古代父殺し、近代父殺し、ポストモダンの母殺し

質問。近代文芸の父殺しを説明してください。古代ギリシャの父殺しと、ユートピア建設の父殺しはどちらが小説理解にとってより重要ですか?娘による母殺しはどうですか?

近代小説に於ける父殺しの概念の基礎になっているのはフロイトです。フロイトがエディプスコンプレックスという概念を世に問いました。このエディプスというのは、ご承知の通り古代ギリシャ神話のエディプスの父殺しに由来しています。

現代の我々が父殺しという時に、それが古代ギリシャ型父殺しなのか、それとも近代のフロイト型父殺しなのか、どちらなのかと言えば、フロイト型を想定してよいでしょう。思考実験的にギリシャ型とフロイト型を比較することはおもしろいかも知れませんが、近代小説に対する理解を深めるという観点から言えば、フロイト型を出発点にして捉えた方が、話は早いかも知れません。

では父とは何でしょうか。父いう言葉にはルールを決める人、善悪を決める人、罰を与える人、裁く人、権力者などを象徴する場合が多かったのではないかと思います。これ即ちキリスト教的父権主義を象徴しています。イエスが男性であり、イエスの父と精霊が三位一体になって神になるわけですけれど、女性が全く入ってきません。中世ヨーロッパ世界の頂点にいるローマ教皇は男性であり、神聖ローマ皇帝も男性であり、カトリックの教会の神父さんも男性であり、世界のルールは男性が決めていたわけです。聖母マリアのような存在は飽くまでもそのような厳しい男性社会の中に於いて、やすらぎや癒しの象徴にはなったでしょうけれど、聖母マリアがルールを定め、世界の終わりに人類を裁いたりすることは決してないわけです。近代的な、即ちフロイト的な父殺しは、そのような善悪を定める男を殺すことを求めているのであって、ギリシャ神話的に母親を横取りしようとかという話ではないということは押さえておいて損はないかも知れません。近代的な父殺し・神殺しは、父の持っている女性や富を横取りしたいのではなく、もっと本質的なものを変革しようとするものです。父の成し得なかった理想を私が成し遂げるというようなイメージになると思います。

ご質問を要約すると「神を殺してユートピア建設」か「父を殺して父の既得権をもらう」のどちらなのかということになるかと思います。「神を殺してユートピア」という発想を説明するには、ニーチェの存在に言及するのが良いかも知れません。彼は神に頼らぬ、善悪の彼岸に位置する超人という概念を追求しました。中世的な宗教による善悪の決定の先に行くことをニーチェは求めたわけです。ニーチェはフロイトより少し早く生まれ、フロイトよりうんと早く死んでいます。ニーチェとフロイトに共通することは、中世的な宗教世界から解放された(または追放された)人は何を考えて生きれば良いのかという問題意識を解決しようとしたということです。ニーチェは神がいなくても生きている人間像を追求しようとし、フロイトは神抜きで人間の精神を説明しようとしたわけですね。ここで言う神とは父と言い換えてもよいものです。
ですから繰り返しになりますけど、近代以後の世界で父殺しと言えば、神殺しであり、それはニーチェ・フロイト的な概念にたどり着くわけですが、その新しい概念、脱宗教的ユートピア建設=精神面での近代化をやってのけるために、ギリシャ神話のエディプスを持ち出して説明がなされたわけです。ご納得いただけましたでしょうか。

さて、次に、母殺しについて、私になりに簡単に述べたいと思います。まず、母殺しという言葉で私たちが思い浮かべるのは、母殺しをテーマにした寺山修司の映画、『田園に死す』です。この映画では、母なるものからの解放を願った男性の主人公が、いかに母を憎み、母を殺すと誓ったとしても、母はびくともせずに朝食を作り、みそ汁を飲めと迫ります。息子がどれほどユートピア建設を目指そうとしても、そしてユートピア建設にとって母は邪魔である、母は敵であると認識しても、母はそれまで通りのルーティンを決して崩しません。父は殺せば終わりですが、母は殺しても死なないのです。そして息子に味噌汁を飲ませようとする無敵の存在なのです。

しかしこれには、息子の母に対する諦めが見え隠れします。父と息子であれば遠慮なく殺し合えるのですが、母にはそういうわけにはいきません。母は殺しても死なないので、いずれ息子は降伏するしかないのです。エヴァンゲリオンでは父のゲンドウは途中であきらめてシンジの列車を降りていきます。ところが母のユイはとっくの昔に死んだも同然であるにもかかわらず、ゲンドウもシンジもユイのしがらみにがっちり縛られ続けます。仮にそのような強力な母が毒親であった場合、世界は真っ暗闇に包まれてしまうに決まっています。ユイが高天原の天照のようにエヴァンゲリオン実験機の中に閉じこもって出てこないことにより、父と息子の関係はどちらを殺すかまで続く果てしのないものになりました。仮にユイが本当に自ら望んでそうしているのであれば、徹底的な毒親であるとここで認定しておきたいところです。そのようなシンジを母から解放するには、友達の息子を誘惑するという稀代の悪女マリのような存在が必要だったわけです。そしてシンジがマリとの将来を選択することによって、シンジは大人になったということも言えるでしょう。ユイとマリの相克という裏テーマもおもしろそうですが、また機会があれば考えてみたいと思います。

さて、では、娘と母の場合はどうなるのでしょうか?実はこれについては私にも定見がありません。少し考えても思いつきません。強いて言うならば、豊かな母性愛を持つ母と娘が互いに手を取り合い、助け合って、男性中心社会の荒波を乗り越えようとするものか、或いは母と娘ともに近代男性中心主義に飲み込まれてしまい、どちらがより男性にとって理想的なのかを相争って憎み合うパターンのようなものが考えられます。実際にそのような事案はいろいろありますし、リアルに起きた事件の中にも、警察による立証はなされていないものの、母が新しい夫によって強姦された娘を殺した可能性が否定できないようなものもありますから、私が男性であるが故にあまりよく分かっていないだけで、母と娘の相克というものは人類の歴史とともに存在したと見るべきかも知れません。とすれば、男性中心社会がいよいよ本格的に崩壊しているわけですから、今後、文芸や映画の重要なモチーフとして母と娘の関係が描かれてゆき、評論可能な題材や型のようなものが形成されていくと考えてもよいのかも知れません。もしかすると『若草物語』が考える素材になるかもしれないとも思いましたが、それについてはまた後日考えてみたいと思います。



5chとyoutubeならどちらの情報が信用できると思いますか?

「5chとyoutubeならどちらの情報が信用できると思いますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

youubeは偽名やなりすましも可能であるとはいえ、一応はアカウントを晒して利用しますから、それだけ責任も問われます。ですので5chよりも情報の信用性は高いと思います。匿名だからこそぶっちゃけることも可能という考え方もあるでしょうけれど責任を負わなないわけですから、信用という点では評価は下がると思います。



どうして根拠の薄い、または拡大解釈をしている隠謀論を信じこむ人がいるのでしょうか?

「どうして根拠の薄い、または拡大解釈をしている隠謀論を信じこむ人がいるのでしょうか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

信じがたいことを耳にした場合、当然、嘘だ!と思いますよね。で「馬は爬虫類だ」という人がいたら、ほうっておけばいいとなると思いますけど「人類は来年滅びる」と言われた場合、もしも本当だったら困るので、その根拠を知りたいと思うはずです。で、耳を傾けてしまった結果、100人のうち3人が信じてしまうと。で、その3人が広めていった場合、どれほど広がっても、全体の3パーセントくらいしか信じる人はいないはずなんですけど「最近、いろいろな人が言い始めたな」と錯覚する人が出てきて、というループなのではないかと。



不況時の人員整理はどうするのが正解なのでしょうか?日本は新卒採用を絞ってリストラを減らしましたがそれは完全に間違いですよね?

「不況時の人員整理はどうするのが正解なのでしょうか?日本は新卒採用を絞ってリストラを減らしましたがそれは完全に間違いですよね?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

やっぱり「首切り」って残酷ですし、イジメて辞めさせるのもあんまりだと思いますから、採用を絞る自然減がまっとうなのではないでしょうか。たとえば非正規の方々の契約を更新しないとか、新人の枠を狭めるとかの方がまだましなんじゃないかなと思います。

もちろん、非正規の方々が守られないというのは問題あると思いますけど、辞めさせるためにイジメたりするような残酷さを考えると、契約を更新しませんんの方がまだ傷が浅いんじゃないかと思うんです。

新卒の人の場合、職業経験を積んでもらうためにはやっぱり企業が積極的に採用することも社会貢献にはなるはずなんですが、やっぱりこれも、イジメて辞めさせるよりはましなんじゃないかと思います。もちろん、私も就職活動で苦しみましたから、新卒の人たち、とくにこれから数年の若い人はそれはもう大変だと思うんです。でも、社会全体が「新卒で大企業に入れなければ、負け組」のような残酷な思想を捨てて、人それぞれ、その人に合った働き方をすればそれでいいじゃないという雰囲気になれば、大企業に入れなくても、アルバイトとか非正規の人でも、実家暮らしなら衣食住に困ることもないでしょうし、日本は土地余りまっしぐらですから、中年期に入っても適当に安価な住宅を見つけて入り、食事は自炊で衣服もファーストファッションで、全然それでもいいという雰囲気の社会になれば、いいんじゃないかなと思うんです。結果としてみんなプレッシャーから解放されて、もうちょと楽に生きることができるんじゃないでしょうか。



ノンフィクション映画の最高傑作はどの作品だと思いますか?

「ノンフィクション映画の最高傑作はどの作品だと思いますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

フランス人の映画監督が日本の広域団体の組長に密着した『young yakuza』を推したいと思います。とあるお母さんが、息子がニートなので鍛えてやってほしいと熊谷組の組長さんに頼みます。で、息子は組の見習いみたいになるんですけど、息子が成長するのかというと全然しないんですね。息子は最終的には自分の時間がないという理由でバックレるわけなんですが、息子と一緒に行動しつつ、熊谷組長にもいろいろ話を聞くことで、広域団体の人達の日常とか、考え方とか、価値観とか、そういったものが分かる内容になっています。そういった人達の本音とかって確かに私たちは知りませんし、そもそも会話をすることすら普通はないと思います。私が子供のころは父親が半グレだったのでそういう人も家に来ましたけど、家が特殊なのであって、普通はやっぱり出会わないと思うんです。私も新聞記者を辞めてからはそういう人とは一切出会わなくなりました。そういうわけですから、どういう声のトーンで話すのかというようなところから始まって、組の存在意義とか、組長さんに生きがいみたいなものとかがだんだん分かってくるのは大変に興味深いです。表の顔と裏の顔があって、表の顔は気前良く撮影に応じるんですけど、裏の顔は決して見せないし、カメラの前で「これ以上は見せない」と言い切っている場面がありますから「あ、やっぱり裏はあるんだなあ」ということも想像できるわけです。熊谷組長が長身でハンサムなフォトジェニックな人なものですから、その世界がもしかしたら実はとても魅力的な世界なのではないかと、錯覚を起こしそうになります。話す内容も、街の人たちの治安を守るためとか、組員は家族同然、行き場のない人を救う場所、のような良いこと言うんですよね。

で、バックレた息子さんですけど、組の人には足取りが分からないままでしたから、多分、お母さんのところにも帰ってないんですけど、最後にカメラの前に現れます。で「自分の時間がなかったから」というようなことを言います。この一言からも、組の人たちの日常生活が想像できます。本当にいつも一緒にいて助け合って、何かが起きれば団結するイメージが喚起されます。たけしさんの映画でも組の人達が仲間同士ほんとうに仲良しですけど、あんな感じなんだろうなと言うのが伝わってくるんですね。私のように孤独を愛するタイプには無理かも知れない、とかいろいろ考えたりしました。時々、あの映画のことは思い出すんですけど、そもそもニートの息子さんを鍛えてもらおうと思って組に入れてしまうお母さんってどうなんだろうなと言う何とも言えないものがいつももやっと残るのですが…。

この映画はカンヌにも特別招待されて、組長さんもカンヌに招待されたことで話題になりました。



何故いまだに新聞(デジタル版ではなく家に届けられる紙の新聞)は生き残っているのでしょう?朝刊を読んでいる時点で、すでにアップデートされた最新情報をインターネットで見られるというのに。

「何故いまだに新聞(デジタル版ではなく家に届けられる紙の新聞)は生き残っているのでしょう?朝刊を読んでいる時点で、すでにアップデートされた最新情報をインターネットで見られるというのに。」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

敢えて言うとですね、新聞には資料的価値があります。インターネットで読めるニュースはサイトの運営者の独自の判断で一方的に削除することが可能です。しかし、新聞紙の場合、何十万部、何百万部と印刷されて各地に送られるわけですから、削除すればいいやというわけにいかない。誰が必ず保存していて、論争になるようなことがあれば、証拠として持ち出してくるかも知れない。縮刷版が発行されれるのも資料的価値があると判断しているからですね。新聞記者もネットで如何に速報が出せると言っても、はやり紙に記事が掲載されることの重みみたいなのを感じているはずなんですよね。新聞の印刷は新聞法によって規定された、公的業務みたいな感じになりますから。



誰でもよかったという殺人犯は、なぜ政治家や暴走族や犯罪者を殺さないのでしょうか?小学生や障がい者の方が亡くなられるのを知るたびになぜ自分より弱いものを標的とするのか腹が立ちます。

「誰でもよかったという殺人犯は、なぜ政治家や暴走族や犯罪者を殺さないのでしょうか?小学生や障がい者の方が亡くなられるのを知るたびになぜ自分より弱いものを標的とするのか腹が立ちます。」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

「誰でもよかった」という表現は、警察の捜査資料の作り方と関係しています。公判維持のためには被疑者の犯行動機を明確に記載しなければならないのですが、通常であれば「恋愛で裏切られて殺意を持った」とか「ビジネスで裏切られて殺意を持った」などの理由があれば、そのように資料に書き込むことができるわけなのですが、通り魔的な犯人にはそのようなものがありません。しかし、なぜその人を狙ったのかということを説明しなければならないので、非常に困るわけです。警察としては書類上「誰でも良かった」と書き込まざるを得ないのですね。まず間違いなく、被疑者に対して「じゃ、誰でも良かったんだね」と念押しして書類に書いているはずです。で、ここからは私個人の感じる問題なのですが、警察の捜査について知識のない人は、そのような警察の事情など、知る由もありません。にもかかわらず警察が自分たちの保身のためにマスメディアに向かって「誰でも良かった」とする警察的表現を使用し、記者たちも「これは警察発表です」との体裁を維持するために、そのまま記事にし、一般の読者はそれを見て、文字通り「誰でも良かった」と受け取るため、被疑者の心理へより深く分け入っていくことができなくなってしまうことが非常に難しい問題をはらむと思います。被疑者は本当は誰でも良かったわけではないのです。なんらかの理由で小学生を狙ったり、路上を歩く、たまたま通りかかった〇〇な感じの女性を狙ったりしているに違いありません。そのような細かい機微についての報道がないため、多くの読者は「このように酷い事件を起こす人間の考えていることは分からない」との感想を持ち、自分とは関係のないことのように考えてしまいます。そしてニュースが消費されていきます。この手のニュースは人が殺されるなどの重大問題であるにもかかわらず、ラーメン屋さんのカウンターでラーメンを待つ間の時間つぶしとか、朝の出勤準備の時の聞き流しとかで消費され、忘れられていきます。被害者の遺族はなぜ自分の大切な家族が狙われたのか本質的なところでは理解できず、被疑者についてもそこまで精神を病んでしまった理由について誰も関心を持たないまま刑が執行されていくということになりかねず、社会は全く教訓を得ることができません。仮に事件報道の使命が社会に教訓を得てもらうことで事件の再発を防ぐということにあるのだとすれば、今のような警察の都合だけに配慮した報道では不十分なのではないかと私は常々思うのです。私はその手の報道を見ると無力感に苛まれるため、次第に見なくなってしまいました。



素人一般市民が民事訴訟を起こす可能性を検討しているときに、読むべき本やお勧めのサイトをご紹介頂けませんか?

「素人一般市民が民事訴訟を起こす可能性を検討しているときに、読むべき本やお勧めのサイトをご紹介頂けませんか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

三浦和義さんの著作に弁護士いらずと言うタイトルの本があります。拘置所にいながら、メディア各社を訴えて勝ちまくった経験談なのですが、訴訟って大変なんだなと感じる一方で、訴訟という手段を使うことで異議申し立てが本当にできるんだなとも感じることかできます。悪意のある記事を書いた記者も裁判所であれば呼び出せると、訴訟の持つ力のようなものが書かれていて、本人訴訟がしたい人にはモチベーションを上げるのにいいと思います。三浦和義さんについてはさまざまな意見があると思いますが、私はこれを読み、これほど裁判所での戦いに自信のある人が、カリフォルニアで裁判が始まる前に自ら命を絶つはずがないと思うようになりました。



常識的に考えたら、日本が武力攻撃されるなんてことはないと思いますが、自衛隊に年間5兆円近く使ってるのは有効な税金の使い方と言えるのですか?

「常識的に考えたら、日本が武力攻撃されるなんてことはないと思いますが、自衛隊に年間5兆円近く使ってるのは有効な税金の使い方と言えるのですか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

常識的に考えればアメリカが日本を守っているのですから日本が武力攻撃されるなんてことはないと私も思います。ですから自衛隊に年間5兆円も使うのであれば、それを生活保護とかベーシックインカムとかに使う方が遥かに日本人の幸福に貢献するのではないかと思います。しかしながらベトナム戦争以後、本当にアメリカに日本を守り切れるかどうかは、わりと疑問が残ります。過去50年で周辺諸国の経済力・技術力が上がってますから、ますますアメリカががんばってくれるかどうか微妙になってます。仮にアメリカが日本を本気で守らないということがばれれば、これはもうやりたい放題やられますので念のために自衛隊を持っておくのは一つの方法です。更に入念に徴兵制を導入しておけば予備役がごろごろいることになりますので、敵に日本を占領されてもゲリラ戦ができるようになると思いますが、さすがに徴兵制は明白な憲法違反なのでそういうわけにはいきませんね。



人々がボランティアをはじめるためには、どのようなきっかけが必要なのでしょうか?

「人々がボランティアをはじめるためには、どのようなきっかけが必要なのでしょうか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

なんらかの意味でお得がなければいけません。たとえば、人と出会えるというのはボランティア活動の大きな魅力の一つです。或いは、進学の際にボランティア経験を書類に書けることが有利な場合もあれば、それもきっかけになります。更に言えば「僕は今日はいいことしたなあ」と思いたいからやるというのもインセンティブになると思います。

但し、ボランティアは自由であるべきと私は思いますので、あまり組織化されすぎたボランティア活動には私はあまり魅力を感じませんから、時々、お上主導のボランティア活動がありますけど、ああいうのは、ちょっとなあと思う時もあります。役所が主導するのなら、ボランティアにも人件費出してやれよとか思っちゃうんです。

私以前、渋谷で路上生活者の方々にご飯を配るボランティアを手伝ったことがあるんですけど、お上とはどちらかと言えば対立姿勢の集団で、私は特にお上と戦いたいわけではなかったんですが、お上のコントロールの外でやってるボランティアですから、自由だし、やってる人の情熱もなみなみならぬものがありましたから、そういうエネルギーに触れることもできて、今でも貴重な思い出なんですね。路上生活の人たちと意見交換したり、談笑したりしたのも、とても大きな経験でした。

そういう、わりと破壊力の大きいボランティアにかかわった経験があったおかげで、生ぬるいボランティアはできなくなっちゃいましたね。あ、ボランティアは娯楽ではありませんでした…すみません…。