石原莞爾の世界最終戦争論

 石原莞爾という人物は陸軍史上最高の天才と言われ、同時に独特の世界観を持っていたことでも知られています。
 
 その独特の世界観を表しているものが、彼の考えた世界最終戦争論です。
 
世界の列強はそれぞれに戦いを続けて、やがて二つに統合されていく。最後に残るのは日本とアメリカであり、両国の間で言わば世界一決定戦が行われる。これが世界最後の戦争になるため、日本はどうあってもこの最終戦争に勝たなくてはならない。
 
 が、その概要になります。かなりの妄想が入っていると指摘する人もいると思いますし、多少、思い込みが激しいタイプなのかも知れません。

 陸軍大学では戦国時代のこともしっかり学ぶため、戦国大名たちが時代が下るに従って統合されていくことから、上のような発想を持ったような気もします。

 彼はアメリカとの最終戦争に備えるためにはソ連の脅威を排除する必要があり、そのために満州を日本の勢力下に置くことが必要だと考え、満州事変を起こしたと言われています。また、来たるべき大戦争に備えて国力を温存するために中国での戦争には反対していたとも伝えられています。

 石原莞爾が相当に緻密に考えていたことが以上のことから伺えるでしょう。

 実際に日本とアメリカが戦争を始め、現在もヤルタ体制が生きていると考えるならば、ある意味では最終戦争という側面がなかったわけではなく、石原莞爾の考えていたことは相当程度のリアリティを持っていたと評価することも可能です。

 戦後、彼がインタビューに答えて「日本は今後は絶対に平和主義でなくてはならない。他国に日本が蹂躙されても日本は戦ってはいけない」と話しています。満州事変を起こして日本が滅びるきっかけを使ったということは自覚があったでしょうから、強く後悔し、新しい国家観を持つに至ったと見るべきでしょう。彼の性格は少し極端に振れやすく、おそらくかなりナイーブな人だったのではないでしょうか。

聖徳太子とイエスキリスト

聖徳太子は実在しなかった、という議論があります。聖徳太子は後に創造された名前で、そのモデルとなった厩戸皇子の存在は確実としても、その人は聖徳太子ではない。というわけです。モデルになった人がいるのだから、実在しなかったと言い切ってしまうのもどうかと思いますが、様々な伝説が後に創作された可能性は十分に高いと言えるでしょう。

 馬小屋で生まれたところから、既に伝説めいていますが、このような誕生のしかたから、イエスキリストが伝説の下敷きになっているのではないかとの憶測も不可能ではありません。

 既にイエスの時代から数百年を経ており、ローマ帝国がキリスト教を国教に決めた後の時代のことですから、福音書の内容が日本まで伝わっていたとしても全く不思議ではありません。聖徳太子は蘇我氏と協力関係にあった政治家で、蘇我氏は大陸とのつながりが特に深かったということになれば、尚のことです。

 奇跡の内容では違いがあります。イエスキリストは病気の人の病気を触れるだけで治癒させ、貧しい人に無限と言えるほどのパンを与えます。一方で聖徳太子はずば抜けて聡明で、十人の話を一度に聞けたのような、優秀であるが故に奇跡的な仕事ができたという感じになっています。

 この違いはおそらくは儒教的な頭の良さ、人格の高さを良しとする価値観とキリスト伝説が混ざり合った結果に起きたとすれば説明が可能なのではないかと思います。

 今も法隆寺では聖徳太子への信仰は厚いそうですから、伝説だから真実ではないと言い切ってしまうより、今も信仰している人々の心情も酌みつつ、伝説を楽しむのが一番いいのかも知れません。

関連動画

信長暗殺の真犯人

信長暗殺の真犯人については諸説あって、もう語りつくされている感もありますが、私個人としてはやはり、朝廷説が一番いいのではないかと思っています。担当者として近衛説を取ることに特に疑問はなく、それで良いように思います。

 信長は朝廷から太政大臣か関白か征夷大将軍がどれか好きなのを選んでくれと全部断ったという経緯があり、安土城に天皇を移すことを計画していたフシもあり、時の勢いも尋常ではありませんので、朝廷が自分たちの立場を揺るがせにされるという不安を現実的なものとして受け止めたとしても全く不思議ではありません。

 更に言えば、過去、朝廷の簒奪を目論んでいた可能性が取り沙汰される人物は悉く暗殺される急病で死ぬかしています。朝廷にはそういう自己保存機能が古くから準備されていていざとなったら発動するというような仕組みでもあったのではなかろうかと完全に私の推測ですが、そう思えてしまいます。それが悪いというわけではないです。天皇制は支持していますので、そのようにして天皇家が乗り切ってきたことはそれで良かったと思います。

 プラスして秀吉や家康がグルになっていたという説もありますが、それも受け入れ可能なものと思えます。みんなで知らないふりをしてポスト信長時代に入ったとしても、それくらいのことはやってもおかしくないだろうと思えます。それぞれに動機は十分にあるでしょうし、だからこそかくも鮮やかに本能寺の変が成功したのかも知れません。

 少しひっかかるのは光秀のことです。彼は本能寺の変の後に諸方面に手紙を書き、協力を要請しますが、必ずしも反応は芳しくなく、光秀は次第に孤立していきます。

 そこまでみんながグルだったのなら光秀が孤立するのは理解に苦しみますが、みんなで光秀に嫌な役割を押し付けて、最後は光秀も切り捨てるというシナリオになっていたとしたら納得できなくもありません。

 だとすれば光秀はずいぶん気の毒な立場に立たされたとも言えそうですが、以上は全て憶測でございます。

邪馬国はどこにあったのか?

魏志倭人伝に詳しくその存在について記された邪馬台国は大きく分けて畿内説と九州説に分かれます。それぞれに根拠があり、どちらの論陣も一歩も譲らぬ構えのように見えなくもありません。最近は各地で街起こし的に邪馬台国はうちにあったとう人も多いらしく、それはそれでお祭り的で面白いとも思いますが、やはり、では実際にはどこにあったのか?というのは気になるところです。

 まず間違いなく言えることは当時の日本列島にはそれなりに広い地域を支配する王権が少なくとも三つあったということでしょう。九州、畿内、関東にはそれぞれ古墳が多く、大きな物は畿内に多いようですが、数で言えば関東の方が多いとも言えます。もし仮に邪馬台国が日本列島に本当にあったとすれば、以上の3つのうちのどれかということになります。

 地理的に有利なのは九州でしょう。なんだかんだ言って大陸文明の入り口であったことは間違いなく、魏の使節は最初に目にする九州の王権について詳しく述べるというのは自然なことのように思えます。しかし、魏志倭人伝の記述に頼れば、邪馬台国は九州に上陸してからかなり進んだ場所にあったようです。

 王権の強力さという意味では畿内かも知れません。箸墓遺跡の調査が進み、かなり遠方からも様々な人々が集まって来ていたことが確実視されていますので、王権との関係を保つために各地の実力者が定期的に箸墓を訪問していた可能性が伺えます。しかし、畿内説は魏志倭人伝で更に南へ進むと邪馬台国があると記述している部分をきっと東の方向に進んだのに南へ進んだと間違えたのだ、というちょっと強引な解釈を根拠にしています。南と東を間違えるでしょうか?当時はまだ今よりも太陽の方角を意識して移動するでしょうから、それは考えにくいのではないかと思います。畿内に強い王権があったとしても、それは邪馬台国かどうかは少し怪しいように思います。

 関東地方は多分ないでしょう。

 記述を信じるなら、南へ南へと進みます。人々は素潜りが上手く、身体に入れ墨を入れるのが習慣になっています。私は時々、当時台湾の海岸沿いで生活していたであろう、入れ墨の習慣を持っていた原住民の土地に邪馬台国があったのではないかと思うことがあります。




幻のオーストラリア決戦

 ミッドウェー海戦で敗北した後、日本軍はオーストラリア決戦を画策するようになります。オーストラリアに上陸し、陸上決戦で連合国軍を破り、日本優位の印象を強く与えて講和に持ち込むというのが狙いです。

 オーストラリア攻略のための前進基地がガダルカナル島であり、そこに飛行場を建設することでオーストラリアを爆撃することが可能になる、更に言えば、オーストラリア東海岸地帯の制空権と制海権を抑えれば、アメリカとの連絡が途絶えるため、日本軍にとっては好都合だというものです。

 しかしながら、よく知られているようにガダルカナルの戦いでは当初こそ日米の拮抗が見られたものの、半年に及ぶ戦いの末に日本軍が撤退するという展開に至ります。仮にガダルカナルの戦いで勝利し、オーストラリア決戦に持ち込むことができたとしても、結果としてはオーストラリア人に恨まれるだけになったでしょうから、ある意味ではこれで、現代の日本人にとっては傷が浅くて済んだという気がしなくもありません。

 もし本当にオーストラリア決戦が行われていたらどうなっていたでしょうか?オーストラリア軍は特段の脅威になるとも思えませんので、日本軍が勝った可能性は十分にあります。しかし、どのみち補給不足に陥ることは確実で、現地調達が行われ、それは地元の人たちの目から見れば明白な略奪行為ということになり、いい結果を生むことになるとはちょっと思えません。というかかなり思えません。

 ガダルカナル戦が行われたころはアメリカの反撃態勢が整いつつあったころとも言えますので、シンガポール陥落の時ならともかく、1942年後半の段階でオーストラリア攻略に成功して講和に持ち込むという発想自体が甘いのではないか…という気がします。

 戦争はその行為自体が否定されるべきものです。もし、仮にその価値観に関する議論を省略して、どうすれば勝てたかということを検証するとしても、太平洋戦争に関して言えば、やはり始めてしまったこと自体がまずかったと結論するのが妥当では….と思えてしまいます。

近衛文麿とルーズベルトの首脳会談

 日米開戦直前まで近衛文麿は野村吉三郎大使の対米交渉に期待をかけていたと思いますが、最後の秘策としてハワイで近衛とルーズベルトが会談し、日本が大幅に譲歩することで戦争を避けようとしたと言われています。

 実際にはルーズベルトがあまり乗り気ではなく、実現する前に東条英機にあんまり激しくせっつかれるのが嫌になって近衛内閣は総辞職し、ハワイ会談が実現することはありませんでした。松岡洋祐が潰したという話もあります。

 ルーズベルトが乗り気ではなかったため、そもそもどんなに頑張っても実現するはずはなかったとの意見もあることでしょう。近衛としては、ルーズベルトとサシで話し合うという派手な外交パフォーマンスで新聞記者の気持ちを高揚させ、和平路線の記事がバンバン掲載されるあたりのことを狙っていたのではという気がします。当時は軍も政治家も世論を非常に気にしていて、世論は新聞によって形成されるため、新聞が戦争を煽ればそっちに乗っかるという面があったことを否定し切れません。そのように思えば、パフォーマンスとしては最高な出し物になったことでしょし、それでアメリカとの戦争が回避されるのなら安いものです。もし、ルーズベルトとの会談が実現していれば、満州はともかくそれ以外の中国の土地からの全面撤退ということくらいのことは言ったかも知れませんから、実現しなかったのは実に惜しいことです。

 ルーズベルトは近衛あまり会いたくなかったようですが、昭和天皇と直接会いたいという親書を出したという話もあります。ただ、親書が出された直後に真珠湾攻撃が起きてしまったため、昭和天皇とルーズベルトも幻の会談になってしまったようです。

 もっとも、このあたり諸説あり、どの話が本当だったか、それくらい信用できるかということは判断の難しいところです。

 近衛・ルーズベルトにせよ、昭和天皇・ルーズベルトにせよ、そのような会談が行われていたら….と歴史の「もし」をついつい考えてしまいます。

関連記事
近衛文麿内閣をどう評価するか

ベルサイユ会議と日本

第一次世界大戦の戦後処理のために開かれたベルサイユ会議では、日本から全権として牧野伸顕、西園寺公望が、副使として近衛文麿が参加します。西園寺は当時まだまだ若かった近衛文麿に目をかけ、政治家として大成してほしいとの意向があったとも言われていて、ベルサイユ会議へ連れて行ったのは、若い人にいろいろなものを見て経験してほしいという願いがあったとも言われています。

 さて、若きプリンス近衛文麿ですが、彼はベルサイユ会議の経験から『英米中心の平和主義を排す』という論文を発表するようになり、西園寺の考えとは少し違う方向に走り始めたように見えます。

 西園寺はパリで長く過ごした後、帰国後に自分で新聞社を創立しようとしますが、明治天皇からの要請という名目で首相になります。自分で新聞社を作ろうというくらいの人ですから、思想的にはリベラルな要素が強く、欧米との協調外交にも積極的な人です。

 そのため、まさか自分の目をかけた近衛が後に首相に指名され、民族主義的な傾向へ走るというのは考えてもしなかったことかも知れません。

 ちなみにベルサイユ会議では、「ヨーロッパの事情はあんまりよく分からないから余計なことは言うな」という訓命が東京より出ていて、それに従って日本代表たちは言葉数少なだったそうですが、仮にも戦勝国の一員として大国扱いしているにも関わらず、何を考えているかわからないとその他のヨーロッパの代表たちは日本代表に対してがっかりしたとも伝えられています。やはり、日本は外交が下手….なのですねぇ…

ペリーと琉球

 ペリーの黒船お艦隊は浦賀沖に姿を現す前、琉球に立ち寄っています。
 立ち寄ると言っても友好的な訪問ではなく琉球王朝の許可なく上陸した後に、強引に首里王宮へ行進し、入城しています。

 ペリーの蒸気船艦隊はもちろん当時の日本を驚かせたに違いありませんが、戦力としては江戸幕府を打倒できるほどの巨大なものとは言えません。たった四隻のフリゲート艦で日本征服ははっきり言えば不可能ですし、欧米諸国は日常的に武器を携帯して場合によっては相手を殺害することに美学を持つ階層が十人一人いる日本を植民地化することは、ある段階で諦めていたように私には思えます。

 ペリーも日本を植民地化するような壮大なことを考えていたわけではなく、飽くまでも当時アメリカの主要な産業の一つであった捕鯨のための補給基地を日本に求める以上のことは考えておらず、もし失敗した場合は琉球王国でその基地を確保しようと考えていたようです。現実的で名より身を取る作戦と言ってよいでしょう。

 ペリーは場合によっては琉球征服を考えていたようですが、日本の開国によりそのような荒っぽい方法を取る必要はなくなったということになります。

 興味深いのはペリーが琉球訪問をきっかけにアメリカの宣教師が琉球で宣教を始めたことでしょう。日本聖公会の布教史はこの時の琉球での布教が日本布教の始まりであるとしています。

 沖縄は様々な意味で近代史で重要な場所ですし、県民の方々の複雑な感情は大国に利用され続けたことから生まれてくるのだと思います。ペリー沖縄上陸の件も、その後の苦難を予告するものだったのかも知れません。沖縄の苦難については私たち日本人がみんなで深く受け止めるべきことだと思います

プラザ合意のこと

1985年、ニューヨークのプラザホテルで行われたG5会合でドルの全面安の容認の合意がされたことをプラザ合意と呼ぶことは大変有名な話です。

ベトナム戦争以降、国力の疲弊から立ち直ることに苦慮していたアメリカが自国製品の輸出を振興するための手段としてのドル安をG5諸国に持ちかけたということなのですが、当時の空気としては、世界の資金がドルから円へと移動することが確実視されており、日本側から見れば事実上の円全面高への移行という理解になります。

交渉に臨んだ竹下大蔵大臣は、プラザ合意は実質的に日本とアメリカの二国間の協議で決まったとして、「とうとう日本はアメリカと肩を並べた」と周囲の人に話したと言います。

プラザ合意後、日本円は一機に値上がりし、言い換えるなら市場の判断する適切な価値がつけられるようになりました。一方で、生産拠点が海外へと流出するようになり、産業空洞化という言葉が使われるようになっていきます。

日本銀行の金融緩和により、国内でキャッシュがだぶつく事態となり、バブル経済が発生しますが、投機の過熱を懸念した日銀が金融引き締めに政策を転じたため、バブルの崩壊といつ終わるとも知れぬ不況へと日本は迷い込んで行くことになってしまいます。

プラザ合意はアジア諸国への産業移転、バブルの発生と崩壊という日本のその後を決定する極めて重大な出来事であったと言うことができますし、アジア諸国が世界の工場と呼びうるほどに生産力を高めることに弾みをつけ、日本から部品を輸出して海外で組み立て、再び日本に輸入する(或いは更に他の国へと輸出する)という経営モデルを定着させる契機となった、今の世界を形作った第一歩になったとも言えそうです。

当時、人々はいずれ日本はアメリカを凌駕する経済大国になるとすら囁き合ったものですが、ちょっと調子に乗り過ぎていたところもあったかも知れません。

経済の調子が上向き続ける時、人は浮かれます。下降が続くと人は内省的になり、思索を深める面もあるようにも思えます。そのような意味では、日本人は経済的には厳しい時代を迎えてしまいましたが、世の中に揉まれることで人格的には向上したというプラスの面もあったのではないかという気もしないでもありません。