映画『シュウシュウの季節』と文革

文革を激しく批判する作品です。中国国内では上映禁止らしいです。監督も原作者も出演者も中国人で、使われている言葉は中国語ですが、分類としては「アメリカ映画」になるらしいです。監督のジョアンチェンはアメリカの市民権を得ていますので厳密には「監督は中国人」と言ってはいけないかも知れないですが、そういう複雑な背景を持つ映画です。ついでに言うと、ジョアンチェンは『ラストエンペラー』や『ラストコーション』に出演している女優さんです。

成都で暮らすシュウシュウという女学生が下放運動によって地方に送られます。彼女はそこで遊牧生活をすることになります。遊牧キャンプをやっているおじさんがいて、シュウシュウの面倒を見ます。

シュウシュウはなんとかして成都に帰りたいと思っていますが、一向に方法がありません。唯一の手段は成都につてのある男に身を任せ、どうにか糸口を掴むことだけだと彼女は思い定めます。最初の男が来てから後、何人もの男が入れ代わり立ち代わりにやってきて、彼女の体を好きにします。おじさんは手をこまねいて見ていることしかできません。その様子は、それはもう酷いもので、映画なのに見ていられません。シュウシュウはに「男は成都へ帰るための鍵」と言いますが、成都に帰るきっかけなんか全然生まれません。

やがてシュウシュウは妊娠し、おじさんが街の病院に連れて行きますが、手術を終えた後も病室に男が来ます。人生に絶望しているシュウシュウは抵抗せずに受け入れます。

退院したシュウシュウは人生を終えることを決意し、身ぎれいにし、髪を整えます。彼女の決意を理解したおじさんが銃でシュウシュウを撃ちます。

ただただ悲しいだけの救いのない映画です。シュウシュウが可愛いです。可愛すぎて死にたくなってしまいそうです。こんな可愛い女の子がこんなに酷い目に遭うなんて赦せん!という感想になります。

政治色が強いと言えば、政治色の強い映画です。このあたり、華人の中の世界のことなので、日本人の私がどうこう言える立場でもありません。ただ、こういう映画もあると知り、背景には複雑な政治があるということについて考えることは意味のあることのように思います。

中国語の題名は『天浴』です。だだっぴろい草原に穴を掘って水を溜めると日光で水が温まって行水ができます。広い自然の中で行水するのは気持ちよさそうです。英語の題名は「Xiu Xiu: The Sent Down Girl」になるらしいです。




台北の大稲埕エリアを歩いた話

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台北の大稲埕エリアは淡水河を臨む場所で、日本時代から流通の要所として発展した地域です。下関条約後、基隆沖に停泊した横浜丸艦上での引き渡し式が終わった後、日本軍は淡水河を遡上し、一部はこのエリアから、また一部はもう少し南のエリアから上陸しているはずです。後に築かれたものだと思いますが上陸に適した埠頭もあり、いわば台北のウオーターフロントです。

流通の要としての性質上、問屋さんが多く集まって下町風の街並みを形成しています。また、最近ではレトロ風なブームが起きていて、ちょっとおしゃれなお店も集まるようにもなっています。日本で言えば日本橋と鎌倉とぎゅっと凝縮して、じゃりんこチエのテイストを加えたような雰囲気になっています。
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エリアの中心を形成するのが迪化街で、その中心には道教のお寺があります。縁結びに効果ありとのことで、私も一度ここの道教の神様にすがったことがありますが、特に効果はありませんでした(ため息…)。

迪化街の道教のお寺
縁結びのご利益があるという道教のお寺。個人的には効果はなかった…。

日本人観光客が多く、韓国人の観光客はあまりいませんでした。てくてく歩いて疲れたらカフェで休憩。そしてまたてくてく歩きます。使われていない建物がギャラリーになっていたりするので、芸術を勉強する人たちの集まる場所にもなっているようです。アイスクリームを売っているお店もあります。

迪化街のカフェ
休憩に入ったカフェで飲んだコーヒー。添えられたお菓子がおいしかったです。
迪化街のギャラリー
ギャラリーとしても使用される迪化街の古い建物

乾物の問屋さんが多く、朝鮮人参やキクラゲなどが売られます。漢方薬の老舗が立ち並ぶエリアとしても知られていますが、最近の漢方薬点は「科学濃縮」した漢方薬を売っているので、効果はいかほどかなんとも判じかねます。子どものころ、養命酒のCMで和漢の生薬が入っているから養命酒はいいんだ、みたいなことが刷り込まれているため、漢方はやっぱ生じゃなくちゃいけないという発想が私にはあり「科学濃縮」した漢方薬ってどうなのかなあと思います。そういう感じのものよりも漢方薬の原料になる朝鮮人参やクコの実、キクラゲあたりを買って帰って食べた方が効果はあるかも知れません。ぶっちゃけ、漢方は突き詰めると血行を良くするためのノウハウの集積なので、血行をよくすることだけ考えていたら結果的には医食同源で漢方はいらないくらいではないかと個人的には思っています。中華圏では足浴が健康に良いと信じている人が多いですが、日本人みたいに湯船に浸かる習慣があれば足浴しなくても別にいいと思います。個人的な見解です。

迪化街の朝鮮人参
乾物屋さんで売られている朝鮮人参。

大正時代に建てられた長老派の教会があり、今も教会として使用されています。瓦屋根で、修復する際には日本から瓦を取り寄せるのだそうです。

長老派の教会
長老派の教会。瓦屋根がいい。

台北には日本時代の建築もいろいろ残っています。個人的には旧日本領の建築物はレンガに特徴があるように思います。表現は悪いのですが、今にも朽ち果てそうな貧弱な感じのレンガを積み重ねてあるように思います。上海の旧租界を歩いた時に、旧イギリス租界や旧フランス租界は石造りの堂々とした建物が立ち並ぶのに対し、旧日本租界に入った途端に貧弱なレンガ造りになっていました。天津に行った時も同じく、旧日本租界エリアの建物は小さいレンガを積んであるという感じです。溥儀の旧宅が旧日本疎開にあり、行ってみましたが建物が今にも崩れそうなだけでなく、周辺にいる人の感じも怖かったのでおずおずと退散しました。台北の古い洋風建物もそんな感じです。

レンガ造りの建物が多い。この柱は当時を再現した新しいものと思われ。
レンガ造りの建物が多い。この柱は当時を再現した新しいものと思われ。

それはともかく、台北の大稲埕エリアは台湾の近代を感じるにはちょうどいいエリアと思います。

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中国映画『鬼が来た!』の日本兵の種類

中国映画『鬼が来た』では、日本兵が何人も登場しますが、だいたい以下の3つに分類できるように思います。

1つ目が「普通」の人です。香川照之さんがやってる役は、本当に普通の人です。情にもろく、流されやすい。中国人ゲリラにつかまり、中国の村で監禁されますが、じょじょに互いの感情が通じ合うようになり、友情が生まれます。

2つ目は弱いものに対して威張りまくる嫌なやつらです。武器をかざして中国人の村に現れ、食料を要求します。武器を持って脅しているだけなのに自分がえらくなったよう錯覚するタイプ。こんなタイプは当然のことながら、世界中どこでも嫌がられます。

3つ目は強くて思慮深く、残酷なタイプです。香川照之の原隊の隊長がこのタイプです。中国人との約束を表面的には守りますが、最後には香川照之を監禁していた村の焼き討ちを命じます。女性も子どもも老人も容赦なく殺されます。もしこれが史実だったとすれば明白な戦争犯罪と言っていいと思います。この映画に出てくる人みたいにやたらマッチョで眼光が鋭くて理屈ぽくて声どすの効いた上司がいたら、うっとうしいことこの上ないと思います。

映画では最初に香川照之が出てきて日本人に感情移入しそうに観客を誘導した後で、嫌な日本兵と残酷な隊長を登場させます。村を焼き討ちするシーンは『シンドラーのリスト』から想を得たのではないかとごく個人的には感じます。

しかしながら、この映画の核心的な部分は、おそらくは最後の方に出てくる国民党の将校に集約されます。日本軍が降伏した後、アメリカと手を結び、日本兵捕虜の権利は守るのに、対日協力者は死刑にします。焼かれた村で き残った男が捕虜収容所に入り込み、日本兵を殺しまくります。結果、国民党の将校によって死刑を宣告され、日本人捕虜が国民党将校の命令に従って男の首を斬ります。

言い方はよくないですが、同じ中国人なのに国民党はアメリカと日本に妥協する売国奴だというメッセージが込められていると感じます。国民党の将校はぱりっとしたきれいないい軍服を着ていて、顔が良くて、北京語がきれいです。いわゆる資産階級で、労働者階級の敵という言葉が当てはまりそうな感じの人です。足をけがしていて松葉づえをついているのは、滑稽に見せるための演出なのだろうと思います。

このあたりのことはとても難しい問題なので、なまなかに論じることはできません。また、映画が作られた時代背景もあるかも知れません。『鬼が来た』は2000年の映画です。馬英九政権ができる前で、おそらく一般的には、まだ、中国では国民党は敵だと教えられていたのかも知れません。また『陽光燦爛的日子』では主人公が「アメリカ帝国主義は敵だと教えられていた」という主旨のことを独白していますので、それも、国民党の将校がアメリカ軍の兵士と並んで立つ場面、中国の片田舎にアメリカやイギリスの旗が掲げられる場面と関連して考えることができるように思います。

繰り返しになりますが、難しい問題をはらんでいますので、シノロジーを多少はかじった身としても簡単なことは言えません。それぞれに観て判断するしかありません。映画の前半は笑えるシーンも結構入っていて、作った人のユーモアのセンスを感じることもできます。三回くらい観ましたが、繰り返しの鑑賞に耐える映画だということは言えると思います。

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中国映画『立春』の夢と現実の独身生活

中国映画『陽光燦爛的日子』の失われた少年時代

北京という大都会の悪ガキどものお話しです。文化革命が終わったか終わらないかの時代、大人たちが兵隊に行っているか地方に下放されているため、子どもたちはわりかし自由に好きなことができます。馬小軍という主人公の少年はタバコは吸う、酒は飲む、更にはあちこち不法侵入する実にけしからん子どもです。悪ガキグループに入っています。

ただ、馬小軍はチームの中での序列はそんなに高くありません。群れの仲間と認めてはもらっていますが、アルファオス風のリーダーがいて、馬小軍はどちらかといえばそそっかしくてちょっとうっとうしくて、腕力も大したことはありません。

イメージとしは『ド根性がえる』の世界だけれど、『鉄コン筋クリート』並みにシビアさがあり、ヒロシの役割を山崎邦正がになっているという感じでしょうか。

馬小軍は米蘭という女の子をナンパします。女の子はチームに迎え入れられ、少年期の楽しい日々をともに送ります。ところが、実は馬小軍の記憶がはっきりしません。大人になった、老成した馬小軍のナレーションが入りますが「果たして自分が米蘭をナンパしたのかどうか、曖昧だ…どこまでが本当だったか…」と述懐します。馬小軍のような「へたれ」なキャラがナンパして仲良くなるのはちょっと不自然で、観ている側も若干「???」となるのですが、ナレーションでここまで言われるとますます「???」にならざるを得ません。

とはいえ、馬小軍がはっきりと覚えていることがあります。アルファオスキャラのリーダーと米蘭がいちゃいちゃする様子を見て、心の平衡を失った馬小軍は、米蘭の自宅へ入り込み、襲おうとして失敗します。以後、馬小軍はチームの誰からも相手にされなくなり、孤独な夏休みを送ります。

やがてアルファオスのリーダーは兵隊になり、馬小軍も兵隊として全く違う部署へ送られます。それぞれにばらばらになって、誰がどこで何をしているのか音信不通になっていきます。少年時代の友達を失くしたという心のうずきだけが老成した馬小軍の心に残りますが、年齢を重ねると心の痛みよりも当時の仲間たちとの楽しい思い出を懐かしいといった感じで語りが入ります。

映画の最後の最後の場面では、大人になった仲間たちが高級車に乗って北京の街を走ります。当時の仲間が再会して語り合うこの場面は、いわば馬小軍の願望や夢、祈り、心の中の物語です。実際にばらばらになっていて、心の中の痛みと懐かしさだけが残っています。失った友達のことをせめて自分の心の中で大切に懐かしむことは美しいことだと私は思います。このお話を考えた人の少年時代への深い思い入れを感じます。友達を失くした経験は誰にでもあると思います。それは哀しい思い出で、普段はなるべく思い出さないように心のどこかへとしまいこむものかも知れません。言ってみれば中国版の『スタンドバイミー』です。

観る人がそれぞれに自分の十代を懐かしむことができる映画です。1994年の映画ですので、中国経済がいよいよこれからという時です。最後の高級車の場面では「SANYO」の看板が映りこみます。別の意味でも泣けてくる映画です。いい映画です。ただし、馬小軍が友達を失くしたのは米蘭という女の子を襲ったからなので、彼に弁解の余地はありません。真似してはいけません。

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原田眞人監督『自由恋愛』の新しい女性像と近代

大正デモクラシーの時代は、多分、夢と希望と新しい時代への期待に満ちたいい時代だったに違いありません。近代が近代を謳歌した時代と言えそうな気がします。科学技術の進歩はいかなる不可能も可能にできる、そして科学技術は必ず人間を幸せにすると誰もが素朴に信じることができた時代。男尊女卑が古臭い伝統に縛られた陋習と認定され、新しい自由に生きる女性が提示された時代。第一次世界大戦で日本の実業界が大きく飛躍し、その後に酷い不況が来るとしても日露戦争で借金まみれになった日本の将来が明るいと感じられた、そういう時代だったように思います。

特に当時から盛んになり始めた女性解放にとって「自由恋愛」は欠かすことのできない重要なキーワードになります。現代のわれわれが考える自由恋愛ほども派手なものではないかも知れません。しかし、結婚相手を自分で選ぶ、相手の地位財産名誉家柄などの外的な要因ではなく、自分の意思で好きになった人と結婚するという理想がこの時代に広まります。

しかし、現実はそんなに簡単なことではなかったことを『自由恋愛』という映画では描いています。主人公の長谷川京子は超大金持ちの会社オーナー一族のトヨエツと結婚します。「自由恋愛」の理想を信じていた長谷川京子ですが、実際にはお見合いで結婚します。家にはお姑さんがいて、何かと口うるさくのしかかってきます。

トヨエツは新しい時代に理解のあるリベラルで進歩的な男性のはずですが、長谷川京子の女学校時代の同級生の木村佳乃と不倫関係になります。木村佳乃はトヨエツの子どもを授かり、子どものいない長谷川京子はお払い箱で、木村佳乃が本妻の地位を得ます。ところがトヨエツは元妻の長谷川京子との愛人関係は維持する、お姑さんはいろいろ口うるさいなどが重なり、自由で自分の力で生きる新しい女性像を理想としている木村佳乃は平塚らいてうに喚起され、出奔します。

お金持ちで進歩的でほしいものは全て手に入れてやりたいことは全てやれるトヨエツはだんだん形無しになっていきます。男たちの思慮の浅はかさが暴露されていきます。全ての観客に対して「男って本当に馬鹿だね」と語りかけています。そして私のような半端者は、確かにそれは言えていると頷く以外にはありません。

関東大震災が起きます。それによってトヨエツの会社は消滅します。トヨエツは消息不明。木村佳乃は朝鮮人虐殺事件を語ります。長谷川京子は西洋人の友人たちとともに避難します。西洋、帝国主義という日本の近代がここでぎゅっと凝縮されます。

若い映画人たちが戦争に英雄主義を見出します。太平洋戦争を知っている現代の私たちは戦争に英雄主義を見出すようなことはできません。まだ近代の黎明期なので、近代の恐ろしさが認識されていません。ヨーロッパは第一次世界大戦で辛酸をなめましたが、日本人はそのことにまだ気づいていません。日露戦争の英雄神話が生きていた時代です。アナログな機械化の時代なので、兵器や機械のギミック的な美しさが際立っていた時代とも思えます。アメリカの排日移民法の話題がほんの短く入っています。原田眞人監督にとってアメリカは必ず言及しなくてはいけない、絶対に外せないテーマです。排日移民法がその後の戦争を暗示するという視点はソクーロフ監督の『太陽』とも共通したものです。

長谷川京子は女優になって木村佳乃は記者になります。本来恋敵だったはずの二人が手を取り合うようにして最後に記念撮影をする終盤の様子は、和解し合う女性の偉大さと消え入るように去って行くトヨエツのコントラストが印象的です。

原田眞人監督の作品は常に男の心、男のメンツ、男の情がテーマです。この映画も真実のテーマは男です。たいていの男にとって女性は不可欠な存在です。女性がいなければ男は形無しですただ、この映画のトヨエツは違います。形無しのまま去らざるを得ません。女性には新しい時代に順応し、自分を変化させる力があります。男はそういうのはあまり得意ではありません。この映画のトヨエツは話す言葉こそ近代ですが、行動はそういうわけではありません。近代と西洋の波にさらわれた日本の男はどう生きて、新しい時代の女性とどう向き合うかを問うています。物語の舞台は100年も前の日本ですが、時代にかかわらない不変の問題意識が宿っています。

撮影が明治村でされていて「ああ、明治ってきれいな時代だったんだなぁ」という感想を持てるのもいいです。



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勅使河原宏監督『豪姫』の時間を隔てた愛

勅使河原宏監督の『豪姫』は本当に凄い作品です。褒めるなどというおこがましいことが私なんかにできるはずもないです。ただただ、ため息をつくように画面を見続ける以外にできることはありません。

美しい映像。豪華な衣装。深い演出。どれも私のような半端者があれこれ言えるようなものではありません。何度となく繰り返しみて、細部に至るまで作りこまれた演出に気づいていくしかありません。何十回観ても完全に読み解くことはできないかも知れません。それでもせっかくこの世に生まれてきてこの映画を観ないなどというもったいないことはできません。

表情がいいです。表情で多くのことを語っています。口ほどに物を言っています。『エリザベス』と同じです。

秀吉が愚かで嫌な人です。強い人かも知れませんが、愛を知らない人です。愛させようとする人ですが、愛したくなる人ではありません。古田織部に対し釈明と命令を繰り返しますが、心が通い合うということがありません。秀吉がどんな人だったのか、その人物像についてはいろいろな描き方があるでしょうけれど、私にはこの映画の秀吉像がしっくりきます。小西行長がかくも積極的で不誠実な裏切りをしたのには、このような秀吉の人間性があるようにも思えて来ます。

豪姫が美しいです。若いころは元気で活発ですが、奥様になった後のアンニュイな美しさにはただただ感嘆するだけです。私の世代にとって姫と言えば、ナウシカクラリスです。ナウシカにもクラリスにもアンニュイがありません。豪姫にはあります。宮沢りえという人は本当に凄い人なんだなあと、ほとほと思うだけです。

古田織部に使えている臼という男がいます。普段は焼き物を作っています。超人的な体力の持ち主で、隠密的なこともできます。秀吉に切腹させられた利休の首を利休の愛人の家に届けます。愛人は覚悟を決めて自ら命を絶ちます。臼は自分が首を届けたことで女性が死んでしまうという展開に驚愕し、豪姫の寝所に入り込み、その後、主人にきちんとことわって出奔します。

臼は山の中で過ごします。やがて秀吉が死に、関ケ原の戦いがあり、ついに大坂の陣へと時代が変転して行きます。臼は山を下り、偶然が重なり合って豪姫と再会します。豪姫は前田利家の娘として生まれて秀吉の養女になり、宇喜多秀家に嫁いだ人ですが、関ケ原の戦いで負けて宇喜多秀家は息子ともども八丈島に流されます。豪姫は加賀で何もすることがない、ただ無聊なだけの日々をアンニュイに過ごしています。このアンニュイぶりがため息をつきたくなるほど美しいです。タバコを吸う豪姫のすわり姿は芸術品です。臼は豪姫の下で働きます。

古田織部が家康にあらぬ疑いをかけられて閉門・切腹になるという事態を迎えます。臼は豪姫の使者として織部の屋敷に入り込み、織部の最期を見届けます。その報告のために加賀の豪姫のもとに帰ります。豪姫と臼は再び結ばれます。20年を経て二人が再び愛し合うという展開は、どのようなことがあっても運命的に結ばれていれば必ずそうなるという意味にも思え、『嵐が丘』を連想します。

勅使河原監督の作品はそんなにたくさんあるわけではありません。ですが、理解できます。こんなに作りこまれた作品を一生のうちにたくさん作れるはずはありません。残された私たちには、繰り返し観て称賛することしかできません。

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『ゴッドファーザー』から見えるアメリカ社会の本質的な部分

アメリカ映画の『ゴッドファーザー』が、イタリア人移民の家族の物語を描いたものだということはよく知られています。

お父さんのヴィトーコルレオーネは少年期にシシリーからニューヨークへ移民し、一代で強力なイタリアマフィア組織を築き上げます。アルカポネほど浮ついた感じのする人物ではなく、労働の価値を知り、弱者を愛し、困っている人を助ける人格者です。しかしヴィトーコルレオーネがどれほど強いボスになろうとも、彼は最後まで裏街道の人生を歩くことしかできません。決して昼間の顔にはなれません。

一方、息子のマイケルコルレオーネは違います。大卒で、しかも、何といっても第二次世界大戦で戦った退役軍人です。アメリカ生まれで、上院議員でも州知事でも目指そうと思えば目指せます。

アメリカは人種、民族、宗教の違う人々が集まって作られた国家ですが、以前は人種のるつぼと呼ばれたものの、最近では人種のサラダボウルと呼ばれます。人種は溶け合っているのではなく、同じ皿の上にそれぞれに乗っかっているだけだと表現されます。大統領選挙の度に候補者の人種、ルーツ、宗教について取り沙汰されることは、それがアメリカでは敏感な問題なのだということを示しています。イタリア系の人はイギリス系やフランス系の人たちに比べると下のランクに見られることが多いようです。ヴィトーコルレオーネはそのような差別をも跳ね返す黒いスターと呼んでも良い存在です。一方で、マイケルは違います。繰り返しますが、生まれた瞬間からアメリカの市民権を持っていて、大卒で、退役軍人です。アメリカでは退役軍人には強い尊敬が払われます。ベトナム戦争以降は多少、ややこしい感じで語られることもありますが、『ゴッドファーザー』の時代背景は第二次世界大戦直後です。ベトナム帰還兵のような暗いイメージはありません。もしかしたら、メンタル面で苦しんだ元兵隊さんも大勢いたかも知れないですが、そういうことは上手に隠蔽されています。隠蔽可能なほどに社会に成長力があり、勢いがあり、祝勝ムードの漂う時代です。

マイケルコルレーオネは父親後を継ぎ、マフィアのボスになります。父親からすれば、ボスよりも政治家になってほしかったに違いないですが、いろいろな経緯でボスになります。「血」で説明することも可能かも知れません。或いは本人の性格で説明することもできるでしょう。マイケルの役はアルパチーノです。内側に激しいものを秘めている感じが非常によく合っています。ロバートデュバルが弁護士のトムヘーゲンの役をしています。アイルランド系の孤児で、ヴィトーコルレオーネに拾われて大学も出させてもらっています。その恩義に対する忠誠心は強いもので、彼は全身で心は血縁を超越すると主張しています。ダイアンキートンが若くて美しいです。久々に見ると驚きで椅子から落ちそうになります。

『ゴッドファーザー パート3』では、アルパチーノとダイアンキートンの間でもうけられた二人の子どものうち、息子は大学進学を拒否してなんとオペラ歌手になります。娘の方は敵方のマフィアに殺されてしまいます。マフィアの世界は厳しい。と同時に、少なくとも息子はその血を敢然と拒否したということができます。70年代が舞台ですので、時代の変化というものが表現されているのかも知れません。

とはいえ、移民制限の話題が持ち上がったりする昨今、移民の心はアメリカを語る上で欠かせない要素です。ソクーロフ監督の『太陽』でも、日米戦争の遠因に排日移民法があることを匂わせています。そういう意味では、ヨーロッパからアメリカへやって来た人々の物語である『ゴッドファーザー』と日本からアメリカへ行った人々を描いた『カポネ大いに泣く』は共通した問題意識を持っていると言えるかも知れません。

品川駅構内のサザコーヒーで将軍珈琲を飲んだ話

品川駅は楽しい場所です。お蕎麦屋さんもあります。本屋さんもあります。カフェもあります。食べ物もいろいろ売っています。特にサザコーヒーが私は大好きで、売っているコーヒーチョコレートも好きですが、先日立ち寄って将軍珈琲を飲んでみました。少し値段が高いかも、とも思いましたが、とても濃い味です。徳川慶喜が幕末に飲んだものと同じコーヒーだということなのですが、濃くて苦い、味のしっかりしたコーヒーです。私はコーヒーについてよく知らないので、それ以上の感想なり分析を述べることができないのですが、確かにおいしい、また飲みたいコーヒーだということは間違く言えると思います。幕府とフランスが組んでましたから、フランス風になるらしいです。

徳川慶喜直系の御子孫の方が将軍珈琲をプロデュースしていらっしゃるということは以前から知っていたので、一度飲んでみたいと思っていたのですが、たまたまサザコーヒーにたちよることで、小さいながらも夢が実現した感じです。

明治維新後、徳川家は宗家の他にいわゆる御三家、御三卿があり、それぞれに御子孫の方がいらっしゃいます。徳川慶喜は後に徳川慶喜家の創設が認められ、今も御子孫の方がいらっしゃいますが、こちらの御子孫の方は独身を貫いていらっしゃるので、徳川慶喜家はいずれ断絶に至ると言われています。歴史のある家柄が消えてしまうのは少し寂しい気もしますが、時代の流れでそれぞれの人が自分の人生を自分の好むように生きるとすれば、そういうこともあると思います。徳川宗家の御子孫には若い方がいらっしゃるそうですし、尾張徳川家は徳川家の子孫の家の中ではもっとも裕福にお暮しになっていらっしゃるそうです。紀州徳川家を現在継承していらっしゃる方は独身を貫いていらっしゃるので、近い将来、紀州徳川家もなくなると見られています。ただ、「徳川家の子孫」を見つけようとすれば、松平姓の方たちを含めれば数百人になるそうですし、多くの大名家とも血縁関係がありますので、それらを辿って行き、女系男系関係なく含めればとてつもない数の方がいらっしゃるに違いありません。人は祖先を辿って行けば必ずどこかで共通の祖先がいますし、全人類の全ての源は10万年くらい前にアフリカにいた「イブ」と呼ばれる女性に辿り着きます。そういう意味では人類は全員、血縁があると言えなくもありません。そう思うと、人種や民族が違うからという理由で反発するのはやはりよろしくありません。

サザコーヒーで飲んだ時は使用されているコーヒーカップとお皿もとても素敵でした。コーヒーカップを見るのもコーヒー屋さんでコーヒーを飲むときの楽しみの一つです。サザコーヒーさん、ありがとうございます。

将軍珈琲の5杯分入ったパックを買って帰りました。800円で、少し高いかも知れないのですが、がっつり濃いコーヒーを飲みたい時にはこれはいいと思います。

将軍珈琲
将軍珈琲

品川駅にはスープストックもあります。感激です。




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熊井啓監督『千利休 本覚坊遺文』の静かだが激しい男の意地

熊井啓監督の『千利休 本覚坊遺文』では、千利休の弟子の本覚坊と織田有楽斎が、利休の死の真相について語り合います。二人にとってそれは必ず解き明かさなければならない謎であるにもかかわらず、どうしても真相に辿り着くことができません。何故なら、千利休が死んだのは、秀吉との間で起きた意地の張り合いの結果みたいなもので、そういうことになると利休と秀吉の間のことを想像で埋めていくしかないからです。

本覚坊と織田有楽斎は、古田織部や山上宗二の思い出を語りながら、見聞きしたことを想いだし、そこから利休の心境に迫ろうとしていきます。利休が秀吉に切腹を命じられたことは今も様々な想像や推量があるものの、はっきりとしたことが分かっているわけではありません。諸事情から想像するしかありません。それは或いは利休が茶聖の立場を利用して暴利を得たということかも知れません。それとも、寺の門に自分の木造を置いたことかも知れません。しかし、それはわざわざ切腹するような騒ぎに発展するような話ではありません。

利休が秀吉に対し、朝鮮出兵に関して意見したのではないかと本覚坊は推理します。それもあるかも知れません。しかし、おそらくは意地の張り合いで利休が見事に死んでみせた、ということに見えます。文字通り、命をかけて意地を張りとおしたということかも知れません。

映像に無駄がありません。お茶のお作法について私はよく知りませんが、多分、完璧にお作法を研究し尽くしたうえで作品が作られています。建物がきれいです。山の中の小さな庵だってもきれいです。小さな庵には小さな庵の美学があります。画面の一つ一つを見逃すのがもったいなくて瞬きするのもちょっと躊躇するほどです。無駄な台詞がありません。座る姿で多くのことを語ります。静かです。しっかり論じなければならないところは有楽斎が論じます。静と動の区分が明確です。本覚坊は利休の思い出を抱きしめて一人わびさびの人生を送ります。わびさびは難しいです。誰にも説明できない、定義のないものなので論じることができません。お茶と座禅は似ています。違うとも言えます。どっちもありです。禅問答ほど面倒なものはありません。

本覚坊は死んだ利休と、いわば念力で通信しています。利休の心を探っています。人は心でつながりあっているとも言えますし、五感を脳で処理して理解する以上、完全に孤立しているとも言えます。にもかかわらず、孤立した完全なシステムなのに他人の心と通じ合うことができます。本覚坊は日々思う中で、思い出の中の利休と対話し、秀吉との確執について「ああ、こういうことだったのか」と気づいていきます。有楽斎もその都度聴かされてなるほど納得という風になっていきます。中村錦之助が有楽斎をやるのがとても合っています。趣味人風でありながら武人風の鋭さも持っています。知りたいと懸命に願っていることは、ある時、ふと情報が入ったり、天啓のように気づいたりして謎が解けるということは私にも経験があります。本覚坊と有楽斎はそのようにして利休の秀吉に対する意地のひだのようなものを見つけていきます。

利休役の三船敏郎の賢者な感じがハンパありません。凄まじく崇高な人に見えます。若いころは『羅生門』みたいにやんちゃ風が似合い、年齢を重ねたら賢者が似合うのですから、うらやましいことこの上ありません。最後は利休が言いたいことを最後まで言い切ります。論争のある、意見の違うことでここまで言うのは作者の勇気です。素直に尊敬します。

私の推量ですが、弟子の山上宗二が小田原で秀吉に殺された時から、利休と秀吉の間には不協和音が起きたのではないかなあと思います。信長の茶頭をして秀吉の茶頭をしたような人ですから、秀吉が信長の政権を簒奪したことはリアルタイムで知っている人ですし、それでも秀吉と手を携えて出世していくのですから、それなりの生臭さも持っている人だったと思います。だから互いに利用し合って本来はそれでよかったはずなのです。ですが、山上宗二が殺された後は、犯してはいけない領域に秀吉が入ってしまった。以後、利休は茶の席の度に殺意を持たれるくらいに秀吉を侮辱し続けた。のではなかろうかという気がします。遠藤周作が大友宗麟について書いた『王の挽歌』でも、野上弥生子の『秀吉と利休』でも、そこは外せないポイントなのではなかろうかなどと思います。

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遠藤周作『イエスの生涯』で福音書をもう一歩深く理解する

新約聖書に入っている、いわゆる四福音書は通して読んでもどういうことなのかよく分かりません。細部に関する説明が書かれていないだけでなく、前後関係が不明なこと、何を指しているのか分からないことがたくさん書かれているので、はっきり言ってちんぷんかんぷんで意味不明です。イエスの頭に油をかける女が出てきたり、ガダラの豚が群れを成して湖に飛び込んだり、シュールすぎます。「福音書は壮大な文学」みたいに言う人もいますが、あんな意味不明な作品が素晴らしい文学作品だとは私には思えません。日本で福音書を読む場合は、ラテン語→英語→日本語と何重にも翻訳されているという部分を差し引く必要があるかも知れないですが、たとえそうだとしてもあまりに大幅に違うということもないでしょうから、私には不親切な読み物に思えて仕方がありません。

想像ですが、遠藤周作さんも同じ思いを持ったのではないかと思います。『侍』では、主人公がカトリックの教えに触れて、そんな奇怪な物語の男を信心することが信じられないというような感想を持ちます。私も同じ感想です。

遠藤周作さんの『イエスの生涯』ではそういった不明な部分、奇怪で説明のつかない部分に分け入り、詳しく検証し、分析し、聖書に対するインテリジェンスを発揮してくれています。福音書に書いてあることが、一体どういうことなのかを西洋の学者の見解も交えて、著者の知見と結論を述べてくれています。福音書に対する理解が深まり、違和感、意味不明な感覚がだいぶ減ったので、そういう意味では一読して良かったと思っています。もちろん、遠藤周作さんがこの著作の中で述べているように、遠藤さんの人生を投影して書かれているものですので、そこはそういうものだと思って読まなくてはいけません。もっとも、自分の人生や心を投影しないものを人は書くことができません。このブログもそうですし、その他の全ての本、文章、記事もそうだと私は思います。ですので、「私は中立に淡々と述べただけだ」と言う人の書く物よりも、「自分の人生を投影している」と書いてる書物の方が正直で、その分、信頼できるかも知れません。

遠藤さんが取り組んだ最大の疑問は、イエスの弟子たちが、イエスの死後、命をかけて布教に取り組んだのは何故か、ということです。イエスが逮捕された時、弟子たちは驚いて逃げてしまいます。しかし、四散したわけではなく、エルサレムの外のいずれかに固まって身を寄せ合っていたようです。更に一部の弟子たちはイエスの審問の場に同席しており、その一部始終を見ています。遠藤さんが疑問に思うのは、なぜ、一部始終を見た弟子が逮捕されなかったのかということです。弟子のペトロ、またはペトロに代表される複数の弟子たちはユダヤ教会と取引し、いわばイエスを売ることで身の安全を得た可能性があることを遠藤さんは指摘しています。

もしそうだとすれば、イエスの死後、弟子たちが命の危険を省みずに布教したことの説明がつきません。見捨てた師匠のことは早く忘れて新しい人生を歩むと考えるのが普通です。しかも、ペトロに代表されるように、イエスのことは知らない、私と彼は関係ないと言い張って難を逃れようとする心の弱い人たちです。或いは、自分は何とか助かりたいと願う普通の人です。

遠藤さんはイエスが十字架にかにけられた時、最後の言葉の中で決して弟子たちを非難しなかったことをその理由として考えています。普通だったら自分を見捨てた者に呪詛の言葉を吐いて死んでいくものかも知れません。しかし、イエスは最期まで愛の言葉を説き続け、死に至ります。完全な愛とは何かをイエスは自分が十字架にかけられることによって証明したと言うこともできるかも知れません。弟子たちの心の中に感動とイエスを見捨てたことへの後悔が広がります。この時の心の動きが弟子たちを大きく変化させ、不屈の伝道師へと生まれ変わったのだと遠藤さんは考えます。

いろいろ理解できてくると福音書はおもしろいです。イエスがエルサレムに入り、逮捕され、審問を受け、ピラトがイエスの死刑を避けようとするもののうまくことが運ばず、ゴルゴダの丘へと十字架を担いで歩かされる場面を頭の中である程度像を結ぶようになると、その圧巻さ、ドラマチックさを感じられるようになってきます。

遠藤さんが描くイエスのイメージ、またはイエスがこの世に来たことの意味についての考察などは、他に『深い河』『おバカさん』『死海のほとり』『沈黙』『キリストの誕生』などを合わせて読むことでだんだんわかってきます。そのため、『イエスの生涯』だけで全てを理解することはできません。まず、ストーリーとしてイエスがどんな人なのかという像を頭の中に結べるようにするには『死海のほとり』を読むのがいいと思います。「無力で無能だが、弱い人をただ愛するイエスキリスト」の姿は、福音書に書かれている数々の奇跡、即ち合理的に説明のつかない出来事に対して、遠藤さんなりの解釈を加えて、それでもイエスは「愛」だけを説くという深い意味を持つ人だったということが描かれます。理解しやすいです。その上で『おバカさん』『深い河』『キリストの誕生』の順番で読み、実は最後に『沈黙』を読むのがいいのではないかなあと思います。これは私見です。

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