ドラッグは貧乏人に売りつけて廃人にするという悪魔の商品ですから、そんなのは協力しねえというわけです。

そしてしばらくの地に、ビトー・コルレオーネは銃撃を受け、死んだかと思いきや命は助かって入院します。マイケルが病院にかけつけるのですが、父親に護衛がついていないということに気づき、まあ、必死で自分が守ろうとするんですね。そうやってがんばっているときに、ソロッツオに抱き込まれた警部が現場にやってきて、てめーこのやろー邪魔なんだよみたいな話になって、マイケルの頬っぺたの骨が折れるほど酷く殴ります。

続いて、ソロッツオからコルレオーネ・ファミリーに連絡が来るんですけど、このまま互いに殺し合ってもよくないから、話し合いたい、マイケルを代表者にしてよこしてほしいと言ってきます。

マイケルはマフィアの仕事とはかかわっていない素人で、若いおぼっちゃんですから、幾らでも丸め込めると思ったのかも知れません。コルレオーネ側では、なめんなこのやろーといきりたつんですが、マイケルが「じゃ、僕がやつらを殺す」言うんですね。みんな、一瞬爆笑するんですけど、状況的にマイケルならやつらを殺せると気づき、みんなの表情が本気になっていきます。

本来、マフィアの仕事から距離を置いていた、真面目なアメリカ市民であるはずのマイケルが、どうして殺人を請け負おうというくらいに心境が変化したのだろうかと言えば、警部に思いっきり殴られたんで、やっぱり頭に来ているわけですよね。

この映画のおもしろいところは、マイケルという素朴で真面目なアメリカ市民が、イタリアマフィアの大ボスとして存分に腕を振るうようになるまでの変貌ぶりがしっかり描かれているところなんですけど、イメージとしてはアメリカで育ったものの、イタリアン・マフィアのDNAがマイケルにとってはもっと優勢になっていて、血は水よりも濃いというか、マイケルも本当はそんなのは嫌だと思っているのに、気づくとどんどんマフィアぽくなっていくというところがさらに見せ場みたいな感じなわけですね。
で、マイケルは指定されたレストランでソロッツオと警部との三人で会うことになります。レストランを指定された直後にコルレオーネ・ファミリーの関係者がレストランおトイレのタンクの裏に殺人用の銃をガムテープではりつけに行ったはずですから、マイケルはタイミングを見計らってトイレに行き、銃をとってきてためらわずに二人を撃ち殺し、銃を現場に捨てて立ち去るという筋書きが想定されていました。

しかしマイケルはすぐにはトイレに行かないんですね。マイケルはソロッツオと話し合おうとします。この時の彼の本音としては、できればソロッツオと和解のための話し合いが成立すればいいのにと思っているらしいんです。ここはマイケルの独断なんですけど、彼の出した条件は、父親の身の安全を保障するというものでした。ソロッツオの答えは「俺にそんなことが約束できるわけがない。俺はそんなに偉くないんだ」というものでした。要するにマイケルの父親のビトー・コルレオーネの安全は約束されない、ソロッツオは本音では今後も父親の命を狙い続けるつもりらしいということが分かります。もしソロッツオが「分かった。お父さんには手を出さない」と返答してくれれば、マイケルはこのまま話し合いをまとめて帰ったかも知れません。マイケルの目が泳ぎ始めます。表情に不安が浮き上がってきます。ソロッツオが父親を狙わないと約束しないので、この段階で彼はソロッツオと警部を殺害する決心を固めたと言えます。つまりマイケルは血気盛んで敵は殺せ!とか思うタイプじゃなくて、慎重に慎重に考え抜いて、どうしてもそれ以外の選択肢がないと判断してから、人を殺すというタイプなんですね。マイケルの心の叫びみたいなのが聞こえてくるとすれば、本当はこんな結末を望んではいなかったのに..。というようなものだと思います。

で、彼はイタリアに逃亡し、何年も逃亡生活を送ります。ニューヨークには恋人が待っているのに、シシリー島の美しい女性と恋に落ち、結婚してしまいます。マイケルのニューヨークの恋人はダイアン・キートンが演じてるんですけど、彼女は教養のある、ちゃんと教育を受けた、まっとうなアメリカ市民という感じの雰囲気なんですね。でもマイケルは、その恋人よりも、シシリー島の田舎娘だけれど、情熱的な本能のレベルで男性の心を刺激する女性に惹かれてしまったわけです。要するにマイケルのイタリア系としてのDNAが刺激されてしまったと説明できる場面ですし、或いはこの時、イタリア人女性と結ばれてしまった彼はアメリカ人であるよりもイタリア系として生きることを、知らずに選択してしまったということなのかも知れません。

結局、イタリアの美しい若奥様は、マイケルの代わりに殺されてしまいます。ニューヨークでマフィアの手打ちが行われ、マイケルはアメリカに帰ってくるし、ダイアン・キートンと理想的な家庭を築こうと努力するんですけど、彼女はマイケルの手が血で汚れていることにうすうす気づいていて、しかもマイケルがアメリカ人というよりイタリア人の雰囲気がどんどん強くなっていくので、違和感をぬぐえなくなっていってしまいます。
で、マイケルの性格を表すもう一つの殺人事件が、映画の終盤で描かれます。マイケルの上の兄のソニーはマフィア同士の抗争で殺されてしまい、下の兄のフレードは頭がちょっと悪すぎるのでマフィアのボスは無理だったものですから、マイケルがマフィアを継承します。で、父親のビトー・コルレオーネが亡くなったタイミングで、敵のマフィアに潰される前に、まとめて敵を皆殺しにするわけです。ゴッドファーザー的解決という表現を読んだことがありますけど、要するにまとめてやっちまうことをそう呼ぶようです。

ただ、これで終わりではありませんでした。マイケルは兄のソニーがなぜ殺されたのかを多分、かなり前から調べていて、どうやら妹のコニーの旦那のカルロが裏切っていたらしいということに気づきます。というのも、カルロ、コニーにDVはするは、浮気はするは、最低男の見本みたいなやつなんですが、コニーが兄のソニーに電話して「助けて!」と言ったところ、ソニーはボディガードもつけずに飛び出して行って、機関銃でハチの巣にされてしまったという経緯があったからなんですね。つまりシチュエーション的に、カルロがわざとコニーを殴り、ソニーをおびき出したと読みとることができるというわけです。

で、ですよ、マイケルはカルロに告げるんですね。「バルツイーニとかタッタリアとか、お前が裏でつながっていたであろう、敵対するマフィアのボスはまとめて死んだ」と。カルロは驚愕します。全部バレてると気づくわけですね。マイケルは「カルロ、お前は妹のコニーの夫じゃないか、私がお前を殺すと思うか?」と悪魔のささやきみたいなことを言います。「さあカルロ、お前をそそのかしたのは誰だ?バルツイーニか?タッタリアか?私に嘘をつくな。嘘は相手を侮辱している」とたたみかけてくるわけですね。カルロは「バルツイーニ」と力なく小さな声で言います。カルロ本人による裏切りの告白というわけです。こうしてカルロは殺されることになってしまいました。ここで注目したいのは、マイケルはぎりぎり最後までカルロにチャンスを与えてることなんですね。もしカルロが白を切りとおすのなら、それを信じてもいい、ある種の男に二言はないみたいな、日本風に言えば武士に二言はないみたいな価値観だと思うんですけど、マイケルはカルロに対して、最後は自分で運命を選べるようにしたわけです。で、カルロが甘い男なので、自白してもゆるしてもらえると勘違いして、しゃべっちゃったと。言うわけですね。

最初の事件と、このカルロの事件に共通しているのは、できればぎりぎり最後まで、マイケルとしては命を助ける可能性を残そうとしたことです。でも、相手がそっちを選んでくれない。だからやむを得ず殺したということになってですね、マイケルは自分では望んでないのに、血を流すことになってしまうという苦しみを味わうことになります。

ゴッドファーザーパート2になると、下の兄のフレードがマイケルを裏切っていたことがバレて最後に殺されます。で、パート3では、マイケルがそのことをひたすら後悔し続けてきたことが分かるという流れになっています。マイケルは号泣しつつというか、慟哭しながらフレードの殺害を命じたことを懺悔します。いかにそのことで彼が苦しみ続けて来たかが分かる、いい場面というか、ぐっとくる場面ではあるんですけど、本当は血を流したくないのに、そうならざるを得ないということで苦しみ続けて来た、マイケルの人生には同情すべき点も多いと思います。で、感情にまかせずに、最後の最後まで、相手を殺さずにすむ可能性を探ろうとするあたりに、マイケルがアメリカという市民社会の法をきわめて重視する社会に属する人間であるということを見て取ることができるわけです。ただし、本当に殺したくないと思えば、それでも殺さないと言う究極のゆるしを与える天使のマイケルになれる可能性もあったわけですけど、自分の頭の中で設定した条件を相手が満たすと迷わずやっちゃうという辺りに、マイケルの弱さもあるということなのかも知れません。