熊井啓監督『千利休 本覚坊遺文』の静かだが激しい男の意地

熊井啓監督の『千利休 本覚坊遺文』では、千利休の弟子の本覚坊と織田有楽斎が、利休の死の真相について語り合います。二人にとってそれは必ず解き明かさなければならない謎であるにもかかわらず、どうしても真相に辿り着くことができません。何故なら、千利休が死んだのは、秀吉との間で起きた意地の張り合いの結果みたいなもので、そういうことになると利休と秀吉の間のことを想像で埋めていくしかないからです。

本覚坊と織田有楽斎は、古田織部や山上宗二の思い出を語りながら、見聞きしたことを想いだし、そこから利休の心境に迫ろうとしていきます。利休が秀吉に切腹を命じられたことは今も様々な想像や推量があるものの、はっきりとしたことが分かっているわけではありません。諸事情から想像するしかありません。それは或いは利休が茶聖の立場を利用して暴利を得たということかも知れません。それとも、寺の門に自分の木造を置いたことかも知れません。しかし、それはわざわざ切腹するような騒ぎに発展するような話ではありません。

利休が秀吉に対し、朝鮮出兵に関して意見したのではないかと本覚坊は推理します。それもあるかも知れません。しかし、おそらくは意地の張り合いで利休が見事に死んでみせた、ということに見えます。文字通り、命をかけて意地を張りとおしたということかも知れません。

映像に無駄がありません。お茶のお作法について私はよく知りませんが、多分、完璧にお作法を研究し尽くしたうえで作品が作られています。建物がきれいです。山の中の小さな庵だってもきれいです。小さな庵には小さな庵の美学があります。画面の一つ一つを見逃すのがもったいなくて瞬きするのもちょっと躊躇するほどです。無駄な台詞がありません。座る姿で多くのことを語ります。静かです。しっかり論じなければならないところは有楽斎が論じます。静と動の区分が明確です。本覚坊は利休の思い出を抱きしめて一人わびさびの人生を送ります。わびさびは難しいです。誰にも説明できない、定義のないものなので論じることができません。お茶と座禅は似ています。違うとも言えます。どっちもありです。禅問答ほど面倒なものはありません。

本覚坊は死んだ利休と、いわば念力で通信しています。利休の心を探っています。人は心でつながりあっているとも言えますし、五感を脳で処理して理解する以上、完全に孤立しているとも言えます。にもかかわらず、孤立した完全なシステムなのに他人の心と通じ合うことができます。本覚坊は日々思う中で、思い出の中の利休と対話し、秀吉との確執について「ああ、こういうことだったのか」と気づいていきます。有楽斎もその都度聴かされてなるほど納得という風になっていきます。中村錦之助が有楽斎をやるのがとても合っています。趣味人風でありながら武人風の鋭さも持っています。知りたいと懸命に願っていることは、ある時、ふと情報が入ったり、天啓のように気づいたりして謎が解けるということは私にも経験があります。本覚坊と有楽斎はそのようにして利休の秀吉に対する意地のひだのようなものを見つけていきます。

利休役の三船敏郎の賢者な感じがハンパありません。凄まじく崇高な人に見えます。若いころは『羅生門』みたいにやんちゃ風が似合い、年齢を重ねたら賢者が似合うのですから、うらやましいことこの上ありません。最後は利休が言いたいことを最後まで言い切ります。論争のある、意見の違うことでここまで言うのは作者の勇気です。素直に尊敬します。

私の推量ですが、弟子の山上宗二が小田原で秀吉に殺された時から、利休と秀吉の間には不協和音が起きたのではないかなあと思います。信長の茶頭をして秀吉の茶頭をしたような人ですから、秀吉が信長の政権を簒奪したことはリアルタイムで知っている人ですし、それでも秀吉と手を携えて出世していくのですから、それなりの生臭さも持っている人だったと思います。だから互いに利用し合って本来はそれでよかったはずなのです。ですが、山上宗二が殺された後は、犯してはいけない領域に秀吉が入ってしまった。以後、利休は茶の席の度に殺意を持たれるくらいに秀吉を侮辱し続けた。のではなかろうかという気がします。遠藤周作が大友宗麟について書いた『王の挽歌』でも、野上弥生子の『秀吉と利休』でも、そこは外せないポイントなのではなかろうかなどと思います。

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遠藤周作『イエスの生涯』で福音書をもう一歩深く理解する

新約聖書に入っている、いわゆる四福音書は通して読んでもどういうことなのかよく分かりません。細部に関する説明が書かれていないだけでなく、前後関係が不明なこと、何を指しているのか分からないことがたくさん書かれているので、はっきり言ってちんぷんかんぷんで意味不明です。イエスの頭に油をかける女が出てきたり、ガダラの豚が群れを成して湖に飛び込んだり、シュールすぎます。「福音書は壮大な文学」みたいに言う人もいますが、あんな意味不明な作品が素晴らしい文学作品だとは私には思えません。日本で福音書を読む場合は、ラテン語→英語→日本語と何重にも翻訳されているという部分を差し引く必要があるかも知れないですが、たとえそうだとしてもあまりに大幅に違うということもないでしょうから、私には不親切な読み物に思えて仕方がありません。

想像ですが、遠藤周作さんも同じ思いを持ったのではないかと思います。『侍』では、主人公がカトリックの教えに触れて、そんな奇怪な物語の男を信心することが信じられないというような感想を持ちます。私も同じ感想です。

遠藤周作さんの『イエスの生涯』ではそういった不明な部分、奇怪で説明のつかない部分に分け入り、詳しく検証し、分析し、聖書に対するインテリジェンスを発揮してくれています。福音書に書いてあることが、一体どういうことなのかを西洋の学者の見解も交えて、著者の知見と結論を述べてくれています。福音書に対する理解が深まり、違和感、意味不明な感覚がだいぶ減ったので、そういう意味では一読して良かったと思っています。もちろん、遠藤周作さんがこの著作の中で述べているように、遠藤さんの人生を投影して書かれているものですので、そこはそういうものだと思って読まなくてはいけません。もっとも、自分の人生や心を投影しないものを人は書くことができません。このブログもそうですし、その他の全ての本、文章、記事もそうだと私は思います。ですので、「私は中立に淡々と述べただけだ」と言う人の書く物よりも、「自分の人生を投影している」と書いてる書物の方が正直で、その分、信頼できるかも知れません。

遠藤さんが取り組んだ最大の疑問は、イエスの弟子たちが、イエスの死後、命をかけて布教に取り組んだのは何故か、ということです。イエスが逮捕された時、弟子たちは驚いて逃げてしまいます。しかし、四散したわけではなく、エルサレムの外のいずれかに固まって身を寄せ合っていたようです。更に一部の弟子たちはイエスの審問の場に同席しており、その一部始終を見ています。遠藤さんが疑問に思うのは、なぜ、一部始終を見た弟子が逮捕されなかったのかということです。弟子のペトロ、またはペトロに代表される複数の弟子たちはユダヤ教会と取引し、いわばイエスを売ることで身の安全を得た可能性があることを遠藤さんは指摘しています。

もしそうだとすれば、イエスの死後、弟子たちが命の危険を省みずに布教したことの説明がつきません。見捨てた師匠のことは早く忘れて新しい人生を歩むと考えるのが普通です。しかも、ペトロに代表されるように、イエスのことは知らない、私と彼は関係ないと言い張って難を逃れようとする心の弱い人たちです。或いは、自分は何とか助かりたいと願う普通の人です。

遠藤さんはイエスが十字架にかにけられた時、最後の言葉の中で決して弟子たちを非難しなかったことをその理由として考えています。普通だったら自分を見捨てた者に呪詛の言葉を吐いて死んでいくものかも知れません。しかし、イエスは最期まで愛の言葉を説き続け、死に至ります。完全な愛とは何かをイエスは自分が十字架にかけられることによって証明したと言うこともできるかも知れません。弟子たちの心の中に感動とイエスを見捨てたことへの後悔が広がります。この時の心の動きが弟子たちを大きく変化させ、不屈の伝道師へと生まれ変わったのだと遠藤さんは考えます。

いろいろ理解できてくると福音書はおもしろいです。イエスがエルサレムに入り、逮捕され、審問を受け、ピラトがイエスの死刑を避けようとするもののうまくことが運ばず、ゴルゴダの丘へと十字架を担いで歩かされる場面を頭の中である程度像を結ぶようになると、その圧巻さ、ドラマチックさを感じられるようになってきます。

遠藤さんが描くイエスのイメージ、またはイエスがこの世に来たことの意味についての考察などは、他に『深い河』『おバカさん』『死海のほとり』『沈黙』『キリストの誕生』などを合わせて読むことでだんだんわかってきます。そのため、『イエスの生涯』だけで全てを理解することはできません。まず、ストーリーとしてイエスがどんな人なのかという像を頭の中に結べるようにするには『死海のほとり』を読むのがいいと思います。「無力で無能だが、弱い人をただ愛するイエスキリスト」の姿は、福音書に書かれている数々の奇跡、即ち合理的に説明のつかない出来事に対して、遠藤さんなりの解釈を加えて、それでもイエスは「愛」だけを説くという深い意味を持つ人だったということが描かれます。理解しやすいです。その上で『おバカさん』『深い河』『キリストの誕生』の順番で読み、実は最後に『沈黙』を読むのがいいのではないかなあと思います。これは私見です。

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鈴木清順監督『カポネ大いに泣く』の日本とアメリカ

鈴木清順監督の作品の中で、最も有名なのは『ツィゴイネルワイゼン』だと思いますが、個人的なベストは『カポネ大いに泣く』です。田中裕子が美しいです。ショーケンが若くてたくましいです。

映画のオープニングでは20世紀初めごろのアメリカの映像が使われています。遊園地で遊んでいる人々や飛行機に乗って楽しんでいる人々が映っています。日本人にとってアメリカとはこういうものだということを表現しているのだと思います。不思議な道具を使って楽しく人生を謳歌する人々が昔の日本人にとってのアメリカ人です。眩しき別世界です。

田中裕子とショーケンが夫婦でサンフランシスコに渡ります。悪いやつに騙されて田中裕子は娼婦になり、ショーケンはアメリカで浪花節をやります。歌舞伎でも能でもなく浪花節というところが渋いように思います。沢田研二がショーケンと田中裕子を助けます。阿藤海が広東語をしゃべっています。今見れば、阿藤海さんが出ているだけで泣けます。たこ八郎さんが出ています。泣けます。

ショーケンは世間知らずです。夜の大統領と昼の大統領の違いが理解できません。アメリカで一番偉い人の前で浪花節がやりたいと思い、夜の大統領のアルカポネの前で浪花節をやります。細かいことを計算をせず、真っすぐに、純粋な天真爛漫さだけで突き進みます。それがこの人物の魅力なのです。禁酒法の時代に酒の利権をめぐってアルカポネと日本系マフィアが抗争します。日本系マフィアはほぼ皆殺しです。アメリカの大ボスには勝てないのです。アルカポネはチャックウイルソンがやっています。懐かしいです。

田中裕子が事故で死にます。ショーケンはアメリカ人の愛人と暮らします。戦争が始まり、日本人と日系人は収容所に入れられます。愛人の手引きでショーケンは脱走します。そして最後に切腹してあの世の入り口で田中裕子と再会します。切腹は痛すぎてショーケンは悶絶します。「こんなはずでは」と口走ります。切腹に興味津々だったアメリカ人の愛人は驚いてどこかへ逃げてしまいます。なぜ切腹しなければいけないのかという謎が残ります。映画に謎解きはありません。何度も観て考えなくてはいけません。全てにおいて勝るアメリカ人に日本人が自己表現を挑むとすれば、切腹しかなかったのかも知れません。或いは切腹は外せないのかも知れません。『戦場のメリークリスマス』と同じです。

アメリカロケは一切しなかったそうです。横浜で撮影しています。あ、京浜東北とか思います。日本で十分にアメリカを見つけることができる、日本の近代とはどういうものかを考える材料にしてほしいと言っているように思えます。

玉乗りが素晴らしいです。田中裕子の三味線も本当に弾いています(と思います。撮影の時に本当に弾いていると思うのですが、音と手が時々合っていない箇所があるので、三味線の音はアフレコとかなとも思います)。浪花節とジャズのセッションがあります。様になっていて渋いです。細部にエネルギーが使われているので何度観ても新しい発見がある映画です。

義経の首は本物か?ニセモノか?

源義経が平家追討を終えた後、頼朝から追放されて各地をさ迷い、最後は奥州藤原氏に裏切られて非業の最期を遂げたということはよく知られています。一般的には義経が後白河上皇から検非違使に任命され、義経が能天気にもそのまま受けてしまったということが武士政権を確立しようとしていた頼朝の逆鱗に触れたとよく説明されます。そのこと事態は私は特に異議はありません。主要な要因だったと思います。

頼朝が伊豆の流刑地で育ったのに対し、義経は京都のお寺で育ちます。価値観が違って当然です。検非違使のような役職のありがたみを噛みしめることができるのも義経の生育環境があったればこそ、だったのかも知れません。しかしながら、義経はそもそもニセモノだったのではないかという人もいます。

頼朝は挙兵後に石橋山で敗れて真鶴から船で千葉へ敗走。その後、鎌倉へとやってきます。京都との位置関係で言えば巻き返しに入っていたと言えます。その時に現れたのが義経で、本人は義経だと言い張るものの、証拠がありません。頼朝が「こいつ、ニセモノじゃねえの?」と疑ってもおかしくないというのです。

義経は最後に奥州藤原氏を頼って東北地方へと行きますが、奥州藤原氏に受け入れてもらうためには過去にステイしていた事実が合っていなければならず、そういう意味ではホンモノだったのではないかなあと思います。義経に関する謎のようなものとしては、義経生存説、東北から北海道へ、更に満州に渡へいってジンギスカンになったというど派手なものがありますが、これは水戸光圀が唱え始めたものらしく、新井白石もアイヌの伝説上の人物が実は義経だったのではないか、のような考えを持っていたようです。江戸時代は平和な時代ですから、そういうことをあれやこれやと考えて楽しむことが流行していたのだろうと思います。

さて、問題は鎌倉に届けられた義経の首がホンモノだったのか、ニセモノだったのかということになります。義経が北海道まで逃げたのなら、首はニセモノでなければいけません。もちろん今となっては証明不可能な話です。義経の首が奥州から鎌倉まで届くのに40日。馬で運んだにしては時間がかかりすぎるので、これは故意に腐敗させ、判別不能にしてから鎌倉に届けさせたというのが水戸光圀の推量です。

和田義盛は義経の首を見て義経を哀れに思い涙を流したという話があります。和田義盛は義経のことが嫌いで、戦地から頼朝に義経の悪口を書き連ねた手紙を送った人です。一緒に戦場に出て戦っていたのにそこまで嫌いということは、和田義盛は義経のことをよく知っている人です。一挙一動にも腹が立って、逐一それを記憶にとどめている人です。普通なら見落とすようなちょっとした特徴まで掴んでいる人です。そのような人がニセモノとホンモノの首の違いに気づかないということがあるでしょうか?「思い込みだよ~」と考えることも不可能ではないですが、思い込みを防止して確認するための首実検です。もしかしてニセモノかな?と思いながら見るのが首実検をする理由です。

そう思うと、和田義盛がホンモノ認定したのだから、ホンモノだったのではないかと私は思います。義経は戦術家だったのだから、もしかして?と思いたくなる気持ちは私にもありますが、平家との戦争の勝ち方は基本、背後からの攻撃ですので正攻法でやったら或いはそこまで優秀ではなかったかも知れません。想像です。

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『カリオストロの城』の日本の戦後

『カリオストロの城』は何度観ても感動して涙が出てくるとてもいい作品だということは、わざわざここで述べる必要もないほどのことだと思います。

カリオストロ公国は景色がとてもきれいです。設定ではフランスとスペインの間にあって地中海に面した人口3500の世界で一番小さな独立国です。小さい国は魅力的です。『マシアスギリの失脚』みたいに、お話しを大袈裟にせずに独特の世界を作ることができます。雪が積もった峰々と湖が美しいです。お城もきれいです。ディズニーランドのお城みたいです。設定ではお城ができたのは16世紀の終わりころです。イギリスではエリザベス女王の時代が始まったか始まらないかくらい。中世が終わるか終わらないか、イタリアでは中世は終わっているけどフランスとスペインの中間ならまだ中世かな。といった感じのころです。日本では織田信長か豊臣秀吉の時代です。

中世のヨーロッパのお城があんなにかわいくてきれいで素敵というのはちょっと考えにくいです。中世ヨーロッパのお城と言えば、ずどーんと暗くて重苦しい感じのイメージが私にはあります。『薔薇の名前』や『忘れられた巨人』に出てくる修道院のようなイメージです。映画『エリザベス』のスコットランドのお城みたいなイメージです。カリオストロの城みたいなきれいでかわいいお城と言えばルードビッヒ2世のノンシュバンシュタイン城ですが、それは19世紀につくられたお城です。時代的に合いません。

しかし、カリオストロの城には日本人の夢と願いが全力で込められています。ヨーロッパのお城はきっとあんな風にきれいで豪奢でかわいい感じに違いない、そうであってほしい、そうでなくては困るくらいのエゴの欲求を受け止めています。イメージ通りのヨーロッパのお城にルパンと次元と五右衛門と銭形が行くからおもしろいのです。日本人が活躍するからおもしろいのです。日仏ハーフのルパンと銭形がどちらも勝者で、敗者がカリオストロ公爵だから日本人にカタルシスを与えます。戦いに勝利し、クラリス姫のような可憐な美少女の「心を盗んで」去って行くから称賛してしまうのです。何回観ても飽きないのです。

パリのインターポール本部で銭形はカリオストロ公爵の偽札づくりを告発します。しかし、欧米のえらい人たちは政治的な理由でそれを無視することに決めます。観ている側は銭形の誠の心に共感します。初めて見たのは小学生の時ですから「大量の偽ドルが発注された」とか「この偽ルーブル札こそCIAの発注じゃないのかね」とか言われてもよくわかりませんでした。いずれにせよ、国際政治の複雑な大人の事情に負けずに日本男児の銭形が正義を貫こうととする姿を観るのが気持ちよかったのです。

お城といい、欧米相手に正義を貫こうとする銭形の姿といい、最後にルパンと銭形が勝者になるところといい(両方勝者にならないと観客的には不満になる)、改めて観てみると日本人の敗戦トラウマの快復が大きなテーマだということに気づきます。欧米に憧れるという気持ちと欧米に勝ちたいという気持ちの両方を解決しているのがこの作品です。架空の国をやっつけることで、誰も傷つけずに物語の世界でトラウマが癒されます。最後にクラリスがルパンにキスをしてほしそうにするところがトラウマ快復の総仕上げです。ルパンは倫理の観点からキスしないので観ている側は更に気分がいいのです。私もクラリスみたいな人にそんな風にされたいです。実際にそんな風にされたら顔が近すぎてけっこううっとうしいかも知れません。それでもやっぱりされたいです。

作者は以上述べたことを十分に知っていて意図的にそうしています。クラリス姫が閉じ込められる北側の塔の部屋はアラビア趣味です。ヨーロッパのオリエンタリズムをサイードが指摘する前からよく心得ています。ゴート札がブルボン王朝を破滅させたという設定もフランス革命の原因がマリーアントワネットの贅沢とかではなく通貨政策の失敗だったとうこともちゃんと押さえています。宮崎駿さんですから私が気づくくらいのことは十分に意識的だと思います。

ルパンもカリオストロ伯爵もおっさんです。なぜクラリスはルパンのことは好きで、伯爵のことは嫌いなのでしょうか。よーく考えてみると、ルパンは手品でクラリスを喜ばせています。手品かよ…。と私は少しがっくりきます。私は手品ができないので、あんな風にはやれないというごく個人的な理由です。私は楽器も球技も習字も手品も手足を使うことはどんなに練習してもうまくなりません。今はもうあきらめています。

クラリスとナウシカはよく似ています。その理由は作者の好みに集約されるはずです。何回観ても涙が出てくるので作ってくれた人には感謝しています。



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『エリザベス ゴールデンエイジ』の大人の女性のやたら強運なことと生きる覚悟

強運であることは、人生の成功に必要なことです。果たしてどうすれば強運が得られるかは誰もが日々探求することの一つではないかと思います。

『エリザベス ゴールデンエイジ』を観ると強運は勝手についてくるもので、努力とか人間性とかは関係ないのではないかとふと思ってしまいます。『エリザベス』では若い娘さんだったエリザベスI世は続編のこの映画で、大人の見事な政治家に成長しています。素晴らしい頭脳と豪胆さで難局を乗り切ります。

しかし、観れば観るほど気づくのは、その強運です。暗殺されそうになります。助かります。反逆されそうになります。摘発します。スペインが無敵艦隊で攻めてきます。勝ちます。それらの勝利に本人の努力は関係ありません。暗殺されそうになった時は、犯人の気まぐれで運よく助かります。スコットランドのメアリー女王の謀反は側近が見破ります。スペインの無敵艦隊を撃滅したのは本人ではなく部下です。そのような視点から観ると、運が味方しているからこそいろいろな難局を乗り越え、人生が切り開かれていくことが分かります。

え…そしたら、運を良くしたいと思えばどうすればいいの…?と私たちはため息をつくしかありません。

とはいえ、この映画では強運のヒントも観客に与えてくれるように思います。それは恐怖心に捉われないことです。暗殺されそうになったら騒ぎ立てず、来るなら来いと構えます。無敵艦隊が攻めて来たときに兵隊を奮い立たせるスピーチをします。そういう時に人心を掴むためには自分の安全を気にし過ぎないことが必要です。自分も一緒に死ぬ覚悟だと伝えるためには、逃げ道を絶つ覚悟が必要です。本当に死ぬ覚悟を持たなくてはそういう時にスピーチできません。

そのように思えば、大事なところで逃げない覚悟、いつが大事な場面なのかを見極める聡明さの両方がなくてはいけないということに気づきます。覚悟があれば聡明になります。ということは結局は胆力ということに集約されそうな気もします。スペイン艦隊が攻めてくる不安に押しつぶされそうな時、星占い博士の言葉でエリザベスは勇気づけられます。必要な時に必要なことを言ってくれる友人なりブレインがいるということも、大切な条件なのかも知れません。人を見る目も大切です。無敵艦隊が焼き討ちで滅びる様子を陸からエリザベスが見る姿はカタルシスに満ちています。形勢を逆転させ重圧から解放される、助かったという安堵、奇跡が起きたことへの感謝に溢れています。スペインの側に立てば不愉快だと思いますが、そんなことは考えずにエリザベスの側に立って観れば感動します。

全てが強運と胆力によってうまくいっているように見えますが、一つだけどうしてもうまくいかないことがあります。男性との恋愛がうまくいきません。第一作では元恋人に裏切られます。続編のゴールデンエイジではアメリカ大陸を探検する男に恋をしますが、彼はエリザベスの侍女と結婚してしまいます。眉毛が濃くて髭をそらずに色黒なので、男の目から見ると暑苦しいです。ですが、こういうタイプがもてるのかと思うと、私も見習わなくてはいけないかも知れません。うまくやらないとたんに暑苦しいのだけなので自分に合わないスタイルなら諦めた方がいいかも知れません。

エリザベスは政治家としては素晴らしい歴史的な成功を収めたとしても、一人の女性としては成功できなかったという言い方もできるかも知れません。そこに空虚が入り込んできます。しかし、そのようにして運命のバランスがとられていると見ることもできますし、政治家としては成功しても恋愛運には恵まれないということを受け入れることが人生をうまく回していく極意なのではないかという気もします。生きていれば嫉妬もします。落胆もします。不安で押しつぶされそうになる時もあります。狂喜乱舞する時もあります。この映画ではエリザベスが一人で観客の人生が投影できるようになっていると私は思います。観る人がそれぞれに自分の不安や苦しみや生きる喜びをエリザベスに投影できます。この映画を作った人はただものではありません。

この映画を観て運勢について考え、自分の生き方を省みることも有意義なのではないかと思います。

完全についでの話ですが、イングランドに攻めてくるスペインのフェリペII世が登場する場面はなんとなく手抜きです。一方でスコットランドのメアリー女王が処刑される場面は涙が出そうになるほど荘厳で作り込まれています。メアリー女王の処刑は日本で言えば大坂夏の陣の秀頼と淀殿と同じくらいにイギリスでよく語られる悲劇ですので、どこからも異議が出ないようにと特にエネルギーそ注いで作られたのかも知れません。

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遠藤周作『鉄の首枷』の小西行長の裏切る人の心理

遠藤周作さんの『鉄の首枷』という小西行長の評伝を読んで私が思ったのは、小西行長のような人間を友人にしたら大変だということでした。

キリシタン大名だった小西行長は、豊臣秀吉がキリシタン禁令を出した際、高山右近を自分の領地に匿います。これは、まあ、いいと思います。信仰という心の自由を守る戦いです。豊臣秀吉が朝鮮半島に兵を出したとき、小西行長と加藤清正が活躍します。二人とも破竹の快進撃をしますが、小西行長の方はなるべく早期に戦争を終わらせるため、独自に講和を図り、秀吉を上手にだまして手を打とうとします。これも、まあ、平和のためだと思えば、悪いことだとは言い切れません。私は秀吉のことはあまり好きではないですから、秀吉の味方をするつもりもありません。

ただ、一旦なりかけた講和が破綻し、二度目の戦争になった時、小西行長は加藤清正が戦死するよう陰謀をめぐらせ、相手側に加藤清正の行動を知らせて攻撃を仕掛けるように持ちかけます。これはやり過ぎです。やり過ぎという表現ではやさしすぎます。裏切ってます。こういうタイプは大事なことを話して「誰にも言わない」約束しても尾ひれをつけて言って歩きます。友達にしてはいけないタイプです。

私も人生で何人かこんな感じの人に出会ったことがあります。気づかないところで約束を破ったり、さりげない嘘をつきます。味方のふりだけは続けるのでかえってやっかいです。小西行長は自分の内面や良心には正直な人に違いありません。それはいいことです。しかし、自分に正直でいることのリスクを取ろうとしないので八方美人になり、嘘をついてかすめ盗ろうとします。とてもやっかいです。

遠藤周作さんが小西行長に関心を持った理由は幼少期に自分の意思とは関係なく洗礼を受けたということが共通しているからかも知れません。行長の内面を推量するために学術論文や当時の資料などを読み込んで書かれた労作です。とても面白い作品です。遠藤さんは行長が内面の秘密を守り抜こうとしたことに自分を投影したのではないかと想像します。遠藤さんの『母なるもの』で、自分には絶対に他人には言えない秘密が一つだけあると書いてあります。どんな秘密かは多分、どこにも書かなかったと思いますから永遠に分かりません。遠藤さんの作品をとにかく読み込んでそこから推量することは可能かも知れませんが、どこまでやっても推量で、本当のことは分かりません。ただ、社会的な安全のために表面は周囲に合わせてそれが自分の本意であるかのように装い、実は内面では全く違うものを抱えているというのは、確かに苦しいことですし、誰もが多かれ少なかれ抱えるものかも知れません。私には「秘密」というほど大げさなものはないですが、それは違うと思ったことを呑み込んで周囲に合わせるということはよくあります。

秀吉の家臣に小西行長という人物がいて、関ケ原の戦いの時は石田三成の味方をしたということはそれなりに知られていると思いますが、もっと詳しいことはよくは語られません。子どものころに読んだ子ども向けの『太閤記』では、朝鮮出兵の講和のために担当者が適当な嘘をつこうとしたくらいのことが書いてあったのは覚えていますが、その人物が小西行長だとか、小西行長がどういう人物かとか、そういうことは出てきませんでした。名前だけはよく見たことがあるのに、どんな人かこの作品を読むまでは全然と言っていいほど知りませんでした。

もちろん、遠藤さんが描いた小西行長像ですので、本当の小西行長の姿とどれくらい同じなのかということは簡単には判断できません。そんなことは論じても仕方がないかも知れません。私にとっては、大事なところで嘘をついたり裏切る人の心理がなんとなく、ようやく理解できたと感じられたので、とても有益な作品でした。


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遠藤周作『青い小さな葡萄』のイエスキリストイメージ

遠藤周作さんの作品には何度となくイエスキリストの役割を背負う人が登場します。たとえば、初期の作品に『青い小さな葡萄』というものがありますが、この題名の「葡萄」は西洋絵画のイエスのアトリビュートに対応しています。アトリビュートとは、西洋絵画で聖書上の人物を取り扱う際、誰が誰なのかすぐに分かるように、人物と一緒に描く付属品のようなもので、イエスの場合は葡萄がアトリビュートして用いられます。それが100パーセントというわけではないですが、葡萄とイエスがセットだということは、広く認識してされているという程度に考えるのがいいと思います。

『青い小さな葡萄』は、戦争が終わってまだ日が浅いころ、戦争中にフランスを占領していたドイツ軍の兵士だった男と、千葉というフランスに留学してきている日本人の男が一緒にフランス人同士の虐殺された場所を確認しにいくという内容になっています。遠藤さんの心境としては「フランス人だってやってるじゃないか!」ということなのだろうと推量します。

どのようにイエスイメージが関わってくるのかというと、ドイツが戦争で負けることがわかってくるとフランスの各地でパルチザンが蜂起しドイツ兵が襲撃されるようになりますが、このドイツ兵の男も襲撃され、とある建物に身を隠します。それを偶然、フランス人の若い女性が見てしまいます。ドイツ兵にとっては万事休すか…というところなのですが、その女性は恐る恐るドイツ兵のところに葡萄を投げ入れてどこかへ逃げていきます。絶体絶命の時に与えられるささやかな救い、人間的な愛情は遠藤周作さんが終生のテーマにしたことですが、このように女性が葡萄を投げ込んだということは、女性がイエスのイメージを担っているということを意味します。

ドイツ人の兵士は片現場の遺留品から女性の名前と住所を特定し、片腕を失いつつもドイツに帰還することに成功し、戦後、その女性に会うことを目的に再びフランスへに来て、日本人の千葉という青年と出会います。敗戦国民同士の相哀れむような友情が生まれますが、千葉はドイツ人の内面に潜む人種差別意識を千葉は敏感になります。互いに軽蔑しつつ、しかし、離れることができないという関係が二人の間に生まれます。

二人は女性の住所のある街へ行きますが、実際には女性はフランス人内部の反ナチス運動の方針の違いによる抗争に巻き込まれて私刑に遭い、殺されてしまっていたことが少しずつ明らかになっています。ミステリー小説のような要素も含まれています。やがて私刑が行われた場所に辿り着き、ドイツ人の若者は女性が殺されていたという事実を受け入れるようになります。ドイツ兵の若者を助けた女性が理不尽な私刑によって命を落とすことは、イエスキリストが福音書で理不尽な理由で十字架にかけられたことに対応しています。

遠藤周作さんの作品には密かに沢山の聖書の記号が入れ込まれてあるので、それを見つけていくのもおもしろいです。

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西山厚『語りだす奈良 118の物語』碩学による優しい奈良の話。古の人の心

奈良の歴史と風物に関する優しい文体のエッセイ集です。

西山厚さんという方は、この本の奥付の紹介によりますと奈良国立博物館の学芸部長をされた後、現在は帝塚山大学の教授をなさっていらっしゃる先生です。『語りだす奈良』は西山さんが毎日新聞の奈良県版に奈良の風物詩と歴史に関することを連載したコラムをまとめて加筆修正したものです。

折々の奈良の行事や社会的なできごとと絡めつつ、奈良時代の歴史のお話が書かれています。優しいおだやかな文章で、肩がこらず、読み進めるとなぜかほっとしてきます。

奈良時代の主役といえば、ぱっと思い浮かぶのは大仏様を建立した聖武天皇です。聖武天皇に関わるエピソードもたくさん挿入されています。光明皇后のお話しもいろいろ挿入されています。聖武天皇と光明皇后の間に男の子が生まれましたが、体が弱く一年も経たずに亡くなってしまいます。聖武天皇と光明皇后は仏教への信心を深めていきます。美少年で知られる阿修羅像は光明皇后が亡くなった息子さんのことを偲ぶために作らせたものです。親子の情が語られます。普通の人の人生と重なり合います。

光明皇后はある日、お風呂を設けて汚い人を洗いなさいとの天の声を聴きます。お風呂を設けると汚い男がやってきます。汚いなあと思ったけど天の声に従ってきれいに洗ってあげます。実はその人は如来様で空へ消えていきます。ある日、全身膿だらけの人がきます。嫌だなあと思ったけど口で膿を吸い出してあげます。その人も如来様でどこかへ消えていきます。

なんかの話と似ています。千と千尋にそっくりです。宮崎駿さんのような博学な人が光明皇后の話を知らないわけがありません。おー、千と千尋のオリジナルは光明皇后だったのかと驚きと感動が読み手の内面に生まれます。よくよく考えてみると、ナウシカの原作でもトルメキアの兵士の喉に溜まった血をナウシカが口で吸いだします。突き詰めるとそのモデルは光明皇后だったのかと分かれば感動します。

男にとって女性は偉大です。女性が愛の力を発揮すると崇高なことも偉大なこともできるのだと、その愛にすがることもまた信仰なのかも知れないなぁと私は『語りだす奈良』を読んで思った次第です。

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天皇とお米

縄文時代と弥生時代の決定的な違いは米作の有無にあります。縄文時代は狩猟採集が中心ですので、獲物がとれればいいですが、そうでなければ明日をも知れない日々を送らなくてはいけません。獲物の肉は干したり焼いたりすれば保存できますがお米ほど手軽でもなく、お米ほど長く保存することもできません。

米作するようになると、お米は長期保存が可能なために「貯蓄」できます。耕作面積を確定して水田を整備すれば毎年の収穫量が分かります。もちろん天候に左右されますが、狩りに行くよりは安定しています。人口も劇的に増えます。一般的には米作により土地を多く持つ人とそうでない人に分かれ、貧富の差が生まれ、身分の差が生まれたと説明されることが多いです。そういう面は確かにあると思います。

ただ、身分の差という意味では、縄文時代に絶対になかったかと問われれば、そういうことはないと思います。狩りが上手な人、体力的に優れている人、性的な魅力が高い人、宗教的な意味で高貴だと認められていた人などが存在したのではないかなぁと私は想像しています。一万年も続いた時代ですし、日本各地に集落があったとすれば、そのような想像した通りの社会構造があった「場合もある」くらいは考えていいと思います。お墓の様式や副葬品は年代や地域によって随分差があると思いますが、身分の差という視点で分析するといろいろ見えてくるのではないかなぁと思います。

いずれにせよ、お米が貧富の差に決定的な意味を持ったということはきっと間違いないと思います。お米は戦略物資です。天皇は大嘗祭と新嘗祭でお米を食べます。大嘗祭は即位の時に行われ、新嘗祭は毎年行われます。五穀豊穣に感謝すると同時に、戦略物資を食べることによって統治権を確認するという象徴的な意味もあるのではないかと思います。お米は一本の苗にたくさんの実をつけますから子孫繁栄にも通じて大変縁起がよいのだとも思います。

東京の皇居には小さな水田があって、今も毎年天皇陛下が親しくお田植をされるそうです。お米を大切にするという意味の表現があると思います。戦略物資をコントロールするという意味ももしかするとあるかも知れません。ただ、平安時代の天皇が御所でお田植をされていたとか聞いたことも読んだこともありません。京都御所を拝観した時にお田植されていた場所みたいな表示も見たこともありません。なので、近代になってから、天皇家が東京に移ってからそういうお田植が行われたのではないかなぁと思うことがあります。推し量ってばかりで申し訳ないです。

天皇家のルーツは諸説あります。今となってはもちろん分かりませんし、はっきりさせる必要もありません。神話があってそこに想像の余地があるのがおもしろいのだと思います。ただ、お米が戦略物資で、大嘗祭と新嘗祭があるように天皇家もお米を重視していて、縄文と弥生をばっさりと区分できるほどの重みがあるのなら、実は天皇家は米作技術を持って大陸から渡ってきた人で、独自の米作技術によって富と権力を確立し、全国に統治権を広げたと想像することも可能です。想像ばっかりで申し訳ないです。お米というキーワードで天皇家のルーツを推量するのもおもしろいかなぁと思ったという程度のお話です。

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