大阪府にまつわる体験、エピソード、雑感、知識、トリビア等をお聞かせ下さいませんか?

大阪市役所が淀屋橋にあるわけですけど、そのすぐ近くに適塾跡があるんですね。で、淀屋橋ってどういうところかというと、江戸時代は日本中の諸藩の蔵屋敷がひしめき合い、諸藩の御用を請けるための商人がひしめき合い、流通のために舟がぎっしりとひしめき合う日本経済の中心であったわけですよね。福沢諭吉の父親も蔵屋敷で働くお侍さんで、諭吉はその空気を吸って育ち、すぐ近くの適塾で学んだということになります。戦前は大阪の方が東京よりもモダンでおしゃれで発展していたと言われていますが、それは江戸時代からの経済的な基礎があったからで、しかも適塾はまさしく日本近代を支える人材を育てた場所だったわけですから、私は先日適塾跡を歩き、ふと「全てはここから始まった」とつぶやいてしまいました。



「訴状が届いていないのでコメントは差し控える」なる決まり文句がありますが、届いた後きちんとコメントをした例はあるのでしょうか?

裁判所で公告された段階で新聞記者から電話が行くので、訴えられた側としては「訴状がまだ届いていない」ということになるわけですけど、現代の郵便事情ですから数日以内に届くわけですね。ただしそのころには新聞記者の方が関心を失っていますので、改めて電話をかけるという場合が皆無に近いですから、結果として訴状が届いた後のきちんとしたコメントが出ないということはいえると思います。例外はあると思います。



所謂大御所芸人(松本人志、明石家さんま)などは彼らが30代から既に大御所でしたが、現在の30代からは同様の大御所芸人が出て来なそうな気がするのはなぜでしょうか?

昔は深夜に実験的な番組を若い芸人さんにやらせて当たればゴールデンに行くというルートがあったわけですけど、今はそれがないですよね。理由としては1つには実験的なことをやってみて一歩間違えば炎上して芸人も関係者もみんなそこで終了してしまうというリスクが大きいというのがあると思いますし、もう1つとしてはテレビ局が使えるお金がどんどん減ってきたため、新しい人を育てる余裕がなくなったというのがあると思います。

結果として、バブル時代から活躍する大御所であれば一定数の人気が得られることが分かっているので、その人たちネームバリューに頼りつつ、内容的には無難な番組作りに偏って行き、結果としてバブル時代に名を成した人たちがいつまでも最前線で、それより後から出てきた人たちは延々に順番待ちという状態になっているのではないか、要するに新陳代謝ができなくなっているのではないでしょうか。



日本は国民国家 (nation-state) としての条件を満たしていますか?

ベネディクト・アンダーソンは『想像の共同体』で無名戦士の墓について論じています。たとえばアメリカにはアーリントン墓地があり、そこには会ったことのない同胞が眠っていることをアメリカ人ならだれでも知っているわけですね。そしてその同胞はアメリカのために命をかけて戦った英雄なのだということもみんな知っている。その英雄のことを、顔も知らないのに戦っているところを想像し、命を落としたところを想像し、感動し、アメリカ人に生まれて良かったと思い、英雄への敬意と感謝の心を新たにするわけです。会ったこともない同胞のことを想像して感動して胸が熱くなる、自分に関わる物語だと確信して消費することができる。なぜ会ったこともない人のことを自分に関係する英雄だと確信できるのかと言うと、そういう風に新聞とか書籍に書かれているのを読んだからで、アメリカであれば、誰もが話せる前提になっている英語で書かれていると。これこそが国民国家が持つ必須の構造である、決定的な要素であるとすら言えることはよく知られていることと思います。

言うまでもなく日本の場合、アメリカのアーリントン墓地が九段下の靖国神社に相当するわけですね。私は祖父が戦死してますので、個人的に全く無関係とも言い難く感じますが、でも、祖父に会ったこともないし、何も祖父のことを考えるために、祖父以外の数百万柱の英霊も一緒に祀られている靖国神社に行く必要もないのですが、やはりそこには物語があって、多くの人が、同じ日本語を話す無名戦士が日本のために死んで行った英霊であると確信して胸が熱くなるわけです。やはり千鳥ヶ淵の雰囲気は靖国神社と隣接していて皇居のすぐ近くであるということの物語性・ドラマ性をつい私が頭の中で作り上げてしまって、やはりぐっと来るわけです。頭ではそれは所詮、フィクションであると分かっていても、やっぱりぐっと来てしまうのです。そして多くの人がおそらくそうなのです。それが良い事なのか悪い事なのかは論じていません。

そういうわけですので、靖国神社という無名戦士を思い出すための施設が存在し機能しているわけですから、日本が国民国家と言えるかと言えば、間違いなくその必須要件は満たしていると思います。



メイデイでの労組のテーマは「命と暮らしを守る」でした。今はコロナ禍が続き、長い不況、少子高齢社会、円安に起因する物価高、ウクライナ戦争と問題山積です。あなたが思う「命と暮らしを守る」は何でしょうか?

私は自由を大切にしていますが、仮に経済活動・社会活動で自由を謳歌するとしても、失敗した人が生活できなくなるという事態が生じることには強い懸念を感じています。自由で何度でも挑戦できる社会を作るためには、失敗した人が生活できなくなって自殺してしまったりというようなことがないように目指していかなくてはいけないと思います。たとえば生活保護受給者に対する差別があってはならないことは当然のことですが、生活保護は誰でも気軽に受給できる制度にしてゆくべきで、理想はベーシックインカムだと思うのです。

というのも、生活保護を審査するのは役所の担当者なわけですが、どうしても偏見や思い込み、判断ミス、情報不足、受給希望者の言葉足らずなどによって、完全に公平な給付ということは考えにくく、実際、生活保護がなくても生活できるであろう人が受給に成功する一方で、明日の食事にもこと欠いた結果、路上生活を選ばざるを得なくなる人もいるわけですね。担当者が審査するという制度そのものが不完全なものであると私は思っていますから、誰でも希望者は受給できる、何なら希望しなくても勝手に振り込まれるくらいでちょうどいいのではないかと思うのです。

必ず生活できるという前提があった上での自由競争が結局はいい果実を人類にもたらし、より多くの人の命と暮らしを守ることにつながると私は思います。



世界史において権力のあり方が複雑過ぎた地域、時代にはどのようなものがありますか?

たとえば中世ヨーロッパでは、ローマ教皇の権力と神聖ローマ皇帝の権力がせめぎ合い、1077年にはローマ教皇グレゴリウス7世と、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が対立した結果、ハインリヒ4世はローマ教皇から破門されるという事態に至ったことがあります。ハインリヒ4世はカノッサ城に滞在中のグレゴリウス7世に赦しを請うため、裸足で3日立ち続けたと言われています。尚、最近の研究では裸足で3日間立ち続けたかどうかについては疑問視されています。それはそうとして、これをカノッサの屈辱と呼びますが、教皇権が皇帝権を超越していることが明らかになった事例のように言われたりします。とはいえ、後にまきかえしたハインリヒ4世はローマに進撃し、グレゴリウス7世はローマから逃亡していますので、武力があれば教皇権に勝てることを証明した事例であると考える方がいいのかも知れません。

さて、中世ヨーロッパの権力関係はかくも複雑なものでしたが、これと同じくらい複雑であったのが日本の権力関係ではなかったかと思います。たとえば白河上皇が始め、後白河法皇の時代に絶頂期を迎えた院政期、名目上の主権者は帝でありながら、帝の眷属であるとの立場で法王が実権を握り、しかし実際には院の近臣が政治を動かしていて、その外側には藤原摂関家がいて、平家がいて、気づくと源氏が将軍になってると。複雑すぎてわけわからんわけです。こんなの外国人に説明できません。

これよりはもう少しましですが、19世紀、諸外国の艦隊が日本にやってきたとき、徳川幕府は将軍のことを大君と呼び、英語ではtyqoonと表記され、tyqoonとは即ち日本国皇帝であると理解されたのですが、よくよく観察してみたところ、京都に朝廷があって、江戸に幕府があり、tyqoonは江戸の幕府の頂点でしかなく、京都の朝廷から政治権力を委任されている、つまり首相のような存在であるということがわかってくるわけですね。ところが実際の政治は大君がやっているのではなくて、老中がやっていて、大老のような臨時職がもうけられることもあって、彼らが独裁的に日本国の意思決定をしているにもかかわらず、どういうわけかコンセンサスが形成されていくわけです。多分、当時のペリーやハリスたちは意味不明であると思ったのではないでしょうか。



叩かれるとわかっているのに記者会見をする理由はなんでしょうか?そういう法律があるのでしょうか?

記者会見するまでねちねちとストーカーのようにつきまとわれるというケースがあり、記者会見すると納得して解放してくれるというパターンが多く、当事者は記者会見せざるを得ないところまで追い込まれていくんですね。で、ねちねちとつきまとわれてしまった場合、あることないことを報道される。自宅の前で待ち伏せされる。故意に印象が悪くなるような表現が使われ、嘲笑の対象にもなったりすると。で、とうとう、当事者は「どうか、これ以上はご勘弁ください…」ということになって記者会見したりするんですけど、それまでに受けた傷の深さは計り知れないものになるわけです。だったら早々に記者会見を開いてしまえば、傷は浅い、リスクをコントロールできる、というようなことになります。



脱近代(ポストモダン)の象徴的な現象があれば、ご教示下さいますか?

ドローンによる戦争を挙げたいと思います。国民国家の誕生は近代を象徴する主たる現象の一つであると言えると思いますが、そのような近代国家は総力戦で勝利するために国民に分かりやすい英雄の存在を必要とし、それはたとえば日本で言えば神風特攻隊員の若者たちであったり、ナチスでいえばヒトラーユーゲントの少年たちであったり、アメリカでいえば硫黄島に星条旗をたてた無名の兵士たちであったりすると思いますし、LIFEのような写真誌がドラマチックな一枚を掲載することで国民は視覚的に英雄の存在を知ることができたわけで、視覚的な情報は熱狂を生みやすく、その熱狂は更なる戦争協力へと動員をかける燃料にもなったわけですが、ドローンで高いところから「ワルモノ」をピンポイントで殺害していく戦術では英雄が生まれません。



古代父殺し、近代父殺し、ポストモダンの母殺し

質問。近代文芸の父殺しを説明してください。古代ギリシャの父殺しと、ユートピア建設の父殺しはどちらが小説理解にとってより重要ですか?娘による母殺しはどうですか?

近代小説に於ける父殺しの概念の基礎になっているのはフロイトです。フロイトがエディプスコンプレックスという概念を世に問いました。このエディプスというのは、ご承知の通り古代ギリシャ神話のエディプスの父殺しに由来しています。

現代の我々が父殺しという時に、それが古代ギリシャ型父殺しなのか、それとも近代のフロイト型父殺しなのか、どちらなのかと言えば、フロイト型を想定してよいでしょう。思考実験的にギリシャ型とフロイト型を比較することはおもしろいかも知れませんが、近代小説に対する理解を深めるという観点から言えば、フロイト型を出発点にして捉えた方が、話は早いかも知れません。

では父とは何でしょうか。父いう言葉にはルールを決める人、善悪を決める人、罰を与える人、裁く人、権力者などを象徴する場合が多かったのではないかと思います。これ即ちキリスト教的父権主義を象徴しています。イエスが男性であり、イエスの父と精霊が三位一体になって神になるわけですけれど、女性が全く入ってきません。中世ヨーロッパ世界の頂点にいるローマ教皇は男性であり、神聖ローマ皇帝も男性であり、カトリックの教会の神父さんも男性であり、世界のルールは男性が決めていたわけです。聖母マリアのような存在は飽くまでもそのような厳しい男性社会の中に於いて、やすらぎや癒しの象徴にはなったでしょうけれど、聖母マリアがルールを定め、世界の終わりに人類を裁いたりすることは決してないわけです。近代的な、即ちフロイト的な父殺しは、そのような善悪を定める男を殺すことを求めているのであって、ギリシャ神話的に母親を横取りしようとかという話ではないということは押さえておいて損はないかも知れません。近代的な父殺し・神殺しは、父の持っている女性や富を横取りしたいのではなく、もっと本質的なものを変革しようとするものです。父の成し得なかった理想を私が成し遂げるというようなイメージになると思います。

ご質問を要約すると「神を殺してユートピア建設」か「父を殺して父の既得権をもらう」のどちらなのかということになるかと思います。「神を殺してユートピア」という発想を説明するには、ニーチェの存在に言及するのが良いかも知れません。彼は神に頼らぬ、善悪の彼岸に位置する超人という概念を追求しました。中世的な宗教による善悪の決定の先に行くことをニーチェは求めたわけです。ニーチェはフロイトより少し早く生まれ、フロイトよりうんと早く死んでいます。ニーチェとフロイトに共通することは、中世的な宗教世界から解放された(または追放された)人は何を考えて生きれば良いのかという問題意識を解決しようとしたということです。ニーチェは神がいなくても生きている人間像を追求しようとし、フロイトは神抜きで人間の精神を説明しようとしたわけですね。ここで言う神とは父と言い換えてもよいものです。
ですから繰り返しになりますけど、近代以後の世界で父殺しと言えば、神殺しであり、それはニーチェ・フロイト的な概念にたどり着くわけですが、その新しい概念、脱宗教的ユートピア建設=精神面での近代化をやってのけるために、ギリシャ神話のエディプスを持ち出して説明がなされたわけです。ご納得いただけましたでしょうか。

さて、次に、母殺しについて、私になりに簡単に述べたいと思います。まず、母殺しという言葉で私たちが思い浮かべるのは、母殺しをテーマにした寺山修司の映画、『田園に死す』です。この映画では、母なるものからの解放を願った男性の主人公が、いかに母を憎み、母を殺すと誓ったとしても、母はびくともせずに朝食を作り、みそ汁を飲めと迫ります。息子がどれほどユートピア建設を目指そうとしても、そしてユートピア建設にとって母は邪魔である、母は敵であると認識しても、母はそれまで通りのルーティンを決して崩しません。父は殺せば終わりですが、母は殺しても死なないのです。そして息子に味噌汁を飲ませようとする無敵の存在なのです。

しかしこれには、息子の母に対する諦めが見え隠れします。父と息子であれば遠慮なく殺し合えるのですが、母にはそういうわけにはいきません。母は殺しても死なないので、いずれ息子は降伏するしかないのです。エヴァンゲリオンでは父のゲンドウは途中であきらめてシンジの列車を降りていきます。ところが母のユイはとっくの昔に死んだも同然であるにもかかわらず、ゲンドウもシンジもユイのしがらみにがっちり縛られ続けます。仮にそのような強力な母が毒親であった場合、世界は真っ暗闇に包まれてしまうに決まっています。ユイが高天原の天照のようにエヴァンゲリオン実験機の中に閉じこもって出てこないことにより、父と息子の関係はどちらを殺すかまで続く果てしのないものになりました。仮にユイが本当に自ら望んでそうしているのであれば、徹底的な毒親であるとここで認定しておきたいところです。そのようなシンジを母から解放するには、友達の息子を誘惑するという稀代の悪女マリのような存在が必要だったわけです。そしてシンジがマリとの将来を選択することによって、シンジは大人になったということも言えるでしょう。ユイとマリの相克という裏テーマもおもしろそうですが、また機会があれば考えてみたいと思います。

さて、では、娘と母の場合はどうなるのでしょうか?実はこれについては私にも定見がありません。少し考えても思いつきません。強いて言うならば、豊かな母性愛を持つ母と娘が互いに手を取り合い、助け合って、男性中心社会の荒波を乗り越えようとするものか、或いは母と娘ともに近代男性中心主義に飲み込まれてしまい、どちらがより男性にとって理想的なのかを相争って憎み合うパターンのようなものが考えられます。実際にそのような事案はいろいろありますし、リアルに起きた事件の中にも、警察による立証はなされていないものの、母が新しい夫によって強姦された娘を殺した可能性が否定できないようなものもありますから、私が男性であるが故にあまりよく分かっていないだけで、母と娘の相克というものは人類の歴史とともに存在したと見るべきかも知れません。とすれば、男性中心社会がいよいよ本格的に崩壊しているわけですから、今後、文芸や映画の重要なモチーフとして母と娘の関係が描かれてゆき、評論可能な題材や型のようなものが形成されていくと考えてもよいのかも知れません。もしかすると『若草物語』が考える素材になるかもしれないとも思いましたが、それについてはまた後日考えてみたいと思います。



5chとyoutubeならどちらの情報が信用できると思いますか?

「5chとyoutubeならどちらの情報が信用できると思いますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

youubeは偽名やなりすましも可能であるとはいえ、一応はアカウントを晒して利用しますから、それだけ責任も問われます。ですので5chよりも情報の信用性は高いと思います。匿名だからこそぶっちゃけることも可能という考え方もあるでしょうけれど責任を負わなないわけですから、信用という点では評価は下がると思います。