ベルサイユ会議と日本

第一次世界大戦の戦後処理のために開かれたベルサイユ会議では、日本から全権として牧野伸顕、西園寺公望が、副使として近衛文麿が参加します。西園寺は当時まだまだ若かった近衛文麿に目をかけ、政治家として大成してほしいとの意向があったとも言われていて、ベルサイユ会議へ連れて行ったのは、若い人にいろいろなものを見て経験してほしいという願いがあったとも言われています。

 さて、若きプリンス近衛文麿ですが、彼はベルサイユ会議の経験から『英米中心の平和主義を排す』という論文を発表するようになり、西園寺の考えとは少し違う方向に走り始めたように見えます。

 西園寺はパリで長く過ごした後、帰国後に自分で新聞社を創立しようとしますが、明治天皇からの要請という名目で首相になります。自分で新聞社を作ろうというくらいの人ですから、思想的にはリベラルな要素が強く、欧米との協調外交にも積極的な人です。

 そのため、まさか自分の目をかけた近衛が後に首相に指名され、民族主義的な傾向へ走るというのは考えてもしなかったことかも知れません。

 ちなみにベルサイユ会議では、「ヨーロッパの事情はあんまりよく分からないから余計なことは言うな」という訓命が東京より出ていて、それに従って日本代表たちは言葉数少なだったそうですが、仮にも戦勝国の一員として大国扱いしているにも関わらず、何を考えているかわからないとその他のヨーロッパの代表たちは日本代表に対してがっかりしたとも伝えられています。やはり、日本は外交が下手….なのですねぇ…

ペリーと琉球

 ペリーの黒船お艦隊は浦賀沖に姿を現す前、琉球に立ち寄っています。
 立ち寄ると言っても友好的な訪問ではなく琉球王朝の許可なく上陸した後に、強引に首里王宮へ行進し、入城しています。

 ペリーの蒸気船艦隊はもちろん当時の日本を驚かせたに違いありませんが、戦力としては江戸幕府を打倒できるほどの巨大なものとは言えません。たった四隻のフリゲート艦で日本征服ははっきり言えば不可能ですし、欧米諸国は日常的に武器を携帯して場合によっては相手を殺害することに美学を持つ階層が十人一人いる日本を植民地化することは、ある段階で諦めていたように私には思えます。

 ペリーも日本を植民地化するような壮大なことを考えていたわけではなく、飽くまでも当時アメリカの主要な産業の一つであった捕鯨のための補給基地を日本に求める以上のことは考えておらず、もし失敗した場合は琉球王国でその基地を確保しようと考えていたようです。現実的で名より身を取る作戦と言ってよいでしょう。

 ペリーは場合によっては琉球征服を考えていたようですが、日本の開国によりそのような荒っぽい方法を取る必要はなくなったということになります。

 興味深いのはペリーが琉球訪問をきっかけにアメリカの宣教師が琉球で宣教を始めたことでしょう。日本聖公会の布教史はこの時の琉球での布教が日本布教の始まりであるとしています。

 沖縄は様々な意味で近代史で重要な場所ですし、県民の方々の複雑な感情は大国に利用され続けたことから生まれてくるのだと思います。ペリー沖縄上陸の件も、その後の苦難を予告するものだったのかも知れません。沖縄の苦難については私たち日本人がみんなで深く受け止めるべきことだと思います

プラザ合意のこと

1985年、ニューヨークのプラザホテルで行われたG5会合でドルの全面安の容認の合意がされたことをプラザ合意と呼ぶことは大変有名な話です。

ベトナム戦争以降、国力の疲弊から立ち直ることに苦慮していたアメリカが自国製品の輸出を振興するための手段としてのドル安をG5諸国に持ちかけたということなのですが、当時の空気としては、世界の資金がドルから円へと移動することが確実視されており、日本側から見れば事実上の円全面高への移行という理解になります。

交渉に臨んだ竹下大蔵大臣は、プラザ合意は実質的に日本とアメリカの二国間の協議で決まったとして、「とうとう日本はアメリカと肩を並べた」と周囲の人に話したと言います。

プラザ合意後、日本円は一機に値上がりし、言い換えるなら市場の判断する適切な価値がつけられるようになりました。一方で、生産拠点が海外へと流出するようになり、産業空洞化という言葉が使われるようになっていきます。

日本銀行の金融緩和により、国内でキャッシュがだぶつく事態となり、バブル経済が発生しますが、投機の過熱を懸念した日銀が金融引き締めに政策を転じたため、バブルの崩壊といつ終わるとも知れぬ不況へと日本は迷い込んで行くことになってしまいます。

プラザ合意はアジア諸国への産業移転、バブルの発生と崩壊という日本のその後を決定する極めて重大な出来事であったと言うことができますし、アジア諸国が世界の工場と呼びうるほどに生産力を高めることに弾みをつけ、日本から部品を輸出して海外で組み立て、再び日本に輸入する(或いは更に他の国へと輸出する)という経営モデルを定着させる契機となった、今の世界を形作った第一歩になったとも言えそうです。

当時、人々はいずれ日本はアメリカを凌駕する経済大国になるとすら囁き合ったものですが、ちょっと調子に乗り過ぎていたところもあったかも知れません。

経済の調子が上向き続ける時、人は浮かれます。下降が続くと人は内省的になり、思索を深める面もあるようにも思えます。そのような意味では、日本人は経済的には厳しい時代を迎えてしまいましたが、世の中に揉まれることで人格的には向上したというプラスの面もあったのではないかという気もしないでもありません。