鈴木清順監督『カポネ大いに泣く』の日本とアメリカ

鈴木清順監督の作品の中で、最も有名なのは『ツィゴイネルワイゼン』だと思いますが、個人的なベストは『カポネ大いに泣く』です。田中裕子が美しいです。ショーケンが若くてたくましいです。

映画のオープニングでは20世紀初めごろのアメリカの映像が使われています。遊園地で遊んでいる人々や飛行機に乗って楽しんでいる人々が映っています。日本人にとってアメリカとはこういうものだということを表現しているのだと思います。不思議な道具を使って楽しく人生を謳歌する人々が昔の日本人にとってのアメリカ人です。眩しき別世界です。

田中裕子とショーケンが夫婦でサンフランシスコに渡ります。悪いやつに騙されて田中裕子は娼婦になり、ショーケンはアメリカで浪花節をやります。歌舞伎でも能でもなく浪花節というところが渋いように思います。沢田研二がショーケンと田中裕子を助けます。阿藤海が広東語をしゃべっています。今見れば、阿藤海さんが出ているだけで泣けます。たこ八郎さんが出ています。泣けます。

ショーケンは世間知らずです。夜の大統領と昼の大統領の違いが理解できません。アメリカで一番偉い人の前で浪花節がやりたいと思い、夜の大統領のアルカポネの前で浪花節をやります。細かいことを計算をせず、真っすぐに、純粋な天真爛漫さだけで突き進みます。それがこの人物の魅力なのです。禁酒法の時代に酒の利権をめぐってアルカポネと日本系マフィアが抗争します。日本系マフィアはほぼ皆殺しです。アメリカの大ボスには勝てないのです。アルカポネはチャックウイルソンがやっています。懐かしいです。

田中裕子が事故で死にます。ショーケンはアメリカ人の愛人と暮らします。戦争が始まり、日本人と日系人は収容所に入れられます。愛人の手引きでショーケンは脱走します。そして最後に切腹してあの世の入り口で田中裕子と再会します。切腹は痛すぎてショーケンは悶絶します。「こんなはずでは」と口走ります。切腹に興味津々だったアメリカ人の愛人は驚いてどこかへ逃げてしまいます。なぜ切腹しなければいけないのかという謎が残ります。映画に謎解きはありません。何度も観て考えなくてはいけません。全てにおいて勝るアメリカ人に日本人が自己表現を挑むとすれば、切腹しかなかったのかも知れません。或いは切腹は外せないのかも知れません。『戦場のメリークリスマス』と同じです。

アメリカロケは一切しなかったそうです。横浜で撮影しています。あ、京浜東北とか思います。日本で十分にアメリカを見つけることができる、日本の近代とはどういうものかを考える材料にしてほしいと言っているように思えます。

玉乗りが素晴らしいです。田中裕子の三味線も本当に弾いています(と思います。撮影の時に本当に弾いていると思うのですが、音と手が時々合っていない箇所があるので、三味線の音はアフレコとかなとも思います)。浪花節とジャズのセッションがあります。様になっていて渋いです。細部にエネルギーが使われているので何度観ても新しい発見がある映画です。

義経の首は本物か?ニセモノか?

源義経が平家追討を終えた後、頼朝から追放されて各地をさ迷い、最後は奥州藤原氏に裏切られて非業の最期を遂げたということはよく知られています。一般的には義経が後白河上皇から検非違使に任命され、義経が能天気にもそのまま受けてしまったということが武士政権を確立しようとしていた頼朝の逆鱗に触れたとよく説明されます。そのこと事態は私は特に異議はありません。主要な要因だったと思います。

頼朝が伊豆の流刑地で育ったのに対し、義経は京都のお寺で育ちます。価値観が違って当然です。検非違使のような役職のありがたみを噛みしめることができるのも義経の生育環境があったればこそ、だったのかも知れません。しかしながら、義経はそもそもニセモノだったのではないかという人もいます。

頼朝は挙兵後に石橋山で敗れて真鶴から船で千葉へ敗走。その後、鎌倉へとやってきます。京都との位置関係で言えば巻き返しに入っていたと言えます。その時に現れたのが義経で、本人は義経だと言い張るものの、証拠がありません。頼朝が「こいつ、ニセモノじゃねえの?」と疑ってもおかしくないというのです。

義経は最後に奥州藤原氏を頼って東北地方へと行きますが、奥州藤原氏に受け入れてもらうためには過去にステイしていた事実が合っていなければならず、そういう意味ではホンモノだったのではないかなあと思います。義経に関する謎のようなものとしては、義経生存説、東北から北海道へ、更に満州に渡へいってジンギスカンになったというど派手なものがありますが、これは水戸光圀が唱え始めたものらしく、新井白石もアイヌの伝説上の人物が実は義経だったのではないか、のような考えを持っていたようです。江戸時代は平和な時代ですから、そういうことをあれやこれやと考えて楽しむことが流行していたのだろうと思います。

さて、問題は鎌倉に届けられた義経の首がホンモノだったのか、ニセモノだったのかということになります。義経が北海道まで逃げたのなら、首はニセモノでなければいけません。もちろん今となっては証明不可能な話です。義経の首が奥州から鎌倉まで届くのに40日。馬で運んだにしては時間がかかりすぎるので、これは故意に腐敗させ、判別不能にしてから鎌倉に届けさせたというのが水戸光圀の推量です。

和田義盛は義経の首を見て義経を哀れに思い涙を流したという話があります。和田義盛は義経のことが嫌いで、戦地から頼朝に義経の悪口を書き連ねた手紙を送った人です。一緒に戦場に出て戦っていたのにそこまで嫌いということは、和田義盛は義経のことをよく知っている人です。一挙一動にも腹が立って、逐一それを記憶にとどめている人です。普通なら見落とすようなちょっとした特徴まで掴んでいる人です。そのような人がニセモノとホンモノの首の違いに気づかないということがあるでしょうか?「思い込みだよ~」と考えることも不可能ではないですが、思い込みを防止して確認するための首実検です。もしかしてニセモノかな?と思いながら見るのが首実検をする理由です。

そう思うと、和田義盛がホンモノ認定したのだから、ホンモノだったのではないかと私は思います。義経は戦術家だったのだから、もしかして?と思いたくなる気持ちは私にもありますが、平家との戦争の勝ち方は基本、背後からの攻撃ですので正攻法でやったら或いはそこまで優秀ではなかったかも知れません。想像です。

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『カリオストロの城』の日本の戦後

『カリオストロの城』は何度観ても感動して涙が出てくるとてもいい作品だということは、わざわざここで述べる必要もないほどのことだと思います。

カリオストロ公国は景色がとてもきれいです。設定ではフランスとスペインの間にあって地中海に面した人口3500の世界で一番小さな独立国です。小さい国は魅力的です。『マシアスギリの失脚』みたいに、お話しを大袈裟にせずに独特の世界を作ることができます。雪が積もった峰々と湖が美しいです。お城もきれいです。ディズニーランドのお城みたいです。設定ではお城ができたのは16世紀の終わりころです。イギリスではエリザベス女王の時代が始まったか始まらないかくらい。中世が終わるか終わらないか、イタリアでは中世は終わっているけどフランスとスペインの中間ならまだ中世かな。といった感じのころです。日本では織田信長か豊臣秀吉の時代です。

中世のヨーロッパのお城があんなにかわいくてきれいで素敵というのはちょっと考えにくいです。中世ヨーロッパのお城と言えば、ずどーんと暗くて重苦しい感じのイメージが私にはあります。『薔薇の名前』や『忘れられた巨人』に出てくる修道院のようなイメージです。映画『エリザベス』のスコットランドのお城みたいなイメージです。カリオストロの城みたいなきれいでかわいいお城と言えばルードビッヒ2世のノンシュバンシュタイン城ですが、それは19世紀につくられたお城です。時代的に合いません。

しかし、カリオストロの城には日本人の夢と願いが全力で込められています。ヨーロッパのお城はきっとあんな風にきれいで豪奢でかわいい感じに違いない、そうであってほしい、そうでなくては困るくらいのエゴの欲求を受け止めています。イメージ通りのヨーロッパのお城にルパンと次元と五右衛門と銭形が行くからおもしろいのです。日本人が活躍するからおもしろいのです。日仏ハーフのルパンと銭形がどちらも勝者で、敗者がカリオストロ公爵だから日本人にカタルシスを与えます。戦いに勝利し、クラリス姫のような可憐な美少女の「心を盗んで」去って行くから称賛してしまうのです。何回観ても飽きないのです。

パリのインターポール本部で銭形はカリオストロ公爵の偽札づくりを告発します。しかし、欧米のえらい人たちは政治的な理由でそれを無視することに決めます。観ている側は銭形の誠の心に共感します。初めて見たのは小学生の時ですから「大量の偽ドルが発注された」とか「この偽ルーブル札こそCIAの発注じゃないのかね」とか言われてもよくわかりませんでした。いずれにせよ、国際政治の複雑な大人の事情に負けずに日本男児の銭形が正義を貫こうととする姿を観るのが気持ちよかったのです。

お城といい、欧米相手に正義を貫こうとする銭形の姿といい、最後にルパンと銭形が勝者になるところといい(両方勝者にならないと観客的には不満になる)、改めて観てみると日本人の敗戦トラウマの快復が大きなテーマだということに気づきます。欧米に憧れるという気持ちと欧米に勝ちたいという気持ちの両方を解決しているのがこの作品です。架空の国をやっつけることで、誰も傷つけずに物語の世界でトラウマが癒されます。最後にクラリスがルパンにキスをしてほしそうにするところがトラウマ快復の総仕上げです。ルパンは倫理の観点からキスしないので観ている側は更に気分がいいのです。私もクラリスみたいな人にそんな風にされたいです。実際にそんな風にされたら顔が近すぎてけっこううっとうしいかも知れません。それでもやっぱりされたいです。

作者は以上述べたことを十分に知っていて意図的にそうしています。クラリス姫が閉じ込められる北側の塔の部屋はアラビア趣味です。ヨーロッパのオリエンタリズムをサイードが指摘する前からよく心得ています。ゴート札がブルボン王朝を破滅させたという設定もフランス革命の原因がマリーアントワネットの贅沢とかではなく通貨政策の失敗だったとうこともちゃんと押さえています。宮崎駿さんですから私が気づくくらいのことは十分に意識的だと思います。

ルパンもカリオストロ伯爵もおっさんです。なぜクラリスはルパンのことは好きで、伯爵のことは嫌いなのでしょうか。よーく考えてみると、ルパンは手品でクラリスを喜ばせています。手品かよ…。と私は少しがっくりきます。私は手品ができないので、あんな風にはやれないというごく個人的な理由です。私は楽器も球技も習字も手品も手足を使うことはどんなに練習してもうまくなりません。今はもうあきらめています。

クラリスとナウシカはよく似ています。その理由は作者の好みに集約されるはずです。何回観ても涙が出てくるので作ってくれた人には感謝しています。



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『エリザベス ゴールデンエイジ』の大人の女性のやたら強運なことと生きる覚悟

強運であることは、人生の成功に必要なことです。果たしてどうすれば強運が得られるかは誰もが日々探求することの一つではないかと思います。

『エリザベス ゴールデンエイジ』を観ると強運は勝手についてくるもので、努力とか人間性とかは関係ないのではないかとふと思ってしまいます。『エリザベス』では若い娘さんだったエリザベスI世は続編のこの映画で、大人の見事な政治家に成長しています。素晴らしい頭脳と豪胆さで難局を乗り切ります。

しかし、観れば観るほど気づくのは、その強運です。暗殺されそうになります。助かります。反逆されそうになります。摘発します。スペインが無敵艦隊で攻めてきます。勝ちます。それらの勝利に本人の努力は関係ありません。暗殺されそうになった時は、犯人の気まぐれで運よく助かります。スコットランドのメアリー女王の謀反は側近が見破ります。スペインの無敵艦隊を撃滅したのは本人ではなく部下です。そのような視点から観ると、運が味方しているからこそいろいろな難局を乗り越え、人生が切り開かれていくことが分かります。

え…そしたら、運を良くしたいと思えばどうすればいいの…?と私たちはため息をつくしかありません。

とはいえ、この映画では強運のヒントも観客に与えてくれるように思います。それは恐怖心に捉われないことです。暗殺されそうになったら騒ぎ立てず、来るなら来いと構えます。無敵艦隊が攻めて来たときに兵隊を奮い立たせるスピーチをします。そういう時に人心を掴むためには自分の安全を気にし過ぎないことが必要です。自分も一緒に死ぬ覚悟だと伝えるためには、逃げ道を絶つ覚悟が必要です。本当に死ぬ覚悟を持たなくてはそういう時にスピーチできません。

そのように思えば、大事なところで逃げない覚悟、いつが大事な場面なのかを見極める聡明さの両方がなくてはいけないということに気づきます。覚悟があれば聡明になります。ということは結局は胆力ということに集約されそうな気もします。スペイン艦隊が攻めてくる不安に押しつぶされそうな時、星占い博士の言葉でエリザベスは勇気づけられます。必要な時に必要なことを言ってくれる友人なりブレインがいるということも、大切な条件なのかも知れません。人を見る目も大切です。無敵艦隊が焼き討ちで滅びる様子を陸からエリザベスが見る姿はカタルシスに満ちています。形勢を逆転させ重圧から解放される、助かったという安堵、奇跡が起きたことへの感謝に溢れています。スペインの側に立てば不愉快だと思いますが、そんなことは考えずにエリザベスの側に立って観れば感動します。

全てが強運と胆力によってうまくいっているように見えますが、一つだけどうしてもうまくいかないことがあります。男性との恋愛がうまくいきません。第一作では元恋人に裏切られます。続編のゴールデンエイジではアメリカ大陸を探検する男に恋をしますが、彼はエリザベスの侍女と結婚してしまいます。眉毛が濃くて髭をそらずに色黒なので、男の目から見ると暑苦しいです。ですが、こういうタイプがもてるのかと思うと、私も見習わなくてはいけないかも知れません。うまくやらないとたんに暑苦しいのだけなので自分に合わないスタイルなら諦めた方がいいかも知れません。

エリザベスは政治家としては素晴らしい歴史的な成功を収めたとしても、一人の女性としては成功できなかったという言い方もできるかも知れません。そこに空虚が入り込んできます。しかし、そのようにして運命のバランスがとられていると見ることもできますし、政治家としては成功しても恋愛運には恵まれないということを受け入れることが人生をうまく回していく極意なのではないかという気もします。生きていれば嫉妬もします。落胆もします。不安で押しつぶされそうになる時もあります。狂喜乱舞する時もあります。この映画ではエリザベスが一人で観客の人生が投影できるようになっていると私は思います。観る人がそれぞれに自分の不安や苦しみや生きる喜びをエリザベスに投影できます。この映画を作った人はただものではありません。

この映画を観て運勢について考え、自分の生き方を省みることも有意義なのではないかと思います。

完全についでの話ですが、イングランドに攻めてくるスペインのフェリペII世が登場する場面はなんとなく手抜きです。一方でスコットランドのメアリー女王が処刑される場面は涙が出そうになるほど荘厳で作り込まれています。メアリー女王の処刑は日本で言えば大坂夏の陣の秀頼と淀殿と同じくらいにイギリスでよく語られる悲劇ですので、どこからも異議が出ないようにと特にエネルギーそ注いで作られたのかも知れません。

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遠藤周作『鉄の首枷』の小西行長の裏切る人の心理

遠藤周作さんの『鉄の首枷』という小西行長の評伝を読んで私が思ったのは、小西行長のような人間を友人にしたら大変だということでした。

キリシタン大名だった小西行長は、豊臣秀吉がキリシタン禁令を出した際、高山右近を自分の領地に匿います。これは、まあ、いいと思います。信仰という心の自由を守る戦いです。豊臣秀吉が朝鮮半島に兵を出したとき、小西行長と加藤清正が活躍します。二人とも破竹の快進撃をしますが、小西行長の方はなるべく早期に戦争を終わらせるため、独自に講和を図り、秀吉を上手にだまして手を打とうとします。これも、まあ、平和のためだと思えば、悪いことだとは言い切れません。私は秀吉のことはあまり好きではないですから、秀吉の味方をするつもりもありません。

ただ、一旦なりかけた講和が破綻し、二度目の戦争になった時、小西行長は加藤清正が戦死するよう陰謀をめぐらせ、相手側に加藤清正の行動を知らせて攻撃を仕掛けるように持ちかけます。これはやり過ぎです。やり過ぎという表現ではやさしすぎます。裏切ってます。こういうタイプは大事なことを話して「誰にも言わない」約束しても尾ひれをつけて言って歩きます。友達にしてはいけないタイプです。

私も人生で何人かこんな感じの人に出会ったことがあります。気づかないところで約束を破ったり、さりげない嘘をつきます。味方のふりだけは続けるのでかえってやっかいです。小西行長は自分の内面や良心には正直な人に違いありません。それはいいことです。しかし、自分に正直でいることのリスクを取ろうとしないので八方美人になり、嘘をついてかすめ盗ろうとします。とてもやっかいです。

遠藤周作さんが小西行長に関心を持った理由は幼少期に自分の意思とは関係なく洗礼を受けたということが共通しているからかも知れません。行長の内面を推量するために学術論文や当時の資料などを読み込んで書かれた労作です。とても面白い作品です。遠藤さんは行長が内面の秘密を守り抜こうとしたことに自分を投影したのではないかと想像します。遠藤さんの『母なるもの』で、自分には絶対に他人には言えない秘密が一つだけあると書いてあります。どんな秘密かは多分、どこにも書かなかったと思いますから永遠に分かりません。遠藤さんの作品をとにかく読み込んでそこから推量することは可能かも知れませんが、どこまでやっても推量で、本当のことは分かりません。ただ、社会的な安全のために表面は周囲に合わせてそれが自分の本意であるかのように装い、実は内面では全く違うものを抱えているというのは、確かに苦しいことですし、誰もが多かれ少なかれ抱えるものかも知れません。私には「秘密」というほど大げさなものはないですが、それは違うと思ったことを呑み込んで周囲に合わせるということはよくあります。

秀吉の家臣に小西行長という人物がいて、関ケ原の戦いの時は石田三成の味方をしたということはそれなりに知られていると思いますが、もっと詳しいことはよくは語られません。子どものころに読んだ子ども向けの『太閤記』では、朝鮮出兵の講和のために担当者が適当な嘘をつこうとしたくらいのことが書いてあったのは覚えていますが、その人物が小西行長だとか、小西行長がどういう人物かとか、そういうことは出てきませんでした。名前だけはよく見たことがあるのに、どんな人かこの作品を読むまでは全然と言っていいほど知りませんでした。

もちろん、遠藤さんが描いた小西行長像ですので、本当の小西行長の姿とどれくらい同じなのかということは簡単には判断できません。そんなことは論じても仕方がないかも知れません。私にとっては、大事なところで嘘をついたり裏切る人の心理がなんとなく、ようやく理解できたと感じられたので、とても有益な作品でした。


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遠藤周作『青い小さな葡萄』のイエスキリストイメージ

遠藤周作さんの作品には何度となくイエスキリストの役割を背負う人が登場します。たとえば、初期の作品に『青い小さな葡萄』というものがありますが、この題名の「葡萄」は西洋絵画のイエスのアトリビュートに対応しています。アトリビュートとは、西洋絵画で聖書上の人物を取り扱う際、誰が誰なのかすぐに分かるように、人物と一緒に描く付属品のようなもので、イエスの場合は葡萄がアトリビュートして用いられます。それが100パーセントというわけではないですが、葡萄とイエスがセットだということは、広く認識してされているという程度に考えるのがいいと思います。

『青い小さな葡萄』は、戦争が終わってまだ日が浅いころ、戦争中にフランスを占領していたドイツ軍の兵士だった男と、千葉というフランスに留学してきている日本人の男が一緒にフランス人同士の虐殺された場所を確認しにいくという内容になっています。遠藤さんの心境としては「フランス人だってやってるじゃないか!」ということなのだろうと推量します。

どのようにイエスイメージが関わってくるのかというと、ドイツが戦争で負けることがわかってくるとフランスの各地でパルチザンが蜂起しドイツ兵が襲撃されるようになりますが、このドイツ兵の男も襲撃され、とある建物に身を隠します。それを偶然、フランス人の若い女性が見てしまいます。ドイツ兵にとっては万事休すか…というところなのですが、その女性は恐る恐るドイツ兵のところに葡萄を投げ入れてどこかへ逃げていきます。絶体絶命の時に与えられるささやかな救い、人間的な愛情は遠藤周作さんが終生のテーマにしたことですが、このように女性が葡萄を投げ込んだということは、女性がイエスのイメージを担っているということを意味します。

ドイツ人の兵士は片現場の遺留品から女性の名前と住所を特定し、片腕を失いつつもドイツに帰還することに成功し、戦後、その女性に会うことを目的に再びフランスへに来て、日本人の千葉という青年と出会います。敗戦国民同士の相哀れむような友情が生まれますが、千葉はドイツ人の内面に潜む人種差別意識を千葉は敏感になります。互いに軽蔑しつつ、しかし、離れることができないという関係が二人の間に生まれます。

二人は女性の住所のある街へ行きますが、実際には女性はフランス人内部の反ナチス運動の方針の違いによる抗争に巻き込まれて私刑に遭い、殺されてしまっていたことが少しずつ明らかになっています。ミステリー小説のような要素も含まれています。やがて私刑が行われた場所に辿り着き、ドイツ人の若者は女性が殺されていたという事実を受け入れるようになります。ドイツ兵の若者を助けた女性が理不尽な私刑によって命を落とすことは、イエスキリストが福音書で理不尽な理由で十字架にかけられたことに対応しています。

遠藤周作さんの作品には密かに沢山の聖書の記号が入れ込まれてあるので、それを見つけていくのもおもしろいです。

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西山厚『語りだす奈良 118の物語』碩学による優しい奈良の話。古の人の心

奈良の歴史と風物に関する優しい文体のエッセイ集です。

西山厚さんという方は、この本の奥付の紹介によりますと奈良国立博物館の学芸部長をされた後、現在は帝塚山大学の教授をなさっていらっしゃる先生です。『語りだす奈良』は西山さんが毎日新聞の奈良県版に奈良の風物詩と歴史に関することを連載したコラムをまとめて加筆修正したものです。

折々の奈良の行事や社会的なできごとと絡めつつ、奈良時代の歴史のお話が書かれています。優しいおだやかな文章で、肩がこらず、読み進めるとなぜかほっとしてきます。

奈良時代の主役といえば、ぱっと思い浮かぶのは大仏様を建立した聖武天皇です。聖武天皇に関わるエピソードもたくさん挿入されています。光明皇后のお話しもいろいろ挿入されています。聖武天皇と光明皇后の間に男の子が生まれましたが、体が弱く一年も経たずに亡くなってしまいます。聖武天皇と光明皇后は仏教への信心を深めていきます。美少年で知られる阿修羅像は光明皇后が亡くなった息子さんのことを偲ぶために作らせたものです。親子の情が語られます。普通の人の人生と重なり合います。

光明皇后はある日、お風呂を設けて汚い人を洗いなさいとの天の声を聴きます。お風呂を設けると汚い男がやってきます。汚いなあと思ったけど天の声に従ってきれいに洗ってあげます。実はその人は如来様で空へ消えていきます。ある日、全身膿だらけの人がきます。嫌だなあと思ったけど口で膿を吸い出してあげます。その人も如来様でどこかへ消えていきます。

なんかの話と似ています。千と千尋にそっくりです。宮崎駿さんのような博学な人が光明皇后の話を知らないわけがありません。おー、千と千尋のオリジナルは光明皇后だったのかと驚きと感動が読み手の内面に生まれます。よくよく考えてみると、ナウシカの原作でもトルメキアの兵士の喉に溜まった血をナウシカが口で吸いだします。突き詰めるとそのモデルは光明皇后だったのかと分かれば感動します。

男にとって女性は偉大です。女性が愛の力を発揮すると崇高なことも偉大なこともできるのだと、その愛にすがることもまた信仰なのかも知れないなぁと私は『語りだす奈良』を読んで思った次第です。

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天皇とお米

縄文時代と弥生時代の決定的な違いは米作の有無にあります。縄文時代は狩猟採集が中心ですので、獲物がとれればいいですが、そうでなければ明日をも知れない日々を送らなくてはいけません。獲物の肉は干したり焼いたりすれば保存できますがお米ほど手軽でもなく、お米ほど長く保存することもできません。

米作するようになると、お米は長期保存が可能なために「貯蓄」できます。耕作面積を確定して水田を整備すれば毎年の収穫量が分かります。もちろん天候に左右されますが、狩りに行くよりは安定しています。人口も劇的に増えます。一般的には米作により土地を多く持つ人とそうでない人に分かれ、貧富の差が生まれ、身分の差が生まれたと説明されることが多いです。そういう面は確かにあると思います。

ただ、身分の差という意味では、縄文時代に絶対になかったかと問われれば、そういうことはないと思います。狩りが上手な人、体力的に優れている人、性的な魅力が高い人、宗教的な意味で高貴だと認められていた人などが存在したのではないかなぁと私は想像しています。一万年も続いた時代ですし、日本各地に集落があったとすれば、そのような想像した通りの社会構造があった「場合もある」くらいは考えていいと思います。お墓の様式や副葬品は年代や地域によって随分差があると思いますが、身分の差という視点で分析するといろいろ見えてくるのではないかなぁと思います。

いずれにせよ、お米が貧富の差に決定的な意味を持ったということはきっと間違いないと思います。お米は戦略物資です。天皇は大嘗祭と新嘗祭でお米を食べます。大嘗祭は即位の時に行われ、新嘗祭は毎年行われます。五穀豊穣に感謝すると同時に、戦略物資を食べることによって統治権を確認するという象徴的な意味もあるのではないかと思います。お米は一本の苗にたくさんの実をつけますから子孫繁栄にも通じて大変縁起がよいのだとも思います。

東京の皇居には小さな水田があって、今も毎年天皇陛下が親しくお田植をされるそうです。お米を大切にするという意味の表現があると思います。戦略物資をコントロールするという意味ももしかするとあるかも知れません。ただ、平安時代の天皇が御所でお田植をされていたとか聞いたことも読んだこともありません。京都御所を拝観した時にお田植されていた場所みたいな表示も見たこともありません。なので、近代になってから、天皇家が東京に移ってからそういうお田植が行われたのではないかなぁと思うことがあります。推し量ってばかりで申し訳ないです。

天皇家のルーツは諸説あります。今となってはもちろん分かりませんし、はっきりさせる必要もありません。神話があってそこに想像の余地があるのがおもしろいのだと思います。ただ、お米が戦略物資で、大嘗祭と新嘗祭があるように天皇家もお米を重視していて、縄文と弥生をばっさりと区分できるほどの重みがあるのなら、実は天皇家は米作技術を持って大陸から渡ってきた人で、独自の米作技術によって富と権力を確立し、全国に統治権を広げたと想像することも可能です。想像ばっかりで申し訳ないです。お米というキーワードで天皇家のルーツを推量するのもおもしろいかなぁと思ったという程度のお話です。

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映画『エリザベス』の戦う女性の成長と演説力

イギリス映画の『エリザベス』は、ケイトブランシェットが主演し、深い歴史考証とリアリティの宿ったディテールなどで世界的に高い評価を得た映画です。

私も何十回も観ましたが、何度観ても飽きません。時代は16世紀の終わりごろです。日本では信長の時代です。イギリス王ヘンリー8世がローマカトリックから独立した英国教会を立ち上げ、イギリス国内は新教と旧教の間で血で血を洗う争いになっています。ヘンリー8世の娘のエリザベスは、王位継承権争いと宗教争いの両方の煽りを受け一度はロンドン塔に収監されますが、カトリック教徒のメアリー女王が亡くなったことで王位に就きます。スコットランドにも王位継承権を持つ者がいます。スコットランドのバックにフランスがいます。血縁と宗派で人間関係が複雑に入り組んでいて、誰がどういう順番で王位継承権を持っていて、なんでフランスが絡んでくるのか、調べれば調べるほどよく分からなくなってきます。保元の乱みたいです。

いずれにせよ、エリザベスは王位に就いた後も各方面から反発を受け、命を狙われます。議会にはノーフォーク公があわよくば自分が権力者になろうとしています。国内のカトリックの偉い大司教様もいらっしゃいます。フランス王にもスペイン王にもスコットランドもそれぞれに動機があります。イギリスのEU離脱騒動はこの辺まで絡んでくるので根が深いです。何百年も前のことが未だに影響しています。

この時代、イギリスはまだ強くありません。当時、最も成功しているヨーロッパの国はスペインで、世界の中心はトルコです。イギリスは辺境です。他の国に頭を下げなくては独立を保つことができません。強い国の王家の人と結婚して半分属国みたいにしないといけないというプレッシャーがかかってきます。当時はまだ政治は男性がするものという意識が強いです。女性が政治をすることへの反発もあります。

エリザベスはまず国内の議会を説得します。演説がうまいです。演説の練習をする場面が出てきます。ユーモアと反対者にとっての都合の悪い事実関係を織り交ぜて議論を自分にとって有利な方へと導いてきます。口八丁かというとそういうわけでもありません。常に誠実に自分の考えを言葉に出そうとしています。ただ、相手に伝わる言葉を選ぶために慎重に言葉を選びます。論的からいろいろ言われてさっと切り替えすのは天性の強さです。自分が有利になるために偽りを言うはないです。頭に来たら頭に来たと言います。感情を隠しません。自分に対して正直でいつつ、論敵、政敵、外敵と渡り合います。

王位に就いたばかりのころはまだまだ子供な感じです。戦争したり暗殺されかけたりを繰り返すうちにだんだん強くなっていきます。成長していきます。表情に変化が出てきます。大人の顔になっていきます。強さが出てきます。よくもこんな演技ができるものです。凄いとしか言えません。映画の最後はゴッドファーザー的解決で外敵政敵論敵を一掃します。観客はカタルシスを感じます。外敵の代表はローマ法王庁からエリザベス暗殺の目的で派遣されてきた修道士です。007のダニエルクレイグがその役をしています。この映画の時はまだまだ若いです。007シリーズのダニエルクレイグと比べると、この映画ではまだまだ子どもの顔をしています。今の方がかっこいいです。自分の鍛え方はんぱないのです。きっと。見習わなくてはいけません。

当時、イタリアはすでにルネッサンスですが、イギリスはまだまだ中世です。中世の終わりかけです。映画の雰囲気づくりが半端ないです。それぞれのワンショットが美術館の絵みたいです。中世のイギリスってこんな感じだったんだろうなぁとただただ感嘆するだけです。イシグロカズオさんの『忘れられた巨人』みたいな世界の延長みたいな感じです。役者さんたちの目の演技がいいです。目は口ほどのモノを言います。一瞬の目の動きで多くのことを語っています。一度か二度観ただけでは全部に気づくことはできません。ノーフォーク公に送り込まれた女スパイの目の動きに何度目かに観たときに気づきます。気づくと見事です。はっきりと、気づいた人にはしっかりと分かるように作られています。何十回観た後でも、演出の全てに気づいているかと問われれば不安です。まだまだ気づいていないディテールがあるに違いありません。

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『ラストエンペラー』の孤独の先にある孤独とさらにその先の救い

『ラストエンペラー』は清朝の最後の皇帝であり、後に満州国の皇帝に即位した人物で、日本の関東軍とも深い関係があったことで知られる溥儀の人生を描いた映画です。

映画の前半はずっと紫禁城の内側でのできごとが描かれます。どの場面も一幅の絵のように美しく、現代の我々の生活とは全く異なる別世界が実際に存在したのかのように思えて来ます。実際に紫禁城で撮影されていて、あちこち建物が傷んでいますが、これもいい意味でリアリティを持たせることの役割を果たしているように見えます。少年溥儀は紫禁城から出ることを許されず、巨大な宮殿の中で監禁されているかのような息苦しさとともに成長していきます。唯一心を開いた相手であろう乳母とも引き離され、孤独を噛みしめます。

溥儀と周辺の人たちは将来の清朝の復活を期待しますが、軍閥によって紫禁城を追放され、天津で暮らします。実際には日本疎開にある邸宅を借りて、そこで相当に放蕩したようです。

だんだんお金が無くなっていきます。二人の妻と数十人の従者や元清朝関係者を抱えているにも関わらず、好き放題に贅沢しますので少しずつ追い詰められていきます。蒋介石からは年金が支払われていたはずですが、追い付かなかったみたいです(原作とされるエドワードベアの『ラストエンペラー』では一階をレストランにしたことになっていますが、あまり儲からなかったというか、儲かっとしても、これも消費に追い付かなかったような気がします)。そのような時、第二夫人が離婚を申し出ます。このことは物見高い天津中の新聞に書かれ、溥儀は大きく面子を失いますが、彼のように古代世界から抜け出て来たような人物であっても、20世紀的な人間の悩みやつまづきから自由になることはできませんでした。映画では、「新しい時代の女性」を象徴するかのように、明るい希望に満ちた音楽とともに第二婦人が出ていくところを描いています。深い絆で結ばれていたであろう家庭教師のレジナルドジョンストンは帰国してしまいます(満州国建国後、溥儀は乳母とレジナルドジョンストンを満州に招待していますので、実際の歴史でも溥儀がこの二人を自分の人生にとって必要な存在だと思っていたことが推し量れます)。

溥儀は関東軍に要請されて満州国へと渡ります。清朝復活の希望を託せるからです。しかし関東軍は彼を操り人形としか扱いません。彼の主体的な意思はそこには存在しません。3歳の時に紫禁城に招かれ、その後、一切の主体性を認められずに生きてきた彼にとって、自分が主体的に生きられないことへのもどかしさや怒り、周囲への不信感を抱え、それを増大させていきます。残った第一夫人は運転手と不倫関係になります。運転手は殺害されます。他にも溥儀のことを扱った映画では、運転手が命を絶たなくてはいけなくなるものもありますが、この映画の原作とされるエドワードベアの『ラストエンペラー』では疲れ切った溥儀が男に金を渡して立ち去るように命じただけだったと述べています。実際はどうだったのかは分かりません。殺されてもおかしくないとは思います。エドワードベアの『ラストエンペラー』という作品は東洋人への偏見が少し強すぎるように思うので、どこまで本当のことを取材しているのか私には疑問に思えますが、そういう記述もあるという程度に抑えておきたいと思います。

終戦の時、溥儀は一旦ソビエト連邦に抑留され、その後、中国に引き渡されます。戦犯収容所に入れられ、10年以上に渡る人格矯正を受けます。収容所内での所長と溥儀の会話では、溥儀が「あなたは私を利用しているのだ」という台詞があり、所長は「利用されるのはそんなに嫌なことか」と言います。溥儀は自分が利用対象に過ぎず、人間として尊重されていないと感じ、それが自分の人生でもあるように感じていて、人生に深く失望しています。

溥儀は釈放され、北京で普通の市民の女性と結婚し、文革の最中に亡くなります。映画では最後に溥儀の近くにいるのは彼の弟です。文革の街を二人で歩きます。文革で弾圧されている収容所の所長に再会します。彼は紅衛兵たちに対し「彼は素晴らしい教師なんだ」と訴えますが、押し倒されてしまいます。人生で初めて、全く自由な自分の心から彼は発言し、他人を助けようとします。晩年になって人間性を取り戻したと言うか、ようやく感情、或いは衝動に身を任せるということを手に入れたように見えます。

晩年の溥儀に対しては優しい視線が送られます。映画全体のやたら細部までしっかりしているリアリティ、登場人物の表情や目の動き、身のこなし、どれもが考え抜かれていて、何度見ても「ああ、ここでこんな表情をしていのか…」と今まで気づかなかったことに驚くということがよくあります。それほど、ディテールまでしっかり作りこまれている映画なのだと思います。

主役のジョンローンは香港で孤児として京劇のスクールに拾われ訓練を受けたとのことですが、京劇の基礎と、後にアメリカにわたって訓練された演劇の基礎の両方を持っており(トニー賞を二度受賞)、一つ一つの動きが、一言でいえば美しいです。何度観てもほれぼれするクールな映画です。

細部に於いては史実とは少し違うところもあるようです、溥儀は紫禁城に隣接するようにして建っている父親の邸宅には自転車で行っていたらしいですし、少年時代は電話を好き放題にかけて胡適を紫禁城に呼び出すようなこともしていたようです。弟に命じて紫禁城の財産を天津に移動させていたり(将来を見越してか?)など、わりと自由にできていたところもあったようです。また、坂本龍一が満州国の片腕の陰の支配者甘粕正彦の役をしていますが、実際の甘粕満州映画協会理事長は両腕のある人でしたし、満州国の陰の実力者ということはなかったようです。満州映画協会が工作組織としての一面を持っていたとする指摘もあるようですが、それはおそらく同撮影所で制作したものを上海や台湾などで上映することによる宣伝活動ということではなかろうかと思います。そう考えれば、国策映画会社がそのような任務を負っていたとしても普通に納得できます。

話が脱線しますが、満州映画協会によって台湾を舞台に李香蘭主演の『サヨンの鐘』という映画が撮影されます。台湾人に対する宣伝映画なのですが、未だに全編を観ることができていません。台湾で上映する宣伝映画を満州映画協会が作ったということは、それだけ満州の映画産業が発達していたと見ることもできるため、なかなか興味深い現象だと思います。

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