何故いまだに新聞(デジタル版ではなく家に届けられる紙の新聞)は生き残っているのでしょう?朝刊を読んでいる時点で、すでにアップデートされた最新情報をインターネットで見られるというのに。

「何故いまだに新聞(デジタル版ではなく家に届けられる紙の新聞)は生き残っているのでしょう?朝刊を読んでいる時点で、すでにアップデートされた最新情報をインターネットで見られるというのに。」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

敢えて言うとですね、新聞には資料的価値があります。インターネットで読めるニュースはサイトの運営者の独自の判断で一方的に削除することが可能です。しかし、新聞紙の場合、何十万部、何百万部と印刷されて各地に送られるわけですから、削除すればいいやというわけにいかない。誰が必ず保存していて、論争になるようなことがあれば、証拠として持ち出してくるかも知れない。縮刷版が発行されれるのも資料的価値があると判断しているからですね。新聞記者もネットで如何に速報が出せると言っても、はやり紙に記事が掲載されることの重みみたいなのを感じているはずなんですよね。新聞の印刷は新聞法によって規定された、公的業務みたいな感じになりますから。



誰でもよかったという殺人犯は、なぜ政治家や暴走族や犯罪者を殺さないのでしょうか?小学生や障がい者の方が亡くなられるのを知るたびになぜ自分より弱いものを標的とするのか腹が立ちます。

「誰でもよかったという殺人犯は、なぜ政治家や暴走族や犯罪者を殺さないのでしょうか?小学生や障がい者の方が亡くなられるのを知るたびになぜ自分より弱いものを標的とするのか腹が立ちます。」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

「誰でもよかった」という表現は、警察の捜査資料の作り方と関係しています。公判維持のためには被疑者の犯行動機を明確に記載しなければならないのですが、通常であれば「恋愛で裏切られて殺意を持った」とか「ビジネスで裏切られて殺意を持った」などの理由があれば、そのように資料に書き込むことができるわけなのですが、通り魔的な犯人にはそのようなものがありません。しかし、なぜその人を狙ったのかということを説明しなければならないので、非常に困るわけです。警察としては書類上「誰でも良かった」と書き込まざるを得ないのですね。まず間違いなく、被疑者に対して「じゃ、誰でも良かったんだね」と念押しして書類に書いているはずです。で、ここからは私個人の感じる問題なのですが、警察の捜査について知識のない人は、そのような警察の事情など、知る由もありません。にもかかわらず警察が自分たちの保身のためにマスメディアに向かって「誰でも良かった」とする警察的表現を使用し、記者たちも「これは警察発表です」との体裁を維持するために、そのまま記事にし、一般の読者はそれを見て、文字通り「誰でも良かった」と受け取るため、被疑者の心理へより深く分け入っていくことができなくなってしまうことが非常に難しい問題をはらむと思います。被疑者は本当は誰でも良かったわけではないのです。なんらかの理由で小学生を狙ったり、路上を歩く、たまたま通りかかった〇〇な感じの女性を狙ったりしているに違いありません。そのような細かい機微についての報道がないため、多くの読者は「このように酷い事件を起こす人間の考えていることは分からない」との感想を持ち、自分とは関係のないことのように考えてしまいます。そしてニュースが消費されていきます。この手のニュースは人が殺されるなどの重大問題であるにもかかわらず、ラーメン屋さんのカウンターでラーメンを待つ間の時間つぶしとか、朝の出勤準備の時の聞き流しとかで消費され、忘れられていきます。被害者の遺族はなぜ自分の大切な家族が狙われたのか本質的なところでは理解できず、被疑者についてもそこまで精神を病んでしまった理由について誰も関心を持たないまま刑が執行されていくということになりかねず、社会は全く教訓を得ることができません。仮に事件報道の使命が社会に教訓を得てもらうことで事件の再発を防ぐということにあるのだとすれば、今のような警察の都合だけに配慮した報道では不十分なのではないかと私は常々思うのです。私はその手の報道を見ると無力感に苛まれるため、次第に見なくなってしまいました。



素人一般市民が民事訴訟を起こす可能性を検討しているときに、読むべき本やお勧めのサイトをご紹介頂けませんか?

「素人一般市民が民事訴訟を起こす可能性を検討しているときに、読むべき本やお勧めのサイトをご紹介頂けませんか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

三浦和義さんの著作に弁護士いらずと言うタイトルの本があります。拘置所にいながら、メディア各社を訴えて勝ちまくった経験談なのですが、訴訟って大変なんだなと感じる一方で、訴訟という手段を使うことで異議申し立てが本当にできるんだなとも感じることかできます。悪意のある記事を書いた記者も裁判所であれば呼び出せると、訴訟の持つ力のようなものが書かれていて、本人訴訟がしたい人にはモチベーションを上げるのにいいと思います。三浦和義さんについてはさまざまな意見があると思いますが、私はこれを読み、これほど裁判所での戦いに自信のある人が、カリフォルニアで裁判が始まる前に自ら命を絶つはずがないと思うようになりました。



常識的に考えたら、日本が武力攻撃されるなんてことはないと思いますが、自衛隊に年間5兆円近く使ってるのは有効な税金の使い方と言えるのですか?

「常識的に考えたら、日本が武力攻撃されるなんてことはないと思いますが、自衛隊に年間5兆円近く使ってるのは有効な税金の使い方と言えるのですか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

常識的に考えればアメリカが日本を守っているのですから日本が武力攻撃されるなんてことはないと私も思います。ですから自衛隊に年間5兆円も使うのであれば、それを生活保護とかベーシックインカムとかに使う方が遥かに日本人の幸福に貢献するのではないかと思います。しかしながらベトナム戦争以後、本当にアメリカに日本を守り切れるかどうかは、わりと疑問が残ります。過去50年で周辺諸国の経済力・技術力が上がってますから、ますますアメリカががんばってくれるかどうか微妙になってます。仮にアメリカが日本を本気で守らないということがばれれば、これはもうやりたい放題やられますので念のために自衛隊を持っておくのは一つの方法です。更に入念に徴兵制を導入しておけば予備役がごろごろいることになりますので、敵に日本を占領されてもゲリラ戦ができるようになると思いますが、さすがに徴兵制は明白な憲法違反なのでそういうわけにはいきませんね。



人々がボランティアをはじめるためには、どのようなきっかけが必要なのでしょうか?

「人々がボランティアをはじめるためには、どのようなきっかけが必要なのでしょうか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

なんらかの意味でお得がなければいけません。たとえば、人と出会えるというのはボランティア活動の大きな魅力の一つです。或いは、進学の際にボランティア経験を書類に書けることが有利な場合もあれば、それもきっかけになります。更に言えば「僕は今日はいいことしたなあ」と思いたいからやるというのもインセンティブになると思います。

但し、ボランティアは自由であるべきと私は思いますので、あまり組織化されすぎたボランティア活動には私はあまり魅力を感じませんから、時々、お上主導のボランティア活動がありますけど、ああいうのは、ちょっとなあと思う時もあります。役所が主導するのなら、ボランティアにも人件費出してやれよとか思っちゃうんです。

私以前、渋谷で路上生活者の方々にご飯を配るボランティアを手伝ったことがあるんですけど、お上とはどちらかと言えば対立姿勢の集団で、私は特にお上と戦いたいわけではなかったんですが、お上のコントロールの外でやってるボランティアですから、自由だし、やってる人の情熱もなみなみならぬものがありましたから、そういうエネルギーに触れることもできて、今でも貴重な思い出なんですね。路上生活の人たちと意見交換したり、談笑したりしたのも、とても大きな経験でした。

そういう、わりと破壊力の大きいボランティアにかかわった経験があったおかげで、生ぬるいボランティアはできなくなっちゃいましたね。あ、ボランティアは娯楽ではありませんでした…すみません…。



過去に起きた冤罪で一番酷いと思われるものにどんなものがありますか?

「過去に起きた冤罪で一番酷いと思われるものにどんなものがありますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

袴田事件ですかね。捜査関係者も途中から袴田さんは犯人ではないと気づいていたように私は思うんですね。にもかかわらず、メンツにかかわるから、或いは人事に影響するからという理由でこのまま押し切ろうとしたわけですから非常に醜悪です。たかが組織内の出世のために無実の袴田さんが死刑になってもいいと思いそのように謀議したということになるわけですから、繰り返しますけど醜悪で悪質です。袴田さんの事件を担当した裁判官の方は、袴田さんに有罪判決を出すことに納得できなくて裁判官やめて大学の先生になったと『BOX』という映画でやってましたけど、その裁判官の方はえらいとは思うけれど、自分が引退する年齢になって、当時の裁判長も年老いて亡くなってからカミングアウトするって遅すぎると思うのです。その方は「実はあの時…私は無罪だと思ってたんです。裁判所一体の原則があるから、裁判長及び二人の裁判官が合意して決めたってことになってますけど、実は多数決で、私は無罪に投票したんですけど、他の二人は有罪に投票したものですから、死刑判決が出たんです」という趣旨の発言をされて、裁判所一体の原則が崩れた、合議・合意前提の裁判官たちが実は多数決で決めていたということが分かったことが袴田さんの刑の執行を停止するという判断につながったわけですから、その裁判官の方はよく言ったと、日本の慣習と戦ってよく話してくれたとは思いますけど、やっぱり遅すぎますよね。無実なのに40年間も死刑囚をさせられたのです。容認できません。



ランチェスター戦略を日本文化を海外に紹介するYouTuberに応用するとしたら、どうしたら良いですか?理論は分かっても、実際に当てはめる部分が出来ず困っています。

「ランチェスター戦略を日本文化を海外に紹介するYouTuberに応用するとしたら、どうしたら良いですか?理論は分かっても、実際に当てはめる部分が出来ず困っています。」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

私、ざっくりとしたことしか知らないんですけど、仮にランチェスター戦略なるものの肝が、たとえ弱者であっても狭い範囲の勝てる領域で勝とう。というものであるとすれば、日本文化に興味のある人々が多そうな地域に絞り、その地域の人たちに気づいてもらえるような動画づくりということになるのではないかと思います。パッと思いつくのは台湾ですが、韓国の人々の日本への関心も並々ならぬものがあります。あと、日本人移民の多いハワイ、ブラジル、カリフォルニアでしょうか。英語なり韓国語なり中国語なりの字幕をつけるとか、そういった国や地域の人を雇ってナビゲーターにするとかなら可能と思います。仮にテーマで絞るのであれば、アニメ、漫画、ゲーム、寿司、忍者あたりに焦点を絞り込むということでしょうかね。



死後の世界や幽霊の存在が証明されたら殺人罪の重さや裁判に影響を与えますか?

「死後の世界や幽霊の存在が証明されたら殺人罪の重さや裁判に影響を与えますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

死者の霊魂が存在することが証明されたとします。そして仮にその霊魂は人間と自在に話すことができるようになったとします。しかし、霊魂の証言が証拠と採用されるかどうかについては、少し難関が待ち受けていそうな気がします。たとえばDNA捜査は時に誤った判断がくだされることもあるわけですから、重大事件では慎重に取り扱われます。それだけで決定的な証拠になることはありません。では霊魂の証言はどうでしょうか?黒澤明監督の『羅生門』に登場した死者の霊がそうであったように、霊魂も自らの名誉のために嘘をつく可能性は否定できません。しかも霊魂は偽証罪に問われませんから嘘はつき放題です。従いまして、霊魂の証言を検証する技術的なハードルを越えることができれば、裁判にも影響することになると思います。後は先例の積み重ねによる微調整の問題になっていくかも知れません。



僕は日本に住んでいてどうしても同調圧力や協調性の強要などですごく生きづらく感じます。もしコロナが明け、海外にいけるようになったらどんな国が安全で住みやすくておすすめですか?

「僕は日本に住んでいてどうしても同調圧力や協調性の強要などですごく生きづらく感じます。もしコロナが明け、海外にいけるようになったらどんな国が安全で住みやすくておすすめですか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

特に希望がないのであれば、アメリカかイギリス以外の英語圏がいいのではないかと思います。オーストラリアに行ったとき、人種差別があまり存在しないような印象を受けました。白人であろうと、アジア系であろうと、平等に、分け隔てなく人間関係を結んでいるように見えました。もちろん暮らしたわけではないので、単なる印象なのかも知れません。とはいえ、食事もそれなりに和洋中が楽しめますし、なんと言っても英語が通じるので、苦労は少ないという印象です。労働者の人権も手厚く守られているように思いました。カナダにも似たような印象を得ています。

アメリカのちょっと異様な感じすらする人種・民族的な分断やイギリスのいかにも疲れ切った雰囲気はいかがなものかと思います。英語圏以外であれば、想像もつかない社会的コードがあるでしょうから、安全で住みやすいという条件にはあてはまらないとも思いますねえ。



日本はもうダメかもしれない。と思った具体的な出来事やシーンはありますか?

「日本はもうダメかもしれない。と思った具体的な出来事やシーンはありますか?」というquoraでの質問に対する私の回答です。

帰国後、街行く人々の姿を見る限り、貧富の格差は確実に開いており、平均的な生活水準は確かに下がっているという印象を受けました。

先日友人と、90年代から2000年ごろにかけての新聞社が企画する展覧会と最近のそれとを比較した場合、ラインナップが明らかに貧弱になっているということで意見の一致を見ました。昔は本物や名作が大量に陳列されていて、見る側は咀嚼するのに苦労するほどでしたが、最近は目玉数点+アルファみたいなものが多く、要するに本物を呼べない分、知恵を絞ってなんとかしているように見えます。たとえば昔だったら「ゴッホ展」が開かれれば有名作品をばっかんばっかん上野で見ることができたのですが、今は「ゴッホと〇〇」「ゴッホの〇〇」のようなネーミングで、よく言えば新しい視点を持ち込もうとしているんですが、はっきり言えば貧弱な展示をごまかしているように思えるんですね。

外食時も味が落ちたなあと思うことが非常に多いですから、原価をかけられなくなってきているんだと思います。

芸能も若い女の子のセット売りばかりで、何がいいのかよく分からないし、地下アイドルビジネスというのも、要するにプロデュースにお金かけられないから、あんな風になるんだろうなと。

起業、有名人、個人関係なく何かあったらSNSですぐ炎上という社会現象も、もはや浮上できないと諦めてしまった人々が、せめて成功者を引きずり下ろすことでメシウマになろうとしているように見えて、日本人ってこんなに民度低かったかな?と思ったりもします。

街行く人が着る服も安くなったなあ…と感じますし、みんな、かつてのおおらかさが表情から消えていて、警戒と諦めの入り混じった難しい顔をして歩いているような気がします。

やはり貧すれば鈍するは本当で、経済成長の良かった時代は、人の心もおおらかで、誰もが幸せそうに見えました。

あ…すみません…愚痴を延々と…