台湾ドキュメンタリー映画『日常対話』を通じて考える、虐待の過去と向き合うとは

映画の主たる内容

黄惠偵監督の母親であるアヌさんは、台湾での葬儀に呼ばれる道士という特殊な職業についている人だ。そして同時に夫から激しいDVを受けた過去を持ち、またレズビアンであもる。一見、普通の明るいおばあちゃんのように見えるアヌさんは非常に複雑な人生を送ってきたのだということが、映画が進むにつれて次第に明らかになって行く。観客が強い衝撃を受けずにいられないのは、黄監督とアヌさんが、彼女たちが日常生活で使うダイニングテーブルを挟んで向かい合う場面だろう。黄監督は涙をぬぐおうともせずに、父親から性的な虐待を受けていたと告白する。監督は母親に命じられ夜ごと父親の寝室へと行き、性的虐待に耐えなくてはならなかった。アヌさんは「知らなかった」で押し通した。

私の過去とアヌさん

人は誰でも多かれ少なかれ、心の傷を抱えて生きているはずだ。映画でDVを続けた夫のことが語られた時、私は私自身の父親のことを思い出さずにはいられなかった。私は父と過ごしたことがほとんどないのだが、父は帰ってくると深酒を煽り、母に対して執拗な暴力を加え続けた。ギャンブル狂で、借金がかさみ、暴力団員からの借金の取り立ても執拗に続いた。アヌさんの夫は家族に見捨てられ自殺したのだが、私の父は肝臓を悪くして死んでいる。私は幼少期から、自分が父親と同じような人間になるのではないかとのある種の恐怖とともに生きた。母からは私が父の血をひいているという理由で罵られた。それは今も続き、母はメールで罵ってくる。アヌさんは恋人たちに対して、自分の娘のことを「養子だ」と話していたことが映画で語られるが、もしかすると私の母と同様に、自分の子どもは夫の血を引いているために、その存在を受け入れがたいという気持ちがあったのではないかと私には感じられた。

アヌさん自身のことも、私には母とオーバーラップして見えざるを得なかった。あまり人に話したことはないが私は姉から継続的な虐待を受けていた。このことを過去に数人のごく親しい人に話したことがあるものの、あまりよく理解してもらえなかった。おそらく、姉から弟への虐待というものは一般的に語られる虐待の構造と合わないため、うまく想像してもらえないのではないかと考えている。私が母に対して、なぜ姉から私を救ってくれなかったのかと問い詰めた時、母は「知らなかった」で押し通した。母は私が苦痛で顔をゆがめ、茫然自失している姿を見ている。だが、現場を見ていないから知らなかったと言うのである。私は、私の母も、アヌさんも、逃げ切ろうとしているという点で共通しているように見えてならなかった。やや執拗になって申し訳ないが、アヌさんが恋愛に対して積極的に生きてきたことも私には母とオーバーラップするものだった。黄監督はアヌさんが恋愛に対して積極的であるにもかかわらず、家族に対してはあまり深く関わろうとしていないことにもどかしさを感じてる。私の母は、私が初めて社会人として勤務した職場近くのアパートの鍵を持っていて、ある時私が帰宅すると、母は私の知らない男性との性行為の最中であったということがある。アヌさんがそこまで酷いとは思わないが、何かが壊れてしまっている点が共通しているような気がしてならなかった。

性被害を受けたとある女性とアヌさん

私は、私の学生だった女性にこの映画に関する意見を求めてみた。彼女は以前、私に対し、彼女がレイプされたことがあるとの経験を語ってくれたことがある。彼女は熱心に、繰り返し、そのことについて語った。私は彼女の語る内容を理解する努力は続けたが、一、二度聞いただけでは深く理解することはできなかった。何度も繰り返し耳を傾けることによって、ようやく少しずつ理解は深まって行った。飽くまでも私の理解だが、彼女が私に訴え続けたことは、そのことによる心の傷は生涯続くもので、被害者は苦しみ続けるということだった。彼女のアヌさんに対する評価は厳しいものだった。アヌさんはレズビアンであるために、本当は男性のことが好きではないのかも知れない。しかし、社会的な圧力のために一度は結婚し、娘を生むところまでは耐えた。だが、それ以上、夫の要求にこたえることができないために、彼女は自分の娘を差し出したのではないかと言う見立てを彼女は私に述べた。尚、このことをブログに掲載することについては、彼女から了承を得ている。

生きることの難しさ

もしアヌさんがあのダイニングテーブルの前でシラを切らなければ、私はもっとアヌさんのことを好きになれただろうと思う。人は過去の過ちを受け入れ、反省するならば、いわゆる悔い改めというプロセスを経るならば、救済され赦されなければならないと私は思うからだ。

アヌさんを断罪すればそれで良いというものではもちろんない。アヌさんは多くを語らなかったが、簡単には語れない複雑な事情もあるはずなのだ。おそらくアヌさんはその多くを墓場まで持っていくつもりなのではないだろうか。

人は誰でも完全ではない。私は私が受けた被害について述べたが、私が加害者にならないとは限らない。人は誰もがアヌさんの立場になる可能性と黄監督の立場になる可能性の両方を秘めているに違いない。

アヌさんと黄監督の今後の人生がどのように展開するのか、私は知りたい。監督はいずれ、アヌさんとの関係をある種の高みへと昇華させてくれるのではないかとの期待が私にはある。また映画作品にまとめられる日が来れば、映画館に足を運びたい。

古代父殺し、近代父殺し、ポストモダンの母殺し

質問。近代文芸の父殺しを説明してください。古代ギリシャの父殺しと、ユートピア建設の父殺しはどちらが小説理解にとってより重要ですか?娘による母殺しはどうですか?

近代小説に於ける父殺しの概念の基礎になっているのはフロイトです。フロイトがエディプスコンプレックスという概念を世に問いました。このエディプスというのは、ご承知の通り古代ギリシャ神話のエディプスの父殺しに由来しています。

現代の我々が父殺しという時に、それが古代ギリシャ型父殺しなのか、それとも近代のフロイト型父殺しなのか、どちらなのかと言えば、フロイト型を想定してよいでしょう。思考実験的にギリシャ型とフロイト型を比較することはおもしろいかも知れませんが、近代小説に対する理解を深めるという観点から言えば、フロイト型を出発点にして捉えた方が、話は早いかも知れません。

では父とは何でしょうか。父いう言葉にはルールを決める人、善悪を決める人、罰を与える人、裁く人、権力者などを象徴する場合が多かったのではないかと思います。これ即ちキリスト教的父権主義を象徴しています。イエスが男性であり、イエスの父と精霊が三位一体になって神になるわけですけれど、女性が全く入ってきません。中世ヨーロッパ世界の頂点にいるローマ教皇は男性であり、神聖ローマ皇帝も男性であり、カトリックの教会の神父さんも男性であり、世界のルールは男性が決めていたわけです。聖母マリアのような存在は飽くまでもそのような厳しい男性社会の中に於いて、やすらぎや癒しの象徴にはなったでしょうけれど、聖母マリアがルールを定め、世界の終わりに人類を裁いたりすることは決してないわけです。近代的な、即ちフロイト的な父殺しは、そのような善悪を定める男を殺すことを求めているのであって、ギリシャ神話的に母親を横取りしようとかという話ではないということは押さえておいて損はないかも知れません。近代的な父殺し・神殺しは、父の持っている女性や富を横取りしたいのではなく、もっと本質的なものを変革しようとするものです。父の成し得なかった理想を私が成し遂げるというようなイメージになると思います。

ご質問を要約すると「神を殺してユートピア建設」か「父を殺して父の既得権をもらう」のどちらなのかということになるかと思います。「神を殺してユートピア」という発想を説明するには、ニーチェの存在に言及するのが良いかも知れません。彼は神に頼らぬ、善悪の彼岸に位置する超人という概念を追求しました。中世的な宗教による善悪の決定の先に行くことをニーチェは求めたわけです。ニーチェはフロイトより少し早く生まれ、フロイトよりうんと早く死んでいます。ニーチェとフロイトに共通することは、中世的な宗教世界から解放された(または追放された)人は何を考えて生きれば良いのかという問題意識を解決しようとしたということです。ニーチェは神がいなくても生きている人間像を追求しようとし、フロイトは神抜きで人間の精神を説明しようとしたわけですね。ここで言う神とは父と言い換えてもよいものです。
ですから繰り返しになりますけど、近代以後の世界で父殺しと言えば、神殺しであり、それはニーチェ・フロイト的な概念にたどり着くわけですが、その新しい概念、脱宗教的ユートピア建設=精神面での近代化をやってのけるために、ギリシャ神話のエディプスを持ち出して説明がなされたわけです。ご納得いただけましたでしょうか。

さて、次に、母殺しについて、私になりに簡単に述べたいと思います。まず、母殺しという言葉で私たちが思い浮かべるのは、母殺しをテーマにした寺山修司の映画、『田園に死す』です。この映画では、母なるものからの解放を願った男性の主人公が、いかに母を憎み、母を殺すと誓ったとしても、母はびくともせずに朝食を作り、みそ汁を飲めと迫ります。息子がどれほどユートピア建設を目指そうとしても、そしてユートピア建設にとって母は邪魔である、母は敵であると認識しても、母はそれまで通りのルーティンを決して崩しません。父は殺せば終わりですが、母は殺しても死なないのです。そして息子に味噌汁を飲ませようとする無敵の存在なのです。

しかしこれには、息子の母に対する諦めが見え隠れします。父と息子であれば遠慮なく殺し合えるのですが、母にはそういうわけにはいきません。母は殺しても死なないので、いずれ息子は降伏するしかないのです。エヴァンゲリオンでは父のゲンドウは途中であきらめてシンジの列車を降りていきます。ところが母のユイはとっくの昔に死んだも同然であるにもかかわらず、ゲンドウもシンジもユイのしがらみにがっちり縛られ続けます。仮にそのような強力な母が毒親であった場合、世界は真っ暗闇に包まれてしまうに決まっています。ユイが高天原の天照のようにエヴァンゲリオン実験機の中に閉じこもって出てこないことにより、父と息子の関係はどちらを殺すかまで続く果てしのないものになりました。仮にユイが本当に自ら望んでそうしているのであれば、徹底的な毒親であるとここで認定しておきたいところです。そのようなシンジを母から解放するには、友達の息子を誘惑するという稀代の悪女マリのような存在が必要だったわけです。そしてシンジがマリとの将来を選択することによって、シンジは大人になったということも言えるでしょう。ユイとマリの相克という裏テーマもおもしろそうですが、また機会があれば考えてみたいと思います。

さて、では、娘と母の場合はどうなるのでしょうか?実はこれについては私にも定見がありません。少し考えても思いつきません。強いて言うならば、豊かな母性愛を持つ母と娘が互いに手を取り合い、助け合って、男性中心社会の荒波を乗り越えようとするものか、或いは母と娘ともに近代男性中心主義に飲み込まれてしまい、どちらがより男性にとって理想的なのかを相争って憎み合うパターンのようなものが考えられます。実際にそのような事案はいろいろありますし、リアルに起きた事件の中にも、警察による立証はなされていないものの、母が新しい夫によって強姦された娘を殺した可能性が否定できないようなものもありますから、私が男性であるが故にあまりよく分かっていないだけで、母と娘の相克というものは人類の歴史とともに存在したと見るべきかも知れません。とすれば、男性中心社会がいよいよ本格的に崩壊しているわけですから、今後、文芸や映画の重要なモチーフとして母と娘の関係が描かれてゆき、評論可能な題材や型のようなものが形成されていくと考えてもよいのかも知れません。もしかすると『若草物語』が考える素材になるかもしれないとも思いましたが、それについてはまた後日考えてみたいと思います。



何故パルプフィクションの評価はあそこまで高いのですか? 僕もめちゃくちゃ好きで、面白いとは思いますが、imdbだと10位以内に入っていて、それほどかな?という風に感じます。

「何故パルプフィクションの評価はあそこまで高いのですか?僕もめちゃくちゃ好きで、面白いとは思いますが、imdbだと10位以内に入っていて、それほどかな?という風に感じます。」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

タランティーノ監督は、パルプフィクションの前にレザボアドッグスを撮影しています。アメリカの裏社会の面々を描くというコンセプトは同じですが、レザボアドッグスは男たちの会話だけでどこまでひきつけることができるかということに挑戦しています。そのような試みをした主たる理由は制作費にあると思いますけれど、結構成功していて、最後まで関心を持って私は見ることができたんですね。ただし、やっぱりどうしても、会話だけで引っ張ろうとするものですから、ドキドキわくわくするとか、圧倒的な映像美とか、圧巻のストーリー展開とか、そういうのはないんですよね。まあ、なくてもいい映画はいっぱいありますから、それがないからマイナスということにはなりませんけど、でもやっぱり、より多くのファンを獲得したいと考えるのであれば、ちょっと物足りないところはあると言えると思います。

レザボアドッグスで評価されたことで、パルプフィクションでは制作費を獲得することができ、有名俳優を投入し、場面展開もめまぐるしく変化させることができ、音楽にも凝っていて、飽きっぽい観客でも見続けることができる作品になっていると私は思います。幾つかの人間模様が交差するオムニバスですから、悪く言えば物語がブツ切りになってるんですけど、良く言えば無駄を捨てている。説明を省いている。絵を見て勝手に判断してくれよ、というか、絵が良ければそれでよくね?というある意味では映画に対して非常に純粋な態度で臨んでいるというようなところは、本当に気持ちいいとすら言えると思います。ですから、さっき死んだジョン・トラボルタが、次のエピソードに登場してきても、時間軸に捉われている方がダサいぜ。くらいの勢いがあるので、観客はそれも受け入れることができたんだと思います。映画の最後の方でサミュエル・ジャクソンが神の愛みたいなものに目覚め、ヤクザ稼業から足を洗うわけですけど、足を洗わなかったジョン・トラボルタは殺されるわけですから、ちょっとそのあたり、私は人生について考えさせられてしまい、そのような深みもこの映画の良さではないかなと思います。

で、ですね、タイトルがいいですね。パルプフィクションですから、紙に書いた作り話だよと、ペーパーバックの三文推理小説を電車の中で読み捨てるくらいのライトな感覚で見てくれよ。とタイトルで宣言しているのも、なんか思い出すたびにしみじみするというか、映画を楽しもうよ!という監督の映画に対する哲学みたいなのが感じられて、いいなあと思うわけですね。

そのように素敵な点がたくさんあるパルプフィクションですが、ご指摘の通り、そこまでか?と思わなくもありません。太陽がいっぱいのアランドロンの悲しさ、七人の侍の死にゆく侍たちの悲しさ、市民ケーンの金はあっても愛がないことの悲しさを描いているのかというような話をすれば、そうではない、その分、軽いと言う指摘はあり得ます。ただし、タランティーノ監督は映画とは、観客が映像を見ている瞬間、楽しむことができればそれでいいのだ、というかそれが映画で、考えさせる映画なんかいらねー。という哲学で作ってるわけですから、そういうアンチ教養主義みたいな立場で作った映画としてはやっぱり最高峰に位置するんじゃないですかね。

なんとなく回答してみたらこんなに長くなってしまいました。私、そんなにパルプフィクションは好きじゃないつもりだったんですけど、ここまで書いてしまうということは好きなんだなあと気づきました。



ハリウッド映画では問題の最終解決手段として核兵器が使われることがありますが、アメリカ人は核兵器のリスク(放射能など)をどれくらい理解しているのでしょうか?

「ハリウッド映画では問題の最終解決手段として核兵器が使われることがありますが、アメリカ人は核兵器のリスク(放射能など)をどれくらい理解しているのでしょうか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

『博士の異常な愛情』とか、『渚にて』とか、『チャイナシンドローム』とか、放射線の恐ろしさを伝える作品は英語圏ではいろいろあります。日本人は広島と長崎の惨劇についてよく学んでいますから、確かに日本人に比べれば理解は低いでしょうけれども、「とてつもなく怖いらしい」ということについては、かえって情報が少ないだけに伝説的なものに発展しているのではないかと思います。アメリカ映画で核兵器を使用するのって『エヴォルーション』とか『インディペンデンスデイ』みたいなエイリアンが攻めて来たときとか、隕石が突っ込んでくるときくらいしかないので、もしかするとハリウッドのコンプライアンス的に、核兵器は宇宙から脅威が来た時しか使ってはいけないなどのようなコードでもあるんじゃないですかね。



シンデレラはパーティーでどんな踊りを踊ったのですか?やっぱりワルツですか?

「シンデレラはパーティーでどんな踊りを踊ったのですか?やっぱりワルツですか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

思考実験的に述べます。シンデレラという物語の起源ははっきりしないため、分からないとしか言いようがありません。しかし、我々が知るシンデレラはグリム兄弟が整理してまとめたものあり、グリム兄弟がドイツの人だということを手掛かりに考えてみたのですが、ドイツ語圏で男女がともに躍る音楽にはレントラーとヴィエンナワルツがあるものの、グリム童話が成立した時期にはまだヴィエンナワルツは成立していません。とすれば、レントラー一択になります。レントラーは4分の3拍子の素朴な音調のダンス音楽ですが、これをワルツの前身と見るか、ワルツの一種と見るかで結論は変わることでしょう。



海外の映画などで見られる間違った日本の文化の解釈にはどんなものがありますか?

「海外の映画などで見られる間違った日本の文化の解釈にはどんなものがありますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

ドイツ人のアーノルド・ファンクという映画監督が撮影した『新しき土』という映画があるのですが、これは日本人の伊丹万作との二人監督ということで話題になりました。ドイツ語タイトルは『侍の娘』というもので、ファンクは最初からステレオタイプの日本イメージの映像を作る気まんまんだったようです。で、この映画では恋愛に敗れた原節子が自ら命を絶つために火山へ向かうという場面があります。侍=切腹であり、侍の娘というタイトルからも分かるように、侍の娘も恥辱を受ければ命を絶つとの前提があり、日本の温泉のイメージと結びついて火山で自殺という発想になったんだと思います。伊丹万作はこの設定にきれまくり、二人の監督は全く別々に映画を撮影しました。今、ネットで探せば、ファンク版は見つかるのではないかと思います。



ノンフィクション映画の最高傑作はどの作品だと思いますか?

「ノンフィクション映画の最高傑作はどの作品だと思いますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

フランス人の映画監督が日本の広域団体の組長に密着した『young yakuza』を推したいと思います。とあるお母さんが、息子がニートなので鍛えてやってほしいと熊谷組の組長さんに頼みます。で、息子は組の見習いみたいになるんですけど、息子が成長するのかというと全然しないんですね。息子は最終的には自分の時間がないという理由でバックレるわけなんですが、息子と一緒に行動しつつ、熊谷組長にもいろいろ話を聞くことで、広域団体の人達の日常とか、考え方とか、価値観とか、そういったものが分かる内容になっています。そういった人達の本音とかって確かに私たちは知りませんし、そもそも会話をすることすら普通はないと思います。私が子供のころは父親が半グレだったのでそういう人も家に来ましたけど、家が特殊なのであって、普通はやっぱり出会わないと思うんです。私も新聞記者を辞めてからはそういう人とは一切出会わなくなりました。そういうわけですから、どういう声のトーンで話すのかというようなところから始まって、組の存在意義とか、組長さんに生きがいみたいなものとかがだんだん分かってくるのは大変に興味深いです。表の顔と裏の顔があって、表の顔は気前良く撮影に応じるんですけど、裏の顔は決して見せないし、カメラの前で「これ以上は見せない」と言い切っている場面がありますから「あ、やっぱり裏はあるんだなあ」ということも想像できるわけです。熊谷組長が長身でハンサムなフォトジェニックな人なものですから、その世界がもしかしたら実はとても魅力的な世界なのではないかと、錯覚を起こしそうになります。話す内容も、街の人たちの治安を守るためとか、組員は家族同然、行き場のない人を救う場所、のような良いこと言うんですよね。

で、バックレた息子さんですけど、組の人には足取りが分からないままでしたから、多分、お母さんのところにも帰ってないんですけど、最後にカメラの前に現れます。で「自分の時間がなかったから」というようなことを言います。この一言からも、組の人たちの日常生活が想像できます。本当にいつも一緒にいて助け合って、何かが起きれば団結するイメージが喚起されます。たけしさんの映画でも組の人達が仲間同士ほんとうに仲良しですけど、あんな感じなんだろうなと言うのが伝わってくるんですね。私のように孤独を愛するタイプには無理かも知れない、とかいろいろ考えたりしました。時々、あの映画のことは思い出すんですけど、そもそもニートの息子さんを鍛えてもらおうと思って組に入れてしまうお母さんってどうなんだろうなと言う何とも言えないものがいつももやっと残るのですが…。

この映画はカンヌにも特別招待されて、組長さんもカンヌに招待されたことで話題になりました。



全人類が突然あと一年で死滅するとわかったら、人類はどのような行動に出ると思いますか?

「全人類が突然あと一年で死滅するとわかったら、人類はどのような行動に出ると思いますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

『渚にて』というSF小説では、放射能汚染により人類が次第に死に絶える中、最後に残ったオーストラリアの人々が静かに滅びの日を待ちます。もちろん、そうではない、不心得な人がいることも示唆されますが、主たる登場人物が最後の瞬間まで文明人として自律的・倫理的な振る舞いを保ちます。私もそうありたいと思いますし、本当に死滅すると分かると何に手を付けていいのかもわからなくなってしまいますから、多くの人もそんな感じになるのではないでしょうか。



ランチェスター戦略を日本文化を海外に紹介するYouTuberに応用するとしたら、どうしたら良いですか?理論は分かっても、実際に当てはめる部分が出来ず困っています。

「ランチェスター戦略を日本文化を海外に紹介するYouTuberに応用するとしたら、どうしたら良いですか?理論は分かっても、実際に当てはめる部分が出来ず困っています。」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

私、ざっくりとしたことしか知らないんですけど、仮にランチェスター戦略なるものの肝が、たとえ弱者であっても狭い範囲の勝てる領域で勝とう。というものであるとすれば、日本文化に興味のある人々が多そうな地域に絞り、その地域の人たちに気づいてもらえるような動画づくりということになるのではないかと思います。パッと思いつくのは台湾ですが、韓国の人々の日本への関心も並々ならぬものがあります。あと、日本人移民の多いハワイ、ブラジル、カリフォルニアでしょうか。英語なり韓国語なり中国語なりの字幕をつけるとか、そういった国や地域の人を雇ってナビゲーターにするとかなら可能と思います。仮にテーマで絞るのであれば、アニメ、漫画、ゲーム、寿司、忍者あたりに焦点を絞り込むということでしょうかね。



海外の映画などで見られる間違った日本の文化の解釈にはどんなものがありますか?

「海外の映画などで見られる間違った日本の文化の解釈にはどんなものがありますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

ドイツ人のアーノルド・ファンクという映画監督が撮影した『新しき土』という映画があるのですが、これは日本人の伊丹万作との二人監督ということで話題になりました。ドイツ語タイトルは『侍の娘』というもので、ファンクは最初からステレオタイプの日本イメージの映像を作る気まんまんだったようです。で、この映画では恋愛に敗れた原節子が自ら命を絶つために火山へ向かうという場面があります。侍=切腹であり、侍の娘というタイトルからも分かるように、侍の娘も恥辱を受ければ命を絶つとの前提があり、日本の温泉のイメージと結びついて火山で自殺という発想になったんだと思います。伊丹万作はこの設定にきれまくり、二人の監督は全く別々に映画を撮影しました。今、ネットで探せば、ファンク版は見つかるのではないかと思います。