『博士の異常な愛情』のアイロニーを解読する

『博士の以上な愛情―或いは私は如何にして心配することを止め水爆を愛するようになったか』は、どんな内容の映画かということについては大変知られていることだと思います。

アメリカ軍の空軍基地司令官が共産主義の陰謀論を自分の頭の中で妄想し、先手必勝を確信し、独断でソ連周辺を飛び回っている爆撃機に水爆の投下を命じます。冷戦の時代です。キューバ危機とかあった時代です。一瞬でもそういう妄想が頭に浮かぶ人が多い時代です。通常、核攻撃を大統領の命令なしにできるはずはありません。しかし、この映画では命令系統の盲点をついて司令が独断でできるようになっています。アナログの時代ですので、今のデジタルの時代よりは盲点は多いかも知れません。とはいえ物語ですので、実際にそのようなことは起こり得ないと思いますし、実際に起こりませんでした。

むしろ関心を持ちたいのは、この映画に込められたアイロニーの数々です。注意深くみていくと、随所にアイロニーが散りばめられていることが分かります。というかアイロニー満載です。司令官の爆撃命令を受け取った爆撃機の機長は部下に「平然と水爆を落せるやつは人間じゃない」と話します。エノラゲイに対する暗然たる批判になっていることに気づきます。司令が自分の組み立てた妄想をイギリスから派遣されてきた副官に話します。司令はソフトマッチョな感じのするカウボーイ風のナイスガイです。監督は冷笑的に「どんな人間が戦争を起こすのか」を観客に問いかけています。コカ・コーラの自動販売機が登場するのも何をかいわんやというところです。私はコカ・コーラなしでは生きていけない人間ですが、その自動販売機の登場に、監督の言いたいことが入っています。あまりに直接的すぎて、ここで書くのは憚られるほど明確です。

ソビエト連邦が、もし先制攻撃を受けたときのための備えとして死の灰と放射線で全人類を滅亡させる「皆殺し装置」を開発しており、不幸にして爆撃機がソビエト連邦への攻撃に成功してしまうため「皆殺し装置」が発動してしまいます。

ドクターストレンジラブがアイロニーの究極の存在です。元ナチスで、アメリカに帰化した彼は、科学技術の責任者としてアメリカ政府の高官になります。彼は「皆殺し装置」が発動されたことについて、大統領に対し、選ばれた者だけが地下に避難し、原子力でエネルギーを得て100年後の放射線の半減期まで耐え忍ぶよう提案します。核で世界と人類が滅びるというときに、やはり核で生き延びようとする逆説が生きています。

福島原子力発電所の事故が起きて以降、日本人は基本的には原子力発電に対して失望していると私は思います。一時的な使用はもしかするとありかも知れないですが、恒常的な使用はあり得ないと感じている人が多いと思います。50年も前に作られた映画ですが、311以前に観るのと、以降に観るのとでは感じ取れることも変わってくるような気がします。

これはもはや謎と言っていいですが、キューブリック監督はいったい何と戦っていたのだろうか…ということを私はしきりに考えます。推測するしかできませんが、他の作品も一緒に観ることで、おぼろげながら、その意図を知ることはできるかも知れません。とはいえ、それは、もはや個人のレベルでそれぞれに想像力をたくましくする他はないような気もします。

ついでになりますが、ピーターセラーズという役者さんが一人で三役こなしていて、それぞれに別人に見えるところがすごいです。大統領とドクターストレンジラブとイギリス人副官をこなしています。誰かに教えてもらえなければ、簡単には気づきません。ただ、個性が強いので一回目に観たときに「なんかあるな」くらいには気づくかも知れません。一回気づけば簡単にわかりますが…。

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『オペラ座の怪人』の階級と愛と欲望とピケティ

『オペラ座の怪人』は不幸な生い立ちの「怪人」が若くて美しい歌姫のクリスティーンに対する執念とも言える愛情を燃やすことで知られています。ただ、よく見てみるとフランスの階級社会と時代の変化、それに伴う意識の変化、もうちょっと言うと「欲望」に対する考え方が変わっていこうとしている様子が分かります。更に言うと「怪人」は近代を象徴しています。もうちょっと詳しく述べたいと思います。

『オペラ座の怪人』の前半で、当該のオペラ座の演目は古代ローマ史に関するものだったり、フランスのお貴族様が妻の隙を狙って浮気をする話だったりします。一方、後半に於いて「怪人」が書いた演目である『ドンファンの勝利』を上演することになりますが、それは名もなき一人の男が自分の女性に対する欲望を満たすために何でもするという内容のものになっています。

実はここには時代の変化というものを原作者が意識して入れてこんでいるように思えます。前半で見られる古代ローマ物はいわば定番モノ。よっ中村屋!的なマンネリズムを扱っています(マンネリズムそのものは、それで良いものですし、私も「よっ中村屋!」的世界はわるくないと思います。そもそも歌舞伎は伝統否定から来ているので、その精神も愛すべきものです)。また、お貴族様が妻の隙をうかがって浮気をするというのは、「あわよくば、そうしたい」というもので生活の根本的な変化を求めるものではありません。妻との結婚生活そのものは維持します。特にお貴族様の場合、資産の維持と結婚は直結しますのでそこは死守します。飽くまでも「あわよくば」、目を盗んで浮気したいというものです。観客は「わかる、わかる!自分もそうしたい!」と思い、そこで共感的な笑いを誘うことができます。音楽はお決まりで微温的で微笑に満ちたものです。

一方、後半の「怪人」が書いた譜面では、狙った女性を得るために手段を選びません。「あわよくば」的な甘さは一切ありません。欲望を達成するためには何でもします。人生をかけます。命をかけます。前半に上演される微温的な甘ったるさを拒否するほどの強い精神、エゴ、既存の価値観に対する挑戦と破壊があります。狂気に満ちた旋律と欲望に身もだえするようなダンスは前例を否定し、自分の欲求を肯定し、そしてそれを持て余しています。

前半と後半の違いは近代以前と近代化以降の違いと言ってもいいと私は思います。前半はいわば近代以前。変化を嫌い、自我的欲求は秩序の範囲内で満たす。不変の秩序が支配する世界です。一方の『ドンファンの勝利』は自分のやりたいことのためには秩序など無視します。自分の求めることを達成するためには、新しいものを受け入れ、状況の変化を受け入れ、善悪は別にして目標達成のために最善を尽くします。これは様式美や枠組みよりも実際の効果を優先する近代の戦争や近代資本主義と同様の立場です。

ヨーロッパが階級社会であるということとも密接にかかわります。たとえば覆面舞踏会では「上流」の人は上流同士で品よく楽しみます。一方で「下流」の人は下流同士でバカ騒ぎをして楽しみます。そういう社会であり、そういう時代だということを作者は訴えているわけです。

「怪人」の書いた『ドンファンの勝利』は、そういう階級をも突き崩せ、というメッセージを込めています。階級をはじめとする様々な社会の前提条件を受け入れていてはドンファンの欲望を満たすことは不可能だからです。

時代は19世紀後半から20世紀初頭にかけて。オペラ座がつぶれていろいろな物がオークションにかけられる時は既に第一次世界大戦の後です。戦争の激化により機械化が進んだ時代です。自動車が移動手段の主役になりつつあります。親から財産を受け継ぐ人だけが豊かなのではなく自分で事業を始めて成功した人も豊かに、貴族以上の生活ができる可能性が見え始めて来た時代です。オペラ座の新しいオーナーはスクラップメタル事業で成功した、いわば成金です。貴族でない人が成功するためには怪人の書いた『ドンファンの勝利』のような強い情熱、不屈の精神が求められます。『オペラ座の怪人』を観て、ラウル子爵よりも「怪人」に感情移入する人は多いと思います(そうなるように作られています)。それは不屈の精神でほしいものを手に入れようとして努力する自分を怪人に投影できるからだと思います。自分が手に入れようとするものがタッチの差で手に入らずに悔し涙を流した人は大勢います。私にもそういう経験は何度となくあります。近代がそういう設定で動いているので、近代社会では人はそういう経験をしないわけにはいきません。それによって経済成長は極限を目指すことができます。

しかしながら、21世紀の今、私たちの社会はいろいろな意味でターニングポイントを過ぎており、欲望を満たすためなら「何でもする」時代は過去のものとなりつつあるように見えなくもありません。情熱と努力だけではとても変わっていかないものがあると人々は訴えています。イギリスのEU離脱は「これ以上の競争社会はおうご免だ」と見ることもできますし、トランプ氏はサンダース氏の人気も同じ理由に求めることができます。人々の意識は情熱によって努力を強いられることに疑問を持つようになっています。ピケティの著作がかくも支持されている理由はそこに求めることができます。ポストモダンです。小理屈ですみません。

以前の私でしたらピケティ的価値観を受け入れることができなかったかも知れません。ですが前提条件が違います。AIによる生産性革命がわりと近い将来(そこまで近くはないですが…)に訪れるとすれば、確かに競争しなくて良くなると思います。では『オペラ座の怪人』が過去の作品になるのかというと、新しい時代には新しい解読の仕方があるかも知れません。恋の悩みは生産性とは関係ありません…。

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モンサンミシェルに行った時の話

世界遺産にも登録されているモンサンミシェルは、児玉清さんの『アタック25』に優勝すると行けるというだけで私にとっては随分とプレミア感がある場所です。

ベルサイユでもバルビゾンでも自力で地下鉄、鉄道、バスと乗り継いで行きましたが、モンサンミシェルだけは自力で行く自信がなく、鉄道が通ってるかどうかも分かりませんし、バスは一本間違えればどこへ行くかも分からないという不安があって、現地でにオプショナルツアーに申し込みました。「ノルマンディとモンサンミシェル昼食付き」の日帰りツアーです。モンサンミシェルは遠いです。パリから400キロくらい離れています。東京と名古屋くらいの距離がありますから、ほとんどバスの中です。モンサンミシェルを見ることさえできれば満足だツアーです。パリに戻ってくるときは深夜です。

高速道路で西へ西へと向かう旅は、第二次世界大戦の時、ノルマンディ上陸以降にパリへ向かった連合軍とちょうど反対方向です。バスから見える平地を眺めれば、この辺り一帯で連合軍とドイツ軍が撃ち合っていたのかなぁというような想像力が働きます。
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ノルマンディで15分くらいの休憩が入ります。これでツアーの名目通りノルマンディに行ったことになるので約束は一つ果たされました。かわいい家が並んでいます。ノルマンディ上陸があった場所は近いのでしょうけれど、映画で観るのは砂浜に向かって上陸していく様子なので、私が訪れたような港湾が整備されている場所という感じではありません。ただ、上陸したラインはけっこう長いらしく、映画でやるのは一番激戦だった場面を再現しているので、簡単には判断ができません。
ノルマンディ

ノルマンディを後にしてモンサンミシェルが見えるレストランで昼食を済ませ、いよいよ念願のモンサンミシェル突入です。モンサンミシェルへと続く道は潮が満ちると海に沈み、潮が引いている時だけ渡れるという場所で、かつてから巡礼の人が難儀する場所として知られていましたが、最近は近くで水利工事が行われて以降、砂がたまるようになり、全然そういう心配はないそうです。しっかり道が整備されていて、安全にわたれます。

モンサンミシェルは修道院として建てられましたが、砦だった時もあれば監獄として利用されていたこともあるそうです。修道院として使う場所としては、ここは世間から隔絶されて瞑想生活に入るのに適しているように見えます。『薔薇の名前』の修道院もこんな感じか?とも思います。ただ、私の中では薔薇の名前の修道院は山の中です。砦に使用したならば、満潮時に敵が潮で流されていきますので難攻不落感が強いです。世間から隔絶されるという意味では監獄としても最適のように思います。ドームみたいな広い部屋がたくさんあります。お土産屋さんもたくさんあって、仲睦まじい男女がたくさんいます。うらやましいです。海の方に目をやると、広い広い干潟が広がりとてもきれいです。
モンサンミシェルの周囲の干潟

私が『アタック25』に出る前に児玉清さんが亡くなってしまいましたが、自分で行ったので出られなくても満足です。児玉清さん、ありがとうございます。

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パリの地下鉄の話

パリの地下鉄は入り組んでいてすぐには理解できません。何度も乗っているうちにだんだん便利に使えるようになっていきます。パリ市がそんなに広いわけではないことと関係しているのかも知れないですが、駅と駅の間隔が短いです。エリア的に被っている路線が多いので、自分の行きたいところへ行くのに乗り換えの手間を少なくすることができます。ニューヨークの地下鉄は大阪と同じで縦横そろっていて分かりやすいですが、パリの地下鉄はロンドンや東京みたいにぐねぐねしているので、乗り換えポイントを理解するまでは少し時間がかかります。理解したら楽ちんです。

パリの地下鉄は結構、汚れています。下北沢のちょうどいい感じに年季の入った劇場みたいに、いい感じに汚れています。へんなにおいもしています。何のにおいかはっきりとはわかりませんが、多分、人間の体臭100年分みたいな感じだと思います。慣れればどうということはありませんし、ちょうどいい感じの汚れ方と合わせて雰囲気を楽しめる気がします。ちょっと銀座線に似ていなくもないように思います。

パリの地下鉄はシテ島に集まるようにできています。シテ島周辺に3つか4つくらい駅があるので、大抵の路線からシテ島にいけます。便利です。シテ駅から歩いてすぐにポンヌフ駅があるみたいな感じです。

パリの地下鉄構内にはストリートミュージシャンも結構います。レベルは高いです。バイオリンでクラシックをやっている人もいれば、レゲエをやってる人もいます。

レゲエをやっている人たちの写真です。
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この人たちもレベル高いです。楽しんでます。髭とか服装とかドラマチックです。そういう人があちこちにいます。楽しいです。

昭和天皇は皇太子時代に第一次大戦後のパリを訪問しています。亡くなった後、遺品の中にパリの地下鉄の切符があったそうです。ヨーロッパ旅行が人生で一番楽しかったと後に述懐しています。今でこそパリは「ロマンチック」な歴史ある古都ですが、1900年ごろのパリはロンドンと並ぶ世界の中心、近代の源みたいな場所です。1900年のパリ万博で市の南西側を中心に再開発が進み、エッフェル塔とかオルセーとかが作られましたので、昭和天皇が訪問した時は、そういう時代の最先端の空気があって、当時はまだまだ若いですから、きっといろいろなことを感じたのだろうと思います。

そういう意味では最近のパリはちょっとぱっとしないかも知れません。時代の最先端という感じとも言いにくいかなあという気はします。人口は第二次大戦のころに300万ありましたが、今は200万くらいです。衰えたわけではなく、パリのイメージがあまりにも「ロマンチック」なため、世界のお金持ちが住みたがり、地価が高騰して普通の人はなかなかパリ市内に住めません。ドーナツ化現象を起こしていてパリ郊外で暮らす人がとても多いそうです。結果としてパリはセレブと観光客ばっかりの街になり、普通の人の割合が少ない、ちょっと不思議な街になっているような気がします。もっとも、古いパリの景観は残しつつ、新しいビジネスセンターみたいな地区もありますので、私が古いパリばかり歩いたからそんな印象を持ったのかも知れません。

個人的には地下鉄がすごく好きです。世界中どこへ行くにしても地下鉄のある場所に行きたいです。日本で暮らす場合は私鉄沿線でもOKです。なんか話が脱線してしまいました。地下鉄だけに。



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ベルサイユ宮殿に行った時の話

ベルサイユへはパリ市内から小一時間電車に乗っていきます。駅を降りると普通の街並みですが、改札を出て右へ歩き、最初の大きな角を左に曲がると少し遠目に立派なベルサイユ宮殿があります。駅の方からみて丘の上になるように考えて作られていて、ルイ14世が自身の「君臨」ぶりを見せつけることを意識していたことが分かります。

てくてく歩いていくと観光客の行列が見えます。現地ツアーに申し込んだ人や団体さんはすっと入れますが、個人旅行でぶっつけで来てる人はここで延々と待たなくてはいけません。朝10時ぐらいに着いたのですが、ぎっちり人が並んでいます。入れるまで2時間半ぐらいかかりました。

ただ、入ってみればいいところです。こじゃれています。天井画も家具も壁もこじゃれています。おーさすがだなー。と思います。かつての王の寝室とか、全部廊下でつながっていて、博物館を見るみたいにしながら歩いて行けます。実は当時からそのような作りになっていて、王家の人々の生活(顔を洗ったり食事をしたり)は全部公開されていたそうです。不思議な習慣ですが、王は国民のものなので全て公開しなくてはいけないみたいな話だったそうです。思いついたのはルイ14世でしょうから、絶対王政がちょっと変な方向に向き始めていたことが分かります。

鏡の場は立派です。とても広いです。第一次世界大戦後のベルサイユ会議のメイン会場に使われた部屋です。鏡がばーっと並んでいます。体育館くらいの広さがあります。しかしベルサイユ宮殿のおもしろいところは「母屋」だけではありません。広大な庭があります。市町村一個くらい入りそうなほどの広い庭です。広大の庭の中には第二宮殿みたいについて使われた「グラントリアノン」、ルイ16世が結婚の時にマリーアントワネットにプレゼントした「プチトリアノン」、マリーアントワネットの田舎風趣味を現実のものにした「農村」などがあります。

グラントリアノンはまあまあいいですが、第二宮殿ですから、ベルサイユの母屋を小さくした感じで、当時の美術に詳しくない人にとっては大体同じ感じに見えなくもありません。プチトリアノンはわりと素朴で、建物は白が基調で、ベルサイユ宮殿みたいにごてごてとデコっていません。マリーアントワネットはプチトリアノンがお気に入りで、大体そこで暮らし、友達を集めて遊んでいたそうです。気になるのは「農村」ですが、本当に田舎の農村風の民家があります。人は住んでいるわけではなく観光用みたいです。マリーアントワネットが素朴な田舎趣味を好んで作らせたとのことですが、当時、本当に人が住んで普通に農業とかしていたのか、それとも単なるデモンストレーション、エグジビションのつもりで建ててあっただけなのかはどこにも書いてありませんでした。フランス史を勉強して、それもブルボン王朝専門とかの人でないと知らないのかも知れません。

それらの場所には始めは歩いて行くつもりでしたが、あまりの遠さに断念し、庭園の中を小さな列車が走ってますのでそれでグラントリアノンまで移動。その後は普通に歩いて見たいものを見たという感じです。庭園ではじゃがいもをふかして売っているお店がありましたので、それを購入。じゃがいもとバターのシンプルな味がよかったです。いろいろ工夫するよりこういうのが一番いいんじゃないかなぁとか思ったりしました。

ベルサイユの庭園で食べたジャガイモ。フランスで食べたものの中ではこれが一番おいしかった気がします。
ベルサイユの庭園で食べたジャガイモ。フランスで食べたものの中ではこれが一番おいしかった気がします。

マリーアントワネットが愛した農村。当時人が暮らしていたかどうかは不明。
マリーアントワネットが愛した農村。当時人が暮らしていたかどうかは不明。

ルイ16世とマリーアントワネットのエピソードはパンフレットとかにいろいろ書いてあります。マリーアントワネットがこっそり作らせた自分だけでゆっくり過ごせる密室があった話とか、密室の窓から抜け出して遊びに行っていた話とか、恋人ができたときの話とか、そういう感じのやつです。一応、人妻なわけですが恋人を作ってはいけないような気もしますが、当時のフランス貴族はそのあたり、婚姻と貞操の関連性がどうなっていたのかが私には知識がないですし、そういうことについて議論している本も読んだこともないので、それについては永遠の謎です。

こんなあほみたいにデコりまくった建物を作らせたのはルイ14世ですが、どうしても世間は私も含んでマリーアントワネット=ベルサイユ宮殿で贅沢生活。というイメージが先に来ます。ショップでもマリーアントワネットの肖像画の入ったクリアファイルとか売っています。マリーアントワネットものは売れ筋なのに違いありません。1789年に起きたフランス革命でルイ16世一家はチュイルリー宮に移らされ、次いでタンプル塔に移され、ルイ16世はそこから革命広場に引き出されて断頭台にかけられます。マリーアントワネットは更にシテ島のコンシェルジュリーに移され、裁判にかけられて最期はやはり革命広場で断頭台にかけられます。そういう事情を現代の我々は知っているので、デコった宮殿が悲劇的に見え、人をひきつけるのではないかと思います。




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パリ解放の話-パリは燃えているか?

「パリは燃えているか?」という有名な言葉があります。アドルフヒトラーが側近にそのように質問したそうです。ノルマンディ上陸後、連合軍がパリを目指して前進しますが、ドイツ軍はかなり激しく抵抗していました。とはいえ、その時は東方面からはソビエト軍がポーランドまで来ていますので、まあ、もうだいたいダメだろうという予測が立ち始めています。今までさんざんめちゃくちゃして来たので、すみませんでしたですむ筈もなく、滅亡以外の選択肢はなさそうだとナチスドイツ関係者も気づき始めています。

パリ守備軍司令官のコルティッツはヒトラーから「パリを破壊せよ」という命令を受けますが、彼はそれを無視します。ドイツが負けることは分かっています。パリは人類の共有財産です。命令通りにやって戦争に勝てるのならともかく、ただの破壊をするよりはなるべく後世により良いものを残したいという彼個人の判断です。

パリに連合軍が迫っていることはラジオ放送でパリ市民はよく知っています。レジスタンスが立ち上がります。パリ市内のドイツ兵が襲われます。ところがあと一歩手前のところで連合軍は進撃を止めてしまいます。パリ解放戦のことを描いた『パリは燃えているか?』では、それは物資問題があったからだとしています。アイゼンハワーはパリを陥落させた後でベルリンに行かなくてはいけません。戦車のガソリンが必要です。当時のパリ市の人口はおよそ300万人。パリ解放に成功すれば、次は300万人の食料と燃料を心配してなくてはいけません。「アメリカ軍が来たら生活が前より悪くなった」と言われるわけにはいきません。そういう事情で一旦進撃を止めたのだとしています。

他の説もあります。自由フランスのドゴール将軍にパリ解放をさせるためだという説です。パリの解放者はフランス人でなければならないとするドゴール将軍の意思が尊重され、自由フランス軍がパリに入るのを待っていたのだとする説です。あるいは、ドゴール将軍と自由フランス軍は犠牲を省みず最前線に立ち、パリ入城を果たしたというような語られ方になることもあります。

どの説もなんとなく説得力があるような、ないような…な感じです。ガソリンの集積の必要があったとしても取り合えず先にパリを解放したいと思うのが人情です。パリを解放してからガソリンが来るのを待っても大差はありません。パリ市民に供給する食料がないから、というのも冷淡すぎます。なにせ戦時です。勝てる時に勝たなくてはいけません。ドゴール将軍に花を持たせるというのも、そんなにお人よしなのかなぁとも思います。

アイゼンハワーが足踏みしている間にドイツ軍はレジスタンスに対する反撃を始めます。レジスタンスはラジオ局を乗っ取り「自分たちはもうすぐナチスにやられてしまう。ラジオを聞いている人は教会の鐘を鳴らしてほしい」と訴え、パリ中の教会の鐘が鳴り響いたと言われています。本当だとすれば、ぐっとくる情景です。しかしそんなことになってしまう原因はアイゼンハワーが足踏みしていることにあります。

ちょっと似たような光景が反対側のポーランドのワルシャワでも起きています。ソビエト連邦の軍がもうすぐやってくるということで、ワルシャワ市民がナチスに対して蜂起します。ところがソビエト軍はワルシャワの手前で進撃を止めてしまいます。ドイツ軍がワルシャワ市民に反撃します。だいたい反撃が終わったところでソビエト軍がワルシャワに入ります。「ワルシャワを解放したのはソビエト軍であって、ワルシャワ市民は解放された側だ」ということをはっきりさせるためです。

パリでもアイゼンハワーが止まっていたのはもしかすると同じ理由なのではないかなあと思います。推測です。そういう駆け引きの中で、ささっと前に出てパリに入城したドゴール将軍は相当な人物です。上手においしいところを持っていく人です。うまいです。頭が良いです。そういう人のことがうらやましいです。

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ドイツ表現主義映画『M』のワイマール精神

ドイツ表現主義という芸術活動が1920年代から30年代ごろにかけて起きましたが、その時代に作られた映画の一つ『M』というのがあります。ドイツ表現主義といえば『カリガリ博士』とかの方が有名で、『M』はいまいち知られていません。でも、いい映画です。

ドイツのとある街で少女が行方不明になる事件が連続して起きます。後日、少女の死体が発見されます。人々は犯人に対して強い怒りを感じます。当然です。どんな手法で少女を上手に誘惑して犯行に及ぶのか、犯人はどこの誰なのか、さっぱり手がかりはありません。

警察が動きますが、ちっとも前に進みません。警部役の俳優さんがいい味を出してます。いい意味で、ザ・刑事(デカ)です。捜査網を強化しますがどっちにしても捕まりません。

市民が自警団を作ります。貧しくて家のない人たちも協力します。路上で生活している人たちは毎日通りを観察しているので、普通に家の中で暮らしている人よりも街で何が起きているのかよく理解しています。そういう人たちの助けによって事件解決に向けて進展します。そのような協力者の中のあるおじいちゃんは目が見えません。その分、耳の感覚が鋭いです。ある時、口笛を耳にします。以前、一人の少女が行方不明になった時、その少女がある男性に風船を買い与えてもらっていて、その時に男性が吹いていた口笛と同じだということに気づきます。それをおじいちゃんから知らされた青年は、口笛を吹いている男の後を追い、何とか取り逃がさないために男のコートの背中に「M」の字を書きます。murdererのMです。

市内のいろいろな人にその情報が伝わります。男をどんどん追いかけます。男は工場みたいなところに逃げたりしますが、結局は捕まります。人民裁判が開かれます。人々は怒っています。とても怖いです。感情的な私刑が行われても全くおかしくありません。というか人々は感情的な私刑を望んでいるように見えます。犯人の男は「自分には精神疾患があって、犯行時のことは何も覚えていない。犯行は自分が計画したのではなく、ある時意識を失っていて気づくと犯行が終わっている。自分にはどうすることもできない」と訴えます。弁護人を担当する人は酒を飲みながら裁判に出ていますが、「精神疾患による犯行ならば、彼には刑罰を与えることはできない。警察に引き渡し、病院に入れるべきだ」と正論を述べます。人々は怒っていますが、弁護人の言うことが正論だと認めて警察に引き渡すことに決まります。法治に対する倫理観や正義感を称賛する内容になっています。法治と理性を信じたいという願いが込められています。

この映画では人々は感情よりも理性的な判断を優先しています。ワイマール憲法の実践を目指したような気もします。フロイトの精神分析が世の中にある程度広まったことも関係があるかも知れません。もちろん、子どもをなくしてしまった人にとっては犯人を生かしておくことはできません。辛いです。しかし、感情と法理法論を分けています。映画の中ではさりげなく、でもきちんと分かるように、第一大戦後のハイパーインフレのことも触れています。犯人が店に入って酒を飲んでいる間に酒の値段が上がっていきます。時代背景を考えながら見るともっと面白いです。

1931年の映画ですから、ドイツでナチス政権が誕生する直前のことです。アドルフヒトラーは当時既に有名人です。そう考えると複雑な心境で映画を観ざるを得ません。この映画の監督はユダヤ人で、ナチス政権が誕生した後に亡命しています。ナチスは感情に訴えて支持を集めて行きました。現代は少しずつ、どこの国でも感情が優先されるようになってきているみたいです。もちろん感情は大切です。人は感情の生き物ですから、感情を抑え込んだり無視したりしては生きる喜びが失われます。選挙とか国民投票とかが行われるのも、小理屈はともかくみんなはどう感じているのかを確認するための手続きと言えます。民主主義はみんなの感情を合法的な意思にするために手続きとも言えます。しかしそこからは独立しています。また小理屈です。すみません。そういったことをいろいろ考えるのにこの映画は手助けになるかも知れません。カメラワークとか演者さんの表情とかいろいろいい映画です。


ルーブル美術館に行った時の話

ルーブル美術館はシテ島からとても近いです。入り口はガラスのピラミッドになっています。いつからそうなのかは知りません。ピラミッドに入ってエスカレーターを降りて、チケット売り場に辿り着きます。ミュージアムパスを持っていったらそれを見せるだけで中に入れてもらえます。

ルーブル美術館の展示品はオルセー美術館とかオランジュリー美術館とかよりも古い時代のものが中心です。宗教画が沢山あります。聖書の一場面を再現しているのが多いです。イエス様とマリア様の絵がいっぱい見れます。ルネッサンス期のものも展示しています。ダヴィンチの『モナリザ』もあります。ものすごく人がいっぱいいてとてもゆっくり見れません。それでも「本物を見た」という満足感が得られます。とても有名な『サモトラケのニケ』もあります。ニケのスペルはNIKEです。ナイキです。『サモトラケのニケ』の像は発見された時に既に腕がありません。巨大な立像ですから、長くて大きな腕がついていたのだろうと思います。いろいろ想像できますが、もちろん本当のことは分かりません。昔、恐竜の想像図が適当だったのと同じです。今の恐竜の想像図が適当かどうかは知りません。

中東の出土品とか地中海世界の出土品とかいろいろあります。アッシリアとかヒッタイトとかフェニキアとかクレタ島とかの情報に雪崩のように触れることができます。だんだんどれがどれなのか分からなくなっていきます。ですが、美術品を大量に見れるのは幸福です。個人的に所有したいとは思いませんが、時々見に行きたいです。エジプトのものもいろいろあります。保存状態の良いミイラも見れます。ナポレオンが持って帰ったのかなあと思います。ですがナポレオンは作戦がうまくいかなくて部下を見捨てて自分だけ帰還していますので、ミイラを持って帰れなかったかも知れません。作戦がうまくいかなくなる前に輸送したのかも知れません。でっかい石像とかだと触る人が時々います。触りたい気持ちは分かりますが、触ってはいけません。

ルーブル美術館の展示品の石像。触りたくなりますが、触ってはいけません。
ルーブル美術館の展示品の石像。触りたくなりますが、触ってはいけません。

イスラム世界の特設コーナーもありました。イスラム世界のことはよく分かりません。オスマントルコの時代は数学とか芸術とか、ヨーロッパよりも主流だったと聞いています。特設コーナーの解説によるとイスラム世界はとても広いです。ロシア、インド、トルコ、アラブ、アフリカとユーラシア大陸の中心部分を制覇しています。更にインドネシアとかタイとかにもイスラム教の人たちがいます。イスラム教にはそれだけのパワーというか伝播力があったのだと思います。

ヨーロッパの中世から近代にかけての芸術は結構、ロマン主義です。聖書を題材にした絵は見る人が故事に思いをはせたり、敬虔な信仰心を確認したりすることに役立ちます。ルネッサンスの人物像もそこにドラマが込められています。印象派は「自分にはそう見える」という意味では個人主義的で、他者とロマンを共有するというのとは違いますが、きれいできらきらした感じになるという意味ではロマンチックなものを求めていると思います。一方で、イスラム世界の芸術はロマンよりも理性や論理を重視しているような気がします。宇宙の法則を見つけて再現している感じです。なので幾何学模様とかシンボルマークとかが多いのだと思います。作成した人は宇宙の再現に使命感を持っていたような気がします。素人の想像です。

ナポレオンの戴冠式の絵はどでかいです。自分で自分の頭に冠を載せたという有名なやつです。ナポレオンの性格が想像できます。

ナポレオンの戴冠式の様子を描いた絵。どでかいです。
ナポレオンの戴冠式の様子を描いた絵。どでかいです。

ナポレオン三世が生活していた場所も再現されていて公開されています。豪華な上にこじゃれています。快適そうです。ナポレオン三世にはあまりいい印象はありません。ですが、おじさんのナポレオン一世よりは趣味が良かったのかも知れません。
ナポレオン三世の生活が再現されている部屋
ナポレオン三世の生活が再現されている部屋




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バルビゾン村に行った時の話

シテ島の話

セーヌ川の中にシテ島があります。ノートルダム寺院とかコンシェルジュリーとかポンヌフの橋とかあって観光客が押し寄せる場所です。ノートルダム寺院はでかいです。ノートルダム寺院の夜のミサに参加して、おーノートルダム寺院でミサ受けてるぜとか思うとちょっと得意気な気分になります。気分だけです。シテ島に行くのに警察官の人に道を聞いたら「la cite!」と言ってたので、島は女性名詞だということを知りました。フランス語では女性名詞の冠詞がlaで男性名詞の冠詞がleです。『ラセーヌの星』というアニメがありましたが、これもla seineです。セーヌ川の星という意味です。大人になってからようやく分かりました。興味のない人にとってはどうでもいい話です。

マリーアントワネットが最期まで監禁されていたコンシェルジュリーもシテ島にあります。ルイ18世の時代に公開されて、今も公開されています。コンシェルジュリーは留置場兼刑務所で、お金を払えばましな生活ができたそうです。

ポンヌフの橋があります。ポンヌフとは新しい橋と言う意味です。ポンが橋でヌフが新しいです。ですのでポンヌフの橋と言うと、新しい橋の橋ということになり頓智問答みたいなことになってしまいます。ですが日本語の便宜上ポンヌフの橋と呼ぶことにします。ポンヌフの橋は新しい橋という意味なのに実はシテ島で一番古いそうです。何百年か前に出来たときに「新しい橋だ、新しい橋だ」と言ってるうちに定着し、古くなっても同じ呼び方がされています。上の写真は地下鉄のポンヌフ駅構内のものです。シテ島とその周辺には地下鉄の駅が集中しています。

東京の新橋にポンヌフという立ち食いソバ屋さんがあります。新橋だからポンヌフという名前にしたんだと思います。名前はしゃれてますが普通のそば屋さんです。普通においしいです。最近は電通の人とか日本テレビの人とかがポンヌフまでおそばを食べに来ています。

話が脱線しましたが、ポンヌフの橋はシテ島の一番西側にあります。エッフェル塔がよく見えます。ロマンチックです。オルセー美術館も見えます。ルーブル美術館も近いです。一人で行くのはもったいないです。私は一人で何度となくその橋を渡りました。一人旅をためらっていては私は旅行に行けません。だからこれでいいのです。

パリ市は昔はシテ島の内側だけで街が構成されていたそうです。セーヌ川に囲まれているので安全性が高く、そこに人々が集まって暮らしていたそうです。バイキングがノルマンディあたりからセーヌ川をさかのぼってよく攻めてきます。抵抗したら皆殺しになるのでお金を払って帰ってもらいます。お金がもらえるのでバイキングは時々来ます。その都度お金を払います。一体いつまで続くのか…と不安になりますが、やがてバイキングの子孫はノルマンディ公になってイギリス王朝を開いて100年戦争までやりますのでいつまでも終わりません。100年戦争が終わった後、イギリスが攻めてくるとかはなくなりましたが、その後もイギリス王はフランス王を自称するようになります。戴冠式で「私はイギリス王でフランス王だ(他にもいくつか兼ねてるぞ)」と宣言します。今はどうかは分かりません。イギリスの王朝は何度か系統が交代している(血縁はつながっているが家名が変わる)ので系統によって違うのかも知れません。

シテ島はパリの中心でいろいろ便利そうですが家賃がめちゃめちゃ高いそうです。フランスの上位5パーセントの富裕層しか住めないそうです。うらやましいです。シテ島にマンションがあったら友達を呼んで飲み会がしたいです。

シテ島からセーヌ川左岸(東西に流れるセーヌ川の南側の河岸)へ歩いていくとカルチェラタンに行けます。

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フランス革命でルイ16世一家はベルサイユ宮殿からパリ市内のチュイルリー宮殿に移動させられます。ベルサイユ宮殿がヨーロッパ一の豪奢な建築だったのに対し、チュイルリー宮は久しく人が使っていなかったため、あちこちほこりを被っていて設備も故障が多く、手狭でマリーアントワネットはたいそう意気消沈したと言います。チュイルリー宮はルーブル宮の近くにあります。

当時、フランス国民と議会は絶対王政には否定的でしたが王制の維持には肯定的で、ルイ16世一家に命の危険が及ぶ考えていた人は少ないと言います。ただ、革命を経験して人々の心のうつろいやすさを見ているルイ16世とマリーアントワネットの目から見れば、とても安心できる状態ではなかったかも知れません。

一家は馬車で密かにパリを脱出し、ヴァレンヌで捕まえられるという有名なヴァレンヌ事件が起きます。これで世論が一機に硬直し、王の処刑を叫ぶ人々が登場したと言われています。そういう意味ではターニングポイントですが、王家の人々から見るとそれ以前から既に警戒しなければならない空気が感じられたのかも知れません。

いずれにせよ、それにはよって王家はタンプル塔に監禁され、犯罪者同様の扱いを受けるようになります。その場所はセーヌ川右岸、パリ3区になるので、パリ同時多発テロがちょうど発生した地域とある程度重なるのではないかと思います。

私がパリに行ったのはテロ事件の前の年だったので、そういう悲痛な場所だという感覚はありませんでした。滞在中はなんとなく気になって、フランス革命の関係した場所に行きたいなあという思いが湧いてきて、タンプル塔もできれば見に行きたいと思っていましたが、どこにあるのかもよく分からず、観光客が訪れるには若干マニアック過ぎるので地元の人に質問したら怪しまれはしないかと不安になり、諦めようかと思いつつたまたま歩いていて通りかかったのがタンプル公園で、詳しい本には今は公園になっていると書かれていて、もしかしてここかと。念ずれば通じる現象が起きた感じです(私の人生でそういうことはめったに起きないのですが…)。

ルイ16世はタンプル塔から革命広場へと引き出され、断頭台にかけられます。マリーアントワネットはタンプル塔からシテ島内にある裁判所兼留置場みたいな機能を持っていたコンシェルジュリーに移動させられ、二ヶ月ほどの裁判の期間を経て最期は革命広場で断頭台にかけられます。コンシェルジュリーから革命広場へと引き出される時の肖像画が残されていますが、大変につかれた様子で、ベルサイユ宮殿に残されている華やいだ感じの肖像画とは別人に見えます。描き手のくせの違いもあるはずですから、簡単に結論できませんが、あまりにも違うのでマリーアントワネットは直前に別人と入れ替わったとする生存説もります。でも、もし本当に脱出できていたらオーストリアに帰って子どもの救出のために全面戦争をしたでしょうから、多分、脱出した可能性はないと思います。

ベルサイユ宮殿の離れ、グラントリアノンだったかプチリアノンだったかに展示されていたマリーアントワネットの肖像画の写真です。華やかです。多分、プチトリアノンだったと思います。

マリーアントワネットの華やかなな感じるのする肖像画です
マリーアントワネットの華やかな感じるのする肖像画

息子さんのルイ17世はタンプル塔で激しい虐待を受けて亡くなってしまいます。娘さんのシャルロットは生き延び、王制が復活したら王族としての生活を送りますが、当時、両親と弟を死に追いやった人々を決して赦さなかったと読みました。ルイ17世が受けた虐待はここで書くことを憚られるほど酷かったようです。素直にかわいそうだと思います。

ナポレオンが政権を取った時に、おそらくは忌まわしいという理由でタンプル塔は取り壊され、今はその跡地が公園になっています。超絶合理主義者だったであろうナポレオンらしいように思えます。このナポレオンの判断には好意的な印象を持ちました。

子どものころにやっていたラセーヌの星というアニメでは息子さんと娘さんは救出されます。マリーアントワネットは子どもの安全に確信を持ち、安心した表情で革命広場へと連れて行かれます。王家一家があまりにも残酷な運命を迎えたのが辛いので、そういう明るい終わり方を作者が選んだのだと思います。

ベルサイユ宮殿に展示されているマリーアントワネットと二人の子どもの肖像画です。幸せそうです。その後の運命のことを考えると見るのがちょっと辛いです。

マリーアントワネットと二人の子どもの幸せそうな肖像画
マリーアントワネットと二人の子どもの幸せそうな肖像画





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