アメリカ人の中にも「気弱で繊細、自己主張が苦手」という人物はいますか?彼らはアメリカの文化の中でどのような評価をされてるの?

バツクトゥザフューチャーでマイケルJフォックスのお父さんがそんな感じに描かれていて、そんなんじゃダメだから生まれ変わらなくてはならないとのメッセージが込められていると思います。一方で、そのように彼が生まれ変わっていくことを観客が肯定的に受け取るためには、彼という人物に対してある程度の好感がなくてはならず、やはり、彼は少なくとも強欲でも悪辣でも暴力的でもない心のきれいは人でもあると言えるので、そういう人物に好感を持つのは世界共通ではないかなとも思います。



「日本人」という大きな主語で語る時の前提の定義として大事にしているものは何ですか?

「私は日本に住んでいるが、自分のことを日本人だとは思っていない」

「父母は日本人だが、私は自分のことを日本人だとは思っていない」

「私は日本に住んだことはないが、自分のことを日本人だと思っている」

という感覚を持って生きている人が、少数ではあるけれども、確実にいるということを意識するようにしています。

私がそのような人たちのことについて直接言及することはあまりないですが、「日本生まれで日本で暮らす、自分のことを日本人だと認識している日本人」が全てだとは言い切らない形で言葉を構成するように自然となっていきます。




中産階級がやたら重視され保護する流れになる理由にはどのようなものが考えられますか?貧富の差が拡大してレアになっているから?

中産階級とは、衣食住に困らず医療も充分に受けられる普通の人々のことを指しますから、医者や弁護士などの社会的地位がなくとも幸福度は充分に高い階層であると言えると思います。中世の王侯貴族より現代の中産階級の方が幸せだと言われるくらいに発展した現代社会の恩恵を実感できる普通の人たちですよね。ですから、そういう人たちがたくさんいることは素晴らしいことだと思います。貧富の差が拡大したことによりレアになっているのももちろん重要なファクターだと思います。

但し、分厚い中産階級が形成されるにはわりとハードルの高い条件をクリアしなければならないということも私は指摘せざるを得ないと思います。それは普通の人が中世の王侯貴族並に満足して暮らすためには、それに相応しい経済成長が社会全体で実現されていなければならないということです。そもそも「普通の人」はそんなに凄い仕事はできません。言われたことを真面目にこなす小市民です。そのような人たちがガッツリ楽しく生きられるということは、企業や国家が手厚く分配しても尚余る富を得ている時に限られます。

アメリカでは第二次世界大戦後に分厚い中産階級が登場し、戦争から帰ってきた若者たちが結婚して車と家を持ち、自分の事業を展開し、田舎なら農場を経営して幸せな家族を築くというモデルを確立しました。人はそれをアメリカンドリームと呼んだりしました。ベトナム戦争後、アメリカの国力の相対的低下に伴い中産階級はしぼみ、今やアメリカの田舎の方はヘル・アメリカになっているとよく言われます。私がアメリカに留学した経験からもそれは分かります。デトロイトは巨大な廃墟でした。

で、日本の場合、それは70年代から80年代に形成されていきました。田中角栄が気前よく公共投資にお金を使ったので、隅々までお金がいきわたり、誰もが自分を中産階級だと感じることができる、人類の歴史でも極めて珍しいであろう現象が起きました。今では信じられないことですが、当時はシンガポールや香港の人たちが一度は日本を旅行したいが日本の物価は高く、うちにそんな金があるわけないと嘆いていたような時代です。90年代以降、バブルの崩壊と増税により、中産階級はしぼみ始め、もはや見る影もなくなりつつあります。

これはマクロ的な産業政策と税制が間違っていたからなのであって、小泉・竹中時代の雇用政策に要因を求めることは正しくありません。経済成長が充分に確保されていれば、非正規雇用で時給5000円のようなことが実現でき、拘束時間の長すぎる正規雇用はちょっと…という雰囲気になっても全くおかしくなかったのです。

そして今、韓国台湾で中産階級が形成され、世界を席巻しています。

(注意点ですが、世界を席巻する中国人旅行者は、中国の国内では富裕層です。シンガポールは金持ちは多いですが、差別的搾取構造の上に存在する特権階級です。香港は内戦かと思うようなデモが起きて行こうは当面、判断を保留せざるを得ません)

韓国・台湾は経済成長が著しいため、手厚く分配することができるからです。

ですから、日本で中産階級を復活させるには、手厚く分配できるだけの経済発展が必要になります。もしここの部分を無視して、雇用形態だけで解決しようとすると、給料の薄い正社員と、使い捨てられる非正規雇用に溢れるヘル・ジャパンになるというか、今の日本はそうなっているわけです。

というようなわけでして、ご質問にきちんと答えることができたかどうか、長々となってしまいましたが、以上です。



そもそもガーシー氏は何故あれほどまでに芸能界の裏事情に詳しかったのでしょうか?それとも芸能関係者なら誰でも知っているけど決して口外しなかったことを、タブーを破って安全な場所から配信していただけですか?

芸能人と一般女性のパーティをセッティングしていたので、芸能人の他人に見られたくない面をたくさん見てきたというのはあると思います。私も個人的に一度だけ、そのようなことを仕事にしている人が一般女性に声をかけているところを見たことがありました。芸能人のプライベートな場に参加できるのですから女性たちも大喜びな様子でした。



台北の友人(本省人)を久しぶりに訪ねたのですが、友人は周囲の人と話す際にも北京語ばかりで話し、台湾語をほとんど話しません。台北では台湾語は近い将来途絶えるでしょうか?

私もそんな気がします。

私の知る範囲で言えば、台北及び新北市あたりは本省人も外省人も北京語さえ話せればいいという雰囲気があって、30代以下は北京語しか話さないのが普通な気がします。20代の学生でも、おじいちゃんおばあちゃんとは台湾語を使うけれども学校ではオール北京語が普通でした。私は近いうちに北部の台湾語話者はいなくなると思います。

南部の台湾語話者はかなり根強く残り続けるのではないかなとも思います。とはいえ、数十年の差、世代的には2世代かがんばっても3世代でなくなっていくのではないかという気は確かにします。おそらく、今、南部で暮らしている人は、私の意見を聞けば怒って否定するでしょう。南部で台湾語がすたれることなどあり得ないと。

上海を旅行した時、若い人も上海語を使っていましたから、大陸では普通話と現地語が共存しているのだなということが感じられましたけれど、台湾では国民党が北京語オンリーで推し進めたために、それがスタンダードになってしまい、北京語の方がかっこいいという刷り込みも強くなっていて、ちょっと引き返せない段階に入ったと言う気はします。



沖縄返還時の機密文書漏洩裁判の西山大吉氏が亡くなりました。「外交や軍事などの機密保持」と「ジャーナリズムや国民の知る権利」のせめぎ合いについて、どう考えるのが良いでしょう?

実は西山記者は何も悪くありません。私の西山記者に対する印象は非常に悪いですが、何が悪いのかということを考えても、「これが悪い」というのが思い浮かびません。

新聞記者・ジャーナリストには取材の自由が大幅に認められています。それこそ盗撮・盗聴ですら赦される仕事です。問題は西山記者が情報を新聞記事にすることよりも野党の政争の道具に提供することを優先したことと、情報入手の方法が外務省事務官の女性との不倫行為によるものであったということでした。

まず情報を政争の道具にしたことについてですが、これにより、ジャーナリズムの仕事のために情報を手に入れたとする大義名分が崩れてしまいました。ですがそれは業界の論理であって、国民の知ったことではありません。国民の知る権利という観点から言えば、ジャーナリストが知らしめようと政治家が知らしめようと違いはありません。政治家の言論活動はジャーナリストと同様に、幅広く認められ、しかも国会内での言動は国会外で責任を追及されないという部分的な免責特権も持っていますから、当然、当時の社会党の横路議員が西山記者からもらった情報をどんな風に国会内で利用しようと問題はありません。西山記者が個人的な思想信条から横路議員に情報を託したことも全く悪くありません。

次にですが、女性事務官と「密かに情を通じ」て情報を手に入れた、その方法はどうでしょうか。これは感情的な問題として嫌な話ですし、他人の貞操権を侵害したわけですから民事上の問題があります。ですが、戦後は姦通罪がありませんから、刑事責任はありません。単に気持ち悪い、嫌悪感を抱かせるという類のことでしかありません。

また、彼が手に入れた情報は、なにしろ女性事務官から本物の書類を持って来させて得たものですから、偽情報であろうはずもないわけですね。

ということはつまり、国民的な批判が巻き起こり、毎日新聞が倒産するきっかけを作るところまで行った西山記者事件は、どこにも悪いところがないにも関わらず、国民が気持ち悪いと思ったから記憶に残る事案であったと言える、誠に不思議なケースであると思えます。

国民には実害がなかったどころか、日米の密約について知ることができ、それだけ利益があったはずなのに、みんなが拒否感情を抱いたというわけですから、本当に不思議な事案です。

ちなみに現場の記者同士、或いは記者と取材対象がそんな風になるなんて話は何度も聞いたことがありますし、記者が女性警察官と交際して公安が尾行したみたいな話もありますけど、倫理上良くないですが、そんなのいちいち問題にしていたら全ての報道機関が倒産してしまいます。

ついでに言うと私は西山記者の顔が嫌いです。



H3ロケットの打ち上げ中止の記者会見の様子について、共同通信社が何らのコメントも出さないのはいかがなのでしょうか?これだけ話題になっているのだから報道に関する会社として立場を明らかにすべきだと思います

記者が記者の立場を逸脱した例だと思いますけれども、違法行為をしたとは言えず、現場で情緒不安定なのが一人湧いていたという話になるはずですから、会社からコメントを出すようなことではないと思います。このようなことでコメントを出していると、今後、報道機関のコメント狙いの炎上が頻発しかねません。

但し、ではこれが一般企業だったらどうかという問題になりますけれども、それは結局、どの企業がどこからお金をもらっているのかと言うわりとはっきりとした基準があるような気がします。スシローは一般消費者からお金をもらっていますから、ペロペロ事件に対しては毅然とせざるを得ません。雪印は一般消費者からお金をもらっているにもかかわらずごまかそうとしたので潰れました。共同通信の場合は加盟社からお金をもらっていて、加盟社は今回のことについてどうでもいいと思っているでしょうから、別にコメントを出すほどのことではないと共同通信がふんぞり返っていられるという面はあるかなとも思います。

私が言いたいのは一般企業の方が心がけが殊勝であるというようなことではなく、一般企業も売り上げにかかわることでしか対応しないし、共同通信も今回のことは売上に関わらないから対応しないということに過ぎないということです。



リバタリアニズムとリベラルの違いは、何ですか?

リベラルには反ファシズムという程度の意味合いしかないと私は思っています。リベラルの概念は幅が広いため、誰もが「我こそはリベラルである」と主張します。ちなみに私自身も私のことをリベラルだと思っています。社会主義者も資本主義者も自由主義者ももしかしたら共産主義者も場合によっては皇国史観支持者も自分のことをリベラルだと考えています。で、リバタリアニズムはそのように多種多様なリベラルの中の一派であって、完全自由を理想とし、あらゆる権力の介入を嫌います。私自身もかなりなリバタリアニズム的思考を持ちます。念のため補足しますが、「弱肉強食が当然」などという浅はかな考えを持つ人物はリバタリアニズムに向いていません。徹底的に自由を追求した時、人は誰もがその才能を発揮し得るというのがその理想であって、それは確かに飽くまでも理想とするところに過ぎず実現されていない場合はまだまだ多いとは思いますけれども、それは克服されなければならない問題であって従容として受容すべきことではなく、克服するために自ら行動すべしというような感じに考えているわけです。「天は自ら助くる者を助く」を素朴に信じているとも言ると思います。



格差はなくなるべきですか?もしくはどれくらいの格差なら許容できますか?

ある白人男性がいるとします。彼は大学に行きませんでした。仕事は配管工です。収入は低いです。収入は低くても奥さんは高校時代のガールフレンドで、互いに浮気は一切なく、週末になると高校の時の友達が遊びに来てくれて毎週末はピザパーティです。

ある日、バスで彼の隣に黒人男性が座りました。

黒人男性は大学を卒業してホワイトカラーの仕事をしています。ですが上司から人種差別を受けていて、収入も同僚より少し低くされています。これも差別です。それでも隣の白人男性よりも遥かに高い収入を得ています。一度職場の女性に恋愛感情を抱いたことがありますが、自分が相手にされるわけないと思って最初から諦めています。週末は更なるスキルアップを目指して資格の勉強をしています。本心では遊びたいですが、自分を差別する白人たちを凌駕するためには知識やスキルを身に着けるしかないと決心してがんばっています。

その隣に中国人男性が来ました。彼は家がお金持ちで有名大学を卒業しニューヨークでファンドのマネージャーをしています。収入はとてつもない金額です。ですが、彼は寄宿舎で何年も同級生にイジメられた経験があって、今もその心の傷を抱えていて生きていて、どんなに収入があってもその傷が癒えることはありません。人を信用することができず、結婚もしていません。週末は最高級のホテルで一人静かにコース料理を楽しみます。

さて、この人達の何に関する格差を埋めればいいのでしょうか?

もし、金銭に関する格差だけを問題にするのであれば、その人はその他環境に関する格差を無視する偽善者です。

もし、金銭で環境が買えるのだから、大抵の場合はお金さえあれば自分の意志で環境を変えていけると言う人がいれば、そうできなかった少数者を切り捨てる薄情者か或いは細部について考えることを放棄している怠け者です。

そういうわけですので私は行政やお上が格差是正をするのではなく、可能な限りルールを削減し、自由に、その人の意思と才覚でやりたいようにやることが結果として人類全体の幸福度の総和を最大化できるのではないかと考えています。格差是正を議論すること自体がナンセンスだと思います。



儒教⽂化圏の問題提起が近代化に与えた影響は何ですか。また、 それは現代のアジア社会において有効だと思いますか?

北京大学で起きた反日的愛国運動を五四運動と呼び、その中心になつたのは北京大学関係者たちで作った新青年という雑誌でした。魯迅の弟の周作人が、与謝野晶子の貞操論と呼ばれるエッセイを中国語に翻訳し、それが新青年に掲載されます。このエッセイでは、親に決められた結婚相手と一生暮らし、心の中でほかの相手を想っているのは、とんでもない浮気者で、自分の意思で結婚し、好きな人と一途に結ばれることこそ真の貞操観念で、仮に相手のことを好きではなくなつたら離婚した方が当人たちのためであるというような内容だったのですけれど、編集サイドは読者に意見を求めました。中国社会も与謝野晶子の言うような価値観を採用すべきかどうか誌上で討論しようと言うわけです。私は掲載された投書を全て読みましたが、その大半は自由恋愛は家制度の維持という観点から望ましくないと言うものでした。中華圏は家制度について日本人よりも遥かに深刻に考えていますが、実際、近代化された後の中華圏の様相を観察する限り、台湾香港もシンガポールもご本家中国も出生率は1程度に落ち込んでおり、家制度の維持などとてもおぼつかない状態になっています。儒教的家制度と近代化は両立しないと思います。どちらが正しいのかというより、どちらを選ぶかと言うことかなと思います。