聖徳太子は蘇我馬子に殺されたのではないかなあと思う件

聖徳太子をとりまく諸現象は第29代天皇の欽明天皇から始ります。欽明天皇の妻の一人に蘇我稲目の娘がいて、その息子が大兄皇子、後の用明天皇になります。聖徳太子はその用明天皇の息子ですから、蘇我氏系の血統をひく人になりますし、実際の政治行動も蘇我氏をタッグを組んでいます。

しかし、用明天皇がそのままストレートに天皇になれたわけではありません。欽明天皇の死後、天皇になったのは敏達天皇で、敏達天皇は蘇我氏の血をひいていませんので、パワーポリティックスとしては蘇我氏にとって不利な状況が生まれます。敏達天皇はわりとバランスの感覚のある人、悪く言えば「そうせい様」みたいな人で、当時の二大豪族だった蘇我がみ氏と物部氏がそれぞれに矛盾する要求をするたびに許可を与え、どっちか勝った方の味方をするみたいな姿勢が見られます。

転機は敏達天皇の崩御の時に訪れます。欽明天皇の息子には穴穂部皇子という人物がいて、次の天皇は俺だと思っていたのですが、蘇我馬子の後押しでもう一人の兄弟の用明天皇が即位します。蘇我氏の血をひく天皇の誕生ということになります。怒った穴穂部皇子は蘇我氏とのカウンターパートである物部守屋と同盟しますが、用明天皇の死後、諮られて穴穂部皇子は蘇我馬子に殺害されます。蘇我氏は同じ年に穴穂部皇子と同盟関係にあった物部守屋も滅ぼし、基盤を確実なものとし、蘇我稲目の血をひく崇峻天皇を即位させることに成功します。二代続けて蘇我氏の血統の人物が天皇になったのですから、もはや万全。事実上蘇我氏の天下です。

ところが思わぬ事態方向へ事態が展開します。崇峻天皇が蘇我氏の天下に不満を持っているということが世の中に広まり、蘇我馬子は決心して崇峻天皇を殺害します。それ以前にも安康天皇が眉輪王に殺害されたり、仲哀天皇が九州で暗殺された可能性があるように、天皇殺害の例がないわけではありません。ただ、誰もが実在を認める第26代天皇の継体天皇以降での天皇殺害、実際に起きたとされる天皇の殺害はこれが最初の例です。そして分かっている限りでは実際にその地位にいる天皇が殺害されるのはその後もなく、崇峻天皇が殺害されたのが唯一の例と言えます。

何が言いたいかというと、蘇我氏にとって都合の悪い人物は次々に殺されているということです。ちなみに崇峻天皇殺害の実行犯である東漢駒もその後に殺されています。その名前から大陸と関係のある人物だったのではないかという想像が可能で、蘇我氏が渡来人であった可能性を示唆する傍証になるのではないかと思います。

崇峻天皇の次に天皇になるのは誰かということで、蘇我氏の系統で後の推古天皇の息子の竹田皇子が即位することが期待されていましたが、どうも若い時に死んでしまったらしく、物部氏との戦争の時に戦死したのではないかという説もありますが、ちょうどいい人物がいなくなってしまい、実在していたと一致して認められる天皇の中で初めて女性の天皇が誕生します。推古天皇です。

さて、これによって蘇我氏の血を引く推古天皇がトップに立ち、実際の政治はこれまた蘇我氏の血を引く聖徳太子が摂政になり、そして蘇我氏本宗家の蘇我馬子が現実的パワーの裏書きをするという、3人によるトロイカ体制が成立します。天皇家の権威と蘇我氏の実力が合同した古代日本で初めての非常に安定した政権と言えます。実際に聖徳太子は蘇我氏の念願である仏教の普及に力を注ぎ、法隆寺は建てるは四天王寺は建てるは、仏法僧を大事にしろと憲法に書くは、それはもう蘇我氏の言いなり。こんなに都合のいい摂政はなかなかいません。便利なことこの上ありません。

ところが系図を見ると分かるのですが、推古天皇は用明天皇の皇后であり、聖徳太子は用明天皇の息子ですから一瞬、万事目出度しかなあと思わなくもないですが、聖徳太子は推古天皇の息子ではありません。用明天皇が蘇我氏の系統の他の女性に産ませた子どもです。果たして、気分良く聖徳太子に政治をさせていただろうかという疑問が湧いて来なくもありません。ましてや、本当の自分の子どもである竹田皇子は物部氏との戦争で死んでいて、一緒に従軍していた聖徳太子が生き延びて摂政になって、将来は天皇になるなんて、なんか話がおかしいじゃないかと思うかも知れません。そう思っても不思議はありません。推古天皇は死後に竹田皇子との合葬することを望んでいましたから、彼をとても愛していたことが分かります。また、トロイカ体制というのは時に脆く、ちょっとしたきっかけで崩れてしまうものです。

聖徳太子は蘇我馬子と協力して『国記』『天皇記』を書き残していますが、現在は失われてしまい内容は分かっていません。残っていれば、『古事記』『日本書紀』以上の貴重な書物として歴史の教科書に載るくらいのものだと思いますが、蘇我氏の邸宅に残されていたものが、蘇我入鹿殺害後に入鹿の父親の蘇我蝦夷が自宅に火をつけて自殺してしまったため、内容は全く分かっていません。蘇我氏との協調で書かれている以上、蘇我氏に都合のいい内容になっていたであろうことは想像に難くありませんが、624年に蘇我馬子から葛城の土地を所望されて断ったというエピソードがありますので、推古天皇はどこかの段階で天皇家が事実上蘇我氏のものになって、自分の子どもではない聖徳太子が天皇になるという筋書きを拒否する決断をしたのではないかと思えてきます。

その前に聖徳太子は斑鳩に引っ込んでしまい、葛城の土地を譲る譲らないのもめ事が起きる前の622年に死んでしまいます。ただ、亡くなる前から自分の死期を予期しており、ナンパして連れて帰ってきた三番目の奥さんもほぼ同時期に亡くなっています。普通、夫婦が同時期に亡くなることはありません。少なくとも自然死でそういうことは考えられません。三番目の奥さんですから、年齢の差がある程度あったと考えられますので、ますます同時期に死ぬことは自然死ではなかった、事故か自殺か他殺のいずれかで、当時の自殺は自殺を強いられる、即ちほぼ他殺と言っていい場合が多いですから、自殺だったとしてもそれを強要された可能性が残されます。聖徳太子を死に追い込めるだけのパワーのある人物が当時いたとすれば、蘇我馬子以外には考えられません。ついでに言うと、聖徳太子が亡くなった後に前述のような土地問題が出て来たということは、当初はうまくいっていたはずのトロイカ体制が、聖徳太子を排除した後に天皇家と蘇我氏が互いに新しい敵として意識し始めていたことも示唆しているように思えます。

蘇我入鹿が後に聖徳太子の息子の山背大兄王とその家族をことごとく殺害するという事件を起こしていますが、この経緯を考えると蘇我馬子が権力維持のために、竹田皇子が死んだおかげで摂政になった聖徳太子に対して不満を持つ推古天皇と連合して聖徳太子を殺したという筋書きがあったとすれば、その息子の山背大兄王が殺されることも流れとしては矛盾しません。その家族までことごとく命を落としたわけですから、そこに深い遺恨があったか、生存者がいると非常に困るという事情があったかを推量することができます。

以上のように考えると、聖徳太子はいずれかの段階で推古天皇に見捨てられ、蘇我馬子に裏切られて殺された。その息子は蘇我入鹿に殺されたという何とも恐ろしいストーリーが見えてきます。わー、こえー、と自分で書いていても思います。

聖徳太子という称号は後に贈られたもので、生きていた当時は厩戸皇子です。馬小屋で生まれたからそういう名前になっているということですが、まず間違いなくネストリウス派キリスト教の影響を受けたものと思います。当時は仏教が最新の思想として日本に入ってきていたわkですが、一緒にネストリウス派キリスト教も教義はともかく物語としては入ってきていたことが想像できます。後に書かれる『古事記』には天照大神が洞窟に隠れることで太陽が消えてしまうというエピソードがありますが、福音書ではイエスが十字架にかけられた時に日蝕が起きたとされていますので、そこに影響関係を見ることも不可能ではないかも知れません。

『日本書紀』の記述では聖徳太子(呼称はまだ聖徳太子ではない)は天才的な人物で、未来のことは予見できるは、十人の話を同時に聞ける派で超能力者みたいな人ですが、これもイエスの奇跡物語みたいなものに作り上げたいと言う意図によるものではないかと考えることもできます。

最後の疑問として、何故、聖徳太子がかくも神格化されたのかということですが、『日本書紀』には天皇の強さを示すために乙巳の変について書き残し、天皇の地位の簒奪を目論んだ蘇我氏を悪役として書かなくてはいけません。結果として蘇我馬子に殺された人物をイエス並みに神格化することを選んだのではないか、更に言えば当時の人は聖徳太子が死んでから数十年しか経っていませんので、事実関係の記憶の伝承はまだ生々しいものがあり、その悲劇性も手伝って、より意図的に神格化する方向に向かったのではないかなあと思うのです。

仮説です。想像です。個人的見解です。
関連動画



関連記事
継体天皇はどれくらい正統性があるかなあについて考えてみる
雄略天皇は実在したんじゃないかなあと思う件
神武天皇は実在したのかなあ、どうかなあ…の件

継体天皇はどれくらい正統性があるかなあについて考えてみる

第26代天皇の継体天皇は実在したことで異論の出ない最初の天皇です。問題はこの人に天皇の称号が贈られる資格があったかどうかです。悪質な政権の簒奪者であったのか、それとも正統な継承者であったかどうかということに興味が湧いてきます。

ポイントとしては2つあるように思います。まず、第25代天皇の武烈天皇が亡くなった後、他に適切な継承者がいなかったというのはどういうことかということです。そしてもう一つは、継体天皇は第15代天皇の応神天皇の子孫で越前で五代にわたって暮らしていたということなのですが、そんなに血の遠い人に資格はあるのか、またはそもそも本当に応神天皇の子孫なのか、もうちょっと言うと応神天皇って本当にいたのか、更につっこめば応神天皇が実在したとしても本当に仲哀天皇の息子なのか。あたりの血統の正統性です。

武烈天皇については日本書紀で相当に悪い人物だったと記されています。妊婦のお腹を引き裂いて子どもを取り出させたなど、人間性に問題があった、ほとんどサイコパスみたいな人物だったとされています。一方の古事記にはそういうことは書かれていません。古事記はストーリー性重視で国内向け、日本書紀が編年体で外国向けだったとする考えに従うとすれば、古事記の読者に対してはそんな不体裁なことは告げられないけれど、日本書紀の読者、即ち外国人に対しては、懸命に継体天皇の系統の正統性を主張していると受け取ることが可能なように思います。

その武烈天皇ですが、男の子がいなかったので、越前にいる血のつながりの遠い人物を探してきて請うて継体天皇に即位してもらったということになってはいますが、もうちょっと血のつながりの濃い親戚とかも含んで一切適切な男性がいなかったというのは、不自然ではないかなあと思います。まとめて殺されたのでないか、ある種のクーデターが起きたのではないかという想像が働かないわけでもありません。

想像を逞しくするならば、眉輪王が安康天皇を殺害する事件を契機に有力豪族の葛城氏が雄略天皇によって滅ぼされますが、雄略天皇と武烈天皇の同一人物説があり、それをとるならば、雄略=武烈時代に天皇家と周辺豪族の抗争によって適切な人物が死に絶えてしまったという想像も不可能ではありません。ただ、雄略天皇は葛城氏に勝利していますので、武烈天皇の系統が絶えてしまったこととは矛盾します。この辺は推量するしかできませんので、いくらでも仮説をこねくり回すことはできますが、はっきりはしません。

葛城氏の滅亡後は蘇我氏が台頭し、推古天皇の時代に推古、聖徳太子、蘇我氏の連合政権みたいなものができていきますが、蘇我氏は渡来人の可能性が指摘されており、継体天皇の出身地の越前が朝鮮半島との主要な交易ルートの一つだったとすれば、継体・蘇我連合が大和朝廷を簒奪したという想像を働かせることも不可能ではないように思います。蘇我氏全盛の祖となった蘇我稲目は継体天皇の後の時代に出世していますので、矛盾はしません。物部氏は旧来から大和朝廷の内部にいた立場だったため、蘇我馬子によって滅ぼされることで旧来の勢力が最終的に一掃されたという筋書きも考えることができます。ほとんど想像ですので「お前の言っていることは穴だらけだ!」と言われたら素直に認めます。

以上のような想像を積み重ねてみると、雄略天皇の時代までは天皇家と葛城氏の協力関係によって維持されていた大和朝廷がある種の仲間割れを起こし、葛城氏は滅んだものの力の空白が生じてしまい、これをチャンスと見た蘇我氏が雄略またはその子孫を絶やし、継体を連れて来たということもできます。継体天皇は即位後20年間大和に入っていませんが、要するに地ならしができておらず、入れなかったと考えることができ、20年間、誰かが敵対する人を根絶やしにして、ようやく準備が整って大和に入ったと見ることもできます。実は即位についても後から先に即位していたということにしていて、本当は大和に入ってから即位できたのかも知れません。仮説です。仮説。想像です。

そうは言っても、もし、継体天皇が本当に応神天皇の子孫なのかどうかという疑問は残ります。これはもう議論のしようがありません。言い張られたら「そうですか」と言うしかありません。

とはいえ、継体天皇の皇后は雄略天皇の孫娘であり、武烈天皇の妹です。仮に雄略=武烈であったとしても、天皇家の血を引き継いでいる人ですので、もし女系がオッケーだとすれば、継体天皇がにせものだったとしても問題はありません。応神天皇が仲哀天皇の息子ではない可能性が残りますので、もしそうだとすればその子孫の雄略天皇の正統性にも疑問が呈されてくるため、雄略天皇の孫娘の正統性にも響いてはきますが、応神天皇を産んだ神功皇后が天皇家の外戚の息長氏の出身ですので、女系もオッケーということにすれば、どうにかつながります。個人的には天皇家が男系であるべきか女系であるべきか、両方オッケーかということについて意見はありません。以上は全て思考の体操です。





関連記事
神武天皇は実在したのかなあ、どうかなあ…の件

雄略天皇は実在したんじゃないかなあと思う件

一般に第26代天皇の継体天皇の実在については議論がありません。概ね実在したことで一致しています。問題は継体天皇の正統性で、厳しい意見では継体天皇が最初の天皇で、それ以前の天皇は正統性を主張するためのねつ造だと議論する人もいるようです。

初代の神武天皇は、一旦、議論しないとして、2代目から9代目までの天皇は実在しなかったと考えられていて、いわゆる欠史8代と言われます。さて、果たしてどの天皇から以降は実在の人物で、どの天皇から前は実在しなかったのかということについてはわりと興味が湧いてきます。どのような議論をするとしても、継体天皇で充分古いので、別にそれでもいいとも思いますが、もしかするともう少し以前から、天皇はいたのではないかなあという気がします。「継体天皇が最初」というのはある意味では分かりやすすぎて、思考の体操としてはおもしろくありません。

個人的には21代目の雄略天皇は実在していたのではないかなあと思います。理由は簡単で、万葉集の一番最初の歌が雄略天皇のものだとされているからです。昔のことはこの目で見ることができませんし、証言してくれる人もいないわけですから、その痕跡を見ていくしかありません。「その痕跡もねつ造だ」みたいな話をしたらちょっと粗雑すぎる気がしますし、何と言っても思考の体操になりません。

万葉集そのものは信用のある和歌集なわけですから、その一発目に登場するということは、奈良時代の人にとっても実在に疑問はなかった、神功皇后みたいにちょっと触れるには憚られる、みたいなことはなかったのだということではないかと思います。

さて、その雄略天皇の詠んだ歌ですが、

籠もよ み籠持ち 堀串もよ み堀串もち この岳に 菜摘ます児
家聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて
われこそ 居れ しきなべて われこそ座せ われにこそは 告らめ家も名も

以下意訳です。
君、名前なんて言うの?家どこ?
俺、天皇。この国の支配者。凄くね?

ということですので、要するにナンパの歌です。聖徳太子もナンパしてますので、ナンパしていたことには別に問題もなければ文句もありませんが、額田王が威勢のいい戦意を鼓舞している歌も残していることを思えば、もし仮に雄略天皇が実在していなくて、それでも実在したことにしたくて、万葉集のデフォで載せたということならば、もうちょっと英雄的な歌を創作してもよかったかも知れません。それに万葉集が本気で苦労に苦労を重ねて時間をかけて編纂されたということに異論のある人はいないでしょうから、小手先の創作もちょっと考えにくいかなあと思います。

以上のような理由で、雄略天皇は実在したんじゃないかなあと私は個人的に思います。個人的な見解です。


関連記事
神武天皇は実在したのかなあ、どうかなあ…の件
仲哀天皇と神功皇后
天皇の「語源」

神武天皇は実在したのかなあ、どうかなあ…の件

初代天皇は神武天皇ということになっていて、神武天皇が即位したとされる奈良県橿原市に橿原神宮があります。橿原神宮には行ったことがないですが、神武天皇が東へ向けて出発したされる高千穂には行ったことがあります。九州には高千穂という地名が二つあって、一つは宮崎県のわりと内陸の方にあって、もう一つは鹿児島県と宮崎県の県境にある山の上で、私が行ったのは前者の方です。どっちが本当の高千穂かというのは議論としてはおもしろいと思います。

梅原猛先生が、(前者の方の)高千穂地方は飛鳥地方に雰囲気が似ているから、そっちが本当の高千穂だったのではないか、みたいなことを書いていらしたのを読んだことがあります。私も飛鳥地方に行ったことがありますが、確かに雰囲気が似ている感じがします。当時は山に囲まれた平野は安心感がある上に域内の移動も楽なために、好まれたのかも知れません。

さて、問題は神武天皇が実在したかどうかという点です。もちろん、神武天皇という称号は後の時代になって贈られたものですから、当人が「自分は神武天皇」だと自覚していなかったはずですし、そういう意味では存在しなかったということもできます。とはいえ、一方で、神武天皇に関するエピソードには具体性があります。船団に乗って大阪平野に向かい、現地の抵抗が激しかったので一旦撤退し、和歌山の方から上陸して八咫烏の先導で大和平野に入ったという紆余曲折の物語には根も葉もないとは言い切れない具体性が感じられます。トロイ戦争がただの創作ではなかったと考えられているのと同じような感じです。大阪平野は水に恵まれた地域ですから、もしかすると当時、わりと豊かで、人口も多く、強い豪族がいたのかも知れません。

そういう意味では、神武天皇のモデルになった人物なり、出来事なりはあったのではないかなあと思います。もし、そうだとした場合、どうして九州の土地をすてて近畿地方に行かなくてはいけなかったのかという疑問が湧いてきます。日本を支配するのに近畿地方の方が便利だからという説明は、近畿地方が日本の中心だという概念がなければ成立しませんので、大和朝廷が充分に力を持って確立された後になされた説明のように思いますから、今一つ、納得できません。

神武天皇の勢力が強くなって九州から近畿まで全部支配したんだぜ。という説明も可能かも知れませんが、日本武尊が後に九州征服戦争に出かけたり、継体天皇も九州を攻めていますので、大和朝廷の力は当初は九州に及んでいなかったと見るべきですから、そうすると、神武天皇は九州にいられなくなった、言い方は悪いですが、東の方へ敗走して行ったと考えることもできなくはありません。

神武天皇はやたら長生きしていますので、一人の人物のことだけを指していたとはちょっと考えにくいのですが、やはり、まあ、モデルになったことはあったのだろうと思います。




関連記事
仲哀天皇と神功皇后
天皇の「語源」
雄略天皇は実在したんじゃないかなあと思う件

仲哀天皇と神功皇后

戦前は天皇の名前を初代から全部覚えさせられたそうですから、戦前の教育を受けた人は仲哀天皇の名前も知っています。ただ、戦後は大和朝廷の歴史は推古天皇あたりから習うことが多いと思いますので、仲哀天皇という名前はほとんど誰も知らないと思います。福岡県の香椎宮に行くと、仲哀天皇と神功皇后のことが立て看板なんかに書いてありますから、私は以前、その立て看板で始めて名前を知り、でも唐突過ぎてなんのことか分からず、しかし関連する書物を読んだりしてだんだんイメージできるようになった、誰なのか自分なりに言えるようになった感じです。

仲哀天皇と神功皇后はともに九州に行き、朝鮮半島征服作戦を計画します。どうも神功皇后が乗り気だったのに対し、仲哀天皇は乗り気ではなく「やっぱやめよう」みたいなことを言いだし、しばらくして九州で亡くなってしまいますので、主戦派に殺されたのではないかという意見もあるようです。私も個人的に、もし仲哀天皇が実在したとしたら、殺されたんじゃないかなあと思います。

話しが複雑なのは、仲哀天皇の父親は日本武尊だということです。日本武尊は九州に征服戦争に出かけたり、東日本に征服戦争に出かけたりして、どこまで本当のことかよく分からない、実在したのかどうかもちょっとどうかなあという感じの人です。行軍中に山を見て、「歩くのが大変だからあそこまで飛びたいなあ」と言ったことから飛騨という地名がついたとか、敵の攻撃に傷ついて鳥になって帰ってきたとか、そういうエピソードのある人ですが、複数の人の業績をまとめたのではないかとも言われていますので、もし仲哀天皇が実在したとしても、いろいろと複雑な人間関係が絡んで即位した人なのではないか、もともと嫡流ではなく、そのうえお母さんの実家に力が無くて後ろ盾が弱いから戦争反対と言ったら殺されたのではないか、というような想像もしてしまいます。

もう一歩話が複雑になるのは神功皇后の出産です。仲哀天皇が亡くなった後、神功皇后は朝鮮半島へ出征し、華々しい戦果を挙げて帰ってきたことになっています。史実かどうか疑問視されていましたが、大陸で広開土王の碑が見つかり、日本が攻めてきた書いてあるので、これが神功皇后のことだとする考えがある一方で、広開土王の碑改竄説もあるので、なんのこっちゃらよくわからん、みたいなことになっています。それはそうとして、神功皇后は戦争が終わって帰ってきて九州で仲哀天皇の子どもの応神天皇を出産します。でも、計算が合わないらしいのです。どうも、父親は誰かはっきりしないみたいなのです。「万世一系はどうなったのよ…」という疑問が残ります。

仮定のことをいくつか積み上げないといけないのですが、仮に仲哀天皇が実在したとして、神功皇后の出産が計算が合わないとして、天皇万世一系が大前提で、神武天皇もちゃんと実在していて、その男系が天皇の絶対条件だとした場合、神功皇后のわりと早い段階で男系が崩れていたことになってしまいます。ちょっとやばいです。ただ、仮にそうだったとしても、神功皇后は息長氏という天皇家の外戚の家の出身で、系譜をたどれば開化天皇に辿り着くということですから、女系天皇もオッケーということなら、別に問題ないということになります。女系天皇がありと思うかなしと思うかは考え方の分かれるところでしょう。以上は思考の体操みたいなものです。


関連記事
天皇の「語源」
神武天皇は実在したのかなあ、どうかなあ…の件
雄略天皇は実在したんじゃないかなあと思う件

天皇の「語源」

天皇という称号がそもそもの初代の天皇から使われていたわけではないということは周知のことと思います。一般的には40代目の天武天皇が初めてその称号を用いるようになり、遡って初代まで天皇の称号を贈ったとされています。35代目の皇極天皇の時から天皇という称号が使用されていたのではないかとする推論もありますが、これはどちらが正しいかは簡単には判断できません。変な言い方になりますが、どちらでもいいと言えば、どちらでもいいことのようにも思えます。

しかしながら、「天皇」という称号を用いることにしたというのは興味のあることです。道教では北極星を「天皇大帝」と呼びますが、天皇という称号はそこからとったのではないかとする考えが有力ですし、聖徳太子の時代には道教も仏教もネストリウス派キリスト教のことも日本人は知っていたと思いますから、「天皇」という概念を天武天皇の時代には当然知っていたと思えば、普通に考えて天皇大帝という北極星に対する呼称を使用したということでいいのではないかなあと思います。

もう一歩進んで興味深いなあと思うのは、日本ではそもそも昼間に見ることのできる太陽を信仰の対象にしていて、天照大神も太陽神なわけですが、北極星は夜に見ることのできるものですから、昼間の自然現象に対する信仰と夜間の自然現象に対する信仰が混合しているように思えることです。

ここは個人的な印象になりますが、太陽信仰には無邪気な、あるいは天真爛漫な自然への信頼があるように感じます。泣こうと笑おうと太陽は毎日東から出てきて、植物にエネルギーを与え、人々に光と温もりを与えます。この圧倒的で動かしがたい事実は、古の人が自分たちは自然に生かされているという実感から生まれたのではないかという気がします。一方で、夜間に見える星には「運命」という言葉がついてくるように思います。好運の星、不運の星などの言い方があったり、巨星堕つ、のような言い方があったりするように、人生に於ける幸福と悲劇、占うことによって悲劇を避け、好運を呼び込もうとする願いがあるように感じられます。人間の運勢を支配する自然に対する畏怖があり、星が互いに相関関係を持っているのと同様に人間にも相関関係があって、悲喜劇がもたらされるという発想のようなものを感じます。生きることの暗い部分、辛さや悲しみにも注目しているとも言えると思いますが、そのような中で、夜空に浮かぶ不動の北極星から「天皇」という言葉を選んだのには、天皇の他の豪族に対する政治的な優位、それも絶対的な優位を示そうとする意思があったと感じられます。

仮に天武天皇が最初に天皇という称号を用いたことが本当だったとすれば、時代的には白村江の戦いの後ですから、当時の日本は敗戦後ということになります。敗戦後に唐と外交するにあたって、北極星を自称するわけですから、それだけ独立性を持った権力であるということを示す意図もあったかも知れないとも思います。

北極星を選んでシリウスを選ばなかったのはなぜか、みたいなことを考えるのもおもしろいかなあと思います。勉強不足ですので、いつかどこかでそういうことを知ることも知ることができればいいなあと思います。


関連記事
神武天皇は実在したのかなあ、どうかなあ…の件
仲哀天皇と神功皇后
雄略天皇は実在したんじゃないかなあと思う件

台湾映画『軍中楽園』の冷戦と外省人

台湾映画の『軍中楽園』は1960年代前半の金門島が舞台です。中国と台湾の緊張関係が今よりも遥かに張りつめていた時代のことです。金門島は中国大陸のアモイまで僅か一キロ、国民党が台湾に渡って以来、台湾防衛のために守り抜いた最前線の拠点です。私は行ったことはないですが、金門島には今も中国側から打ち込まれた弾丸の破片があちこちで掘り出され、弾丸の破片を利用して作った包丁が鉄の精錬がいいので名産品になっているというそういう島です。

若い兵隊が金門島へ送られます。当時は徴兵制度が今よりもずっと厳しく、青春を犠牲にする、変な言い方ですが当時の台湾人にとっては大人になるための通過儀礼のような感じだったかも知れません。主人公の兵隊は泳ぎができないので最前線の兵士としては不向きとの烙印を押されてしまい、兵隊たちの相手をする「慰安所」の下働きの部署に入れられます。修理したり洗濯したり、場所が場所ですからもめ事があったら割って入ったりといった仕事をします。「兵隊」的な観点からすれば戦力外通告を受けたも同然ですからメンツはないですが、徴兵の間、とにかく拘束されるという前提に立てば、多分、楽な仕事と言っていいかも知れません。

そういう場所ですので、女性たちがたくさんいます。男ばかりの兵隊たちと花やいだ女性たちの対比が見事です。映像もきれいでよくできた映画だと思います。若干冗長な、或いは緩慢な気もしましたが、台湾映画はじっくりゆっくり画面を回すのが好きなので、そういう意味では展開の早い方の映画だと言えるようにも思います。驚くほど美しい女優さんがたくさん出てくるので、ちょっとうっとりしもします。

主人公の兵隊は外省人の上官と仲良くなります。蒋介石と一緒に台湾に渡ってきた古強者、歴戦の兵士です。中国語の発音も国民党の老兵らしいなまりかたをしていて、大変リアルにできています。主人公は本省人で、果たして当時の彼のような立場の人がここまで完璧に正しい北京語の発音ができたかという疑問はさておき、登場人物は話し方や発音でその背景が分かるというのは台湾映画を観る時の醍醐味の一つと言えるような気がします。

上官は大陸の故郷のことを話します。大陸に残してきたお母さんのことを話します。台湾に渡ってきた国民党の関係者の親族離散が語られます。金門島は残された冷戦の最前線であり、世界注視の的であり、しかし誰もが日常では忘れてしまっている悲しい場所とも言えます。外省人は悪い語られ方をされることが多く、その悲しみや苦しみを聞かされることは少ないですが、この映画ではそれを多いに語っています。私は別に誰の味方をするわけでもないですが、様々な視点を知るという意味では、そういう語りにも触れたいと思いますので、その点からも有意義な映画です。

この映画の主人公は勤務内容がそういうものですから、当然、女性たちとの接点も多く、プラトニックな関係も生まれてきます。徴兵で金門に行っていたという台湾人の男性に何人か会ったことがありますが、戦争が起きたら死ぬかも知れないわ、ただただ男だけの世界でいじめもあるわで大変だったらしいですから、たとえプラトニックとは言え、毎日女性たちの世話をしていた主人公の姿を見て「この野郎…」と思うかも知れません。ただ、現代の台湾は当時とは全然雰囲気が違いますから、この映画のような設定の方が台湾の観客の感性に合うということはあるかも知れないとも思います。いい映画ですので、日本でも公開されるなり字幕がついてDVDになるなりされてもいいと思います。



関連記事
映画『台湾人生』の日本語世代と向き合えるか
台湾映画・エドワードヤン監督『牯嶺街少年殺人事件』の牯嶺街に行った話


赤坂憲雄『ゴジラとナウシカ』の戦後

ゴジラは怖い存在ですが、切なく、悲しい存在でもあります。自分のネイチャーに従い、ただ上陸したいから上陸しただけなのに忌みものとして憎まれ、攻撃され、映画を終わらせなければならない関係上、撃退されます。ネイチャーに従っているだけなのに排除されるという意味では『リロ・アンド・スティッチ』と同じであり、一応、首都を狙ってやってくるという意味ではエヴァンゲリオンの使徒とも共通していると言えるかも知れません。実相寺昭雄監督のウルトラマンの怪獣たちが、ただ存在するというそれだけの理由で排除されるのと同様の哀しみを帯びた存在です。

『ゴジラとナウシカ』では、著者はゴジラは太平洋戦争で戦死した兵隊たちの化身だと指摘しています。死んだ兵隊たちのことを忘れ、復興に忙しい日本人に何かを訴えたくてゴジラとなり、敢えて東京を狙ってくるのです。それゆえにゴジラの鳴き声はかくも切実なのだとも言えるかも知れません。また、ゴジラは原子力を象徴しています。これはもはや言うまでもないことです。「原子力の平和利用」が説かれる中、過去を忘れるなかれとゴジラは訴えてきているとも言えそうな気がします。

著者はアメリカ版のゴジラのことも取り上げますが、決して日本人にとってのゴジラとは相いれないと指摘します。何故なら日本人には空襲の記憶があり、日本人にとってそれは東日本大震災と同じく無力に立ち尽くし言葉を失くす他ない体験と同じものであるのに対し、アメリカ人にとってのゴジラものは単なるSFや娯楽の類にすぎず、決してゴジラの秘めたメッセージを受け取る、または再現することはできないとの指摘です。

風の谷のナウシカに登場する巨神兵もまた原子力を象徴しています。漫画版のナウシカでは巨神兵はナウシカを母親だと信じて慕い、ナウシカは巨神兵に命じて新しいけがれなき人類の卵を破壊させます。けがれを背負って生きる。或いはけがれを持つからこそ命と言える、そういうメッセージがナウシカにはあると思いますが、もう一歩進めて言うならば、新しい人類の卵を破壊したナウシカはある種の原罪を抱えることになり、人という存在そのものを代表しています。

ゴジラと巨神兵はともに人の原罪を背負う哀しみと切なさを全身に刻まれた存在だということで共通していると言うこともできるかも知れません。

著者の赤坂憲雄さんの文章は透徹していて無駄がなく、それでいて情感に充ちていて美しいです。読みやすいのですらすらと読んでしまいますが、敗戦と東日本大震災を経験した日本人にとって軽々には片づけられない思いテーマを扱っていますので、読む側が意識して立ち止まり、考え、また読み進めるということをしなくてはいけません。こんな文章が書ける著者を素直に尊敬します。


関連記事
クシャナの後ろ姿

下高井戸で甘美なひと時を過ごした件

下高井戸がとても好きです。庶民的かつ交通至便。私にとって理想のエリアです。映画を観るなら下高井戸シネマがあります。一度経営的に破綻しましたが、今また復活しています。下高井戸シネマには心から感謝しています。他では観れない映画をいろいろ上映してくれます。本当に目利きの方が映画を選んでくれています。

お酒を飲むなら紅とんがあります。安くてとてもおいしいです。モツ煮が名物です。焼酎も出してくれます。お店で働いている人の元気がいいです。孤独に黙々と飲食するのに適した場所と思います。

個人的に特に愛しているのは京王線下高井戸駅改札前のパン屋さんのフロマンドールです。パンとコーヒーを買って座席でぼんやり過ごしたり、本を読んだりするときが至福です。パンもおいしいですが、冬にはスープも頼みます。お店の人の感じがいいです。座席で幸せそうにおしゃべりしている人を見かけると私も幸せな気持ちになります。

京王線下高井戸駅改札前のパン屋さんフロマンドール買ったコーヒーとパン。今回は甘いものがほしかったのでアンパンです。
京王線下高井戸駅改札前のパン屋さんで買ったコーヒーとパン。今回は甘いものがほしかったのでアンパンです。

世田谷線の終点の駅です。以前は文字通りのチンチン電車で、本当に味わいがありました。大正の終わりごろに開通した路線で、当時は東京の地下鉄建設がいよいよ本格的になってくるという時期ですから、まさしくモダン東京の名残りをとどめてくれています。今は車輌がデラックスになっていますが、それはそれでかわいくていいと思います。よく下高井戸から豪徳寺まで歩いてそれから三軒茶屋まで世田谷線に乗ったりします。そういう時はとても楽しいです。

世田谷線下高井戸駅近くで撮影した空の写真。個人的には電柱と電線がいい味を出してくれていると思います。
世田谷線下高井戸駅近くで撮影した空の写真。個人的には電柱と電線がいい味を出してくれていると思います。

駅を降りて北へ向かってちょっと歩けばすぐに甲州街道です。自転車で新宿まで行くことも可能です。二子玉川江ノ島と同様にとても好きなエリアです。



関連記事
下高井戸のラーメン大に行った話

台北の故宮博物院に行った話

台北の故宮博物院には蒋介石が台湾に脱出した際に、北京の紫禁城から多くの美術品を台北に移動させたため、中国美術について知りたい人にとっては欠かすことのできない、マストなスポットだということは周知のことだと思います。

全部見るにはとてつもない時間がかかることでも知られていますが、大体有名なのは白菜の形や肉の形をヒスイや玉のコレクションあたりではないかと思います。嘉義の方に南館ができて、有名なものの一部はそっちへ移動しており、そちらの方への観光客を誘導したいのかなあとも思いますが、それでも台北の故宮博物院が欠かせないスポットだということは変わりないことだと思います。

夏、殷、周、春秋戦国あたりの古い時代から、中華民国の時代までの幅の広いコレクションがあり、私は個人的には清末民初期の中国近代に関心があるので、そういう時代のものも見られるのがいいなあと思います。

以前行った時は袁世凱が溥儀に宛てて書いた「私に皇帝の座を譲ってくださってありがとうございます」というトリッキーな手紙があっておもしろかったのですが、今回はそれを見つけることはできませんでした。ただ、清末期はヨーロッパの影響を受けたこじゃれた感じのベルサイユ風な陶器が作られたり、西洋からの輸入品もあったりで、個人的にはそういうのも面白いです。

p1000135

p1000138

p1000150

恭親王奕訢(えききん)の居室が再現されているのは、初めて行った時から同じで、ある意味では懐かしいようないい感じの展示です。
p1000151

博物院まで行くのがちょっと遠くて、士林駅からバスに乗り換えなくてはいけないのですが、もともとそのエリアは国民党の偉い人やお金持ちが集まって暮らすような感じの地域なので、作られた当初の人にとってはこれでいいのかも知れません。また、山に囲まれたエリアなため、わりと深山幽谷な雰囲気が漂っており、中国古来の山の景色を愛する美意識に合っている場所だと考えることもできるかも知れません。

近くには原住民博物館があるので、文化人類学や民俗学みたいなことに関心のある人にとっては一回足を運んだだけで両方見れるのでお得感があるようにも思います。別館では企画展で西洋絵画の展覧会をやっていたりするので、もし、そういう企画が開かれている時期に行くことができると更にお得です。

青磁とか白磁とか書画骨董とかいろいろあって、目を肥やすにはいいはずなのですが、私は何度見ても骨董については見識があがりません。もっとがんばりたいと思います。
p1000147

スポンサーリンク


関連記事
台北の中正記念堂に行った話
台北101ビルの展望台にのぼった話
台北の大稲埕エリアを歩いた話