聖武天皇と光明皇后のスピリチュアルな愛

飛鳥・奈良時代は皇族、貴族の間での足の引っ張り合いと殺し合いがあまりに多く、その時代にはいわゆる「古代のロマン」が語られる一方で、そういう血なまぐさい時代でもあったと思いますので、私は当時の人々の心境を考えるとき、ぞっとしなくもないです。

そういう時代の中で、聖武天皇と光明皇后の二人については奈良時代の激しい政治家のぶつかり合いの中で、ちょっとほっとする二人の姿が浮かんできます。

聖武天皇は光明皇后とともに仏教への信仰が厚く、東大寺に大仏を建立させたり、全国に国分寺を建てさせたりしたことで知られています。ですが、今とは仏教に対するイメージが違います。仏教はまだ日本に渡って来てから200年くらいかどうかという時期で、実際に浸透したのはもっと後の時代になるはずです。仏教はまだまだ新しい価値観、思想、スタイルで、今風に言えば聖武天皇と光明天皇はスピリチュアル夫婦だったという気がしなくもありません。

その背景にはちょっと前に壬申の乱があり、天智天皇と天武天皇の系統で皇族が分裂し、皇位継承権の高い天武天皇系(聖武天皇も天武系)の争いがひどくなり、大津皇子が「反逆の疑い」で殺される、自分の治世になってからも長屋王が同じく「反逆の疑い」で自殺させられる、藤原氏の鼻息は荒い、息子の基王が早世するなど、悲嘆に暮れざるを得ない悲劇が身辺で続いたからに違いないように思えます。そういう時代に新しい仏教にすがろうとした心の中を想像すると、ああ、きっと純粋な人だったのだなあという感想が生まれてきます。

聖武天皇の死後、光明皇后が東大寺に聖武天皇の遺品を奉納しているのも、微笑ましい、心の和む、夫婦愛という言葉が頭に浮かぶエピソードです。光明皇后は慈善事業に積極的な人で、公共のお風呂を作って貧しい人や病人を招き、ハンセン病で皮膚全体に膿が溜まっている人が来たときは口で膿を吸い出し、思いっきり汚い客が来たときも根性で体を洗ってあげます。実はどちらも本当は如来様だったというオチがついているのですが、私には一つ目のエピソードがナウシカの原型で、二つ目のエピソードが千と千尋の原型だと思えてしかたありません。

その後、娘が孝謙天皇に即位すると、阿倍仲麻呂の乱、道鏡事件と、また嫌な事件が続くようになり、桓武天皇まで来て「もう、こんな陰謀渦巻く奈良は嫌だ」と遷都が始まります。遷都の主目的の一つは奈良の仏教勢力を政治に介入させないためで、でっかいお寺が引っ越さないのなら自分たちが引っ越す、という強行突破みたいなところもあり、聖武天皇の努力がかえって仇になっていたというように思えなくもありません。時代の皮肉のようなものですが、それでもやっぱり、聖武天皇と光明皇后の夫婦愛を想像すると心が和み、いい話だなあ、いい人たちだなあと思うことができ、少しいい気分になれます。

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信西という人生

保元の乱平治の乱について語る時、信西のことを外すことはできません。藤原氏に生まれたものの、高階氏の養子に入り、当代最高級の知識人と周囲に認められていたにも関わらず、出世の道が閉ざされてしまったことに抗議の意を示すために出家します。

ところが、妻の朝子が雅仁親王の乳母をしており、近衛天皇が亡くなったことを受けて雅仁親王が後白河天皇に即位することで、信西は突然出世します。雅仁親王は天皇になる見込みはないと誰もが考えていたため、信西の人生は想定外の展開を見せます。自分には出世の見込みはなく、育てている雅仁親王も天皇に即位する見込みもない、宮廷の中で冷や飯グループだと思っていたはずです。禍福は糾える縄の如しです。

これによって信西が中央政界に躍り出て、更に保元の乱で後白河天皇サイドが勝利し、いよいよ盤石。後白河天皇の即位にも彼は策動していたのではないかとの推測があり、保元の乱の戦略会議でも積極策を提案してそれが図星になるなど、狙った通りに物事が動いていくことに彼は自分でも驚いたのではないかと思います。

ただ、想像ですが賢しらさが目につく人ではなかったかと思えます。試行錯誤を経て訓練されて人間性が磨かれたり、知恵がついていくのなら良いかも知れないのですが、信西の場合はもともと自分の頭脳は優れているという自信があったことにプラスして急に出世したこと、更に実際に狙い通りに物事が動いたことで「自分の目に狂いはない」という過信が生まれたのかも知れません。また、策略家であるが故に、やはり策士策に溺れるという様を呈してしまいがちになったのではないかとも思えます。

近衛天皇が亡くなることで運を得て出世できたのですが、自分の才覚で出世できたとどこかで勘違いを始めた、どこまでが運でどこからが才覚によって結果を得られたのか分からなくなっていったのかも知れません。あるいは運勢とかそういったものは一切信用せず、全て自分の才覚で上へ行けたと考えたのかも知れません。だからこそより、自分の策だけを頼りにしたのではないかと思えます。もし、近衛天皇が17歳の元気のさかりで亡くなったことも信西のはかりごとによる結果だとすれば、自分の頭脳に湧いてくる策略だけが頼りだと思うのも、無理はないです。

朝廷全体に反信西派が形成され、後白河天皇派と二条天皇派に割れていた貴族たちが平治の乱では一致して信西排除に動いたと見られるあたり、そういう賢しらさが災いしたのではないかという気もします。また、あまりに策略だけで動き過ぎたことで友人がいなくなってしまったということもあるかも知れません。源義朝からの婚礼の申し出を断って、平清盛と婚礼を進めたのも、策をめぐらし過ぎて不信を買ったであろう彼の一側面をうかがわせています。

完全に想像ですが、若いころに不遇だったことで、心の底で出世していくことへの不安も湧いたことでしょうし、何かがおかしい、こんなに物事が簡単に進むはずがないという恐怖も覚えたかも知れません。不安だから更に策をめぐらせるを繰り返し、策はたいていの場合、誰かに見抜かれますから、不信を買うという悪いスパイラルに入って行ったようにも思えます。

平治の乱で郊外に落ちのび、土の中に隠れて敵をやり過ごそうとしますが、発見され最期を迎えます。このような土遁の術のような奇計を思いつくのも、信西らしいと言えば信西らしいやり方かも知れません。

実際に会えば嫌な人だったに違いないとも思いますが、不遇の人生の中で僅かな運と才覚を頼りに出世しようとした信西に同情してしまいます。かわいそうな人です。素直にそう思います。

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平治の乱の裏シナリオ

平治の乱は、保元の乱の勝者だったはずの人々が分裂し、最後は平清盛が大勢を制したことで、つとに知られている出来事です。個人的には、この政変には裏シナリオがあったのではないかという気がします。

藤原信頼が源義朝と手を組み、信西を殺し、後白河上皇と二条天皇を擁して京都政権を手に入れます。熊野詣に出かけていた平清盛が政変を知り急いで帰郷。二条天皇が平氏の拠点である六波羅に脱出し、それを知った後白河上皇も脱出します。天皇と上皇の両方が脱出したことを後で知った藤原信頼は逃走。後に捕まって斬首されます。源義朝も関東へ帰る途中で家臣に殺されてしまいます。結果、平清盛が全てを手に入れて全盛期を築くという流れになっています。

この流れを見て思うのですが、藤原信頼は、後白河上皇に弓を弾いて、新政権は世論の支持を得ることができると本当に思ったのでしょうか。藤原信頼はそもそもが後白河上皇の近臣ですので、後白河上皇の無力化は即、自分の無力化につながります。信頼がそのことに気づかなかったのが私には不思議なことのように思われます。

平安貴族は二条天皇派と後白河上皇派に割れており、政治の実際的な権限は保元の乱の後は後白河天皇と一緒に中央に出世した信西が握っています。取り合えず信西を排除することで二条天皇派と後白河上皇派が手を結んだともとれますが、信頼が前面に出て後白河上皇の居所を燃やさせるあたり、二条天皇派がシナリオを書いたような気がしなくもありません。

そのように考えると、藤原信頼は随分かわいそうな人で、二条天皇派に踊らされ、裏から糸を引かれて踊っていた哀れな人形のように見えてきます。彼本人に政局観のようなものは多分なく、真珠湾攻撃の後で、山本五十六が周囲に「これからどうする?」と言ったといわれていますが、同様に藤原信頼にも「これからどうするか」を考えていなかったように見えます。あるいは安心しきって二条天皇派の裏でシナリオを書いている人にまかせきってしまっていたのかも知れません。

平清盛は一旦は服従の姿勢を取り、その後、好機を見て天皇と上皇を自分サイドにつけていますが、これも「信西を排除した後は清盛に信頼を排除させて一件落着」の筋書きがあったものの、その後平氏政権が総取りするのは想定外で、慌てて今度は清盛排除を計画し、ところが源氏政権ができて更に想定外…というような流れだったのではないかという気がします。

当初、信西排除というわりとミクロなシナリオだったのが、あまりに大袈裟に仕掛けを作り込み過ぎて幕引きがうまくいかず、策士策に溺れる展開だったのかも知れません。

さて、最初に裏でシナリオを書いたのは美福門院か、それとも藤原経宗か…。美福門院が同じ年に亡くなり、後白河上皇がその分自由に動けるようになったことが不確定要因となって、世の中が変わって行き、全く想定していなかった平氏政権の誕生→源氏政権の誕生→武士の時代と流れて行ったようにも思えます。

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保元の乱に見る勝ち方

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保元の乱は、弟が後白河天皇として即位することで院政への道が閉ざされた崇徳上皇が切れまくり、兄との権力闘争で不利になっていた藤原頼長がそこに加わり、源氏と平氏が分裂して天皇方と上皇方に分かれて戦争になったことは、つとに知られています。人間関係が複雑で、名前も似たような人がいっぱい出てくるので、誰が誰だかよく分からなくなってしまいそうですが、

勝利者      敗者
後白河天皇 vs 崇徳上皇と、
藤原忠通  vs 藤原頼長

とだけ抑えておけば、だいたい理解していると言っていいのではないかと思います。『保元物語』では、上皇方の源為朝が、戦争に負ける側を美しく描くという価値観に則って美化されているため、彼の活躍が目立ちます。天皇方についた義朝もびびって一旦退却するという場面も描かれますが、実際は数時間でけりがついたようです。

この戦いで勝者と敗者を分けたものは何か、という点について『保元物語』では、崇徳上皇サイドがわりと悠長に事を構えていて、為朝が「先手必勝、夜襲をかける」と建言したのを「天皇と上皇の戦争なのにそんな品性のない戦いができるか」と退け、朝になったら出陣して日中堂々と雅に戦おうと計画していたところ、後白河天皇サイドでは義朝が信西と相談して「先手必勝、夜襲をかける」で合意し、早々と兵を出しています。

このように見ると「先に決断をした方が戦争に勝てる」という法則性を見出すことができるかも知れません。とはいえ、21世紀に生きる我々は真珠湾攻撃で先手必勝しようとしつつも無残に日本が敗けたことを知っていますので、先手必勝であればいいというものでもないように思います。

『保元物語』によれば、源為朝が豪傑で敵を寄せ付けず、一進一退を繰り返したとされており、義朝が信西に「崇徳院の居所に火をつけるのがいいと思うが、恐れ多くてできない」という使者を送り、信西の方から「今手をゆるめてどうする、いいから燃やせ」という返事を受け取ってそれを実行し、崇徳上皇たちは脱出。雌雄が決しました。

このように見ると、一旦決心した後は怯むことなく、臆することもなく、前進し、良くも悪くも後先考えず、勝てそうな見込みを得られるものは全部やる、という姿勢によって勝利を得たことが分かります。

太平洋戦争では、国民には強気のメッセージが送られていた反面、真珠湾攻撃後の戦略については指導者たちは弱気と強気が入り混じって煩悶しており、いざいよいよという時に判断の迷いによって追い詰められていく場面が幾度も見られます。

そう思うと、より早く、そしてより強く決心した方が勝つ。ということも言えるかも知れません。

ただし、前提条件として、保元の乱では後白河天皇サイドが兵力において勝っており、後白河天皇が「現政権」に当たりますので正統性という点からも優位で、周囲の協力を得やすいという環境があったということを忘れることはできません。勝てるという環境が整った上で決心するという正攻法的な決断の手順が踏まれているとも言えますので、やはり運頼み、出たとこ勝負では周到に準備している相手には勝てないということの証左になるような気もします。何事も周到さが肝心要なのかも知れません。私のようなしがないブロガーに言えたことではありませんが…。

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弥生時代の王権

古墳の分布をざっくりと見ると、近畿地方、九州北部、関東北部、静岡県、中国地方あたりに多くみられることが分かります。古墳が王または豪族の墓だという前提に立てば、弥生時代、そうしたエリアに王権が存在したことがうかがえます。

ヤマトタケルが九州地方と関東地方を征服したのは、大和政権が拡大して他の王権を打倒する軌跡を示すものと言えますし、その後、ヤマトタケルの息子(ヤマトタケルは複数人いたという説もあります)の仲哀天皇が神功皇后とともに朝鮮半島と戦争する目的で九州に渡ったのも、ヤマトタケルの征服事業がそれなりに成功を収めたからだと見ることもできそうです。

九州北部の奴国の存在は漢委奴国王の金印の出土からも明らかと言えますので、そこを大和政権が攻略したのだと見ることが可能ですが、関東方面の王権に関してはヤマトタケルが出かけて行ったということくらいしか分からず、文字情報がないに等しいので、どんな人がどんな政権を持っていたのかみたいなことはさっぱり分かりません。ただ、関東地方は古墳も多いですし、埴輪なんかもごろごろ出てきていますので、王権があったと考えるのが自然なことのように思います。

東北地方には古墳はそんなに多くありません。これはその地域がアイヌの人々の生活圏だったということの証明にもなると同時に、他の古墳のある地域は王権こそ違え、ある程度共通の文化と価値観を持っていたことも示唆しているように思えます。

縄文人を朝鮮半島から渡って来た弥生人が駆逐したからそうなったのだ。大和政権とその他の王権の抗争は弥生人同士が分裂して相争ったのだ」と考えると矛盾しませんが、倭言葉が中国語とは全く違っている点、朝鮮半島の言葉とも文法こそ完全に同じである一方、発音では相当に違いがあるため、私は個人的には半島から渡来した弥生人が完全に縄文人を駆逐する形で日本を征服したのか、それとも少数の渡来人によってもたらされた弥生文化を縄文人が吸収したのかについてはまだなんとも判じ難いものがあるなあと思います。

大和政権の拡大と言えば、なんと言っても出雲地方との吸収合併です。近年では出雲地方に王権と呼べる勢力が存在したことはほぼ確実になったと考えていいと思いますが、アマテラス政権が大国主政権をどのように合併したのか、平和的な交渉、脅しで済む範囲の交渉で、出雲大社を大国主のために建てることを条件に吸収合併したのか、それとも血で血を洗う容赦ない大戦争の末の征服事業だったのかは、これもまた何とも判じ難いものがあるように思えます。

古事記では何回か神様を送り込んでおり、一人目は「ちょっと無理」と報告し、二人目は帰ってこない。その次には死人が出るなど、簡単に事が運んでいないようにも見えます。最後に本気を出した神様がやってきて親父の大国主は降参。息子の事代主も降参。もう一人の息子は諏訪あたりまで逃げて降伏しています。諏訪あたりまで逃げられたのはなぜかと考えてみると、そこまで出雲政権が及んでいた(たとえば日本海側を中心に広い範囲を出雲王権が抑えていて、諏訪までもあと一息くらいの距離だった)と考えることもできますし、大和政権の勢力範囲内だったからこそ逃げ切れなかった、他の王権が存在していれば匿ってもらえた、などの想像を働かせることも可能です。

アマテラス側では始めの方で帰ってこない人がいたことを考えると、何度か波状的に攻略を続け、ようやく手に入れたという様子を想像することができ、そういう意味ではそれなりの大戦争が行われ、アマテラス側勝利の上での講和が成って大国主が退位、または引退したと捉えることもできます。ですが「出雲神社の中に引っ込んでるから後はよろしく」というのは、亡くなったことを連想させなくもありません。勝利した側が後で歴史を書き換えるのが常套手段だとすれば、言いがかりをつけて国を簒奪した後で「国を譲ってもらった」と言い換えることは造作もないことです。

仮にアマテラス政権による出雲侵略戦争だったのだとすれば、アマテラスが姉で、出雲王国を作ったスサノオが弟だというのも、後からそういう話をねつ造し、「だから大和と出雲は兄弟だから仲良くしよう」という話にすり替えられたのかも知れません。

時代は下り、雄略天皇は朝鮮半島に戦争に出かけたことになってますが、その後の継体天皇が九州と戦争したことになってますので「あれ?」という部分がありますし、更に言えば朝鮮半島南部に日本の古墳とそっくりのものがたくさんあると言うのは、「日本が朝鮮半島に領土を持っていて、百済も日本の勢力下だった」と言うこともできれば、その逆を言い張ることも不可能ではありません。

あんまり大和政権=アマテラス政権、ついでに言うとアマテラス=邪馬台国みたいなことを言っていると神武東征と食い違ってくるので、そこも注意が必要な気もします。

分からないことがたくさんあります。


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後白河天皇即位に見る天皇家の母親の力

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近衛天皇が17歳の若さで亡くなった時、子どもがいなかったことから後継者の問題が浮上します。そのような若さで亡くなることが全くないとも言えませんが、やはり一番元気な時期ですので、当時でも想定外なことだったのではないかと思います。

崇徳上皇の皇子の重仁親王が次の継承者と目されていましたが、近衛天皇の母親の美福門院から横やりが入り、当時29歳だった雅仁親王が即位して後白河天皇になります(ちなみに後白河天皇の母親は待賢門院)。近衛天皇の母親の美福門院の立場からすれば、自分の息子の系統が今後の皇統を引き継いでいくという前提で暮らしていたでしょうから、崇徳上皇の系統にそれがスイッチしてしまうことに耐え難いと感じていろいろ工作したのであろうと、保元物語ではそれとなく、察してくださいという風に書いています。そしてこれは崇徳上皇にとってかなり痛い打撃にもなりました。

白河上皇以後、平安後期から天皇は若々しい男子が少年期に継承し、大人になると自分の子どもに継承させる。自分は上皇になって、実際の政治は上皇の意思によって行われ、天皇は儀礼的な存在というのがパターン化していきます。いわゆる院政です。ただし、院政ができる上皇には条件があり、時の天皇の父親か祖父の立場でなければ院政をする資格が認められません。そうでない場合は単なる称号になってしまいます。

鳥羽上皇が崇徳天皇を退位させ、崇徳天皇の弟の近衛天皇に即位させますが、この場合、崇徳上皇は天皇の兄の立場になりますので、院政をする資格が認められません。崇徳上皇からすれば、この皇位のシフトは受け入れがたいと感じたでしょうから、近衛天皇を暗殺したいという動機を持っていたことすら推測は可能と思います。

崇徳上皇のもう一人の弟の雅仁親王は、天皇になれるわけがないと目されていたため、次の天皇は崇徳上皇の皇子の重仁親王と目されたわけですが、美福門院派が崇徳上皇の院政だけは絶対に阻止するという意図のもと、雅仁親王の皇位継承が実現します。雅仁親王は崇徳上皇の弟ですので、院政の条件が満たされません。保元物語では美福門院が鳥羽上皇を説得したことになっており、鳥羽上皇が耳を傾けた背景には崇徳上皇が本当は鳥羽上皇の息子ではく、本当は白河上皇の息子ではないのかとする噂があったことをこれも保元物語では察してくださいという感じで書いています。

天皇家内部の人間関係が非常に複雑で、藤原氏の内紛が加わり、源氏と平氏も分裂して保元の乱に発展していくわけですが、その根源を求めれば、当時の天皇家内部の崇徳上皇はずしとも言える抗争があり、崇徳上皇はずしの決定打を放ったのが近衛天皇の母の美福門院ということになります。

かつて、天皇家では後継者を絶やさないために複数の女性を周囲に置くのが通常だったわけですが、複数の男の子が産まれて来た時に、誰が次の継承者になるのかを決める際、カギを握るのは「母親は誰か」です。母親は自分の実家、実父(だいたい、藤原氏の誰か)と連携して権力保持に動きます。

この複雑な人間関係について考える時、やはり最後に決定的なパワーを発揮するのは女性なのだなあとつくづく思うのです。

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小沢一郎と加藤紘一

小沢一郎さんと加藤紘一さんは、世襲議員であり、双方とも将来の首相候補として目されていたという点で似ていますが、もっと似ていたのは自分が首相になる時の環境や条件に強いこだわりがあったところではないかという気がします。

政治家になれば誰でも首相になりたいものだとはいえ、二人ともそれは相当に確実視されており、首相になることは当たり前で、そのうえでより理想的な形で首相になりたい、おそらくは首相になったら佐藤栄作に比されるほどの長期政権を築きたいという希望を共通して持っていたのではないかと思います。

小沢さんの場合、心の中に理想として持っていたのは田中竹下金丸ラインを打倒し、心理的な意味での父殺しを達成して、名実ともに自分が最高権力者の政権を作ることでしたでしょうし、加藤さんの場合は挙党一致のようなものが心の中にあったのかも知れません。

森喜朗さんが首相になった後、野党が内閣不信任決議案を出すという時に、場合によってはそれに賛成するとして森喜朗さんからの禅譲を暗に迫ったいわゆる加藤の乱ですが、順番的には自分が先になるはずなのに密室で自分が外されたということへの強い恨みもあったでしょうし、或いは小沢一郎さんが改革フォーラム21からスタートして一時的にとはいえ政権を奪取したことを多少は参考にしたのかも知れません。

小沢さんたちは自民党政権を潰すところまでやりましたが、自分はそこまではやらない。だが、やろうと思えばやれる。だからそうなる前に挙党一致で禅譲してもらいたい。というリアルなシナリオと多少甘い願望が混然としたイメージとなって加藤さんの念頭に浮かんでいたのではないかと思います。

ただ、自民党は党内での勢力抗争がどれほど激しくなろうとも、政治権力を維持するという点では一致していますので、自民党の政治権力を脅かす行為を決して許しません。小沢一郎さんはもはや論外といったところでしょうけれど、加藤紘一さんは非自民政権もあり得るという脅しをかけたことで、触れてはいけない不文律に触れ、その後はいわば干されてしまったという面があったように思います。

船田元さんは小沢さんと一緒に自民党を飛び出し、非自民政権を作った主要メンバーの一人ですが、自民党復帰後は冷遇されています。石破茂さんは大臣にもなり、首相候補に名乗りを挙げたり自派を作ったりと一度は離党したものの、それなりに活躍できています。その差は船田さんは非自民政権を作ったことに加担した人物であったのに対して、石破さんの離党は全体の政局に影響するものではなかったという違いがあるからかも知れません。それほど自民党にとって政権維持は大切なことであり、政権維持に影響しなければ少々のやんちゃは赦されるけれど、政権維持を脅かすものは絶対に許容しないという強い執念のようなものがあるということだと思います。

一度、落選し、復帰した後の加藤紘一さんは人間的に成長したという人がいます。そうかも知れません。そういう意味では加藤紘一さんは必ずしも華々しい晩年を過ごしたわけではなかったものの、人としての深みを持った晩年を過ごしたのかも知れません。一方の小沢一郎さんですが、最期まで今の流れで行くのでしょうか…
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縄文時代は意外と豊かだったらしい件

私が子どものころの縄文時代に対するイメージは、いわば原始時代です。はじめ人間ギャートルズとあまり変わらない印象です。そして、日本が縄文時代でナウマンゾウを追いかけていたころに、大陸では巨石を使い農業を発展させた文明が花開いていたのだ、というような対比で理解していたように思います。

しかし、最近は縄文時代は意外に生活水準が高く、高い精神性を持っていたことも分かってきていますし、私個人としても「ふーん、そうだったのかあ」と目からうろこ的なところがあります。

縄文人の生活水準の高さが注目されたのは三内丸山遺跡の発掘が進み、集落が再現されたことも大きな要因かも知れません。高楼があって、そこに人がのぼって海の様子を見、魚の群れが見つかればみんなで漁に出かける。大きな家で大家族で暮らしていたということも、大家族が暮らせるような大きな家を建てる技術があったということを示します。

また、当時の女性は様々な装飾品を用いて暮らしていたことも分かっており、貝殻で作られた装飾品の他、ヒスイが出てくることもあるようです。ヒスイの採れない地域でもヒスイの装飾品が出てくることから、通商や交易が、たとえ物々交換であったとしても行われていたことが分かり、縄文時代の丸木舟が各地で見つかっていることも、あるいは交易に舟が用いられていた可能性を想像させます。

土偶も各地で見つかっていますが、土偶の文様から、当時の人は鮮やかな衣装を身にまとっていたことが分かり、布を作る技術もあったということになります。実際に布も見つかっているようです。東北地方から北海道にかけては環状列石が見つかっており、それは主として日時計として用いられたか太陽を信仰の対象にしていたかを示すように見えますが、北海道では北斗七星の環状列石があり、夜の天体を信仰の対象にしていたことをうかがわせます。星を読んでいたとすれば、航海技術の水準も高かったのではないかと想像できます。

農業が行われていたことはもちろんで、近年では当時の遺跡からお米も見つかっていることから、稲作もしていたと見られています。

惜しむらくは文字が残っていないことで、いわゆるヲシテ文字もどうやら違うようですし、ここまで高い、文明と呼んでもよさそうなほどの水準の生活を送っていながら、文字が生まれなかった故に記録が残っていないということは、かえって好奇心を刺激されてしまいます。中南米の文明も文字がなく、紐の色や結び目で通信していたということですから、或いは縄文時代も似たような情報伝達はなされていたかも知れません。

「縄文人の暮らす日本列島に大陸から弥生人がやってきて、縄文人を征服して大和朝廷ができた」というざっくりとしたイメージを持つ人は多いと思います。私もざっくりとはそう思っています。ただ、言語という視点から見てみると、そう簡単に言い切れないかも知れません。日本語は必ず最後に子音を発音します。中国語や韓国語はそうではありません。また、古事記、日本書紀、万葉集などでは「ヤマト言葉」と漢語を使い分けている(または混合して使用している)様子からは、日本語という、大陸とは隔絶した言語体系を中国語の言語体系を用いて表記することに苦心していたことが分かります。それは大和朝廷の人々が縄文から使われていた言語体系を継承していて、一部の渡来人から得た中国語の表記を学んだという構図を浮かび上がらせるものではないかなあという気がしてしまいます。もちろん、分かりません。個人的にそんな気がするだけです。

奈良時代の藤原氏の世渡り

天智天皇の死後、大海人皇子が吉野にくだって兵を集め近江朝と戦う壬申の乱が起きます。壬申の乱では大海人皇子が勝利し、天智天皇の息子の大友皇子は自殺し、藤原鎌足の一族の中臣金は処刑され、その他の藤原系の人々も流罪になります。藤原鎌足は天智天皇の側近中の側近でブレーンだったわけですが、壬申の乱で敗れてその勢いを失ったと言えます。

不比等は当時少年だったために咎を受けず、普通の人生、どちらかと言えば恵まれない方の人生を歩むはずだったに違いありません。しかし、持統天皇の息子の草壁皇子が病死し、草壁皇子のその息子の軽皇子が文武天皇に即位するのに貢献したとして、不比等は一機に出世し、奈良朝の藤原氏の台頭の基礎を作ります。娘の宮子が文武天皇の夫人となり後の聖武天皇を出産したことで、不比等は皇子の祖父ということになり、更にその基盤が固まっていきます。天皇の系統では天武系が続いていますが、朝臣の系統では天智系が復活してきたと捉えることもできると思います。

不比等の死後は藤原四兄弟が藤原氏による政権中枢の独占を狙い、天智系の皇族の長屋王を自殺に追い込みます。危機を乗り越えた後はライバルを蹴落とすというなかなか恐ろしい構図が見られます。この構図は菅原道真の時と同じで、藤原氏が単に運が良かっただけでなく、慎重かつ大胆、そして明確な強い意思を持って権力確保に邁進していたことが分かります。

もしそういう人が職場にいて敵視されるといろいろ面倒です。自分も野心を持っていたら全面戦争覚悟になりますし、そうでなかったとしても、普通に仕事をがんばっているだけで嫌がらせを受け、失脚の機会を伺われ、あることないこと触れて回られ、ちょっとしたミスや隙につけこまれてきます。そんな人が周辺にいたらそれだけで本当に疲れます。

では、反撃すればいいかというと、そういう場合は大抵、相手の方が用意周到で、勝つことに情熱を注いでいますのでよほどの覚悟が求められることになります。平和にそこそこな感じで生きていきたい人にとっては迷惑なことこの上ないに違いありません。藤原氏が倒された側の怨念を恐れたのも、周到な追い落としをかけていた自覚があったからではないかとも思います。不比等と藤原四兄弟の時代、壬申の乱の敗者の側にいたにも関わらず、復活して再び権力に届いていくという時の心境を想像すると、当時、計り知れないほどの高揚を彼らにもたらしたに違いありません。きっと、権力闘争が好きだったのだろうと思います。そうでなければ情熱的に相手を潰すことはそうそうできません。相手も人間ですのでハンパな潰し方では潰れませんから、命をかけたチキンゲームです。怖くなったらやられてしまいます。

ただ、権力闘争はやり過ぎると結局は仲間割れに至ってしまいます。藤原道長の時代になると藤原氏内部での追い落としが激しいですし、保元の乱もいわば藤原氏内部で喧嘩し過ぎて凋落し、清盛が台頭して貴族の時代そのものが終わっていきました。

権力闘争はほどほどが良さそうに思います。

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光源氏と紫の上

源氏物語は登場人物が大勢いる上に、それぞれに身分、家系、性格などがくどくどと盛り込まれてくるため、だんだん誰が誰だったかが分からなくなり途中でどうでもよくなってくるのですが、基本的には光源氏と紫の上の二人の物語だという風にとらえることができると思います。

紫の上が著者の紫式部本人であることはまず間違いのないことと思います。光源氏があれよあれよと出世するので藤原道長がそのモデルだとする説もあるようですが、光源氏は天皇の直接の子どもですから、ちょっと微妙かなあとも思います。

光源氏は次々と多彩な女性たちと恋愛関係を発展させていくため、光源氏のもてっぷりにどうしても注目が行きますが、光源氏はいわば理想のスーパースター。天皇の子どもなので血筋的には文句なし。顔もいい。遊びも知っているおもしろい男。更にお母さんが早くに死んでしまい、臣籍降下させられるという悲劇性もきちんと与えてあるという、絵にかいたようないい男です。逆に言えば、個性のない、誰でもない、ただの人形のような存在とも言えます。

むしろ、熱心に描かれているのは女性たちの方で、ほとんど平安女性のカタログみたいになっているようにも思えますが、その頂点に立つのが紫の上です。光源氏生涯にわたって必要な存在であり、紫の上が死んでしまったら源氏も落胆して出家して亡くなってしまうというくらい偉大な存在です。

光源氏の浮気性に悩まされつつ、赦し、受け入れ、ため息まじりに時にはほとんど諦めて突き放す。紫の上の光源氏の関係には、紫式部の男性観が色濃く投影されており、光源氏に浮気されまくって気の毒な存在だけれど他の並みいる女性たちが彼女の立ち位置を奪うということは絶対にできない、源氏が最後に帰ってくる港ですので、女性たちの間に於ける紫の上の存在には絶対性があり、そこに紫式部の自意識を見出すこともできそうな気がします。

光源氏の浮気性には、男に対する諦めが投影されていると観ることもできそうですが、源氏がいろいろ楽しく過ごすことについては描かれていたり、苦労が描かれるにしてもそれは女性を口説くための苦労であったりして、仕事の苦労、文字通りの宮仕えの苦労などはほぼ省みられていないため、なるほど確かに女性が描く男性像だと合点がいきます。男同士の相克が描かれる部分もありますが、変な言い方をすれば分かりやすく適当で、いかにもラブコメに出てくる男同士の関係に近く、浮気性で適度に男同士のプライドの張り合いもあるという感じでは『うる星やつら』の諸星あたるにも似ています。

歳をとった後の光源氏は自分の子どもではない人物を世間体のために自分の子どもとして育てなくてはならず、紫の上は死んでしまい、一人ぼっちになって寂しい最期を迎えることになっています。若いころに好き放題したつけを払わされたという格好にもなっていると言えますが、紫の上の死後に落し前をつけさせるというあたり、紫式部ってすごい人です。